武田 信平(たけだ しんぺい、1949年12月11日 - )… 武田 信平(たけだ しんぺい、1949年12月11日 - )は、宮城県亘理町出身のサッカー選手、元サッカークラブ経営者。川崎フロンターレ前会長。日本アンプティサッカー協会理事長。元Jリーグ・クラブ経営アドバイザー。 中学時代、入学と同時に新設されたサッカー部にてサッカーを始める。仙台第一高校卒業後、1968年に慶応義塾大学経済学部に入学。ソッカー部では2年生時に全日本大学サッカー選手権大会に優勝した。 1972年に大学を卒業、サッカーを続けるために富士通に入社する。しかし富士通サッカー部総監督の八重樫茂生から、これ以上続けていても先が見えているからと現役引退を勧められ、2年目からはサッカー部のマネージャー(1973年-1976年)、日本サッカーリーグの運営委員(1977年-1981年)を務める。
坂井 道郎(さかい みちろう、1948年(昭和23年)10月… 坂井 道郎(さかい みちろう、1948年(昭和23年)10月1日 - )は、の日本の実業家。マルハニチロ顧問。元取締役会長。元マルハニチロ食品代表取締役社長。宮城県塩竈市出身。 旧ニチロプロパーで、再編の末に旧ニチロの法人格を継承したマルハニチロ食品の最初で最後の社長に就任。その後、久代敏男マルハニチロホールディングス副社長(マルハ出身)の社長昇格に伴い、旧マルハプロパーでマルハニチロ水産の社長・伊藤滋とともに、マルハニチロホールディングスの代表権のある副社長を併任。 会社再編に伴い、2014年、マルハニチロ食品など5社がマルハニチロ水産に吸収合併され、消滅したため、合併会社マルハニチロの代表権のない会長に就任。
小野寺 正(おのでら ただし、1948年(昭和23年)2月3… 小野寺 正(おのでら ただし、1948年(昭和23年)2月3日 - )は、日本の実業家。KDDI代表取締役社長、同社代表取締役会長、電気通信事業者協会会長、映像情報メディア学会会長、大和証券グループ本社取締役、京セラ取締役を歴任した。 宮城県仙台市角五郎の宮城県庁職員の家に生まれる。東北大学教育学部附属幼稚園、東北大学教育学部附属小学校、東北大学教育学部附属中学校、宮城県仙台第二高等学校を経て、東北大学工学部電気工学科卒業(音響学城戸健一に師事)。 高校の理系クラスの同級生に中鉢良治(のちにソニー社長)がいた。高校卒業後は、東北大学工学部に進学し、東北大学電気通信研究所の城戸健一に師事。卒業研究ではスピーカーの振動研究を行った。
岩下 正(いわした ただし、1948年1月1日 - )は、日… 岩下 正(いわした ただし、1948年1月1日 - )は、日本の財務官僚、企業経営者。ローソン銀行代表取締役会長。 宮城県仙台市出身。血液型はB型。宮城県仙台第一高等学校、東京大学法学部第1類(私法コース)卒業。1970年に大蔵省入省(大臣官房秘書課)。1971年に大臣官房秘書課調査係長心得。1974年にイェール大学で経営学修士号を修得。同年7月 銀行局総務課企画係長。1975年7月 福知山税務署長。1993年6月 大臣官房調査企画課長兼財政金融研究所次長。1994年4月から1995年5月まで羽田孜、村山富市の下で内閣総理大臣秘書官(事務担当)。1999年7月8日に国際局次長、2002年7月9日に財務総合政策研究所長となる。
松田 咲實(まつだ さくみ、1948年 - )は、日本の元声… 松田 咲實(まつだ さくみ、1948年 - )は、日本の元声優事務所・声優養成所経営者、マネージャー、芸能プロモーター。 元日本芸能マネージメント事業者協会副理事長。宮城県栗原市出身。 詩人を目指し上京、電話番のアルバイトとして東京俳優生活協同組合(俳協)に入社、マネージャー生活を送り、俳協とNHKプロモートサービス(現NHKプロモーション)との業務提携により設立された声優プロダクション「NPSテアトル」のマネージメント総責任者として兼務出向、1984年出向終了とともに俳協を退社し、アーツビジョン(アーツ)を設立。その後、1990年に付属養成所を日本ナレーション演技研究所とし、1997年には新たにグループ事務所としてアイムエンタープライズ(アイム)を設立した。
小野寺 重之(おのでら しげゆき、1947年10月24日 -… 小野寺 重之(おのでら しげゆき、1947年10月24日 - )は、日本の社会人野球選手(外野手)、元Jリーグ・柏レイソル社長。宮城県生まれ。 気仙沼市出身。宮城県気仙沼高等学校では1965年、夏の東北大会県予選準決勝に進むが古川工業に敗退。甲子園には出場できなかった。卒業後は明治大学に進学。名将島岡吉郎監督の指導を受ける。東京六大学野球リーグでは、1967年春季リーグから四番打者に抜擢され、1969年春季リーグで8年振りに優勝。直後の全日本大学野球選手権大会では東海大の上田二郎投手に抑えられ、2回戦敗退。同年の第8回アジア野球選手権大会日本代表に選出される。外野手としてベストナインに2回選出。
