田中 善立(たなか ぜんりゅう、1874年(明治7年)11月… 田中 善立(たなか ぜんりゅう、1874年(明治7年)11月24日 - 1955年(昭和30年)2月20日)は、明治から昭和前期の教育者、僧侶、政治家。衆議院議員(7期)。 愛知県愛知郡、のちの篠原村(松葉村、常磐村大字篠原を経て現名古屋市中川区)で、豪農・田中平八、タキ夫妻の二男として生まれる。熱心な真宗信徒の父が中学進学を認めなかったため、13歳で出家得度し真宗大谷派名古屋別院内の普通学校(現名古屋大谷高等学校)に入学し、校長南条文雄の薫陶を受けた。1891年(明治24年)12月に上京し東京英語学校(現日本学園中学校・高等学校)に入学し、1892年(明治25年)夏、哲学館(現東洋大学)に転じた。
渡辺 香涯(わたなべ こうがい、1874年(明治7年)11月… 渡辺 香涯(わたなべ こうがい、1874年(明治7年)11月24日‐1961年(昭和36年)9月29日)は明治時代から昭和時代にかけての日本画家。 1874年11月24日に東京府四谷区荒木町に生まれる。名は啓三。1892年(明治25年)に高橋玉淵に入門、また川端玉章にも師事した。1896年(明治29年)の日本絵画協会第1回絵画共進会、1897年(明治30年)春季の日本絵画協会第2回絵画共進会二作品を出品、同年7月に東京美術学校を卒業。同年秋季の日本絵画協会第3回絵画共進会に「木枯」を出品し、二等褒状を得る。1898年(明治31年)春季の日本絵画協会第4回絵画共進会に「秋致」を出品した後、2、3年山形県、群馬県の中学校教員を務めて1900年(明治33年)に帰京する。
堀 英四郎(ほり えいしろう、1874年11月24日 - 1… 堀 英四郎(ほり えいしろう、1874年11月24日 - 1963年7月6日)は、日本の英語学者。 愛媛県今治市出身。1884年徳冨蘆花の英語塾に学び、1888年上京、東京英語学校入学、1894年東京専門学校(早稲田大学)英文科卒、ここで坪内逍遙の講義を受け、神田の国民英学会で英語を教えた。1894年東京府立城北中学校、1897年岡山県立第一中学校に勤め、1902年江田島海軍兵学校教授。1916年-1945年慶応義塾大学教授。この間1932年-1941年NHK英語講座担当。1949年-1954年戸板女子短期大学英文科長。
五十嵐 力(いがらし ちから、1874年(明治7年)11月2… 五十嵐 力(いがらし ちから、1874年(明治7年)11月22日 - 1947年(昭和22年)1月11日)は、日本の国文学者。号は巴千。修辞学・国文学・国語学の領域で多くの業績を残した。 日本の近代修辞学史上、最も多くの修辞学関係書を著した人物である。 山形県米沢市生まれ。米沢中学校を経て、1894年7月、東京専門学校卒業。翌年『早稲田文学』記者に就任。近松同人研究会の一員として、坪内逍遙の指導を受ける。卒業後10年ほどは国文学から離れるが、逍遙の勧めで国文学研究に戻る。1901年、東京専門学校講師。1920年、新たに設置された早稲田大学文学部国文科主任教授に就任。後に文学部学部長を勤めた。1945年、自宅の甲鳥園が空襲によって焼失し、早稲田大学文学部内の五十嵐記念文庫も焼失した。
西山 金蔵(にしやま きんぞう、1874年〈明治7年〉11月… 西山 金蔵(にしやま きんぞう、1874年〈明治7年〉11月19日 - 没年不明)は、日本の政治家、地主・家主。 西山常次郎の長男。西巣鴨町会議員、池袋第二小学校小学会副会長、西巣鴨町第四部青年団長、西山会第一部長、氏神氷川神社世話人である。また1930年2月17日より1931年6月29日まで西巣鴨町助役をつとめた。住所は東京府北豊島郡西巣鴨町字池袋(のち東京都豊島区池袋1丁目)。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
三輪田 輪三(みわた りんぞう、1874年(明治7年)11月… 三輪田 輪三(みわた りんぞう、1874年(明治7年)11月16日 - 1961年(昭和36年)10月8日)は、日本の教育者。 愛媛県出身。1898年(明治31年)、東京帝国大学理科大学数学科を卒業。山口高等学校教授となり、1901年(明治34年)に第六高等学校教授に転じた。1920年(大正9年)、山形高等学校初代校長に就任した。退官後、松本亀次郎らが設立した東亜高等予備学校学監を務めた。
小島 源三郎(こじま げんざぶろう、1874年〈明治7年〉1… 小島 源三郎(こじま げんざぶろう、1874年〈明治7年〉11月15日 - 1934年〈昭和9年〉5月19日)は、日本の内務官僚、弁護士。官選秋田県知事、静岡市長。 群馬県勢多郡駒形町(現・前橋市)出身。小島彦右衛門の二男として生まれる。群馬県尋常中学校、私立日本中学校を経て、第一高等学校を卒業。1911年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(仏法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し総務局属となる。 以後、広島県参事官、内務省参事官、関東州民政署事務官・旅順支署長、関東都督府民政署長、長崎県事務官・第四部長、静岡県事務官・内務部長などを経て、1913年6月、兵庫県内務部長となる。
