渡部 敬太郎(わたなべ けいたろう、1927年〈昭和2年〉1… 渡部 敬太郎(わたなべ けいたろう、1927年〈昭和2年〉1月15日 - 1997年〈平成9年〉11月26日)は、日本の陸軍軍人、陸上自衛官である。陸軍予科士官学校卒業(第60期)。第18代陸上幕僚長、第15代統合幕僚会議議長。息子渡部直己は文芸評論家で、元・早稲田大学文学学術院教授。陸海空自衛隊を通じ初の昭和生まれの幕僚長。 福島県相馬中学から仙台陸軍幼年学校を経て陸軍予科士官学校を卒業、陸軍士官学校本科(第60期)に入校直後に終戦を迎える。1950年(昭和25年)、警察予備隊に2等警査(2等陸士)として入隊する。その後は在ソビエト日本大使館付防衛駐在官、第2普通科連隊長、陸幕人事部長、第10師団長と、陸上自衛隊の成長とともに歩んでいった。
奥田 鑛一郎(おくだ こういちろう、1920年(大正9年)3… 奥田 鑛一郎(おくだ こういちろう、1920年(大正9年)3月19日 - 1995年(平成7年)3月17日)は、日本の会社経営者(三宅坂経営よろず相談所主宰、梁山泊・三宅坂倶楽部会長)、著述業、元陸軍軍人および陸上自衛官。陸士53期卒(歩兵)。最終階級は陸軍少佐、二等陸佐。旧名:奥田重武。 福島県会津若松市出身。奥田重栄少将の四男。ペンネームの「鑛一郎」は祖父の名で、家憲により1978年ごろ襲名した。 父の予備役編入に伴い京都市で育ち、京都府立第六中学より東京幼年学校を経て陸士53期卒。原隊は歩兵第9連隊。当時の第16師団長は石原莞爾であった。連隊旗手を拝命後、下志津陸軍飛行学校にて特別偵察学生としての訓練を受け、1941年6月、参謀本部課員として南方での空中偵察に従事。
猪俣 甚弥(いのまた じんや、1916年(大正5年)4月30… 猪俣 甚弥(いのまた じんや、1916年(大正5年)4月30日 - )は、日本の陸軍軍人。陸軍中野学校1期生で、ポツダム宣言受諾後の皇統護持作戦に参加し、「本丸」計画の責任者であった。最終階級は陸軍少佐。 福島県若松市(現会津若松市)に生まれる。1934年(昭和9年)会津中学を卒業し二高に進学したが、学費滞納で中退する。1937年(昭和12年)歩兵第29連隊に入隊し、翌年には歩兵学校で通信を専攻した。 この1938年(昭和13年)7月には、秋草俊や岩畔豪雄らが中心になり陸軍中野学校の前身である後方勤務要員養成所が設立される。猪俣は騎兵学校の推薦で、養成所の入所試験に合格した。事前の知識としては情報関係の仕事である程度しかなく、入所後に長期海外勤務要員と知らされる。
花見 弘平(はなみ こうへい、1909年8月 - 1994年… 花見 弘平(はなみ こうへい、1909年8月 - 1994年12月)は、日本の海軍軍人、政治家。福島県耶麻郡塩川町長。勲三等瑞宝章受勲。陸軍少佐花見侃(第36師団参謀、陸士47期、陸大57期)は弟。歴史学者の花見朔巳は叔父。 福島県耶麻郡塩川町(現・喜多方市)大字小府根の旧家の次男として生まれる。旧制喜多方中学校(現・福島県立喜多方高等学校)卒業後、海軍兵学校に第57期生として入学。 海軍兵学校を卒業し遠洋航海を終えた後、初級士官として海軍水雷学校や海軍砲術学校で学んだ。1930年12月1日に少尉昇進。その後、重巡洋艦「古鷹」・軽巡洋艦「五十鈴」・駆逐艦「神風」乗組を経て、1932年12月1日に中尉昇進、澎湖島の警備に就く。
柴田 武雄(しばた たけお、1904年(明治37年)2月20… 柴田 武雄(しばた たけお、1904年(明治37年)2月20日 - 1994年(平成6年)8月11日)は、日本の海軍軍人、宗教家。福島県相馬郡出身。海兵52期。最終階級は海軍大佐。 福島県相馬郡松ヶ枝原釜(現相馬市原釜)に生まれる。子供のころはひ弱で言語障害をもっていた。少年時代から作文と弁論は苦手であったという。小学校を6年と父の意思で高等科を2年経た後、相馬中学に100人中14番の成績で入学。柴田によれば中学時代は数学の神様と呼ばれ、中学1年の時に催眠術を覚え、中学4年の時に的中率100%の数理的占い法を発明したという。中学5年の1学期に予言的占師ドウシタイと1週間寝食を共にし奥義を伝授されたという。
