乳井 義博(にゅうい よしひろ、1906年〈明治39年〉 -… 乳井 義博(にゅうい よしひろ、1906年〈明治39年〉 - 1975年〈昭和50年〉)は、日本の剣道家。高野佐三郎(修道学院)の高弟で、高野から剣道十段を授与された。 秋田県鹿角郡花輪村(現・鹿角市花輪)生まれ。1920年(大正9年)に上京し、14歳で高野佐三郎の道場修道学院に入門。中西派一刀流を学ぶ。 1922年(大正11年)頃、修道学院を抜け出し、単身武者修行の旅に出る。各地を渡り歩き、満州にまで上陸する。その後修道学院に戻る。修道学院三羽烏の一人に数えられ「白鬼」の異名をとる。 1929年(昭和4年)、高野の推薦により、22歳で宮城県仙台市の第二高等学校剣道師範に就任。育英中学校、小牛田農林高校、東北帝国大学などでも指導する。
豊口 克平(とよぐち かつへい、1905年(明治38年)11… 豊口 克平(とよぐち かつへい、1905年(明治38年)11月16日 - 1991年(平成3年)7月18日)は、日本のインダストリアルデイナーである。秋田県秋田市出身。 東京高等工芸学校(現在の千葉大学)卒業後、デザイナー活動を初める。当初は森谷延雄に師事していたが、後に急逝したため蔵田周忠に師事した。1928年(昭和3年)に蔵田と共に「形而工房」を結成する。1933年(昭和8年)には商工省(現在の経済産業省)工芸指導所に入省し、主に家具の制作計画や研究に携わった。 第二次世界大戦後は家具のみならず、航空機のインテリアデザインやカメラ、顕微鏡等の精密機械のデザインに携わり、数多く受賞した。特に豊口が開発した椅子は「スポークチェア」と呼ばれ、楕円形の椅子といった斬新な椅子であり、「トヨさんの椅子」と称された。
伊賀山 正光(いがやま まさみつ、1905年8月25日 - … 伊賀山 正光(いがやま まさみつ、1905年8月25日 - 2001年10月29日)は、日本の映画監督である。本名・旧名伊賀山 正徳(いがやま まさのり)。 1905年(明治38年)8月25日、秋田県秋田市保戸野表鉄砲町 (現在の同市保戸野鉄砲町)に生まれる。 旧制・秋田県立秋田中学校(現在の秋田県立秋田高等学校)を卒業、東京に移り、明治大学に入学する。日本大学法文学部美学科(現在の日本大学藝術学部)に移籍し、在学中の1925年(大正14年)、国際活映巣鴨撮影所が製作した内田吐夢監督の『義血』で助監督を務めている。同作の撮影技師は円谷英二であり、同作は同年2月6日に公開されている。1927年(昭和2年)、同学の卒業と同時に、タカマツ・アズマプロダクション吾嬬撮影所に助監督として入社したが、同社は同年後半に活動を停止しており、翌1928年(昭和3年)には、京都の勝見庸太郎プロダクションに移籍した。
松田 解子(まつだ ときこ、本名:大沼 ハナ、1905年〈明… 松田 解子(まつだ ときこ、本名:大沼 ハナ、1905年〈明治38年〉7月18日 - 2004年〈平成16年〉12月26日)は、日本の小説家。秋田県仙北郡荒川村出身。長男に記録映画作家の大沼鉄郎がいる。 三菱鉱山経営の荒川鉱山に育った松田は、大盛小学校を卒業すると鉱山の事務所でタイピストなどをしながら文学に触れていた。1923年に秋田女子師範(本科第二部、一年制)に入学、卒業後母校の大盛小学校に赴任する。1926年に職を辞して上京した。上京後、労働運動に参加し、その中で大沼渉と結婚する。結婚、子育てのなかの体験が初期の作品のなかに生かされている。1928年、読売新聞の女流新人短編募集に応じた「産む」が入選し、1929年には『女人芸術』に「乳を売る」が掲載された。
石川 達三(いしかわ たつぞう、1905年〈明治38年〉7月… 石川 達三(いしかわ たつぞう、1905年〈明治38年〉7月2日 - 1985年〈昭和60年〉1月31日)は、日本の小説家。社会性の濃い風俗小説の先駆者で、『蒼氓』により第1回芥川賞受賞。華中従軍から得た『生きてゐる兵隊』は発禁処分を受けた。戦後は、新聞小説や社会における個人の生活、愛、結婚をテーマにした作品でベストセラーを連発。書名のいくつかは流行語にもなった。記録的手法に拠る問題意識の明確な作風が特徴。社会的・文壇的活動も活発で、日本ペンクラブ会長、日本文芸家協会理事長、日本文芸著作権保護同盟会長、アジア・アフリカ作家会議東京大会会長などを務めた。日本芸術院会員。 秋田県平鹿郡横手町(現・横手市)に父石川祐助、母ウンの三男として生まれる(兄弟妹は7人、のち異母弟妹4人)。
幡瀬川 邦七郎(はたせがわ くにしちろう、1905年6月1日… 幡瀬川 邦七郎(はたせがわ くにしちろう、1905年6月1日 - 1974年5月12日)は、秋田県雄勝郡幡野村(現:秋田県湯沢市)出身で伊勢ヶ濱部屋(入門時は楯山部屋)に所属した大相撲力士。本名は大野 邦七郎(おおの くにしちろう)(旧姓:佐藤)。最高位は東関脇。 1905年6月1日に秋田県雄勝郡幡野村(現:秋田県湯沢市)で小作農家を営む家に生まれる。子供の時から骨太の体格で、運動神経が良いために動きも俊敏で度胸があり、幡野小学校で相撲を取り始めた。県内の小学校対抗試合でも高等科の生徒を向こうに回して圧勝したが、負けず嫌いの性格だったために決勝戦で敗れると悔しさのあまり泣くほどだった。小兵ながら宮相撲で圧倒的な強さを誇っており、家業でも大人顔負けの作業量を引き受けて周囲を驚かせた。
