舞出 長五郎(まいで ちょうごろう、明治24年(1891年)… 舞出 長五郎(まいで ちょうごろう、明治24年(1891年)9月8日 - 昭和39年(1964年)7月15日)は、日本の経済学者。経済学博士。東京大学名誉教授。日本学士院会員。五女は政治評論家三宅久之の兄で元福島大学経済学部教授三宅皓士の妻。 神奈川県出身。幸次郎の四男。 大正6年東大政治科卒業。同大学院特選給費学生を経て大正8年1月助教授に任ぜられ経済学研究のため欧米に留学。同12月経済学部教授となり経済学部長に就任。 昭和10年学術視察のため欧米に出張。昭和22年12月学位を受け昭和24年10月学士院会員に選ばれ昭和27年3月東大教授を退職。翌月学習院大学教授となり政経学部長を依嘱さる。 厚木中学、一高を経て東京帝国大学では高野岩三郎に師事する。
島田 兵蔵(しまだ ひょうぞう、1891年8月25日 - 1… 島田 兵蔵(しまだ ひょうぞう、1891年8月25日 - 1967年11月28日)は、日本の経営者、工学博士。中国電力初代社長。神奈川県川崎市出身。 1915年に早稲田大学電気科を卒業。浜田電気での勤務を経て、1936年6月に取締役に就任し、常務を経て、1942年4月に中国配電理事に就任し、1946年12月には社長に昇格。1951年5月に中国電力社長に就任。1961年10月に会長を経て、1964年11月には相談役に就任。 1955年11月に藍綬褒章を受章。 1967年11月28日胆嚢炎のために死去。76歳没。
眞鍋 武雄(まなべ たけお、1891年8月12日 - 196… 眞鍋 武雄(まなべ たけお、1891年8月12日 - 1963年2月21日)は、日本の発明家。 神奈川県横浜市出身。明石嘉四郎の次男として生まれ、母方の叔父・眞鍋慎太郎の養子となる。1914年(大正3年)に東京高等工業学校機械科を卒業した。1929年(昭和4年)よりコンクリート機械の研究に従事し、1931年(昭和6年)に日本建機株式会社を創立した。 1933年に全国発明表彰進歩賞を受賞し、1938年には恩賜記念賞及び大賞を受賞した。1955年、紫綬褒章を受章。
野田 俊彦(のだ としひこ、1891年(明治24年)6月18… 野田 俊彦(のだ としひこ、1891年(明治24年)6月18日 - 1929年(昭和4年)12月26日)は、日本の建築家で、大正期から昭和初期に建築技師として活動。陸軍省、内務省、警視庁、同潤会と、おもに官公庁系の職場に奉職した。 近代日本建築史上では、建築の実作より「建築非芸術論」など多くの論考を著した論客としての側面で知られる。 横浜市生まれ。画家で日本美術院会員の野田九浦は親戚に当たる。 横浜中学校、第一高等学校を経て、1911年、東京帝国大学工学部建築学科に入学し、1915年(大正4年)卒業。卒業論文「鉄筋混凝土と建築様式」の一部をもとにした論文「建築非芸術論」が内田祥三(当時助教授)の推薦で1915年10月に『建築雑誌』誌346号に掲載される。
高垣 松雄(たかがき まつお、1890年12月13日 - 1… 高垣 松雄(たかがき まつお、1890年12月13日 - 1940年9月13日)は、アメリカ文学者。立教大学文学部教授、文学部英文学科長。日本で初めてアメリカ文学を専門に研究した人とされ、日本におけるアメリカ文学研究の権威として基礎を築いた。 神奈川県横須賀市生まれ。早稲田大学文科を中退した後、1919年(大正8年)立教大学英文科卒業。大学卒業後すぐに、旧制立教中学校の英語教師となるが、同年夏にハワイのザ・フレンド・ピース奨学生の銓衡試験をパスして、ホノルルにある、孫文や第44代アメリカ大統領のバラク・オバマも学んだプナホ・アカデミーに留学。翌1920年(大正9年)にはシカゴ大学に入学。 病のため1921年(大正10年)に帰国し、1922年(大正11年)立教大学文学部教授に就任。
矢代 幸雄(やしろ ゆきお、1890年11月5日 - 197… 矢代 幸雄(やしろ ゆきお、1890年11月5日 - 1975年5月25日)は、日本の美術史家、美術評論家である。音楽家矢代秋雄は長男。秋雄の長女(孫)は古代ギリシア美術史研究者平山東子。妻の弟が木村健二郎。 横浜で讃岐高松藩元藩士の矢代宗勝と神戸出身の美佐の長男に生まれる。父は初め塗物屋を開業、のち商館番頭をしていた。横浜商業学校に進んだが、算盤が苦手で神奈川県立第一中学校に転校し、第一高等学校英法科を経て東京帝国大学法科大学に入学したが、文科大学英文科に転じ、1915年に卒業。一高時代から大下藤次郎主宰の日本水彩画研究所に通い、大学時代には第7回文展に入選。実家があまり裕福でなく、自作の水彩画を売ったり美術書の翻訳をしたりして学費の足しにしていたが、成績優秀で学資免除の特待生になった。
井上 庚二郎(いのうえ こうじろう、1890年(明治23年)… 井上 庚二郎(いのうえ こうじろう、1890年(明治23年)8月30日 - 1969年(昭和44年)11月13日)は、日本の外交官。駐ハンガリー公使。海軍司政長官。 井上喜代松の二男。神奈川県出身。1917年(大正6年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、外交官及領事官試験に合格した。外交官補、領事官補、イギリス大使館三等書記官、外務事務官・亜細亜局第三課勤務、廈門領事・台湾総督府事務官、ポーランド領事、シドニー総領事、外務書記官・商工書記官・通商局第一課長、ドイツ大使館参事官、外務省欧亜局長を歴任した。1939年(昭和14年)、駐ハンガリー公使に就任した。その後、外務省職員訓練所長を経て、1942年(昭和17年)から1944年10月まで海軍司政長官・ボルネオ民政部長官を務めた。
