加藤 恵三(かとう けいぞう、1908年〈明治41年〉12月… 加藤 恵三(かとう けいぞう、1908年〈明治41年〉12月5日 - 1982年〈昭和55年〉6月26日、本名は「慶次」とも)は将棋棋士。棋士番号は22。故石井秀吉七段門下。東京都江東区出身。 明治41年、東京市深川区(現・東京都江東区)生まれ。小学校卒業後に家業を助けながら、1929年(昭和4年)に石井秀吉七段の門下となる。 1931年(昭和6年)初段入段、1937年(昭和12年)四段、その翌年に五段。 1957年(昭和32年)に引退。1968年の表彰感謝の日に七段を贈られる。 正義派で親孝行、人に好かれる明るい性格であり、また、若手の面倒をよく見る世話好きの人情家であった。 1982年6月26日、食道がんのため死去、享年73。
大和 与一(やまと よいち、1908年〈明治41年〉12月3… 大和 与一(やまと よいち、1908年〈明治41年〉12月3日 - 1988年〈昭和63年〉4月29日)は、昭和期の労働運動家、政治家。参議院議員(3期)。剣道5段で日本武道館常任理事を務めた。 大韓帝国、のちの京城府(現ソウル特別市)で運送店経営・大和興次郎、露子の長男として生まれる。龍山中学校(現龍山高等学校)を経て、1934年(昭和9年)早稲田大学専門部政経科を卒業した。 朝鮮総督府鉄道局に入局し、終戦時は釜山駅旅客主任を務めていた。朝鮮半島からの引揚者60万人の輸送に従事し最終船で日本に戻り、1946年(昭和21年)運輸省鉄道総局東京鉄道局桐生駅駅手に就任。日本国有鉄道が発足し高崎鉄道管理局勤務となる。
宇都宮貞子(うつのみや さだこ、1908年12月3日 - 1… 宇都宮貞子(うつのみや さだこ、1908年12月3日 - 1992年2月12日)は、日本の民俗学者、草花研究家、随筆家。 長野県長野市生まれ。旧制県立長野高等女学校卒。東京女子大学中退。民俗学の一環として野の草花を研究し、60歳以後多くの著作を執筆した。1984年エイボン教育賞受賞。1992年、脳梗塞のため死去。
朝比奈 一男(あさひな かずお、1908年(明治41年)12… 朝比奈 一男(あさひな かずお、1908年(明治41年)12月2日 - 1986年(昭和61年)10月23日)は日本の内科医、生理学者。元東邦大学医学部長、生理学第一講座初代教授。東邦大学名誉教授。日本で初めて脳波を記録した。旧名倭男。東京府東京市小石川区白山御殿町(現・東京都文京区白山)出身。 1934年(昭和9年)、名古屋医科大学卒業。第一内科入局(勝沼精蔵)。勝沼とともに訪独。1937年(昭和12年)10月、医学博士を授与される。1938年(昭和13年)6月、哈爾浜医科大学助教授(内科)。1941年(昭和16年)7月、名古屋帝国大学助教授(航空医学研究所・第一航空医学 勝沼精蔵)。1945年(昭和20年)12月(環境医学研究所・第4部門職業性疾患学方面 勝沼精蔵)。
稲垣 優(いながき まさる、1908年12月2日 - 200… 稲垣 優(いながき まさる、1908年12月2日 - 2006年1月6日)は、日本の数学者。専門は微分幾何学。第10代東海大学学長、第3代国際武道大学学長を務める。熊本県熊本市出身。 東海大学水泳部初代主将 東海大学付属本田記念幼稚園、第3代園長も務めた。東海大学名誉教授、理事。1987年、勲二等瑞宝章受章。
木田 文夫(きだ ふみお、1908年12月2日 - 1970… 木田 文夫(きだ ふみお、1908年12月2日 - 1970年2月12日)は、日本の医学者・小児科医。 岡山県出身。東京帝国大学医学部卒。1937年パリ大学に学び、北京大学教授、41年「数種薬物に対する感受性の年齢的差異に関する実験的研究」で東大医学博士。熊本医科大学教授、49年日本医科大学教授。69年同付属病院長。 一般向けの著書でも知られ、「ながら神経症」と言ったことから「ながら族」という流行語が生まれたという。
関川 秀雄(せきがわ ひでお、1908年12月1日 ‐197… 関川 秀雄(せきがわ ひでお、1908年12月1日 ‐1977年12月16日)は、日本の映画監督。 1908年12月1日、新潟県佐渡郡(現・佐渡市)の地主の家の四男に生まれる。旧制佐渡中学在学中は画家に憧れていた。卒業後、旧制新潟高校に入学して中退。 劇映画『ひろしま』(日教組プロ、1953年)でベルリン映画祭長編劇映画賞受賞。記録映画『鉄路に生きる』(1951年)が1952年ヴェネツィア国際映画祭教育科学部門第2位。また、児童向け劇映画『トランペット少年』(東映教育映画部、1955年)が第9回エディンバラ国際映画祭で受賞。 戦争孤児を描いた『第二の人生』、学徒兵を描いた反戦映画『日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声』、砂川の立川基地拡張反対闘争を描いた『爆音と大地』など社会意識の強い作品が多い一方、刑事ドラマ、少年探偵団シリーズなどの映画もつくり、娯楽作品でも腕を振るった。