今村新吉(いまむら しんきち、1874年11月15日 - 1… 今村新吉(いまむら しんきち、1874年11月15日 - 1946年5月19日)は、日本の精神医学者。 石川県金沢市出身。今村有隣の長男。1897年帝国大学医科大学卒。ウィーン留学後京都帝国大学医学部教授となり、精神医学教室を創設、初代教授となる。1904年医学博士。渡辺久吉の日本心霊学会にかかわり、人文書院と改称した時の命名者である。妄想性精神病、神経症など精神病理学の研究で知られた。弟は今村次吉。千里眼事件では、福来友吉らとともに御船千鶴子の売り出しを行っている。
真島 利行(まじま としゆき、または故実読みで りこう、18… 真島 利行(まじま としゆき、または故実読みで りこう、1874年(明治7年)11月13日 - 1962年(昭和37年)8月19日)は、京都市生まれの有機化学者。大阪帝国大学総長などを歴任。
久野 工(ひさの たくみ、1874年〈明治7年〉11月10日… 久野 工(ひさの たくみ、1874年〈明治7年〉11月10日 - 1960年〈昭和35年〉6月3日)は、日本の海軍軍人、実業家、政治家。神奈川県横須賀市長。海軍主計中将正四位勲二等。 旧土佐藩士・久野克記と母・亀の長男として高知県土佐郡久万村(初月村を経て現・高知市)に生まれ、1922年(大正11年)家督を相続する。1891年(明治24年)高知県尋常中学海南学校(現・高知県立高知小津高等学校)を経て、明治法律学校2年修了。 1896年(明治29年)海軍少主計候補生を命ぜられ、佐世保海兵団附、佐世保鎮守府監督部附を経て、1905年(明治38年)海軍主計少監に進む。ついで、英国出張(鹿島回航委員)に赴き、1910年(明治43年)造船造兵監督会計官に任官すると、英国へ再度赴任し、1912年(明治45年)帰朝する。
西大路 吉光(にしおおじ よしみつ、1874年(明治7年)1… 西大路 吉光(にしおおじ よしみつ、1874年(明治7年)11月6日 - 1953年(昭和28年)12月12日)は、大正から昭和期の農林技官、政治家、実業家、華族。貴族院子爵議員。 雅楽部長・竹屋光昭の四男として生まれる。子爵・西大路隆修の死跡を相続し、1896年(明治29年)2月3日、子爵を襲爵した。 1901年(明治29年)東京帝国大学農科大学林学実科を修了。同年、営林技手に就任。以後、同主事兼大林区署書記、山林局技手兼林務官官補、山林技師、林務技師などを歴任し、森林主事教習講師、農商務省嘱託も務めた。 1911年(明治44年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され、研究会に所属して活動し、1947年5月2日の貴族院廃止まで在任した。
川崎 佐治右衛門(かわさき さじえもん、1874年〈明治7年… 川崎 佐治右衛門(かわさき さじえもん、1874年〈明治7年〉11月6日 - 没年不明)は、日本の商人(肥料商)、資産家、醸造家、実業家。川崎肥料社長。和泉商店代表。泉醤油取締役。和泉洋反物監査役。族籍は大阪府平民。 大阪府泉南郡岸和田町北町(現・岸和田市)の人。川崎佐治郎の長男。1882年、家督を相続する。醤油醸造業を営む。諸会社の重役である。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
中川 末吉(なかがわ すえきち、1874年(明治7年)11月… 中川 末吉(なかがわ すえきち、1874年(明治7年)11月6日 - 1959年(昭和34年)4月9日)は、大正・昭和時代の実業家。古河財閥の幹部として、古河電気工業社長、日本軽金属社長などを務めた。旧姓・赤塚。 滋賀県高島郡下古賀村(現在の滋賀県高島郡安曇川町字下古賀)の庄屋の五男として生まれる。地元の小学校を卒業後、隣村の村役場の雑用係として働いていたが、足尾銅山の調馬係・中川武三に請われて養子となり、1889年に琵琶湖疏水工事に従事していた人夫400人を足尾銅山に移す作業を武三と請け負い、その会計と日誌係を担当する。 銅山の経営者・古河市兵衛の誘いで、日本橋瀬戸物町の市兵衛の店で働きはじめ、23歳くらいの頃、向学心が認められて商工中学校や早稲田専門学校へも通ったが、井上公二、岡崎邦輔、山口熊野ら店の上司たち同様米国留学を希望し、中退して1903年に渡米、ペンシルベニア大学、エール大学で学び、6年間滞在する。
十五代目 市村 羽左衛門(じゅうごだいめ いちむら うざえも… 十五代目 市村 羽左衛門(じゅうごだいめ いちむら うざえもん、1874年(明治7年)11月5日 - 1945年(昭和20年)5月6日)は、大正から戦前昭和の歌舞伎を代表する役者の一人。屋号は橘屋。定紋は根上り橘、替紋は渦巻。俳名に可江(かこう)がある。本名は市村 録太郎(いちむら ろくたろう)。 二枚目や若衆役を中心とする白塗りの立役として活躍。時代を代表する美男子で、そのあまりの美貌から「花の橘屋」と呼ばれた。 東京府出身。出生の事情については長らく謎だったが、死後里見弴が著書『羽左衛門伝説』の中で、十五代目は外交官のチャールズ・ルジャンドルと芸者の池田絲(いけだ いと、松平春嶽の私生児)の間に生まれた私生児だったという説を発表し、現在ではこれが定説になっている。