清野 智(せいの さとし、1947年9月30日 - )は、日… 清野 智(せいの さとし、1947年9月30日 - )は、日本の実業家、経営者。東日本旅客鉄道(JR東日本)顧問。東京都新宿区在住。勲等は旭日大綬章。
中鉢 良治(ちゅうばち りょうじ、1947年9月4日 - )… 中鉢 良治(ちゅうばち りょうじ、1947年9月4日 - )は、日本の実業家。学位は工学博士(東北大学・1977年)。国立研究開発法人産業技術総合研究所最高顧問、東京情報デザイン専門職大学学長。 ソニー株式会社執行役副社長兼COO、同取締役・代表執行役社長兼エレクトロニクスCEO、同取締役・代表執行役副会長、国立研究開発法人産業技術総合研究所理事長、社団法人日本経済団体連合会評議員会副議長・産業技術委員会共同委員長、ゆうちょ銀行取締役、NTT取締役などを歴任した。 1947年、宮城県大崎市にて生まれた。宮城県仙台第二高等学校卒業。小野寺正(のちにKDDI社長)は高校の理系クラスの同級生。高校卒業後は、東北大学工学部へ進学。
佐藤 博俊(さとう ひろとし、1943年(昭和18年)5月1… 佐藤 博俊(さとう ひろとし、1943年(昭和18年)5月12日 - )は、宮城県仙台市出身の実業家、レスリング選手。株式会社橋本店元代表取締役社長、元会長。宮城県建設業協会元会長。宮城県レスリング協会元会長。 宮城県仙台市出身。東北学院中学校・高等学校、中央大学商学部卒業。 高校時代にレスリングを始め、中央大学進学後もレスリング部に所属。1964年の全日本学生選手権を制覇し、東京オリンピックの代表候補として期待されたが、最終選考で敗れ出場を逃した。この時の「あと一歩で夢を逃した」悔しさが、その後の人生における「不撓不屈の精神」の原動力になったと語っている。 大学卒業後、東京の建設関連会社での勤務を経て、1971年(昭和46年)に株式会社橋本店に入社。
三井 精一(みつい せいいち、1942年(昭和17年)7月1… 三井 精一(みつい せいいち、1942年(昭和17年)7月11日 - )は、日本の銀行家、実業家。仙台銀行相談役。カメイ社外取締役。 宮城県出身。宮城県仙台第二高等学校、東北学院大学文経学部経済学科卒業後、当時の振興相互銀行に入行。 枢要店での勤務を担うなど、営業の第一線を歩んだ。 在任が約8年に及んだ、日下睦男の後任として末席常務より抜擢され、2001年頭取に就任する。 頭取在任時にはきらやか銀行との経営統合に手腕を発揮したほか、東日本大震災後もいち早く公的資金の注入を受け入れた上、勘定系システムのリプレースも完了させるなど、業績回復の道筋を付け、2013年6月、じもとHD会長・仙銀頭取を退任。
熊谷 満(くまがい みつる、1941年7月25日 - )は、… 熊谷 満(くまがい みつる、1941年7月25日 - )は、日本の実業家。東北電力副社長、ユアテック社長、相談役。 宮城県気仙沼市出身。宮城県気仙沼高等学校、東北大学法学部卒業。1965年 東北電力に入社。2003年に同社副社長。 2005年 ユアテック社長に就任。その後、同社会長、相談役を歴任。 東北日本カナダ協会副会長、みなと気仙沼大使をつとめる。
西 紘平(にし こうへい、1940年7月7日 - )は、日本… 西 紘平(にし こうへい、1940年7月7日 - )は、日本の実業家。雪印乳業代表取締役社長や、ロッテアイス代表取締役社長、日本乳業協会副会長を務めた。 宮城県仙台市出身。宮城県仙台第二高等学校を経て、1964年東北大学農学部卒業、雪印乳業入社。横浜支店長、営業促進部長、取締役を経て、1999年常務取締役東日本支社長。2000年から代表取締役社長を務め、雪印牛肉偽装事件の対応にあたり、経営再建を進めたが、2002年に辞任した。この間、日本乳業協会副会長も務めた。2004年ロッテスノー代表取締役社長。
高橋 俊裕(たかはし としひろ、1939年11月28日 - … 高橋 俊裕(たかはし としひろ、1939年11月28日 - )は、トヨタ自動車常務、東京トヨペット社長、トヨタアドミニスタ社長、日本郵政公社副総裁。 トヨタ自動車で「営業の神様」「真に優れたリーダー」「貴重な隠し玉」と言われ豪放果断な実行力から「トップエグゼクティブ」の一人になる人物と言われていたが小泉内閣最大の目玉である郵政民営化にともないトヨタ方式(Japan Post System)を取り入れるため上司である奥田碩の推薦により郵政公社の重職を務めることになった。
