笹本 一雄(ささもと かずお、1898年〈明治31年〉6月2… 笹本 一雄(ささもと かずお、1898年〈明治31年〉6月20日 - 1964年〈昭和39年〉6月11日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(3期)。 群馬県新田郡太田町(現・太田市)もしくは邑楽郡館林町(現・館林市)で、警視庁職員・笹本一郎、うらの四男として生まれる。群馬県立館林中学校(現・群馬県立館林高等学校)を経て明治大学法科で学び、卒業。 内閣調査事務嘱託、軍需省嘱託、商工省事務嘱託などを歴任。その後、朝鮮総督府顧問に就任。帰国して、商工省総務局嘱託、帝国新報社経済部記者となり、東洋電線取締役、東亜窯業取締役などを務めた。また、中小企業経営者を対象として大政翼賛会により組織された新産業連盟の会長に就任した。
鈴木 強平(强平、すずき きょうへい、1898年〈明治31年… 鈴木 強平(强平、すずき きょうへい、1898年〈明治31年〉4月28日 - 1969年〈昭和44年〉3月3日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(2期)、参議院議員(1期)。 群馬県前橋市連雀町(現・本町)で、鈴木留太郎の長男として生まれる。群馬県立前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)を経て、慶應義塾大学部理財科に進んだが、父の病により帰郷して家業を継承した。 1934年(昭和9年)群馬林業社長、全国燃料組合理事組合長に就任。その他、群馬県木炭連合会長、同燃料林産組合長、全国燃料組合連合会副理事長、前橋商工会議所商業部長、群馬県商工倶楽部理事長、全国燃料会館副理事長、前橋文化服装学院(現前橋文化服装専門学校)理事、日本燃料機社長、鈴木商会社長などを務めた。
伊能 芳雄(いよく よしお、1898年〈明治31年〉2月12… 伊能 芳雄(いよく よしお、1898年〈明治31年〉2月12日 - 1988年〈昭和63年〉10月2日)は、日本の内務官僚、政治家。長野県知事(官選第31代)、群馬県知事(公選第2代)、参議院議員(1期)。 1898年(明治31年)、群馬県吾妻郡中之条町に、伊能八平の三男として生まれる。旧制群馬県立前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)を卒業後、東北帝国大学農科大学予科へ進学。1923年(大正12年)東北帝国大学理学部地質学科を卒業。1924年(大正13年)高等文官試験行政科に合格、1925年(大正14年)、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省入省。警視庁警部補からキャリアを積み、警視庁警衛課長を務めた。
菊池 重作(きくち じゅうさく、1897年(明治30年)7月… 菊池 重作(きくち じゅうさく、1897年(明治30年)7月14日 - 1980年(昭和55年)12月9日)は、日本の社会運動家、実業家、政治家。衆議院議員。 群馬県佐波郡茂呂村(現伊勢崎市)で生まれる。織物製造業、養蚕販売業を営む。 1923年、群馬共産党事件を契機に社会運動に加わり、日本労農党に加入し小作争議の指導を行う。全国農民組合茨城県連合会書記長、同会長、日本農民組合茨城県連合会執行委員長、社会大衆党茨城県連合会書記長などを務め、1936年、水海道町会議員となるが、1938年、人民戦線事件で検挙され、懲役3年・執行猶予5年の判決を受けた。 戦後、日本社会党に入党し、1947年4月の総選挙に茨城県第三区から出馬して当選し、衆議院議員を一期務める。
青柳 秀夫(あおやぎ ひでお、1897年〈明治30年〉7月1… 青柳 秀夫(あおやぎ ひでお、1897年〈明治30年〉7月12日 - 1986年〈昭和61年〉5月31日)は、日本の内務官僚、政治家。愛知県知事(官選第39代、公選初代)、参議院議員(3期)。 群馬県前橋市に富樫竹次の五男として生まれる。青柳新米の養子となり、旧制前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)を経て旧制第二高等学校へ進学。1922年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業。同年、横浜正金銀行に入行し、後安田銀行に移った。1926年、高等文官試験に合格。1927年、内務省に入省。北海道、大阪府、福岡県(部長・経済部長)、長野県などで勤務した。 1947年3月5日、愛知県知事の桑原幹根が初の公選愛知県知事選挙に立候補するために辞職。
住谷 啓三郎(すみや けいざぶろう、1897年〈明治30年〉… 住谷 啓三郎(すみや けいざぶろう、1897年〈明治30年〉7月12日 - 1975年〈昭和50年〉1月27日)は、日本の政治家。高崎市長(1955年 - 1971年)、高崎市議会議員、同議長。 高崎市田町の荒物問屋、住谷喜平の長男として生まれる。旧制高崎中学(現・群馬県立高崎高等学校)を経て、慶応大学理財科に進むも中退し、1920年(大正9年)早稲田大学専門部法律科を卒業。少壮実業家として高崎セロファン工場を起業する傍ら、高崎中学の同窓であった井上房一郎や蠟山政道と高崎新人会を創設。1932年(昭和7年)に高崎市議会議員に当選し、翌1933年(昭和8年)に市議会議長に選ばれる。戦後は関東ロクロ会社を設立し社長に就任した。