長尾 元太郎(ながお もとたろう、1874年(明治7年)11… 長尾 元太郎(ながお もとたろう、1874年(明治7年)11月2日 - 1935年(昭和10年)3月28日)は、明治から昭和前期の林業家・農業経営者・地主・実業家・政治家。衆議院議員、貴族院多額納税者議員、岐阜県武儀郡菅田町長。 岐阜県武儀郡、のちの沙田村(菅田村、菅田町、益田郡金山町を経て現下呂市金山町)で、素封家・長尾四郎右衛門の長男として生まれ、1916年(大正5年)家督を相続した。慶應義塾、東京高等商業学校(現一橋大学)で学んだ。 帰郷して農業、林業を営む。また、大垣銀行監査役、美濃銀行取締役、濃飛農工銀行取締役、岐阜不動産取締役、菅田町農会長、同町教育会長、武儀郡教育会員、岐阜県農事協会理事などを務め、小作制度の改善などに尽力した。
金森 鍬太郎(かなもり くわたろう、1874年(明治7年)1… 金森 鍬太郎(かなもり くわたろう、1874年(明治7年)11月1日 - 1927年(昭和2年)1月26日)は、明治から大正時代の土木工学者、内務官僚。旧姓は伊藤。 伊藤宗兵衛の二男として愛知県に生まれ、金森きくの養子となり、1899年(明治32年)8月に家督を相続した。1900年(明治33年)東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業し、内務省第五区(大阪)土木監督署に奉職する。淀川改修工事では瀬田川の洗堰、浚渫などを指揮した。ほか、琵琶湖の治水に携わった。 1911年(明治44年)内務省土木局調査課へ転じ、土木局第一技術課、第二技術課長を歴任した。この間、臨時治水調査会、港湾調査会委員などを務めたが、在職中に死去した。
三橋 久美(みつはし ひさよし、1873年〈明治6年〉11月… 三橋 久美(みつはし ひさよし、1873年〈明治6年〉11月27日 - 1943年〈昭和18年〉4月5日)は、明治から大正時代の日本の判事(裁判官)、教育者。大審院判事・部長、東京控訴院判事・部長、東京地方裁判所判事・部長、立教大学教授。 1873年(明治6年)11月、東京府人・三橋久實の長男として東京市小石川区で生まれる。その後、家督を相続する。 1901年(明治34年)7月、東京帝国大学法科大学英法科を卒業した後、翌年3月に司法官試補(東京区裁判所詰)となる。 その後、東京地方裁判所判事、東京控訴院判事、東京地方裁判所部長、東京控訴院部長を歴任。 1924年(大正13年)1月、大審院判事に任じられ、1933年(昭和8年)1月には大審院部長に就任。
岸上 克己(きしがみ かつみ、1873年11月26日 - 1… 岸上 克己(きしがみ かつみ、1873年11月26日 - 1962年6月21日)は明治時代から昭和時代中期にかけて活動した日本のジャーナリスト、労働運動家。 筆名は香摘(こうてき)。栃木県出身。 栃木県河内郡宇都宮町(現在の宇都宮市)で元宇都宮藩の士族・岸上安敬の四男として生まれる。尋常小学校の頃は成績優秀であったが、教師に吃音をからかわれたことが原因で不登校となったため、従兄を頼って埼玉県北足立郡浦和町(現在のさいたま市浦和区)へ移り住んだ。 従兄は印刷工を営んでいたが、ここで知り合った高木旭山の誘いにより劣悪な環境での労働を強いられていた工員の待遇改善活動へ身を投じ、活版工懇話会の設立に参加して機関紙の編集委員となった。
津野田 是重(つのだ これしげ、1873年(明治6年)11月… 津野田 是重(つのだ これしげ、1873年(明治6年)11月25日 - 1930年(昭和5年)9月2日)は、大日本帝国陸軍の軍人、政治家。熊本県出身。最終階級は陸軍少将。衆議院議員。 熊本藩士、陸軍大尉・津野田是秋の長男として生まれる。中学済々黌、陸軍幼年学校を経て、1895年(明治28年)2月、陸軍士官学校(第6期)歩兵科を首席卒業。同年5月、陸軍歩兵少尉任官、近衛歩兵第1連隊付となる。1900年(明治33年)12月、陸軍大学校(14期)を優等で卒業。 1901年(明治34年)6月、参謀本部出仕となり、参謀本部部員、フランス駐在、参謀本部付を経て、1904年(明治37年)5月、第3軍参謀に発令され日露戦争に出征。
川合 玉堂(かわい ぎょくどう、1873年〈明治6年〉11月… 川合 玉堂(かわい ぎょくどう、1873年〈明治6年〉11月24日 - 1957年〈昭和32年〉6月30日)は、明治・大正・昭和時代の日本で活動した日本画家。本名は 川合 芳三郎(かわい よしさぶろう)。画号は当初「玉舟(ぎょくしゅう)」、間もなく「玉堂」に改め、晩年は終の棲家と同名の「偶庵(ぐあん)」を別号として用いた。長男の真一は化学者で東京教育大学名誉教授。 愛知県葉栗郡外割田村(現在の一宮市木曽川町外割田)にて、1873年(明治6年)11月24日、筆墨紙商の長男として生まれる。1881年(明治14年)、一家は岐阜市に移住する。絵には12歳頃から親しむようになったという。1886年(明治19年)、京都の画家・青木泉橋が岐阜に来住すると、夫人も翠蘋と号する美人画家で、芳三郎少年は青木夫妻の知遇を得て大いに刺激を受けたという。
