伊藤 四男(いとう かずお、1898年11月8日 - 197… 伊藤 四男(いとう かずお、1898年11月8日 - 1974年3月20日)は日本の柔道家(講道館9段・国際武道院(英語版)名人10段)。 戦後、講道館の中で東京高師閥と共に興盛を誇った三船久蔵閥の主力人物であり、警視庁や日本体育大学、東洋大学等で柔道師範を務めた。その後北米や欧州各国で柔道指導を行い、柔道の国際的発展にも貢献している。 晩年は講道館の9段位に列せられたほか、国際武道院を主宰して師の三船に次ぐ名人10段位を名乗った。 山形県新庄市下金沢町の伊藤家に四男(よんなん)として出生し、警察官を退官後に町役場吏員を務める父・一から柔道の手解きを受けた。後の市立日新小学校を卒業後は1913年に旧制佐世保中学校(後の長崎県立佐世保北高校および同南高校)に入学して柔道を修行、その後は佐世保の海兵隊に進んで同隊在籍中の1920年4月に講道館へ入門した。
山本 善雄(やまもと よしお、1898年(明治31年)6月2… 山本 善雄(やまもと よしお、1898年(明治31年)6月20日 - 1978年(昭和53年)11月28日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。山形県鶴岡市出身。 旧制山形県立荘内中学校より海軍兵学校第47期入校。山本は海軍大学校甲種課程卒業後は、海軍中央部に在職することが多かったいわゆる赤レンガ組士官であり、太平洋戦争中の軍政の中枢にあった人物である。最後の軍務局長を務めた後、公職追放を経て、海上自衛隊の前身、海上警備隊建設準備委員会(Y委員会)主宰を務めた。
9代式守与太夫(きゅうだい しきもりよだゆう、1898年3月… 9代式守与太夫(きゅうだい しきもりよだゆう、1898年3月21日-1969年11月16日)は元行司である。本名は櫻井福太郎。 房錦勝比古は実子。29代木村庄之助の養父。 高砂部屋から若松部屋に所属してた。 1910年春場所、式守福太郎という名前で初土俵。 1915年に木村福太郎に改名するが、1年で式守福太郎に戻す。 1922年に式守真之助、1936年に7代目式守錦太夫に改名し、1940年頃に幕内格。 この頃、房錦の父となり、房錦を育てた。 1956年夏場所で三役行司昇進。三役格筆頭までいった。 1961年名古屋場所、9代目式守与太夫を名乗るが、病気で休場が続き同年秋場所、廃業した。63歳だった。
佐藤 圓治(さとう えんじ、明治30年(1897年)8月24… 佐藤 圓治(さとう えんじ、明治30年(1897年)8月24日 - 昭和46年(1971年)7月30日)は、日本の俳優。娘は女優の三條美紀、孫は元女優の紀比呂子。 山形県東田川郡東栄村(藤島町を経た後に鶴岡市)出身。大正4年(1915年)山形県立荘内農業学校卒業。上京して慶應義塾大学に入るが中退。兵役につき、大正7年(1918年)にシベリアに従軍。大正11年(1922年)に帰還した。除隊後に会社(日本体育用品株式会社)に取締役として勤めるが、方向転換し、大正12年(1923年)に水口薇陽が設立した日本映画俳優学校に第1回目の入学生として入校した。同期には小杉勇、島耕二、森岩雄、八木保太郎等がいる。
軽部 慈恩(かるべ じおん、1897年〈明治30年〉7月14… 軽部 慈恩(かるべ じおん、1897年〈明治30年〉7月14日 - 1970年〈昭和45年〉10月16日)は日本の考古学者。山形県寒河江市出身。太平洋戦争以前に朝鮮半島に住んで古代百済の遺跡を研究し、敗戦により日本に戻ったあとは、日本大学で教鞭をとりつつ静岡県三島市に住み、伊豆地方の遺跡研究を行った。 1897年(明治30年)に、現在の山形県寒河江市である旧西村山郡醍醐村慈恩寺に生まれる。現在の静岡県伊豆市である旧田方郡修善寺町の修禅寺に来て仏門の修行に入る。以後「慈恩」と名乗る。 1925年(大正14年)に早稲田大学を卒業し、百済研究のため、日本統治時代の朝鮮半島に渡って現地の学校教員をしつつ、公州の三国時代の遺跡を発掘した。
新海 竹蔵(しんかい たけぞう、1897年(明治30年)6月… 新海 竹蔵(しんかい たけぞう、1897年(明治30年)6月12日 - 1968年(昭和43年)6月13日)は、日本の彫刻家である。 新海竹太郎の甥として山形県山形市に生まれる。家系は仏師であり、竹蔵の曾祖父母は同業に従事していた。1912年(大正元年)に上京し、その後は伯父の竹次郎から塑像を学び、1915年(大正4年)に自身の作品が第9回文展に初入選される。後には多くの作品が文展および帝展に出品され、1924年(大正13年)には自身の作品が再興された院展にも出品された。これによって翌1925年(大正14年)には日本美術院の院友となり、1927年(昭和2年)には日本美術院の同人に推薦され院展彫塑部に所属する。
