藤本 定義(ふじもと さだよし、1904年12月20日 - … 藤本 定義(ふじもと さだよし、1904年12月20日 - 1981年2月18日)は、愛媛県松山市生まれのプロ野球監督。東京巨人軍初代監督。
12月生まれ:9,845人
藤本 定義(ふじもと さだよし、1904年12月20日 - … 藤本 定義(ふじもと さだよし、1904年12月20日 - 1981年2月18日)は、愛媛県松山市生まれのプロ野球監督。東京巨人軍初代監督。
矢田 一男(やだ かずお、1904年12月19日 - 196… 矢田 一男(やだ かずお、1904年12月19日 - 1966年4月23日)は、日本の法制史学者。新潟県佐渡郡金井町出身。 1921年高輪中学校卒。1924年中央大学法学部予科卒。1927年同法学部卒。中央大学附属図書館職員をしながら、東京帝国大学法科大学助手となり春木一郎にローマ法の薫陶を受けた。1934年中央大学専門部法学科専任講師。1941年同法学部専任講師。1946年同法学部教授。同通信教育部長を経て、1962年「ローマ刑事法の研究」にて中央大学で法学博士受く。1966年中央大学在職中に肝臓がんで逝去。同名誉教授。 門下生に眞田芳憲らがいる。中央大学で急逝した矢田担当する西洋法制史の後任も奇しくも同郷の眞田芳憲が担当した。
小野 晃嗣(おの こうじ、1904年12月18日 - 194… 小野 晃嗣(おの こうじ、1904年12月18日 - 1942年3月24日)は、日本の歴史家。旧名は小野均。 岡山県岡山市生まれ。1925年第六高等学校、1928年東京帝国大学文学部国史学科をそれぞれ卒業。卒業論文は「近世城下町の研究」。同年から東京帝国大学史科編纂所に勤務、1937年史料編纂官となる。主に『読史備要』の作成、『大日本史料』の編纂を担当。近世都市と中世商業の研究を進めた。
小泉 清明(こいずみ きよあき、1904年12月17日 - … 小泉 清明(こいずみ きよあき、1904年12月17日 - 1977年10月26日)は、日本の生物学者。理学博士(1935年)。信州大学教授などを歴任。 長野県上田市生まれ。旧制上田中学(長野県上田高等学校)を経て、1928年京都帝国大学農学部農林生物学科卒業。翌年、母校講師。理学博士(1935年)。 1930年台北帝国大学助教授、1944年熱帯医学研究所所長、1949年岐阜師範学校(学制改革により岐阜大学教育学部)教授、1958年信州大学教授、1960年同繊維学部長などを歴任し、1969年定年退官。 日本生態学会環境問題専門委員会委員長、長野県水質審議会委員、日本学術会議自然保護研究連絡委員会委員なども務める。
龍岡 晋(たつおか しん、1904年12月16日 - 198… 龍岡 晋(たつおか しん、1904年12月16日 - 1983年10月15日)は、日本の俳優、演出家、俳人、文学座代表取締役社長であった。別表記に竜岡 晋。本名は岩岡 龍治(いわおか たつじ、別表記に岩岡 竜治)。元日本新劇製作者協会会長。 1904年東京・日本橋生まれ、中央商業学校卒業。 1932年に劇団築地座に入団。『カールトアンナ』の兵士役が初舞台。1934年6月、築地座を脱退し劇団創作座の創設に参加。1937年、文学座の創設に参加し、1950年に文学座が株式会社化した際に社長となり、劇団の経営も行った。また、久保田万太郎作品を発掘して『蛍』『雨空』などの久保田の戯曲を演出したり、1978年に演劇集団「円」を中心とした久保田万太郎勉強会を結成するなど久保田作品の継承も行った。
横沢 三郎(よこざわ さぶろう、1904年12月16日 - … 横沢 三郎(よこざわ さぶろう、1904年12月16日 - 1995年11月28日)は、プロ野球選手・監督。後年には国民野球連盟理事長を経て、パシフィック・リーグの審判部長を務めた。妻は元宝塚歌劇団の花野春子。 東京セネタースでプレーした横沢四郎・七郎は実弟(七郎は戦後セネタースでもプレーした)。 1904年12月16日に当時日本の領土であった台湾で生まれ、東京府東京市(現:東京都特別区)で育つ。旧制荏原中学校時代は遊撃手、旧制明治大学時代は二塁手。大学卒業後、社会人クラブチーム・東京倶楽部の内野手としてプレーし、都市対抗野球4度の優勝に貢献。 1936年にプロ野球球団の東京セネタースが設立されると初代の監督として招聘され、1937年秋季リーグ戦では選手としても1試合に出場したが、同年秋季途中で監督を辞任。
小笠 公韶(おがさ こうしょう、1904年12月16日 - … 小笠 公韶(おがさ こうしょう、1904年12月16日 - 1985年9月13日)は、参議院議員(1期)。衆議院議員(5期)。岸派。