秋本 豊之進(あきもと とよのしん、1873年(明治6年)1… 秋本 豊之進(あきもと とよのしん、1873年(明治6年)11月21日 – 1934年(昭和9年)11月27日)は、衆議院議員。実業家。 山口県美祢郡秋吉村(現在の美祢市)出身。1895年(明治28年)、東京法学院(現在の中央大学)を卒業し、高等文官試験に合格した。会計検査官補・会計検査院書記官、奈良県参事官、大分県事務官・第四部長、統監府鎮南浦理事官、朝鮮総督府平壌府尹を歴任した。 1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その後、朝鮮京南鉄道株式会社常務取締役、同副社長、朝鮮中央鉱業株式会社代表取締役、桑原鉄工所株式会社取締役、月島鋳工場株式会社取締役、船木鉄道株式会社取締役などを務めた。
加藤 知正(かとう ちせい、1873年〈明治6年〉11月19… 加藤 知正(かとう ちせい、1873年〈明治6年〉11月19日 - 1947年〈昭和22年〉4月23日)は、日本の政治家。衆議院議員(6期)。 新潟県古志郡下塩谷村で、加藤周浄の二男として生まれる。1900年(明治33年)、東京高等蚕糸学校(のち東京繊維専門学校を経て、現在の東京農工大学)を卒業。北越蚕業講習所教頭、大日本蚕糸会技師、同理事、東京高等蚕糸学校講師、南光社社長などを歴任した。1920年(大正9年)の第14回衆議院議員総選挙に無所属で立候補したが落選した。1924年(大正13年)の第15回総選挙において立憲政友会公認で立候補して当選。以来第19回総選挙を除いて通算6期務める。1942年(昭和17年)の第21回総選挙では翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選。
内藤 馬藏(ないとう うまぞう、1873年(明治6年)11月… 内藤 馬藏(ないとう うまぞう、1873年(明治6年)11月17日 - 1940年(昭和15年)1月10日)は、日本の教育者。岡山県倉敷市出身。 1873年(明治6年)岡山県倉敷市に住む内藤永吉の次男として出生する。1899年(明治32年)、旧制岡山中学(現:岡山県立岡山朝日高等学校)、旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学文科大学史学科を卒業し、大学院に入った。1901年(明治34年)、第六高等学校教授となり、20年余り勤務した。1924年(大正13年)から1927年(昭和2年)まで高知高等学校校長を務めた。
吉川 安平(よしかわ やすひら、1873年(明治6年)11月… 吉川 安平(よしかわ やすひら、1873年(明治6年)11月17日 - 1959年(昭和34年)1月1日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 山口県出身。吉川弥之助の長男として生れる。周陽学舎、鴻城義塾、山口高等学校を経て、1895年12月、海軍兵学校(22期)を卒業し、1897年1月、海軍少尉任官。日露戦争では、第14水雷艇隊艇長として出征し、日本海海戦には、駆逐艦「陽炎」艦長として参加した。海兵副官を経て、1909年5月、海軍大学校(甲種6期)を卒業した。 「豊橋」副長、第1潜水艇隊司令、イギリス駐在、海大教官、「伊吹」副長、第3艦隊参謀長、「利根」艦長、艦政本部造船造兵監督官、海軍省人事局第1課長、「比叡」艦長などを歴任し、1919年12月、海軍少将に進級。
平尾 喜三郎(ひらお きさぶろう、1873年〈明治6年〉11… 平尾 喜三郎(ひらお きさぶろう、1873年〈明治6年〉11月17日 - 1951年〈昭和26年〉3月10日)は、日本の実業家、政治家。沖縄の寄留商人で貴族院多額納税者議員を務めた。勲等は勲四等。 奈良県添上郡手貝町(現奈良市手貝町)で、平尾喜八の長男として生まれる。1883年(明治16年)、一家で沖縄に渡った。 反物行商などに従事し、雑貨商となり平尾商店を設立した。その後、奄美大島に支店を設け琉球反物を取扱い、さらにアサヒビール、味の素の沖縄代理店となる。1915年(大正4年)三共組帽子商会を設立しアダン葉帽子の製造・販売を行う。その他、南陽酒造社長、沖縄県酒造組合長、同顧問、同連合会長などを務め、1935年(昭和10年)10月、那覇商工会議所が設立され初代会頭に就任した。
山田 恵一(惠一、やまだ けいいち、1873年(明治6年)1… 山田 恵一(惠一、やまだ けいいち、1873年(明治6年)11月16日 - 1930年(昭和5年)12月13日)は、大正から昭和初期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。 名東県山田郡、後の香川県山田郡前田村(木田郡前田村を経て現高松市前田)で山田光次郎の長男として生まれる。1904年(明治37年)1月に家督を相続した。奈良県立郡山尋常中学校(現奈良県立郡山高等学校)を経て、第三高等学校を卒業した。 その後帰郷し、1917年(大正6年)、香川県下の養蚕業振興のため木田郡に製糸工場を開設し、木田郡農会長、大日本山林会特別議員、香川県製糸組合長、同県農会副会長、同県蚕糸業同業組合連合会組長などを務めた。