金子 孚水(かねこ ふすい、1897年(明治30年)5月6日… 金子 孚水(かねこ ふすい、1897年(明治30年)5月6日 ‐ 1978年(昭和53年)5月31日)は、大正時代の浮世絵商、版元。葛飾北斎の研究で知られる。本名は金子清次。「孚水」との号は、「浮世絵」の「浮」の字の偏と旁を分解したもので、清次が25歳ごろの、画家・小杉未醒による命名とされる。 1897年(明治30年)5月6日、山形県米沢市に七人兄弟の三男として生まれる。父は煙草製造業で、しばしば東京へ行っては、絵双紙や草双紙、錦絵の類を買って帰った。幼少期より絵画に親しみ、少年時代は画家になることを夢見たこともあったという。16歳で上京、兄が勤めていた浮世絵商の 酒井好古堂に「小僧」として入店。
鈴木 重屹(すずき しげたか、1897年〈明治30年〉5月5… 鈴木 重屹(すずき しげたか、1897年〈明治30年〉5月5日 - 1969年〈昭和44年〉)は、昭和時代の政治家。山形県山形市長(第12代)。 山形県南村山郡東沢村妙見寺(現山形市妙見寺)出身。鈴木鈴馬の長男。同地妙見院の住職を務める。1918年(大正7年)3月、桐生高等工業学校紡績科を卒業し、ヨーロッパやアメリカに渡り、1940年(昭和15年)帰国。帝国製麻会社札幌工場係長、本社研究課員、鹿沼工場長、技術部長を務めたのち、1945年(昭和20年)8月に退社し帰郷する。日本絨氈専務となったが、終戦によって連合軍が山形へ進駐し、県の渉外事務処理のため当時の山形県知事である村山道雄の懇請で県労政課長、県労働委員会事務局長から市長選へ出馬し、1946年(昭和21年)当選した。
林 信雄(はやし のぶお、明治30年(1897年)4月8日 … 林 信雄(はやし のぶお、明治30年(1897年)4月8日 - 昭和39年(1964年)12月12日)は、日本の医学者、医学博士(千葉医科大学)。放射線による内科的診断・放射線医学の先駆者。従五位・勲四等・旭日小綬章。 山形県鶴岡市出身。
我妻 榮(わがつま さかえ、1897年〈明治30年〉4月1日… 我妻 榮(わがつま さかえ、1897年〈明治30年〉4月1日 - 1973年〈昭和48年〉10月21日)は、日本の法学者。専門は民法。学位は法学博士(東京大学)、東京大学名誉教授、米沢市名誉市民。文化勲章、贈従二位(没時叙位)・贈勲一等旭日大綬章(没時叙勲)。憲法改正に伴う家族法大改正の立案担当者の一人。鳩山秀夫に師事。弟子に有泉亨、川島武宜、四宮和夫、幾代通、加藤一郎、鈴木録彌、星野英一、西原道雄など。 山形県米沢市出身。英語教師の父・又次郎と家計のたしにするため、自宅で中学生相手に国・漢・数学を教えた母・つるの長男として生まれる。5人の子における唯一の息子であったため、父母を安心させなければという気持ちから一心に勉強に励んだ。
我妻 榮(わがつま さかえ、1897年〈明治30年〉4月1日… 我妻 榮(わがつま さかえ、1897年〈明治30年〉4月1日 - 1973年〈昭和48年〉10月21日)は、日本の法学者。専門は民法。学位は法学博士(東京大学)、東京大学名誉教授、米沢市名誉市民。文化勲章、贈従二位(没時叙位)・贈勲一等旭日大綬章(没時叙勲)。憲法改正に伴う家族法大改正の立案担当者の一人。鳩山秀夫に師事。弟子に有泉亨、川島武宜、四宮和夫、幾代通、加藤一郎、鈴木録彌、星野英一、西原道雄など。 山形県米沢市出身。英語教師の父・又次郎と家計のたしにするため、自宅で中学生相手に国・漢・数学を教えた母・つるの長男として生まれる。5人の子における唯一の息子であったため、父母を安心させなければという気持ちから一心に勉強に励んだ。
佐藤 千夜子(さとう ちやこ、1897年(明治30年)3月1… 佐藤 千夜子(さとう ちやこ、1897年(明治30年)3月13日 - 1968年(昭和43年)12月13日)は、日本初のレコード歌手。本名は佐藤千代。山形県東村山郡天童村(現:天童市)出身。中山晋平の歌謡曲を世に広め、古賀政男の才能を発見したことで、それ以後の日本大衆音楽史の発展に大きな功績がある。華々しくかつ浮き沈み激しい人生は、NHK朝の連続テレビ小説「いちばん星」のモデルとなった。
上泉 秀信(かみいずみ ひでのぶ、1897年2月12日 - … 上泉 秀信(かみいずみ ひでのぶ、1897年2月12日 - 1951年5月14日)は、日本の劇作家、新聞記者。 山形県米沢市生まれ。米沢中学(現山形県立米沢興譲館高等学校)時代は浜田廣介や大熊信行と同人誌を発行。 早稲田大学中退。大正初期から短歌、戯曲を発表。都新聞学芸部長として、尾崎士郎の『人生劇場』を連載させた。 1935年発表の「村道」は4幕の舞台として創作座にて上演。1938年発表の「ふるさと紀行」も、翌1939年に4幕の舞台として新築地劇団により築地小劇場で上演された。 戦時中は大政翼賛会文化副部長。 戦後は福島県に疎開。「わが山河「鯉」(1946年)、「節分の客」(1948年)などを執筆。
