勝山 淳(かつやま じゅん、1924年〈大正13年〉11月1… 勝山 淳(かつやま じゅん、1924年〈大正13年〉11月11日 - 1945年〈昭和20年〉7月24日)は、日本の海軍軍人。海兵73期。大東亜戦争(第二次世界大戦)の末期、人間魚雷「回天」で出撃し、米護衛駆逐艦「アンダーヒル」を撃沈した。戦死による二階級特進で最終階級は海軍少佐。 1924年(大正13年)11月11日に茨城県那珂郡那珂町(現在の那珂市)で生まれる。色白・真面目でいつも「自分は水戸っぽだ」と周囲に言っていた。旧制水戸中学校を卒業後、海軍兵学校(73期)へ進学する。1944年(昭和19年)3月22日に海軍兵学校を卒業すると、柱島泊地から戦艦「大和」に乗艦し、訓練を続けながらシンガポールのリンガ泊地へ向かい、そこで軽巡洋艦「能代」へ乗り組んで実習を重ねる。
生田目 修(なまため おさむ、1924年(大正13年)8月2… 生田目 修(なまため おさむ、1924年(大正13年)8月24日 - 1999年(平成11年)6月20日)は、日本の陸軍軍人及び航空自衛官。第16代航空幕僚長。 陸軍航空士官学校卒業後は岐阜基地で実用機の訓練中に終戦を迎える。 戦後は郷里の茨城・日立に帰り農協に勤めるが、警察予備隊の旧軍出身者第一陣として1951年(昭和26年)6月に入隊。入隊後は普通科連隊の中隊長等を務めるが、1954年(昭和29年)9月、航空自衛隊創設と同時に転官。浜松でパイロットのリフレッシュ訓練を受けるが健康上の理由で要撃管制要員へ転換。 1955年(昭和30年)に要撃管制の米国留学第1期生として米国で訓練を受ける。その後の勤務は航空幕僚監部、航空総隊等で、作戦・運用と防衛一筋のエリートコースをたどり、3次防、4次防の策定、さらに空幕防衛部長として「防衛計画の大綱」の策定に携わった。
大野 保四(おおの やすし、1915年(大正4年)12月13… 大野 保四(おおの やすし、1915年(大正4年)12月13日 - 1945年(昭和20年)6月27日)は日本の大日本帝国海軍軍人。海軍兵学校65期を昭和13年(1938年)3月16日卒業。太平洋戦争において呂号第六十四潜水艦と伊号第百六十五潜水艦に艦長として乗艦した。昭和20年(1945年)6月15日、人間魚雷回天二基を搭載して山口県の光基地より出撃したまま消息不明となり昭和20年7月16日をもって搭乗員は戦没、潜水艦は7月29日喪失と認定し、回転搭乗員であった北村十二郎一飛曹(長野県出身)、水知創一(兵庫県出身)少尉以下106 名の戦死を公表。戦死による一階級昇進で最終階級は海軍中佐。 大正4年(1915年)12月13日、父 大野謹平と忠(旧姓:千代倉)の次男として茨城県稲村郡生板村大字竜ヶ崎に生まれる。
井川 省(いがわ せい、1913年(大正2年)4月14日 -… 井川 省(いがわ せい、1913年(大正2年)4月14日 - 1946年(昭和21年)6月20日<死亡認定日>)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少佐。日本の敗戦後にベトナム独立のためにインドシナ戦争に参加して戦没。ベトナム語の愛称はレチゴ。 茨城県出身。小学校校長・井川省三の二男として生まれる。水戸中学校を経て、1931年(昭和6年)4月に陸軍士官学校予科に入学。1935年(昭和10年)6月、陸軍士官学校本科(47期)を230番/330名で卒業する。同年9月、騎兵少尉に任官し、騎兵第8聯隊附となる。1937年(昭和12年)8月、騎兵中尉に昇進。1938年(昭和13年)7月、騎兵第4旅団戦車隊付となり、1939年(昭和14年)8月、騎兵大尉に進級。