相沢 光哉(あいざわ みつや、1938年12月7日 - 20… 相沢 光哉(あいざわ みつや、1938年12月7日 - 2025年2月28日)は、日本の政治家、実業家。株式会社橘寿司代表取締役、宮城県寿司商環境衛生同業組合理事長、宮城県監査委員、自由民主党宮城県連幹事長、宮城県議会議長等を歴任した。 1951年仙台市立東二番丁小学校卒業。1954年東北学院中学校卒業。1957年東北学院高等学校卒業。1962年一橋大学商学部卒業、キリンビール入社。 1971年仙台市議会議員。1980年橘寿司代表取締役。1982年宮城県寿司商環境衛生同業組合理事長。1991年宮城県議会議員。2000年自由民主党宮城県民会議会長。2003年宮城県監査委員。2005年自由民主党宮城県連幹事長、日本李登輝友の会理事。
村木 良彦(むらき よしひこ、1935年(昭和10年)11月… 村木 良彦(むらき よしひこ、1935年(昭和10年)11月15日 - 2008年(平成20年)1月21日)は、日本のメディアプロデューサー、実業家。テレビマンユニオン社長。東京国際大学国際関係学部教授。宮城県仙台市出身。東京大学文学部卒業。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
幕田 圭一(まくた けいいち、1935年〈昭和10年〉9月1… 幕田 圭一(まくた けいいち、1935年〈昭和10年〉9月11日 - 2021年〈令和3年〉11月28日 )は日本の元実業家。東北電力元社長、東北経済連合会会長を務めた。宮城県白石市出身。 福島大学経済学部卒業後、東北電力入社。2001年に社長に就き、2002年の女川原発3号機の運転開始など電源開発を進め、燃料部門の経験を生かして調達先の多様化に取り組んだ。また任期中に2度の電気料金引き下げも決めた。2005年に会長に退く。 東北経済連合会会長時代には、2006年に東経連事業化センター、2007年に7県などと東北観光推進機構を設立し、東北経済の発展に尽力した。このほか、2006〜2015年には仙台フィルハーモニー管弦楽団理事長も務めた。
中川 裕雄(なかがわ やすお、1935年〈昭和10年〉1月2… 中川 裕雄(なかがわ やすお、1935年〈昭和10年〉1月2日 - 2024年〈令和6年〉10月1日)は、日本の実業家。電子機器メーカー・アンリツの元社長。宮城県大崎市古川(旧・古川市)出身。 宮城県古川高等学校卒業。1958年に山形大学工学部電気工学科を卒業し、安立電気(現・アンリツ)に入社。1991年に取締役、1995年6月に専務に就任。 翌年6月、菅居紳至のあとを受けて61歳で社長に昇格。海外部門の再編成に注力し、1国に複数のグループ企業が所在していた状態を1国1社に整理した。 2000年6月に退任して会長。社長の後任には塩見昭が就いた。2001年4月に藍綬褒章を受章。 2024年10月1日に死去。
尾形 英夫(おがた ひでお、1933年2月20日 - 200… 尾形 英夫(おがた ひでお、1933年2月20日 - 2007年1月25日)は、TMF代表取締役社長、元徳間書店常務取締役、『アニメージュ』初代編集長。宮城県気仙沼市出身。 宮城県気仙沼市松岩出身。宮城県気仙沼高等学校、明治大学卒業。 1961年に徳間書店入社後『アサヒ芸能』編集長などを経て、日本初のアニメ専門雑誌『アニメージュ』を創刊し初代編集長。誌名の由来は「animation」と「image」をミックスさせ、「アニメージュ」(Animage)とした。 アニメーターに目を掛け、漫画家として発掘するという手法を実践し特集号を多く組み、部数増加に成功。宮崎駿『風の谷のナウシカ』を『アニメージュ』(1982年 - 1994年)で連載させ、1984年春公開の同劇場版アニメ『風の谷のナウシカ』や、1986年夏公開の『天空の城ラピュタ』でプロデューサーをつとめる。
佐藤 進(さとう すすむ、1932年10月14日 - 201… 佐藤 進(さとう すすむ、1932年10月14日 - 2017年2月10日)は、東急レクリエーション元社長。
