宮川 三郎(みやがわ さぶろう、1925年6月5日 - 19… 宮川 三郎(みやがわ さぶろう、1925年6月5日 - 1945年6月6日)は、大日本帝国陸軍軍人。 1925年に、新潟県北魚沼郡城川村(現・小千谷市)で農業を営む宮川松太郎・マツの8人の子供の末っ子として誕生。非常に読書好きで算術と理科が得意だったことから、教育熱心な父に薦められて新潟県立工業学校(旧制 現・新潟県立長岡工業高等学校)へ進学すると、卒業するまで首席だった。高校時代は、クラスの学級長を松崎義勝と競い合うほどで、運動神経抜群・性格温厚・成績優秀と三拍子揃った美男子の三郎は、一躍村の人気者になった。 1941年に新潟県立工業学校を卒業すると、第三設計課に在籍中で高校の先輩だった大野敬三の誘いで立川飛行機へ入社する。
杉田 庄一(すぎた しょういち、1924年(大正13年)7月… 杉田 庄一(すぎた しょういち、1924年(大正13年)7月1日 - 1945年(昭和20年)4月15日)は、日本の海軍軍人。戦死による二階級特進で最終階級は海軍少尉。 1924年7月1日、新潟県東頸城郡安塚村(現上越市)で大農家の次男として生れる。家が山中にあったので険しい山道を渡って麓にある学校に通い、雪の日でも休むことはなかった。そのため足腰が鍛えられ、杉田はよく「軍は厳しいとよく言うが俺の家の方がずっと厳しい」と語っていた。1940年(昭和15年)、舞鶴海兵団に入団。1941年2月、予科練丙3期に入り、戦闘機専修練習生となる。同期生には杉野計雄、谷水竹雄らがいる。 1942年(昭和17年)4月、第6航空隊に配属。
伊藤 清(いとう きよし、1921年(大正10年)11月 -… 伊藤 清(いとう きよし、1921年(大正10年)11月 - 2012年(平成24年)7月4日)は、大日本帝国海軍軍人。第二次世界大戦における零式艦上戦闘機のエース・パイロットである。 1947年(昭和22年)の結婚により改姓し、加藤 清(かとう きよし)となった。 1921年(大正10年)新潟県村上市で、6人兄弟の3男として生まれた。高等小学校を出て織物工場で働くが、海軍機関兵だった従兄の影響を受けて、1939年(昭和14年)6月1日横須賀海兵団に入隊し、教程を終えた10月に水雷艇「鴻」に乗組みとなった。1940年(昭和15年)11月、海軍飛行予科練習生丙2期生として土浦海軍航空隊に入隊した。
堀江 正夫(ほりえ まさお、1915年〈大正4年〉6月16日… 堀江 正夫(ほりえ まさお、1915年〈大正4年〉6月16日 - 2022年〈令和4年〉3月20日)は、日本の陸軍軍人、陸上自衛官、政治家。自由民主党所属の参議院議員(2期)。位階勲等は正四位勲二等。日本会議代表委員。アジアと日本の平和と安全を守る全国フォーラム初代会長。 新潟県糸魚川市出身。水産学校校長堀江英一の次男として生まれた。7歳から12歳まで樺太で過ごし、糸魚川中学、東京陸軍幼年学校(34期)、陸士予科を経て、陸軍士官学校を卒業(第50期、35番/426名)。旧軍時代は歩兵科士官で、太平洋戦争中に陸軍大学校を卒業し(57期)、第18軍参謀としてパプアニューギニアで終戦を迎えた。 終戦後、1946年(昭和21年)3月に復員し、妻の郷里宮崎県日南市で林業に従事した後、警察予備隊及び保安隊を経て陸上自衛隊で勤務。
樫出 勇(かしいで いさむ、1915年〈大正4年〉2月 - … 樫出 勇(かしいで いさむ、1915年〈大正4年〉2月 - 2004年〈平成16年〉6月)は、陸軍軍人、戦闘機操縦者。最終階級は陸軍大尉。新潟県刈羽郡北条村(現・柏崎市)出身。 ノモンハン事件および太平洋戦争末期の本土防空戦において活躍し、B-29爆撃機に対する通算最多撃墜記録を有する。陸軍のエースパイロットである。 日本陸軍とソ連空軍の間に起こったノモンハン航空戦に樫出は参戦しており、5機以上を撃墜する戦果を挙げた。20機以上を撃墜したノモンハンエースは23名おり、その中で篠原弘道准尉、井上重俊大尉、西原吾郎軍曹、3名は九七式戦闘機を駆り戦った撃墜王として有名である。篠原弘道准尉は戦死したが、3ヶ月で58機を撃墜した。