田中 尭平(堯平、たなか ぎょうへい、1904年(明治37年… 田中 尭平(堯平、たなか ぎょうへい、1904年(明治37年)12月15日 – 1963年(昭和38年)11月2日)は、昭和期の弁護士、政治家。衆議院議員。 山口県豊浦郡、のちの豊田町(現下関市豊浦町)で生まれる。豊浦中学校(現山口県立豊浦高等学校)、山口高等学校を卒業。山高在学中から社会主義の研究を始め、東京帝国大学に進学してから実際の活動に加わった。1932年(昭和7年)東京帝大法学部政治学科を卒業。山口市で弁護士を開業した。 1945年(昭和20年)日本共産党に入党し、労働組合の法律顧問を務めた。1947年(昭和22年)4月、第23回衆議院議員総選挙に山口県第2区から共産党公認で出馬して落選。
杉野 嘉男(すぎの よしお、1904年12月12日 - 19… 杉野 嘉男(すぎの よしお、1904年12月12日 - 1998年6月13日)は、日本の武術家、武道家。映画の振付師でもあった。古武道の一派、天真正伝香取神道流の免許皆伝者。神奈川県川崎市にある「唯心館 杉野道場」の創立者、およびその初代師範。 1904年12月12日(明治37年)、千葉県山武郡成東町に杉野由太郎と杉野セキの長男として生まれる。 13歳から柔道を始め、1918年(大正7年)に入学した慶應義塾大学商工学部で飯塚国三郎の指導を受け、本格的に柔道に熱中する。17歳で初段を取り、本人の談では「四段になるまで一度も負けたことがなかった」とのことである。 1927年(昭和2年)22歳で講道館柔道修行所を神奈川県川崎市に開設した。
鹿野 彦吉(かの ひこきち、1904年(明治37年)12月1… 鹿野 彦吉(かの ひこきち、1904年(明治37年)12月11日 - 1978年(昭和53年)2月18日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員(5期)。 民主党衆議院議員で農林水産大臣などを務めた鹿野道彦の父。 山形県出身。1931年(昭和6年)京都帝国大学法学部法律学科を卒業。京城化学支配人、関西ペイント東京支店長、東京特殊塗料監査役、関西ペイント取締役、徳山曹達(現トクヤマ)取締役、山形天然瓦斯取締役、蔵王高原観光開発取締役社長などを務めた。 1949年(昭和24年)の総選挙で山形1区から出馬し、初当選。以来通算5期務めた。第1次岸改造内閣経済企画政務次官、国土開発審議会委員、自由党総務、自民党国会対策副委員長、衆院公職選挙法改正に関する調査特別委員長等を務めた。
加藤 久幹(かとう ひさもと / ひさとし、1904年(明治… 加藤 久幹(かとう ひさもと / ひさとし、1904年(明治37年)12月8日 - 1976年(昭和51年)11月21日)は、日本の洋画家、華族。光風会会員。旧名・島津 久幹。 鹿児島県出身。重富島津家(薩摩島津氏の主要分家)の男爵・島津壮之助の二男として生まれる。旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現:鹿児島県立甲南高等学校)で大牟礼南島に、東京美術学校(現:東京芸術大学)西洋画科で藤島武二に師事。1928年に東京美術学校を卒業。加藤子爵家(元近江水口藩主家、加藤嘉明系)の加藤克明の婿養子となる。 1957年、光風会会員となる。橋口康雄(橋口五葉の甥)や山口長男の上杜会に加わったことや、猪熊弦一郎と三春会をつくったこともある。
坂根 田鶴子(さかね たづこ、1904年12月7日 - 19… 坂根 田鶴子(さかね たづこ、1904年12月7日 - 1975年9月2日)は、日本の映画監督、映画製作者。溝口健二の下でキャリアを積み、1936年に『初姿』を監督して、日本最初の女性映画監督となった。 1904年(明治37年)12月7日、京都市上京区で縮緬織りの織元だった父・坂根清一と母・志げの間に6人兄弟の長女として生まれる。母の生家佐久間家は丹後の旧家であったが、跡取りがいなかったため、田鶴子は2歳で佐久間家の当主として登録され、佐久間田鶴子となる。しかし、田鶴子は生涯父方の苗字「坂根」を使い続けた。 夫妻の6人の子供たちのうち、長生きしたのは長男の鋭郎と長女の田鶴子の2人だけであった。父が発明で財をなしたため家は裕福で、田鶴子は今出川幼稚園から中立売小学校、京都府立京都第一高等女学校(現在の京都府立鴨沂高等学校)へ進んだ。