鈴木 敬信(すずき けいしん、1905年5月12日 - 19… 鈴木 敬信(すずき けいしん、1905年5月12日 - 1993年1月27日)は、日本の天文学者。専門分野は位置天文学、日食計算論。 東京学芸大学名誉教授。秋田県秋田市出身。一部の人名事典では出身地が東京都になっているものもある。なお、小惑星の(2393) Suzukiは、彼に因み命名された。 旧制第一高等学校を経て1929年、東京帝国大学理学部天文学科を卒業。広島第一中学校教諭、赤羽工兵隊幹部候補生、東京科学博物館嘱託を経て1939年、海軍水路部技師となる。水路部では編暦に従事し、『天体位置表』を創刊した。 1951年、運輸大臣賞(「天体位置表の創刊」により)。 1952年、東京学芸大学教授に就任し、1969年退官。
秋田嶽 由藏(あきただけ よしぞう、1905年3月27日 -… 秋田嶽 由藏(あきただけ よしぞう、1905年3月27日 - 1940年11月27日)は、秋田県横手市出身で春日野部屋に所属した元大相撲力士。本名は松岡 由蔵。最高位は十両4枚目。 春日野部屋に入門し、1925年1月初土俵を踏む。番付を上げ、1932年1月には幕下上位に上がった。番付発表直後に起きた春秋園事件で大量の幕内十両の脱退者が出たため、その穴埋めのため東十両7枚目に昇進した。新十両の場所とその翌場所はともに3勝止まりと振るわず、幕下に落ちた。1933年1月に再十両で6勝5敗と初めて勝ち越した。3場所連続十両にいて、一度幕下に落ちるが1935年1月に十両に復帰、4場所連続在位した。その後再び幕下に落ち、「千雄山」と改名したが、1939年1月に廃業。
青江 舜二郎(あおえ しゅんじろう、1904年11月26日 … 青江 舜二郎(あおえ しゅんじろう、1904年11月26日 - 1983年4月30日)は、日本の劇作家、評論家。本名は大嶋長三郎。秋田県秋田市生まれ。 1904年(明治37年)11月26日、薬卸小売商「衛生堂」の長男として茶町梅ノ丁(現在の大町四丁目)に誕生。衛一と命名されるが、1915年(大正4年)、父が逝去したため、その名前を継いで以後は長三郎を名乗る。旧制秋田中学(現在の秋田県立秋田高等学校)、旧制第一高等学校を経て、1929年(昭和4年)東京帝国大学文学部印度哲学科卒業。 大学在学中、第九次「新思潮」同人となり、同誌に掲載された戯曲『火』『見物教育』が小山内薫に認められ、師事する。大学卒業後、香川県社会教育主事として高松に赴任するが、劇作に専念するため4年後に再度上京。
羽後響 助枩(うごひびき すけまつ、1904年6月26日 -… 羽後響 助枩(うごひびき すけまつ、1904年6月26日 - 没年不明)は、秋田県北秋田郡森吉町(現北秋田市)出身で出羽海部屋に所属した元大相撲力士。本名は武石 助松。身長167cm、体重90kg。最高位は西十両筆頭。 1921年1月初土俵、1928年1月十両昇進。十両では負け越したり休場したりと幕下に何度も落ちたりしたが、1931年1月に4回目の十両昇進で東十両7枚目に付いてから定着し、5月に西十両筆頭まで躍進した。この場所と翌10月場所で勝ち越し、次の場所での新入幕が確実とみられたが、1932年1月場所の新番付では入幕どころか1枚下の西十両2枚目にされた。番付発表当日に起きた春秋園事件に加担し、1932年1月脱退(番付上は削除、実質的最終場所は1931年10月)し、天竜三郎率いる新興力士団に加わった。
中山善三郎(なかやま ぜんざぶろう、1904年(明治37年)… 中山善三郎(なかやま ぜんざぶろう、1904年(明治37年)6月21日 - 1974年(昭和49年)1月13日)は、日本のジャーナリスト、劇作家。劇作家としての筆名は塩谷国四郎。 1904年(明治37年)秋田市本町(現在の秋田市大町)に生まれる。日本大学卒。 1927年(昭和2年)、毎日新聞社入社。日米開戦前後には、海軍徴用報道班員として鹿屋海軍航空隊に随行し、戦況などを日本に伝えた。この折の体験を基に実録「真珠湾奇襲」「不沈戦艦北へ」を執筆している(いずれも『大東亜戦史 1 太平洋編』所収)。戦後、西部本社社会部長兼地方部長、横浜支局長、東京本社連絡部長、東京本社社会部長、サンデー毎日編集長を歴任した。
木村 雄吉(きむら ゆうきち、1904年4月17日 - 19… 木村 雄吉(きむら ゆうきち、1904年4月17日 - 1989年10月10日)は、日本の生化学者・科学哲学者、東京大学名誉教授。木村謹治の弟。 秋田県秋田市生まれ。山形高等学校を経て、1928年東京帝国大学理学部動物学科卒。大学では五島清太郎に師事、求道学舎で近角常観に師事する。医学部生化学教室で柿内三郎に教えを受け、1933年理化学研究所入所、1937年第二高等学校教授、1946年東京医科歯科大学教養部設立に参与。1949年東京大学教養学部教授。1956年伝染病研究所細胞化学研究部長。1965年定年退官。1974年勲三等瑞宝章受章。1989年10月10日、肺癌のため死去。
