木村 昌福(きむら まさとみ、1891年〈明治24年〉12月… 木村 昌福(きむら まさとみ、1891年〈明治24年〉12月6日 - 1960年〈昭和35年〉2月14日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。静岡県生まれ。 現場叩き上げの指揮官として太平洋戦争の海上戦闘で数々の武勲を立てたが、特に「奇跡の作戦」といわれた『キスカ島撤退作戦』を指揮し、5千名あまりの日本将兵の無血撤退を成功させた事績で名高い。 静岡県静岡市紺屋町で代言人(現在の弁護士に相当)の父・近藤壮吉と母・すずの次男として生まれる。生後すぐに木村家(母の実家、元鳥取藩士)の養子となり、木村家の籍に入ったが(このため本籍は鳥取県鳥取市)、引き続き静岡の近藤家で養育された。 父の壮吉は立憲改進党の党員で政治好きであり、1910年(明治43年)に選挙に失敗して財産を失い、各地を流浪して1916年(大正5年)に下関で客死した。
相川 勝六(あいかわ かつろく、1891年(明治24年)12… 相川 勝六(あいかわ かつろく、1891年(明治24年)12月6日 - 1973年(昭和48年)10月3日)は、日本の内務及び厚生官僚、政治家、弁護士。宮崎・広島・愛知・愛媛各県官選知事。大政翼賛会実践局長、小磯内閣厚生大臣(第10代)、衆議院議員(8期)。 佐賀県藤津郡嬉野村(現嬉野市)出身。農業・相川定蔵の二男として生まれた。1911年、佐賀県立鹿島中学校卒業。1912年、第二高等学校入学。1915年、第二高等学校卒業。1919年7月、東京帝国大学法学部法律学科(独)卒業。 同年、内務省入省。千葉県属1926年、徳島県労務課長から警視庁刑事部長に就任。神奈川県警察部長などを歴任。1934年、内務省警保局保安課長となり第二次大本教弾圧などを指導。
奥中喜代一(おくなか きよいち、1891年(明治24年)12… 奥中喜代一(おくなか きよいち、1891年(明治24年)12月6日 - 1986年(昭和61年)4月5日)は、日本の都市計画家。 大阪府泉北郡西百舌村生まれ、1916(大正5)年、東京帝国大学工学部土木工学科を卒業し、南満州鉄道勤務の後、1920(大正9)年に神戸市に土木技師として奉職したが、神戸市に勤務を始めた頃は大正8年の旧都市計画法の制定に伴って大正11年に初めて神戸市の都市計画区域が決定された他にこの頃から都市計画予算が初めて単独で計上され、神戸市の組織として都市計画部が新たに設けられる等、神戸市の都市計画の始まりであった。 神戸市では都市計画部調査課長、工務課長、土木部都市計画課長、山地課長等を歴任、神戸市理事を最後に昭和18年に退職したが、退職した1943(昭和18)年頃は戦時体制への移行が進み、都市計画の基本的な役割を果たす地域制度が停止される等、町づくりを目的とした本来の都市計画は事実上終わった時期、奥中の神戸市での在職期間は戦前の神戸市の都市計画の蒙明から終需迄の歴史そのもので、その間24年に亘って神戸市の都市計画や土木行政に大きな役割を果たし、現在の神戸の町の骨格形成と都市計画の基礎をつくり、また、都市計画課長時代の大正12年から一年有余外遊し諸外国の都市計画に関する資料の収集と知識の吸収に努め、神戸の都市計画に大きな影響を与えたという。
早坂 一郎(はやさか いちろう、1891年〈明治24年〉12… 早坂 一郎(はやさか いちろう、1891年〈明治24年〉12月6日 - 1977年〈昭和52年〉8月19日)は、日本の古生物学者・地質学者。島根大学学長、日本地質学会会長、日本学術会議会員。 宮城県仙台市に生まれる。東北帝国大学理科大学地質学教室の第一期生で、1915年に卒業、同大学講師となる。1918年に理学博士、助教授。1928年、新設の台北帝国大学理農学部教授に就任する。1940年、同大学理農学部部長に就任。戦後は金沢大学教授、北海道大学教授を経て、1958年島根大学学長に就任。 古生代の化石の研究で知られ、朝鮮、中国、台湾等の第3系化石を調査。1952年から1953年に日本地質学会会長を務めた。 1926年に『地学雑誌』444号に発表した論文「岩手県花巻町産化石胡桃について」には、「化石収集に便宜を与えて下さった」という謝辞の対象として「花巻の宮澤賢治氏」という記述がある。
広津 和郎(廣津 和郎、ひろつ かずお、1891年(明治24… 広津 和郎(廣津 和郎、ひろつ かずお、1891年(明治24年)12月5日 - 1968年(昭和43年)9月21日)は、日本の小説家、文芸評論家、翻訳家である。明治期に活動した硯友社の小説家・広津柳浪の子。
10代 佐藤 喜八郎(さとう きはちろう、1891年(明治2… 10代 佐藤 喜八郎(さとう きはちろう、1891年(明治24年)12月5日 - 1969年(昭和44年)2月28日)は、日本の洋画家、実業家、政治家。衆議院議員、佐藤喜八郎家10代当主、幼名・恭次郎。 島根県松江市で9代・佐藤喜八郎の長男として生まれる。1920年、東京美術学校西洋画科を卒業。1923年、絵画研究のため英米仏に留学。一年後に帰国し、家督を継承し喜八郎を襲名した。 1927年以降、片倉製糸監査役、勝浦川電力社長、大連株式取引所理事などを務めた。また、父が創立した克堂会の会長、立憲民政党島根支部長、折づる幼稚園主なども務めた。 1930年2月、第17回衆議院議員総選挙で島根県第二区から立憲民政党所属で出馬して当選し、衆議院議員を一期務め、その間、商工大臣秘書官となった。