尾島 碩心(おじま せきしん、1904年12月4日 - 19… 尾島 碩心(おじま せきしん、1904年12月4日 - 1986年1月19日)は日本の心理学者、東京教育大学教授。専門は聴覚心理、ろう教育。1963年11月に榊原清、西谷三四郎らとともに一般社団法人日本特殊教育学会を創立した。聴覚障害児教育の分野に貢献した。勲三等旭日中綬章。 東京都生まれ。(旧制)東京高等学校を卒業。1931年東京帝国大学文学部心理学科を卒業、卒業論文の題名は「旋律的形態知覚の一条件」。同年、同大学大学院に進む。1932年東京帝国大学文学部副手を兼務。1937年(旧制)第六高等学校教授に就任。1942年陸軍予科士官学校教官兼教育総監部付に就任。1946年(旧制)松江高等学校教授に就任。
上田 仁(うえだ まさし、1904年12月4日 - 1966… 上田 仁(うえだ まさし、1904年12月4日 - 1966年12月26日)は、日本の指揮者・ファゴット奏者。
曽根 定丸(そね さだまる、1904年12月4日 - 没年不… 曽根 定丸(そね さだまる、1904年12月4日 - 没年不詳)は愛媛県出身の民間飛行家。1925年、愛媛県下初の認可飛行場を開設し、後に南米ペルーへ移民として渡った。 1904年(明治37年)12月4日、愛媛県喜多郡宇和川村で生まれる。1922年(大正11年)には東京蒲田駅前にある日本自動車学校航空科へ入学し、機体及び発動機に関して学ぶと同年卒業。続いて同年12月に千葉市寒川海岸で飛行練習場を開いていた白戸栄之助の門下となり、練習部及び研究科で研鑚を積む。1923年(大正12年)9月、関東大震災の影響で同所が閉鎖となると、定丸は白戸により同県津田沼の伊藤音次郎に委託された。同年11月に三等飛行機操縦士の試験を受け、12月付けで航空局より免状を得る。
米山 恒治(よねやま つねはる、1904年(明治37年)12… 米山 恒治(よねやま つねはる、1904年(明治37年)12月3日 - 1966年(昭和41年)6月5日)は、昭和期の公吏、政治家、実業家。衆議院議員、鹿児島県議会議長。 鹿児島県鹿児島郡伊敷村(現在の鹿児島市)で生まれる。13歳で父が死去して学校を中退。鹿児島県庁の給仕となり、苦学して1921年(大正10年)鹿児島実業学校(現鹿児島実業高等学校)商業本科を卒業した。 1940年(昭和15年)鹿児島県属に任官。1942年(昭和17年)地方事務官に任官。以後、鹿児島県経済部商工課長、同軍需商工課長を歴任。1944年(昭和19年)9月、岩切重雄鹿児島市長の要請をうけて鹿児島市助役となり1947年(昭和22年)3月まで在任した。
都留 勝利(つる かつとし、1904年12月3日 - 197… 都留 勝利(つる かつとし、1904年12月3日 - 1976年2月15日)は、日本の経営者。大分県宇佐市出身。 1930年に京都帝国大学法学部を卒業し、同年に東京ガスに入社。関東タール製品社長、東京コークス社長を経て、1954年2月に取締役に就任し、1967年11月に副社長を経て、1972年8月に社長に就任。日本経営者団体連盟常任理事も務めた。 1962年10月に藍綬褒章を受章。 1976年2月15日脳血栓のために死去。71歳没。墓所は多磨霊園。
赤城 宗徳(赤城 宗德、あかぎ むねのり、1904年〈明治3… 赤城 宗徳(赤城 宗德、あかぎ むねのり、1904年〈明治37年〉12月2日 - 1993年〈平成5年〉11月11日)は、日本の政治家、教育者、剣道範士。位階は正三位、勲等は勲一等。 農林大臣(第25・32-34・42代)、防衛庁長官(第11代)、内閣官房長官(第19代)、衆議院議員(15期)、茨城県会議員、茨城県上野村長、自由民主党政務調査会長(第13代)、同総務会長(第8代)、同副幹事長、同茨城県支部連合会会長などを歴任。 弟はNHK専務理事を務めた赤城正武、孫は農林水産大臣や衆議院議員を務めた赤城徳彦。 茨城県真壁郡上野村(後の明野町、現在は筑西市)の代々名主を務めた家に生まれる。若くして父康助を失い、母むめ(浜名信平長女)と祖父喜八郎に育てられる。
石丸 雄吉(いしまる ゆうきち、1904年(明治37年)12… 石丸 雄吉(いしまる ゆうきち、1904年(明治37年)12月2日 - 1997年(平成9年)11月26日)は、日本の気象学者である。 福岡県の生まれ。気象技術官養成所(現在の気象大学校)の第一期生として入学し、1925年(大正14年)に卒業後は千葉県館山市に所在する布良測候所に勤務する。その後は雲量等の雲の観測に携わりその成果が当時画期的だったことで、1931年(昭和6年)日本気象学会賞を受賞した。 中央気象台(現在の気象庁)の羽田空港出張所の所長を務め、空港周辺の航空気象の観測にも携わった。第二次世界大戦後は故郷である福岡管区気象台の技術部長を務め、退官後は生活暦の刊行を手掛けた。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
