金澤 忠雄(かなざわ ただお、1919年(大正8年)10月2… 金澤 忠雄(かなざわ ただお、1919年(大正8年)10月21日 - 2003年(平成15年)9月12日)は、日本の政治家。元山形市長(第14代)。東北芸術工科大学名誉学長。 山形県南沼原村(のち山形市)生まれ。柏倉門伝青年学校卒業。戦後農民運動に身を投じ、南沼原村に農業協同組合を設立するため奔走。初代組合長に就任した。また一時期、共産党に身を置いたこともあった。 1951年(昭和26年)、社会党に参加し山形県議会議員選挙に出馬。初当選を果たす。任期中には県本部書記長を務めた。4期目の半ばとなる1965年(昭和40年)の第7回参議院議員通常選挙に山形地方区から社会党公認で出馬したが、落選。翌1966年(昭和41年)の山形市長選挙に出馬し当選。
渡部 正郎(わたなべ まさろう、1919年(大正8年)6月1… 渡部 正郎(わたなべ まさろう、1919年(大正8年)6月17日 - 1997年(平成9年)4月14日)は、日本の内務官僚、政治家。自由民主党衆議院議員(1期)、弁護士。1989年勲三等旭日中綬章受章。 山形県米沢市出身。1945年東京帝国大学法学部を卒業。同年内務省に入り、警察大学校教授、在イタリア大使館一等書記官、警察庁交通局長、群馬、愛知各県警本部長などを歴任。 1974年内閣広報室長に就き、田中、三木、福田の各内閣においては内閣調査室長を務めた。『週刊文春』の連載記事「日本共産党の金脈」にみられる通り、大手の出版社を通じて、日本共産党のイメージダウンをはかる世論工作を行った。1977年に退官。
佐藤 助雄(さとう すけお、1919年(大正8年)4月22日… 佐藤 助雄(さとう すけお、1919年(大正8年)4月22日 - 1987年(昭和62年)10月19日)は、日本の彫刻家。山形県山形市出身。 初め木彫り彫刻を志し、後にブロンズ像に転向した。おおらかで詩的な人物像を得意とした。 長男は日本画家の佐藤良助。次男は彫刻家で長崎大学名誉教授の佐藤敬助。 1919年(大正8年)4月22日、仏師の父親の息子として山形県山形市に生まれる。父に木彫りを学んだ後、1936年(昭和11年)上京し木彫り彫刻家後藤良の内弟子となる。 1939年(昭和14年)、日本美術協会展出品作「ことり」が銅賞受賞。1941年(昭和16年)、第4回新文展出品作「後庭菜果」が初入選。1943年(昭和18年)、第6回新文展で「従軍看護婦」が特選受賞、政府買い上げ。
上村 重信(かみむら しげのぶ、1918年〈大正7年〉9月2… 上村 重信(かみむら しげのぶ、1918年〈大正7年〉9月24日 - 没年不明)は、日本の官吏。北海道土地開発公社副理事長兼専務理事。 山形県米沢市元中馬口労町出身。米沢市南部尋常小学校を卒業する。1936年に山形県立米沢興譲館中学校を卒業する。1945年に北海道帝国大学農学部農業経済学科を卒業する。北海道の拓殖調査研究を嘱託される。 北海道庁に入る。開拓部に勤務する。1951年に漁政課企画係長、1955年に同課企画調査係長。1958年に資源課次長、1961年に同課長、同年に人事課長。 1963年に網走支庁長。1964年に道立総合経済研究所副所長。1965年に北海道企画部次長。1967年に道立総合経済研究所長。
和田 英夫(わだ ひでお、1918年7月4日 - 2001年… 和田 英夫(わだ ひでお、1918年7月4日 - 2001年3月10日、82歳没)は、日本の法学者。専攻は、憲法・行政法。 第3代駿河台大学学長、明治大学名誉教授、駿河台大学名誉教授。 1918年に山形県西村山郡河北町で生まれる。旧制寒河江中学校(現:山形県立寒河江高等学校)を経て、東京帝国大学(現:東京大学)法学部政治学科を卒業。 1946年に北海道大学農学部副手、1948年講師、1950年北海道大学法文学部助教授、1954年から明治大学教授を務める。1989年に、設立準備委員として参画していた駿河台大学法学部教授となった。同大学では法学部長、1991年比較法研究所初代所長、法学研究科長を歴任した後、1994年に第3代学長となる(在任 : 1994年-1999年)。
坂本 貞雄(さかもと さだお、1918年(大正7年)2月10… 坂本 貞雄(さかもと さだお、1918年(大正7年)2月10日 - 2012年(平成24年)2月18日)は日本の政治家。東京都三鷹市長。革新市長会参与。 山形県新庄市出身。高等小学校卒業後、1955年から三鷹市議を4期務め、1959年から62年までは同市議会副議長に就任。1975年の三鷹市長選に日本社会党公認で出馬し、保守系無所属の指田正治、革新系無所属の寒川道夫をやぶり初当選を果たす。 その後、市長を4期務め、1991年に引退を表明する。 2012年2月18日に脳梗塞のため死去、94歳没。死没日をもって従四位に叙される。