荒川 伸也(あらかわ しんや、1891年(明治24年)12月… 荒川 伸也(あらかわ しんや、1891年(明治24年)12月4日 - 没年不明)は、日本の医師(内科医)、実業家、政治家。旭土地、耕地整理組合各顧問。愛知中央鉄道取締役。医学博士。名古屋市会議員。 愛知県人・荒川徳右衛門の三男。後に前名松次郎を改め、1922年に兄徳次郎方より分かれて一家を創立する。第八高等学校を経て1918年に東京帝国大学医科大学医学科を卒業し、杏雲堂医院に勤務し後に郷里に帰り医を開業する。傍ら会社の重役である。 名古屋市会議員、同市参事会員に選ばれる。趣味は観劇、謡曲、芝居。宗教は真宗大谷派。住所は愛知県名古屋市中区長良町、西日置町廻間口、中村区日置通。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
舟橋 清賢(ふなばし / ふなはし きよかた、1891年(明… 舟橋 清賢(ふなばし / ふなはし きよかた、1891年(明治24年)12月2日 - 1967年(昭和42年)11月26日)は、大正から昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。 子爵・舟橋遂賢の長男として生まれる。父の死去に伴い、1924年(大正13年)2月15日に子爵を襲爵した。 1917年(大正6年)7月、京都帝国大学法科大学法律学科を卒業。同年、日本銀行に入行した。 1925年(大正14年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され、研究会に所属して活動し、1946年(昭和21年)5月9日に辞職するまで三期在任した。その他、岡田内閣・司法参与官、米内内閣・文部政務次官、戦時金融金庫監事、司法制度調査委員会委員、育英制度創設準備協議会委員などを務めた。
岡 栄一郎(おか えいいちろう、1891年12月2日 - 1… 岡 栄一郎(おか えいいちろう、1891年12月2日 - 1966年12月18日)は、日本の劇作家、評論家。 金沢市上新町に生まれ、15歳のとき、大阪市に移住する。1912年(明治45年)第三高等学校を卒業し、東京帝国大学の英文科に入学する。徳田秋声と遠縁にあたり、栄一郎は上京後、秩声の家の裏の下宿に住んで、徳田家に親しく出入りした。また、大学在学中から夏目漱石の木曜会に参加して漱石に師事し、1915年(大正4年)、漱石が秋声に東京朝日新聞の長編(「奔流」)連載を依頼したときは、栄一郎が両者の間の取次役をつとめた。木曜会を通じて芥川龍之介や久米正雄との交友も始まり、1916年、漱石が死去したときは、芥川らとともに葬儀の受付を担当している 。
耕三寺 耕三(こうさんじ こうぞう、1891年〈明治24年〉… 耕三寺 耕三(こうさんじ こうぞう、1891年〈明治24年〉12月2日 - 1970年〈昭和45年〉10月25日)は、日本の実業家、発明家、僧侶。日本溶接界の先駆けとして数々の鉄工所を興し、後半生を耕三寺の建立に捧げた。広島県尾道市名誉市民。出生名、金本 福松(かねもと ふくまつ)。1935年に得度し金本 耕三(かねもと こうぞう)と改名、1956年には耕三寺 耕三と改姓。 耕三は1891年(明治24年)、金本福松として兵庫県神戸市に生まれた。 父親はもと鉄道建設業をしていたが、1893年(明治26年)に福岡県鞍手郡直方町(現・直方市)に鉄工所を起業する。このとき福松は直方には行かず、母の実家のあった瀬戸内海の生口島(現・尾道市瀬戸田町御寺)に移り住んだ。
筒井 茂也(つつい しげや、1891年(明治24年)12月1… 筒井 茂也(つつい しげや、1891年(明治24年)12月1日 - 没年不明)は、大正から昭和時代の公吏。東京市芝区長、浅草区長、京橋区長、神田区長。 筒井濱十郎の三男として長野県に生まれる。旧制松本中学(現・長野県松本深志高等学校)、旧制第三高等学校を経て、1917年(大正6年)に東京帝国大学法科大学を卒業し、住友銀行を経て、東京市に奉職する。同市主事、社会局職業課長、同庶務課長を経て、1935年(昭和10年)芝区長に就任。1937年(昭和12年)浅草区長に転じ、1939年(昭和14年)6月、京橋区長となった。1943年(昭和18年)7月、神田区長に就任した。 1944年(昭和19年)に退官。
古川 竹二(ふるかわ たけじ、1891年12月1日 - 19… 古川 竹二(ふるかわ たけじ、1891年12月1日 - 1940年2月12日)は、日本の教育学者・心理学者。東京女子高等師範学校教授。 長崎県出身。第五高等学校卒、1916年東京帝国大学文科大学教育学科卒。東京女子高等師範学校 (現お茶の水女子大学) 附属中学校教諭、東京女高師教授。49歳で死去。 1927年の「血液型による氣質の研究」(『心理學研究』) 以下一連の論文や著作で、血液型と性格の関係を本格的に論じた人として知られる。