吉田 英三(よしだ ひでみ/えいぞう、1902年(明治35年… 吉田 英三(よしだ ひでみ/えいぞう、1902年(明治35年)3月5日 - 1978年(昭和53年)4月24日)は、日本の海軍軍人、海上自衛官。初代自衛艦隊司令。最終階級は海軍大佐、海将。 農業を営む吉田蔵之介の三男として生まれる。旧制福島県立磐城中学校(現・福島県立磐城高等学校)を経て、海軍兵学校第50期入校。1922年(大正11年)6月、海軍兵学校卒業。海軍大学校(甲種32期)卒業。海軍での最終階級は海軍大佐(軍務局第三課長)。 終戦に伴い旧海軍省は解体されたが、復員に必要な人事情報に精通していたため、第二復員局に引き続き勤務。この頃から、職務上接していた情報と人脈を用い、勤務時間外に「新海軍」再建計画を画策する。
鹿岡 円平(かのおか えんぺい、1901年(明治34年)4月… 鹿岡 円平(かのおか えんぺい、1901年(明治34年)4月11日 - 1944年(昭和19年)11月5日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 福島県出身。医師・鹿岡貫治の四男として生れる。旧制石川中学校を経て、1921年7月、海軍兵学校(49期)を卒業。皇族2名を除いた席次は172名中5番。翌年5月に海軍少尉任官。海軍水雷学校高等科を首席卒業し、「加古」分隊長、アメリカ駐在(イェール大学)、「夕霧」航海長、「夕凪」水雷長、「羽黒」分隊長などを経て、1934年7月、海軍大学校(甲種32期)を首席で卒業。 軍令部出仕、「嵯峨」艦長、軍令部第1部第2課部員、第2根拠地隊参謀、海軍省軍務局第1課局員などを歴任し東條英機首相秘書官となった。
長澤 浩(ながさわ こう、1900年(明治33年)12月29… 長澤 浩(ながさわ こう、1900年(明治33年)12月29日 - 1967年(昭和42年)4月17日)は、日本の海軍軍人、海上自衛官。第2代海上幕僚長。海兵49期、海大甲種30期。 福島県福島市出身。福島県立福島中学校(現・福島県立福島高等学校)を経て、海軍兵学校に進む。海軍時代は主に人事畑を歩む。 戦後、公職追放を経て、山本善雄元少将、保科善四郎元中将、野村吉三郎元大将のラインで海軍再建計画を進める。これが後にY委員会に発展、同委員会において渉外及び制度、機構、定員等の立案する部門を担当する。海上幕僚長に就任後は掃海隊、練習隊群、需給統制隊、海上訓練指導隊、術科学校、遠洋航海など今日の海上自衛隊の骨格となる部門を次々に発足させ、海上自衛隊の実質的な開祖とされる。
加藤 榮吉(かとう えいきち、1897年(明治30年)1月1… 加藤 榮吉(かとう えいきち、1897年(明治30年)1月10日- 1946年(昭和21年)8月1日)は、大日本帝国海軍の軍人。海軍兵学校46期で、最終階級は大佐。ブーゲンビル島の戦いで島の北部を固守した。住民殺害を命じた戦争犯罪の有罪判決を受け、死刑となった。 1897年(明治30年)に会津若松市に住む商人の家に5男として生まれる。尋常小学校3年生の時に、仙台市で私塾の育英塾を開いていた15歳年上の次兄の加藤利吉の下へ、母と三兄の利喜松とともに移り住む。その後、利吉の養子として育てられ、立町尋常高等小学校2年から東北学院普通科(後の東北学院中学部)3年に編入し、卒業。 1915年(大正6年)9月に海軍兵学校へ入り、46期で卒業。
菊池 朝三(きくち ともぞう、1896年11月22日 - 1… 菊池 朝三(きくち ともぞう、1896年11月22日 - 1988年1月31日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。茨城県土浦市議会議員。 福島県郡山市出身。菊池喜久蔵の四男として生まれる。安積中学校を経て、1917年11月、海軍兵学校(45期)を卒業。席次は89名中48番。翌年8月に海軍少尉任官。横須賀航空隊と霞ヶ浦航空隊で航空術学生として学んだ。霞ヶ浦海軍航空隊・横須賀海軍航空隊の各分隊長、各飛行隊長、「鳳翔」「加賀」「赤城」の各分隊長、「鳳翔」飛行長、大村航空隊飛行長、欧米出張、海軍航空廠飛行実験部員、「赤城」飛行長、第二航空戦隊参謀、海軍航空本部教育部員、第1連合航空隊・第2連合航空隊の各参謀、航空本部教育部員などを歴任。
簗瀬 真琴(やなせ まこと/やなせ まさこと、1892年(明… 簗瀬 真琴(やなせ まこと/やなせ まさこと、1892年(明治25年)5月2日 - 1978年(昭和53年)10月23日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 福島県出身。簗瀬家は旧会津藩士で北原家、内藤家と会津三家と称された家である。幕末の当主で家老を務めた簗瀬三左衛門は簗瀬の祖父にあたる。三左衛門は西郷頼母、田中玄清以上の高禄(2200石)を食んだ。白虎隊士として自刃した簗瀬勝三郎、簗瀬武治は簗瀬の血族である。 会津中学を経て陸軍士官学校26期。1914年(大正3年)12月歩兵少尉に任官。少佐時代に近衛歩兵第1連隊附として麻布中学配属将校、中佐時代は近衛歩兵第3連隊附を務めている。 支那派遣軍高級副官を経て、橘連隊の異名を持つ歩兵第34連隊の連隊長として日中戦争に出征。