川井 巌(かわい いわお、1896年(明治29年)9月2日 … 川井 巌(かわい いわお、1896年(明治29年)9月2日 - 1972年(昭和47年)5月15日)は、日本の海軍軍人、実業家。海兵47期・海大29期。山形県出身。 1943年(昭和18年)、海軍大佐・軽巡洋艦「木曽」艦長としてキスカ島撤退作戦に参戦し、武功を挙げた。 帝国海軍での最終階級は海軍少将。1945年(昭和20年)11月30日を以て帝国海軍が消滅した後も、公職追放を受けずに1948年(昭和23年)12月まで第二復員省人事局長などの公職に就き続け、海軍の残務を処理した。 1953年(昭和28年)、東京光学機械株式会社(現:トプコン)に入社し、東京光学機械株式会社 営業部長を経て、東光物産株式会社 社長(在任期間:1957年〈昭和32年〉7月 - 1965年〈昭和40年〉9月)を務めた。
菅沼 儀平(すがぬま ぎへい、1896年(明治29年)9月1… 菅沼 儀平(すがぬま ぎへい、1896年(明治29年)9月1日 - 1972年(昭和47年)8月2日)は、日本の政治家。元山形県議会議員。 性格は、堂々たる体格で一見怖い感じだが、話せば飾り気なく、人懐っこしさを丸出しにする。政治一本気で真面目、統率力抜群。おべんちゃら嫌いで自分の意志を押し通したので敵もあった。農林行政については、「菅沼理論」を持っていたとされている。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。 この項目は、山形県に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(Portal:日本の都道府県/山形県)。
鈴木 傳六(すずき でんろく、1896年〈明治29年〉7月2… 鈴木 傳六(すずき でんろく、1896年〈明治29年〉7月29日 - 1984年〈昭和59年〉5月28日)は、山形市にある菓子製造メーカーでん六の創業者。山形市議会議員や山形県議会議員を務めた。 1896年(明治29年)7月29日に山形県山形市上町に誕生。山形市立第二小学校卒業、山形県立山形中学校を中退。兄が始めた焼き麩づくりを手伝った。 1915年(大正4年)に近衛歩兵第2連隊入隊、師団の銃剣術大会で優勝した。陸軍上等兵となる。 1922年頃の26歳の時に妊娠していた妻を実家に預け単身上京し、神田の菓子種屋で働いた。関東大震災に遭遇し帰郷。 1924年(大正13年)11月山形市香澄町吹張に分家、菓子種「おこし」の製造販売で独立した。
松本 毅(まつもと たけし、1896年(明治29年)4月14… 松本 毅(まつもと たけし、1896年(明治29年)4月14日 - 1962年(昭和37年)5月14日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。山形県鶴岡市出身。開拓使の松本十郎の孫にあたる。
山口 将吉郎(やまぐち しょうきちろう、1896年(明治29… 山口 将吉郎(やまぐち しょうきちろう、1896年(明治29年)3月30日 - 1972年(昭和47年)9月12日)は、山形県鶴岡市出身の日本画家。挿絵画家。 高校時代は、美術講師の小貫博堂に指導を受け、大学時代は、結城素明に師事した。 大学卒業後は、絵画展覧会に作品を出品したり、同人誌などで挿絵を発表する。 その後は、主に小説本などの挿絵を描き、その中でも『神州天馬侠』 吉川英治(著)の挿絵は有名。 従甥に奇人の南画家として知られる服部二柳がいる。
椿 貞雄(つばき さだお、男性、1896年2月10日 - 1… 椿 貞雄(つばき さだお、男性、1896年2月10日 - 1957年12月29日)は、大正から昭和にかけて活動した洋画家。 1896年(明治29年)、山形県米沢市に生まれる。椿家の先祖は御館の乱にて上杉景虎方として戦った椿喜介。米沢藩では御扶持方(下士階級)の家柄であり、また分家は芸者組(下士階級)に組する芸能・芸術に明るい家系であった。医師を目指し早逝した長兄の影響で画家を志すようになった。1914年(大正3年)に山形県立米沢中学校を中退して上京し、岸田劉生の個展を見て衝撃を受け、彼に会いに行こうと決意した。自作の油絵を携えて劉生の自宅に向かい、ここで自画像を褒められたことから、劉生との交流が始まる。