鈴木 三郎助(すずき さぶろうすけ、1890年6月23日 -… 鈴木 三郎助(すずき さぶろうすけ、1890年6月23日 - 1973年6月19日)は、日本の実業家。鈴木商店(現味の素)創業者二代目鈴木三郎助の長男で、同社代表取締役社長や、京浜急行電鉄代表取締役社長を務めた。 神奈川県三浦郡葉山町出身。1907年(明治40年)に京華商業学校(現京華商業高等学校)卒業後、東京高等商業学校(現一橋大学)に進学。第一ホテル創業者の土屋計左右は、同郷かつ東京高等商業学校の同窓で親しく、のちに鈴木家持株会社鈴木三栄の常務理事に就任した。 1908年(明治41年)、父親が池田菊苗が発明した化学調味料の製造権を取得。家族でネーミングを考えた結果、三郎(当時3代目襲名前)が提案した「味の元」が選ばれた。
杉山 茂(すぎやま しげる、1890年(明治23年)5月10… 杉山 茂(すぎやま しげる、1890年(明治23年)5月10日 - 1975年(昭和50年)3月29日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。 神奈川県大住郡須馬村須賀(中郡須馬町、平塚町を経て現平塚市)で、醤油味噌醸造業・杉山善平の長男として生まれる。1910年(明治43年)明治学院を卒業した。 家業に従事し、1923年(大正12年)コンクリート製のもろみタンクを考案。1924年(大正13年)家督を相続し、米善醸造を県下一の醸造会社に成長させた。 1923年、須賀郵便局長に就任。1925年(大正14年)須馬町会議員に選出され平塚町との合併に尽力し、学務委員も務めた。合併実現後、同町会議員、平塚市会議員を務めた。
中村 俊久(なかむら としひさ、1890年2月16日 - 1… 中村 俊久(なかむら としひさ、1890年2月16日 - 1972年3月19日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 神奈川県出身。中村庄吉・サダの息子として生れる。1911年(明治44年)7月、海軍兵学校(39期)を卒業。1912年(大正元年)12月、海軍少尉に任官し「矢矧」乗組となる。海軍大学校(乙種学生)、海軍水雷学校高等科・特修科で学ぶ。「常磐」分隊長、「龍田」水雷長、元帥副官兼海軍省出仕(元帥大将東郷平八郎附属)などを経て、1924年(大正13年)11月、海軍大学校(甲種22期)を卒業した。 海大時代の末期に健康を害し、療養の意味も込めて同年12月、横須賀防備隊水雷長に就任し、横須賀海軍工廠機雷実験部部員を兼任。
奥村 博史(おくむら ひろし、1889年(明治22年)10月… 奥村 博史(おくむら ひろし、1889年(明治22年)10月4日 - 1964年(昭和39年)2月18日)は、日本の洋画家、工芸家。妻は社会運動家の平塚らいてうである。 1889年(明治22年)、藤沢市に奥村市太郎の長男として生まれる。藤沢小学校、逗子開成中学校を卒業。 1909年(明治42年)、画家を志すことを父に伝えるも許されず、家出をして上京した。大下藤次郎主宰の日本水彩画研究所に入学。1911年(明治44年)に大下が亡くなると油絵に転向した。 1912年(明治45年)、巽画会に油絵『青いリンゴ』を出品した。 1914年(大正3年)に婦人運動家の平塚らいてうと恋愛結婚し話題となる。第一回二科展に油絵『灰色の海』を出品し入選した。
野口 敏治(のぐち としはる、1889年(明治22年)5月2… 野口 敏治(のぐち としはる、1889年(明治22年)5月21日 - 1944年(昭和19年)1月14日)は、台湾総督府官僚。 神奈川県横浜市出身。第一高等学校を経て、1915年(大正4年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業した。同年に高等文官試験に合格し、台湾総督府属、新竹州属、台湾総督府視学官、台中州警務部長、文教局学務課長・附属博物館長、同社会課長を歴任した。1931年(昭和6年)、新竹州知事となり、高雄州知事を経て、1933年(昭和8年)には台北州知事に就任した。 1936年(昭和11年)に退官した後は、台湾電力株式会社理事・経理部長となり、1940年(昭和15年)に退任した。他に福大公司監査役を務めた。
多田 健蔵 (ただ けんぞう、1889年2月17日 - 19… 多田 健蔵 (ただ けんぞう、1889年2月17日 - 1976年) は、日本のオートバイレーサー。神奈川県秦野市出身。アジア人として初めてマン島TTレースに参加した。 オートバイを始める前は自転車レースに参戦していた。1907年(明治40年)に横浜貿易新報(現・神奈川新聞)主催の「自転車長距離競走」で、250マイル(実際の走行距離は約390kmだったとされる)を16時間53分で走破、優勝している。 東京市日本橋でオートバイの輸入販売を行う多田健蔵商店を営む。1921年からオートバイレースを始める。当時日本のオートバイレーサーは20名しかいなかった。彼は日本におけるモータースポーツイベント主催の中心的な役割を果たすようになった。