阪口 吉蔵(さかぐち きちぞう、前名・吉太郎、1873年〈明… 阪口 吉蔵(さかぐち きちぞう、前名・吉太郎、1873年〈明治6年〉11月15日 - 没年不明)は、日本の酒造家、銀行家、兵庫県多額納税者。西宮銀行取締役。族籍は兵庫県平民。 兵庫県武庫郡西宮町(現・西宮市)の人、先代阪口吉蔵の長男。阪口市蔵の兄。1900年、家督を相続し、前名・吉太郎を改めた。「丹波屋」と称し、酒造業を営み、傍ら銀行の重役であった。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有した。趣味は陶器。宗教は浄土宗。住所は兵庫県西宮市浜脇町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
坂野 鉄次郎(さかの てつじろう、1873年(明治6年)11… 坂野 鉄次郎(さかの てつじろう、1873年(明治6年)11月14日 - 1952年(昭和27年)6月5日)は、日本の逓信官僚、政治家・貴族院議員(多額納税)、実業家。 岡山県津高郡菅野村(後の御津郡野谷村菅野、現在の岡山市北区菅野)出身。岡山県士族・坂野半四郎の長男。1898年(明治31年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、高等文官試験に合格した。 逓信省通信局に入る。1899年(明治32年)、逓信事務官に任ぜられた。大阪郵便局に転じ、監理課長を務めた。北清事変の際には野戦郵便事務視察官を務めた。1901年(明治34年)、長野郵便局長に任ぜられ、1902年(明治35年)、本省書記官となり、日露戦争の際には大本営野戦高等郵便局長を務めた。
前川 謙三(まえかわ けんぞう、1873年(明治6年)11月… 前川 謙三(まえかわ けんぞう、1873年(明治6年)11月13日 - 1946年(昭和21年)3月1日)は、日本の写真家。小西寫眞専門学校(後の東京工芸大学)創立時の講師の一人でもある。 1873年(明治6年)に福井県大野郡鹿谷村大字矢戸口(現・勝山市鹿谷町矢戸口)の医師・前川九兵衛の次男として誕生した。鹿渓小学校卒業後、1888年(明治11年)7月に東京府芝区新桜田町に丸木写真館を構えていた同じ福井県出身の丸木利陽に師事。5年間の契約だったが、期間満了後も技師として丸木写真館に残った。 1895年(明治28年)からは築地明石町のサンマース英語学校にも通い、1898年(明治31年)に渡米して写真術を研究したが、レンブラント採光法を取り入れようとしていた丸木の意向もあったとされる。
宮川 春汀(みやがわ しゅんてい、明治6年〈1873年〉11… 宮川 春汀(みやがわ しゅんてい、明治6年〈1873年〉11月11日 - 大正3年〈1914年〉7月26日)とは、明治時代の浮世絵師。富岡永洗の門人。他に洗圭、漁史と号し、Sとも記す。 三河国渥美郡畠村(現・愛知県田原市福江町)に廻船業と薬種問屋を営んでいた豪商・渡辺家に生まれた。名は守吉。1878年(明治11年)に母が絶家となっていた宮川家を継いだため、守吉も宮川を名乗る。 12歳の時、敷知郡誠明教育会主催の展覧会で作文・図画の一等賞を受賞。14歳の時、漢書の筆写を好んで絵を模写する。1890年(明治23年)得意としていた画業を志し、全ての財産を整理して上京、富岡永洗について絵を学んだ。春汀が画家となった理由は不明だが、同郷の日本画家・渡辺小華に憧れたからとする説がある。
相賀 照郷(あいが てるさと、1873年〈明治6年〉11月9… 相賀 照郷(あいが てるさと、1873年〈明治6年〉11月9日 - 1950年〈昭和25年〉11月17日[要出典])は、日本の警察・台湾総督府官僚。佐世保市長。 佐賀県杵島郡富岡村(現:武雄市)で、佐賀県士族・相賀照忠の長男として生まれる。1896年7月、第五高等学校を卒業。1900年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。同月、逓信省に入省し鉄道書記となる。1902年11月、文官高等試験行政科試験に合格した。 1903年3月、内務省に転じ警視庁属兼同庁警部となる。以後、警視庁警視、府中警察署長を務める。1905年5月、関東州民政署に転じ民政署警視に就任。以後、金州支署長、関東都督府金州民政署長、同旅順民政署長、同大連民政署長などを歴任し、1912年12月に休職となる。