八島 俊章(やしま としあき、1932年(昭和7年)4月24… 八島 俊章(やしま としあき、1932年(昭和7年)4月24日 - )は、日本の実業家。元東北電力代表取締役社長。元日本電気協会会長。女川原子力発電所の設立に力を尽くしたことで知られる。宮城県出身。 宮城県出身。宮城県白石高等学校卒業。 1955年、東北大学工学部を卒業し東北電力に入社。敦賀発電所の建設に携わり、女川原子力発電所1号機の建設に関する調査を監督した。1993年、東北電力副社長に就任するも4ヶ月後に社長に昇格。1998年、藍綬褒章を受章。電気事業連合会の副会長も務める。2001年に会長に就任。会長退任後は相談役に就任し、相談役退任した後は特別顧問に就任。 2004年、MEMSパークコンソーシアム設置に際し、発起人となる。
佐藤 力(さとう ちから、1932年3月14日 - 2025… 佐藤 力(さとう ちから、1932年3月14日 - 2025年2月17日)は、日本の応用物理学者・実業家。慶應義塾大学名誉教授。パデュー大学元教授。学位は博士。 1932年、宮城県仙台市生まれ。幼い頃から父(後述)に憧れて研究者を目指すようになる。宮城県仙台第二高等学校を卒業後、東京大学理科I類に入学。東京大学大学院を卒業後、慶應義塾大学にて研究者となる。同大学の助手、助教授、パデュー大学客員教授を経て、1967年に35歳で慶應義塾大学教授に就任。軍用、航空宇宙、携帯電話やwi-fiなど今日において幅広く利用されているスペクトラム拡散通信方式の研究、開発に尽力した。 1997年に慶應義塾大学を退官し名誉教授の称号を授与される。
鈴木 大吉(すずき だいきち、1930年〈昭和5年〉9月5日… 鈴木 大吉(すずき だいきち、1930年〈昭和5年〉9月5日 - 2023年〈令和5年〉3月29日)は、日本の実業家、ITコンサルタント。日本団体生命(現、アクサ生命保険)の副社長等を歴任した。 宮城県遠田郡小牛田町(現:美里町)出身。旧制中学校の宮城県古川中学校(現:宮城県古川高等学校)、旧制山形高等学校を経て、1953年(昭和28年)に東京大学法学部を卒業。同年に日本団体生命へ入社した。 同社では本店第二営業部長、営業推進部長を経て1974年(昭和49年)5月に取締役に就任した。その後、常務取締役、専務取締役を経て1994年(平成6年)7月6日に副社長に就任し、翌年に副社長を退任した。 副社長退任後の1995年(平成7年)9月、「ビジネス情報ネット」を設立。
松本 亨(まつもと とおる、1930年5月11日 - 199… 松本 亨(まつもと とおる、1930年5月11日 - 1997年1月7日)は、経済評論家・元日刊投資新聞社社長。株式に関する書籍多数[要説明]。 宮城県仙台市出身。法政大学卒業。 バブル時代、株価予想で人気を得た。日刊ゲンダイに株式についての連載コーナーを持っていた。ファミコン用ソフト『松本亨の株式必勝学』『松本亨の株式必勝学II』のモデルとなり、監修を務めた。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ:作家)。
三浦 澄能(みうら すみよし)(1930年〈昭和5年〉3月3… 三浦 澄能(みうら すみよし)(1930年〈昭和5年〉3月31日-)は、日本の実業家。1993年から1996年まで住友電設で社長として在任していた。
京極 昭(きょうごく あきら、1930年2月5日 - 202… 京極 昭(きょうごく あきら、1930年2月5日 - 2021年5月22日)は、ベガルタ仙台社長。 古川高等学校、東北大学英文学科を卒業後、河北新報社にて報道部長、編集局長、専務取締役を歴任。報道部長時代には連載企画「植物人間」で1973年度日本新聞協会賞(編集部門)を受賞した。1999年にベガルタ仙台の運営会社「東北ハンドレッド」の代表取締役社長に就任。2003年12月、チームのJ2降格を受けて引責辞任。
青木 和夫(あおき かずお、1928年(昭和3年)1月25日… 青木 和夫(あおき かずお、1928年(昭和3年)1月25日 - 2019年(令和元年)5月4日)は、日本の政治家、実業家。石巻ガス創業者で、同社代表取締役社長を経て、石巻市長を務めた。位階は従五位。 宮城県雄勝町(現石巻市)生まれ。石巻町立石巻商業学校(現宮城県石巻商業高等学校)、小樽高等商業学校(現小樽商科大学)を経て、1952年(昭和27年)一橋大学を卒業後、同年三井船舶入社。三井船舶の出入り業者に東京ガスがいたことなどで都市ガスの時代が来ることを予感し、1959年(昭和34年)に石巻ガスを創業して同社代表取締役社長に就任。1967年(昭和42年)石巻青年会議所理事長。 1972年(昭和47年)石巻市長に初当選。