加藤 武雄(かとう たけお、1888年〈明治21年〉5月3日… 加藤 武雄(かとう たけお、1888年〈明治21年〉5月3日 - 1956年〈昭和31年〉9月1日)は、大正・昭和期の小説家。号は冬海。建築家の丹下健三は三女の婿。門人に佐藤愛子がいる。 神奈川県津久井郡川尻村(現・相模原市緑区)生まれ。高等小学校卒。川尻尋常小学校(現・相模原市立川尻小学校)で訓導(準教員)を務める。親戚に八木重吉がおり、川尻尋常小学校では教え子でもあった。 『文章世界』・『中学世界』誌等への投書家として次第に名を知られ、明治時代末から佐藤義亮に接近。1911年、新潮社に入社し、編集者として『文章倶楽部』などを担当した。 1916年に加藤武雄名義の処女作「土を離れて」を『新潮』誌に発表。
早川 三郎(はやかわ さぶろう、1888年 <明治21年> … 早川 三郎(はやかわ さぶろう、1888年 <明治21年> 4月8日 - 1973年 <昭和48年> 4月19日)は、日本の内務官僚、政治家。県知事、警視総監。位階は正四位。 神奈川県出身。地主・早川耕造の三男として生まれる。東京府立三中、第六高等学校を経て、1915年5月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。1914年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1915年8月、内務省に入り宮崎県属となる。 1916年9月、宮崎県警視を兼務。以後、宮崎県東諸県郡長、同県理事官、埼玉県理事官、同県地方課長、同県視学官、香川県書記官・警察部長、岡山県書記官・警察部長、広島県書記官・警察部長などを歴任。
永見 俊徳(ながみ としのり、1888年2月19日 - 19… 永見 俊徳(ながみ としのり、1888年2月19日 - 1971年3月2日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 永見松太郎陸軍大尉の長男として東京で生まれる。小田原中学、仙台陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1909年(明治42年)5月、陸軍士官学校(21期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第27連隊付となる。1921年(大正10年)11月、陸軍大学校(33期)を優等で卒業。 1922年(大正11年)12月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員、参謀本部付仰付(南京駐在)を経て、1925年(大正14年)3月、歩兵少佐に昇進。1926年(大正15年)5月、参謀本部員となり、馮玉祥顧問、参謀本部付仰付(漢口駐在)を歴任し、1928年(昭和3年)8月、歩兵中佐に進級。
荒畑 寒村(あらはた かんそん、1887年〈明治20年〉8月… 荒畑 寒村(あらはた かんそん、1887年〈明治20年〉8月14日 - 1981年〈昭和56年〉3月6日)は、日本の社会主義者・労働運動家・政治家。また、作家・評論家。本名は荒畑 勝三(あらはた かつぞう)。 日本共産党および日本社会党の結党に参加するが離党し、1946年(昭和21年)から衆議院議員を務めた。主義主張の一貫した生涯は、日本社会主義運動の良心の軌跡とされている。 1887年(明治20年)8月14日に神奈川県横浜市永楽町にあった横浜遊廓の中で生まれ、幼少期を横浜市野庭(現・横浜市港南区)で過ごした。高等小学校を卒業後に外国人商館でボーイとして勤務しながらキリスト教に改宗し、ボーイを退職後は横須賀海軍工廠で勤務していた。
高瀬 弥一(たかせ やいち、1887年7月28日 - 195… 高瀬 弥一(たかせ やいち、1887年7月28日 - 1954年10月5日)は、日本の実業家、町会議員、中学校教諭。正式な表記は髙瀨 彌一。莫大な土地を相続し、藤沢市の大地主として、住宅地開発、自動車道路、上水道敷設に功労した。和辻哲郎、林達夫の義兄に当たる。 江之島電氣鐵道が開通して間もなく、現在の柳小路駅と鵠沼駅の中間にあった藤ヶ谷停車場から東の百両山砂丘一帯に2万坪を超す敷地と巨大な冠木門、豪壮な建物で「鵠沼御殿」と噂される高瀬邸が完成した。電車が藤ヶ谷停車場に近づくと、車掌が「次は藤ヶ谷、高瀬邸前」と叫んだという。邸内には少なくとも4軒の離れがあり、大正時代初期に高瀬弥一の先輩に当たる阿部次郎、安倍能成、そして高瀬家の長女・照と結婚した和辻哲郎、さらに茅野雅子が借家して居を構えた。
斎藤 昌三(さいとう しょうぞう、1887年3月19日 - … 斎藤 昌三(さいとう しょうぞう、1887年3月19日 - 1961年11月26日)は、日本の古書学、蒐集家、発禁本研究などで「書痴(英語版)」と呼ばれた人物。猥褻本の研究、編訳でも知られる。 少雨叟など多くの号をもつ。 神奈川県高座郡座間村(現・座間市)に商人の子として生まれ、政三と名づけられるが、関東大震災後「昌三」と改名。 神奈川県立第三中学校(現・神奈川県立厚木高等学校)を1905年に中退、横浜の生糸商・原合名会社に勤務。銀行訪問が主な業務で、当時銀行に勤めていた小島烏水や礒萍水と知りあうきっかけとなった。1910年頃勤務をやめ職を転々とした。 1915年同人誌『樹海』を創刊、この雑誌は何度かの改題を経て続いた。