倉田 貞美 (くらた さだよし、1908年12月1日 - 1… 倉田 貞美 (くらた さだよし、1908年12月1日 - 1994年5月5日)は、日本の教育者、中国文学者。博士(文学)。元香川大学学長。香川大学名誉教授。 香川県三豊郡大見村(現 三豊市三野町)出身。旧香川県立三豊中学校、第一臨時教員養成所卒業、東京高等師範学校研究科を経て、1934年、東京文理科大学文学科に入学。同大学漢文学専攻卒業。在学中は諸橋轍次に師事した。卒業論文は「中国現代詩の研究」。1937年(昭和12年)同大学卒業後、福井師範学校に赴任。間もなく盧溝橋事件が起こり、同年12月に応召。翌年1938年(昭和13年)4月に除隊。終戦まで3回応召を受けた。 1949年(昭和24年)香川大学教授に就任。
冨満 通哉(とみみつ みちや、1908年(明治41年)12月… 冨満 通哉(とみみつ みちや、1908年(明治41年)12月1日 - 1993年(平成5年)7月23日)は、日本の実業家。神鋼電機株式会社(現シンフォニアテクノロジー株式会社)第3代代表取締社長。昭和54年4月、勲三等瑞宝章 産業振興功労 受勲。 鹿児島県出身。旧制鹿児島県立加治木中学校(現:鹿児島県立加治木高等学校)を経て、第七高等学校造士館(現:鹿児島大学法文学部・理学部)理科甲類を1929年3月に卒業。1932年3月、京都帝国大学工学部電気工学科卒業。 1932年4月、神戸製鋼所 入社(1949年株式会社神戸製鋼所より分社化し神鋼電機株式会社が設立される)。1950年11月、神鋼電機株式会社取締役就任。
富尾木 惣一(とみおぎ そういち、1908年〈明治41年〉1… 富尾木 惣一(とみおぎ そういち、1908年〈明治41年〉12月 - 没年不詳)は、日本の実業家。元東洋埠頭社長 高千穂高等商業学校第16回(現・高千穂大学)卒業。在学時は野球部の委員であった。 1933年南満州鉄道に入社。本社経理部会計課、奉天鉄道総務局経理、斉々哈爾鉄道局経理部各勤務。 牡丹江鉄道主計科長を経て、1943年南満州鉄道本社経理局予算課主任にて終戦を迎える。 終戦後、1951年東洋埠頭川崎支店経理課長となり、本社会計課長、経理部長、次長を歴任。 1963年取締役、1967年常務業務部長、1970年12月川崎支店長、専務取締役を経て、1977年12月社長に就任した。
岡田 鯱彦(おかだ しゃちひこ、1907年12月28日 - … 岡田 鯱彦(おかだ しゃちひこ、1907年12月28日 - 1993年8月4日)は、日本の国文学者、推理作家、小説家。本名は、岡田藤吉。 東京生まれ。東京物理学校(現 東京理科大学)を卒業した後、1935年第一高等学校卒、東京帝国大学文学部国文科に入学し、1938年卒業。1940-45年名古屋陸軍幼年学校の教官を務めた。第二次大戦後、東京青年師範学校教授[要出典]、1949年から東京学芸大学教授、1971年定年、聖徳学園短期大学教授、淑徳短期大学教授。 作家としての活動もあり、『源氏物語』や『雨月物語』といった古典に取材した作品がある。1949年、ユーモア小説「天の邪鬼」が懸賞に当選。同年に『宝石』誌の第3回懸賞募集に応募した「妖鬼の呪言」が短篇懸賞の選外佳作となり、また「噴火口上の殺人」が『ロック』誌の第2回懸賞募集に1席入選し、同誌に掲載された。
平井 嘉一郎(ひらい かいちろう、1907年12月24日 -… 平井 嘉一郎(ひらい かいちろう、1907年12月24日 - 2001年1月20日 )は、京都府中郡大宮町(現・京丹後市)出身の実業家。ニチコン社長・会長。 1940年(昭和15年)、立命館大学法学部を卒業。1951年(昭和26年)、経営難に陥っていた関西二井製作所に経営者として入り、1957年(昭和32年)に社長就任。1961年(昭和36年)に社名を日本コンデンサ工業株式会社に変更。その後会長に就任し、現在のニチコンの事実上の創業者として会社の礎を築いた。2001年(平成13年)1月20日に93歳で亡くなった。 2009年(平成21年)には故郷の京丹後市大宮町にある京丹後市立大宮図書室に、平井嘉一郎財団からの寄付によって平井嘉一郎文庫が設置された。
星 冬四郎(ほし とうしろう、1907年(明治40年)12月… 星 冬四郎(ほし とうしろう、1907年(明治40年)12月23日 – 1989年(平成元年)8月7日 ) は、日本の農学者。家畜生理学を専門とした東京大学農学部教授、同名誉教授である。「馬の不妊症に関する内分泌学的研究」で東京帝大農学博士、「哺乳期における卵巣機能に関する研究」で日本農学賞を受賞。家畜繁殖研究会会長。 「ラットの卵巣静脈血中の黄体ホルモンの化学的測定法の確立に関する研究」は世界で最初の取り組みで、のちに体外受精、胚移植へと発展した。昭和38年度の日本農学賞を受賞した「ラットの哺乳期における内分泌機能に関する研究」(「哺乳期における卵巣機能に関する研究」)は低受胎症の改善に、「家畜不妊症に対する性腺刺激ホルモンの応用に関する研究」は家畜繁殖障害のホルモン療法に貢献した。