畑 桃作(はた ももさく、1896年7月10日 - 1949… 畑 桃作(はた ももさく、1896年7月10日 - 1949年3月5日)は、日本の政治家。衆議院議員。 群馬県北甘楽郡富岡町(現在の富岡市)出身。群馬県立富岡中学校を卒業後、農業に従事。その後、群馬県議会議員に当選し、群馬県議会副議長などを歴任。1932年、第18回衆議院議員総選挙で立憲政友会候補として群馬2区から出馬し初当選。通算2期務めた。在任中にブラジル、アルゼンチン等を視察した。
竹腰 俊蔵(たけごし/たけこし しゅんぞう、1895年〈明治… 竹腰 俊蔵(たけごし/たけこし しゅんぞう、1895年〈明治28年〉12月30日 - 1963年〈昭和38年〉3月28日)は、日本の教員、政治家。群馬県知事(公選第4代)を務めた。群馬県群馬郡箕輪村(のちの箕郷町、現在は高崎市)出身。参議院議員を務めた竹腰徳蔵は実兄であり、群馬県知事に立候補していた兄の急死により補充立候補して当選を果たした。 1895年(明治28年)12月30日、群馬県群馬郡箕輪村西明屋(現・高崎市箕郷町西明屋)の酒造業者・竹腰徳蔵(先代)の次男として生まれる。1909年(明治42年)箕輪小学校を卒業後、1914年(大正3年)高崎中学校(現・群馬県立高崎高等学校)を卒業。1915年(大正4年)に群馬県師範学校本科二部(現在の群馬大学教育学部)を卒業した。
松井 豊吉(まつい とよきち、1895年〈明治28年〉2月1… 松井 豊吉(まつい とよきち、1895年〈明治28年〉2月1日 - 1959年〈昭和34年〉1月23日)は、日本の政治家・実業家。衆議院議員(3期)、桐生市会議員。 群馬県桐生市宮本町に松井兵三郎の次男として生まれる。尋常高等小学校卒。1915年(大正4年)徴兵検査に合格し水戸の工兵大隊に入営し、伍長勤務上等兵として満期除隊。その後は一時農業に従事したが、1928年(昭和3年)に土建業を創業。桐生屈指の業者に成長する。 1933年(昭和8年)に桐生市会議員に当選して以来15年在職。1945年(昭和20年)10月に群馬民衆党を結党し党首となった。1946年(昭和21年)の第22回衆議院議員総選挙に立候補するも落選。
大島 義晴(おおしま よしはる、1894年〈明治27年〉12… 大島 義晴(おおしま よしはる、1894年〈明治27年〉12月25日 - 1953年(昭和28年)4月21日)は、大正から昭和前期の労働運動家、農民運動家、実業家、政治家。衆議院議員(1期)。 群馬県新田郡尾島町(現・太田市)で生まれる。 18歳頃から棒頭(人足頭)として足尾線工事、利根川改修工事に従事。徴兵検査後に上京し三河島造船尻ケ崎鉄工所で働き、労働運動に加わり日本友愛会向島支部長に就任した。1919年(大正8年)ワシントンで開催の第1回国際労働会議に労働代表顧問として出席。マーガレット・サンガーに賛同して産児調節運動に取り組むが、出版法違反で投獄された。 満洲に移り、その後、盧溝橋近くで大島鉱業所を経営した。
町田 三郎(まちだ さぶろう、1894年〈明治27年〉9月3… 町田 三郎(まちだ さぶろう、1894年〈明治27年〉9月3日 - 1975年〈昭和50年〉9月30日)は、日本の政治家。日本社会党衆議院議員(1期)。渋川市長(2期)。 群馬県渋川市出身。父は米穀商で渋川町長もつとめた町田久三郎。1913年(大正2年)慶應義塾商工学校卒。翌年慶應義塾大学中退。 1920年(大正9年)から太平洋戦争中まで丸久組製糸所を経営した。1933年(昭和8年)渋川町会議員となり、1936年(昭和11年)から渋川町長を務めた。 生糸製造業に従事し、上毛精機、渋川製作所各(株)を創立し、社長となり、太平工業、吉野組製糸所、町田織物、東京建鉄各(株)の社長となる。群馬商工経済会理事も務める。
生方 誠(うぶかた せい、1894年〈明治27年〉8月17日… 生方 誠(うぶかた せい、1894年〈明治27年〉8月17日 - 1978年〈昭和53年〉10月6日)は、日本の薬剤師、政治家、行政委員。群馬県利根郡沼田町(現:沼田市)出身。群馬県会議員、沼田町長、国家公安委員、群馬県薬剤師会会長、群馬県町村長会長などを務めた。妻は歌人の生方たつゑ、長女は料理研究家の生方美智子。 1894年(明治27年)、沼田町上之町の老舗薬種商「かどふぢ(角藤)」を営む生方弥右衛門の長男として生まれる。1910年(明治43年)旧制前橋中学校利根分校(現・群馬県立沼田高等学校)を修了し、1912年(明治45年)同本校(現・群馬県立前橋高等学校)を卒業。1916年(大正5年)に千葉医学専門学校薬学科(現:千葉大学薬学部)を卒業した。
大屋 晋三(大屋 晉三、おおや しんぞう、1894年〈明治2… 大屋 晋三(大屋 晉三、おおや しんぞう、1894年〈明治27年〉7月5日 - 1980年〈昭和55年〉3月9日)は、日本の政治家、実業家。運輸大臣、商工大臣、参議院議員、帝人社長。戦前から戦後にかけて通算26年間にわたって帝人社長を務めた。妻は大屋政子。 群馬県邑楽郡佐貫村大字川俣(現・明和町)に生まれた。父・央(なかば)は佐貫村尋常小学校の校長をしていた。母・ツネは埼玉県粕壁の本陣杉田家の娘。大屋家は代々川越藩士で、祖父は大屋門平といって柔術を指南していた。晋三が生まれた佐貫村大字川俣は館林から利根川の岸に沿う街道筋で、明治のはじめまでは宿場として本陣もあった。 1901年(明治34年)に尋常小学校に入学。