高木 武雄(たかぎ たけお、1892年(明治25年)1月25… 高木 武雄(たかぎ たけお、1892年(明治25年)1月25日 - 1944年(昭和19年)7月6日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。福島県石城郡大野村(現・いわき市)出身 。磐城中学校(現・福島県立磐城高等学校)卒。海軍兵学校(39期)、海軍大学校(23期)卒業。幼少のころから頭脳明晰で、同期中最年少の少尉任官であった。海軍兵学校同期に伊藤整一、山縣正郷、遠藤喜一、阿部弘毅、岡敬純、角田覚治、原忠一などがいる。 1911年(明治44年)7月、海軍兵学校(39期)を、148人中17位で卒業。 1912年(大正元年)12月、海軍少尉。 1914年(大正3年)12月、海軍中尉。 1917年(大正6年)12月、海軍大尉。
草刈 英治(くさかり えいじ、1891年(明治24年)6月1… 草刈 英治(くさかり えいじ、1891年(明治24年)6月1日 - 1930年(昭和5年)5月20日)は、日本の海軍軍人。ロンドン海軍軍縮条約に反対し自決した海軍少佐である。 草刈の遠祖は小野木公郷である。父・鉄太郎は旧会津藩士で、14歳のおり戊辰戦争における会津若松城籠城戦を戦った。長兄・雄治は東京帝国大学出身の関東都督府技師、のち九州電気軌道専務、次兄・哲治は海軍大主計(主計大尉)、二人の妹はそれぞれ同郷の陸軍将校(外井氏)、陸軍軍医(石田氏)に嫁いでいる。草刈は会津中学に学び、元来は一高志望であったが、海軍兵学校に在校していた同窓生の短剣姿に憧れ海兵進学を目指す。1910年(明治43年)、草刈は78名中3番の成績で中学を卒業する。
原田 覚(はらだ かく/さとる、1890年〈明治23年〉10… 原田 覚(はらだ かく/さとる、1890年〈明治23年〉10月12日 - 1945年〈昭和20年〉9月25日)は、日本の海軍軍人。海兵41期。最終階級は海軍中将。特殊潜航艇の育ての親。 1890年(明治23年)10月12日、福島県耶麻郡長瀬村に生まれた。会津中学を経て、海軍兵学校および陸軍士官学校(第25期)を受験し、双方に合格している。1910年(明治43年)9月12日、海軍兵学校41期に入学。同期生に草刈英治(会津中学の同級生)、大田実、保科善四郎らがいる。1913年(大正2年)12月19日、118名中47番の席次で卒業。少尉候補生として練習航海に従事。1914年(大正3年)8月11日、巡洋戦艦「比叡」に乗組。
高橋 伊望(たかはし いぼう、1888年(明治21年)4月2… 高橋 伊望(たかはし いぼう、1888年(明治21年)4月20日 - 1947年(昭和22年)3月18日)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争において司令長官職を歴任した海軍中将である。 福島県出身。相馬中学を経て1908年(明治41年)、海軍兵学校36期を卒業。席次は入校時192名中5番。在校中2学年とも学術優等章を授与され、191名中10番で卒業した。同期に南雲忠一、沢本頼雄、清水光美らがいる。 高橋は海軍砲術学校を修了した砲術専攻士官で、戦艦「石見」砲術長を務めた。海軍大学校17期を卒業後、2年間英国に駐在している。ロンドン海軍軍縮会議では随員を務め、帰国後は海軍省副官となる。会議後の帝国議会では海軍政務次官経験者が海軍造艦政策に対する追求を行ったが、艦政本部での経験を活かし、海相安保清種を補佐した。
木幡 行(こわた つよし、1887年6月2日 - 1977年… 木幡 行(こわた つよし、1887年6月2日 - 1977年8月10日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。福島県出身。従四位勲三等功四級。 1887年(明治20年)6月2日に福島県標葉郡両竹村で木幡清茂の次男として生まれる。木幡家は代々相馬中村藩の藩士であったが没落し、極貧の少年時代を過ごした。7、8歳の頃に日清戦争が勃発し、出征や凱旋などを見聞きしていた木幡は、将来軍人になることを密かに決意する。しかし、家は困窮して学費を出せる状況ではなかったために「学費は一切親に頼らぬ。教科書は必ず筆写する。」ことを心に誓い、福島県立第四中学校に入学し、入学から卒業まで特待生を続け、傍らに新聞配達などをして学費を稼いだ。