山岸 宏(やまぎし ひろし、1908年(明治41年)9月20… 山岸 宏(やまぎし ひろし、1908年(明治41年)9月20日 - 没年不明)は、日本の海軍軍人。最終階級は中尉。妻は皇族賀陽宮家の従姉妹あや子。 新潟県出身(高田市東城町を経て、現上越市東城町)。名士の家に7人キョウダイの次男として生まれ、父の宏隆は日露戦争に出征した陸軍歩兵大尉で、在郷軍人高田分会長や新潟県会議員を2期、副県会議長も歴任した。姉の多嘉子は従軍記者として日中戦争に赴いた後、北支で宣撫教育に携わった。新潟県立高田中学校(現新潟県立高田高等学校)を経て、陸士海士ともに合格、父が山岸家伝来の刀を手に日露戦争に従軍して敵が恐れをなしたことに憧れ、短剣生活を夢に1928年(昭和3年)3月、海軍兵学校(56期)を卒業。
稲葉正夫(いなば まさお、1908年〈明治41年〉5月1日 … 稲葉正夫(いなば まさお、1908年〈明治41年〉5月1日 - 1973年〈昭和48年〉10月10日)は、日本の陸軍軍人、戦史研究家。最終階級は陸軍中佐。
伊藤 茂(いとう しげる、1904年(明治37年) - 19… 伊藤 茂(いとう しげる、1904年(明治37年) - 1944年(昭和19年)11月21日)は、海軍軍人、海軍大佐。 新潟県村上市出身。海軍兵学校第52期。 1944年、戦艦「金剛」に乗り組み、台湾沖にて戦死をとげた。 この項目は、軍事上の人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:軍事、プロジェクト:軍事史/Portal:軍事)。
長嶺 喜一(ながみね きいち、明治28年(1895年)6月2… 長嶺 喜一(ながみね きいち、明治28年(1895年)6月2日 - 昭和20年(1945年)11月15日)は、大正、昭和期の日本の陸軍軍人。新潟県頸城郡寺野村東山寺(現在の新潟県上越市板倉区)出身。陸士28期・陸大36期。最終階級は陸軍中将。 明治28年(1895年)6月2日、新潟県頸城郡寺野村(現在の上越市板倉区)に三男三女の長男として生まれる。喜一は、明治35年(1902年)4月寺野村立久々野尋常高等小学校に入学、同41年(1908年)同校を卒業し、有恒学舎(現在の新潟県立有恒高等学校)に入学する。往復四里の道を通学、帰宅後は農業を手伝うなどの努力家であり、周囲からは大変な頑張り屋として知られていた。
岩淵 三次(いわぶち さんじ、1895年〈明治28年〉3月2… 岩淵 三次(いわぶち さんじ、1895年〈明治28年〉3月2日 - 1945年〈昭和20年〉2月26日)は、日本の海軍軍人。海兵43期。最終階級は海軍中将。 新潟県南蒲原郡三条町(現三条市)出身。旧制新潟県立三条中学校より海軍兵学校第43期入校。入校時成績順位は100名中第26位、卒業時成績順位は96名中第13位。海軍砲術学校高等科を卒業後は砲術畑を歩んだ。 1942年4月20日、戦艦「霧島」の艦長に着任し、ミッドウェー海戦、第2次ソロモン海戦、南太平洋海戦に参加。第3次ソロモン海戦では米戦艦「ワシントン」、「サウスダコタ」等と乱戦状態になり、舵を損傷した「霧島」は自沈、岩淵は救助され生還した。
田中 菊松(たなか きくまつ、1895年(明治28年)1月2… 田中 菊松(たなか きくまつ、1895年(明治28年)1月27日 - 1964年(昭和39年)10月7日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 新潟県出身。1915年(大正4年)12月、海軍兵学校43期を卒業。席次は95名中42位。1916年(大正5年)12月、海軍少尉に任官。砲術学校高等科で学んだ。1922年(大正11年)12月、駆逐艦「浦風」砲術長。1925年(大正14年)12月、砲術学校教官兼副官を経て、1929年(昭和4年)11月、海軍大学校(甲種27期)を卒業。 1930年(昭和5年)12月、砲術学校教官、兼水雷学校教官、兼装甲巡洋艦「春日」教官、兼通信学校教官となり、重巡洋艦「青葉」砲術長を経て、1933年(昭和8年)11月、海軍中佐に進級し、連合艦隊参謀、兼第一艦隊参謀に就任。