勝平 得之(かつひら とくし、1904年4月6日 - 197… 勝平 得之(かつひら とくし、1904年4月6日 - 1971年1月4日)は、秋田県秋田市本町(現在の大町)生まれの版画家。本名・勝平徳治。 家業である紙漉き業、左官業の傍ら絵を書いていたところ、竹久夢二の絵に惹かれ浮世絵版画を始める。このとき、色刷版画の研究をし、1928年に自画、自刻、自刷の彩色抜法を完成させる。以後、故郷秋田の情景を描き続ける。1929年には日本版画協会展に「外濠夜景」、「八橋街道」が入選。その後、1931年の第12回帝展で第2部初入選など、数々の展覧会に多数入選し国内に名を轟かせた。1935年、秋田県を訪れたブルーノ・タウトと知り合いになり、作品が世界に紹介された。ケルン東洋美術館には代表作およそ70点が保存されている。
佐々木 カネヨ(ささき カネヨ、1904年3月11日 - 1… 佐々木 カネヨ(ささき カネヨ、1904年3月11日 - 1980年10月24日)は、絵画や写真の美術モデル。別名に、永井カ子ヨ(かねよ)、お葉がある。
築地 俊龍(つきじ しゅんりゅう、1904年3月7日 - 1… 築地 俊龍(つきじ しゅんりゅう、1904年3月7日 - 1972年11月13日)は、日本の野球選手である。 秋田県馬川村久保(後の秋田県五城目町久保)にある自性院(じしょういん)の住職であった父龍明、母ヨシの長男として生まれる。幼名は龍夫(たつお)といったが、寺を継がせたいという父親の意向で小学校卒業のころに俊龍と改名した。 子供のころは川原で石投げ遊びをしていると誰よりもと奥まで石を投げることができたという強肩の片鱗を見せていた。1918年に県立秋田中学校(後の秋田県立秋田高等学校)に入学。180センチ近い身長で頑健な体格から多くの運動部の勧誘を受ける中、遠投力を見込まれて野球部に入部。1922年に仙台市で行われた東北中学校野球大会では、秋田中学校のエースピッチャーとして決勝までの5試合を一人で投げ抜いて同校を優勝に導き、東北から唯一の全国大会への出場権を得た。
新海 幸藏(しんかい こうぞう、1904年2月29日 - 1… 新海 幸藏(しんかい こうぞう、1904年2月29日 - 1976年2月17日)は、秋田県河辺郡新屋町 (現秋田市新屋)出身で出羽海部屋(入門時は入間川部屋)に所属した大相撲力士。本名は中野 幸藏(なかの こうぞう)。新海という四股名は「あらうみ」と読まれていたが、何故かいつの間にか「しんかい」と読まれるようになり、現在ではこちらのほうが通りがよい。最高位は東関脇。 日新小学校高等科を卒業後に、地元の高堂茶店に勤めた。最初、茶店に母に連れられて訪れた時に、体格を見た主人から幸蔵本人ではなく父と勘違いされた。1920年の暮れに単身で上京して、入間川部屋に入門した。1921年1月場所に初土俵を踏むが、その後に出羽海部屋へ移籍した。
ジョー・オハラ(英語: Joe Ohara, 1903年12… ジョー・オハラ(英語: Joe Ohara, 1903年12月10日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名は仁平 久(にへい ひさし)。別表記ジョウ・オハラ、ジョー・オ・ハラ、ジョー 大原(ジョー おおはら)。別芸名大原 仁美(おおはら ひとみ)、大原 譲および大原 穣(おおはら じょう)。新派俳優西田敏夫と共に小松商会の専属俳優から始まり、新興キネマ東京撮影所、大映東京撮影所などで長く活躍した名脇役として知られる。 1903年(明治36年)12月20日、秋田県秋田市に生まれる。 旧制・秋田県立秋田中学校(現在の秋田県立秋田高等学校)を卒業し東京へ移転、旧制・専修商業学校(現在の専修大学)を卒業した後に映画会社小松商会に入社している。
小林 多喜二(こばやし たきじ、1903年(明治36年)12… 小林 多喜二(こばやし たきじ、1903年(明治36年)12月1日[注釈 1] - 1933年(昭和8年)2月20日)は、日本のプロレタリア文学の代表的な作家、小説家である。
伊藤 永之介(いとう えいのすけ、1903年11月21日 -… 伊藤 永之介(いとう えいのすけ、1903年11月21日 - 1959年7月26日)は、日本の小説家。 秋田県秋田市西根小屋末町出身。父親の事業(菓子屋)失敗のため上級学校への進学はかなわず、中通高等小学校の補習科を出た後、日本銀行秋田支店で文書係をしながら雑誌投稿を始める。 1924年に同郷の金子洋文を頼って上京。その紹介で雑誌『文芸戦線』に評論を発表して、文筆活動にはいる。最初は評論を書いていたが、1928年『文芸戦線』に「見えない鉱山」を発表、プロレタリア文学の新進作家として注目を浴びる。『文芸戦線』誌の編集に携わりながら小説を発表し、『戦旗』に対抗する労農派の作家として、同誌を支えた。この時期の代表作として、「総督府模範竹林」(1930年)、「万宝山」(1931年)などの植民地に取材した作品がある。