山本 忠雄(やまもと ただお、1904年12月1日 - 19… 山本 忠雄(やまもと ただお、1904年12月1日 - 1991年7月28日)は、日本の英語学者。 大阪府出身。1928年東京帝国大学英語英文科卒。広島高等師範学校教授、広島文理科大学(のち広島大学)教授。1946年「Growth and system of the language of Dickens : an introduction to a Dickens lexicon」で東大文学博士、同論文で1953年日本学士院賞受賞。神戸大学教授、1968年定年退任、大谷女子大学教授。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
赤路 友蔵(友藏、あかじ ともぞう、1904年(明治37年)… 赤路 友蔵(友藏、あかじ ともぞう、1904年(明治37年)12月1日 - 1987年(昭和62年)9月16日)は、昭和期の農民運動家、実業家、政治家。衆議院議員(6期)。 鹿児島県鹿児島市で生まれる。1925年(大正14年)大阪市民労働学院を卒業した。 実業界では、鹿児島鉄工常務取締役、高千穂電機工場長、汎東亜工業常務取締役などを務めた。戦後、鹿児島県専門委員、同県農地委員、同県地方労働委員を歴任した。 1947年(昭和22年)8月の第1回参議院議員通常選挙補欠選挙に鹿児島県地方区から日本社会党公認で立候補して落選し、1949年(昭和24年)1月、第24回衆議院議員総選挙に鹿児島県第3区から立候補したが落選した。
小川 太郎(おがわ たろう、1904年(明治37年)12月 … 小川 太郎(おがわ たろう、1904年(明治37年)12月 - 1986年(昭和61年))は、日本の刑務官、行刑学者。 茨城県竜ケ崎生まれ。旧制静岡高等学校卒、1929年東京帝国大学経済学部卒、1931年京都府警部補、1932年司法省看守長、1936年府中刑務所典獄補、1938年滋賀刑務所長、1940年司法事務官、1942年司法書記官、1948年法務庁成人矯正保護局長、1949年関東地方成人矯正保護委員会委員長、1954年関東医療少年院長、1958年法務総合研究所第二部長、1958年アジア極東犯罪防止研修所次長、1965年「保護観察を基点とした保安処分」で東大法学博士。19966年亜細亜大学法学部教授、1970-75年法学部長、1975年学校法人亜細亜学園理事、1982年亜細亜大を定年退任。
林 芙美子(はやし ふみこ、1903年〈明治36年〉12月3… 林 芙美子(はやし ふみこ、1903年〈明治36年〉12月31日 - 1951年〈昭和26年〉6月28日)は、日本の小説家。本名フミコ。身長140cm少々。 幼少期からの不遇の半生を綴った自伝的小説『放浪記』(1928年)で一躍人気作家となる。詩情豊かな文体で、暗い現実をリアルに描写する作風。一貫して庶民の生活を共感をこめて描き、流行作家として明治・大正・昭和を駆け抜けた。作品に『風琴と魚の町』(1931年)、『晩菊』(1948年)、『浮雲』(1951年)などがある。 著書『放浪記1 林芙美子文庫』の後書きでは山口県下関市生まれとなっている。尾道市立高等女学校(現・広島県立尾道東高等学校)卒。私生児として生まれ、養父・実母と共に行商を営みながら日本の各地を放浪する生活の中で、露天商やカフェの女給等の様々な職業を経験している。
清滝 幸次郎(清瀧 幸次郎、きよたき こうじろう、1903年… 清滝 幸次郎(清瀧 幸次郎、きよたき こうじろう、1903年〈明治36年〉12月31日 - 1984年〈昭和59年〉3月14日)は、日本の政治家(池田市議)、実業家。池田銀行頭取。南海毛糸紡績、宝塚ホテル、能勢電気各取締役。池田商工会議所会頭。位階は従五位。元・池田銀行頭取清滝一也は養子。プリンストン大学教授清滝信宏は孫。 大阪府池田市出身。清瀧辰吉の六男。伯父徳兵衛の養子となり1930年、家督を相続。1928年、京都帝国大学経済学部を卒業した。 1930年7月、池田実業銀行取締役に選ばれ同年9月1日頭取に就任した。1951年、池田銀行頭取に就任した。1974年春の叙勲で勲四等旭日小綬章を受章。