永井 八津次(ながい やつじ、1901年(明治34年)1月2… 永井 八津次(ながい やつじ、1901年(明治34年)1月20日 - 1970年(昭和45年)8月15日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 茨城県出身。永井弥八郎の五男として生まれる。水戸中学校、陸軍中央幼年学校予科、同校本科を経て、1921年(大正10年)7月、陸軍士官学校(33期)を卒業。同年10月、歩兵少尉に任官し歩兵第25連隊付となる。陸士生徒隊付などを経て、1931年(昭和6年)11月、陸軍大学校(43期)を卒業し歩兵第25連隊中隊長に就任。 1932年(昭和7年)12月、陸軍省軍務局付勤務となる。以後、軍務局課員、参謀本部付仰付(中国駐在)などを経て、1936年(昭和11年)8月、歩兵少佐に昇進し関東軍司令部付に就任。
川嶋 虎之輔(かわしま とらのすけ、1897年(明治30年)… 川嶋 虎之輔(かわしま とらのすけ、1897年(明治30年)11月1日 - 1984年(昭和59年)7月2日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍少将。八千代市議会議長。川島と表記される場合がある。 和歌山県出身。陸軍主計大尉・川嶋守太郎の息子として生まれる。水戸中学校(現在の茨城県立水戸第一高等学校)、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1919年(大正8年)5月、陸軍士官学校(31期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し重砲兵第3連隊付となる。1922年(大正11年)12月、砲兵中尉に昇進。1925年(大正14年)12月、兵科を航空兵に転科し航空兵中尉に任官し下志津陸軍飛行学校教官に就任。
住谷 悌(すみや てい、1896年〈明治29年〉1月18日 … 住谷 悌(すみや てい、1896年〈明治29年〉1月18日 - 1959年〈昭和34年〉2月14日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍主計少将。 茨城県出身。水戸中学校(現在の茨城県立水戸第一高等学校)を経て、1917年(大正6年)5月、陸軍経理学校(11期)を卒業。同年12月、三等主計に任官し歩兵第16連隊付となる。1921年(大正10年)4月、二等主計に、1926年(大正15年)3月、一等主計にそれぞれ昇進。1927年(昭和2年)12月、第1師団経理部員(参謀本部付)に就任。1930年(昭和5年)8月、関東陸軍倉庫付に転じ、1932年(昭和7年)4月、関東軍司令部付(満州国軍軍事顧問)となる。
谷萩 那華雄(やはぎ なかお、1895年(明治28年)8月9… 谷萩 那華雄(やはぎ なかお、1895年(明治28年)8月9日 - 1949年(昭和24年)7月8日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 茨城県生まれ。1914年(大正3年)3月、茨城県立水戸中学校(現在の茨城県立水戸第一高等学校)を経て、1917年(大正6年)5月、陸軍士官学校(第29期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第15連隊付となる。1919年(大正8年)4月から1920年(大正9年)12月までシベリア出兵に従軍。1927年(昭和2年)12月、陸軍大学校(第39期)を卒業し歩兵第15連隊中隊長に就任。 1929年(昭和4年)3月、教育総監部付勤務となり、第19師団参謀を経て陸軍技術本部付兼軍事調査委員(新聞班)に就任。
前沢 長重(まえざわ ながしげ、1895年(明治28年)7月… 前沢 長重(まえざわ ながしげ、1895年(明治28年)7月8日 - 1990年(平成2年)10月3日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。兵科は歩兵科。 1895年(明治28年)に茨城県で生まれた。陸軍士官学校第30期、陸軍大学校第43期卒業。1941年(昭和16年)3月1日に陸軍大佐に進級し、7月28日に留守第57師団参謀長(東部軍)に就任した。1943年(昭和18年)6月に第47師団参謀長に転じ、1944年(昭和19年)7月に留守第57師団参謀長に戻った。 1945年(昭和20年)3月1日に陸軍少将に進級し、4月1日に弘前師管区参謀長に着任。6月1日には東北軍管区参謀副長兼第11方面軍参謀副長に転じ、仙台で終戦を迎えた。