河岡 潮風(かわおか ちょうふう、1887年(明治20年)3… 河岡 潮風(かわおか ちょうふう、1887年(明治20年)3月8日 - 1912年(明治45年)7月13日)は日本の作家。押川春浪の弟子筋として雑誌『冒険世界』などで小説、エッセイなどを発表したが、若くして病死した。本名は英男。 横浜野毛町(現・横浜市中区)出身。神戸、京都などを転々とした後、1905年(明治38年)早稲田大学文学部に入学。 早稲田大学卒業後、中央新聞を経て博文館に入社。押川春浪が主筆を務めていた『冒険世界』の編集助手となり、同誌に小説、エッセイなどを発表する。押川が体調を崩していた時には口述筆記を行うこともあった。また、押川が中心人物であった社交団体「天狗倶楽部」にも入り、メンバーと交友を深めた。
村岡 儆三(むらおか けいぞう、1887年〈明治20年〉 -… 村岡 儆三(むらおか けいぞう、1887年〈明治20年〉 - 1963年〈昭和38年〉2月6日)は、日本の出版業者・印刷業者。神奈川県横浜市出身。父は聖書印刷で知られる村岡平吉、妻は翻訳家の村岡花子(後妻、後述)。母方の従姉妹に社会運動家の賀川ハルがいる。 横浜商業学校(後の横浜市立横浜商業高等学校)卒業後、1907年(明治40年)に父の営む福音印刷合資会社(後の福音印刷株式会社)に入社し、父の事業を助けた。1914年(大正3年)に同社の東京市(後の東京都)銀座進出後、銀座支店の責任者となった。1915年(大正4年)に結婚して長男をもうけたが、妻が結核を発病し、別居を余儀なくされた。 後に村岡花子(当時は安中姓)の翻訳原稿を読んで興味を抱き、花子の翻訳による『モーセが修学せし國』の印刷人を務めた縁で1919年(大正8年)4月8日に花子と出逢い、やがて恋に落ちた。
佐藤 脩(さとう おさむ、1886年(明治19年)12月5日… 佐藤 脩(さとう おさむ、1886年(明治19年)12月5日 - 1974年(昭和49年)12月5日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。日本海軍の中華民国専門家である。旧姓古川。 横浜市出身。本籍は青森県にあった。横浜一中を経て、海軍兵学校に首席入校。1907年(明治40年)卒業。席次は172人中26番。佐藤は海兵35期の一人である。1913年(大正2年)12月大尉へ進級し、「薩摩」分隊長。翌年海軍大学校(以下「海大」)専修学生を修了し、航海科専攻士官となる。佐藤は6艦で航海長を務めた。 1919年(大正8年)、海大甲種学生に入校(19期)。海大同期に草鹿任一、小沢治三郎がいる。1922年(大正12年)砲艦・「伏見」艦長となる(階級は少佐)。
小林 與次右ヱ門(与次右衛門、こばやし よじえもん、1886… 小林 與次右ヱ門(与次右衛門、こばやし よじえもん、1886年〈明治19年〉10月4日 - 1962年〈昭和37年〉11月9日)は、昭和時代の政治家。神奈川県高座郡相模原町長、相模原市長。 神奈川県高座郡上溝村(溝村、上溝町を経て、現相模原市中央区)に生まれる。上溝小学校高等科、津久井郡湘南村葉山島東林教校修業、溝村立上溝実業補習学校を経て、早稲田大学講義録中学科、文学科、法律科などに取り組む。家業の農業に従事する傍ら1911年(明治44年)から1916年(大正5年)まで鳩川農業学校教諭嘱託、助教諭を務め、鎌倉郡立農事講習所講師を歴任した。1932年(昭和7年)神奈川県会議員に当選し、2期務め、1941年(昭和16年)上溝町助役、同年相模原町会議員に転じ、1947年(昭和22年)には相模原町長に就任した。
佐々 紅華(さっさ こうか、1886年7月15日 - 196… 佐々 紅華(さっさ こうか、1886年7月15日 - 1961年1月18日)は、日本の作曲家である。本名は佐々 一郎(さっさ いちろう)。作詞も行なった作品があり、歌劇の台本も書き、グラフィックデザイナーでもあった。 1886年(明治19年)7月15日、東京府東京市下谷区根岸(現在の東京都台東区根岸)に生まれた。祖父は富山藩士、父の佐々高信は分家し、三井物産の社員となり1900年頃から周旋屋となった。紅華が4歳の時、一家で横浜市に転居、旧制・横浜小学校(1946年統合廃校)、旧制・神奈川第一中学校(現在の神奈川県立希望ヶ丘高等学校)を経て、浅草区蔵前にあった旧制・東京高等工業学校(現在の東京工業大学)工業図案科に進学した。
野尻 抱影(のじり ほうえい、本名・正英(まさふさ)、188… 野尻 抱影(のじり ほうえい、本名・正英(まさふさ)、1885年〈明治18年〉11月15日 - 1977年〈昭和52年〉10月30日)は、日本の英文学者・随筆家・天文民俗学者。早稲田大学文学部英文学科卒業。準惑星である冥王星の和訳命名者。 古今東西の星座・星名を調べ上げたことから「和製アレン」とでも言うべき存在でもあった。とくに、星の和名の収集研究で知られる。日本各地の科学館やプラネタリウムで行われる、星座とその伝説の解説には、野尻の著作が引用されることが多い。若くして文学に興味を持ち、小泉八雲に傾倒した。星の和名の収集を始めたのは40歳を過ぎてからであった。 「抱影」という雅号は、早稲田大学文学部在学中、文芸誌「白百合」に作品を掲載するにあたり前田林外が金剛経の一節「夢幻泡影」から考案し、岩野泡鳴、相馬御風と相談して決めたものである。