土井 正三郎(どい しょうざぶろう、1907年〈明治40年〉… 土井 正三郎(どい しょうざぶろう、1907年〈明治40年〉12月23日 - 1992年〈平成4年〉12月18日)は、日本の経営者。三井信託銀行社長を務めた。 鳥取県米子市出身。土井親男の三男。生家は米子東倉吉町、鉄砲火薬の土井親男商店。 1929年に青山学院高等部商科を卒業し、同年に三井信託銀行に入行。1958年5月に取締役に就任し、1967年5月に副社長を経て、1968年11月には社長に就任。1971年5月に会長に就任し、1976年6月には相談役に就任。 1973年9月に藍綬褒章を受章し、1979年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 1992年12月18日に急性心筋梗塞のために死去。84歳没。 長年テニスで身体をきたえた。
青井 政美(あおい まさみ、1907年〈明治40年〉12月2… 青井 政美(あおい まさみ、1907年〈明治40年〉12月22日 - 1991年〈平成3年〉1月29日)は、日本の農業協同組合指導者、実業家、政治家。位階は正五位。参議院議員(1期)。 愛媛県越智郡、のちの今治市で生まれる。1927年(昭和2年)東洋商業学校(現東洋高等学校)を卒業。繊維関係の商業に従事した。 富田村農業会会長、愛媛県経済農業協同組合連合会会長を務める。1947年(昭和22年)愛媛県議会議員に選出され2期在任し、同副議長も務めた。愛媛県農協四連会長、全国農業協同組合連合会代表監事などを歴任した。1969年(昭和44年)に長年、農業関係団体要職に就いて育成指導に努め技術普及畜産振興を図り農業発展に寄与したとして藍綬褒章受章。
御子柴 博見(みこしば ひろみ、1907年12月22日 - … 御子柴 博見(みこしば ひろみ、1907年12月22日 - 2005年11月24日)は日本の地方公務員。元東京都副知事。 長野県生まれ。一家で上京し、旧制東京府立第一中学(東京都立日比谷高等学校)、旧制松本高校文科を経て、1930年東京帝国大学卒業。東京市役所入庁。東京都衛生局総務部長、総務局監査部長、人事部長、人事委員会事務局長、都東京五輪準備事務局長、総務局長を歴任。 東龍太郎都知事の下、1963年から1967年まで副知事を務め、1964年の東京五輪開催に関わる。退任後は首都高速道路公団副理事長、特別区人事委員会委員長、東京厚生信用組合理事長、虎ノ門コンサルタンツ監査役、東京都体育協会副会長、日本体育評議会評議員、東京都スポーツ振興審議会長、日本プロ野球選手会理事、社会福祉法人東京ヘレン・ケラー協会理事長などを歴任。
長谷川 良夫(はせがわ よしお、1907年〈明治40年〉12… 長谷川 良夫(はせがわ よしお、1907年〈明治40年〉12月22日 - 1981年〈昭和56年〉5月6日)は、日本の作曲家。 作曲を信時潔、クラウス・プリングスハイムに師事。1931年東京音楽学校師範科卒業。1933年同研究科作曲聴講生修了、日本ビクターに所属。1937年、宝塚歌劇団作曲部に所属。1938年ドイツに渡り、ベルリン国立歌劇場でオペラを研究し、1940年帰国。1946年、東京音楽学校作曲科教授に就任。1949年、学制移行により東京芸術大学教授となる。1975年、同大学名誉教授となる。1979年、勲三等瑞宝章を受章。1981年、心不全のため死去。 音楽教育に力を注ぎ、著書に『作曲法教程』『大和声学教程』『対位法』などがある。
室賀 信夫(むろが のぶお、1907年12月21日 - 19… 室賀 信夫(むろが のぶお、1907年12月21日 - 1982年2月15日)は、日本の地理学者。筆名・須見五郎。 1907年、東京府豊多摩郡淀橋町角筈(現新宿区)に生まれる。東京府立第五中学校(現東京都立小石川中等教育学校)から第三高等学校(文科)を経て、1928年京都帝国大学文学部史学科に入学。体調を崩し休学時期があり、1933年卒業となる。1937年、京都帝国大学文学部講師に就き、1938年より立命館大学講師を兼任する(1944年まで)。1943年には京都帝国大学助教授に昇進、同志社女子専門学校(現同志社女子大学)講師を兼任(1944年まで)。 しかし、太平洋戦争が終結すると、京都帝国大学文学部の地理学講座は戦中に地政学研究に大きく傾いた責任を問われ、全員が総辞職することとなった。
西田 直道(にしだ なおみち、1907年12月21日 - 1… 西田 直道(にしだ なおみち、1907年12月21日 - 1978年1月9日)は、日本の作曲家、指揮者。 北海道名寄市出身。同志社大学法学部卒業。在学中はマンドリンクラブに所属し、指揮をしていた菅原明朗から和声、対位法、管弦楽法、指揮法を学んだ。また池内友次郎からも対位法とフーガを学んだ。1941年にNHK札幌放送管弦楽団が創設されると、指揮者として招かれた。また札幌大谷短期大学(現在の札幌大谷大学短期大学部)や札幌商科大学(現在の札幌学院大学)などで指導にあたった。 1957年には北海道文化賞を受賞した。 この項目は、音楽家(演奏者・作詞家・作曲家・編曲家・バンドなど)に関連した書きかけの項目です。