森 悌次郎(もり ていじろう、 1896年1月25日 - 1… 森 悌次郎(もり ていじろう、 1896年1月25日 - 1969年7月13日)は、山形県鶴岡市出身の体育学者、大学教授、サッカー選手。 1916年3月に山形県立荘内中学校(現:山形県立鶴岡南高等学校)を卒業。東京高等師範学校に入学し、蹴球部に入部した。在学中の1921年6月に開催された第5回極東選手権競技大会のサッカー日本代表に選出され、2試合に出場した。 1923年3月に東京高師本科体育科甲組を卒業し、同年4月より東京高師の助手兼助教諭に任じられた。1925年4月に東京女子体操音楽学校の講師となり、1926年から1年間体操の研究のためにドイツ国に留学した。1927年8月に東京高師の助教授兼助教諭となった。
石井 梅蔵(いしい うめぞう、1896年 - 1976年)は… 石井 梅蔵(いしい うめぞう、1896年 - 1976年)は、日本の篤農家・発明家・実業家・工芸家。株式会社石井製作所創業者。酒田市局惣田に石井梅蔵記念館がある。 1896年(明治29年)石井梅蔵は石井家5代目として酒田市に生れる。農機具の発明家・事業家で、立ったまま除草ができる人力用水田中耕除草機を作り、農民の重労働と危険を解消。人・動力兼用のフライホイル式カッターとして1928年(昭和3年)に特許を取得。世界最初のバインダー(稲麦刈取収束機)を1958年(昭和33年)に特許申請(1960年(昭和35年)に登録)。酒田発明協会長などを務める。1949年(昭和24年)、籾が目にささり負傷。角膜移植を受けるが、1958年(昭和33年)全盲を宣告される。
江辺 清夫(えべ きよお、1895年(明治28年)11月5日… 江辺 清夫(えべ きよお、1895年(明治28年)11月5日 - 1950年(昭和25年)1月11日)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事、川崎市長。 山形県南置賜郡南原村猪苗代町(現米沢市)出身。旧米沢藩士・江辺信次(小学校長、郡視学、南原村長)、いよ夫妻の長男として生まれる。1914年3月、山形県立米沢中学校を卒業。第二高等学校を経て、1920年7月、東京帝国大学法学部法律学科を卒業。同年10月、高等試験行政科試験に合格し逓信省に入省。1921年、内務省に転じ山梨県属・地方課兼学兵課勤務となる。 以後、山梨県西山梨郡長、山梨県警視・警察部警務課長兼巡査教習所長、同保安課長、山口県地方事務官・産業課長、同商工水産課長、同学務課長、富山県書記官・学務部長、山形県書記官・警察部長、三重県書記官・警察部長、熊本県書記官・警察部長、神奈川県経済部長などを経て、1939年4月、兵庫県総務部長に就任。
高田 休廣(たかだ やすひろ、1895年5月25日 - 19… 高田 休廣(たかだ やすひろ、1895年5月25日 - 1942年1月5日)は、昭和前期日本の官僚。高田 耕甫(たかだ こうほ)の筆名により「東京市歌」を作詞したことで知られる。山形県米沢市出身。 1895年(明治28年)、元会津藩士・高田休烈の五男として山形県米沢市に生まれる。三兄は裁判官で、静岡地方裁判所浜松支部長等を歴任した高田豊。 1921年(大正10年)、東京帝国大学英法科を卒業し東京府庁に入庁。1923年(大正12年)、東京市懸賞公募の「東京市歌」(作曲:山田耕筰)で応募作が一等入選となるが、石川県警察部に出向していたため不在であった。 関東大震災の後に帰京、文部省に入省し学務局農業教育課長、社会教育局青年教育課長、資源局官房文書課長、宗教局長、督学官等を歴任する。
相良 守峯(さがら もりお、1895年(明治28年)4月14… 相良 守峯(さがら もりお、1895年(明治28年)4月14日 - 1989年(平成元年)10月16日)は、日本の独文学者。 東京大学名誉教授、鶴岡市名誉市民(第一号)、勲二等瑞宝章受章、文化勲章受章。贈従三位(没時叙位)、贈勲一等瑞宝章(没時陞叙)。山形県鶴岡市出身。幼名は鈇太郎(おのたろう)だったが、鉄太郎(てつたろう)と間違えられることが多かったため、数え23歳の年の瀬に郡長の許可を得て守峯と改めた(『茫々わが歳月』p.7)。 木村謹治とともに編纂した独和辞典は「キムラ・サガラ」と呼ばれた。 大独和辞典の編纂やゲーテの研究等でも有名。日本独文学会の創設に貢献した。
大泉 寛三(おおいずみ かんぞう、1894年(明治27年)9… 大泉 寛三(おおいずみ かんぞう、1894年(明治27年)9月4日 - 1981年(昭和56年)2月4日)は、日本の政治家。衆議院議員(3期)。参議院議員(1期)。 山形県北村山郡玉野村(尾花沢町を経て現尾花沢市)出身。 独学し、1917年(大正6年)川口町(現川口市)に大泉工場(機械鉄鋼場)を創業。1921年(大正10年)立憲政友会に入党し、その後、川口町会議員、同町会議長、同町助役、川口市会議員、同市参事会員、同市助役などを務めた。 1940年(昭和15年)10月、埼玉県立川口工業高等学校設備拡充費として1万円寄付により1941年(昭和16年)9月13日紺綬褒章受章。1941年12月、川口市役所備品として乗用車1台寄付により1942年(昭和17年)4月28日紺綬褒章受章(飾版)。