天野 貞祐(あまの ていゆう、1884年〈明治17年〉9月3… 天野 貞祐(あまの ていゆう、1884年〈明治17年〉9月30日 - 1980年〈昭和55年〉3月6日)は、大正・昭和期の日本の哲学者・教育者・文学博士。京都帝国大学名誉教授。甲南高等学校校長。 第二次世界大戦後は第一高等学校校長・文部大臣(第3次吉田内閣)を務めた後に獨逸学協会学校を母体として創立された獨協大学の初代学長を務めた。文化功労者。武蔵野市名誉市民。 1884年、神奈川県津久井郡鳥屋村(現在の相模原市)の豪農の出身。父・天野藤三は自由民権運動に参加して後に村長・衆議院議員を務めた。父は教育熱心な人物であり、天野も将来医師になることを嘱望されて13歳の時に獨逸学協会学校中学校(旧制中学、獨協学園の前身)に入学した。
西 勝造(にし かつぞう、1884年3月15日 - 1959… 西 勝造(にし かつぞう、1884年3月15日 - 1959年11月21日)は、西式健康法の創始者。 神奈川県高座郡下鶴間村生まれ。16歳の時、医者から20歳まで生きられないと言われ、さまざまな健康法を実行。やがて健康を取り戻す。1904年西洋医学の逆をゆく健康法をあみだす。コロンビア大学でトンネル工学や橋梁工学を学ぶ。1927年「医学の革命」として、独特の医学を体系化し公表、西式健康法として知られた。東京都第4区 (中選挙区)から1948年第23回衆議院議員総選挙に無所属で、1949年第24回衆議院議員総選挙に国民協同党から出馬し落選。息子の西大助(おおすけ、1921-97)が後を継いだ。
若尾 幾太郎(わかお いくたろう、1884年(明治17年)3… 若尾 幾太郎(わかお いくたろう、1884年(明治17年)3月14日 - 1938年(昭和13年)12月23日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 神奈川県横浜区(現横浜市)で、二代若尾幾造の長男として生まれる。1903年、横浜商業学校(現横浜市立横浜商業高等学校)を卒業した。 父の事業を補佐して生糸貿易業などに従事。1916年、横浜連合青年会会頭に就任。1922年、家督を相続。若尾合名会社社長、若尾銀行頭取、帝国ホテル取締役、湘南電気鉄道取締役、富士山麓電気鉄道取締役、日本土地証券取締役、ホテルニューグランド取締役、横浜火災海上保険取締役、帝国蚕糸監査役、横浜桟橋倉庫監査役、三ッ引商事監査役などを務めた。
前田 夕暮(まえだ ゆうぐれ、1883年(明治16年)7月2… 前田 夕暮(まえだ ゆうぐれ、1883年(明治16年)7月27日 - 1951年(昭和26年)4月20日)は、神奈川県出身の歌人。本名は前田洋造(洋三とも)。長男の前田透も歌人であり、歌誌「詩歌」を引き継いだ。 尾上柴舟に師事。歌集『収穫』(1910年)で自然主義歌人として牧水と並称された。その後北原白秋らと「日光」を創刊。『水源地帯』(1932年)では、自由律短歌に傾くなど、生涯新境地を求めた。 現・神奈川県秦野市にあたる大住郡南矢名村の豪農の家に生まれ、代々庄屋や戸長を務める家柄で、「油屋」の屋号で食用油や醤油の販売もしていた。父の前田久治は県会議員や大根村の村長を務めた厳格な人物で、母のイセは控えめな性格、夕暮を長男として三男四女の家族であった。
松浦 為王(まつうら いおう、1882年(明治15年)1月8… 松浦 為王(まつうら いおう、1882年(明治15年)1月8日 - 1941年(昭和16年)12月15日)は、日本の俳人。本名は磐。 神奈川県横浜市生まれ。横浜商業学校を卒業後、横浜正金銀行に勤務。 「ホトゝギス」創刊のころより、高浜虚子、内藤鳴雪に師事。横浜に、ホトトギス派の句会・連友会を組織した。 1928年(昭和3年)5月、俳句雑誌「俳人」を創刊主宰。“深刻なる句、平明なる句、気迫の籠りたる句”を標榜、首唱し、杉本禾人、浜井武之助らが参加した。1936年(昭和11年)、通巻100号をもって終刊。 編著に『太祇百句評釈』、『鳴雪俳句集』がある。 画家で正岡子規門下の俳人でもあった下村為山に絵画を学び、長唄も嗜んだ。
奥村 鶴吉(おくむら つるきち、1881年(明治14年)12… 奥村 鶴吉(おくむら つるきち、1881年(明治14年)12月10日 - 1959年(昭和34年)2月4日)は、日本の医学者。専門は細菌学。神奈川県中郡秦野町(現・秦野市)出身。 血脇守之助に師事する。東京歯科医学専門学校校長、東京歯科大学学長・東京歯科大学理事長などの要職を歴任した。 妻は澤田半之助の娘。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
篠崎 太一(しのざき たいち、1881年〈明治14年〉4月1… 篠崎 太一(しのざき たいち、1881年〈明治14年〉4月1日 - 1960年〈昭和35年〉8月22日)は、明治から昭和時代の政治家。神奈川県高座郡田名村長、相模原町長。 相模原に生まれる。1903年(明治36年)神奈川県師範学校卒業後、高座郡明治小学校、同郡上溝小学校訓導を経て、1912年(大正元年)同郡尋常高等大和小学校校長となる。1916年(大正5年)同郡座間小学校校長、1918年(大正7年)同郡上溝小学校校長を経て、1928年(昭和3年)高座郡田名村役場吏員となり、収入役、助役、村長を歴任した。1941年(昭和16年)町村合併により相模原町が成立するとその村長に選任され、1946年(昭和21年)10月まで在任した。