石川 義吉(いしかわ よしきち、1918年(大正7年)- 2… 石川 義吉(いしかわ よしきち、1918年(大正7年)- 2002年(平成14年)は、日本の軍属、事業家。 太平洋戦争において東京外語大学インド語科在学中にF機関に通訳として従事、インド国民軍の編成や戦後のインド独立に影響を与えた藤原岩市を補佐した。戦後は三菱商事のインド駐在員として日印関係に尽力した。晩年は東京大学で長崎暢子教授と共にインド学の研究をしていた。 山形県鶴岡市大山町にて粂太郎、元江の子として生まれる。兄弟は12人、妹1人の大家族であった。1935年上京。この頃大川周明やA.M.サーハエの影響を受ける。東京外語大学進学時、インド人教師バルラースからヒンズー語、ウルドゥ語を学ぶ。1941年10月中旬、在学中に参謀本部からの命令により急遽タイへ送られる。
伊藤 久徳(いとう きゅうとく、1918年 - 1997年)… 伊藤 久徳(いとう きゅうとく、1918年 - 1997年)は、日本の将棋駒師。山形県天童。 生前は「天童の天皇」と呼ばれ、天童高級駒の第一人者。 弟子に大澤富月がいる。 1980年天童開催の王将戦で、初めて天童駒が使用された作者が久徳であった。 1989年「現代の名工」として労働大臣表彰。
若緑(わかみどり、1917年4月15日 - 1977年)は、… 若緑(わかみどり、1917年4月15日 - 1977年)は、日本の昭和初期に活躍した女相撲の力士。興行女相撲の最高位である大関を務めた。 大正6年(1917年)、山形県東置賜郡宮内町(山形県南陽市)で生まれた。本名は遠藤志げの。 昭和9年(1934年)、志げのが17歳のとき、石山兵四郎を荷主とする石山興行の女相撲の興行が菊祭りにあわせて宮内町に来た。志げのの実家は遠藤商店という食品や雑貨を扱う店を営んでおり、志げのが軽々と石山興行へ米俵を配達しているのを女力士が見てその力に驚いた。その後、玉椿と若桜の取り組みを見たことで感銘を受け、志げの自身も石山興行に入り、しこ名を若緑とした。 入門から3年で大関となり、東の大関玉椿と並び、西の大関として人気を誇った。
森 英介(もり えいすけ、本名:佐藤重男、1917年3月13… 森 英介(もり えいすけ、本名:佐藤重男、1917年3月13日 - 1951年2月8日)は、日本の詩人。生前はまったく無名であったが、没後に評価されるようになった。 佐藤重男として、1917年(大正6年)3月13日、山形県米沢市に生まれる。1936年(昭和11年)、早稲田大学文学部哲学科に入学するも、1939年(昭和14年)に中退。1940年(昭和15年)、結婚。1941年(昭和16年)に召集され浜松の航空隊に入隊後、青森県三沢基地に転属、病気のため豊橋の陸軍病院に送還され、1943年(昭和18年)に召集解除。長男、次男が生れた後、1945年(昭和20年)の敗戦前に離婚。1946年(昭和21年)9月に総合雑誌『労農』を米沢で創刊(第3号で休刊)。
新関 岳雄(にいぜき がくお、1917年3月11日 - 19… 新関 岳雄(にいぜき がくお、1917年3月11日 - 1986年10月20日)は、日本のフランス文学者。山形大学名誉教授。 山形県生まれ。旧制山形中学校、旧制山形高等学校を経て、1941年東京帝国大学文学部仏文科卒業、山形大学助教授、教授、81年定年退官、名誉教授、山形女子短期大学学長。郷里の先輩・阿部次郎についても研究した。
宇留木 康二(、1917年3月1日 - 没年不詳)は、日本の… 宇留木 康二(、1917年3月1日 - 没年不詳)は、日本の元俳優。別名は宇留木 耕嗣(読み同じ)、宇留多耕司、宇留木康三など。姓は「宇畄木」と略字体で表記される場合もある。山形県出身。 東宝の俳優で同じ山形県出身の中島春雄によれば、宇留木は赤湯温泉にある旅館の息子であった。戦時中は陸軍に所属して満州へ出征しており、復員後に東宝の専属俳優となる。 クレジットされる作品は少ないが、特撮映画を始め、ジャンルを問わず数多くの作品に出演した。1965年頃には芸名を宇留木 康二(読み同じ)に改名している。 1971年に東宝専属俳優の一斉解雇が行われた後は主にテレビに活動の場を移し、1970年代末まで俳優業を続けた。