天知 俊一(あまち しゅんいち、1903年12月30日 - … 天知 俊一(あまち しゅんいち、1903年12月30日 - 1976年3月12日)は、兵庫県西宮市出身の元野球選手(捕手)・コーチ・監督、解説者・評論家。 旧制甲陽中学校2年時に攻玉社中学校へ転校した後、明治大学予科へ進学するが、当時の中学校3年修了では資格が無いとして下野中学校へ再入学させられる。下野中で中学校4年修了となり、晴れて明治大学予科進学の資格を得られ、再度進学する。天知の学生生活は波乱に富んだものであったが、明大時代は捕手で、後に毎日オリオンズで監督を務める湯浅禎夫とバッテリーを組んだ。また、大学野球の審判を充実させる必要性を感じていた一学年先輩の二出川延明から野球のルールについての難問が毎朝10問、「宿題」として天知に出され、練習開始時間までに全問解く訓練を受けた。
町田 増夫(まちだ ますお、1903年〈明治36年〉12月2… 町田 増夫(まちだ ますお、1903年〈明治36年〉12月26日 - 1994年〈平成6年〉3月7日)は、昭和期の教育者、農業技師、政治家。長野県小諸市長。位階は従五位。 長野県更級郡八幡村(現千曲市)で、町田新治郎、しげ の長男として生まれた。更級農学校(現長野県更級農業高等学校)を経て、旧制岐阜高等農林学校農芸化学科卒業。昭和2年(1927年)埴科郡埴南農蚕学校(現長野県坂城高等学校)教諭となり、飯山高等女学校(のち長野県飯山南高等学校)教諭、旧制飯山中学校(のち長野県飯山北高等学校)教諭、旧制伊那高等女学校(現長野県伊那弥生ヶ丘高等学校)教諭を歴任。 1935年(昭和10年)以後、長野県農林技師、高知県農林技師、新潟県農林技師を務め、1944年(昭和19年)軍需省管理官に転じ、1949年(昭和24年)通商産業省長野事務所長に就任。
田中 和夫(たなか かずお、1903年12月26日 - 19… 田中 和夫(たなか かずお、1903年12月26日 - 1998年8月3日)は、日本の法学者。専門は英米法、民事訴訟法。一橋大学名誉教授、九州大学名誉教授、獨協大学名誉教授。和歌山県伊都郡山田村(現橋本市)出身。長男は英米法学者の田中英夫。田中ゼミ出身者には池田光晴(元創価大学教授)、魚谷増男(元愛媛県警察本部長)などがいる。高柳賢三門下。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
中川 幸一(なかがわ ゆきかず、1903年12月25日 - … 中川 幸一(なかがわ ゆきかず、1903年12月25日 - 2005年1月12日)は、日本の実業家。 高知県出身。1928年に東京帝国大学工学部を卒業し、同年に湘南電気鉄道(のちの京浜急行電鉄)に入社。取締役、専務、副社長を経て、1969年11月から1975年5月までに社長を務め、1975年5月から1981年6月までに会長を務めた。 1968年11月に藍綬褒章を受章し、1974年11月に勲二等瑞宝章を受章した。 2005年1月12日、急性心不全のために死去。101歳没。
神田 博(かんだ ひろし、1903年12月25日 – 197… 神田 博(かんだ ひろし、1903年12月25日 – 1977年6月30日)は、日本の政治家。位階は正三位。厚生大臣(第28、29、40、41代)、衆議院議員(8期)、参議院議員(1期)。 現在の新潟県東蒲原郡阿賀町に生まれる。1928年法政大学専門部法律科を卒業した後内務省に入る。同省地方局から静岡県属となり、水産、人事、秘書、商工の各課長を務める。その後、理研軽金属工業静岡工場長を経て、1946年の第22回衆議院議員総選挙に日本自由党から静岡全県区から立候補し当選を果たす。翌年の第23回衆議院議員総選挙からは旧静岡1区に移り、通算当選8回。村上勇とともに、大野伴睦の最も早い時期からの側近であった。
湯川 正夫(ゆかわ まさお、1903年12月24日 - 19… 湯川 正夫(ゆかわ まさお、1903年12月24日 - 1969年10月5日)は、昭和時代の製鉄技術者で、後に八幡製鐵副社長を務めた。また、日本ラグビーフットボール協会(以下、日本ラグビー協会)第4代会長も歴任した。
宮崎 吉夫(みやざき よしお、旧姓:伊藤〈いとう〉、1903… 宮崎 吉夫(みやざき よしお、旧姓:伊藤〈いとう〉、1903年〈明治36年〉12月23日 - 1956年〈昭和31年〉10月24日)は、日本の病理学者、医師。医学博士。東京高等歯科医学校病理学教室初代教授、東京大学伝染病研究所病理学研究部長。 新潟県中蒲原郡横越村大字沢海(現 新潟市江南区沢海)の豪農・六代目伊藤文吉の五男として出生。 1920年(大正9年)3月に新潟中学校を4年で修了(四修)、1923年(大正12年)3月に第二高等学校を卒業、1927年(昭和2年)3月に東京帝国大学医学部医学科を卒業。 