大橋 熊雄(おおはし くまお、1894年(明治27年)11月… 大橋 熊雄(おおはし くまお、1894年(明治27年)11月20日 - 1944年(昭和19年)4月14日)は、大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。駐蒙軍政治参謀。愛知大学の森久男は、蒙古連合自治政府の成立にあたって大橋が、「陸軍省との渉外事項を担当して、蒙疆地域の政治的統合に決定的役割を果たした」と指摘している。 1914年(大正3年)、新潟県立長岡中学校(第19回卒業)を経て、1917年(大正6年)、陸軍士官学校(第29期)を卒業した。1927年(昭和2年)、陸軍大学校を卒業(第39期)する。 1936年(昭和11年)二・二六事件の軍事裁判官を務める。関東軍参謀に就任。1938年(昭和13年)に駐蒙兵団参謀に転任となる。
今川 一策(いまがわ いっさく、1894年(明治27年)5月… 今川 一策(いまがわ いっさく、1894年(明治27年)5月15日 - 1977年(昭和52年)12月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 新潟県出身。新潟中学校(現新潟県立新潟高等学校)を経て、1916年(大正5年)5月、陸軍士官学校(28期)を卒業。同年12月、騎兵少尉に任官し騎兵第21連隊付となる。1920年(大正9年)4月、騎兵中尉に昇進した。 1922年(大正11年)2月から10月まで陸軍航空学校操縦学生となる。同年11月、飛行第1大隊付に発令され、1924年(大正13年)11月、下志津陸軍飛行学校教官に異動し、1925年(大正14年)5月、兵科を航空兵に転じ航空兵中尉となる。
小柳 冨次(こやなぎ とみじ、1893年(明治26年)7月1… 小柳 冨次(こやなぎ とみじ、1893年(明治26年)7月16日 - 1978年(昭和53年)4月23日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 新潟県豊栄市(現・新潟市北区)出身。小柳杢次の長男として生れる。新発田中学校を経て、1914年(大正3年)12月、海軍兵学校(42期)を卒業し、1915年(大正4年)12月、海軍少尉に任官。海軍水雷学校高等科で学ぶ。「槇」乗組、「第7号駆逐艦」(松風)水雷長などを歴任し、1926年(大正15年)11月、海軍大学校(甲種24期)を卒業。 第3戦隊参謀、「若竹」艦長、海兵教官、第2水雷戦隊参謀、海軍水雷学校教官、海軍省教育局第2課局員、第1駆逐隊司令、海大教官、「磐手」艦長、第8駆逐隊司令、水雷学校教頭、「愛宕」艦長などを歴任し、「金剛」艦長として太平洋戦争を迎えた。
松下 芳男(まつした よしお、1892年〈明治25年〉5月4… 松下 芳男(まつした よしお、1892年〈明治25年〉5月4日 - 1983年〈昭和58年〉4月9日)は、日本陸軍の軍人(陸軍中尉)・軍事評論家・軍事史家。「明治軍制史論」で法学博士(東京大学)。新潟県新発田町(新発田市)出身。 祖父は越後長岡藩藩士、父は陸軍少佐松下亀蔵である。松下はその長男として生まれる。松下の長男は東京大学教授。小学校時代の友人の兄に大杉栄がおり、大杉の死の直前まで交友があった。新発田中学、仙台陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て、大正2年(1913年)に陸軍士官学校を卒業(25期)。士官学校の同期には武藤章・富永恭次・田中新一らがいる。 同年、陸軍歩兵少尉となり、弘前の歩兵第52連隊に配属される。
玉田 美郎(たまだ よしお、1891年9月23日 - 198… 玉田 美郎(たまだ よしお、1891年9月23日 - 1989年8月16日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。新潟県糸魚川市出身。法学者の玉田弘毅は息子。 歩兵大隊長のときに短期の戦車補備教育をうけ、戦車第4大隊付として一年余勤務して歩兵にもどり、また昭和11年、陸軍戦車学校で師団軽装甲車要員の教官となって、以後戦車拡張期における部隊長たるべき人の標準的コースを歩んだ。 ノモンハン事件において独立混成第1旅団麾下の戦車第4連隊連隊長として戦史上初の装甲部隊による大規模な戦車夜襲を決行した。 1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた。