雪下 勝美(ゆきした かつみ、1887年〈明治20年〉3月1… 雪下 勝美(ゆきした かつみ、1887年〈明治20年〉3月12日 - 1967年〈昭和42年〉5月27日)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争時にアルゼンチン大使館附武官兼チリ公使館附武官を務めた海軍少将である。 福島県出身。会津中学四年修了で海軍兵学校に進む。1908年(明治41年)11月21日卒業(36期)。ハンモックナンバー4番。同期に沢本頼雄、南雲忠一、塚原二四三、佐藤市郎らがいる。海大甲種学生(17期)の同期生は豊田貞次郎、沢本頼雄、高橋伊望らである。 雪下は航海科専攻の士官で海軍大学校(以下「海大」)乙種学生を経て海大専修学生(航海術)を首席で卒業した。少佐に昇進後、皇太子裕仁親王の欧州訪問のお召艦となった「香取」航海長として渡欧した。
國府 尽平(こうの じんぺい、1885年(明治18年) - … 國府 尽平(こうの じんぺい、1885年(明治18年) - 1956年(昭和31年)4月30日)は、日本の海軍軍人、医師。海軍中佐で予備役となったのち、医学博士号を取得した。 海軍兵学校35期。福島県北会津郡湊村(現・会津若松市)出身。 國府は二度改名しており、旧名は横倉房吉と穴澤房吉である。会津中学から府立一中に転校し、海兵の席次は172中名123番であった。同期生に近藤信竹、高須四郎、野村直邦などがいる。海兵35期の遠洋航海は「松島」が火災沈没事故を起こし、乗組んでいた國府は救助されたが、同期生30名以上が犠牲となっている。海軍将校として装甲巡洋艦・常磐、戦艦・富士、特務艦・朝日、呉海兵団、横須賀防備隊などで勤務した。
藤井 重郎(ふじい じゅうろう、1883年(明治16年)7月… 藤井 重郎(ふじい じゅうろう、1883年(明治16年)7月18日 - 1937年(昭和12年)8月21日)は、日本の陸軍軍人。歩兵大佐で予備役となったのち、靖安軍司令官に就任し、熱河支隊長として戦死した。最終階級は陸軍少将、満州国陸軍中将。 福島県出身。農業を営む塩谷家の六男で、藤井家の養子となる。長男の藤井毅は陸軍獣医大尉、三男の藤井信は陸軍士官学校57期出身で戦死した陸軍大尉である。藤井は創設以来の稚松会会員であった。会津中学から仙台陸軍幼年学校、陸軍中央幼年学校本科を経て、陸軍士官学校16期を卒業。1904年(明治37年)11月、歩兵少尉に任官した。 歩兵第32連隊附となり、翌年5月から1906年(明治39年)3月まで日露戦争に従軍した。
植松 練磨(うえまつ とうま、1883年4月30日 - 19… 植松 練磨(うえまつ とうま、1883年4月30日 - 1948年8月22日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍少将。衆議院議員。 福島県相馬郡鹿島町(現・福島県南相馬市)出身。安積中学を経て1905年11月、海軍兵学校(33期)を卒業し、1906年12月、海軍少尉任官。海軍大学校乙種、海軍水雷学校高等科を卒業。 第11艇隊・第9艇隊・第2艇隊の各艇長、水雷学校教官を経て、第2特務艦隊司令部付、「樫」駆逐艦長として第一次世界大戦に従軍。地中海で連合国艦船の護衛任務に従事した。帰国後横須賀鎮守府付、水雷学校特修科学生、「矢風」「駒橋」の各艦長、「浅間」副長、海兵教官などを歴任し、1925年12月、海軍大佐に進級した。
常盤 盛衛(ときわ もりえ、1881年〈明治14年〉12月8… 常盤 盛衛(ときわ もりえ、1881年〈明治14年〉12月8日 - 1971年〈昭和46年〉8月8日)は、日本の海軍軍人。軍令部、艦隊、鎮守府、要港部などの参謀職を歴任した海軍少将である。 福島県出身。父は旧会津藩士・常盤盛敦。会津中学5回生で外務省顧問・斎藤良衛、樺太庁長官・岸本正雄は同級生である。1899年(明治32年)海軍兵学校入校(30期)。二年次に学術優等章を授与される。1902年(明治35年)卒業。席次は187名中5番。 「初瀬」乗組みとして日露戦争を迎えたが、同艦は1904年(明治37年)5月15日に旅順港外において触雷し沈没。その際常盤は初瀬の艦載水雷艇を指揮し、哨戒のため裏長山列島に赴いていた。