平田 小六(ひらた ころく、1903年11月1日 - 197… 平田 小六(ひらた ころく、1903年11月1日 - 1976年5月18日)は、日本の作家。 秋田県生まれ。弘前中学校卒。プロレタリア文学の作家として出発、農民小説を書く。戦後は新日本文学会所属。 英語教師である父・孝次郎の勤務先である秋田県大館町に生まれる。第五十九国立銀行の行員となった父の転勤に伴い、幼い時期は青森県内を転々とする。1923年(大正12年)に弘前中学校を卒業すると、家計を助けるために進学を断念して代用教員に就く。1924年、北津軽郡小泊村下前尋常小学校(後の下前小学校。2010年に小泊小学校に統合され閉校)に訓導として着任する。(下前尋常高等小学校は明治9年に完成しました)この下前での2年弱の体験が、後の『囚はれた大地』の原型となった。
菊池 栄一(きくち えいいち、1903年8月17日 - 19… 菊池 栄一(きくち えいいち、1903年8月17日 - 1986年8月25日)は、日本のドイツ文学者。東京大学名誉教授。 1903年、秋田県生まれ。秋田中学を経て、東京帝国大学ドイツ文学科を卒業。卒業後は第一高等学校教授となった。 太平洋戦争後の1949年、東京大学教養学部教授に着任。1955~57年ハンブルク大学客員教授。1962年、『イタリアに於けるゲーテの世界』を提出して文学博士号を取得。1963年に東京大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は日本大学教授として教鞭をとった。学界では、1980年より日本ゲーテ協会会長をつとめた。
大矢崎 信哉(おおやざき しんや / のぶや、1903年5月… 大矢崎 信哉(おおやざき しんや / のぶや、1903年5月20日 - 没年不明)は、大正・昭和時代の大相撲力士。峰崎部屋→片男波部屋→伊勢ノ海部屋→花籠部屋所属。本名は木越 信哉。最高位は十両2枚目。 秋田県北秋田郡田代町(現大館市)出身。1920年5月初土俵を踏む。1925年1月十両に昇進。番付を上げ、1926年1月には西十両2枚目まで進んだが、この場所で負け越してからは番付を下げ、1927年1月に幕下に落ちた。1927年10月再十両、この場所と翌場所も負け越し、再び幕下に落ちた。1928年5月に十両復帰。連続6場所務めた後、1930年1月幕下に落ち、同年10月に廃業した。 甥は伊勢ヶ濱部屋の元十両力士の大矢崎武男。
若瀬川 栄蔵(わかせがわ えいぞう、1903年2月19日 -… 若瀬川 栄蔵(わかせがわ えいぞう、1903年2月19日 - 1990年3月20日)は、秋田県平鹿郡雄物川町(現・横手市)出身で伊勢ヶ濱部屋(入門時は楯山部屋)に所属した大相撲力士。本名は佐藤 永藏(さとう えいぞう)→ 中川 永藏(なかがわ えいぞう)。身長167cm、体重90kg。最高位は東前頭筆頭。得意手は左四つ、突き、押し。引退後は一時期、年寄として後進の指導に尽力した。 同郷の縁で清瀬川敬之助のもとに入門、1921年5月場所に初土俵を踏む。丁度この場所より、清瀬川が所属していた熊ヶ谷部屋を出て、楯山部屋預かりの状態になっていたため、書類上は楯山部屋所属となっていた。 1925年1月には三段目で全勝するなど、下位でも力を発揮し、幕下では少しもたつくも1929年1月に十両昇進、1930年の1月場所に新入幕を果たした。
田口秋魚(たぐち しゅうぎょ、1903年(明治36年)-19… 田口秋魚(たぐち しゅうぎょ、1903年(明治36年)-1988年(昭和63年)1月24日)は、現在の秋田県仙北市角館町上新町生まれの画家。本名は田口徳蔵。 1926年(大正15年)荒川青亭に師事、1927年には上京して同郷の平福百穂の門に入り、1932年(昭和7年)には川端画学校に入学して日本画を学んだ。1933年10月30日の平福百穂の死に会した唯一の門人。百穂没後は吉田秋光に師事した。戦前在京中は童画を好み、三越百貨店で毎年ひらかれる童宝展に出品した。1937年(昭和12年)9月の日中戦争に応召したのち、満州・中国で約600枚の戦線スケッチをのこした。戦後は郷里角館に帰り、高等学校での美術指導や創作活動にたずさわった。
鈴木 弥五郎(彌五郎、すずき やごろう、1902年(明治35… 鈴木 弥五郎(彌五郎、すずき やごろう、1902年(明治35年)10月11日 - 1951年(昭和26年)12月31日)は、大正から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。 秋田県平鹿郡浅舞町六日町(平鹿町を経て現横手市)で生まれる。 小学校卒業後、甘粕正彦大尉と知り合い、満州に渡り特務機関員として活動。帰国して熊谷直太代議士の秘書を務めた。その後、大阜鉱業取締役、東北鉱業専務取締役、帝国農産興業社長、北洋漁業労働組合委員長などを務めた。 その後、秋田県平鹿郡増田町に移り開拓事業に従事。東北日本国民党を設立して1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙に秋田県全県区から出馬して当選。1947年(昭和22年)4月の第23回総選挙で秋田県第2区から民主党公認で出馬して再選され、衆議院議員に連続2期在任した。