角田 覚治(かくた かくじ、1890年(明治23年)9月23… 角田 覚治(かくた かくじ、1890年(明治23年)9月23日 - 1944年(昭和19年)8月2日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。テニアン島で戦死。 1890年(明治23年)9月23日、新潟県南蒲原郡槻田村字諏訪新田(現・三条市諏訪)で農家の父角田利八と母角田ソメの七人兄弟(兄1人妹2人弟3人)の二男に生まれる。1908年3月、旧制三条中学校(現:新潟県立三条高校)卒業。在学中に新潟港遠足に行った折見た海軍士官に憧れて受験し、1908年(明治41年)9月14日、海軍兵学校第39期生として入校した。入校時の席次は150人中102番。1911年(明治44年)7月18日、148人中45番の成績で卒業。
鈴木 謙二(すずき けんじ、1889年(明治22年)11月1… 鈴木 謙二(すずき けんじ、1889年(明治22年)11月16日 - 1948年(昭和23年)2月25日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功三級。 新潟県岩船郡村上本町(現・村上市)出身。陸軍士官学校第23期、陸軍大学校第34期卒業。1921年(大正10年)4月に陸軍歩兵大尉に進級し、1926年(大正15年)8月に陸軍歩兵学校教官兼同校研究部部員陸軍大学校兵学教官に就任した。1927年(昭和2年)5月に陸軍歩兵少佐に進級し、同年8月に陸軍大学校兵学教官専任となり、1930年(昭和5年)12月に近衛歩兵第1連隊附に移り、1931年(昭和6年)6月に陸軍歩兵中佐に進級した。1932年(昭和7年)4月に第10師団参謀に転じ、満州事変に出動。
五十嵐 恵(いがらし めぐみ、1889年(明治22年)5月2… 五十嵐 恵(いがらし めぐみ、1889年(明治22年)5月24日 - 1927年(昭和2年)8月24日)は、日本の海軍軍人。美保関事件で殉職した「蕨」駆逐艦長である。最終階級は海軍中佐。 新潟県中頸城郡旭村(現・新潟県上越市)の豪農で郡議会議員を務めた五十嵐正綱の次男。高田中学、長岡中学を経て、1908年(明治41年)に海軍兵学校へ進んだ。五十嵐は海兵39期で、伊藤整一、角田覚治、和田操らが同期生である。席次は入校時150名中40番、卒業時148中92番。1912年(大正元年)12月少尉任官。駆逐艦乗組み、「矢矧」水雷長、「白露」駆逐艦長などを経て海軍大学校入校。甲種24期で、学生長は原忠一。山口多聞、福留繁、草鹿龍之介ら総勢20名であった。
本間 雅晴(ほんま まさはる、1887年(明治20年)11月… 本間 雅晴(ほんま まさはる、1887年(明治20年)11月27日 - 1946年(昭和21年)4月3日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。栄典は従三位勲一等。陸士19期恩賜・陸大27期恩賜。 太平洋戦争においてフィリピン攻略戦を指揮した。英国通の人道主義者であったことは連合国にも知られていたが、バターン死の行進における部下の行為の責任を問われて戦後銃殺刑に処された。 本間賢吉の長男として新潟県佐渡郡畑野町(現:佐渡市畑野)に生れる。佐渡中学を経て陸軍士官学校に進んだ。1907年(明治40年)、陸軍士官学校(19期)を恩賜(歩兵科2位)で卒業。1915年(大正4年)には陸軍大学校(27期)を恩賜(3位)で卒業。