伊藤 勲(いとう いさお、1917年1月20日 - 2012… 伊藤 勲(いとう いさお、1917年1月20日 - 2012年11月15日)は、日本の政治学者、上智大学名誉教授。 山形県山形市生まれ。1938年中央大学専門部法律科卒、1939年内閣情報局勤務、1941年中央大学法学部卒、中央気象台勤務、1949年運輸省へ出向。1957年上智大学法学部助教授、1963年教授、1966年「明治政党史の研究」で中大法学博士。1983年上智大学を定年、名誉教授、松阪大学教授。
國井 誠海(くにい せいかい、1917年〈大正6年〉 - 2… 國井 誠海(くにい せいかい、1917年〈大正6年〉 - 2009年〈平成21年〉12月27日)は日本の書家。現代書を開拓した巨匠で、産経国際書展を設立し、産経国際書会の副理事長や最高顧問など歴任した。作品は米国ニューヨーク近代美術館(MOMA)や文部省、伊勢神宮などにも収められている。 山形県生まれ、1935年(昭和10年)山形市立山形商業学校(現・山形市立商業高等学校)卒業、地域電力会社(現・東北電力)に勤務。1940年文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験(文検)に合格。鈴木翠軒に師事した。 太平洋戦争後に生まれた「現代書」の開拓者で、1970年代からフランスパリ、アメリカニューヨークやロサンゼルスなど海外でも個展を開くなど、国内外で書をアートとして広める活躍で、「現代書のパイオニア」と称された。
川合 辰雄(かわい たつお、1916年12月7日 - 201… 川合 辰雄(かわい たつお、1916年12月7日 - 2019年3月3日)は、日本の経営者。 山形県南陽市出身。1940年に早稲田大学理工学部電気工学科を卒業し、同年に九州水力電気に入社。 1942年4月に九州配電(のちの九州電力)に転じ、1971年5月に取締役に就任し、常務、副社長を経て、1983年6月に社長に就任した。1987年6月に会長に就任し、1997年7月から相談役を務めた。 1981年4月に藍綬褒章を受章し、1991年11月に勲一等瑞宝章を受章。 2019年3月3日誤嚥性肺炎のために死去。102歳没。
柴田 タカ(しばた たか、1916年10月10日 - 199… 柴田 タカ(しばた たか、1916年10月10日 - 1991年)は、日本の短距離走選手。1932年ロサンゼルスオリンピックで女子100メートル競走に出場した。 山形県山形市において、菓子店の長女として生まれる。山形高等女学校(現在の山形県立山形西高等学校)在校中、1932年ロサンゼルスオリンピックで女子100メートル競走に出場した。山形県初の女子オリンピック選手である。オリンピックでは予選で落選しており、公式記録上は「記録なし」とされている。 同大会には渡辺すみ子(1916年11月28日生まれ)が満15歳で女子100m走に出場している。オリンピックに出場した日本の陸上選手としては渡辺が最年少記録(2022年現在も維持)とされ、柴田はこれに次いで年少の選手とされる。
玉川 敏雄(たまがわ としお、1916年1月26日 - 19… 玉川 敏雄(たまがわ としお、1916年1月26日 - 1994年9月13日)は、日本の経営者。東北電力社長、会長を務めた。山形県山形市出身。 1938年に早稲田大学専門部商科を卒業し、1944年に東北配電(のちの東北電力)に入社。1974年に取締役に就任し、1977年に常務、1979年に副社長を経て、1983年6月に社長に就任。1987年6月に会長に就任し、1993年には取締役相談役に就任。1983年から1993年までに東北経済連合会会長を務めた。 1984年に藍綬褒章を受章し、1991年に勲一等瑞宝章を受章。 1994年9月13日肺癌のために仙台市の病院で死去。78歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
吉川 需(よしかわ まつ、1916年 - 1995年)は、日… 吉川 需(よしかわ まつ、1916年 - 1995年)は、日本の造園学者。庭園史家。研究は発掘庭園史をテーマに戦後に東京大学の助手を経て昭和26年から文化財保護委員会に移り以後、文化庁退官まで一貫して庭園の調査研究、文化財遺構の発掘調査・復元整備に尽力。師の吉永義信と共に精力的に全国を巡り、幾多の名園を実測調査、記録・報告する。 庭園の名勝指定や解除、遺構の整備、復原などに携わり、平城京の北宮庭園などの指定、岡山の後楽園をはじめ、鹿苑寺(金閣寺)や縮景園などの戦災復旧事業に尽力すると同時に、中尊寺、毛越寺、無量光院などに関連した平泉の庭園遺跡について一連の調査を進め、その成果を総括。 文化財保護審議会専門委員(第3專門調査会会長),財団法人日本ナショナルトラスト専門委員、社団法人日本庭園協会理事長、文化財指定庭園保護協議会会長、識名園復旧整備委員会、史跡永福寺発掘整備委員会、松本城整備研究会会長他、昭和35年5月から日本造園学会評議員・理事・監事・副会長を歴任。