鈴木 庫三(すずき くらぞう、1894年(明治27年)1月1… 鈴木 庫三(すずき くらぞう、1894年(明治27年)1月11日 - 1964年(昭和39年)4月15日)は、日本の陸軍軍人。階級は陸軍大佐。 戦時中、情報局情報官として言論統制を行っていた人物として知られる。清沢洌曰く、「日本思想界の独裁者」。石川達三の小説「風にそよぐ葦」で出版社を支配する情報官佐々木陸軍少佐のモデルとされる。 茨城県真壁郡鳥羽村大字鷺島(現:筑西市明野町鷺島)の豪農、鈴木利三郎の第7子として生まれるが、生後まもなく同筑波郡田水山村大字田中(現:つくば市田中)の農家、大里菊平の養嗣子となる。高等小学校卒業後は、農業を手伝いながら帝国模範中学会で自習。 1913年(大正2年)12月、19歳で陸軍砲兵工科学校入学。
藤田 清(ふじた きよし、1892年(明治25年)12月?日… 藤田 清(ふじた きよし、1892年(明治25年)12月?日 - 1965年(昭和40年)7月28日)は、茨城県真壁郡新治村(協和村、協和町を経て、現在の筑西市)出身の軍人、新治村での地域の指導者及び考古学者である。考古学者としては在野の研究者であったが新治郡衙跡、新治廃寺の研究・発掘調査で重要な役割を果たした。 藤田の家は真壁郡新治村の古郡に在り、村で5指に数えられる大地主であった。藤田は茨城県立水戸農学校(現在の茨城県立水戸農業高等学校の前身)卒業後、1912年(大正元年)に宇都宮騎兵第18聯隊に一年志願兵として入営し、1914年(大正3年)12月には陸軍騎兵少尉に任官している。しかし、任官後まもなく除隊した。
川並 密(かわなみ ひそか / みつ、1891年〈明治24年… 川並 密(かわなみ ひそか / みつ、1891年〈明治24年〉3月22日 - 1978年〈昭和53年〉11月4日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 茨城県出身。土浦中学校を経て、1912年(明治45年)5月、陸軍士官学校(24期)を卒業。同年12月、陸軍歩兵少尉任官。1923年(大正12年)11月、陸軍大学校(35期)を卒業。陸軍歩兵学校勤務となる。 1936年(昭和11年)8月、歩兵大佐に昇進し歩兵学校教官に就任した。1937年(昭和12年)3月、陸軍通信学校教育部長に異動。同年9月、歩兵第6連隊長に戦死した前任者の後任として着任し日中戦争に出征。南京攻略戦、徐州会戦、武漢作戦に参加した。
柴山 兼四郎(しばやま けんしろう、1889年5月1日 - … 柴山 兼四郎(しばやま けんしろう、1889年5月1日 - 1956年1月23日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 茨城県出身。柴山定次郎の三男として生まれる。茨城県立下妻中学校を卒業し、拓殖大学中退を経て、1912年(明治45年)5月、陸軍士官学校(24期)を卒業。同年12月、輜重兵少尉に任官し輜重兵第14大隊付となる。1922年(大正11年)11月、陸軍大学校(34期)を卒業した。 1923年(大正12年)6月、輜重兵第14大隊中隊長となり、参謀本部付勤務、参謀本部員、参謀本部付(支那研究員)、参謀本部員などを経て、1928年(昭和3年)11月、張学良顧問補佐官に就任した。1931年(昭和6年)11月、参謀本部員となり、支那公使館付武官補佐官(北平)、参謀本部付(欧米出張)、輜重兵第18大隊長などを歴任し、1936年(昭和11年)3月、輜重兵大佐に昇進、弘前の輜重兵第8連隊長に着任する。