大塚 武三郎(おおつか ぶさぶろう、1891年(明治24年)… 大塚 武三郎(おおつか ぶさぶろう、1891年(明治24年)12月1日 - 1970年(昭和45年)9月30日)は、日本の実業家。大塚グループの発祥企業である大塚製薬工業部(現:大塚製薬工場)の創業者。徳島県鳴門市出身。勲五等双光旭日章、従五位勲四等瑞宝章、藍綬褒章などを受賞。 1921年に29歳で徳島県鳴門市に大塚製薬工業部(現:大塚製薬工場)を創立した。 1947年に長男の大塚正士が社長を引き継ぎグループの総帥になる。 1970年9月30日、78歳で死去。 息子は大塚正士(長男)、大塚芳満(三男)、大塚公(四男)、大塚正富(五男)である。孫は大塚ホールディングス初代会長の大塚明彦と大塚化学元社長の大塚雄二郎である。
渡部 生一(わたなべ しょういち、1891年〈明治24年〉1… 渡部 生一(わたなべ しょういち、1891年〈明治24年〉12月 - 没年不明)は、昭和時代の実業家。政治家。小野田市会議長。 山口県出身。渡部秀之丞の長男。1910年(明治43年)家督を相続する。1917年(大正6年)東京帝国大学政治科を卒業後、三井物産に入り、1930年(昭和5年)小野田セメントに転じ、取締役兼営業部長となった。 その後、大阪通船運輸代表、小野田市会議長を歴任した。
星 光(ほし ひかる、明治24年(1891年)12月) - … 星 光(ほし ひかる、明治24年(1891年)12月) - 昭和38年(1963年)8月14日))は、日本の実業家。小田原急行鉄道監査役・鬼怒川水電理事[3]を務めた。
森下 重格(もりした しげのり、1891年〈明治24年〉12… 森下 重格(もりした しげのり、1891年〈明治24年〉12月 - 1956年〈昭和31年〉12月21日)は、日本の地方公務員、内務官僚、検察官。原爆投下時の広島市助役。 徳島県出身。1917年(大正6年)に法政大学専門部政治科を卒業し、1921年(大正10年)に東京外国語学校(現在の東京外国語大学)英語専修科を卒業した。大阪府泉南郡長、大阪府事務官、長崎県事務官、沖縄県書記官・経済部長、同総務部長、山口県経済部長を歴任した。1941年(昭和16年)に退官した後、横須賀市助役に就任。1943年(昭和18年)9月から広島市助役を務めた。 1945年(昭和20年)8月6日、広島市への原子爆弾投下では千田町の下宿2階で被爆。
陣内 利夫(じんのうち としお、1891年(明治24年)12… 陣内 利夫(じんのうち としお、1891年(明治24年)12月 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。 佐賀県神埼郡蓮池村(現在の佐賀市)出身。1921年(大正10年)に朝鮮に渡り、1923年(大正12年)に高等試験行政科に合格した。京畿道警視、理事官・江原道学務課長、慶尚南道学務課長、忠清北道地方課長、事務官・平安北道財務部長を経て、1931年(昭和6年)、馬山府尹に就任した。 その後、全州専売支局長、京城地方専売局長、咸鏡南道産業部長、張家口朝鮮総督府出張所長、朝鮮総督府鉄道局理事を歴任した。 退官後、華北煙草株式会社取締役を務めた。
松栄 俊三(まつばえ しゅんぞう、1890年12月31日 -… 松栄 俊三(まつばえ しゅんぞう、1890年12月31日 - 1983年1月28日 )は、日本の実業家、政治家。新潟県佐渡郡相川町長・新潟県議会議員・佐渡汽船社長、会長などを務めた。 新潟県佐渡郡金丸村金丸の舟崎家の出で、相川の素封家松栄家に婿入りした。1889年の相川町の長者番付では、秋田藤十郎・幅野長蔵に次いで養父の松栄治作が3位にランクされている。 1915年早稲田大学商学部を卒業、1918年から町会議員を5期20年務める。この間郡会議員に2回当選。また1923年9月と1935年9月に県議に、高位当選している。相川町長は、1926年8月から1927年7月までと、佐渡鉱山の縮小騒ぎが起きた1928年6月から約1年余、推されて難しい時期の町政を担った。
富士川 漻(ふじかわ きよし(富士川 きよし)、1890年1… 富士川 漻(ふじかわ きよし(富士川 きよし)、1890年12月29日 - 1978年9月13日)は、韓国海苔の生産向上に貢献した日本の水産学者。 1890年12月29日広島県沼田郡安村(現・広島市安佐南区)生まれ。東京帝国大学水産学科卒業後、1919年から朝鮮総督府勤務。同水産試験場主任技師として水産養殖、加工研究に従事。特に海苔養殖と加工で独自の養殖技術を開発、生産量を向上させた。朝鮮半島での海苔養殖が盛んになるのは、日本が韓国併合した1910年前後からで、広島出身者を中心に多くの民間養殖業者が渡航、移住し日本式の養殖技術が導入され各地に広まった。しかし品質に問題があったため、富士川ら学者・技術者がこれの改善、品質の均一化等の研究を進めた。