1927年(昭和2年)4月に東京帝国大学医学部病理学教室(担任:緒方知三郎教授)副手に就任、1932年(昭和7年)12月に東京高等歯科医学校病理学教室講師に就任、1933年(昭和8年)3月に東京高等歯科医学校病理学教室初代教授に就任、1935年(昭和10年)7月に東京帝国大学から医学博士号を取得、1944年(昭和19年)4月に東京医学歯学専門学校病理学教室教授に就任、1948年(昭和23年)7月に東京大学伝染病研究所病理学研究部部長・教授に就任、東京医科歯科大学歯学部病理学教室講師を兼任、1951年(昭和26年)2月に東京医科歯科大学歯学部病理学教室教授に就任、東京大学伝染病研究所病理学研究部部長・教授を兼任、1956年(昭和31年)6月に東京大学伝染病研究所所長事務代理に就任、東京大学伝染病研究所病理学研究部部長・教授と東京医科歯科大学歯学部病理学教室教授を兼任。
今村嘉雄(いまむら よしお、1903年12月20日 - 19… 今村嘉雄(いまむら よしお、1903年12月20日 - 1997年11月19日)は、日本の体育史・剣術研究家。 高知県出身。号は雨嶽、抱川。1932年東京文理科大学教育学科卒、1961年「十九世紀における日本体育の研究」で東京教育大学文学博士。1942年東京高等師範学校教授、1949年東京教育大学教授、のち体育学部長、63年名誉教授。専修大学教授、日本体育指導者連盟理事長、日本武道学会会長、日本学校体育研究連合会会長などを務めた。この間、東京体育専門学校長を兼任。1974年勲三等旭日中綬章受勲。 柳生家の剣術についても研究した。
佐野 一彦(さの かずひこ、1903年12月19日 - 19… 佐野 一彦(さの かずひこ、1903年12月19日 - 1997年1月10日)は、日本の哲学者、民俗学者。旧制神戸商業大学(現神戸大学)元教授、愛知県立芸術大学元教授。ドイツ学士院フンボルト賞受賞。
陶山 節子(すやま せつこ、旧姓:吉川、1903年12月18… 陶山 節子(すやま せつこ、旧姓:吉川、1903年12月18日 - 2000年8月8日)は日本の宣教師の通訳者、伝道者、福音派の指導者の一人。 1903年(明治36年)に横浜市に6人兄弟の第4子として生まれる。小学校を卒業すると、米国美普教会(メソジスト・プロテスタント教会)本部によって設立された横浜英和女学校(現:青山学院横浜英和中学校・高等学校)に入学し、在学中に第8代目校長のオリヴ・ハジスの薫陶を受け、キリスト教に初めて触れる。 1920年頃、女学校の5年生の時に第三美普教会(日之出町教会、現在の日本基督教団蒔田教会)で洗礼を受ける。 1922年(大正11年)に横浜英和女学校を卒業し、東京女子大学に入学する。
川崎 堅雄(川﨑、かわさき けんお、1903年12月18日 … 川崎 堅雄(川﨑、かわさき けんお、1903年12月18日 - 1994年5月19日)は、昭和時代の労働運動家。全労会議・同盟副書記長。 高知県吾川郡諸木村(現高知市)生まれ。1922年私立高知工業学校機械科を4年で中退。兵役を経て、1927年4月東京電燈(現・東京電力)に入社。同時に日本大学専門部法科に入学。1928年1月関東電気労働組合に入会、労働農民党に入党。東京電力争議、目蒲電鉄争議、東京電灯争議などに参加。同年8月に当局がでっち上げた「帝都暗黒陰謀事件」で東京電燈を懲戒解雇。1929年高知県下の王子製紙争議を指導後、地下活動に入る。同年7月日本共産党に入党、全協常任委員・共産党全協フラクション責任者。
渡邊進(渡辺進、わたなべすすむ、1903年12月18日-19… 渡邊進(渡辺進、わたなべすすむ、1903年12月18日-1977年9月12日)は、日本の会計学者である。神戸大学名誉教授。日経・経済図書文化賞、産業教育80年記念教育功績者受賞。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
高野 信(たかの まこと、1903年(明治36年)12月17… 高野 信(たかの まこと、1903年(明治36年)12月17日 - 1982年(昭和57年)1月9日)は、日本のジャーナリスト、実業家。九州朝日放送(KBC)、日本教育テレビ(NET、現:テレビ朝日)社長を務めた。 福島県いわき市出身。1929年(昭和4年)東京帝国大学を卒業後、朝日新聞社に入社する。 東京本社編集局長、西部本社代表、国策パルプ代表などを歴任し、1967年1月から1973年5月までに九州朝日放送社長を務め、1973年5月から1974年11月までに同社会長を務めた。 1974年(昭和49年)11月、NET社長に転じ、同じ朝日出身の副社長、中川英造と相談し三浦甲子二を編成、制作担当役員に抜擢した。