遠山 仁一(とおやま じんいち、1927年(昭和2年) - … 遠山 仁一(とおやま じんいち、1927年(昭和2年) - )は、宮城県大崎市出身の経営者、実業家。宮地エンジニアリンググループ代表取締役社長。社団法人日本橋梁建設協会第5代会長。 宮城県大崎市出身。1950年(昭和25年)に宮城県古川高等学校を卒業。のちに宮地エンジニアリンググループ入社。同社において要職を歴任し、代表取締役に就任。社長在任中の1993年(平成5年)6月には、業界団体である日本橋梁建設協会(橋建協)の第5代会長に就任し、1997年(平成9年)6月までの4年間にわたり日本の橋梁建設協会の発展と技術向上を牽引した 。また同協会において飯田庸太郎氏(三菱重工業社長)らと共に副会長を務めるなど、業界の首脳として長年貢献した。
一力 一夫(いちりき かずお、1925年(大正14年)9月8… 一力 一夫(いちりき かずお、1925年(大正14年)9月8日 - 2014年(平成26年)7月20日)は、日本の実業家。ジャーナリスト。河北新報社社主。 河北新報社元社長である一力次郎の長男として宮城県仙台市に生まれる。 1950年(昭和25年)河北新報入社。編集局長時代には自らが隊長となり同行記者3名と共に、「人類初の地球縦断大ドライブ」を敢行。それにより日本新聞協会ボーン・上田記念国際記者賞を受賞する。1970年(昭和45年)には、父の逝去により社長・社主に就任する。その後、東北放送社長就任に伴い、会長・社主に就任した。 好角家としても知られ自宅には大相撲の座布団が多数あったという。日本相撲協会横綱審議委員会委員(1988年-2001年)、第8代の委員長(1999年-2001年)も歴任した。
明間 輝行(あけま てるゆき、1925年(大正14年)5月2… 明間 輝行(あけま てるゆき、1925年(大正14年)5月26日 - 2005年(平成17年)9月3日)は、日本の実業家。東北電力取締役社長や、同社取締役会長、東北経済連合会会長を務めた。 宮城県仙台市出身。1951年東北大学法学部卒業。津本陽は同期生。 東北電力取締役社長や、同社取締役会長、日本原子力発電取締役を務めた。1993年東北経済連合会会長。 1995年仙台フィルハーモニー管弦楽団理事長。1997年、勲一等瑞宝章受章。2001年東北電力相談役。2005年肺炎のため仙台市内の病院で死去。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
那須 翔(なす しょう、1924年9月19日 - 2014年… 那須 翔(なす しょう、1924年9月19日 - 2014年6月25日)は第7代東京電力社長(1984年6月 - 1993年6月)。元会長(1993年6月 - 1999年5月)。 1924年(大正13年)、宮城県仙台市出身。父は病理学者で東北帝国大学教授を務めた那須省三郎。旧制仙台第二中学校、旧制第二高等学校を経て1948年東京大学法学部政治学科卒業、関東配電(東京電力の前身)入社。総務畑を歩み、木川田一隆や平岩外四に仕え、平岩が同社社長時には黒子として政官との調整に立ち回った。 1984年、平岩の後任として社長就任。顧客サービスの意識改革を促し1986年には戦後から一貫して上がり続けていた電気料金の引き下げを断行。
畠山 武(はたけやま たけし、1924年8月14日 - 20… 畠山 武(はたけやま たけし、1924年8月14日 - 2013年4月17日)は、日本の経営者。北海道テレビ放送社長、会長を務めた。宮城県気仙沼市出身。 1948年に東京大学法学部政治学科を卒業し、1949年に朝日新聞社に入社。1983年2月に北海道テレビ放送社長に就任。1994年6月に会長に就任し、1996年6月に取締役相談役を経て、1998年6月から相談役を務めた。 1994年11月に勲三等瑞宝章を受章。 2013年4月17日肺炎のために死去。88歳没。 著書に「昭和史の怪物たち」がある。
今野 栄喜(こんの えいき、1924年3月15日 - 201… 今野 栄喜(こんの えいき、1924年3月15日 - 2015年11月11日)は、旭化成副社長、蝶理社長。2015年、肺炎により91歳で死去。第69第衆議院議長の伊藤宗一郎とは旧制古川中学校(現・宮城県古川高等学校)の同級生。
佐野 肇(さの はじめ、1921年7月13日 - 2003年… 佐野 肇(さの はじめ、1921年7月13日 - 2003年6月24日)は、日本の経営者、薬学博士。中外製薬社長を務めた。宮城県仙台市出身。 1944年に東京帝国大学第一工学部火薬学科を卒業し、同年に日本火工に入社し、陸軍兵器学校、陸軍技術中尉を経て、1947年10月に中外製薬に入社。 1964年5月に取締役に就任し、1974年11月に常務、1985年3月に専務を経て、1987年3月から1992年10月までに社長を務めた。 2003年6月24日肺炎のために死去。81歳没。