高山 輝義(たかやま てるよし、1879年(明治12年)10… 高山 輝義(たかやま てるよし、1879年(明治12年)10月4日 - 没年不詳)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍少将。第16代若松市長。 福島県出身。会津中学(4回生)を経て陸軍士官学校を卒業(12期)。同期生に畑俊六、杉山元両元帥、小磯国昭らがいる。1901年(明治34年)6月、歩兵少尉任官。歩兵第65連隊中隊長、同連隊副官、近衛歩兵第2連隊大隊長などを経て、1928年(昭和3年)には歩兵第79連隊連隊長に就任し同職を3年勤めた。1931年(昭和6年)8月1日少将に進み、同月に予備役編入となる。1942年(昭和17年)には若松市長に就任し、戦前最後の市長となった。 1944年(昭和19年)、会津松平家当主・松平保男の急逝に際し、旧領代表として葬儀に参列したが、会津地方からは多数の参列者が物品を持参して上京した。
畑 俊六(はた しゅんろく、1879年(明治12年)7月26… 畑 俊六(はた しゅんろく、1879年(明治12年)7月26日 - 1962年(昭和37年)5月10日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は元帥陸軍大将。偕行社会長。位階勲等は従二位勲一等功一級。
西 義一(にし よしかず、1878年〈明治11年〉1月1日 … 西 義一(にし よしかず、1878年〈明治11年〉1月1日 - 1941年〈昭和16年〉4月15日)は、日本の陸軍軍人。陸軍大将正三位勲一等功二級。 福島県出身。旧会津藩士・西忠義の長男として生れる。忠義は日高地方の開発に功績を挙げたことで生祀され、また臨時帝室編修局嘱託を務めている。弟の西義顕は満鉄社員で、犬養健、松本重治らと汪兆銘工作を行った。西は稚松会の評議員である。 栃木中学校を経て、1898年(明治31年)11月、陸軍士官学校(10期)を卒業し、翌年6月、砲兵少尉任官。1902年(明治35年)12月、陸軍砲工学校高等科を卒業。陸士生徒隊付、第7師団弾薬大隊付を歴任。日露戦争では第2師団後備野砲中隊長として出征した。
武川 壽輔(むがわ じゅすけ、1877年(明治10年)11月… 武川 壽輔(むがわ じゅすけ、1877年(明治10年)11月15日 - 1939年(昭和14年)2月12日)は、日本の陸軍軍人、教育者。最終階級は陸軍少将、兵庫県立赤穂中学校(現:兵庫県立赤穂高等学校)の初代校長。 福島県安積郡福良村出身。父は旧会津藩藩士で県会議員の武川定八。安積中学から陸軍士官学校に進み、1897年(明治30年)卒業(9期)。1898年(明治31年)歩兵少尉に任官。陸軍大学校在学中に歩兵第27連隊の中隊長として日露戦争に出征。旅順攻囲戦に加わり203高地の攻防戦で負傷している。 戦後陸大(18期)を卒業し、教育総監部課員、歩兵第57連隊大隊長、第13師団、東京衛戍総督部の各参謀を経て歩兵第3連隊の連隊長に就任する。
藁谷 勇三郎(わらがや ゆうさぶろう、1877年(明治10年… 藁谷 勇三郎(わらがや ゆうさぶろう、1877年(明治10年)4月24日 - 1966年(昭和41年)7月30日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大佐。 福島県士族の三男である。会津中学を経て、1898年(明治31年)11月25日、陸軍士官学校(第10期)を卒業し、翌年6月27日、歩兵少尉に任官し歩兵第29連隊附となった。戸山学校教官、将校生徒試験常置委員、歩兵第15連隊大隊長、歩兵第59連隊附、松本連隊区司令官等を歴任し、1922年(大正11年)予備役編入となる。日露戦争、シベリア出兵に従軍し、功五級に叙せられた。教官を務めた戸山学校は陸軍歩兵戦術の研究、教育に当たる機関で、藁谷は剣術、水泳、体操に関係する下記の著作を刊行した。
町野 武馬(まちの たけま、1875年(明治8年)11月16… 町野 武馬(まちの たけま、1875年(明治8年)11月16日 - 1968年(昭和43年)1月10日)は、日本の陸軍軍人、政治家。張作霖の顧問を務め、最終階級は陸軍大佐。衆議院議員。戦後再建された大日本武徳会会長。