嘉村 平八(かむら へいはち、1890年(明治23年)12月… 嘉村 平八(かむら へいはち、1890年(明治23年)12月25日 - 1967年(昭和42年)6月28日)は、日本の冶金学者。九州工業大学及び西日本工業大学学長を務めた。 1890年12月25日、佐賀市に生まれる。佐賀中学5年生の時、明治専門学校総裁を務めていた山川健次郎の講演に触発されて1909年に私立明治専門学校(現・九州工業大学)1期生として冶金科に入学する。 卒業後明治鉱業に入社、米国リーハイ大学留学を経て、1925年に母校の教壇に立つ。爾来36年間に亘って、明治専門学校、明治工業専門学校、九州工業大学の教育研究に大きな足跡を残した。その間、水素還元製法による超高純度鋼いわゆる嘉村鋼の発明により帝国発明協会表彰、鉄の磁気的性質に及ぼす燐の影響に就いての論文に対して日本鐵鋼協会表彰など鉄冶金界に名声を刻し、九州大学より工学博士の学位を授与される。
小谷 勝重(こたに かつしげ、1890年〈明治23年〉12月… 小谷 勝重(こたに かつしげ、1890年〈明治23年〉12月24日 - 1963年〈昭和38年〉10月27日)は、日本の法律家。最高裁判所裁判官、弁護士。 1890年(明治23年)12月24日、京都府に生まれる。子供の頃は「とても7歳までもつまい」と医者に言われたほど体が弱く、弱い者びいきとして弁護士を志す。1914年(大正3年)、法政大学専門部法律科を卒業する。弁護士試験に合格後、大阪で開業する。 1929年(昭和4年)、大阪弁護士会副会長に、1946年(昭和21年)、大阪弁護士会会長に就任する。1941年(昭和16年)『日本取引所法制史論』で法政大学より法学博士を授与される。 裁判官任命諮問委員会による諮問の結果、1947年(昭和22年)、最高裁判所裁判官に任命される。
波多野 乾一(はたの けんいち、1890年12月23日 - … 波多野 乾一(はたの けんいち、1890年12月23日 - 1963年12月29日)は、日本の新聞記者、中国研究者、中国演劇(京劇)研究者。 大分県出身。東亜同文書院卒業。1913年、大阪朝日新聞社入社。北京特派員、時事新報社北京特派員。戦後は産業経済新聞論説委員。榛原茂樹の筆名も用いた。
大島 良士(おおしま よしお、1890年(明治23年)12月… 大島 良士(おおしま よしお、1890年(明治23年)12月23日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。実業家。 香川県木田郡氷上村(現在の三木町)出身。1915年(大正4年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、大学院に進んだ。同年、高等文官試験に合格し、翌年に朝鮮総督府試補となった。道事務官、咸鏡北道財務部長、慶尚南道財務部長、京畿道財務部長、全羅北道内務部長、平壌府尹、釜山府尹、京畿道内務部長などを歴任した。 1936年(昭和11年)に退官した後は、東亜窒業株式会社社長、協同油脂株式会社社長、満州協同油脂株式会社社長、協同油脂販売株式会社社長、協同油脂製函株式会社社長、朝鮮造船鉄工所株式会社取締役、朝鮮水産開発株式会社顧問、朝鮮協同海運株式会社相談役などを務めた。
丸木 末次郎(まるき すえじろう、1890年〈明治23年〉1… 丸木 末次郎(まるき すえじろう、1890年〈明治23年〉12月23日 - 1960年〈昭和35年〉11月4日)は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚。 鹿児島県出水郡出水町(現出水市)に生まれる。1908年(明治41年)台湾総督府に奉職し、通信局勤務、土木局庶務課勤務、総督官房会計課勤務を経て、1936年(昭和11年)12月に地方理事官に進み、台南市助役となった。その後は、台北州羅東郡守、同州基隆郡守を経て、1942年(昭和17年)4月に退官し、皇民奉公会中央本部主事に就任した。 戦後は、日本基督教団阿久根伝道所長老となった。
柴田 徳次郎(しばた とくじろう、1890年12月20日 -… 柴田 徳次郎(しばた とくじろう、1890年12月20日 - 1973年1月26日)は、日本の右翼で教育者。国士舘創立者。正四位勲二等、瑞宝章受章。経済学博士。
大河原 重信(おおかわら しげのぶ、1890年(明治23年)… 大河原 重信(おおかわら しげのぶ、1890年(明治23年)12月20日 - 没年不詳)は、日本の検事。朝鮮総督府官僚。海軍司政長官。弁護士。 長野県に石田善吉の三男として生まれ、大河原昇五郎の養子となった。1917年(大正6年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、朝鮮銀行に入ったが翌年に退職した。1919年(大正8年)に司法官試補となり、東京地方裁判所判事、土浦区裁判所検事・水戸地方裁判所検事、八日市場区裁判所検事・千葉地方裁判所検事、東京区裁判所検事・東京地方裁判所検事を歴任。 1930年(昭和5年)、朝鮮総督府道事務官に転じ、咸鏡北道財務部長、黄海道警察部長、全羅南道警察部長、慶尚北道警察部長、咸鏡北道内務部長、忠清南道内務部長、釜山税関長を務めた。