藤枝 静男(ふじえだ しずお、1907年12月20日 - 1… 藤枝 静男(ふじえだ しずお、1907年12月20日 - 1993年4月16日)は、日本の作家、眼科医。本名勝見次郎。静岡県志太郡藤枝町(現・藤枝市)出身。 藤枝町市部(現在の藤枝市本町)の勝見薬局の次男として生まれ、成蹊学園から名古屋の旧制第八高等学校を経て1936年に千葉医科大学(現・千葉大学医学部)を卒業。眼科教授の伊東弥恵治(1891-1958)に師事した。勤務医生活ののち独立、1950年から浜松市で眼科医院を営む傍ら、小説を書き続けた。1968年『空気頭』で芸術選奨文部大臣賞、1974年『愛国者たち』で平林たい子文学賞、1976年『田紳有楽』で谷崎潤一郎賞、1979年には『悲しいだけ』で野間文芸賞を受賞。
竹内 理三(たけうち りぞう、1907年(明治40年)12月… 竹内 理三(たけうち りぞう、1907年(明治40年)12月20日 - 1997年(平成9年)3月2日)は、日本の歴史学者。専門は日本古代史・中世史。号は竹犂(ちくり)。文学博士。東京大学名誉教授。東京大学史料編纂所所長を務めた。 1907年(明治40年)12月20日、愛知県知多郡岡田町(現・知多市)にて、機織工場の共同経営者である父・竹内仁重と母・志んの三男として生まれた。 岡田尋常小学校を経て、1920年、愛知県立半田中学校(現・愛知県立半田高等学校)に入学。背が低く猛勉強をする竹内は、彼を気に入らない連中からいじめを受けたという。1924年、第八高等学校文科甲類に入学。在学中に同級生と史学研究会を結成し、その会報誌『瑞陵史叢』の創刊号に竹内の処女論文「有史以前の日本」を寄せている。
三木 敏(みき さとし、1907年〈明治40年〉12月19日… 三木 敏(みき さとし、1907年〈明治40年〉12月19日 - 没年不明)は、日本の実業家。三木興業会長。三木商店合名会社代表社員。ナニワ電球工業監査役。 兵庫県姫路市・牛尾梅吉の二男。祖母・三木みなの養子となり1915年、家督を相続する。1932年、京都帝国大学法学部卒業。野村銀行本店に入り、1936年6月に退社し同年7月に三木商店を設立、代表社員に就任する。 三木政夫の養兄である。趣味は園芸、スポーツ、洋楽。宗教は仏教、真宗。住所は兵庫県武庫郡精道村東芦屋、打出字原田(現・芦屋市)。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
矢嶋 仁吉(やじま にきち、1907年12月19日 - 19… 矢嶋 仁吉(やじま にきち、1907年12月19日 - 1992年5月21日)は、日本の地理学者。理学博士(東京教育大学・論文博士・1953年)(学位論文「武蔵野台地の新田集落立地に関する地理学的研究」)。正四位。 東京府豊多摩郡井荻村(現在の東京都杉並区)に生まれる。荻窪に育つ。井伏鱒二の「荻窪風土記」の執筆に協力し、『荻窪の今昔と商店街之変遷』(1976年)、『荻窪の古老矢嶋又次が遺した「記憶画」 : 平成23年度杉並区立郷土博物館分館企画展 : 図版集』の作者である、荻窪の古老と呼ばれた矢嶋又次は実兄。荻窪駅北口前にかつて存在した矢嶋洋品店が実家。 1936年東京文理科大学地理学卒、1953年「武蔵野台地の新田集落立地に関する地理学的研究」で東京教育大学より理学博士の学位を取得。
高部 義信(たかべ よしのぶ、1907年12月18日 - 1… 高部 義信(たかべ よしのぶ、1907年12月18日 - 1995年3月11日)は、日本の英語雑誌編集者、英語学者。 神戸市生まれ。1931年東京帝国大学法学部政治学科卒、機械輸入会社勤務、電気学校夜間部講師、1935年研究社に入り『英語研究』主筆となる。太平洋戦争では暁部隊に編入され沖縄から帰還。『英語研究』を改題した『時事英語研究』を創刊し初代編集長となる。73年退職、研究社顧問。叔父は囲碁棋士の高部道平。
木野 普見雄(きの ふみお、1907年12月18日 - 19… 木野 普見雄(きの ふみお、1907年12月18日 - 1970年9月27日)は、昭和時代前・中期に活動した日本の作曲家。 本名は木野 文男(読みは同じ)。大分県出身。 1907年(明治40年)、大分県速見郡杵築町(現在の杵築市)据場で木野政太の八男として生まれる。旧制中学校在学中から『大分詩人』誌へ詩を寄稿したのを始め文芸に造詣が深く、1934年(昭和9年)に大日本音楽協会が皇太子(明仁上皇)御降誕記念で作詞と作曲を懸賞募集した『吾等の日本』で作曲部門の二等に入賞する。この時に一等入選で採用されたのは広島高等師範学校教授で、戦後は木野と同じく原爆を題材とした楽曲を数多く手掛けた山本寿であった。