石井 常造(いしい つねぞう、1875年(明治8年)1月2日… 石井 常造(いしい つねぞう、1875年(明治8年)1月2日 - 没年不詳)は、日本の陸軍軍人、生気研究者。基隆要塞司令官を務めた陸軍少将で、また生気自強療法を唱え生気の医療への応用を図った。従四位勳三等功四級。
八田 宗吉(はった そうきち、1874年(明治7年)10月9… 八田 宗吉(はった そうきち、1874年(明治7年)10月9日 - 1938年(昭和13年)1月16日)は、日本の政治家、実業家、陸軍軍人である。幼名は吉之丞。立憲政友会所属の衆議院議員。馬議員、鉄道代議士、百姓代議士などの異名があった。 日本医科大学教授で衆議院議員の八田貞義は息子。 福島県河沼郡日橋村(現・会津若松市)出身。福島中学を経て、陸軍軍人となり歩兵大尉まで進級している。故郷である日橋村村長となったのが政治家としての第一歩で、県会議員、参事会員を歴任。実業家としては福島県農工銀行、只見川水力電気、日本化学工業、会津電力の役員を務めている。 1917年(大正6年)福島二区から衆議院議員に初当選。
平石 弁蔵(ひらいし べんぞう、1873年(明治6年) - … 平石 弁蔵(ひらいし べんぞう、1873年(明治6年) - 1942年(昭和17年))は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍歩兵少佐。『会津戊辰戦争』の著者として知られる。 父は旧会津藩士・平石甚五郎。平石は再建された会津中学の1回生で、松江春次は同級生である。中途退学し1893年(明治26年)陸軍教導団歩兵科生徒隊に入団。翌年、歩兵第17連隊附二等軍曹となる。日清戦争を迎え、橋頭集、楊家屯、羊亭集と歴戦し、一等軍曹へ昇進した。戦役中は台湾へも渡っている。帰国後歩兵第32連隊附等を務め、曹長として陸軍士官学校に勤務し、陸軍経理学校軍吏学生に採用された。のち日露戦争に出征し、少佐まで昇進している。
畑 英太郎(はた えいたろう、1872年8月28日(明治5年… 畑 英太郎(はた えいたろう、1872年8月28日(明治5年7月25日) - 1930年5月31日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍大将。
松江 豊寿(まつえ とよひさ、1872年7月11日(明治5年… 松江 豊寿(まつえ とよひさ、1872年7月11日(明治5年6月6日)- 1956年(昭和31年)5月21日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍少将。第9代若松市長。 第一次世界大戦中に板東俘虜収容所所長を務め、在任中にドイツ人俘虜を人道的に扱い地元の住民とドイツ人俘虜を交流させた。この時、ドイツ人俘虜によって日本で初めてベートーベンの交響曲第9番が演奏された。映画『バルトの楽園』の主人公としても知られる。 1872年6月に現在の会津若松市で会津藩士、警察官・松江久平の長男として生まれる。1889年(明治22年)16歳の時に仙台陸軍地方幼年学校に入校し、1892年(明治25年)には陸軍士官学校(5期)に進んだ。
長谷川 戍吉(はせがわ じゅきち、1868年7月7日(慶応4… 長谷川 戍吉(はせがわ じゅきち、1868年7月7日(慶応4年5月18日) - 1907年(明治40年)1月21日)は、日本の陸軍軍人。日露戦争において騎兵挺進隊隊長を務めた、いわゆる長谷川挺進隊の指揮官である。戦後旧部下の不祥事が原因で自決した。最終階級は陸軍騎兵少佐。 父は会津藩藩士長谷川信吉である。信吉は禄高十三石四人扶持の武具役所勤めであった。長谷川が誕生した際、すでに長兄の丑吉が白河の戦いで討死しており、長谷川が跡を継いだ。戦後に斗南藩三戸郡門前村に移住したが、1873年(明治6年)に 会津本郷に戻った。陶芸家の弟子となり、旧藩校日新館を再興した私立日新館(現会津高校)に進むが退校。単独で上京し山川浩家の家僕となる。
樋口 喜吉(ひぐち きよし、1865年5月9日(慶応元年4月… 樋口 喜吉(ひぐち きよし、1865年5月9日(慶応元年4月15日) - 1934年(昭和9年)7月12日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。予備役編入後、光学関係の研究に従事し、特許権や実用新案権を取得した。 幕末の若松城郭内に生まれる。戊辰戦争後に再建された日新館の助教となり、陸軍教導団を経て陸軍士官学校入校。1889年(明治22年)に卒業した(旧11期)。同期生に奈良武次、石光真清がいる。陸軍歩兵少尉に任官し、歩兵第16連隊付となる。 日清戦争に出征後、歩兵第30連隊付大尉。1899年(明治32年)陸軍大学校に入校。樋口は陸士5期から7期を主体とした後輩たちと共に学び、1902年(明治35年)に卒業(16期)。