谷崎 精二(たにざき せいじ、1890年12月19日 - 1… 谷崎 精二(たにざき せいじ、1890年12月19日 - 1971年12月14日)は、日本の英文学者、小説家。早稲田大学教授。小説家谷崎潤一郎の弟。 東京市日本橋区蛎殻町(現・東京都中央区日本橋人形町)出身。谷崎倉五郎の二男。生家は母方の祖父が事業に成功したため、当初は裕福だったが、父が事業に失敗し、次第に零落、兄潤一郎は家庭教師をして糊口を凌いだが、精二は阪本尋常小学校高等科を経て工手学校(現在の工学院大学)に通った。卒業後は通信技手をしていたが、しかし兄の影響もあって文学を志し、国民英学会、正則予備校に通い、1909年、早稲田大学高等予科英文科入学、同期に広津和郎があり、坪内逍遥、相馬御風、島村抱月らの指導を受けた。
内藤 秀因(ないとう しゅういん、1890年(明治23年)1… 内藤 秀因(ないとう しゅういん、1890年(明治23年)12月19日~1987年(昭和62年)4月10日)は、庄内町名誉町民、元日本水彩画会理事長の画家。 1890年(明治23年)12月19日、山形県東田川郡余目町大和村古関(現庄内町古関)の寺院・玄通寺の二男として生まれる。1913年(大正2年)山形県師範学校本科第一部卒業。22歳で小学校の教師となるも25歳で上京し、東京美術学校(現東京藝術大学)に入学。しかし、生活苦により中退。東京で教師として務めるながら、画家の石井柏亭、石川寅治に師事する。 1927年(昭和2年)美術および美術教育を研究するためにヨーロッパへ留学。1928年(昭和3年)パリに渡り、画家のアマン・ジャンやオットン・フリエスに師事する。
松岡 弘(まつおか ひろむ、1890年12月19日 - 19… 松岡 弘(まつおか ひろむ、1890年12月19日 - 1983年3月8日)は、日本の教育者。第二次世界大戦後、長く信濃教育会会長を務め、また日本連合教育会会長も務めた。 長野県南安曇郡温村(現在の安曇野市三郷温下長尾)に生まれた。務台理作とは同郷で、南安曇郡温村立長尾尋常小学校以来の同級生であった。梓農業補習学校に学んだ後、1908年に長野県師範学校(信州大学教育学部の前身のひとつ)に入学し、1912年に卒業して教師となり、以降、訓導、校長、県視学官などを務めた。 松岡は師範学校在学中に手塚縫蔵と知り合い、キリスト教に入信し、松本市の聖公会で受洗した。松岡は、長野県師範出身者を中心として青年教師らが集まっていた東西南北会に参加しており、1912年に最初に着任した南安曇郡温明小学校で校長排斥運動に関与したが、岡村千馬太に諭され、同校を去った。
玉島 愛造(たましま あいぞう、1890年12月19日 - … 玉島 愛造(たましま あいぞう、1890年12月19日 - 没年不明)は、日本の俳優。本名は菊沢 敬之助(旧姓は山内)。 1890年(明治23年)12月19日、愛媛県宇和島市に生まれる。東京の私立商工中学を中退後、独学で教員免状を取り、小学校に8年間勤務した。また、その間に川端画学校で西洋画を学び、十数年の間絵画の製作を続けた。 1925年(大正14年)、東亜キネマ甲陽撮影所に開設された佐藤紅緑主宰の俳優養成所に年齢超過で資格がないのを無理に頼んで入所する。同年に『海国の母』で映画デビューし、脇役として細山喜代松監督『赤熱の力』等に出演。やがて等持院撮影所に移籍し、多くの作品で老け役、敵役を演じた。
服部 峻治郎(はっとり しゅんじろう、1890年(明治23年… 服部 峻治郎(はっとり しゅんじろう、1890年(明治23年)12月18日 - 1983年(昭和58年)4月19日)は、日本の医学者、小児科医。医学博士。第14代京都大学総長。 1890年兵庫県生まれ。京都帝国大学教授、同病院長を経て1951年に京都大学総長に就任。その直後、昭和天皇の京都大学視察訪問に際し、学生が公開質問状を用意し「平和の歌」をうたって迎えた『京大天皇事件』が起こり、その責任をとって1953年辞任。1983年に92歳で死去。 主な受章歴は以下のとおり。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
大野 良蔵(良藏、おおの りょうぞう、1890年(明治23年… 大野 良蔵(良藏、おおの りょうぞう、1890年(明治23年)12月17日 - 1976年(昭和51年)2月18日)は、大正から昭和期の外科医、政治家。貴族院勅選議員、医学博士。 福岡県御笠郡二日市村(筑紫郡二日市町、筑紫野町を経て現筑紫野市)で大野良作の長男として生まれる。1917年(大正6年)九州帝国大学医学部を卒業した。卒業後、同医学部第一内科教室、同外科教室で勤務した。1923年(大正12年)7月24日、九州帝大より医学博士号を授与された。 1924年(大正13)大阪で外科大野病院を開業した。その他、港病院院長、木津川病院院長も務めた。 1946年(昭和21年)6月19日、貴族院勅選議員に任じられ、研究会に属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