山室 耕(やまむろ こう、1907年12月17日 - 没年不… 山室 耕(やまむろ こう、1907年12月17日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名は西森 高茂(にしもり たかしげ)。旧芸名は村上 英二(むらかみ えいじ)、光 一(ひかり はじめ)。 1907年(明治40年)12月17日、高知県高知市に生まれる。高知城東商業学校(現在の高知中学校・高等学校)を卒業。 1927年(昭和2年)、村上英二という芸名で日活大将軍撮影所(後に日活京都撮影所・日活太秦撮影所)に入社。一時期、本名の西森高茂名義で活動した時期もある。1933年(昭和8年)には日活多摩川撮影所現代劇に移籍。後に芸名も光一と改名して、1936年(昭和11年)公開の内田吐夢監督映画『人生劇場 青春篇』などに出演。
山田 多賀市(やまだ たかいち、1907年12月16日 - … 山田 多賀市(やまだ たかいち、1907年12月16日 - 1990年9月30日)は日本の小説家、農民運動家。本名は多嘉市(たかいち)。 長野県南安曇郡三田村田尻(現・安曇野市)の農家の長男に生まれる。旧制小学校を4年で中退すると、13歳の時に年期奉公に出て建設作業員や瓦焼きの職人として東海地方を転々とした後、19歳の時、伊那谷の発電工事場で働き、帳付けをしていた葉山嘉樹の知遇を得た。のちに山梨県北巨摩郡登美村(現・甲斐市)に移り、21歳の時、日本農民組合青年部に加入して、小作料引き下げ闘争などの農民解放運動を展開したが、闘病生活に入った。 25歳で運動から転向し、作家を志す。新田潤の勧めによって書いた短篇「夕立雲」が、1937年に「人民文庫」に新人創作として載り、1939年から同人雑誌「槐」に代表作となる小説『耕土』が掲載されると、「中央公論」や東大の「赤門文学」で高評価を得た。
阿部 金蔵(金藏、あべ きんぞう、1907年(明治40年)1… 阿部 金蔵(金藏、あべ きんぞう、1907年(明治40年)12月14日 - 1981年(昭和56年)9月2日)は、日本の政治家。山形県天童市長を務めた(5期)。位階は正五位。勲三等瑞宝章。 山形県出身。旧制山形県立山形中学校(現・山形県立山形東高等学校)卒業。卒業後は山形県庁に入り、道路書記並土木書記、県社会事業主事補、山形県属などを経て、1951年、山形県議会議員に当選。1期務めた後、天童町議会議員に転じた。町議会議長を経て、市制施行により市議会議長となった。1962年、天童市長に当選。当選後は市建設基本計画を策定した。3期目に市総合計画を策定、4期目に市民生活環境基準を策定した。5期目途中の1981年に死去。
石井 良助(いしい りょうすけ、1907年(明治40年)12… 石井 良助(いしい りょうすけ、1907年(明治40年)12月14日 - 1993年(平成5年)1月12日)は、日本の法制史学者。専門は日本法制史。学位は、法学博士(東京帝国大学・1937年)。東京大学名誉教授。勲二等旭日重光章、文化功労者、文化勲章。贈・従三位 勲一等瑞宝章(没時陞叙)。 東京府(現在の東京都大田区)生まれ。東京府立第一中学校、第一高等学校、東京帝国大学法学部法律学科卒業後の1930年(昭和5年)に東大助手に採用される。2年後に助教授。1937年(昭和12年)には 論文「中世武家不動産訴訟法の研究」で東京帝国大学から法学博士を受ける。 1942年(昭和17年)に教授就任。1968年(昭和43年)に退官後は名誉教授となり、新潟大学人文学部教授、1970年(昭和45年)専修大学法学部教授、1979年(昭和54年)創価大学法学部教授として教鞭を執る。
伊藤 悌三(いとうていぞう、1907年12月14日 - 19… 伊藤 悌三(いとうていぞう、1907年12月14日 - 1998年9月29日)は、日本の洋画家。 千住吾妻汽船会社(隅田川の一銭蒸気船)を経営の父幸太郎と、写真家江崎礼二の長女八重の三男として浅草山ノ宿町53番地で生まれる。独協中学校の時に画家を志し、1927年(昭和2年)岡田三郎助に師事。1929年(昭和4年)東京美術学校西洋画科に入学。 在学時の1933年(昭和8年)の第14回帝展に初入選し、以後毎年入選。1941年(昭和16年)の第4回新文展には「少憩」を出品し、この年から制定された岡田賞を受賞した。翌年無鑑査となる。1941年(昭和16年)、紀元二千六百年にあたり興亜院より中国各地を取材。
粟山 ひで(粟山 秀、もみやま ひで、1907年12月13日… 粟山 ひで(粟山 秀、もみやま ひで、1907年12月13日 - 1996年5月18日)は、日本の政治家。自由民主党衆議院議員(4期)。衆議院議員を務めた粟山博は義父、同じく衆議院議員を務めた粟山明は弟。 北海道空知郡歌志内町(現・歌志内市)出身。生家は内科医であった。10歳の時、伊達郡桑折町に移る。福島県立福島高等女学校(現:福島県立橘高等学校)卒業後、日本女子大学で学ぶ。その後は義父の粟山博の秘書を務める。1959年義父が死去。 翌1960年の第29回衆議院議員総選挙で福島1区から自民党公認で立候補するが、次点に終わる。次の1963年の第30回衆議院議員総選挙で立候補して初当選し、以来連続4期務める。