玉井 操 (たまい みさお、1903年12月16日 - 19… 玉井 操 (たまい みさお、1903年12月16日 - 1978年12月23日)は、日本の実業家、サッカー選手。玉井商船社長 (2代目)、日本船主協会副会長、日本サッカー協会副会長などを歴任した。 兵庫県出身。玉井商船の創業者・玉井周吉の長男として生まれ、明治学院中等部在学中よりサッカーを始めた。1922年、第一早稲田高等学院に入学して早稲田大学ア式蹴球部に入部。1923年にはビルマ人留学生のチョウ・ディンよりサッカーの直接指導を受けた。1924年に早稲田大学政治経済学部に入学した後もア式蹴球部に在籍し、関東大学リーグ優勝などに貢献した。また、在学中の1927年8月に上海で開催された極東選手権競技大会のサッカー日本代表に選出され、中華民国代表戦で1得点を挙げた。
有光 次郎(ありみつ じろう、1903年12月15日 - 1… 有光 次郎(ありみつ じろう、1903年12月15日 - 1995年2月22日)は、日本の官僚(文部事務次官)・教育者。1974年勲一等瑞宝章受章。1989年名誉都民受賞。板垣退助先生顕彰会創立発起人兼顧問。 高知県生まれ。旧制高知県立第一中学校、旧制第三高等学校を経て、東京帝国大学法学部を卒業した。1927年、文部省に入省した。1932年に宗教局保存課長、1934年に専門学務局学務課長、1941年に大臣官房文書課長、1942年に大臣官房秘書課長兼大臣秘書官、1945年6月に科学局長、1945年9月に体育局長、1945年10月に教科書局長を経て1947年に文部事務次官に就任した。 教育基本法の制定、小学校6年、中学校3年の六・三制の実施などの戦後の教育改革に携わる。
十三代目 片岡 仁左衛門(かたおか にざえもん、1903年(… 十三代目 片岡 仁左衛門(かたおか にざえもん、1903年(明治36年)12月15日 - 1994年(平成6年)3月26日)は、日本の歌舞伎役者。屋号は松嶋屋、定紋は七ツ割丸に二引。日本芸術院会員、重要無形文化財保持者(人間国宝)。本名は片岡 千代之助(かたおか ちよのすけ)。 昭和後期の歌舞伎界を支えた立役の名優。最晩年は完全に盲目だったにもかかわらず、立役として舞台活動を続けた。 子に五代目片岡我當、日本舞踊家花柳寿々、二代目片岡秀太郎、十五代目片岡仁左衛門、新劇女優片岡静香らがいる。 温厚篤実な性格で屈折したところがなく、高貴な役どころがぴたりとはまった。由良助役者としても知られたが、七段目では、豪遊ぶりがいかにも自然で、卑屈な部分を見せることがなかった。
上地 マツ(うえち まつ、1903年12月11日 - 201… 上地 マツ(うえち まつ、1903年12月11日 - 2014年2月10日)は、ブラジルのスーパーセンテナリアン。 1903年12月11日、沖縄県名護市に生まれる。1922年にブラジルに移住した。1925年、上地寛吉と結婚。合計7人の子供がおり、そのうち2人はアルバレスマチャドとカタンドゥーヴァに住んでいたときの出産後に死去した。30年間農業に従事したのち寛吉は1952年に51歳で亡くなり、1961年にサンパウロに転居。 100歳の誕生日を迎えた際は、サンパウロ市議会と沖縄市長から、「存命中の最高齢の日系ブラジル人」として正式に認定された。 2014年2月10日、サンパウロで死去。110歳61日。
志賀 健次郎(しが けんじろう、1903年(明治36年)12… 志賀 健次郎(しが けんじろう、1903年(明治36年)12月10日 - 1994年(平成6年)9月28日)は、日本の政治家。位階は従三位、勲等は勲一等。 防衛庁長官(第15代)、衆議院議員(9期)を務めた。 岩手県東磐井郡大原町(のちの大東町、一関市)出身。岩手県立一関中学校を経て、1931年(昭和6年)早稲田大学政治経済学部政治学科卒。朝日新聞記者を経て、1941年大日本産業報国会参事、1942年に翼賛選挙に非推薦で立候補し敗れる[要出典]。1947年の総選挙で初当選(当選同期に田中角栄・鈴木善幸・中曽根康弘など)。保守合同後も有田喜一・荒木万寿夫・小島徹三らと芦田均派を維持するが、芦田の死後は三木武夫派に加入。
ジョー・オハラ(英語: Joe Ohara, 1903年12… ジョー・オハラ(英語: Joe Ohara, 1903年12月10日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名は仁平 久(にへい ひさし)。別表記ジョウ・オハラ、ジョー・オ・ハラ、ジョー 大原(ジョー おおはら)。別芸名大原 仁美(おおはら ひとみ)、大原 譲および大原 穣(おおはら じょう)。新派俳優西田敏夫と共に小松商会の専属俳優から始まり、新興キネマ東京撮影所、大映東京撮影所などで長く活躍した名脇役として知られる。 1903年(明治36年)12月20日、秋田県秋田市に生まれる。 旧制・秋田県立秋田中学校(現在の秋田県立秋田高等学校)を卒業し東京へ移転、旧制・専修商業学校(現在の専修大学)を卒業した後に映画会社小松商会に入社している。