板垣 清一郎(いたがき せいいちろう、1915年9月7日 -… 板垣 清一郎(いたがき せいいちろう、1915年9月7日 - 1993年10月2日)は、日本の政治家。元山形県知事(5期、在任期間:1973年10月 - 1993年2月)。山形県西村山郡左沢町(現在の大江町)出身。栄典は従三位・勲一等・瑞宝章。 左沢町議を3期務めた板垣米作の長男として生まれる。祖父・井上金太郎は製糸工場を経営し、左沢町長も務めた地域の有力者であった。NHK解説主幹を務めた板垣信幸は従甥。県立寒河江中学校(現在の山形県立寒河江高等学校)を卒業後、1934年東京高等師範学校に入学するが、2年後に腹肋膜炎を患い中退する。 両羽銀行(現在の山形銀行)行員、繊維会社経営を経て、1947年に山形県議会議員に初当選。
秋山 太一郎(あきやま たいちろう、1915年〈大正4年〉8… 秋山 太一郎(あきやま たいちろう、1915年〈大正4年〉8月16日 - 2006年〈平成18年〉1月5日)は、日本の医学者、医学博士(東京大学)、実業家。補綴材(エピテーゼ、プロテーゼ)の研究者。株式会社高研の創業者。株式会社荘内日報社元社長・元会長。鶴岡市行政顧問。勲四等瑞宝章。山形県鶴岡市出身。「世界にさきがけ、独創に生きる」を座右の銘とした。 医療用高分子の研究の分野で活躍し、血液樹脂、合成高分子、医用シリコーン、医療用の生体モデルなどを開発し、医療技術の向上に貢献した。略歴は以下のとおり。
今野 忠一(こんの ちゅういち、本名:今野 忠市、1915年… 今野 忠一(こんの ちゅういち、本名:今野 忠市、1915年3月26日 - 2006年4月15日)は、山形県天童市出身の日本画家。埼玉県在住。故郷の蔵王や月山を始め、多くの山岳や巨木を題材に、前景から背景まで分厚く塗る重厚な作風で知られた。 1931年南画家の後藤松亭に入門し、松石と号す。1934年高嶋祥光を頼って上京し、児玉希望の門人となり、欣泉と号して写実的な風景画を学ぶ。1940年には新海竹蔵を介して郷倉千靱の草樹社に入塾、忠一と号して花鳥画に取り組む。1940年第27回院展に「菜園」が初入選。 戦後も院展に入選を続け、1954年「晩彩」、1956年「残雪」、1959年「吾妻早春」がいずれも奨励賞を受賞。
大沼 義之助(おおぬま よしのすけ、1915年〈大正4年〉3… 大沼 義之助(おおぬま よしのすけ、1915年〈大正4年〉3月7日 - 1996年〈平成8年〉5月26日)は、日本の造り酒屋経営者。千代寿虎屋酒造社長(第2代)・会長。山形県酒造組合理事。寒河江酒造組合理事長。寒河江市消防団長(初代)。寒河江市選挙管理委員会委員長(第2代・7期)。社団法人寒河江法人会会長(初代)。寒河江ロータリークラブ会長(初代、第2代)。
石塚 庸三(いしづか ようぞう、1915年2月19日 - 1… 石塚 庸三(いしづか ようぞう、1915年2月19日 - 1982年4月24日)は、山形県米沢市出身の実業家。東京帝国大学法学部政治学科卒。パイオニア2代目社長としてレーザーディスク事業を推進した。父は山形県立米沢興譲館高等学校教頭の石塚澄[要出典]。 1937年に東芝入社。東芝から1955年に日本電子機械工業会へ業務部長として出向。輸出問題で手腕を発揮。その後、ミツミ電機を経てスカウトされパイオニアに入社。常務、専務などを経て昭和46年社長に就任。パイオニアでは技術開発力の向上や無借金経営など財務体質の強化を図る傍ら、人材拡充にも注力。当時一介の中小企業であったパイオニアをオーディオのトップメーカーとして一流企業にまで発展させた。
芳賀 秀次郎(はが ひでじろう、1915年(大正4年)1月1… 芳賀 秀次郎(はが ひでじろう、1915年(大正4年)1月1日 - 1993年(平成5年)5月9日)は、日本の教育者、詩人、歌人。 山形県白鷹町横田尻に生まれる。 1935年山形師範学校(現:山形大学地域教育文化学部)卒業後、山大教育学部附属小学校、山形南高、上山高での勤務を経て、長井高校長を務める。退職後、日大山形高校に移り教鞭を執った。旧制山形二中・山南には23年にわたり在籍し、児童文学作家である鈴木実は文芸部で指導を受けた。 アララギ派の歌人として出発し、1943年に情報局・朝日新聞主催の懸賞作詞「大日本の歌」が一位入賞。戦後は、戦中の反省から短歌を捨て詩作におもむく。1952年に洋酒壽屋(現:サントリー)主催で公募された新国民歌では応募した「われら愛す」が一位で入選する。