平 貞蔵(たいら ていぞう、1894年8月7日 - 1978… 平 貞蔵(たいら ていぞう、1894年8月7日 - 1978年5月28日)は、日本の思想家。新人会、昭和研究会に参加。昭和塾を設立。 山形県東置賜郡佐沢村(現在の長井市上伊佐沢)に平八蔵の二男として生まれる。米沢中学校、第三高等学校を経て、東京帝国大学法学部政治学科卒業。東京帝大の新人会に所属。 佐々弘雄の紹介で、奉天において後藤隆之助らに会い、これが縁で昭和研究会の支那問題研究会に参加することになり、多くの軍人と接触した。ソ連旅行中の宮本百合子と会っている(「道標」) 1926年〜1928年、1931年から1933年にかけ、法政大学図書館館長に就任。 昭和13年(1938年)5月に大山岩雄とともに中支視察のため上海へ赴き、6月に野田清海軍少将らと現地視察談を昭和研究会で発表。
相田 岩夫(あいだ いわお、1894年〈明治27年〉6月14… 相田 岩夫(あいだ いわお、1894年〈明治27年〉6月14日 - 1982年〈昭和57年〉10月6日)は、戦前日本の大蔵官僚。日本銀行理事・監事、日本出版販売会社社長。 山形県出身。特定郵便局長相田広吉の二男として生まれた。米沢中学校(現山形県立米沢興譲館高等学校)、第一高等学校を卒業。1918年(大正7年)10月、高等試験行政科試験に合格。1919年(大正8年)7月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業した。大蔵省に入省し大蔵属に任官し銀行局に配属された。 以後、財務書記・米国駐在、司税官・千葉税務署長、幸橋税務署長、大蔵事務官・銀行局配属、銀行検査官などを歴任。帝人事件で検挙され1934年(昭和9年)5月に休職したが、冤罪事件のため1937年(昭和12年)12月に無罪判決を受けて復職。
茂木 善作(もぎ ぜんさく、1893年(明治26年)12月1… 茂木 善作(もぎ ぜんさく、1893年(明治26年)12月10日 - 1974年(昭和49年)12月24日)は、日本の陸上競技選手、スポーツ指導者、教員。山形県飽海郡本楯村(現・酒田市)の出身で、山形県初のオリンピック選手である。また、第1回箱根駅伝で最終10区を走り、11分52秒差を覆して東京高等師範学校(現・筑波大学)を優勝に導いた。 1893年(明治26年)12月10日、山形県飽海郡本楯村大字豊原(現・酒田市豊原)に生まれる。茂木家は農家で、善作は三男であった。当時はまだ、農家の三男が普通に学校に通える時代ではなく、晩年の茂木は両親や兄弟にいつも感謝していた。1913年(大正2年)に山形県師範学校(山形師範、現・山形大学地域教育文化学部)を卒業する。
竹岡 勝也(たけおか かつや、1893年11月10日 - 1… 竹岡 勝也(たけおか かつや、1893年11月10日 - 1958年9月30日)は、国学研究を中心に、日本思想史を専門とする日本の歴史学者で、九州帝国大学教授などを歴任した。 阿部 勝也として、山形県飽海郡上郷村山寺(後の松山町→酒田市)に生まれる。阿部一郎(阿部襄の父)、阿部次郎、堀三也、阿部余四男は兄、阿部六郎は弟である。 地元の山寺尋常高等小学校から、1907年に山形県立山形中学校(山形県立山形東高等学校の前身)に進み、さらに1912年には仙台の旧制・第二高等学校第一部乙類に入学した。二高では、土井晩翠、登張竹風らの薫陶を受けた。 1915年7月には東京帝国大学に進み、1918年に文科大学史学科を卒業した。
加藤 セチ(かとう せち、明治26年(1893年)10月2日… 加藤 セチ(かとう せち、明治26年(1893年)10月2日 - 平成元年(1989年)3月29日)は、日本の化学者。理学博士。日本の女性科学者の草分けの一人。元理化学研究所主任研究員。上野学園大学名誉教授。山形県東田川郡三川町名誉町民。
五十嵐 悌三郎(いがらし ていざぶろう、明治26年(1893… 五十嵐 悌三郎(いがらし ていざぶろう、明治26年(1893年)9月21日 - 昭和15年(1940年)5月1日)は、山形県西田川郡栄村(現・鶴岡市)出身の、作曲家、音楽教育者。 代表的な作曲に、『山形県青年団歌』(土井晩翠作詞)がある。 京城で学校教諭を務める傍ら、李王家の雅楽研究に没頭した。 山形県師範学校での授業の始めには、毎回1曲の歌を歌っていた。