佐藤 智義雄(さとう ちぎお、1920年(大正9年)11月2… 佐藤 智義雄(さとう ちぎお、1920年(大正9年)11月2日 - 2003年(平成15年)3月11日 )は、日本の銀行家、実業家。七十七銀行頭取を務めた。 宮城県仙台市出身。1942年に大倉高等商業学校を卒業。 1946年、七十七銀行に入行。経理部主計課長、企画部企画課長兼調査課長、総務部次長兼総務課長等を歴任。1967年10月に取締役に選任、1969年3月に東京支店長兼東京事務所長委嘱、1970年3月に常務、1982年4月に専務を経て、1987年4月に頭取に就任。1991年6月に会長に退き、1995年6月からは相談役を務めた。 2003年3月11日、心不全のために死去。82歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
佐藤 剛彦(さとう たけひこ、1917年8月17日 - 20… 佐藤 剛彦(さとう たけひこ、1917年8月17日 - 2013年1月29日)は、日本の実業家。河北新報社代表取締役を務めた。 宮城県仙台市出身。1941年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年に富士電機製造に入社。仙台営業所長を務めた。 1969年に河北新報社に転職。総務局長、販売局長、取締役、常務、専務を経て、1981年から2003年までに代表取締役を務めた。 東北放送取締役、河北ビル会長なども歴任した。 1991年11月に勲三等旭日中綬章を受章した。 2013年1月29日、肺炎のために死去。95歳没。
多藤 省徳(たとう せいとく、1916年 - )は、日本の実… 多藤 省徳(たとう せいとく、1916年 - )は、日本の実業家。生涯を捕鯨の発展に捧げた。鯨類研究所の大村秀雄は多藤を「捕鯨の大家」と賞賛した。 宮城県古川市(現大崎市古川)出身。旧制古川中学(宮城県古川高等学校)、1939年に函館高等水産学校(北海道大学の前身校の一つ)を卒業し極洋捕鯨に入社。小笠原捕鯨、北洋捕鯨、南氷洋捕鯨などに尽力。1961年の国際捕鯨オリンピックでは船団長として船団を率いた。その後、同社取締役、常務取締役、専務取締役、1976年には取締役副社長を歴任した。
武田 豊(たけだ ゆたか、1914年1月6日 - 2004年… 武田 豊(たけだ ゆたか、1914年1月6日 - 2004年2月15日)は、日本の実業家。宮城県高清水町出身。新日本製鐵(新日鉄)代表取締役会長、経済団体連合会(経団連)副会長、日本鉄鋼連盟会長などを歴任した。東京帝国大学法学部政治学科卒業。 宮城県仙台第一中学校 (現: 宮城県仙台第一高等学校 )、山形高等学校(現:山形大学)を経て1939年に東京帝国大学法学部政治学科(現:東京大学法学部政治学科)卒業後、同年4月日本製鐵(日鉄)入社。1950年同社解体により富士製鐵に移り、社長室秘書課長、人事部長などを経て、1970年3月八幡製鐵と合併し新日鉄が発足するとともに専務となり、1977年には副社長、1981年社長に昇格。
菊地 庄次郎(きくち しょうじろう、1912年 <明治45年… 菊地 庄次郎(きくち しょうじろう、1912年 <明治45年> 3月1日 - 1984年 <昭和59年> 8月31日)は、日本の経営者。日本郵船社長、会長を務めた。位階は従三位。 宮城県仙台市出身。1934年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年に日本郵船に入社。1959年に取締役に就任し、1961年に常務、1965年に専務を経て、1967年に副社長に就任し、1971年には社長に昇格した。1978年6月に会長に就任。 1973年11月に藍綬褒章を受章し、1982年4月に勲二等旭日重光章を受章。 1984年8月31日肝不全のために死去。72歳没。死没日付をもって従三位に叙された。
御法川 正男(みのりかわ まさお、1912年または1913年… 御法川 正男(みのりかわ まさお、1912年または1913年 - 2005年1月29日)は、日本の実業家。フリーアナウンサー・みのもんたの父親にあたる。日国工業(現:ニッコク)の代表取締役会長を務めた。 宮城県栗原郡鶯沢町(現・栗原市)出身。自身は息子であるみのもんたに日国の社長を継いでもらうことを希望していたが、みのもんたは文化放送にアナウンサーとして入社。同局退社後、みのもんたは日国に入社した。 ニッコクによると、2005年1月29日8時32分、死去。92歳没。