正木 千冬(まさき ちふゆ、1903年(明治36年)12月1… 正木 千冬(まさき ちふゆ、1903年(明治36年)12月10日 - 1982年(昭和57年)4月6日)は、日本の経済学者、官僚、ジャーナリスト、政治家(鎌倉市長)。
大野 勝三(おおの かつぞう、1903年《明治36年》12月… 大野 勝三(おおの かつぞう、1903年《明治36年》12月10日 – 1990年《平成2年》11月26日)は、日本の逓信官僚。 岡山県玉野市宇藤木出身。旧制第六高等学校を経て、東京帝国大学法学部英法科卒業。初代郵政事務次官。在任期間は1949年6月1日~1954年2月1日。その後国際電信電話(現在のKDDIの前身の一)社長、エフエム東京社長。 三人兄弟の三男で、長兄は栄(さかえ)、次兄は哲生(てっせい)。次兄は岡山市議会議員を1回務めた。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
時岡 収次(ときおか しゅうじ、1903年12月10日 - … 時岡 収次(ときおか しゅうじ、1903年12月10日 - 1987年10月18日)は、日本の実業家、スポーツ指導者。 熊谷組創設者の一人で、代表取締役を務めた。また、スポーツでは熊谷組野球部の部長や監督も務めていた。 福井県大飯郡本郷村(現・おおい町)で生まれる。船員を志して福井県立小浜水産学校に進学し、1921年3月に卒業後は早稲田大学に進む。大学時代は相撲部に所属した。 1928年3月に早稲田大学専門部政治経済学科を卒業して、飛鳥組(現・飛島建設)に入社した。この就職は、早稲田大学進学前に、建設中だった小浜線の工事のために飛島組の関係者が自宅を宿舎としており、その影響を受けたとされる。 大同電力寝覚発電所建設工事の時は現地に常駐した。
和田 富士一(わだ ふじいち、1903年〈明治36年〉12月… 和田 富士一(わだ ふじいち、1903年〈明治36年〉12月10日 - 1971年 <昭和46年> 5月29日)は、日本の実業家。共和水産社長。境港商工会議所副会頭。境港水産振興協会長。位階は正六位。 香川県大川郡津田町(現・さぬき市)出身。1920年、日本水産に入り朝鮮に勤務。1937年、朝鮮日水を設立、取締役。1940年、朝鮮慶北迎日郡九龍浦学校組合議員。 1941年、九龍浦漁業組合特別議員。1942年、九龍浦邑初代邑会議員。1945年、引き揚げる。1947年、朝鮮日水を共和水産に改称、常務。1952年、社長に就任、同年に境町商業会議所議員、同年に鳥取県西部海区漁業調整委員会長。1953年、鳥取県巾着組合副組合長。
12代 桜井 三郎右衛門(さくらい さぶろうえもん、明治36… 12代 桜井 三郎右衛門(さくらい さぶろうえもん、明治36年(1903年)12月9日 - 平成3年(1991年)3月24日)は、日本の実業家、政治家。旧姓は大村、幼名は泰吉。桜井家第12代当主。 実父は実業家大村貞蔵、実兄は実業家大村義雄。 島根県簸川郡大社町(現出雲市)大村家に生まれ、大社中学を卒業して桜井家の養子となった。 島根県信用農協連、中央農協連、同信連各会長、県農業会議員、仁多郡町村会長、同畜産、同農業雲南漁業各組合長、仁多町長、島根県日産販売(株)、山陰酸素工業(株)各社長等を歴任。
宇佐美 毅(うさみ たけし、1903年(明治36年)12月9… 宇佐美 毅(うさみ たけし、1903年(明治36年)12月9日 - 1991年(平成3年)1月19日)は、日本の官僚。第2代宮内庁長官。従二位勲一等旭日大綬章。
宇佐美 毅(うさみ たけし、1903年〈明治36年〉12月9… 宇佐美 毅(うさみ たけし、1903年〈明治36年〉12月9日 - 1991年〈平成3年〉1月19日)は、日本の官僚。第2代宮内庁次長、第2代宮内庁長官。従二位勲一等旭日大綬章。クエーカー教徒。宮内庁長官在任中、天皇の政治利用については「政治不関与原則に反するもの」として断じて反対する姿勢を貫いた。 東京生まれ。京城中学校、麻布中学校、弘前高等学校卒業。弘前高校への進学は、山形県米沢出身の父から『郷里に近い弘前へ行って校風を作れ』と命じられたことによるもので、同校第1回生である。東京帝国大学文学部に進学したが、面白くないと感じ、法学部に転じる。 高等文官試験行政科試験合格後、1928年、内務省に入省。