佐藤 甚次郎(さとう じんじろう、1914年〈大正3年〉11… 佐藤 甚次郎(さとう じんじろう、1914年〈大正3年〉11月24日 - 2002年〈平成14年〉10月1日)は、日本の地理学者(地理学)。 山形県鶴岡市生まれ。東京高等師範学校研究科地理科卒、日本大学法文学部史学科地理学卒、日本女子大学附属高等学校教諭、1965年「日本農家の間取型に関する地理学的研究」で、東京教育大学より理学博士の学位を取得。日本女子大学教授、1985年定年、名誉教授。 1987年、勲四等旭日小綬章を受章。2002年10月1日、脳腫瘍による虚血性心不全のため死去。
長谷部 慶治(はせべ けいじ、1914年10月8日 - 没年… 長谷部 慶治(はせべ けいじ、1914年10月8日 - 没年不詳)は、山形県酒田市出身の脚本家、映画監督。 別名義に長谷部慶次がある。ただし、録音技師の「長谷部 慶治」は当記事人物ではない、同姓同名の別人である。 1914年10月8日、山形県酒田市に生まれる。 1945年製作の『娘道成寺』で脚本を担当したが、本作は劇場未公開となった。 次作となった1953年7月28日公開の『明日はどっちだ』では監督を担当し、以後監督と脚本で映画やテレビ作品の多くを手掛けた。 1963年11月16日公開で今村昌平と共同脚本を担当した『にっぽん昆虫記』が1963年度第14回ブルーリボン賞を受賞するなど、受賞歴も数多い。
桜井 祐一(さくらい ゆういち、1914年(大正3年)8月2… 桜井 祐一(さくらい ゆういち、1914年(大正3年)8月24日 - 1981年(昭和56年)11月4日)は、日本の彫刻家である。 山形県米沢市に生まれる。1924年に家族と共に東京へ移住。1932年(昭和7年)に平櫛田中から彫刻を学び、翌1933年(昭和8年)には自身の作品が日本美術会主催の展示会に出品され受賞された。1934年(昭和9年)には日本美術院研究所に入所し、院展に初入選される。1939年(昭和14年)には第3回文展にも出品され、第二次世界大戦中から戦後にかけて院展に出品された同院賞等数多くの賞を受賞した。 この業績により1955年(昭和30年)には日本美術院の同人となり、1961年(昭和36年)に院展彫刻部が解散した事により同郷の新海竹蔵や山本豊市、千野茂らと共に彫刻家団体S.A.Sの結成に携わった。
近岡 善次郎(ちかおか ぜんじろう、1914年(大正3年)8… 近岡 善次郎(ちかおか ぜんじろう、1914年(大正3年)8月10日 - 2007年(平成19年)6月3日)は、日本の洋画家。 1914年(大正3年)山形県新庄市に生まれる。1931年(昭和6年)山形県立新荘中学校(現・山形県立新庄北高等学校)を卒業。1933年(昭和8年)文化学院美術部にて、石井柏亭、有島生馬、山下新太郎に学ぶ。1946年(昭和21年)一水会優賞を受賞。1956年(昭和31年)文部省留学生として渡欧した後、帰国。1960年(昭和35年)一水会会員となる。1961年(昭和36年)太平洋地域絵画展に日本代表として出品(「飛びの森の天狗」)。1963年(昭和38年)第6回安井賞受賞。
錦 三郎(にしき さぶろう、1914年 - 1997年5月8… 錦 三郎(にしき さぶろう、1914年 - 1997年5月8日)は、日本のエッセイスト、歌人、蜘蛛研究家、特にバルーニングの研究で著名。山形県山形市出身。1936年山形師範学校卒業、小学校教員となる。1929年頃から斉藤茂吉の弟子の結城哀草果に師事して作歌を始める。1937年アララギ入会。晩年は短歌結社「山麓」の選者を務めた。1958年日本蜘蛛学会に入会。蜘蛛に関連する書籍で数多くの賞を受賞する。1973年退職、1975年南陽市芸術文化協会会長。翌年、市史編さん嘱託(編集委員長)に就任。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
紺野 陽吉(こんの ようきち、1913年5月16日 - 19… 紺野 陽吉(こんの ようきち、1913年5月16日 - 1945年10月3日)は、山形県生まれの作曲家。 1913年、山形県西置賜郡東根村大字畔藤(現白鷹町畔藤)で生まれる。紺野家は祖父の代からの医者の家で、陽吉は男3人女3人の6人兄弟の次男であった。県立長井中学校 (現山形県立長井高等学校) を1931年に卒業し、上京する。親は医学の道を望んだが、本人は自分の好きな音楽の道へ進む。立教大学交響楽団やコンセール・ポピュレール (後の青年日本交響楽団) というセミプロ楽団でヴァイオリンを弾く。生活の糧は、当時さかんに発売されていたポピュラー音楽のレコード録音の伴奏者として得ていたものと考えられる。