須永 好(すなが こう、1894年〈明治27年〉6月13日 … 須永 好(すなが こう、1894年〈明治27年〉6月13日 - 1946年〈昭和21年〉9月11日)は、日本の農民運動家、政治家。衆議院議員(2期)、強戸村会議員。香川県の「伏石事件」、新潟県の「木崎争議」とともに日本三大小作争議の1つとして有名な「強戸争議」を主導した。農民運動の指導は合法主義で、争議による処罰者を出さなかったと言われている。 群馬県新田郡強戸村大字成塚(現・太田市成塚町)に、須永伊平・つやの次男として生まれる。長男は早世したため事実上長男として育つ。実家は絽機屋を営む裕福な農家であった。地元の強戸小学校を経て、旧制群馬県立太田中学校(現・群馬県立太田高等学校)に進学する。しかし、祖父・高次郎が病臥したことと、父が政治にのめり込んで武藤金吉の子分となり新田郡会議員となって家庭を顧みなくなったため、1909年(明治42年)に太田中学校を退学して農業に従事する。
紅露 みつ(こうろ みつ、1893年〈明治26年〉5月10日… 紅露 みつ(こうろ みつ、1893年〈明治26年〉5月10日 - 1980年〈昭和55年〉12月20日)は、日本の政治家。参議院議員(4期)、衆議院議員(1期)。 群馬県碓氷郡坂本村(現安中市松井田町)出身。神田女学校を卒業して、雑誌記者となり兄の友人[要出典]だった弁護士・紅露昭と結婚。衆議院議員を4期務めた夫の公職追放に伴い、1946年の総選挙に徳島県全県区から出馬(無所属)し、初当選を果たす。 その後民主党に入党するも翌1947年の総選挙では落選、だが同年8月の第1回参議院議員通常選挙補欠選挙で当選(任期3年)して国政復帰を果たし、以後国民民主党→改進党→日本民主党→自由民主党と党籍を変えながら通算4期務める。
野本 品吉(のもと しなきち、1893年〈明治26年〉3月1… 野本 品吉(のもと しなきち、1893年〈明治26年〉3月15日 - 1968年〈昭和43年〉1月28日)は、日本の教員、政治家。衆議院議員(2期)、参議院議員(2期)。日本退職公務員連盟会長。国民党、国民協同党、自由民主党を渡り歩いた。協同組合主義者。旧姓・正田。 群馬県新田郡尾島町押切(現・太田市押切町)に、正田豊吉、そうの四男として生まれる。旧制太田中学校(現・群馬県立太田高等学校)を経て、1913年(大正2年)群馬県師範学校本科二部を卒業。 世良田尋常高等小学校を皮切りに、群馬県内の小学校で教師として勤務。1922年(大正11年)に野本家に婿入りした。生品小学校、矢場川小学校、広沢小学校、伊勢崎小学校、太田小学校で校長を歴任。
木暮 武太夫(こぐれ ぶだゆう、旧名・正一(まさかず)、18… 木暮 武太夫(こぐれ ぶだゆう、旧名・正一(まさかず)、1893年〈明治26年〉2月17日 - 1967年〈昭和42年〉7月10日)は、日本の政治家、実業家、群馬県多額納税者。位階は正三位。衆議院議員(8期)、参議院議員(2期)、運輸大臣。伊香保温泉の旅館業、木暮旅館主。群馬県観光協会、日本温泉協会各会長。群馬銀行取締役会長、関東いすゞ自動車販売社長、群馬バス社長。25代目武太夫。 群馬県北群馬郡伊香保町(現・渋川市)出身。先代・木暮武太夫(元衆議院議員)の長男。 1912年(明治45年)、旧制前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)卒業。1917年(大正6年)、慶應義塾大学理財科を卒業。はじめ三井銀行に勤めたが、退社して家業の旅館業に従事した。
増田 連也(增田、ますだ れんや、1892年〈明治25年〉1… 増田 連也(增田、ますだ れんや、1892年〈明治25年〉12月16日 - 1965年〈昭和40年〉8月22日)は、大正から昭和期のジャーナリスト、政治家。衆議院議員(1期)、群馬県会議員(3期)、群馬県会議長。 群馬県邑楽郡伊奈良村岩田(現板倉町)で、増田甚平、あさ夫婦の三男として生まれる。増田家は伊奈良村の名主を代々勤めた家系で、増田長盛の後裔を称した。群馬県立太田中学校邑楽分校(現・群馬県立館林高等学校)を経て、第四高等学校に入学したが2年で中退した。 1914年(大正3年)まで『満洲日報』の政治記者として、満洲、中国、シベリアなどを視察した。帰国後、実業界で活躍。合同砂利株式会社、合同土木株式会社を設立して利根川・思川の砂利採取事業を経営した。
貫井 清憲(ぬくい きよのり、1892年〈明治25年〉4月2… 貫井 清憲(ぬくい きよのり、1892年〈明治25年〉4月28日 - 1984年〈昭和59年〉8月3日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、埼玉県児玉郡若泉村長、同阿久原村長、同神泉村長。 埼玉県児玉郡若泉村(のち阿久原村を経て神泉村、現:児玉郡神川町)で生まれる。1910年(明治43年)、群馬県立富岡中学校を卒業。 実業家としては1920年(大正9年)から9年間鬼石銀行(現・群馬銀行)取締役を、1922年(大正11年)から18年間上武自動車社長を、1933年(昭和8年)から8年間児玉郡乾繭組合長をそれぞれ務めた。また、1943年(昭和18年)に上信電鉄取締役に、1951年(昭和26年)に武蔵野銀行取締役にそれぞれ就任した。