佐藤 正四郎(さとう せいしろう、1886年(明治19年)1… 佐藤 正四郎(さとう せいしろう、1886年(明治19年)10月25日 - 1958年(昭和33年)7月7日)は、日本の海軍軍人。二・二六事件において、東京に出動した海軍陸戦隊の指揮官を務めた。最終階級は海軍少将である。 新潟県出身。長岡中学から海軍兵学校に進む。病気のため留年し、37期生として卒業した。席次は179人中172番。同期生に井上成美、草鹿任一、小澤治三郎らがいる。 尉官時代は「三笠」、「日進」、「春風」、「明石」、「朝日」、「榛名」乗組。大尉進級後「生駒」分隊長、「伊勢」艤装員、「陸奥」副砲長、「大井」砲術長の艦船勤務の他、海軍砲術学校及び海軍水雷学校普通科学生を修了した。 少佐に昇進後、「長良」、「日向」及び「長門」の各砲術長、「榛名」及び「赤城」の各副長。
江坂 徳蔵(えさか とくぞう、1885年〈明治18年〉10月… 江坂 徳蔵(えさか とくぞう、1885年〈明治18年〉10月4日 - 1964年〈昭和39年〉8月14日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍機関少将。新潟県高田市長。 新潟県中頸城郡高田町(のち高田市、現・上越市)生まれ。旧制高田中学(現・新潟県立高田高等学校)卒業後、海軍機関学校に入り、1911年(明治44年)卒業する(16期)。戦艦「山城」機関長などを歴任し、1927年(昭和2年)、海軍機関大佐に進級、第3戦隊、練習艦隊、第2艦隊、連合艦隊の各機関長を務め、1933年(昭和8年)海軍機関少将に進級、燃料廠平壌鉱業部長に就任し、1936年(昭和11年)3月、予備役となった。同年7月4日、郷里の高田市長に就任した。
山本 孝治(やまもと こうじ、1885年(明治18年)6月1… 山本 孝治(やまもと こうじ、1885年(明治18年)6月18日 ‐ 1934年(昭和9年)7月27日)は日本の検察官(海軍法務官)、海軍軍属。五・一五事件を検察官として担当した。 新潟県三島郡来迎寺村(現・長岡市)に生まれる[要出典]。新潟県立長岡中学校から旧制第三高等学校に進学した。長岡中学校では山本五十六の1学年下だったという。1911年に東京帝国大学法科大学を卒業した。 1912年4月に新潟県属として出仕の後、1915年10月に高等文官試験に合格した。1917年3月に海軍省主理試補・舞鶴鎮守府軍法会議付となる。1932年2月、東京軍法会議検察官となり、五・一五事件を担当する。 五・一五事件においては、当時、政府の汚職から犯行に至った海軍将校に対する寛大な措置をもとめる世論が起こっていた。
山本 五十六(やまもと いそろく、1884年〈明治17年〉4… 山本 五十六(やまもと いそろく、1884年〈明治17年〉4月4日 - 1943年〈昭和18年〉4月18日)は、日本の海軍軍人。最終階級は元帥海軍大将。栄典は正三位大勲位功一級。真珠湾攻撃を指揮した。 新潟県長岡出身。旧姓は高野(たかの)。海兵32期、海大甲種14期。第26、27代連合艦隊司令長官。前線視察の際、ブーゲンビル島の上空で戦死(海軍甲事件)。日本において皇族・華族以外で、国葬を受けた最初の人物である。 1884年(明治17年)4月4日、新潟県古志郡長岡本町玉蔵院町(現在の長岡市坂之上町3丁目付近)で、旧越後長岡藩士(120石)・高野貞吉の六男として誕生する。当時の父親の年齢から「五十六(いそろく)」と名付けられた。
飯田 貞固(いいだ さだかた、1884年(明治17年)2月1… 飯田 貞固(いいだ さだかた、1884年(明治17年)2月18日 - 1977年(昭和52年)9月15日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 新潟県刈羽郡山横沢村(小国村、小国町を経て現長岡市)出身。山横沢村長・飯田貞一の長男として生れる。組合立小国高等小学校、仙台陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1905年(明治38年)3月、陸軍士官学校(17期)を卒業。翌月、騎兵少尉に任官し近衛騎兵連隊付となる。騎兵第22連隊付などを経て、1912年(大正元年)11月、陸軍大学校(24期)を卒業した。 1913年(大正2年)12月、参謀本部付勤務となり、独立第18師団副官として青島の戦いに参加。1914年(大正3年)11月、青島守備軍参謀に就任。