近藤 駿介(こんどう しゅんすけ、1890年(明治23年)1… 近藤 駿介(こんどう しゅんすけ、1890年(明治23年)12月17日 - 1966年(昭和41年)4月30日)は、日本の内務官僚。県知事、南洋庁長官。 長崎県出身。呉服商・近藤九右衛門の五男として生まれる。長崎県立中学猶興館、第五高等学校を経て、1916年5月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1915年10月、文官高等試験に合格した。 1916年5月、内務省に入り警視庁警部として保安部保安課に配属された。以後、総監官房文書課審査係長、保安部保安課長、日本橋堀留警察署長、芝三田警察署長、深川西平野警察署長などを歴任。 1921年7月、高知県内務部商工水産課長に就任。以後、同県教育課長、東京府内務部学務兵事課長、同府視学官、同学務部長、山口県書記官・警察部長、警視庁書記官・衛生部長、同保安部長、青森県書記官・内務部長、京都府書記官・内務部長などを歴任。
大澤 雅休(おおさわ がきゅう、1890年〈明治23年〉12… 大澤 雅休(おおさわ がきゅう、1890年〈明治23年〉12月17日 - 1953年〈昭和28年〉9月12日)は、昭和時代の日本の書家・歌人。平原社主宰。日本の書道界における前衛派の先駆けである。本名・雅休(まさやす)。 群馬県群馬郡大類村(現・高崎市柴崎町)の農家の長男として生まれる。高陽義塾を経て高山社に学ぶ。 1908年(明治41年)群馬郡金島村金島小学校代用教員となり、翌1909年同郡倉賀野町へ転勤。1911年高崎歩兵第15連隊に入営、除隊後大類小学校に勤務。村上鬼城や村上成之(蛃魚)に俳句の指導を受ける。 1916年(大正5年)栃木県那須開墾地に入植。このころ『ホトトギス』に小説や俳句を発表、また『アララギ』会員となり島木赤彦の指導を受ける。
坂本 末雄(さかもと すえお、1890年(明治23年)12月… 坂本 末雄(さかもと すえお、1890年(明治23年)12月16日 - 1966年(昭和41)9月28日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。陸軍士官学校第26期、陸軍大学校第35期卒業 1890年(明治23年)に熊本県菊池郡田島村で生まれた。熊本県立鹿本中学校(現・熊本県立鹿本高等学校)卒業後、海軍経理学校に合格したが陸軍への道を選び、1911年12月に士官候補生として歩兵第53連隊に入隊。なお、この時経理学校に補欠合格した林義秀も同じく入学を辞退し、陸士・陸大で同期となっている。陸軍士官学校第26期、陸軍大学校第35期卒業。1938年(昭和13年)3月1日に陸軍歩兵大佐に進級、6月30日に歩兵第53連隊長(中支那派遣軍・第17師団・第17歩兵団)に就任し、日中戦争では、武漢攻略に参加した。
片倉 三平(かたくら さんぺい、1890年12月15日 - … 片倉 三平(かたくら さんぺい、1890年12月15日 - 1977年3月29日)は、日本の実業家、長く日東紡績などの経営に当たった。妻・かずは2代目片倉兼太郎の次女。 片倉三平は、片倉財閥を興した片倉家の一員・片倉光治の三男として、長野県諏訪郡川岸村(現岡谷市)に生まれた。長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)を経て、東京高等蚕糸学校(現東京農工大学)を卒業。その後、片倉合名会社社員となり、その北陸監督や、片倉共栄製糸社長、片倉越後製糸社長など、傘下の様々な企業の役職を兼務した。 1921年に片倉傘下となっていた福島紡織が改組され、新たに福島県郡山市を拠点とする日東紡績が1923年に設立された際には、片倉三平が初代社長に就任した 。
牧野 虎雄(まきの とらお、明治23年(1890年)12月1… 牧野 虎雄(まきの とらお、明治23年(1890年)12月15日 - 昭和21年(1946年)10月18日)は、日本の洋画家である。現在の新潟県上越市西城町1丁目に生まれた。父は藤一郎、母は兼。 父・藤一郎は、虎雄が生まれたころ東京府東京市下谷区役所に単身で勤務していた。虎雄が5歳のときに土木請負「久米組」の社員となり、今の渋谷区代々木で一緒に暮らすようになった。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
高垣 松雄(たかがき まつお、1890年12月13日 - 1… 高垣 松雄(たかがき まつお、1890年12月13日 - 1940年9月13日)は、アメリカ文学者。立教大学文学部教授、文学部英文学科長。日本で初めてアメリカ文学を専門に研究した人とされ、日本におけるアメリカ文学研究の権威として基礎を築いた。 神奈川県横須賀市生まれ。早稲田大学文科を中退した後、1919年(大正8年)立教大学英文科卒業。大学卒業後すぐに、旧制立教中学校の英語教師となるが、同年夏にハワイのザ・フレンド・ピース奨学生の銓衡試験をパスして、ホノルルにある、孫文や第44代アメリカ大統領のバラク・オバマも学んだプナホ・アカデミーに留学。翌1920年(大正9年)にはシカゴ大学に入学。 病のため1921年(大正10年)に帰国し、1922年(大正11年)立教大学文学部教授に就任。