上法 快男(じょうほう よしお、1911年〈明治44年〉5月… 上法 快男(じょうほう よしお、1911年〈明治44年〉5月29日 - 2001年 )は、日本の陸軍軍人、実業家。陸軍主計将校として勤務。戦後は出版業界に入り、芙蓉書房社長や会長を務めた。 秋田県士族、上法眞廣(従五位勲三等陸軍主計中佐)次男。 弟は上法眞男(1945年1月、海上挺進第9戦隊長としてフィリピン ルソン島にて戦死、陸軍少佐)、上法達男(陸軍大尉)。 仙台一中・二高を経て東北帝国大学法文学部独法学科を卒業し、陸軍に入る。 主計将校として近衛歩兵第3連隊、歩兵第59連隊、第2師団、関東軍司令部、戦車第3師団、陸軍燃料本部総務部等で勤務し、階級は陸軍主計少佐に昇る。 1945年8月15日、陸軍省人事局附となり、人事局補任課にて復員軍人の職業輔導業務に従事。
安藤 太郎(あんどう たろう、1910年(明治43年)1月3… 安藤 太郎(あんどう たろう、1910年(明治43年)1月3日 - 2010年(平成22年)5月9日)は、日本の実業家。住友銀行副頭取、住友不動産社長・会長・相談役を務めた。第1次・第2次オイルショックの際に住友不動産を黒字化した実績から、「救世主」「中興の祖」と賞された。 安藤源治郎の長男として宮城県刈田郡七ヶ宿町で出生した。仙台二中、旧制水戸高校を経て、1934年(昭和9年)東京帝国大学法科を卒業して、住友銀行へ入行する。 住友銀行では、東京副支店長、東京事務所次長、本店営業部次長、そして銀座・日本橋の各支店長を歴任し、1959年(昭和34年)6月には東京事務所長、同11月取締役に就任する。
岩越 忠恕(いわごし ただひろ、1906年 <明治39年> … 岩越 忠恕(いわごし ただひろ、1906年 <明治39年> 7月4日- 1981年 <昭和56年> 3月19日)は、日本の経営者。日産自動車社長。位階は正四位。 鳥取県出身。旧制仙台一中、旧制弘前高校を経て、1931年に東京帝国大学経済学部商業学科を卒業。東京乗合自動車での勤務を経て、1937年に日産自動車に転じ、1952年11月に取締役に就任し、常務、専務、副社長を経て、1973年11月から1977年6月までに社長を務めた。 1971年4月に藍綬褒章を受章し、1976年11月に勲二等旭日重光章を受章した。 1981年3月19日、肝不全のために死去。74歳没。死没日付をもって正四位に叙された。
大槻 文平(おおつき ぶんぺい、1903年9月27日 - 1… 大槻 文平(おおつき ぶんぺい、1903年9月27日 - 1992年8月9日)は、日本の実業家。三菱鉱業セメント社長、三菱鉱業会長、旧日経連(現経団連)会長を歴任した。宮城県名誉県民。 宮城県伊具郡丸森町に生まれる。第一高等学校を経て、1928年東京帝国大学法学部卒業。同年、三菱鉱業株式会社に入社。1950年同社取締役、1955年同社常務取締役、1959年同社副社長、1963年同社代表取締役社長。1973年三菱鉱業セメント株式会社代表取締役社長、1976年同社取締役会長、1986年同社取締役相談役。1992年三菱マテリアル株式会社最高顧問・相談役。 社外では、日本セメント協会会長(1975年 - 1990年)、日経連会長(1979年 - 1987年)、金曜会代表世話人(1979年 - )、日本弘道会理事(1984年 - )などを歴任した。
杉谷 武雄(すぎや たけお、1903年 <明治36年> 8月… 杉谷 武雄(すぎや たけお、1903年 <明治36年> 8月7日 - 1992年 <平成4年> 3月9日)は、日本の経営者。三井信託銀行社長を務めた。位階は正四位。 宮城県仙台市出身。1926年に東京帝国大学法学部を卒業し、同年に三井信託銀行に入行。1948年10月に取締役に就任し、1957年11月に常務を経て、1960年5月には社長に就任。1968年11月に会長に就任し、1971年5月に取締役相談役を経て、1972年5月には相談役に就任。 1965年10月に藍綬褒章を受章し、1974年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1992年3月9日に脳梗塞のために死去。88歳没。死没日付をもって正四位に叙された。