太田 質平(おおた しちへい、1883年〈明治16年〉6月1… 太田 質平(おおた しちへい、1883年〈明治16年〉6月16日 - 1941年〈昭和16年〉6月16日)は、日本の海軍軍人。日本海軍軍人の標語であった『スマートで目先が利いて几帳面 負けじ魂 これぞ船乗り』を創ったといわれる人物である。最終階級は海軍少将。 新潟県出身。妻は海軍中将野元綱明の娘。長岡中学などを経て海軍兵学校32期を卒業。席次は入校時190名中144番、卒業時192名中13番。堀悌吉、吉田善吾、嶋田繁太郎、山本五十六などが同期生である。「韓崎丸」乗組みとして候補生教育を受け、「笠置」(艦長山屋他人)乗組みとして日本海海戦に参戦した。 大尉進級後、練習艦「宗谷」分隊長として遠洋航海で海兵37期の少尉候補生を指導。
及川 古志郎(おいかわ こしろう、1883年〈明治16年〉2… 及川 古志郎(おいかわ こしろう、1883年〈明治16年〉2月8日 - 1958年〈昭和33年〉5月9日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。 岩手県出身(出生地は新潟県古志郡)。海兵31期・海大13期。第2次近衛内閣・第3次近衛内閣で海軍大臣。第18代軍令部総長。 1883年(明治16年)2月8日、新潟県古志郡で医師・及川良吾の長男として生まれる(本籍は岩手)。母親は大島高任の長女。初めは「越郎」といったが、後に生誕地から「古志郎」と改名した。 岩手県で育ち、同県内の小学校を経て、盛岡中学校(現:岩手県立盛岡第一高等学校)に進学した。及川は野村胡堂や金田一京助、田子一民ら同窓生に勧められるままに、長詩・短歌を盛んに寄稿していた。
玉木 信助(たまき しんすけ、別表記:玉木 信介、1883年… 玉木 信助(たまき しんすけ、別表記:玉木 信介、1883年〈明治16年〉 - 1905年〈明治38年〉9月11日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少尉。 新潟県南蒲原郡三条一之町(現 三条市本町3丁目)の呉服商・玉木善作の四男として出生。新潟中学校に学び、同級生に青木得三、安倍邦太郎、伊藤精司、白勢量作などがいた。 1901年(明治34年)3月に新潟中学校で4年を修了後、4月に東京の日比谷中学校に入学、7月7日から8月2日にかけての海軍兵学校(32期)の生徒召募試験に及第して12月16日に入校、同期に同郷の山本五十六がいた。 1904年(明治37年)11月14日に日露戦争のため海軍兵学校を1カ月繰り上げ卒業、同日に海軍少尉候補生を命じられ、卒業試験に落第した西村七三郎を除く同期190名と「韓崎丸」に乗艦して練習に従事。
伊藤 精司(いとう せいじ、1882年〈明治15年〉3月1日… 伊藤 精司(いとう せいじ、1882年〈明治15年〉3月1日 - 1964年〈昭和39年〉6月22日)は、日本陸軍の軍人。階級は陸軍少将。武道の称号は大日本武徳会銃剣術範士、剣道教士。流派は直心影流。 陸軍戸山学校教官、富山連隊区司令官、歩兵第45連隊長、陸軍憲兵学校教授、拓殖大学専門部武徳科長を歴任した。 新潟県生まれ。1897年(明治30年)新潟中学校に入学後、直心影流を学ぶ。1905年(明治38年)3月、陸軍士官学校(17期)を卒業し、同年4月、歩兵少尉に任官。その後、陸軍きっての名剣士となる。 1929年(昭和4年)、御大礼記念天覧武道大会指定選士の部に出場。予選リーグで大麻勇次、小関教政、早坂広道と戦い、小関に敗れ2勝1敗。
竹垣 純信(たけがき すみのぶ/じゅんしん、1881年(明治… 竹垣 純信(たけがき すみのぶ/じゅんしん、1881年(明治14年)2月 - 1917年(大正6年)6月11日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍機関中佐。第一次世界大戦で地中海に派遣された第二特務艦隊の第11駆逐隊機関長として戦死した。 新潟県出身。父・竹垣純一は越後長岡藩士で、戊辰戦争で武名があった。長岡中学在学中、父が事業に失敗し竹垣家は経済的苦境に陥る。竹垣は苦学団を頼ることとなり徒歩で東京へ向かった。逓信省雇いとなって自ら学資を稼ぎ、成城学校から海軍機関学校へ進む。1904年(明治37年)卒業(12期)。 海軍少機関士(少尉相当官)に任官し、「吾妻」乗組みとして日露戦争に参戦。第3艇隊附、「須磨」・「厳島」乗組み、「橋立」・「香取」・「吾妻」の各分隊長を務めたほか、海軍水雷学校を修了している。