篠原 義政(しのはら よしまさ、1892年(明治25年)1月… 篠原 義政(しのはら よしまさ、1892年(明治25年)1月9日 – 1943年(昭和18年)7月16日)は、衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。旧名は文治。 群馬県碓氷郡八幡村(現在の高崎市)出身。旧制高崎中学卒業。1916年(大正5年)に高等文官試験に合格し、翌年に東京帝国大学法科大学法律科を卒業した。内務省に入り、長野県属、東京府属、内務属を歴任した。1919年(大正8年)に内閣軍需局事務官となり、翌年には国勢院事務官に任命された。1922年(大正11年)に退官した後は弁護士・弁理士事務所を開業した。 1932年(昭和7年)、第18回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。4回連続当選を果たした。
2代 竹腰 徳蔵(たけごし/たけこし とくぞう、1891年〈… 2代 竹腰 徳蔵(たけごし/たけこし とくぞう、1891年〈明治24年〉7月10日 - 1956年〈昭和31年〉7月24日)は、日本の政治家。参議院議員(1期)、群馬県会議員(6期)、群馬県群馬郡箕郷町長。幼名は五四二(いよじ)。群馬県知事選挙に立候補したが投票日の3日前に急逝し、弟・俊蔵が補充立候補により当選を果たした。 1891年(明治24年)、群馬県群馬郡箕輪村西明屋(現・高崎市箕郷町西明屋)で造り酒屋「十一屋」を営む竹腰徳蔵・コウ夫婦の長男として生まれる。竹腰家は新潟から移住してきた徳蔵の先々代が酒造業を創業、銘酒「友鶴」を醸造し、広大な山林田畑を持つ資産家だった。 旧制群馬県立高崎中学校を経て市立大阪高等商業学校を卒業。
岡部 周治(おかべ しゅうじ、1891年〈明治24年〉4月1… 岡部 周治(おかべ しゅうじ、1891年〈明治24年〉4月17日 - 1967年〈昭和42年〉11月30日)は日本の政治家。衆議院議員(1期、日本社会党)、群馬県議会議員(2期)、群馬県新田郡強戸村長。 1891年(明治24年)4月17日、群馬県新田郡強戸村大字強戸(現・太田市強戸町)に岡部駒次郎・よし夫婦の次男として生まれる。生家は地主で、父駒次郎は群馬県会議員・強戸村長を務めた。1909年(明治42年)群馬県立太田中学校(現・群馬県立太田高等学校)、1911年(明治44年)東京府青山師範学校第二部、1915年(大正4年)に法政大学専門部法律科を卒業する。 家業の農業に従事し、戦前は強戸村農会長、東毛乾繭販売利用組合理事、新田郡農会長、県農地委員会委員などを歴任。
一場 武平(いちば ぶへい、1891年〈明治24年〉4月5日… 一場 武平(いちば ぶへい、1891年〈明治24年〉4月5日 - 1971年〈昭和46年〉)は、日本の政治家(群馬県吾妻郡吾妻町長・岩島村長ほか)・軍人。藍綬褒章(1963年)。 吾妻町(現・東吾妻町)生まれ。岩島高等小学校卒業。高崎歩兵第15連隊に入営。1921年(大正10年)、岩島村軍人分会会長に就任。1924年(大正13年)、岩島村消防組頭に就任。 1929年(昭和4年)、岩島村会議員に当選した。1933年(昭和8年)同村助役となった。1937年(昭和12年)助役に再任された。同年3月、村会議員の再選を果たした。1941年(昭和16年)8月に助役を辞職した。1942年(昭和17年)7月、村会議員に3選。
滝沢 浜吉(たきざわ はまきち、1890年〈明治23年〉9月… 滝沢 浜吉(たきざわ はまきち、1890年〈明治23年〉9月17日 - 1960年〈昭和35年〉4月30日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)、群馬県多野郡八幡村長。 群馬県多野郡八幡村阿久津(現・高崎市阿久津町)に生まれる。群馬県立高崎中学校(現・群馬県立高崎高等学校)に学ぶが、郷里の水害により中退。村の田畑・家屋の復旧に尽力し、1925年(大正14年)八幡村長に選ばれ、1938年(昭和13年)まで在職した。多野郡畜産業組合長、多野郡養蚕業組合長、多野郡農会長、烏川沿岸漁業会長、群馬県馬匹組合連合会副会長、群馬県町村会副会長となる。戦後も1946年(昭和21年)群馬県農業会長となり、同年から1年間八幡村長を務めた。
内山 岩太郎(うちやま いわたろう、1890年〈明治23年〉… 内山 岩太郎(うちやま いわたろう、1890年〈明治23年〉2月28日 - 1971年〈昭和46年〉11月19日)は、日本の外交官・政治家。神奈川県知事(官選、公選第1・2・3・4・5代)、テレビ神奈川初代社長。位階は正三位。日本の国際連合加盟に貢献をした人物として知られる。元丸紅ブラジル会社副社長の内山勇は三男。 1890年(明治23年)、群馬県前橋市天川原町に、父・内山岩吉、母・ちか子の三男として生まれる。1902年(明治35年)、群馬県立前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)に入学。1905年(明治38年)に校長排斥の同盟休校を起こし放校となり、正則英語学校を経て立教学院に編入、1907年(明治40年)卒業。