栗田 健男(くりた たけお、1889年〈明治22年〉4月28… 栗田 健男(くりた たけお、1889年〈明治22年〉4月28日 - 1977年〈昭和52年〉12月19日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。海軍兵学校38期卒業。 1889年4月28日、茨城県水戸市で父・栗田勤の次男として生まれる。父は漢学者であり、大日本史編集員も務めた。祖父は東京帝大教授の文学博士栗田寛(藤田東湖、会沢正志斎の弟子)。水戸藩士の家系であり、祖先は清和源氏に連なるというが、元禄時代に水戸に移り油屋を生業とした。父の訓育は水戸の気風を反映し無骨と不言実行をモットーとしたという。青年時代の栗田は学問は出来、頑張りやその上に高い人格を持っていた。 旧制水戸中学校(現在の茨城県立水戸第一高等学校)を経て、1910年7月18日、海軍兵学校を38期生として149名中28番の成績で卒業。
飯村 穣(いいむら じょう、1888年(明治21年)5月20… 飯村 穣(いいむら じょう、1888年(明治21年)5月20日 - 1976年(昭和51年)2月21日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将、栄典は従三位勲一等。茨城県出身。陸士21期次席。 総力戦研究所所長として研究生とともに「総力戦机上演習」という日米開戦となった場合のシミュレーションをおこない、日本の敗北という結論を出した。 この演習では船舶の喪失が生産量を上回り、戦争遂行が困難になること、ソ連とアメリカが軍事的に協力する(演習ではソ連極東地方の米軍の軍事利用という設定)ことなど実際の太平洋戦争をかなり正確に予測した。 自著「続兵術随想」によると、当時陸軍大臣であった東条英機は、殆ど毎日机上演習を見学した一方で、主戦派の塚田攻参謀次長は一度も見学せず、主戦派が大勢を占める参謀本部からは数人の部員だけ見学に来たとのことである。
沼田 徳重(ぬまた とくしげ、1887年(明治20年)7月1… 沼田 徳重(ぬまた とくしげ、1887年(明治20年)7月17日 - 1939年(昭和14年)8月12日)は、日本の陸軍軍人。陸軍中将正四位勲一等功二級。茨城県那珂郡額田村(現在の那珂市)出身。 教育総監部高級課員として陸軍軍隊教育の改革を先導、特に戦闘綱要の改正編纂を行った。また、東京帝国大学の配属将校を務め、軍隊教育関係の著作を発表するなど、軍隊教育の発展に努めた。
武井 大助(たけい だいすけ、1887年(明治20年)4月2… 武井 大助(たけい だいすけ、1887年(明治20年)4月25日 - 1972年(昭和47年)3月30日)は、日本の海軍軍人、実業家。最終階級は海軍主計中将。昭和産業・安田銀行・文化放送の社長を務めた。1940年勲一等旭日大綬章受章。 現在の茨城県土浦市田村町で、武井松太郎の三男として生まれる。旧制土浦中学校(茨城県立土浦第一高等学校の前身)卒業後、明治37年(1904年)7月、東京高等商業学校予科(一橋大学の前身)に入学し、翌月、海軍主計学生となる。一橋では福田徳三に師事し千駄ヶ谷の福田邸での読書会にも参加した。しかし、緒方竹虎らとともに申酉事件のリーダーとしての責任をとり専攻部へは進まず、明治42年(1909年)に本科卒業後、海軍少主計に任官し海軍経理学校乙種で学ぶ。
高田 六郎(たかた ろくろう、1887年(明治20年)4月7… 高田 六郎(たかた ろくろう、1887年(明治20年)4月7日 - 1943年(昭和18年)4月18日)は、日本の海軍軍人、医師。最終階級は海軍軍医中将。 1887年(明治20年)、茨城県に生まれる。旧制水戸中学を経て、1912年(大正元年)9月、千葉医学専門学校に入る。在学中海軍軍医学生になる。1916年(大正5年)5月、卒業。海軍少軍医となり、海軍軍医学校で乙種学生として学ぶ。 横須賀工廠医務部員、大井、球磨の各軍医長となり、呉病院、呉工廠勤務、1937年(昭和12年)海軍軍医大佐に進み、海軍兵学校軍医長兼教官となる。翌年支那方面艦隊兼第三艦隊軍医長に就任。広工廠医務部長、1940年(昭和15年)には呉病院第二部長兼消毒部長兼教官となり、1942年(昭和17年)10月には第一部長も兼務した。
塚田 攻(つかだ おさむ、1886年7月14日 - 1942… 塚田 攻(つかだ おさむ、1886年7月14日 - 1942年12月18日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。