国井 重典(くにい しげのり、1913年〈大正2年〉3月12… 国井 重典(くにい しげのり、1913年〈大正2年〉3月12日 - 1953年〈昭和28年〉12月27日)は、日本の政治家、旧鶴岡市第7代市長。 1913年(大正2年)山形県飽海郡酒田町(現・酒田市)に鐙谷一郎の4男として生れ、 国井家の養子となる。1930年(昭和5年)山形県立酒田中学校(山形県立酒田東高等学校)を卒業する。 1936年(昭和11年)に早稲田大学法学部を卒業。卒業後は 鶴岡水力電気株式会社に入社する。 1946年(昭和21年) 加藤精三市長の下で鶴岡市助役に就任し、 鶴岡市消防長も務める。 1951年(昭和26年)4月、鶴岡市会議員に当選する。 1952年(昭和27年)10月に 鶴岡市長に当選する。
堀米 庸三(ほりごめ ようぞう、1913年2月24日 - 1… 堀米 庸三(ほりごめ ようぞう、1913年2月24日 - 1975年12月22日)は、山形県河北町生まれの歴史家。専攻は西洋中世史。
北楯 修哉(きただて しゅうや、1912年11月15日 - … 北楯 修哉(きただて しゅうや、1912年11月15日 - 1997年1月31日)は、将棋棋士、九段。木村義雄十四世名人門下。棋士番号は24。山形県鶴岡市出身。 (棋士番号の割り当てがない棋士 → 「template:日本将棋連盟引退棋士」参照) この項目は、将棋の棋士(女流棋士・アマチュアを含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:ボードゲーム/プロジェクト:人物伝)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
齋藤 磯雄(さいとう いそお、1912年5月26日 - 19… 齋藤 磯雄(さいとう いそお、1912年5月26日 - 1985年9月3日)は、日本の仏文学者。山形県庄内出身。 山形県東田川郡清川村(現:庄内町)生まれ。戸籍上は4月26日生まれ。実家は大庄屋格で、幼少時より漢籍と文語体聖書に親しんで育つ。 旧制酒田中学校在学中から仏文学を志す。辰野隆の教えを受けるつもりで、1929年、法政大学予科に入学。当時既に辰野は法政を退職していたために望みは果たせなかったが、戦後初対面した折にボードレール『悪の華』訳文を激賞された。法政で豊島与志雄や漢詩人阿藤伯海(あとう・はくみ)に師事。同級に安藤鶴夫と近藤光治がおり「三藤」と称して親しく交際した、在学時に次兄(筆名:西東徳之介)も加わり、文芸同人誌『秩序』(7号まで)を発行、プルースト短編やヴィリエ・ド・リラダンの翻訳を寄稿。
里木 佐甫良(さとき さぶろう、1912年3月31日 - 1… 里木 佐甫良(さとき さぶろう、1912年3月31日 - 1999年12月23日)は、日本の俳優。本名は佐藤 喜三郎。旧芸名は里木三郎、里木左甫良。他に里木三朗、里木三甫良、黒木三郎、黒木三朗、黒木左甫良、黒木佐甫良、悟木三郎などの別表記もある。 山形県山形市八森出身。旧制・山形県立山形中学校(現・山形県立山形東高等学校)卒業。東京俳優生活協同組合に所属していた。 中学校卒業後の1930年に上京し、1931年、日本俳優学校(歌舞伎役者・六代目尾上菊五郎が設立した四年制の学校)へ二期生として入学し、演技を学ぶ。同期には山形勲や植村謙二郎、加藤嘉、三津田健がいた。その後は日本楽劇協会演劇研究所(山田耕筰が設立)に在籍し、1944年に陸軍移動演劇隊に入隊、満州および北支・中支前線を慰問で廻った。
白田 林二郎(しらた りんじろう、1912年〈明治45年〉3… 白田 林二郎(しらた りんじろう、1912年〈明治45年〉3月29日 - 1993年〈平成5年〉5月29日)は、山形県出身の日本の武道(合気道)家、 合気道開祖・植芝盛平の高弟。 1912年(明治45年)山形県に生まれる。旧制・新荘中学(現・新庄北高校)では柔道部の大将を務めていた。 1931年(昭和6年)の暮れ上京。父親が大本の信者だった縁で、植芝盛平(守高)の開設間もない皇武館道場に入門、内弟子となる(19歳)。当時の写真によると太い首とがっちりした肩幅を持つ偉丈夫である。米俵(一俵=60kg)を両手に一つずつ持ち、拍子木のように打ち付けることが出来たという話もある。素性の分からない道場破りが来ると必ず白田が応対し、相手を徹底的にたたき伏せるのが常であったという。