土田 國太郎(つちだ くにたろう、1889年〈明治22年〉6… 土田 國太郎(つちだ くにたろう、1889年〈明治22年〉6月28日 - 1960年〈昭和35年〉3月26日)は、日本の醸造家、政治家。参議院議員(1期)。 群馬県利根郡川場村立岩に生まれる。父・茂八は新潟県の生まれで川場村に移住し貸蔵で酒造業を営んでいた。 國太郎は群馬県立前橋中学校利根分校(のち旧制群馬県立沼田中学校、現群馬県立沼田高等学校)を卒業したのち、1912年(大正元年)より沼田町(現・沼田市)下之町で酒造りを始める。1923年(大正12年)、同町の酒蔵を買い入れて土田酒造を創業、「譽之國光」の銘板の日本酒の醸造を開始。これが地酒の銘酒として県内外から称賛を浴びるようになる(のちに現名の「譽國光」(ほまれこっこう)に改名)。
小林 弥七(こばやし やしち、1888年12月22日 - 1… 小林 弥七(こばやし やしち、1888年12月22日 - 1967年6月23日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 群馬県高崎市出身、早稲田実業学校卒業。高崎佐藤商組合頭取、群馬県糖業連合会会長、上州銀行、利根産業、群馬製菓、信永運輸各(株)取締役、利根木材、森永製品開発、利根産業各(株)取締役社長、高崎商業会議所議員、高崎市農会評議員、群馬県選挙管理委員となる。 1924年の第15回衆議院議員総選挙において群馬2区から実業同志会公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務めた。1928年の第16回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1967年死去。
5代 桜井 伊兵衛(さくらい いへえ、1887年〈明治20年… 5代 桜井 伊兵衛(さくらい いへえ、1887年〈明治20年〉11月2日 - 1966年〈昭和41年〉11月7日)は、明治時代後期から昭和時代の地主、政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。幼名は徳太郎。 4代桜井伊兵衛の長男として群馬県西群馬郡高崎本町(高崎町を経て現高崎市)に生まれ、伊兵衛を襲名する。1905年(明治38年)東京府開成中学校を卒業する。1910年(明治43年)高崎銀行監査役に就任したほか、上毛貯蓄銀行相談役、高崎板紙、高崎製飴、群馬紡績各取締役などを歴任した。1917年(大正6年)には高崎政友倶楽部を組織し会長となった。 1918年(大正7年)、群馬県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1925年(大正14年)9月28日まで在任。
膳 桂之助(ぜん けいのすけ、1887年〈明治20年〉7月2… 膳 桂之助(ぜん けいのすけ、1887年〈明治20年〉7月21日 - 1951年〈昭和26年〉11月25日)は、日本の農商務官僚、実業家、政治家。位階は従三位。勲等は勲三等。日本工業倶楽部理事、日本団体生命保険社長、経済安定本部総務長官(初代)、物価庁長官(初代)、貴族院議員を歴任した。 1887年(明治20年)、群馬県佐波郡伊勢崎町(現・伊勢崎市)で、薬商・膳浅次郎(好孝)の三男として生まれる。伊勢崎尋常小学校に学んだ。1896年(明治29年)に父が脳溢血で死去。1900年(明治33年)旧制前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)に入学するが、同盟休校(ストアイキ)の首謀者として退学となり、1903年(明治36年)に上京した。
新井 京太(あらい きょうた、1887年〈明治20年〉5月2… 新井 京太(あらい きょうた、1887年〈明治20年〉5月26日 - 1969年〈昭和44年〉5月19日)は、大正・昭和期の実業家・政治家。衆議院議員(3期)。位階は正五位。 群馬県多野郡保美濃山村(現・藤岡市保美濃山)出身。17歳のとき医学を志して上京、建築業に従事しながら苦学する。1920年(大正9年)協調会社会政策学院を卒業。土木建築請負業を営む。田島応用加工(株)顧問を務めた。 千住町会議員、足立区会議員、東京市会議員、同参事会員、東京府会議員、同参事会員、同社会委員長、東京都議会議員、同参事会員を務めた。 第24回衆議院議員総選挙(1949年(昭和24年)1月執行)東京都第6区から選出された聴濤克巳の公職追放、中島守利の死去に伴い1952年(昭和27年)3月に実施された補欠選挙で初当選。
菅谷 勘三郎(すがや かんざぶろう、1886年〈明治19年〉… 菅谷 勘三郎(すがや かんざぶろう、1886年〈明治19年〉1月2日 - 1953年〈昭和28年〉4月18日)は、大正・昭和時代の日本の政治家。群馬県議会議員(1期)、群馬県会議員(6期)、第27代群馬県会議長、吾妻郡岩島村長などを務めた。幼名は善之(よしゆき)。 1886年(明治19年)、群馬県吾妻郡郷原村(岩島村を経て現・東吾妻町)の旧家に、村会議員などを務めた先代勘三郎とやいの次男として生まれる。先祖は菅谷勘右衛門の名を世襲し苗字帯刀を許された豪農・名主であった。1892年(明治25年)に父が死去したため勘三郎を襲名し、後に村長を務める叔父・慎三郎の後見を受ける。1903年(明治36年)に群馬県立農学校を卒業した後は、家業の農業に従事した。