河原 直孝(かわはら なおたか、1873年(明治6年)11月… 河原 直孝(かわはら なおたか、1873年(明治6年)11月5日 - 1945年(昭和20年)7月2日)は、大正から昭和時代前期の政治家・実業家。北海道小樽市長。 河原一郎の長男として石川県金沢城下に生まれ、1922年(大正11年)家督を相続する。1897年(明治30年)7月、第四高等学校大学予科第一部を修了後、1903年(明治36年)東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、1905年(明治38年)4月に北海道庁立小樽中学校(現・北海道小樽潮陵高等学校)の嘱託教員となる。 実業界に転じ、小樽電気・北海道精米・小樽電燈などの取締役を務め、さらに、小樽商業会議所議員、小樽区会議員などを歴任する。市制施行すると、1922年(大正11年)10月、小樽市会議員に就任し、同議長を兼任した。
泉 鏡花(いずみ きょうか、本名:泉 鏡太郎〈いずみ きょう… 泉 鏡花(いずみ きょうか、本名:泉 鏡太郎〈いずみ きょうたろう〉、1873年〈明治6年〉11月4日 - 1939年〈昭和14年〉9月7日)は、日本の小説家。明治後期から昭和初期にかけて活躍した。小説のほか、戯曲や俳句も手がけた。帝国芸術院会員。 金沢市下新町生まれ。尾崎紅葉に師事した。『夜行巡査』『外科室』で評価を得、『高野聖』で人気作家になる。江戸文芸の影響を深く受けた怪奇趣味と特有のロマンティシズムで、幻想文学の先駆者としても評価されている。ほかの主要作品に『照葉狂言』『婦系図』『歌行燈』などがある。 1873年(明治6年)11月4日、石川県金沢市下新町に生まれる。父・清次は、工名を政光といい、加賀藩細工方白銀職の系譜に属する象眼細工・彫金などの錺職人であった。
星野 元治(ほしの もとじ、1873年〈明治6年〉11月3日… 星野 元治(ほしの もとじ、1873年〈明治6年〉11月3日 - 1955年〈昭和30年〉1月16日)は、日本の実業家・政治家。第25代群馬県会議長、勢多郡会議員、勢多郡黒保根村長。水沼製糸所の経営や甘楽社社長として養蚕産業界に功績を残した。 1873年(明治6年)、星野長太郎・カクの子として熊谷県勢多郡水沼村(現・群馬県桐生市黒保根町水沼)に生まれた。次男とされたが兄は養子の文弥であるため、実際には長男。1891年(明治24年)6月明治学院高等科(現・明治学院高等学校)を卒業。同校の学友には島崎藤村や和田英作がいた。 郷里に帰ると父が設立した水沼製糸所の経営に参画。1900年(明治33年)には経営難から水沼製糸所の所有権は椎名三衛へと移ったが、経営には元治があたった。
菊池 長右衛門(きくち ちょううえもん、1873年(明治6年… 菊池 長右衛門(きくち ちょううえもん、1873年(明治6年)11月3日 - 1922年(大正11年)5月16日)は、日本の政治家。立憲政友会衆議院議員(1期)。 岩手県出身。菊池家は盛岡藩の豪商であった東屋の一族である。宮古町会議員、下閉伊郡会議員、同参事会員、同議長、宮古町漁業組合長などを勤め、1920年の第14回衆議院議員総選挙で立憲政友会から立候補して当選。1期務めた。明治期に閉伊川河口の埋め立て工事が行われた際は私財を投じてこれにあたった。また自らが中心となり盛宮自動車を設立。さらに原敬と共に山田線の地元誘致へ働きかけるなど、劣悪だった地域の交通事情改善のため尽力した。
宇山 熊太郎(うやま くまたろう、1873年(明治6年)11… 宇山 熊太郎(うやま くまたろう、1873年(明治6年)11月3日 - 1948年(昭和23年))は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 島根県出身。のちの能義郡広瀬町(現安来市)で生まれる。1896年(明治29年)11月に陸軍士官学校(第8期)を卒業し、1897年(明治30年)6月、砲兵少尉に任官。 1903年(明治36年)、砲兵大尉に進み野戦砲兵第2連隊中隊長となり日露戦争に従軍した。1920年(大正9年)4月に野砲兵第1連隊長、同年9月に陸軍砲兵大佐を経て、1924年(大正13年)12月に陸軍少将・澎湖島要塞司令官に任官。 その後、1926年(大正15年)3月に野戦重砲兵第1旅団長を経て、1928年(昭和3年)3月8日に待命、同月29日に予備役に編入した。
川崎 巳之太郎(かわさき みのたろう、1873年(明治6年)… 川崎 巳之太郎(かわさき みのたろう、1873年(明治6年)11月1日 - 1951年(昭和26年)7月10日)は、日本の衆議院議員。ジャーナリスト。 茨城県久慈郡坂本村(現在の日立市)出身。1893年(明治26年)、明治学院(現在の明治学院大学)を卒業。日刊新聞『世界之日本』の編集長となり、月刊雑誌『天地人』を発行した。1898年(明治31年)、アメリカ合衆国に渡り、カリフォルニア大学の聴講生となるかたわら、日米新聞を刊行した。1901年(明治34年)に日本に戻り、翌年に日本植民会社を設立した。1903年(明治36年)、日本植民会社の事業開始のためペルーに渡るが、日露戦争勃発により中止となった。
石川 茂吉(いしかわ もきち、1872年〈明治5年〉11月2… 石川 茂吉(いしかわ もきち、1872年〈明治5年〉11月29日 - 没年不明)は、日本の政治家、地主・家主。 農業を営み、西巣鴨町町会議員、衛生委員、同町教育会評議員、青年団名誉会員、共賛会委員、氏神氷川神社総代、重林寺総代である。住所は東京府北豊島郡西巣鴨町字池袋。 父・瀧之進は池袋村の村長や、1889年6月5日より1891年9月5日まで巣鴨村助役をつとめた。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