高須 四郎(たかす しろう、1884年10月27日 - 19… 高須 四郎(たかす しろう、1884年10月27日 - 1944年9月2日)は、日本の海軍軍人。海軍兵学校35期。最終階級は海軍大将。 1884年10月27日、茨城県稲敷郡桜川村(現・稲敷市)に生まれる。旧制土浦中学校(現・土浦第一高等学校)を経て、1907年(明治40年)11月20日、海軍兵学校35期を172名中10位で卒業。1917年(大正6年)12月1日、海軍大学校甲種学生(17期)。 1923年(大正12年)6月1日、在イギリス大使館付武官補佐官。 1932年(昭和7年)5月15日、五・一五事件発生。高須は軍令部出仕兼海軍省出仕として、この事件の海軍側関係者を裁く軍法会議の判士長を務めた。
海老原 半三郎(えびはら はんざぶろう、1876年 - 19… 海老原 半三郎(えびはら はんざぶろう、1876年 - 1953年)は、明治期の大日本帝国陸軍軍人。茨城県龍ケ崎市出身。最終階級は歩兵特務曹長。日露戦争にて金鵄勲章を受章した。 明治期・皇室警護の近衛兵として、全国将兵の中から選抜(五代前まで調査があり、県知事・連隊長・郡市役所幹部・駐在の警察官の責任で推薦された)され、「近衛連隊」に入隊。当時、歴代の皇太子が在籍した近衛歩兵第一連隊は、帝国陸軍の最高峰だった。 日露戦争に出征し、奉天進軍。明治38年(1905年)3月10日、奉天付近では既に屍が累々としており、海老原半三郎の所属する近衛歩兵第一連隊においてもロシア軍の総反撃により、将兵はことごとく第一戦に展開し、肉弾相打つ激戦となる。
竹上 常三郎(たけがみ つねさぶろう、1872年12月9日〈… 竹上 常三郎(たけがみ つねさぶろう、1872年12月9日〈明治5年11月9日〉- 没年不詳)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功四級。旧姓・大橋。 茨城県、後の古河町(現古河市)出身。大橋力蔵の二男として生まれ、竹上寅吉の養子となり家督を相続した。 1894年(明治27年)7月、陸軍士官学校(5期)を卒業し、同年9月、陸軍歩兵少尉に任官。1897年(明治30年)12月、陸軍大学校(14期)に入学し、1900年(明治33年)12月に卒業して士官学校に配属された。日露戦争では第7師団参謀として出征した。 以後、第17師団参謀などを経て、1914年(大正3年)8月、歩兵大佐に進み陸軍省人事局補任課長に就任。
佐藤 進(さとう すすむ、1845年12月23日〈弘化2年1… 佐藤 進(さとう すすむ、1845年12月23日〈弘化2年11月25日〉 - 1921年〈大正10年〉7月25日)は、幕末から明治にかけての医師、医学者、日本陸軍軍医、順天堂医院院長。最終階級は陸軍軍医総監(中将相当官)。男爵。医学博士。 常陸国太田内堀(現:茨城県常陸太田市内堀町)で醸造業を営む高和清兵衛の長男として生まれる。佐倉順天堂に入り、その堂主であり叔母の夫である佐藤尚中の養嗣子となる。戊辰戦争では奥州に出張し、白河、三春で新政府軍の病院頭取を務めた。 明治2年(1869年)、明治政府発行の海外渡航免状第1号を得てドイツに留学。ベルリン大学医学部で学び、1874年(明治7年)にアジア人として初の医学士の学位を取得し帰国。
高橋 勝政(たかはし かつまさ、天保4年(1833年) – … 高橋 勝政(たかはし かつまさ、天保4年(1833年) – 明治14年(1881年)1月20日)は、幕末から明治初期にかけて活動した日本の武士、陸軍軍人。陸軍大佐。従五位・勲四等旭日小綬章。幼名は熊太郎。号は重陰。 高橋勝政は、常陸国新治郡下青柳村(現・茨城県石岡市)に生まれた。高橋平衛門の長男。幼少時は手に負えぬ性格であったが、成長すると文武に優れたという。17歳頃に家督を姉に譲り、医師を志したが、幕末の動乱を目の当たりにして尊皇攘夷運動に身を投じることを決意した 当初は水戸藩に赴いたが、当時の藩内は内紛が激しく活動は困難であったため、同志とともに上京して長州藩の有志に加わった。熱意は来島又兵衛らに認められ、遊撃隊568人の一隊の隊長に抜擢される。