竹谷 富士雄(たけや ふじお、1907年12月13日 - 1… 竹谷 富士雄(たけや ふじお、1907年12月13日 - 1984年5月5日)は、日本の洋画家。 新潟県中蒲原郡に生まれる。1931年に法政大学経済学部を卒業する。1932年に渡欧し、ベルリンに半年滞在した後、翌年パリに移り、シャルル・ブラン研究所、後半林武のアトリエに通う。1935年に帰国し、1936年に第23回二科展で「姉妹」が初入選、この年藤田嗣治に師事する。1937年に第24回二科展で「夏」が特待賞、1940年に第27回二科展で「壷つくりの女」は佐分賞を受賞し会友に推挙される。しかし、1941年に師の藤田嗣治の二科会退会に従い同じく二科を退会する。新制作派協会に転じ、1942年に第7回展「休む男」等3点、1943年に第8回展「働く男」が共に新作家賞を受賞、早くも会員に推挙される。
森 章(もり あきら、1907年12月12日 - 1991年… 森 章(もり あきら、1907年12月12日 - 1991年11月10日)は、日本の経営者。沖電気工業社長、会長を務めた。埼玉県出身。 旧制熊谷中学を経て、1928年に東京高等工業学校電気科を卒業し、同年に沖電気工業に入社。1947年に取締役に就任し、1956年に常務、1963年に専務を経て、1966年11月に社長に就任。1972年11月に会長に就任し、1976年6月に相談役を経て、1979年6月から特別顧問を務めた。 1971年4月に藍綬褒章を受章し、1978年4月に勲二等瑞宝章を受章。 1991年11月10日肺炎のために死去。83歳没。
西尾 正(にしお ただし、本名同じ、1907年12月12日 … 西尾 正(にしお ただし、本名同じ、1907年12月12日 - 1949年3月10日)は、日本の探偵小説家。作品は全て短編かつ怪奇小説的な作品である。代表作に「骸骨」「海蛇」「青い鴉」など。 1907年(明治40年)12月12日、東京府東京市本郷区に、亀の子束子の製造で知られる西尾商店の一族として生まれた。 慶應義塾大学経済学部に進学し、卒業後の1934年(昭和9年)、雑誌『ぷろふいる』六月号に「陳情書」を発表してデビュー。ただし、同作は発表直後に発禁になっている。 その後も『ぷろふいる』『新青年』などの雑誌に、コンスタントに短編を発表し続けた。太平洋戦争中は沈黙、戦後には執筆を再開している。 米国のパルプ・マガジンに取材した異色作なども発表している。
関 湊(せき みなと、1907年(明治40年)12月12日 … 関 湊(せき みなと、1907年(明治40年)12月12日 - 1984年(昭和59年)9月14日)は日本の実業家、経営者。学校法人獨協学園理事長。 昭和期の日本の実業家・学校法人経営者。明治期に西周らにより設立された獨逸学協会学校を母体とした学校法人獨協学園再建を天野貞祐(元文部大臣)と根津嘉一郎(東武鉄道2代目総帥)から託され、獨協医科大学等を創設し現在の獨協学園の基礎を作った。獨協学園理事長を務めた他、社会福祉法人関記念会の発起人会を立ち上げ設立に大きく尽力した。現在は獨協医科大学を協力病院とし、地域の高齢者福祉の中核事業を担う存在にまで成長している。 1907年(明治40年)、栃木県塩谷郡喜連川町(現・さくら市)に生まれる。
古沢 元(ふるさわ げん、1907年12月11日 - 194… 古沢 元(ふるさわ げん、1907年12月11日 - 1946年5月3日) は、日本の小説家。本名は古沢 玉次郎(ふるさわ たまじろう)、別筆名・秦 巳三雄(はた みさお) 岩手県沢内村(現・西和賀町)出身。岩手県盛岡中学(現・岩手県立盛岡第一高等学校)卒業、旧制第二高等学校(現・東北大学)中退。「戦旗」編集部で秦巳三雄のペンネームで評論、翻訳を発表。その後古沢元のペンネームで「日暦」同人、武田麟太郎主宰の「人民文庫」同人となり小説、評論を発表した。1940年同人雑誌「麦」に発表した「紀文抄」(きぶんしょう)が、第12回直木賞候補作品となる。 第二高等学校では非合法政治活動に身を投じ、学業半ばで放校となったが、上京して新風を巻き起こしていたプロレタリア文学運動に加わり、「日暦」では高見順の「故旧忘れ得べき」に続いて「びしゃもんだて夜話」を三回にわたって連載、郷里の沢内村を題材にした小説を書いた。
佐伯 千仭(さえき ちひろ、1907年(明治40年)12月1… 佐伯 千仭(さえき ちひろ、1907年(明治40年)12月11日 - 2006年(平成18年)9月1日)は、日本の法学者(刑法)。弁護士。熊本県出身。 熊本県上益城郡木山町生まれ。旧制熊本県立中学済々黌(現熊本県立済々黌高等学校)を経て、1927年旧制第五高等学校卒業。1930年、京都帝国大学法学部卒業後、同大学助手。1932年、同助教授。1933年の滝川事件の際に京都大学を離れ、立命館大学教授に就任するも、1934年に京都大学法学部助教授に復帰した。1941年、同大学教授。 戦後、自著『刑法総論』の国家主義的内容が問題となって教職不適格指定を受け、1947年に京都大学を追放された。同年、弁護士登録。