小林 吉之助(こばやし きちのすけ、1881年(明治14年)… 小林 吉之助(こばやし きちのすけ、1881年(明治14年)3月3日 - 1968年(昭和43年)4月2日)は、政治家。第11 - 14代八王子市長を務めた。勲四等瑞宝章、藍綬褒章受章。 1881年(明治14年)3月神奈川県高座郡上溝村(溝村、上溝町を経て現相模原市)に資産家根岸家の次男として生まれる。高等小学校時代から成績は良く法曹界を目指し東京法学院に進学し1901年(明治34年)卒業するが脚気衝心に罹り療養生活に入る。1907年には小林家に婿入り。1916年(大正5年)八王子町議会議員に当選(1期)。1918年(大正7年)には八王子織物同業組合評議員に選出。副組合長を経て1924年(大正13年)に組合長に就任した他、武相甲織物同業組合連合会会長・東京府織物工業組合理事長など織物関係の組合の要職に就任。
左右田 喜一郎(そうだ きいちろう、明治14年(1881年)… 左右田 喜一郎(そうだ きいちろう、明治14年(1881年)2月28日 - 昭和2年(1927年)8月11日)は日本の経済学者、経済哲学者。新カント主義者。弟子の杉村広蔵とともに経済哲学の創始者とされる。東京高等商業学校(現一橋大学)や京都帝国大学文学部で教鞭をとると同時に、貴族院議員を務めた。帝国学士院賞受賞。チュービンゲン大学博士。 1881年、神奈川県横浜市生まれ。横浜の金融界で活躍した左右田金作の長男である。幼少より秀才で鳴らし、1887年に横浜小学校では第1学年を飛ばし、2年生として入学。尋常科、高等科を7年で修了し、横浜商業学校(現横浜市立横浜商業高等学校)では予科1年の1学期の修了後に2年生に進級。
大島 正徳(おおしま まさのり、旧字体: 大島 正德、188… 大島 正徳(おおしま まさのり、旧字体: 大島 正德、1880年11月11日 - 1947年4月21日)は、日本の哲学者・教育家。 神奈川県海老名市出身。実家は豪農で、父親は蚕種業のかたわら自由民権運動に携わり、子供の教育にも自由主義を貫いた。耕余塾で学んだのち、同志社中学校、第一高等学校を経て、1904年東京帝国大学文学部哲学科卒。研究生を09年までやり、14年東京帝国大学哲学科講師、16年助教授、1924年に同大及び一高教授を務める。 帝大を退職し、1925年東京市学務局長に就き、同教育局長、東京市会議員、帝国教育会理事などを務めた。37年世界教育会議日本事務局の事務総長。1942年には村田省蔵大日本帝国陸軍第十四軍(フィリピン占領軍)最高顧問の比島調査委員会で教育及び宗教担当委員を務めた。
石井 太吉(いしい たきち、1880年3月21日 - 196… 石井 太吉(いしい たきち、1880年3月21日 - 1966年2月16日)は、日本の発明家、実業家。旧姓は内田。 神奈川県横浜市出身。内田峰吉の長男として生まれる。その後、石井長吉の養子となる。 1900年(明治33年)に東京・月島に石井鐵工所を創業した。1902年に工手学校(現・工学院大学)を卒業。1908年に石井家の家督を相続した。 1919年(大正8年)に株式会社石井鐵工所を設立した。 起重機製造株式会社取締役、高岡瓦斯株式会社社長、東洋酸素(現・日本酸素ホールディングス)取締役、箱根水田取締役、月島衛生取締役、伊東瓦斯取締役などを務めた。 1936年に紺綬褒章、1944年に緑綬褒章、1958年に紫綬褒章を受章。
寺田 三郎兵衛(てらだ さぶろべえ、旧姓・川上、前名・豊通、… 寺田 三郎兵衛(てらだ さぶろべえ、旧姓・川上、前名・豊通、1879年〈明治12年〉1月16日 - 没年不明)は、日本の商人(稲元屋、呉服商)。神奈川県多額納税者。 神奈川県高座郡藤沢町(現藤沢市)出身。川上九兵衛の長男。1892年、寺田満重の養子となり1917年、前名・豊通を改め1921年、家督を相続した。 稲元屋と称し、呉服商を営み、県下の多額納税者であった。貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有した。住所は藤沢。 旧稲元屋呉服店は初代寺田三郎兵衛が弘化2年に創業、昭和初期には「湘南の三越」ともいわれていた。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
荒川 文六(あらかわ ぶんろく、1878年(明治11年)11… 荒川 文六(あらかわ ぶんろく、1878年(明治11年)11月18日 - 1970年(昭和45年)2月9日)は、日本の電気工学者。位階は正三位。九州帝国大学総長。工学博士。 神奈川県横浜生まれ。荒川省吾の長男。1886年、日本組合番町教会で小崎弘道から受洗。高等学校時代に信仰告白をなし、日曜学校教師、オルガニストとして活躍。後に福岡組合基督教会(現、日本基督教団福岡警固教会)に移り、福岡女学院理事長、日本基督教団常議員をつとめた。 九州帝国大学教授、同大総長の他、九州タイムズ社長も歴任する等、西日本での電気工学界の中心人物として活躍する。1946年3月22日、貴族院勅選議員に任じられ、無所属倶楽部に属し1947年5月2日まで在任した。