石川 栄耀(いしかわ ひであき、1893年9月7日 - 19… 石川 栄耀(いしかわ ひであき、1893年9月7日 - 1955年9月25日)は、日本の都市計画家。 都市における盛り場研究の第一人者で新宿歌舞伎町の生みの親および命名者。戦前期から戦後にかけて、都市計画分野最大のイデオローグであり、日本の都市計画発展に貢献した。 早くから地方計画・地域計画の重要性を認識し、「生活圏」の考え方を提唱、これを国土計画へ拡大する地方計画の考え方の基礎としていた。 長男の石川允も都市計画家として活動した。 1893年9月、山形県東村山郡尾花沢村(現尾花沢市)に根岸文夫の次男として生まれる。兄は根岸川柳名人根岸栄隆。6歳で母親の実家である石川家の養子になる。養父の石川銀次郎は実父の弟で(妻同士も姉妹)、日本鉄道の職員。
浜田 広介(はまだ ひろすけ、旧字体:濱田 廣介、1893年… 浜田 広介(はまだ ひろすけ、旧字体:濱田 廣介、1893年〈明治26年〉5月25日 - 1973年〈昭和48年〉11月17日)は、日本の童話作家。本名は濱田 廣助。日本児童文芸家協会初代理事長。代表作に『泣いた赤鬼』『椋鳥の夢』『竜の目の涙』などがあり、一連の作品は「ひろすけ童話」と称される。坪田譲治、小川未明とともに「児童文学界の三種の神器」と呼ばれた。次男濱田滋郎は音楽評論家になった。 山形県東置賜郡高畠町の農家に生まれた。幼少時から巖谷小波を愛読。米沢中学(現山形県立米沢興譲館高等学校)、早稲田大学英文科卒。中学時代は大熊信行や上泉秀信と同人誌を作っていた。 1914年(大正3年)大学入学の年に『萬朝報』の懸賞小説に短編小説『零落』が入選したのを皮切りに、何作かの小説を著す。
山木 武夫(やまき たけお、1893年(明治26年)4月4日… 山木 武夫(やまき たけお、1893年(明治26年)4月4日 - 1983年(昭和58年)10月11日)は、昭和時代の政治家。農政家。衆議院議員(1期)。別名に栄太、孫左衛門。 農業・山木孫左衛門の長男として山形県東田川郡新堀村落野目(現酒田市落野目)に生まれる。1910年(明治43年)藤島の庄内農学校を卒業し、家業に従事する傍ら新堀村小学校の代用教員を務める。県立自治講習所に入り加藤完治に学び、1918年(大正7年)同所を卒業すると農村問題に取り組み、大陸移民政策の推進に関与した。1928年(昭和3年)落野目信用組合を組織し同組合長となり、農業倉庫を設立し、県信用組合連合会、県連合農業倉庫、北斗会などの理事を歴任した。
大熊 信行(おおくま のぶゆき、1893年2月18日 - 1… 大熊 信行(おおくま のぶゆき、1893年2月18日 - 1977年6月20日)は、経済学者・文芸評論家・歌人。 富山大学教授、神奈川大学教授、創価大学教授などを歴任。福田徳三門下。 山形県米沢市元籠町生まれ。旧制米沢興譲館中学校(現山形県立米沢興譲館高等学校)を経て1916年東京高等商業学校(現一橋大学)卒。中学時代、浜田広介や上泉秀信と同人誌を作っていた。高商同期の歌人浦野敬はのちに、大熊の創刊した歌誌「まるめら」の同人となった。 1916年日清製粉入社。米沢商業学校で教鞭をとった後、1919年東京高等商業学校専攻部進学、1921年同卒。1941年経済学博士(東京商科大学)。論文の題は「経済理論における配分原理の所在並に適用に関する基礎的研究」。
大沼 貞藏(おおぬま ていぞう、旧姓:吉田、1893年〈明治… 大沼 貞藏(おおぬま ていぞう、旧姓:吉田、1893年〈明治26年〉1月23日 - 1974年〈昭和49年〉8月1日)は、日本の医師。医学博士。(社)山形県医師会会長〈初代〉。(社)山形市医師会会長〈初代、第5代〔法人化以前からの通算では第7代、第11代〕〉。山形市医師連盟委員長〈初代〉。山形市立病院済生館館長〈第10代〉。大日本帝国陸軍軍医大尉。
齋藤 正市(さいとう まさいち、1893年(明治26年) -… 齋藤 正市(さいとう まさいち、1893年(明治26年) - 1987年(昭和62年)4月6日)は、日本の教育者。藤島町教育委員会教育長、山形県東田川郡校長会長、山形県連合小学校長会評議員、栄典・称号は、従五位・勲五等・双光旭日章・藤島町名誉町民(現・鶴岡市名誉市民)
栗山 津禰(くりやま つね、1892年(明治25年)11月1… 栗山 津禰(くりやま つね、1892年(明治25年)11月11日 - 1964年(昭和39年)1月4日)は、日本の教育者。紫式部や源氏物語の研究者。また、日本で最初に私立大学に入学した女子学生でもあった。 1892年(明治25年)11月11日、山形市で栗山判兵衛と清の次女として生まれる。 山形県立山形高等女学校卒業後、1914年(大正3年)4月に上京。国語学伝習所、二松学舎に学んだ。 1916年(大正5年)4月、東洋大学大学部第二科に入学。専門学校令に基づく私立の旧制専門学校は男子専門学校とみなされていたが、東洋大学は入学を認めた。私立の高等教育機関として初めての女子生徒(学生)となった。 「目下数多い男学生の中に五名のうら若い女学生が混り、男も恥る程の真面目の研究振りを見せて夫々特色を発揮されて居ます。