矢田 不二郎(やだ ふじろう、1902年(明治35年)8月2… 矢田 不二郎(やだ ふじろう、1902年(明治35年)8月20日 - 1981年(昭和56年)1月29日)は、大和生命の5代目取締役社長。実妹は小説家の矢田津世子。妹の人生、文学に大きな影響を与えた。 秋田県南秋田郡五城目町出身。五城目町助役の父鉄三郎、母チヱ夫妻の次男として出生。秋田中学に進学したが父の退職と秋田市転居、1916年の上京にともなって明治中学(現・明治大学付属明治高等学校・中学校)に転校した。その後、第一高等学校から1923年には東京帝国大学法学部法律学科へ進学した。 大学卒業後、1926年大和生命の前身・日本徴兵保険株式会社に就職。翌年から1932年まで名古屋支店に勤務。名古屋の同人誌「第一文学」に妹津世子とともに加入。
佐竹 義輔(さたけ よしすけ、1902年8月8日 - 200… 佐竹 義輔(さたけ よしすけ、1902年8月8日 - 2000年3月31日)は、日本の植物学者。佐竹氏一門の佐竹南家第19代当主、男爵。湯沢市名誉市民。日本高山植物保護協会会長。 1902年、秋田県で佐竹南家の佐竹義雄の次男として生まれた。旧名は佐竹義宏。次男であったため、はじめ早川家の養子となったが、兄の義質の急死に伴い佐竹南家の当主となり、男爵位を継承した。 秋田県立橫手中学校(現、秋田県立横手高等学校)を経て、東京帝国大学(現、東京大学)理学部に進む。東京大学に学位論文「Boehmeria japonica (日本産やぶまを屬)」を提出して理学博士号を取得。大学卒業後は東京科学博物館 (現:国立科学博物館) の植物研究部長に就任した。
初瀬 音羽子(はつせ おとわこ、1902年(明治35年)2月… 初瀬 音羽子(はつせ おとわこ、1902年(明治35年)2月7日 - 1993年(平成5年)9月19日)は、宝塚少女歌劇団元月組男役・元月組組長の女優。本名:村田八重。旧姓:東海林。秋田県出身。入団時の芸名は初瀬乙羽子(はつせ・おとわこ)。 この芸名は小倉百人一首の第33番:源俊賴の『憂かりける 人を初瀨の 山颪よ 激しかれとは 祈らぬものを (うかりける ひとをはつせの やまおろしよ はげしかれとは いのらぬものを)』から命名された。
平岡 均之(ひらおか きんし、1901年12月23日 - 1… 平岡 均之(ひらおか きんし、1901年12月23日 - 1976年3月30日)は、日本の作曲家、小学校教員。教科書掲載の童謡『若葉』の作曲者として知られる。 本名は、均。秋田県仙北郡神代村(現・仙北市)に生まれる。秋田市立中通小学校に入学したが、父が中学校教員となり、旧制埼玉県立熊谷中学校(現・埼玉県立熊谷高等学校)に赴任したため均之自身も埼玉県熊谷町(現・熊谷市)に引っ越す。熊谷市立石原小学校を経て、旧制埼玉県立熊谷中学校に入学。 大正7年、父が亡くなった為熊谷中学校を5年で中退(4年終了)。 大正11年、群馬県新田郡強戸小学校代用教員となる。同年、小学校音楽専科正教員となり大正14年、足利尋常小学校相生校訓導となる。
笹山 茂太郎(ささやま しげたろう、1901年10月15日 … 笹山 茂太郎(ささやま しげたろう、1901年10月15日 - 1982年5月15日)は、日本の政治家。秋田県横手市出身。位階は従三位、勲等は勲一等。衆議院議員(9期)などを務めた。 秋田県立横手中学校、第一高等学校を経て、1926年東京帝国大学英法科卒業。農林省入省。販売改善課長、埼玉県経済部長、米穀課長、本省会計課長などを経たが、その後、山林局長のときに、戦時中の政府・軍部の方針であった里山伐採・平地林伐採運動について『行き過ぎのないように』との局長通達を全国の林務課長あてに出したことが、全国知事会で問題となり、熊本の営林局長に左遷させられる事態となった。本省の局長が営林局長に降格されることは、いまだかつてないことであった。
山田 順子(やまだ ゆきこ、1901年6月25日 - 196… 山田 順子(やまだ ゆきこ、1901年6月25日 - 1961年8月27日)は、日本の小説家。徳田秋聲、竹久夢二などの愛人として知られる。 本名ユキ。秋田県由利郡本荘町(現由利本荘市)に廻船問屋の長女として生まれる。山田家は明治維新以前は本荘藩に仕える士族だったが、明治期に炭の商いから成功して金貸しなども手がけ、父親の代に廻船業に転じた。気丈で美貌の祖母を慕っていたが、順子が7歳のころにその祖母が投身自殺し、精神的に多大な影響を受ける。 秋田県立秋田高等女学校(現秋田県立秋田北高等学校)を卒業し、1920年に19歳で東京帝国大学出の弁護士増川才吉と結婚して小樽に住む。長女出産後、病で片方の乳房を失う。