福井 盛太(ふくい もりた、1885年〈明治18年〉7月14… 福井 盛太(ふくい もりた、1885年〈明治18年〉7月14日 - 1965年〈昭和40年〉12月27日)は、日本の弁護士(第一東京弁護士会会長)、検察官、政治家。検事総長、衆議院議員(3期)、日本弁護士連合会副会長、共立薬科大学理事長等を歴任。また、日本野球機構初代コミッショナーを務めた。従三位、勲二等旭日重光章、館林市名誉市民。囲碁5段、柔道3段。 1885年(明治18年)、群馬県邑楽郡館林町(現在の館林市)に、旧館林藩士・福井盛武の長男として生まれる。館林小学校尋常科・同高等科を経て、1900年(明治33年)群馬県立太田中学校を卒業し旧制第二高等学校に進む。1913年(大正2年)東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、翌年弁護士開業。
鶴見 祐輔(つるみ ゆうすけ、1885年〈明治8年〉1月3日… 鶴見 祐輔(つるみ ゆうすけ、1885年〈明治8年〉1月3日 - 1973年〈昭和48年〉11月1日)は、大正時代から昭和時代にかけての日本の官僚、政治家、著述家。衆議院議員(4期)、参議院議員(1期)、厚生大臣。 英語を得意とし、第二次世界大戦にかけて米国の対日世論が厳しくなる時期に、現地での講演や出版などを通じて民間外交に尽力した。 1885年(明治8年)1月3日、群馬県多野郡新町(現・高崎市新町)で、官営新町紡績所の工場長をしていた父・良憲と、母・琴子の次男、10人きょうだいの第四子として生まれる。一家は1895(明治28年)年9月に東京市赤坂へ、翌1896(明治29年)年1月に父の郷里である岡山県へ転居した。
中島 知久平(なかじま ちくへい、1884年〈明治17年)1… 中島 知久平(なかじま ちくへい、1884年〈明治17年)1月1日 - 1949年〈昭和24年〉10月29日)は、日本の海軍軍人、実業家、政治家。中島飛行機(のちに富士産業、富士重工業を経て、現在のSUBARU)の創始者として知られ、政治家に転じてからは大臣や立憲政友会総裁を務めた。 1884年(明治17年)1月1日、群馬県新田郡尾島村字押切(現在の群馬県太田市押切町、2005年3月27日までは群馬県新田郡尾島町大字押切)の農家中島粂吉と母いつの長男として生まれた。1898年(明治31年)3月、尾島尋常高等小学校卒業。1903年(明治36年)10月、海軍機関学校入学(第15期生)。1907年(明治40年)4月25日、海軍機関学校卒業。
清水 留三郎(しみず とめさぶろう、1883年〈明治16年〉… 清水 留三郎(しみず とめさぶろう、1883年〈明治16年〉4月28日 - 1963年〈昭和38年〉4月18日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党)、外務政務次官。 現在の群馬県前橋市大手町に生まれる。群馬県立前橋中学校を経て、1902年(明治35年)に早稲田大学法科を卒業した。その後渡米し、ワシントン大学とミネソタ大学で学び、法学修士の称号を得た。帰国後は関東産業新聞社長、上野新聞社専務、上毛機械合資会社代表社員、合資会社桜組支配人などを務めた。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に憲政会から出馬し、当選。第16回より立憲民政党に所属し、第21回に至るまで7回当選を果たす。
青木 精一(あおき せいいち、1883年(明治16年)4月1… 青木 精一(あおき せいいち、1883年(明治16年)4月19日 - 1945年(昭和20年)4月14日)は、日本のジャーナリスト・政治家で立憲政友会→昭和会→立憲政友会革新同盟所属の衆議院議員。 群馬県南勢多郡板橋村(新里村を経て現桐生市)出身。正教神学校を卒業。日露戦争に召集され従軍。日本電報通信社記者となり、シベリア出兵の際には浦塩派遣軍司令部附従軍記者を務めた。その他、大阪新報社東京支局長、中央新聞社政治部長を歴任した。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し当選。以後、当選回数は7回を数えた。政友会に所属し、1927年(昭和2年)には、議会乱闘事件に関与したとして傷害の容疑で起訴。
関口 志行(せきぐち しこう、1882年〈明治15年〉5月9… 関口 志行(せきぐち しこう、1882年〈明治15年〉5月9日 - 1958年〈昭和33年〉12月21日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員(立憲民政党)、前橋市長、群馬県会議員。俳人としても知られ、号は雨亭。 群馬県新田郡木崎町大字赤堀(現在の太田市新田赤堀町)に、父貞作、母いすの長男として生まれる。1900年(明治33年)群馬県中学校(現在の群馬県立前橋高等学校)を卒業、1903年(明治36年)に旧制第二高等学校を卒業、1906年(明治39年)京都帝国大学法科大学英法科を卒業した。文部省に入省するが、1年で退官。1909年(明治42年)、司法官試補となり、前橋地方裁判所に勤務した。やがて判事に昇進し、1911年(明治44年)には甲府地方裁判所に異動するが、1913年(大正2年)に退官した。
生方 大吉(うぶかた だいきち、1882年〈明治15年〉3月… 生方 大吉(うぶかた だいきち、1882年〈明治15年〉3月28日 - 1964年〈昭和39年〉3月13日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(5期)。 群馬県利根郡、のちの新治村下新田(現みなかみ町)で、生方太吉の長男として生まれる。1898年(明治31年)利根学校(沼田中学を経て現群馬県立沼田高等学校)を卒業した。 1918年(大正7年)利根電気を設立して社長に就任し、鶴ヶ淵発電所を設けた。その他、新治製材社長、利根倉庫取締役、坂東自動車取締役、利根製糸監査役、群馬共栄合資会社代表社員、棒丸百貨店会長などを務めた。 1918年ころから政治家を志し、1924年(大正13年)5月、第15回衆議院議員総選挙で群馬県第5区から憲政会公認で初出馬して当選。