柴 五郎(しば ごろう、1860年6月21日〈万延元年5月3… 柴 五郎(しば ごろう、1860年6月21日〈万延元年5月3日〉 - 1945年〈昭和20年〉12月13日)は、日本の陸軍軍人。第12師団長・東京衛戍総督・台湾軍司令官・軍事参議官を歴任した。階級は陸軍大将。栄典は従二位勲一等功二級。陸士旧3期。柴四朗(東海散士)は兄。 1860年(万延元年)に会津藩の上士(280石)である柴佐多蔵の五男として生まれた。会津戦争の籠城戦前に祖母・母・兄嫁・姉妹は自刃した。自刃前に親戚に預けられた五郎は親戚の山荘で隠れていたが、兄たちや父親と再会する。戦後は会津藩の武士階級は旧会津藩から移住することが決まり、藩主と同じ陸奥国斗南(青森県むつ市)への移住を選ぶ。共に会津藩出身の森雅守少佐(イタリアにて自殺)は斗南時代から行動を共にした陸士旧3期同期生である。
上崎 辰次郎(こうざき たつじろう、1860年(万延元年) … 上崎 辰次郎(こうざき たつじろう、1860年(万延元年) - 1895年 (明治28年)3月14日)は、日本の海軍軍人。日清戦争においてその責任感から自決した上等兵曹(当時は准士官)である。 陸奥国北会津郡若松町(現在の福島県会津若松市)出身。上崎家は会津藩士で、禄百石。幕末の当主で父の上崎且馬は番頭組外様士を勤め、桑名藩部隊の軍目付として戊辰戦争で討死した。兄の辰太郎は台湾守備砲兵第三大隊長で死去した陸軍砲兵少佐、甥に野澤北地がいる。1873年(明治6年)、二等若水夫として海軍に採用され、台湾出兵、西南戦争に従軍し、上等兵曹へ進んだ。横須賀水雷隊攻撃部、対馬水雷隊攻撃部を経て、第三水雷艇隊附として日清戦争に参戦し、機雷群突破、防材破壊などに軍功があった。
森 雅守(もり まさもり、1858年4月4日〈安政5年2月2… 森 雅守(もり まさもり、1858年4月4日〈安政5年2月21日〉 - 1894年〈明治27年〉5月20日)は、日本の陸軍軍人。陸士旧3期。 上原勇作元帥・楠瀬幸彦中将と共に、「陸士旧3期の三羽烏」と呼ばれた秀才であったが、留学先のイタリアで自殺した。最終階級は陸軍砲兵少佐。 会津藩士・森裕衛の長男として、若松に生まれた。旧名は寅之助。幼少時代から勉学に優れ、斗南時代には知藩事である松平容大の嘉賞を受けた。柴五郎(のち陸軍大将)と共に青森県庁の給仕となり、上京する機会をうかがっていた。上京を果たした森は、陸軍幼年学校生徒に合格した。1879年(明治12年)に陸軍砲兵少尉に任官し、翌年に陸士旧3期を卒業。
飯沼 貞吉(いいぬま さだきち、嘉永7年3月25日(1854… 飯沼 貞吉(いいぬま さだきち、嘉永7年3月25日(1854年4月22日) - 昭和6年(1931年)2月12日)は、白虎隊士(士中二番隊所属)、通信技師、軍人。維新後は名を貞雄と改め、逓信省通信技師となる。後に孤舟、孤虎と号した。軍人としての最終階級は陸軍大尉。栄典は正五位勲四等。 年齢を偽って白虎隊に参加したが、戦い利あらず、飯盛山にて他の十九士と共に自刃に及んだが、死に切れず命を救われた。維新後は貞雄と改名し、逓信省の通信技師として各地に勤務し、日清戦争にも従軍した。1931年(昭和6年)2月12日、76歳で生涯を終えた。戒名は、白巖院殿孤虎貞雄居士。 嘉永7年(1854年)3月25日、会津藩・飯沼時衛一正の二男として郭内本二之丁と三之丁間、大町通りにて生まれる。
角田 秀松(つのだ ひでまつ、1850年3月25日(嘉永3年… 角田 秀松(つのだ ひでまつ、1850年3月25日(嘉永3年2月12日) - 1905年(明治38年)12月13日)は、日本の武士(会津藩士)、海軍軍人。最終階級は海軍中将。戊辰戦争において「朝敵」とされた会津藩出身者として最初の海軍将官となった人物である。 会津藩医、角田良智の二男として生まれる。父の蝦夷地赴任に同行し、南摩綱紀に学んだ。秋月悌次郎に従って上洛し、林権助に洋式訓練を受ける。鳥羽・伏見の戦い、会津戦争と歴戦したが、藩の降伏を迎えた。古川庄八らに学んだ後、商船の水夫となり船長代理に昇る。征台の役に運送船に乗組んだ際に西郷従道の知遇を得て、1874年10月、長崎海軍出張所雇となる。