佐藤 三郎(さとう さぶろう、1912年1月14日 - 20… 佐藤 三郎(さとう さぶろう、1912年1月14日 - 2006年1月30日)は、日本の歴史学者。山形大学名誉教授。国士舘大学教授。山形県出身。 1912年(明治45年)1月14日、山形県川西町小松に生れる。旧米沢興譲館中学、1931年(昭和6年)福岡高等学校文科乙類卒業、を経て、1934年(昭和9年)、東京帝国大学文学部国史学科卒業、同大学院に進学。日本史学の重鎮であった黒板勝美博士の下で研鑽。1936年4月人文科学資料研究科助手、1938年(昭和13年)から1942年まで、北京近代科学図書館勤務。これをきっかけとして、近代日中関係史に関心を持つ。 1942年山形高等学校教授、1949年山形大学文理学部助教授、1952年山形大学補導課長、1967年山形大学人文学部教授・山形大学評議員、1969年山形大学人文学部長、1973年山形大学学生部長、1977年退官に際して名誉教授。
日高 一輝(ひだか いっき、本名:鈴木 芳郎 すずきよしろう… 日高 一輝(ひだか いっき、本名:鈴木 芳郎 すずきよしろう、1912年(明治45年)1月6日 - 没年不明)は、日本の平和運動家、元世界連邦建設同盟理事長。元日本ラッセル協会常任理事。山形県鶴岡市出身。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
外野村 晋(とのむら しん、1911年11月17日 - 19… 外野村 晋(とのむら しん、1911年11月17日 - 1994年6月1日)は、山形県出身の俳優。 山形県飽海郡南遊佐村(現在の山形県酒田市)出身。本名は小野三郎。 東宝演劇研究会や東映東京撮影所を経て、東京俳優生活協同組合に所属していた。 戦前から数々の劇団に所属して舞台活動をしていたが、戦後に日活や東映東京制作の映画に端役を中心に出演するようになる。 代表作は『事件記者』の熊田記者役。 1994年6月1日、心臓発作により死去。82歳没。
伊藤 喜久井(いとう きくい、1911年(明治44年)11月… 伊藤 喜久井(いとう きくい、1911年(明治44年)11月15日 - 2002年(平成14年)6月8日)は、日本画家。山形県鶴岡市七日町出身。
秋元 正雄(あきもと まさお、1911年11月7日 - 19… 秋元 正雄(あきもと まさお、1911年11月7日 - 1996年9月24日)は、日本の実業家。佐藤商事株式会社・代表取締役社長、会長。学校法人羽黒学園理事長。栄典・称号は、従五位・勲四等瑞宝章・紺綬褒章・羽黒町名誉町民(現・鶴岡市名誉市民)。
本多 猪四郎(ほんだ いしろう、1911年5月7日 - 19… 本多 猪四郎(ほんだ いしろう、1911年5月7日 - 1993年2月28日)は日本の映画監督。山形県東田川郡朝日村(現・鶴岡市)出身。数々の東宝特撮映画を撮った。
小田 仁二郎(おだ じんじろう、1910年12月8日 - 1… 小田 仁二郎(おだ じんじろう、1910年12月8日 - 1979年5月21日)は、日本の小説家。 山形県南陽市生まれ。旧制長井中学在学時に大竹俊雄らと同人雑誌『火花』を創刊。早稲田文学仏文科に進み、在学中は野田誠三らと「ヴァリエテ」を刊行、中原中也や山沢民喜等の同人「紀元」に参加。卒業後は都新聞に勤め、文化部文芸欄を担当するが、1941年退社。戦後になって丹羽文雄の『文学者』に参加。1948年に真善美社の「アプレゲール叢書」の一冊として刊行された「触手」で文壇の一部からは評価されたが、その難解さから商業誌には迎えられなかった。1952年「昆虫系」で芥川賞候補、53年「からかさ神」で芥川賞候補、54年「塔の沢」で直木賞候補。
松沢 雄蔵(松澤 雄藏、まつざわ ゆうぞう、1910年12月… 松沢 雄蔵(松澤 雄藏、まつざわ ゆうぞう、1910年12月3日 - 1983年6月12日)は、日本の政治家。自由民主党衆議院議員(9期)、第39代行政管理庁長官。真室川村村長。1981年勲一等旭日大綬章。1983年正三位。 山形県最上郡真室川村(現在の真室川町)に、300年以上続く庄屋の三男として生まれる。旧制新荘中学校(現在の山形県立新庄北高等学校)を経て、満蒙学校本科を卒業。1935年南満州鉄道の系列会社である同和自動車工業に入社、1940年に昭和通商に転じる。1941年より同社の支那代表部に勤務、大戦中は中国大陸で過ごした。 戦後の1947年、真室川村長に当選。当時は豪雨による河川の氾濫が相次ぎ、水害克服のため奮闘、県庁や中央官庁にも度々陳情を行った。