磯野 庸幸(いその つねゆき、旧姓・吉田、1878年〈明治1… 磯野 庸幸(いその つねゆき、旧姓・吉田、1878年〈明治11年〉10月25日 - 1981年〈昭和56年〉5月31日)は、日本の実業家・政治家(貴族院議員、神奈川県会議員、衆議院議員)、商人(丸二商会、貿易商)、神奈川県多額納税者。 神奈川県橘樹郡大豆戸村(現・横浜市港北区大豆戸町)出身。吉田吾山の四男で、上郎清助の弟。生家の吉田家は醤油醸造業を営んでいた。磯野國四郎の養子となり1920年、分家した。 1900年、横浜商業学校を卒業し横浜正金銀行に入った。陸軍三等軍吏に任ぜられ第1師団経理部部員として日露戦役に従軍、陸軍二等主計に任ぜられた。輸出入商・丸二商会を起し経営した。貿易商を営んだ。 1928年の第16回衆議院議員総選挙(第1回普通選挙)で神奈川県第一区から立憲政友会所属で立候補して当選し、衆議院議員を一期務めた。
飯田 助夫(いいだ すけお、1878年〈明治11年〉3月7日… 飯田 助夫(いいだ すけお、1878年〈明治11年〉3月7日 - 1961年〈昭和36年〉12月18日)は、大正から昭和時代の政治家。衆議院議員。神奈川県会議長。神奈川県橘樹郡大綱村長。 素封家・飯田助大夫快三の長男として神奈川県橘樹郡、のちの大綱村(現横浜市港北区)に生まれる。1925年(大正14年)12代を継ぐ。1903年(明治36年)大綱村農会長となり、大綱村会議員、橘樹郡会議員、1917年(大正6年)大綱村長、同教育会長、町村会役員などを歴任した。 1924年(大正13年)6月、神奈川県会議員に当選。2期務め、1928年(昭和3年)7月には議長に推された。1927年(昭和2年)4月、大綱村が横浜市に編入されると横浜市会議員に当選。
山本 信次郎(やまもと しんじろう、1877年〈明治10年〉… 山本 信次郎(やまもと しんじろう、1877年〈明治10年〉12月22日 - 1942年〈昭和17年〉2月28日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将、カトリック教会信者。正三位勲二等功五級。族籍は神奈川県平民。 相模国鎌倉郡川口村(現・片瀬)の旧家の山本庄太郎・ミツ夫婦の次男として生まれ、父親が持ち家をマリア会の別荘として貸していた関係から、小学校卒業後、マリア会の暁星中学校に入学した。暁星中学校は禁教令廃止後に開設されたカトリック教会系の学校であるが、当時はキリスト教に対する敵視が根強く、彼も当初は侮蔑を抱いていた。だが学校を運営しているマリア会の修道士と過ごしているうちにキリスト教を次第に理解するようになる。
今村 繁三(いまむら しげぞう、1877年(明治10年)1月… 今村 繁三(いまむら しげぞう、1877年(明治10年)1月23日 - 1956年(昭和31年)4月19日)は、日本の銀行家。 相場で財を成した実業家、今村清之助の次男として生まれる。東京高等師範学校附属中学に学び、英国ケンブリッジ市にある全寮制パブリックスクール リース校 (The Leys School) に留学した。この学校は『チップス先生さようなら』のモデルとなった名門で、チャペルには後に今村らが寄付したことを記念して彼らの名前を記したステンドグラスが残っている。また、皇太子時代の昭和天皇が訪問したことでも知られる。 1899年に英国トリニティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)に進学し、1902年に文学士の学位を受ける。
鈴木 忠治(すずき ちゅうじ、1875年2月2日 - 195… 鈴木 忠治(すずき ちゅうじ、1875年2月2日 - 1950年12月29日)は、日本の実業家。鈴木商店(現味の素)創業者二代目鈴木三郎助の弟で、同社代表取締役社長や、昭和電工代表取締役社長、電気化学協会会長、内閣顧問などを務めた。 神奈川県堀内村(現三浦郡葉山町)出身。耕余塾を経て、1894年横浜商業学校卒業。外国貿易商店に勤めたのち、鈴木商店(現味の素)創業者である兄鈴木三郎助とともに、味の素の製造・販売を進めた。1931年(昭和6年)から兄の後任として鈴木商店および東信電気の代表取締役社長を務め、多角化を進めて、昭和酒造(現メルシャン)や宝製油(現J-オイルミルズ)、宝製薬社(現味の素ヘルシーサプライ)の設立を行った。
三井 高泰(みつい たかやす、1875年(明治8年)1月13… 三井 高泰(みつい たかやす、1875年(明治8年)1月13日 - 1946年(昭和21年)12月15日)は、日本の実業家。芝浦製作所(現東芝)会長や、三井物産社長を務めた。別名・守之助。三井永坂町家7代当主。 東京出身。三井伊皿子家当主三井高生(1843-1914)の三男で、鳥居坂家(三井永坂町家)6代当主・三井高潔(三井篤次郎、三井物産社長)の養子。妻は住友家当主・住友友親の娘で住友友純養妹の楢光。三井高寛や三井高信は兄。横浜商業学校卒業。1899年三井物産船舶課(のちの三井船舶)課長。1904年芝浦製作所(現東芝)会長。1909年三井銀行取締役。1921年から三井物産社長を務めたが、池田成彬三井合名理事による改革で1934年に退任させられ、専門の役員と交代した。