市川 代治(いちかわ だいじ、明治5年10月25日(1872… 市川 代治(いちかわ だいじ、明治5年10月25日(1872年11月25日) - 大正11年(1922年))は戦前日本の経済学者。ベルリン大学で9年間哲学・経済学を学ぶ傍ら、ベルリン東洋語学校(ドイツ語版)等で日本語を教え、帰国後は東亜経済調査局に勤務した。『方丈記』ドイツ語訳で知られる。 明治5年(1872年)10月25日山形県村山郡蔵増村に生まれた。後の住所は蔵増村蔵増甲1101番地。蔵増尋常小学校、天童高等小学校、山形県立山形中学校を経て、仙台の第二高等学校に入学した。1896年(明治29年)卒業後、上京して帝国大学文科に入学し、社会学を専攻し 、1899年(明治32年)7月東京帝国大学文学部哲学科を卒業した。
田中 清文(たなか せいぶん / きよふみ、1872年11月… 田中 清文(たなか せいぶん / きよふみ、1872年11月24日(明治5年10月24日)- 1951年(昭和26年)10月3日)は、明治から昭和前期の政治家、実業家。衆議院議員、貴族院多額納税者議員、富山県東礪波郡福野町長、初代北日本新聞社長。旧姓・有川。 新川県礪波郡福野村(現:富山県南砺市)で、有川甚造の二男として生まれ、親族で豪農の田中清三の養子となる。1903年(明治36年)中央大学法律科を卒業。帰郷後、田中貯蓄銀行を設立し頭取に就任し、さらに田中銀行頭取となる。 1903年9月、富山県会議員に当選し副議長に就任。1913年(大正2年)2月、第11回衆議院議員総選挙で富山県郡部から選出された広瀬鎮之が選挙法違犯で辞職したことに伴い繰上補充となり、衆議院議員を1期務めた。
鷲山 恭平(わしやま きょうへい、1872年11月24日 -… 鷲山 恭平(わしやま きょうへい、1872年11月24日 - 1957年2月15日)は、日本の篤農家、実業家、政治家。 嶺向報徳社社長(初代)、掛川信用組合組合長、大日本報徳社副社長、静岡県小笠郡土方村長などを歴任した。 浜松県出身の篤農家である。報徳運動や農村復興運動を推進し、嶺向報徳社の初代社長を経て、大日本報徳社の副社長となった。また、日本国内最古の信用金庫として知られる島田掛川信用金庫の源流である掛川信用組合の経営にも携わった。政治家としても活動しており、故郷である土方村で村長を務めた。 1872年11月24日、浜松県城東郡嶺向村にて生まれた。上京して東京法学院に入学し、英語法律学科にて学んだ。
田中 昌太郎(たなか しょうたろう、1872年11月20日(… 田中 昌太郎(たなか しょうたろう、1872年11月20日(明治5年10月20日) - 1964年2月25日)は、日本の法曹(検察官、弁護士)。立命館大学元学長。立命館中学校父兄会会長。京都府船井郡園部村(のち園部町、現・南丹市)生まれ。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
城 ノブ(じょう ノブ、1872年11月18日(明治5年10… 城 ノブ(じょう ノブ、1872年11月18日(明治5年10月18日)- 1959年(昭和34年)12月20日)は、日本のキリスト教徒、社会事業家である。愛称は「愛媛のマザー・テレサ」。 愛媛県温泉郡川上村(現在の東温市)にてフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの弟子であった城謙三の次女として生まれる。松山女学校(現在の松山東雲中学校・高等学校)に入学し、在学中は漢学塾でも学ぶ。1890年(明治23年)に卒業後は宣教師だったデュークス(Oscar A. Dukes)から洗礼を受けキリスト教徒となるが、父から勘当された事により独立した。1893年(明治26年)には横浜に居住し聖経女学校神学部(のち青山学院神学部女子部等を経て現在は東京神学大学)に入学し、卒業後は弘前に移住し来徳女学校(現在の弘前学院大学)にて教鞭を執り養老院勤務の傍らキリスト教の伝道活動にも携わる。
岡本 綺堂(おかもと きどう、1872年11月15日〈明治5… 岡本 綺堂(おかもと きどう、1872年11月15日〈明治5年10月15日〉 - 1939年〈昭和14年〉3月1日)は、日本の小説家、劇作家。本名は岡本 敬二(おかもと けいじ)。別号に狂綺堂、鬼菫、甲字楼など。新歌舞伎の作者として知られ、また著名な作品として小説「半七捕物帳」などがある。帝国芸術院会員。 養子の岡本経一は、出版社「青蛙房」の創業者で、社名は綺堂の作品「青蛙堂鬼談」に由来している。 元徳川幕府御家人で維新後にイギリス公使館に書記として 勤めていた敬之助(後に純(きよし)、号は半渓)の長男として東京高輪の泉岳寺の近くに生まれる。1873年、公使館の麹町移転とともに飯田町をへて麹町元園町に移って育つ。