原 邦道(はら くにみち、1890年12月11日 - 197… 原 邦道(はら くにみち、1890年12月11日 - 1976年10月10日)は、日本の官僚、経営者。日本長期信用銀行初代頭取を務めた。島根県平田市(現在の出雲市)出身。 1916年に東京帝国大学経済科を卒業。大蔵省での勤務を経て、1939年に日本製鉄に転じ、常任監査役、常務、副社長を歴任した。1943年に東京証券取引所副理事長を経て、1944年に野村合名会社総務理事に就任し、野村銀行(現在の大和銀行)社長、野村證券会長、野村生命会長を歴任した。1952年12月に日本長期信用銀行初代頭取に就任し、1957年11月から1959年5月までに会長を務めた。大和銀行相談役も務めた。 1966年5月に勲一等瑞宝章を受章。
六代 正田 文右衛門(ろくだい しょうだ ぶんえもん、前名・… 六代 正田 文右衛門(ろくだい しょうだ ぶんえもん、前名・敏一郎、1890年〈明治23年〉12月9日 - 1973年〈昭和48年〉7月25日)は、日本の実業家、醤油醸造家(亀甲正醸造元)。正田醤油、館林航器各社長。日本醤油協会会長。日本栄養食料(現日本農産工業)監査役。館林町会議員、群馬県公安委員。上皇后美智子の生家正田家の本家筋の出身で、大叔父にあたる。 1890年(明治23年)群馬県邑楽郡館林町(現・館林市)に、5代・正田文右衛門の長男として生まれる。1909年(明治42年)、東京府立第一中学校卒業。1914年(大正3年)、東京高等商業学校卒業。 1917年(大正6年)正田醤油専務取締役に就任。
高橋 権六(權六、たかはし ごんろく、1890年(明治23年… 高橋 権六(權六、たかはし ごんろく、1890年(明治23年)12月9日 - 1972年(昭和47年)3月4日)は、大正から昭和期の実業家・政治家。衆議院議員。 福岡県八女郡、現在の八女市で酒造家の家に生まれる。1918年(大正7年)明治学院普通部を卒業。 若いときから院外団に加わった。福岡県会議員に選出され2期在任し、同参事会員、八女郡教育会評議員も務めた。1930年(昭和5年)の第17回衆議院議員総選挙から1947年(昭和22年)第23回総選挙まで立候補を続けたがいずれも落選。同年の福岡県知事選挙でも落選した。1949年(昭和24年)1月の第24回総選挙(福岡県第3区、無所属)で当選。当時の地元新聞に「同情票で勝利」と分析した記事が掲載された。
神林 美治(かんばやし よしはる、明治23年(1890年)1… 神林 美治(かんばやし よしはる、明治23年(1890年)12月8日 - 昭和54年(1979年))は、大日本帝国の海軍軍人。最終階級は海軍軍医中将。呉海軍病院長、海軍医学校校長を歴任する。長野県長野市出身。 明治23年(1890年)12月8日、長野県更科郡稲里村(現在の長野市)の士族であった神林英三郎の五男として出生する。第二高等学校を経て、大正6年(1917年)に九州帝国大学医学部医学科を成績優秀で卒業し、恩賜の銀時計を授与される。海軍省に入省後、軍医となる。大正12年4月に九州帝国大学大学院へ進学し、小野寺教授の下で指導を受ける。大正14年11月に同校を修了する。 大正15年(1926年)には、久邇宮の欧州外遊に同行し、昭和3年(1927年)2月、ドイツ駐在員となる。
伊藤 清(いとう きよし、1890年(明治23年)12月7日… 伊藤 清(いとう きよし、1890年(明治23年)12月7日 - 1981年(昭和56年)6月12日)は、大正から昭和期の弁護士、裁判官、政治家。衆議院議員。 千葉県匝瑳郡福岡町(八日市場町、八日市場市を経て現匝瑳市)で、伊藤啓三郎の二男として生まれる。錦城中学校(現錦城学園高等学校)、第三高等学校を経て、1918年(大正7年)東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業した。 1918年8月、司法官試補に任官し、東京地方裁判所予備判事、長崎地方裁判所判事を歴任し、1921年(大正10年)7月に退官した。留学してロンドン大学、ベルリン大学で学び、在学中に司法省から英独の労働法研究の委嘱を受けた。1925年(大正14年)に帰国し弁護士を開業した。
仁科 芳雄(にしな よしお、1890年〈明治23年〉12月6… 仁科 芳雄(にしな よしお、1890年〈明治23年〉12月6日 - 1951年〈昭和26年〉1月10日)は、日本の物理学者。学位は理学博士(東京帝国大学・1930年)。日本現代物理学の父。 岡山県浅口郡里庄町浜中出身。東京帝国大学卒。日本に量子力学の研究拠点を作ることに尽力し、理化学研究所(理研)に在籍して宇宙線関係、加速器関係の研究で業績をあげた。 死去から4年後の1955年、原子物理学とその応用分野の振興を目的として仁科記念財団が設立された。この財団では毎年、原子物理学とその応用に関して著しい業績を上げた研究者に仁科記念賞を授与している。また理研の仁科加速器科学研究センターにも名を残す。 ニールス・ボーアの下で身に着けたその自由な学風は、自由で活発な精神風土を日本にもたらし、日本の素粒子物理学を世界水準に引き上げた。