伊藤友恵(いとう ともえ、1907年(明治40年)12月10… 伊藤友恵(いとう ともえ、1907年(明治40年)12月10日 - 1987年(昭和62年)1月21日)は、囲碁の棋士。旧名は清子、旧姓は川田。栃木県出身、日本棋院所属、喜多文子名誉八段門下、七段。女流選手権戦5連覇を含む優勝7回など。力戦派で巴流、巴御前の異名を取った。 足利市に生まれる。1917年(大正6年)に方円社の喜多文子に入門。その後中央棋院に所属し、若手棋士の研究会六華会にも参加。1924年の日本棋院設立とともに初段となる。1927年秋期、1929年秋期、1930年秋期の大手合乙組優勝。1940年三段。1943年四段。1952年に第1期女流選手権戦で、決勝で武田みさおを破って優勝。翌年は挑戦者杉内寿子に敗れるが、1957年からは5連覇。
桂井 和雄(かつらい かずお、1907年〈明治40年〉12月… 桂井 和雄(かつらい かずお、1907年〈明治40年〉12月10日 - 1989年〈平成元年〉8月9日)は、日本の民俗学者。 高知県高知市出身。早稲田第二高等学院中退。小学校教諭、校長、高知県福祉事業財団会長などを務めながら昔話を採集。1984年『土佐民俗選集』で柳田賞受賞。土佐民俗学会長。
伊達 慎一郎(だて しんいちろう、1907年(明治40年)1… 伊達 慎一郎(だて しんいちろう、1907年(明治40年)12月6日 - 1994年(平成6年)10月11日)は、日本の政治家、地方公務員、弁護士。島根県知事(1期)。知事退任後、弁護士に登録。 島根県松江市生まれ。旧制松江高等学校を経て東京帝国大学法学部、大同学院を卒業。満洲国政府に勤務し、西安県副県長、鉄鋼司弁事などを歴任する。 終戦で引き揚げ、1947年(昭和22年)島根県職員となる。漁政、財政各課長、総務部長を経て、田部長右衛門知事の女房役として、1960年(昭和35年)から10年間副知事を務め、3期知事を務めた田部の後継者として選ばれ、1971年(昭和46年)4月の島根県知事選挙に立候補した。
黒神 直久(くろかみ なおひさ、1907年〈明治40年〉12… 黒神 直久(くろかみ なおひさ、1907年〈明治40年〉12月5日 - 1987年〈昭和62年〉5月11日)は、日本の政治家、神職。山口県徳山市長(3期)、神社本庁総長を歴任した。 山口県都濃郡徳山町(現・周南市)の遠石八幡宮宮司の家に生まれる。1930年(昭和5年)3月、國學院大學神道部卒業。1932年(昭和7年)3月、県社祐綏神社社司、1933年(昭和8年)5月、県社児玉神社社司、1938年(昭和13年)2月、県社遠石八幡宮社司などを歴任し、この間、徳山町立実業実践学校講師を務めた。1947年(昭和22年)3月、徳山市復興土地区画整理委員会副委員長、同委員長などを務めた。 1952年(昭和27年)8月24日付で徳山市長の池清が健康上の理由により辞職。
服部 逸郎(はっとり いつろう、1907年12月3日 - 1… 服部 逸郎(はっとり いつろう、1907年12月3日 - 1973年8月5日)は、昭和期の日本の作曲家、歌手、作詞家、元アナウンサーである。別名をレイモンド服部、服部レイモンド、服部ヘンリー。なお、同姓の服部良一や服部正との血縁関係はない。 1907年(明治40年)12月3日、神奈川県横浜市出身。若い頃にキリスト教に入信した為、洗礼名をレイモンドという。 1931年(昭和6年)慶應義塾大学文学部卒業後に作曲家としての活動を開始。ハワイへの音楽留学から帰国した1934年(昭和9年)1月に、NHKが初めて行った全国規模でのアナウンサー採用試験に応募し、応募者728名中25名の合格者の1人として入局。
藤枝 泉介(ふじえだ せんすけ、1907年〈明治40年〉12… 藤枝 泉介(ふじえだ せんすけ、1907年〈明治40年〉12月3日 - 1971年〈昭和46年〉6月6日)は、日本の政治家、内務官僚。 衆議院副議長(第48代)、自治大臣(第13・14代)、国家公安委員会委員長(第22・23代)、運輸大臣(第34代)、防衛庁長官(第14代)、総理府総務長官(第4・5代)、衆議院議員(8期)などを歴任した。 「船田三兄弟」の末弟。長兄は第51・56代衆議院議長の船田中、次兄はローマ法学者の船田享二。所属政党は民主自由党→自由党→日本民主党→自由民主党。自民党での所属派閥は岸信介派→川島正次郎派→椎名悦三郎派(十日会→交友クラブ)。 1907年(明治40年)、船田兵吾の三男として栃木県宇都宮市に生まれる。