関口 義慶二(せきぐち ぎけいじ、1882年〈明治15年〉1… 関口 義慶二(せきぐち ぎけいじ、1882年〈明治15年〉1月4日 - 1945年〈昭和20年〉2月3日)は、大正から昭和時代前期の政治家。群馬県桐生市長。 関口玉吉の長男として群馬県邑楽郡高島村(現・邑楽町)に生まれる。1903年(明治36年)3月、群馬県師範学校を卒業後、教員となり、1907年(明治40年)3月、群馬県川場小学校の校長に就任。 ついで、官界に転じ、同県北甘楽郡視学、群馬県属、知事官房主事、碓氷郡長、山田郡長を経て、1925年(大正14年)8月12日に桐生市長に就任。1933年(昭和8年)に桐生火葬場事件の責任を取って一旦辞任したものの、市議会に推されて40日後に再就任し、1940年(昭和15年)5月まで市長を務めた。
井田 金七(いだ きんしち、1881年〈明治14年〉9月26… 井田 金七(いだ きんしち、1881年〈明治14年〉9月26日 - 1932年〈昭和7年〉11月23日)は、日本の酒造家、政治家(群馬県会議員、群馬県佐波郡玉村町長、同町会議員)、群馬県多額納税者。前名・保一。11代・井田金七の長男として生まれ、12代・金七を襲名した。 群馬県佐波郡玉村町大字上新田に生まれる。生家・井田家は江戸時代には日光例幣使街道・玉村宿の名主・問屋・脇本陣を務める家柄で、宝永2年(1705年)より酒造業・和泉屋を営んだ。遠祖は畠山重忠とも、那波一族とも那波氏の家臣ともいい、17世紀の井田勘解由を初代としている。 11代井田金七の長男として生まれた保一は、東京の旧制開成中学校を卒業。
戸部 彪平(とべ ひょうへい、1881年〈明治14年〉4月2… 戸部 彪平(とべ ひょうへい、1881年〈明治14年〉4月2日 - 1945年〈昭和20年〉2月16日)は、日本の政治家、農政家。群馬県吾妻郡嬬恋村長、同村会議員。 群馬県吾妻郡嬬恋村田代に、戸部常太郎の長男として生まれる。小学校卒業後、近衛歩兵第2連隊へ入営し、日露戦争に従軍して勲八等、功七級に叙された。 1924年(大正13年)に同村の田代区域長となり、1925年(大正14年)より村会議員。1928年(昭和3年)から1936年(昭和11年)まで連続3期嬬恋村長を務めた。渋川駅から嬬恋村・鳥居峠を経て長野県真田に至るバスの開通をはたらきかけ、1933年(昭和8年)に実現させた。 1932年(昭和7年)からは当時貧窮に陥った嬬恋村の村民への救済のために、青果商人の青木彦治や農業技術員として活動していた塚田国一郎と共に冷涼な気候に適していたことよりキャベツの栽培及び生産を始める。
四王天 延孝(しおうでんのぶたか、1879年〈明治12年〉9… 四王天 延孝(しおうでんのぶたか、1879年〈明治12年〉9月2日 - 1962年〈昭和37年〉8月8日)は、日本の陸軍軍人、政治家。ユダヤ陰謀論を唱え『シオン賢者の議定書』の邦訳などを行なった。最終階級は陸軍中将。衆議院議員。旧姓・西村。 前橋藩士・西村茂兵衛の弟として、埼玉県松山市あるいは群馬県前橋市に生まれ、前橋藩士・四王天政彬の養嗣子となった。1899年(明治32年)11月、陸軍士官学校(11期)を卒業し、翌年6月、工兵少尉に任官し近衛工兵大隊付となる。 清国駐屯工兵中隊付などを経て日露戦争に出征。近衛工兵大隊中隊長、大本営運輸通信長官部副官、陸士教官、近衛工兵大隊付などを歴任し、1909年(明治42年)12月、陸軍大学校(21期)を卒業した。
田中 喜代松(たなか きよまつ、1877年(明治10年)4月… 田中 喜代松(たなか きよまつ、1877年(明治10年)4月20日 - 1944年(昭和19年)3月10日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・関原。 群馬県群馬郡新波村(現:高崎市)で関原家に生まれ、田中敬造の養子となる。1899年、群馬県尋常中学校を卒業し、その後、同志社で学ぶ。同志社在学中、日露戦争時に基督教青年会軍政慰問部主事として満州に赴任し慰問事業に二年間従事した。 1907年4月、北海道に移り製材事業を経営。(株) 田中木工場社長、北海興業取締役、北海工業取締役、旭川曲木工芸取締役、北海石炭取締役、昭南電燭取締役などを務めた。 政界では、旭川区会議員、同市会議員、同副議長、同議長、北海道会議員を歴任。
増田 金作(ますだ きんさく、1877年〈明治10年〉2月2… 増田 金作(ますだ きんさく、1877年〈明治10年〉2月26日 - 1947年〈昭和22年〉4月20日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)、群馬県会議員(3期)、群馬県利根郡沼田町長、白沢村長。 群馬県利根郡白沢村上古語父に、増田仁兵衛の次男として生まれる。兄・武市は群馬県会議員や白沢村長を務めた。沼田町の育修館(群馬県立沼田高等学校の前身)を卒業。 1907年(明治42年)4月に白沢村収入役となり、1908年(明治44年)10月利根郡会議員に当選。1912年(明治45年)、1920年(大正9年)、1923年(大正12年)の3度にわたり白沢村長に選出された。1917年(大正6年)には白沢村会議員となっている。