山田 三郎太(やまだ さぶろうた、1902年11月29日 -… 山田 三郎太(やまだ さぶろうた、1902年11月29日 - 1967年9月12日)は、日本の経営者。 宮城県仙台市出身。1927年に東京帝国大学法学部を卒業し、同年に凸版印刷に入社。1937年に取締役に就任し、1941年に常務、1943年に専務を経て、1948年12月には社長に就任。1950年からは東京書籍社長も務めた。 1967年9月12日、肝臓病のために死去。64歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
平井 弥之助(ひらい やのすけ、1902年(明治35年)5月… 平井 弥之助(ひらい やのすけ、1902年(明治35年)5月16日 - 1986年(昭和61年)2月21日)は日本の電力土木技術者、電力事業経営者。昭和時代の電力開発に卓越した見識と強い使命感をもって貢献したと伝承されている。また女川原子力発電所等の建設にあたっては貞観地震、慶長三陸地震による大津波を考慮した適切な技術的助言を与えた。平井彌之助とも書く。 主な経歴は『土木史研究』第18号による。 平井は次に示す伝承のように、技術者としての合理性と電気事業者としての責任感に基づいて地震・津波対策の重要性を説いた。地震・津波の恐ろしさを実感していたと云われ、「貞観大津波(869年)は岩沼の千貫神社まで来た」と語っていたという。
白石 稔(しらいし みのる、1900年 <明治33年> 5月… 白石 稔(しらいし みのる、1900年 <明治33年> 5月2日 - 1985年 <昭和60年> 11月12日)は、日本の経営者。三菱製紙社長を務めた。位階は従四位。 宮城県仙台市出身。1923年に東京帝国大学法学部法科を卒業し、同年に三菱製紙に入社。1947年に取締役に就任し、1949年に常務を経て、1957年12月から1963年5月までに社長を務めた。奥野煕社長の体調不良により、再び1965年5月から1970年5月までに社長を務め、1970年5月から1973年5月までに会長を務めた。 1963年に藍綬褒章を受章し、1968年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 1985年11月12日心不全のために死去。
早坂 順一郎(はやさか じゅんいちろう、1900年(明治33… 早坂 順一郎(はやさか じゅんいちろう、1900年(明治33年)4月4日 - 1981年(昭和56年)1月22日)は、日本の実業家。徳陽相互銀行、東北放送社長などを務めた。 1917年旧制古川中学校(宮城県古川高等学校)を卒業。建築業に従事し、古川町、古川市議会議員、同議会議長を務め、その傍ら太洋無尽の外交員にもなり、1940年3月には古川出張所長に就いた。1942年4月、太洋無尽、東北無尽、宮城無尽が戦時統合で「三徳無尽」として発足すると、古川支店長、副社長を経て、1950年に社長となった。1951年10月、相互銀行法の施行に伴い、三徳無尽は「徳陽相互銀行」に商号を改めている。 宮城県内企業の首都圏との結びつきに早くから着目し、県外への出店を積極的に進めた。
赤坂 武(あかさか たけし、1900年 <明治33年> 1月… 赤坂 武(あかさか たけし、1900年 <明治33年> 1月18日 - 1971年 <昭和46年> 6月6日)は、日本の経営者。日本鋼管社長を務めた。位階は従三位。 宮城県角田市出身。1925年に東北帝国大学法文学部経済学科を卒業。 日本生命保険での勤務を経て、1939年に日本鋼管に転じ、1949年2月に取締役、1959年5月に常務、1961年11月に副社長を経て、1963年11月に社長に就任。経済団体連合会、日本経営者団体連盟各常任理事も務めた。 1965年に藍綬褒章を受章し、1970年4月に勲二等旭日重光章を受章。 1971年6月6日、胃癌のために死去。71歳没。死没日付をもって従三位に叙され、勲一等瑞宝章を追贈された。
早川 種三(はやかわ たねぞう、1897年(明治30年)6月… 早川 種三(はやかわ たねぞう、1897年(明治30年)6月6日 - 1991年(平成3年)11月10日)は、日本の実業家。戦後数々の大型倒産において管財人として企業再建に取り組み、「会社再建の神様」と呼ばれている。 宮城県宮城郡七郷村南小泉(現仙台市)に早川智寛・長子夫妻の子として生まれる。父智寛は土建業で財を成したが、すでに第一線を退き、仙台商業会議所会頭や米穀取引所理事長などの名誉職にあった。後に仙台市長にも就任した。 慶應義塾大学在学中は茶屋遊びをはじめとする放蕩生活で遺産を蕩尽した。慶大を5回落第し、卒業するのに10年もかかった。20歳の時に父が財産分けしてくれた30万円(今だと2、3億円になる)を10年間にほぼ使い果たした。