石田 民三(いしだ たみぞう、1901年6月7日 - 197… 石田 民三(いしだ たみぞう、1901年6月7日 - 1972年10月1日)は、日本の映画監督。 秋田県平鹿郡増田町(現・横手市)生まれ。1926年に『愛傷』で監督デビュー。東亜キネマでは主に剣戟映画を手がけていたが、帝キネ、新興キネマ時代に鈴木澄子主演の女性映画、明治もので頭角を現し、東宝京都時代には花街映画の傑作を立て続けに発表した。浪曲映画から戦後は観光映画まで、生涯に手がけた映画は約90本。戦後は京都の花街・上七軒で妻とお茶屋を営みながら北野をどりの作・演出を行った。 新東宝に在籍していた映画監督の加戸野五郎は実弟。 この項目は、映画監督に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ映画)。
渡辺 啓助(わたなべ けいすけ、1901年1月10日(190… 渡辺 啓助(わたなべ けいすけ、1901年1月10日(1900年末?) - 2002年1月19日)は、日本の推理作家。本名は渡辺 圭介。渡辺伊太郎・渡辺ツネの次男で、画家の渡辺東は娘、推理作家の渡辺温は実弟である。秋田県秋田市生まれ。 セメント技師の父の赴任のため、生後まもなく北海道谷好村(現在の北斗市)に、次いで1905年東京・深川に、1912年茨城県高鈴村(現在の日立市)に転居。茨城県水戸中学校(現在の茨城県立水戸第一高等学校)を経て、1920年青山学院高等部英語師範科入学。1925年同校を卒業し、群馬県立渋川中学校(現在の群馬県立渋川高等学校)で英語教員となるが、翌1926年辞職し九州帝国大学(現在の九州大学)法文学部史学科に入学。
竹村 吉右衛門(たけむら きちえもん、1900年10月11日… 竹村 吉右衛門(たけむら きちえもん、1900年10月11日 - 1984年6月7日)は、日本の実業家。安田生命保険取締役会長や、同社取締役社長を務め、中興の祖とされた。 秋田県北秋田郡大館町(現・大館市)出身。大館尋常小学校を経て、1918年秋田県立大館中学校(現・秋田県立大館鳳鳴高等学校)卒業。1921年小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)卒業。1924年東京商科大学(現・一橋大学)商学部卒業(井浦仙太郎ゼミ)。 大学卒業後、安田銀行に入行。安田銀行金融課長、安田銀行小舟町支店長、安田銀行取締役本店営業部長、日本貯蓄銀行専務取締役などを歴任したが、日本の降伏後、公職追放となる。 1950年安田生命保険取締役会長に復帰。
赤松 貞雄(あかまつ さだお、1900年(明治33年)5月2… 赤松 貞雄(あかまつ さだお、1900年(明治33年)5月21日 - 1982年(昭和57年)8月16日)は、大正末から昭和期の陸軍軍人。階級は陸軍大佐。 東條英機大将の、陸相秘書官・首相秘書官として知られる。小松崎力雄陸軍少将は兄。 陸軍大佐・小松崎清職の三男として秋田県に生まれ、後に赤松久吾の養子となる。京華中学校で学び、仙台陸軍地方幼年学校(33期)を卒業。1922年(大正11年)7月、陸軍士官学校(34期)を卒業。同年10月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第1連隊附となる。 1925年(大正14年)10月、歩兵中尉に昇進。1931年(昭和6年)12月、陸軍大学校(46期)に入学。1932年(昭和7年)4月、歩兵大尉に進み、1934年(昭和9年)11月、陸大を優等で卒業し歩兵第1連隊中隊長となる。
松井 如流(まつい じょりゅう、1900年〈明治33年〉3月… 松井 如流(まつい じょりゅう、1900年〈明治33年〉3月31日 - 1988年〈昭和63年〉1月16日)は、歌人、書家。 秋田県平鹿郡横手町(現・横手市)出身。旧姓は猿田。本名は郁次郎。橋田東聲に師事し、歌誌『覇王樹』に入り、1954年から同誌主宰。吉田苞竹に書を学び、隷書「杜少陵詩」で64年日本藝術院賞受賞。日展理事、大東文化大学教授。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
富木 謙治(とみき けんじ、1900年3月15日 - 197… 富木 謙治(とみき けんじ、1900年3月15日 - 1979年12月25日)は、日本の武道(合気道・柔道)家。教育学者(武道論)。日本合気道協会、秋田県角館町(後の仙北市)出身。 満州建国大学教授、早稲田大学教育学部教授を歴任、合気道創始者・植芝盛平の高弟として成立期の合気道に理論面で影響を与え、自ら考案した競技合気道の普及発展に努めた。講道館柔道創始者・嘉納治五郎が柔術を柔道に昇華させたように、合気道をより昇華させることを目指し、合気道の乱取り稽古を考案し導入した。富木の合気道は乱取り稽古を行うなど、他の会派と異なる点も多く、区別するため、「富木流合気道」、「富木合気道」と通称される(ただし、富木自身はこの呼称を用いておらず、「新合気道」「合気道競技」と命名していた)。