黒金 泰美(くろがね やすみ、1910年〈明治43年〉11月… 黒金 泰美(くろがね やすみ、1910年〈明治43年〉11月25日 - 1986年〈昭和61年〉10月11日)は、日本の大蔵官僚、政治家。衆議院議員、内閣官房長官。1981年勲一等瑞宝章受章。父親は戦前の立憲民政党代議士の黒金泰義。 山形県米沢市出身(北海道生まれ)。旧制武蔵高校を経て、東京帝国大学法学部に入学。肺結核に罹患し4年間、病床で過ごしたため、ひとの倍をかけ大学を卒業する。 高等文官試験に一番で合格し、1935年に大蔵省に入省。理財局属。戦後、津島寿一、池田勇人両蔵相の秘書官を務める。父の死後は、米沢に近い赤湯町(現・南陽市)出身の結城豊太郎が後見役を担ったほか、郷里の偉材である池田成彬とも接する機会が多かった。
梅沢 治雄(うめさわ はるお、旧字体:梅澤 治雄、1910年… 梅沢 治雄(うめさわ はるお、旧字体:梅澤 治雄、1910年(明治44年)10月30日 - 2003年(平成15年)6月23日)は、日本の元陸軍軍人および陸上自衛官。陸士44期卒(歩兵)、陸大51期(恩賜)。最終階級は中佐、陸将。 山形県米沢市出身。梅沢力助少将(11期)の長男。東京府立第六中学校(3回生)より陸軍幼年学校(29期)に転じ、陸軍士官学校を卒業。原隊は近衛歩兵第1連隊。少尉任官後、第51代連隊旗手を拝命。幹部候補生専任教官や歩兵学校教官を経て、陸軍大学校卒業後は第6師団参謀として中支に出征。参謀本部部員、陸大教官、大本営参謀を経て、陸軍省人事局で終戦を迎える。 戦後は第一復員局総裁秘書官を経て、保安隊に入隊。
志田 周子(しだ ちかこ、1910年(明治43年)10月28… 志田 周子(しだ ちかこ、1910年(明治43年)10月28日 - 1962年(昭和37年)7月18日)は山形県出身の女医、歌人。「仙境のナイチンゲール」と称された。 1910年(明治43年)小学校教員で後に大井沢村村長となる父・荘次郎、母・せいの長女として、西村山郡左沢町(現大江町)に生まれる。西村山郡大井沢村(現西川町)の大井沢尋常小学校を経て、山形県立山形第一高等女学校(現山形県立山形西高等学校)に進学。村で初めての女学校生と話題になる。1928年(昭和3年)東京女子医学専門学校(現東京女子医科大学)に進学。1933年同卒業。1935年(昭和10年)「3年でいいから」という父・荘次郎の懇請で、当時無医村だった大井沢村に戻り、唯一の村医となる。
鈴木 啓蔵(啓藏、すずき けいぞう、1910年〈明治43年〉… 鈴木 啓蔵(啓藏、すずき けいぞう、1910年〈明治43年〉8月20日 - 1993年〈平成5年〉5月8日)は、日本の政治家。元山形県上山市長(3期)。位階は正六位。 山形県南村山郡上山町十日町出身。旧制山形中学校(現山形東高校)、早稲田大学中退。1931年に兄の死去に伴い上山町に帰郷。太平洋戦争に応召。1945年終戦は台湾の屏東で迎えた。復員後、山形県に奉職。山形県知事室秘書課長、文書課長、統計課長、東京事務所長、最上事務所長、東南村山地方事務所長を歴任。 1959年より松本長兵衛市長のもと上山市助役を2期務めた。 1971年7月に上山市長選に出馬し、雨谷憲作との一騎打ちを制して初当選。(鈴木啓蔵13,549票、雨谷憲作9,204票) 1975年6月の市長選では、無投票当選し2選。
佐藤 正己(さとう まさみ、1910年(明治43年)7月16… 佐藤 正己(さとう まさみ、1910年(明治43年)7月16日 - 1984年(昭和59年)8月30日)は、日本の植物学者。理学博士(東京帝国大学・1942年)。茨城大学名誉教授。山形県東田川郡山添村(現・鶴岡市)出身。地衣類研究の権威として知られている。
原 知一(はら ともかず、1910年5月 - 2004年3月… 原 知一(はら ともかず、1910年5月 - 2004年3月31日)は、日本の歌人、作詞家。山形市出身。 1910年(明治43年)、山形市に生まれる。旧制山形中学校在学中にアララギへ入会し、結城哀草果に師事した。大谷大学予科へ進学し、1936年(昭和11年)に同大学文学部国文学科を卒業。帰郷後は国語教諭となり、宮内高等女学校(山形県立南陽高等学校の前身の一校)に在職中の1944年(昭和19年)、宮内町(現在の南陽市)出身で12月7日にフィリピンのオルモック湾で玉砕した粕川健一を顕彰する「軍神粕川少尉」の歌を作詞した。1946年、黒江太郎と共に「宮内アララギ短歌会」を結成。 1947年(昭和22年)、憲法普及会山形県支部が日本国憲法公布を記念して実施した戦前の「最上川」に代わる2代目の県民歌募集に際して生まれたばかりの長男の名義で応募した「朝ぐもの」が入選し、5月3日の憲法施行記念祝典で演奏されるがこの2代目県民歌は不評のため短期間で演奏されなくなり「最上川」が再び県民歌として返り咲いている。