田村 茂三郎(たむら もさぶろう、前名・茂登馬、1874年〈… 田村 茂三郎(たむら もさぶろう、前名・茂登馬、1874年〈明治7年〉10月6日 - 1963年〈昭和38年〉10月9日)は、日本の実業家、政治家(吾妻郡会議員、沢田村長)、群馬県多額納税者。田村旅館(現四万たむら)12代目当主。 群馬県・先代茂三郎の長男。慶應義塾で学び、福澤諭吉に直接薫陶を受ける。1896年、慶應義塾正科を卒業。1905年、父茂三郎の退隠により家督を相続し、茂登馬を改め襲名する。 1911年から1915年まで第9代沢田村長を務めた。1919年からは吾妻郡会議員となる。郡会では鉄道敷設を県会・帝国議会へ陳情し、のちに長野原線の開通として結実することとなった。 温泉旅館業を営む。
星野 元治(ほしの もとじ、1873年〈明治6年〉11月3日… 星野 元治(ほしの もとじ、1873年〈明治6年〉11月3日 - 1955年〈昭和30年〉1月16日)は、日本の実業家・政治家。第25代群馬県会議長、勢多郡会議員、勢多郡黒保根村長。水沼製糸所の経営や甘楽社社長として養蚕産業界に功績を残した。 1873年(明治6年)、星野長太郎・カクの子として熊谷県勢多郡水沼村(現・群馬県桐生市黒保根町水沼)に生まれた。次男とされたが兄は養子の文弥であるため、実際には長男。1891年(明治24年)6月明治学院高等科(現・明治学院高等学校)を卒業。同校の学友には島崎藤村や和田英作がいた。 郷里に帰ると父が設立した水沼製糸所の経営に参画。1900年(明治33年)には経営難から水沼製糸所の所有権は椎名三衛へと移ったが、経営には元治があたった。
木檜 三四郎(こぐれ さんしろう、明治元年8月4日〈1868… 木檜 三四郎(こぐれ さんしろう、明治元年8月4日〈1868年9月19日〉 - 1959年〈昭和34年〉8月14日)は、明治時代から昭和時代にかけての日本の政治家。初代参議院仮議長、参議院議員(1期)、衆議院議員(7期)、群馬県会議員、吾妻郡会議員、原町長を歴任した。位階・勲等は正四位勲二等(旭日重光章)[要出典]。号に吾川。 明治元年(1868年)、群馬県吾妻郡岩島村(現・東吾妻町)の片貝家に生まれる。幼少期に原町の木檜家の養子となった。群馬県中学校(現・群馬県立前橋高等学校)を経て、東京専門学校(現在の早稲田大学)に学ぶ。 1894年(明治27年)に群馬県会議員に当選し、6期務める。1896年(明治29年)から1907年(明治40年)まで吾妻郡会議員、1903年(明治36年)から1907年(明治40年)まで同議長。
矢野 鉉吉(やの げんきち、慶應3年1月10日〈1867年2… 矢野 鉉吉(やの げんきち、慶應3年1月10日〈1867年2月3日〉 - 1955年〈昭和30年〉4月14日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 群馬県高崎市龍見町出身。1893年、群馬県立中学校(現・群馬県立前橋高等学校)卒。アメリカに留学し、帰国後は東京機器標本(株)取締役、多摩川水力電気(株)監査役となる。また、下谷区議、同議長、東京府議、同議長、東京市会議員を務めた。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において東京8区から立憲政友会公認で立候補したが落選。1924年の第15回衆議院議員総選挙で当選。1928年の第16回衆議院議員総選挙では東京2区から立候補して当選した。衆議院議員を2期務めた。
今井 今助(いまい いますけ、慶応2年9月15日〈1866年… 今井 今助(いまい いますけ、慶応2年9月15日〈1866年10月23日〉 - 1948年〈昭和23年〉2月18日)は、明治・大正時代の日本の政治家、実業家。群馬県利根郡川場村出身。衆議院議員(2期)、群馬県会議員(5期)、利根郡会議員、川場村長などを歴任した。 川場村川場湯原の今井悟兵衛の長男として生まれる。今井家は代々名主を務める家柄で、父悟兵衛は領主から帯刀御免・御用達頭取を仰せつけられていた。 今助は1892年(明治25年)に群馬県会議員に当選し、以後1896年(明治29年)、1907年(明治40年)、1911年(明治44年)、1915年(大正4年)の5回当選を果たし、17年間務めた。 1896年(明治29年)、1899年(明治32年)、1903年(明治36年)の3度利根郡会議員に当選。
稲茂登 三郎(いなもと さぶろう、1866年3月25日(慶応… 稲茂登 三郎(いなもと さぶろう、1866年3月25日(慶応2年2月9日)- 1936年(昭和11年)3月1日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員(2期)。旧姓・木暮。 上野国群馬郡、のちの群馬県西群馬郡伊香保町(現渋川市伊香保町)で木暮武禄の三男として生まれ、1898年(明治31年)東京市神田区の稲茂登カネの入夫となり家督を相続した。 群馬県中学校(現・群馬県立前橋高等学校)卒。東京市会議員、同参事会員、東京商業会議所議員のほか、帝国火災保険株式会社取締役他数社の重役となった。 1908年(明治41年)第10回衆議院議員総選挙において東京市選挙区から無所属で立候補して当選した。1912年(明治45年)第11回衆議院議員総選挙でも再選した。