尾形 源治(おがた げんじ、1892年9月9日 - 1978… 尾形 源治(おがた げんじ、1892年9月9日 - 1978年8月6日)は日本の柔道家(講道館9段)。 京都武専や講道館で修業したのち選手として昭和天覧試合や全日本選士権大会等で活躍する一方、指導者としては大日本武徳会や三重県警察部を経て生まれ故郷の山形に道場を構え多くの門人をの育成に当たり、山形柔道界の大家と知られた。 山形県山形市は宮町3丁目の生まれ。山形第三小学校高等科2年の頃、叔父が柔術の先生をしているという小柄な友人西村辨蔵が休み時間に体操場で五六人を前に見様見真似で大柄な友人三沢栄助に後ろから両手で抱き着かせたのを外し投技を仕掛けたところ、大きい体が風車の様に飛んで地響きをうって転倒し目を廻しながら気絶してしまい友人一同びっくり仰天。
16代 式守 伊之助(じゅうろくだい しきもり いのすけ、1… 16代 式守 伊之助(じゅうろくだい しきもり いのすけ、1892年〈明治25年〉6月20日 - 1948年〈昭和23年〉12月3日)は、大相撲の立行司。本名は刀根亀吉、山形県山形市出身。 伊勢ノ海部屋所属、のち出羽海部屋。9代式守伊之助の弟子(のち養子)。わずか6歳で初土俵。松翁20代木村庄之助、21代木村庄之助の弟弟子。 出世は兄弟子の21代庄之助よりも早かったが、行司引退も45歳と早かった。その後、年寄・立田川を襲名して理事まで昇進した。1948年胃癌のため56歳で死去。 22代木村庄之助著『二十二代庄之助一代記』によれば、頭脳明晰で事務能力が素晴らしく、話のわかる人物だったが、太っていて行司にはやや不向きであったようである。
佐野 文夫(さの ふみお、1892年(明治25年)4月18日… 佐野 文夫(さの ふみお、1892年(明治25年)4月18日 - 1931年(昭和6年)3月1日)は、日本の共産主義者で戦前の日本共産党(第二次共産党)幹部。 山形県米沢市生まれ。父は山口県立山口図書館長を務めた図書館学者・佐野友三郎。父の転勤に伴い、少年期を台湾、大分、山口で過ごす。第一高等学校に無試験で入り、菊池寛、井川(後の恒藤)恭、芥川龍之介と同級生となる。高校生時代、特にドイツ語に長け、在学中から西欧の哲学書を翻訳するほどの天才ぶりだった。この在学中に菊池寛との間でマント事件が起きた。事件の影響でいったん休学して山口県に帰り、キリスト教信徒伝道者・本間俊平の「感化」を促す施設で謹慎生活(秋吉台での大理石採掘)を送り、通常よりも遅れて1913年9月に第一高等学校を卒業した。
宮下 健一郎(みやした けんいちろう、1892年(明治25年… 宮下 健一郎(みやした けんいちろう、1892年(明治25年)3月17日 - 1959年(昭和34年)5月4日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1892年(明治25年)、宮下民雄の長男として山形県米沢市福田町に生まれる。1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。1927年(昭和2年)12月、陸軍大学校(39期)を卒業した。 1938年(昭和13年)、陸軍歩兵大佐に昇進。1941年(昭和16年)、陸軍少将に進級。1943年(昭和18年)6月、第32歩兵団長に就任し太平洋戦争に出征、中国で従軍した。独立歩兵第1旅団長、第1国境守備隊長を経て、1945年(昭和20年)3月、陸軍中将に進み、翌月、第157師団長に着任し、青森県三本木(現在の十和田市)で本土決戦に備えたが、交戦することなく終戦を迎えた。
北野 吉内(きたの きちない、1892年(明治25年)3月1… 北野 吉内(きたの きちない、1892年(明治25年)3月10日 - 1956年(昭和31年)3月15日)は、日本のジャーナリスト、実業家である。旧姓は佐藤。 山形県山形市七日町の生まれ。兄に尾崎紅葉門下の佐藤流葉を持つ。旧制山形中学を経て東京外国語学校(現在の東京外国語大学)に入学し、卒業後はジャパン・アドバタイザー(現在のジャパンタイムズ)に勤務する。その後は萬朝報に転勤し、1916年(大正5年)には北野量子と結婚し婿入りの形で北野姓に改姓した。同年末には東京朝日新聞に転勤し、アサヒグラフ編集部および整理部次長を歴任した。1926年(大正15年)には同社のニューヨーク特派員となり、1929年(昭和4年)の帰国まで同職にあたった。