山川 浩(やまかわ ひろし、弘化2年11月6日〈1845年1… 山川 浩(やまかわ ひろし、弘化2年11月6日〈1845年12月4日〉- 明治31年〈1898年〉2月4日)は、日本の武士(会津藩家老)、陸軍軍人、政治家、教育者。最終階級は陸軍少将、位階勲等・爵位は従三位勲三等・男爵。 陸軍省人員局長 兼 輜重局長、陸軍省総務局制規課長、高等師範学校長・附属中学校初代校長、貴族院議員を歴任した。明治初年までの諱は重栄、字は士亮、通称は大蔵(おおくら)、与七郎。号は屠竜子。 祖父は、会津藩家老・山川兵衛 重英。父は、山川尚江 重固。山川家の家禄は1千石。 祖父の重英が高齢まで隠居せずに家老職にあったため、父の重固は山川家の嗣子の立場で会津藩に出仕して郡奉行主役を務めていた。
折笠 重康(おりかさ しげやす、生年不明 - 1944年〈昭… 折笠 重康(おりかさ しげやす、生年不明 - 1944年〈昭和19年〉11月11日)は、日本の海軍軍人。第一水雷戦隊司令官・木村昌福少将が座乗する旗艦「阿武隈」航海長としてキスカ島撤退作戦の成功に貢献。のち駆逐艦「若月」砲術長として戦死した海軍中佐である。 福島県出身。会津中学を経て、1937年(昭和12年)3月海軍兵学校を卒業。席次は160名中22番。折笠は海兵64期である。海軍中尉時代に教官として海兵72期の分隊監事を務めた。 海軍大尉時代に軽巡洋艦「阿武隈」航海長に補職され、キスカ島撤退作戦に参加。「阿武隈」は第一水雷戦隊司令官・木村昌福少将が率いる作戦部隊の旗艦で、艦長は渋谷紫郎大佐、水雷長(のち通信長)と航海士は戦後海上自衛隊の海上幕僚長となる石田捨雄と大賀良平である。
風間 万年(かざま まんねん、生年不明 - 1945年(昭和… 風間 万年(かざま まんねん、生年不明 - 1945年(昭和20年)1月3日または1月4日)は、日本の海軍軍人。神風特別攻撃隊旭日隊の指揮官であり、特攻により戦死したが、その作戦行動については資料によって異同がある。二階級特進により最終階級は海軍少佐。 風間は福島県出身で、旧制福島県立喜多方中学校を経て海軍兵学校に進んだ。海兵72期生の一人であり、校長新見政一、草鹿任一、井上成美の指導を受ける。教官の折笠重康と他の一人が同郷の先輩であった。1943年(昭和18年)9月に625名中126番の席次で卒業する。戦時の少尉候補生は311名が飛行学生となり、翌年の7月に第41期飛行学生を卒業した。海兵72期の41期飛行学生は202名が戦死しており、戦死率は66%である。
高畑 辰雄(たかはた たつお、生年不明 - 1943年(昭和… 高畑 辰雄(たかはた たつお、生年不明 - 1943年(昭和18年)4月7日)は、日本の海軍軍人。海兵64期。太平洋戦争において582空艦爆隊長として「い号作戦」に参加。戦死による一階級昇進で最終階級は海軍少佐。 福島県喜多方町出身。喜多方中学を経て、1937年(昭和12年)3月海軍兵学校を卒業。高畑は海兵64期で、同期生に美濃部正、石田捨雄、折笠重康がいる。席次は160名中100番。高畑は艦上爆撃機搭乗員となり、宇佐空では教官として実用機教程を指導した。 1942年(昭和17年)11月、ガダルカナル島の戦いで戦力を消耗していた2空に対し、南西方面を担当していた31空、33空、35空、40空などから艦爆搭乗員が増強された。
和田 勁 は、日本の陸軍軍人。甘粕正彦とともに関東軍外部から… 和田 勁 は、日本の陸軍軍人。甘粕正彦とともに関東軍外部から満州事変に関与したのち、満州国で活動し、満州国陸軍中将、満州国協和会監査部長、東亜連盟同志会代表などを務めた。石原莞爾の片腕といわれていた人物である。
深尾 弘(ふかお ひろし、? - 明治13年〈1880年〉)… 深尾 弘(ふかお ひろし、? - 明治13年〈1880年〉)は、日本海軍軍人。草創期の海軍にあって英国に留学した海軍少尉補である。 陸奥国・会津に生まれた会津藩士である。戊辰戦争の敗戦により斗南に移住したのち、同藩の雪下熊之助とともに海軍生徒兵学校に進む。 在校中に生徒から2名が英国留学を命ぜられたが深尾はその選に入る。ともに選ばれたのは、薩摩藩士・伊集院五郎で、両名の選抜理由は"学業進歩ニ付"である。1877年(明治10年)11月27日、深尾と伊集院は横浜から出帆した。しかし深尾は在英中に病に冒され帰国を考慮する事態となる。一度は全快と判定され伊集院とともに英国太平洋艦隊旗艦「トライアンフ」 (Triumph) に乗組んだが、ほどなく病が再発し帰国。