内海 清温(うつみ きよはる、1890年(明治23年)12月… 内海 清温(うつみ きよはる、1890年(明治23年)12月6日 - 1984年(昭和59年)3月9日)は、大正時代から昭和時代の土木工学者、内務官僚。 鳥取県久米郡倉吉町(現・倉吉市)に生まれる。第一高等学校を経て、1915年(大正4年)東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業し、内務省に入省する。江戸川改修事務所勤務として江戸川分流頭首工事を担当する。1919年(大正8年)9月に退官し、朝鮮に渡り電気化学工業(現・デンカ)の発電水力調査業務に従事。工務部土木課長として朝鮮での10万kW級の水力発電所の建設可能性を現地調査し、帰朝後は宮崎県の大淀川の水力発電所建設所長に転じ、1万5千kWと3万kWの2ヵ所の水力発電所を建設した。
阿部 浅十(あべ あさじゅう、1890年〈明治23年〉12月… 阿部 浅十(あべ あさじゅう、1890年〈明治23年〉12月6日 - 没年不明)は、日本の政治家、農民。鳥取県西伯郡余子村会議員。境港町議会議員。境港市議会議員。 鳥取県西伯郡余子村大字高松(現・境港市高松町)出身。久栄の長男。弓浜高等小学校を卒業後、家業の農業に専念し、傍ら弓浜組合製糸監事、農協理事、農会理事等を歴任する。1954年、境港町議会議員に当選する。西伯郡米子市養蚕農業協同組合連合会理事、誠道中組合議員を兼任する。1956年、市制実施とともに市会議員となる。 自治及び養蚕功労者として当局より再三表彰され、地区有力者として尊敬される。趣味は畜育。宗教は曹洞宗。住所は境港市高松町。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
田代 茂樹(たしろ しげき、1890年〈明治23年〉12月5… 田代 茂樹(たしろ しげき、1890年〈明治23年〉12月5日 - 1981年〈昭和56年〉8月8日)は、日本の実業家。東洋レーヨン(現・東レ)社長、日本化学繊維協会会長、日本腎臓財団初代会長、福岡県人会第三代会長などを務めた。明治専門学校(現・九州工業大学)第一期生。 福岡県遠賀郡香月村楠橋(現・北九州市)生まれ。父は村役場の助役、収入役を経て長らく村長を務めた。 旧制東筑中学(現・福岡県立東筑高等学校)、明治専門学校機械工学科を卒業後、三井物産に入社。 三井物産名古屋支店長時代の1936年、当時の東洋レーヨン社長に見込まれ、同社取締役に転じる。1945年に社長となるが、公職追放となる。1950年代表取締役会長として復帰し、1970年まで務めた。
森 慈秀(もり じしゅう、1890年12月5日 - 1973… 森 慈秀(もり じしゅう、1890年12月5日 - 1973年4月15日)は、熊本県天草郡湯島村(現上天草市)出身の政治家。熊本県議会議員(1期)、大矢野町長(3期)。天草五橋架橋の功労者として知られている。 1890年(明治23年)12月5日、熊本県天草郡湯島村(天草諸島の湯島、現上天草市大矢野町湯島)に生まれた。父は森幸吉、母は森タミ。幼名は秀松であり、長男である。 1901年(明治34年)には湯島村立尋常小学校4年課程を修了し、湯島村役場の小使となった。18歳か19歳の時、貿易商の親戚を頼って上海に渡航し、事業によって財を成した。1917年(大正6年)または1918年(大正7年)頃に日本に引き揚げたが、この時には当時の金額で100万円を持ち帰っている。
石榑 敬一(いしぐれ けいいち、1890年12月5日 - 1… 石榑 敬一(いしぐれ けいいち、1890年12月5日 - 1968年11月1日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 岐阜県岐阜市生まれ。1908年岐阜県立農林学校卒。陸軍に入り、中尉まで進む。その後、岐阜市主事、三里村(現・岐阜市)村長、岐阜県会議員、岐阜在郷軍人連合分会長、岐阜市警防団長などを歴任する。 1928年12月4日から1931年10月15日まで第36代岐阜県会副議長を務めた。 1942年の総選挙(いわゆる翼賛選挙)では、岐阜1区(当時)から立候補する。翼協の非推薦ながら在郷軍人会をバックに当選を果たす。衆議院議員は1期務めた。 戦後の1955年の岐阜市長選挙に立候補したが、自由党推薦の松尾吾策に敗れて落選した。
前之園 喜一郎(まえのその きいちろう、1890年12月4日… 前之園 喜一郎(まえのその きいちろう、1890年12月4日 - 1971年2月17日)は、日本の政治家。参議院議員(1期)。弁護士。 鹿児島県出身。指宿生まれ、鹿屋育ち。16歳のときに台湾鉄道教習所に入り、25歳の頃まで台湾総督府鉄道勤務。旧制中・高の検定試験と文官試験を受けて台湾鉄道学校の教官となるが、大卒でないと不利だと感じたため、東京へ出て日本大学に入学する。上京に際しては、台湾の産業交通に関する本を制作・販売して資金をつくった。日本大学法科及び明治大学高等研究科卒。 1922年に弁護士試験に合格。東京で開業した後、鹿児島に移って事務所を開設(1923年)。鹿児島弁護士会長、鹿児島市議、同議長を経て、1947年8月の参議院鹿児島地方区から立候補して当選、参議院議員を1期務め、決算委員長を歴任した。