橋本 喜造(はしもと きぞう、1872年11月14日(明治5… 橋本 喜造(はしもと きぞう、1872年11月14日(明治5年10月14日)- 1947年(昭和22年)2月7日)は、明治末から昭和前期の実業家、政治家、長崎県多額納税者。衆議院議員。長崎県会議員。佐世保市会議員。族籍は長崎県平民。 小倉県下毛郡、のちの大分県下毛郡三保村(現中津市)で、橋本半平の二男として生まれる。1896年(明治29年)1月、長崎県平民の橋本雄造の養子となり、1898年(明治31年)1月に分家した。 長崎商業学校(現長崎市立長崎商業高等学校)、長崎外国語学校(長崎英語学校)を卒業。その後上京して慶應義塾で学んだが中途でアメリカへ渡り4年間遊学し政治経済学を学んだ。 1891年(明治24年)から海運事業を経営し、1918年(大正7年)2月に佐世保市で橋本汽船を設立し、その後、拠点を西宮市、神戸市と転じた。
山田 永俊(やまだ えいしゅん、明治5年10月13日(187… 山田 永俊(やまだ えいしゅん、明治5年10月13日(1872年11月13日) – 昭和31年(1956年)9月24日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→政友本党)。医師。漢詩人。 岐阜県本巣郡七郷村(現在の岐阜市)出身。済生学舎で学び(現・日本医科大学)、1895年(明治28年)に医術開業試験に合格。1901年(明治34年)に岐阜市に眼科医院を開業した。1913年(大正2年)より岐阜市会議員に選ばれ、議長にも選出された。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その他、岐阜県医師会長、同保険部長、日本医師会理事、同副会長、岐阜脳病院理事長などを務めた。 また五洋と称し漢詩を善くした。
磯部 検三(いそべ けんぞう、明治5年10月13日(1872… 磯部 検三(いそべ けんぞう、明治5年10月13日(1872年11月13日) - 1949年(昭和24年)8月3日)は、日本の医師、学校経営者。日本医科大学の前身・日本医学校の創立に事務責任者(肩書は「幹事」)として関与し、のちに日本医科大学の維持員となった。かつては本人の主張に基づき日本医科大学の創立者として扱われていたが、現在では創立者と見なされていない。磯部の申し立てた経歴や業績には詐称や虚飾が多かったことが判明している。 名前は検蔵とも表記される。また嬰賓、孔夏、椿軒とも号した。 明治5年(1872年)10月13日、長門国厚狭郡(現・山口県山陽小野田市埴生)の医師・重枝化甫の三男として生まれ、叔父の磯部禎太郎の養子となった。
篠田 治策(しのだ じさく、明治5年10月12日(1872年… 篠田 治策(しのだ じさく、明治5年10月12日(1872年11月12日) - 昭和21年(1946年)1月23日)は、明治後期から昭和前期にかけての法学者・拓務官僚。 1872年、静岡県城東郡池新田村(現在の御前崎市)の農家の長男に生まれた。15歳の時に上京して錦城中学校(現錦城学園高等学校)、第一高等学校を経て、明治32年(1899年)に東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。一度は弁護士になるが、明治37年(1904年)の日露戦争勃発に際して陸軍省の国際法事務嘱託に任ぜられ、第三軍の国際法担当顧問として従軍、旅順要塞陥落後は同要塞の司令部付顧問を兼務した。 戦後の明治40年(1907年)に韓国統監府の嘱託となり、間島派出所総務課長・統監府秘書官を歴任、日韓併合後の明治43年(1910年)10月から朝鮮総督府によって平安南道へ派遣された。
土井 八郎兵衛(どい はちろうべえ、1872年11月10日〈… 土井 八郎兵衛(どい はちろうべえ、1872年11月10日〈明治5年10月10日〉 - 1954年〈昭和29年〉8月12日)は、明治 - 昭和時代の日本の林業家・実業家・三重県多額納税者・慈善家。土井林業代表取締役。尾鷲索道社長。尾鷲銀行頭取。百五銀行、三重共同貯蓄銀行、北山索道各取締役。族籍は三重県平民。三重県立尾鷲高等女学校校舎建築・関東大震災救援・三重県立尾鷲中学校建設のために寄附を行なった。 三重県牟婁郡尾鷲に生まれる。土井嘉八郎の長男。4歳の時に父・嘉八郎が病のため早世する。 専修大学理財科を卒業する。祖業の山林業及び林産物製出販売業を継承し、三重県多額納税者に列し、傍ら銀行会社の重役を兼ねる。
大谷 吟右衛門(おおたに ぎんえもん、1872年11月4日(… 大谷 吟右衛門(おおたに ぎんえもん、1872年11月4日(明治5年10月4日) - 1928年(昭和3年)3月26日)は、明治から大正時代の実業家、銀行家。 大谷秋蔵の長男として飾磨県佐用郡平福村(兵庫県佐用郡平福町を経て現佐用町平福)に生まれ、1901年(明治34年)3月に家督を相続する。1899年(明治32年)東京帝国大学法科を卒業し、大阪商船に入社し、釜山支店長を経て運輸助役となる。1902年(明治35年)兵庫県農工銀行支配人となり、1910年(明治43年)専務取締役に就任。1917年(大正6年)には同行頭取となった。ほか、神戸信託、神栄、播美鉄道各監査役のほか、神戸瓦斯、ベルベット石鹸などの役員も務めた。