佐々木 巌夫(ささき いわお、1907年12月3日 - 19… 佐々木 巌夫(ささき いわお、1907年12月3日 - 1971年12月3日)は、日本の柔道家(講道館9段)、実業家。旧姓笠原。 学生時代に全国中等学校柔道大会や明治神宮大会柔道競技で優勝等の成績を残し、特に早稲田大学在学中には学生柔道界の花形としてその勇名を轟かせ全日本選士権大会も獲得。卒業後は古河鉱業に就職し、営業部長や資材部長、炭鉱所長、監査役、顧問等を歴任し、実業家として活躍した。 栃木県宇都宮市で医師を務める笠原家10人兄弟の5男として東京都世田谷区の奥沢に生まれ、少年期より栃木県で育った。兄3人が旧制宇都宮中学校(現・県立宇都宮高校)から旧制第四高校へ進んだ柔道選手であったほか、姉2人の夫も旧制第四高校の柔道選手であった関係で、笠原も物心が付いた頃には家の中の十畳間で兄達が乱取を行うのを見て育つなど、既に柔道が身近な存在となっていた。
山脇 洋二(やまわき ようじ、1907年〈明治40年〉12月… 山脇 洋二(やまわき ようじ、1907年〈明治40年〉12月2日 - 1982年〈昭和57年〉12月11日)は、日本の工芸家。金工作家。教育者。 1907年(明治40年)、大阪府大阪市北区に生まれる。1925年(大正14年)に東京美術学校金工科彫金部に入学。在学中には金工芸界への革新を標榜した北原千鹿が主宰する工人社の創立に参加した。1930年(昭和5年)、同校を卒業。1931年(昭和6年)の帝展に「照明器」を出品して初入選。1936年(昭和11年)の文展(この年から帝展の代わりに開催)に出品した「鎚金野牛置物」が選奨(文部大臣賞に次ぐ賞)を受賞。さらに1938年(昭和13年)第2回新文展に「銀竜文亀置物」で特選を受賞。
永井 純一郎(ながい じゅんいちろう、1907年〈明治40年… 永井 純一郎(ながい じゅんいちろう、1907年〈明治40年〉12月1日 - 2003年〈平成15年〉9月29日)は、昭和期の官僚、政治家。参議院議員(1期)。 宮崎県宮崎郡田野村(田野町を経て現宮崎市)で、永井三郎の長男として生まれた。1931年(昭和6年)中央大学法科を卒業し、同年、農林省に入省した。 同省では、畜産局、山林局、蚕糸局、経済更生部、総務局で勤務。和歌山県庁に転じ、食料課長、農務課長、人事課長を経て、総務部長、食料部長、農林部長を歴任した。 1950年(昭和25年)6月の第2回参議院議員通常選挙に和歌山県選挙区から無所属で出馬して当選し、参議院議員を1期務めた。この間、日本社会党に入党し、同党政策審議会副会長、日本農民組合和歌山県連顧問などを務めた。
高野 宗雄(たかの むねお、1907年(明治40年)12月1… 高野 宗雄(たかの むねお、1907年(明治40年)12月1日 - 1989年(平成元年)9月25日)は、日本の政治家、第4、5期魚津市長(1964年 - 1972年)、新川信用金庫理事、新開発公社理事長を歴任。 1907年(明治40年)12月1日、富山県に生まれる。1930年(昭和5年)に法政大学経済学部を卒業し、東京建物に入社する。1954年(昭和29年)魚津市監査委員、1960年(昭和35年)同教育委員委員を経て、1964年(昭和39年)4月に魚津市長選挙に出馬し、当選する( - 1972年(昭和47年)5月)。 在任中は白倉小学校組合管理者、家事・民事調停委員、衛生処理組合管理者、魚津市開発公社理事長、新川育成牧場組合管理者、新川広域圏事務組合理事長、市体育協会会長などを兼任した。
小竹 豊治(こたけ とよじ、1906年12月30日 - 19… 小竹 豊治(こたけ とよじ、1906年12月30日 - 1990年2月11日)は日本の経済学者。証券経済論。
内藤 良一(ないとう りょういち、1906年12月26日 -… 内藤 良一(ないとう りょういち、1906年12月26日 - 1982年7月7日)は、日本の軍医。1950年、日本ブラッドバンク(後のミドリ十字)を創業。医学博士。 京都府綾部町出身。茨木中学校、旧制三高を経て、1927年(昭和2年)京都帝国大学医学部に入学し、1931年(昭和6年)に卒業。1936年(昭和11年)に京大大学院を卒業。「バクテリオファージ研究補遺」で医学博士となる。 1937年(昭和12年)からヨーロッパ、アメリカでの研究、情報収集を行った後、陸軍軍医学校防疫研究室の責任者として、731部隊が主導した細菌兵器の開発・研究や人体実験にも関わったとされる。帰国後、東京・戸山の陸軍軍医学校で終戦まで軍医教官として勤務した。
立 正嘉(たち まさよし、1906年 <明治39年> 12月… 立 正嘉(たち まさよし、1906年 <明治39年> 12月26日 - 1990年 <平成2年> 10月13日)は、日本の銀行家。山陰合同銀行頭取を務めた。位階は正五位。 東京都出身。1929年に東京帝国大学独法科を卒業し、同年に日本銀行に入行した。1959年11月から1975年12月までに山陰合同銀行頭取を務めた。 1969年9月に藍綬褒章を受章し、1980年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 1990年10月13日肺炎のために死去。83歳没。死没日付をもって正五位に叙された。