森 三之助(もり さんのすけ、1874年12月25日 - 1… 森 三之助(もり さんのすけ、1874年12月25日 - 1940年6月9日)は、日本の俳優である。本名は森 三吉(もり さんきち)、ニックネームは森三(もりさん)。 1874年(明治7年)12月25日、神奈川県横浜市中区初音町の海産物問屋森寅に、長男の「森三吉」として生まれる。 長じて、旧制・横浜商業学校(現在の横浜市立横浜商業高等学校)を卒業する。 1894年(明治27年)、川上音二郎の「川上音二郎一座」に入座、初舞台は横浜の港座であった。1902年(明治35年)、満27歳のときに独立し、「新演劇森三之助一座」を結成する。人気を得て、ファンやジャーナリズムから「森三」との愛称をいただく。 のち東京へ進出、1911年(明治44年)には、目黒にあった吉沢商店の撮影所で黎明期のサイレント映画に出演した。
福井 準造(ふくい じゅんぞう、明治4年9月21日(1871… 福井 準造(ふくい じゅんぞう、明治4年9月21日(1871年11月3日) - 昭和12年(1937年)12月10日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。準三と表記される場合がある。 相模国大住郡小嶺村(現在の神奈川県平塚市)の代々里正・組頭を務めた家で、福井直吉の長男として生まれる。1891年(明治24年)、慶應義塾を卒業。社会問題に関心を持ち、神奈川県農会副会長を務めるかたわら、農商務省の嘱託として神奈川県の工場・職工の調査にあたった。自らは社会主義者ではなかったが、1899年(明治32年)に著した『近世社会主義』は日本で社会主義を解説した最初期の文献である。また、郭沫若は、同書が1913年に中国語に翻訳され、これが中国へのマルクス・エンゲルス思想の初めての紹介になったと述べている。
堀 榮助(ほり えいすけ、1871年7月13日(明治4年5月… 堀 榮助(ほり えいすけ、1871年7月13日(明治4年5月26日) - 1940年(昭和15年)7月19日)は、日本の地主、神奈川県多額納税者、資産家。族籍は神奈川県平民。前名・三郎。 神奈川県横浜市出身。先代榮助の長男。1892年、東京専門学校(現早稲田大学)邦語政治科卒業。同期卒業生46人中第4位であった。1902年、父が病没したため家督を相続し、三郎を改め襲名した。 貸地業を営んだ。北海道、朝鮮に土地を有し、多額納税者であった。貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有した。 宗教は日蓮宗。趣味は読書、俳句。住所は神奈川県横浜市中区英町、同市神奈川区浅間町。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
2代 大浜 忠三郎(大濱、おおはま ちゅうざぶろう、1871… 2代 大浜 忠三郎(大濱、おおはま ちゅうざぶろう、1871年5月19日(明治4年4月1日)- 1925年(大正14年)11月24日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員、横浜市会議長。幼名・茂七郎。 武蔵国久良岐郡、現在の横浜市で、洋糸織物商・初代大浜忠三郎の長男として生まれる。横浜商業学校(現横浜市立横浜商業高等学校)を経て、1888年(明治21年)東京専門学校(現早稲田大学)英語本科を卒業し、欧米諸国を遊歴した。 家業を継承して洋織物商「信濃屋」を経営し、1904年(明治37年)10月、家督を相続し忠三郎を襲名した。横浜取引所理事長、横浜商業会議所議員、横浜生命保険社長、横浜倉庫取締役、神奈川県農工銀行取締役などを務めた。
出口 直吉(でぐち なおきち、1871年1月21日(明治3年… 出口 直吉(でぐち なおきち、1871年1月21日(明治3年12月1日) - 1929年(昭和4年)7月30日)は、明治から大正時代の政治家、実業家。染色家。衆議院議員。神奈川県高座郡鶴嶺村長。 出口彦四郎、ウタの三男として神奈川県高座郡今宿村(鶴嶺村、茅ヶ崎町を経て現茅ヶ崎市)に生まれる。1892年(明治25年)東京工業学校染工科を卒業し、1896年(明治29年)横浜市高島町に染色工場を開設した。以後、改良機械の導入、モスリン無地染色、羽二重精練などで業界を率いた。1912年(明治45年)には横浜輸出織物染色同業組合を設立し、政府助成を得て岡野町に共用利用工場を設けた。また、横浜商業会議所議員、横浜撚糸織物専務取締役を務めた。
石渡 秀吉(いしわた ひできち、1870年10月17日(明治… 石渡 秀吉(いしわた ひできち、1870年10月17日(明治3年9月23日) - 1933年(昭和8年)7月30日)は、明治から昭和時代初期の政治家、実業家。醸造家。衆議院議員(1期)。神奈川県三浦郡浦賀町長。 石渡真三郎の長男として神奈川県三浦郡大津村(浦賀町を経て現横須賀市)に生まれる。慶應義塾、専修学校などに学び、1892年(明治25年)家業の醤油醸造の販路拡大のためハワイへ渡り、翌年帰朝した。1906年(明治39年)浦賀町会議員に当選し、1922年(大正11年)まで通算3期務めた。1911年(明治44年)三浦郡会議員、同郡会議長を歴任した。1912年(明治45年)5月の第11回衆議院議員総選挙では神奈川県郡部から無所属で出馬し当選するが、選挙法違反の大審院判決により任期途中の1913年(大正2年)1月27日に辞職した。