榊田 敬二(、1900年〈明治33年〉1月15日 - 没年不… 榊田 敬二(、1900年〈明治33年〉1月15日 - 没年不詳)は、日本の俳優。本名・旧芸名は榊田 敬治(読み同じ)。おもに現代劇に出演し、戦後は東宝特撮に多く出演。 1900年(明治33年)1月15日、秋田県仙北郡大曲町に生まれる。 東京に移り、旧制・赤坂中学校(現在の日本大学第三高等学校)を卒業後、1921年(大正10年)10月、高田馬場に撮影所を持つ小松商会に入社し、『熱火の狼』に出演し、満21歳で映画界にデビューした。1923年(大正12年)9月1日の関東大震災の後、京都に移り、日活大将軍撮影所に入社、1924年(大正13年)7月4日に公開された三枝源次郎監督の『民族の黎明』に出演している。
東海林 武雄(しょうじ たけお、1900年1月14日 – 1… 東海林 武雄(しょうじ たけお、1900年1月14日 – 1988年9月20日)は、日本の実業家。元旭電化工業社長、元日本専売公社(現・日本たばこ産業)総裁。 秋田県生まれ、北海道小樽市育ち。旧制小樽中学校(現・北海道小樽潮陵高等学校)を経て、1925年早稲田大学政治経済学部を卒業。旭電化工業に入社する。1953年に社長に就任し、主に工業用マーガリンの製造販売を中心に業績を伸ばす。早大時代は浅沼稲次郎も加入していた左派学生団体「建設者同盟」で活動していたこともあり、修正資本主義派の論客としても知られ、1952年から1955年まで経済同友会代表幹事も務めた。 1962年、中山素平(日本興業銀行頭取)、佐々木直(日本銀行副総裁)らに請われ、経営不振に陥っていた藤山コンツェルンの中核企業日東化学工業の社長に就任、再建に尽力する。
中村 紅果(なかむら こうか、1899年5月7日 - 196… 中村 紅果(なかむら こうか、1899年5月7日 - 1961年1月29日)は、日本の俳優である。本名中村 縣三(なかむら けんぞう)、別芸名中村 憲三(なかむら けんぞう)。 1899年(明治32年)5月7日、秋田県雄勝郡弁天村(現在の同県湯沢市弁天地区)に、旧家の主である父・中村一徳の三男として生まれる。 旧制・秋田縣立横手中學校(現在の秋田県立横手高等学校)を卒業し、1917年(大正6年)に東京に移り、出版社の雑誌記者や旧制小学校の教師などの職を経て、早稲田大学文科に入学、坪内逍遙の新文藝協会に入って新劇運動に参加する。1920年(大正9年)に明治座での『法難』で岡田嘉子、加藤精一らと共演、初舞台を踏んだ。
辻 兵太郎(つじ ひょうたろう、1899年(明治32年)4月… 辻 兵太郎(つじ ひょうたろう、1899年(明治32年)4月18日 - 1954年(昭和29年)6月24日)は、日本の政治家(秋田市会議員、同副議長)、商人(呉服商、秋田県呉服太物商組合長)、実業家。秋田土地社長。辻代表。秋田商工会議所副会頭。 秋田県・辻兵吉の長男。辻吟次郎の甥。1917年、秋田中学卒業。1919年、志願兵として入営し、陸軍中尉に進級した。呉服商を営み傍ら会社の重役であった。秋田市会議員に推され、1942年7月13日、副議長(第18代)に就任し、1945年3月10日、退任した。 趣味は囲碁、運動。宗教は浄土真宗。秋田県在籍。住所は秋田市大町、東京市麹町区永田町。
東海林 太郎(しょうじ たろう、1898年(明治31年)12… 東海林 太郎(しょうじ たろう、1898年(明治31年)12月11日 - 1972年(昭和47年)10月4日)は、秋田県秋田市出身の流行歌手。位階は正五位。 戦前から戦後にかけて活躍し、ロイド眼鏡をかけて燕尾服を着用して直立不動の姿勢で歌う特徴があった。 東海林は1898年(明治31年)に秋田県秋田市台所町(現:千秋矢留町)で生まれた。保戸野尋常小学校を卒業後、1908年(明治41年)に父・大象が秋田県庁を退職して南満洲鉄道へ入社するのに伴い、両親が満洲へ向かう中、太郎は秋田に残って祖母・カツの下で生活する。 秋田県立秋田中学校在学時にヴァイオリンに魅せられ、満洲に滞在する父・大象に懇願するが逆鱗に触れてしまい、断念している[要検証 – ノート]。
天野 芳太郎(あまの よしたろう、1898年(明治31年)7… 天野 芳太郎(あまの よしたろう、1898年(明治31年)7月2日 - 1982年(昭和57年)10月14日)は大正、昭和の日本の実業家、アンデス文明研究家。1920年代に南米パナマに渡り、戦時中は日本に強制送還されるも、再びペルーに渡り事業を興した。古代アンデス文明のチャンカイ文化(英語版)の調査研究でも知られ、天野が収集した文化遺産をもとにペルーの首都リマに博物館が開設されている。 秋田県南秋田郡脇本村(現在の男鹿市脇本)生まれ。1912年(明治45年)に秋田市高等小学校を卒業、陸軍幼年学校を受験するが視力が弱いため不合格となった。1913年(大正2年)4月に秋田県立工業学校(現在の秋田県立秋田工業高等学校)機械科に入学した。
斎藤 憲三(さいとう けんぞう、1898年2月11日 - 1… 斎藤 憲三(さいとう けんぞう、1898年2月11日 - 1970年10月31日)は、日本の実業家・政治家。TDKの創業者で衆議院議員・科学技術政務次官を務めた。 1898年(明治31年)斎藤宇一郎とミネの三男として、秋田県由利郡平沢村(現にかほ市)に生まれた。父の宇一郎は秋田の農業の発展に尽力し、代議士にもなった人である。憲三は地元の平沢小学校を卒業した後、本荘中学(現:秋田県立本荘高等学校)への進学を希望していたが、父の勧めにより大阪の私立学校である桃山中学(現:桃山学院高等学校)に入学した。 1922年(大正11年)早稲田大学商学部を卒業後、農家の副業奨励のため炭焼きや養豚などの事業に取り組むが、いずれも失敗する。