田中 清治(たなか せいじ、1892年 - 1967年)は山… 田中 清治(たなか せいじ、1892年 - 1967年)は山形県出身の冶金学者であり工学博士。東京帝国大学第一工学部教授を務めた。 田中清次郎の三男として、1892年(明治25年)12月5日に山形県東村山郡金井村で生まれる。仙台の第二高等学校を経て、1917年(大正6年)に東京帝国大学冶金科を卒業。田中鉱山へ入社すると岩手県の釜石製鉄所に配属され、製鋼課長・藤田俊三の下で働いた。 初代所長の横山久太郎が体調を崩し、中大路氏道が二代所長となった1919年(大正8年)。11月に足尾銅山同盟会の一派が釜石に乗り込み、アジ演説で労働者を焚き付けた結果、創業以来未曾有の労働争議が勃発。警官隊が出動する騒ぎとなり、洋行中の藤田に代わって課長代理を務めていた清治は身の危険を感じている。
浦本 政三郎(うらもと せいさぶろう、1891年〈明治24年… 浦本 政三郎(うらもと せいさぶろう、1891年〈明治24年〉5月21日 - 1965年〈昭和40年〉10月8日)は日本の医学博士、尺八奏者。山形県鶴岡市出身。号である浦本 浙潮(うらもと せきちょう)の名でも知られる。 1891年(明治24年)、山形県西田川郡大宝寺村新斎部万年橋(現在の鶴岡市新海町)の名家、榊原家に生まれる。幼少期を鶴岡市で過ごすが、荘内中学校在学中に熊本の浦本家に入り、熊本中学校に転校する。その後は旧制五高、京都帝国大学医科大学、同大学院を経て1921年(大正10年)に医学博士となる。その後は東京慈恵会医科大学の教授を務め、1951年(昭和26年)ごろに退職、浦本研究所を開設する。
酒井 直次(さかい なおじ、1891年〈明治24年〉3月26… 酒井 直次(さかい なおじ、1891年〈明治24年〉3月26日 - 1942年〈昭和17年〉5月28日)は、日本の陸軍軍人。第15師団長、陸軍通信学校長、歩兵第19旅団長等を歴任し、階級は陸軍中将功二級に至る。暗号通信の権威として知られる。本籍は東京府。 1891年(明治24年)3月26日、出羽国庄内藩初代藩主酒井忠勝の6男酒井忠直(藩主家一門・酒井奥之助家)の後裔である酒井直興の次男として山形県西田川郡鶴岡五日町(現:鶴岡市)に生まれる。1902年(明治35年)、東京に移住し、1903年(明治36年)、成城中学校に入学。 1904年(明治37年)、陸軍中央幼年学校予科に入学し同本科を経て、1911年(明治44年)5月27日、陸軍士官学校を92番/740名で卒業する。
本間 国生(ほんま くにお、本名:本間 国雄、明治24年(1… 本間 国生(ほんま くにお、本名:本間 国雄、明治24年(1891年)3月24日 - 昭和48年(1973年)12月30日)は、米沢市出身の日本画家。文学博士の本間久雄の実弟。号は逸老庵。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
寺岡 謹平(てらおか きんぺい、1891年3月13日 - 1… 寺岡 謹平(てらおか きんぺい、1891年3月13日 - 1984年5月2日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 1891年(明治24年)3月13日、山形県東田川郡羽黒町手向(現・鶴岡市)で小学校長・寺岡義秀の二男として生れる。新庄中学校を経て、1912年(明治45年)7月に海軍兵学校(40期)を卒業、少尉候補生となる。 1913年(大正2年)12月、海軍少尉任官。1915年(大正4年)12月、中尉に昇進。1918年12月、大尉に昇進。1919年(大正8年)12月、海軍水雷学校高等科を卒業し、第二艇隊艇長に就任。1920年(大正9年)8月、檜 (桃型駆逐艦)に乗組。1921年(大正10年)6月、菱 (樅型駆逐艦)に乗組。
鈴木 義尾(すずき よしお、1890年(明治23年)11月1… 鈴木 義尾(すずき よしお、1890年(明治23年)11月15日 - 1944年(昭和19年)11月21日)は、日本の海軍軍人。海軍中将。前名は義雄。主な軍歴を第二艦隊に歩み、太平洋戦争において軍令部第二部長、第三戦隊司令官を歴任。マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦に参戦し、台湾沖で乗艦「金剛」 の沈没時に戦死した。 山形県出身。新庄中学を経て、海軍兵学校40期を卒業。席次は144名中29番。鈴木は海軍大学校航海学生を修了した航海科専攻士官で、重巡洋艦「加古」など4艦の航海長を務めた。 大尉で第一艦隊参謀を務め海大甲種23期を修了。高木武雄、角田覚治、田結穣らが同期生である。中佐時代は欧米出張を経て、日本海軍の前進部隊である第二艦隊の参謀に就任。
永田 亀之助(ながた かめのすけ、1890年(明治23年)7… 永田 亀之助(ながた かめのすけ、1890年(明治23年)7月30日 - 1967年(昭和42年)12月22日)は、日本の政治家。元山形県議会議員、元上山市議会議長。