小川 恒三郎(おがわ つねさぶろう、1881年(明治14年)… 小川 恒三郎(おがわ つねさぶろう、1881年(明治14年)1月16日 - 1929年(昭和4年)8月14日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 新潟県中頸城郡、のちの原通村中島(現妙高市)で、小川又三郎、さい夫妻の息子として生まれる。陸軍中央幼年学校を経て、1902年(明治35年)11月、陸軍士官学校(14期)を卒業。1903年(明治36年)6月、歩兵少尉に任官し歩兵第36連隊付となる。1904年(明治37年)4月から1906年(明治39年)1月まで日露戦争に出征。1911年(明治44年)11月、陸軍大学校(23期)を卒業した。 1911年12月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員、近衛師団参謀、イタリア駐在を務め、1916年(大正5年)5月、歩兵少佐に昇進した。
建川 美次(たてかわ よしつぐ、1880年〈明治13年〉10… 建川 美次(たてかわ よしつぐ、1880年〈明治13年〉10月3日 - 1945年〈昭和20年〉9月9日)は、日本の陸軍軍人、外交官。最終階級は陸軍中将。栄典は勲一等功四級。 新潟県出身。陸士13期、陸大21期。日露戦争時に騎兵科士官として奉天会戦の勝利に貢献する。参謀本部第二部長、参謀本部第一部長、第10師団長、第4師団長を経て、二・二六事件後に予備役編入され、松岡洋右外相の下で更迭された東郷茂徳に代わり駐ソビエト連邦大使に就任した。宇垣一成の側近であり、三月事件にも参加している。 現在の新潟県新潟市で地方官吏・野崎美孝の三男として生まれ、同地方官吏・建川周平の養嗣子となる。高田中学校を経て旧制新潟中学校卒。
山縣 初男(やまがた はつお、1873年〈明治6年〉8月31… 山縣 初男(やまがた はつお、1873年〈明治6年〉8月31日 - 1971年〈昭和46年〉1月11日)は、日本陸軍の軍人・著述家・中国文学研究者・翻訳家。別号は三志園、海城。最終階級は陸軍大佐。陸軍の中国通(支那通)の一人として知られ、繆斌工作に関与していた。娘婿は自由民主党の政治家である三原朝雄。新潟県村上本町表新町(現・村上市)に生まれる。 旧士族・山縣正升の長男として生まれる。村上私学校を中退して陸軍教導団歩兵科に入り、1894年(明治27年)3月に卒業。歩兵二等軍曹として日清戦争に参戦した。1898年(明治31年)12月、士官候補生となり、陸軍士官学校(12期)に入学(同期に小磯國昭らがいる)。
野沢 悌吾(野澤 悌吾、のざわ ていご、1870年5月6日〈… 野沢 悌吾(野澤 悌吾、のざわ ていご、1870年5月6日〈明治3年4月6日〉 - 1945年〈昭和20年〉8月5日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。位階勲等は従四位勲三等。 新潟県平民・野澤瀧右衛門の長男として生まれ、1901年(明治34年)2月に家督を相続した。 1891年(明治24年)陸軍士官学校第2期卒業。1899年(明治32年)陸軍大学校第13期卒業。 1904年(明治37年)3月、袁世凱に招聘され清に渡る。1910年(明治43年)11月に陸軍歩兵大佐・歩兵第30連隊長、1912年(大正元年)11月に第2師団参謀長を経て、1916年(大正5年)4月に陸軍少将・歩兵第14旅団長に任官。