人見 誠治(ひとみ せいじ、1898年(明治31年)1月12… 人見 誠治(ひとみ せいじ、1898年(明治31年)1月12日 - 1978年(昭和53年)1月16日)は、日本のジャーナリスト、マスメディア経営者。 1898年(明治31年)秋田市中亀ノ丁に生まれる。1915年(大正4年)に秋田中学校を卒業し、小学校代用教員などを務める。 1927年(昭和2年)、秋田魁新報社に入社。運動部記者、政経部記者を経て、計画部長兼地方部長、計画部長兼社会部長、業務局次長兼計画部長などを歴任し、1943年(昭和18年)取締役に就任する。以後、常務取締役業務局長、専務取締役を務め、1946年(昭和21年)11月代表取締役社長に就任、同社の経営に当たった。1953年(昭和28年)、ラジオ東北株式会社を設立(代表取締役社長)。
乙女川 定吉(おとめがわ さだきち、1897年5月20日 -… 乙女川 定吉(おとめがわ さだきち、1897年5月20日 - 没年不明)は、大正・昭和時代の大相撲力士。浦風部屋所属。本名は宮城 定吉。最高位は十両6枚目。 秋田県秋田市出身。浦風部屋に入門し、1914年1月、初土俵を踏む。1925年1月、「羽後錦」の四股名で十両に昇進したが、2勝4敗と負け越し、幕下に落ちた。「乙女川」に改名後の1928年1月再十両。同年5月、10月と5勝6敗に終わり、再び幕下に落ち、1929年3月に廃業した。
佐藤秀三(さとう ひでぞう、1897年2月20日 - 19… 佐藤秀三(さとう ひでぞう、1897年2月20日 - 1978年9月8日)は日本の建築家。旧住友家俣野別邸、日光プリンスホテルなどを手掛ける。 秋田県生まれ。1914年、山形県工業学校(現在の山形県立米沢工業高等学校)建築科卒業後、住友総本店営繕課に入社し、上司であった建築家・長谷部鋭吉(日建設計創業者)の薫陶を受ける。1929年、佐藤秀三建築工務所(現在の株式会社佐藤秀)を創業。16代住友吉左衞門をはじめ、住友系列企業・経営首脳の後援を足掛かりに、設計施工会社としての基盤を固めた。日本の木造住宅に西洋建築の作風を取り入れ、主に木造住宅、別荘、保養所などを設計施工した。また建築をトータルデザインするため、家具や建具、照明、装飾金物なども製作。
栗盛 吉蔵(くりもり きちぞう、1897年(明治30年)2月… 栗盛 吉蔵(くりもり きちぞう、1897年(明治30年)2月 - 1974年(昭和49年))は、昭和時代に活躍した日本画家、美術教師。号は大地。 奈良県奈良市高畑町にウィリアム・メレル・ヴォーリズ設計の自宅兼アトリエを構え、志賀直哉の高畑サロンに参加した。後に故郷の秋田県大館市で美術教師として教育に従事し、同地の美術界に大きな影響を与えた。 1897年(明治30年)2月、秋田県大館町に、父栗盛倉松、母ヤエの三男として生まれる。生家の栗盛家は、曾祖父栗盛吉右衛門が一代で財を築いた北秋田郡有数の資産家で、吉右衛門は奨学金の貸し付けなどの育英事業を行う栗盛教育団を設立している。 大正年間に京都市立芸術大学の前身である京都市立美術工芸学校本科を卒業した。
奈良 真養(なら しんよう、1896年11月30日 - 19… 奈良 真養(なら しんよう、1896年11月30日 - 1977年11月26日)は、日本の映画俳優。 1896年(明治29年)11月30日、秋田県北秋田郡大館町(現在の大館市)に鉱山師の父・真平と母・とめの長男として生まれる。 1914年(大正3年)に秋田県立大館中学校(現在の秋田県立大館鳳鳴高等学校)を卒業後、小坂鉱山で3年間の勤務を経て上京し、農商務省工業試験所に勤務した。 1920年(大正9年)2月、松竹キネマ合名社の設立にあたって行った男女俳優募集に応募、240人の応募者の中から男性120人・女性5人の合格者の一人として選ばれ、同年4月1日に小山内薫主宰の松竹キネマ俳優学校に入学。同期生に伊藤大輔、鈴木伝明、澤村春子、岡田宗太郎らがいる。
今田 敬一(こんだ けいいち、1896年11月8日 - 19… 今田 敬一(こんだ けいいち、1896年11月8日 - 1981年5月5日)は、日本の画家、童話作家、美術史家、林学者。北海道大学名誉教授。北海道大学では森林気象学関連の研究の他、新島善直の森林美学を継承したと評されている。 画家としては「道展」に創立当時から関わり、1974年には北海道美術協会会長もつとめ、北海道美術界の発展に寄与した。 秋田市で第二子(上に姉があり、長男)として生まれる。父の今田佐吉は養蚕指導者で、父の仕事の都合により1900年から札幌に定住した。北海道師範学校付属小学校(現・北海道教育大学附属札幌小学校)に入学し、水彩画好きな教員の影響を受けて、4-5年生の頃には父に買ってもらった画材により絵を描き始めた。