星野 庄三郎(ほしの しょうざぶろう、1869年6月15日(… 星野 庄三郎(ほしの しょうざぶろう、1869年6月15日(明治2年5月6日) - 1931年(昭和6年)1月22日)は、日本の陸軍軍人。陸士2期、陸大14期。栄典は従三位勲一等功三級。最終階級は陸軍中将。 新潟県小千谷町(現小千谷市)出身。1891年(明治24年)7月、陸軍士官学校(2期)を卒業。翌年3月、工兵少尉任官。1900年(明治33年)12月、陸軍大学校(14期)を卒業。陸軍省軍務局軍事課勤務となる。 日露戦争に満州軍総司令部参謀として出征。1908年(明治41年)12月、工兵第18大隊長となり、1910年(明治43年)11月、工兵大佐に昇進。1912年(大正元年)9月、参謀本部要塞課長に就任。
高橋 直武(たかはし なおたけ、1869年4-5月(明治2年… 高橋 直武(たかはし なおたけ、1869年4-5月(明治2年3月) - 1929年(昭和4年)6月21日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。位階および勲等、軍功は従四位・勲三等・功四級。 新潟県頚城郡高田町(現在の上越市)出身。1891年(明治24年)陸軍士官学校第2期卒業。 1916年(大正5年)11月に陸軍歩兵大佐・中津連隊区司令官を経て、1917年(大正6年)8月に歩兵第14連隊長(第12師団、歩兵第12旅団)に任官し、シベリア出兵に従軍。ハバロフスクおよびブラゴベシチェンスクを占領した。ついで1921年(大正10年)6月に陸軍少将に進級と同時に待命、同年10月に予備役に編入した。
渡辺 兼二(渡邉、わたなべ けんじ、1866年2月11日〈慶… 渡辺 兼二(渡邉、わたなべ けんじ、1866年2月11日〈慶応元年12月26日〉 - 1928年〈昭和3年〉12月9日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍少将。新潟市長。 越後国蒲原郡一ノ木戸村(現新潟県三条市)で渡辺正友の二男として生まれる。1885年12月、陸軍教導団砲兵科に入団。1890年7月26日、陸軍士官学校(1期)を卒業、ちなみに 1890年(明治23年)7月29日の官報によると、陸軍士官学校第1期を工兵科1番/8名で卒業している。1891年3月26日、陸軍工兵少尉に任官し工兵第1大隊附となる。 日清戦争に工兵第1大隊第2中隊小隊長として出征。1895年11月、陸軍砲工学校(3期)を優等で卒業。
鈴木 荘六(すずき そうろく、1865年3月16日〈元治2年… 鈴木 荘六(すずき そうろく、1865年3月16日〈元治2年2月19日〉- 1940年〈昭和15年〉2月20日)は、日本陸軍の軍人。陸軍大将正二位勲一等功二級。第4代帝国在郷軍人会長。
豊辺 新作(とよべ しんさく、1862年6月23日(文久2年… 豊辺 新作(とよべ しんさく、1862年6月23日(文久2年5月26日) - 1927年(昭和2年)3月22日)は、日本の陸軍軍人。日清戦争で鳳凰城攻略一番乗りを果たし、日露戦争では沈旦堡を死守した騎兵将校である。最終階級は陸軍中将。 豊辺は長岡洋学校、陸軍幼年学校を経て1882年(明治15年)に陸軍士官学校を卒業した、旧5期生の一人である。騎兵第一大隊附、教導団騎兵中隊小隊長、三本木軍馬補充部勤務を経て騎兵第五大隊第一中隊長として日清戦争に出征する。平素の豊辺は周囲に無能と思われており、大尉に進級したものの、予備役入りは近いと考えられていた。しかし豊辺は実戦においてその評価を一変させる。 騎兵第五大隊第一中隊は大島義昌が率いる第九旅団に属したが、この旅団は日清の開戦に備えて最初に動員された部隊であり、仁川に上陸し1894年(明治27年)7月25日に行動を開始する。
入沢 恭平(いりさわ きょうへい、旧字体: 入澤 恭平 18… 入沢 恭平(いりさわ きょうへい、旧字体: 入澤 恭平 1831年7月18日(天保2年6月10日) - 1874年(明治7年)1月10日)は、幕末・明治初期の在野の洋方医教育者、陸軍軍医。 幼名は恭助、字は尊典、号は松塢。初代東京帝国大学医学部綜理(初代の東京大学医学部長に相当)である池田謙齊の兄。入沢達吉は息子。 越後国蒲原郡中之島村西野(現・新潟県長岡市)に生まれる。蘭方医学者が縁戚に複数いたことで医学を志した(弟の池田謙斎も同様)。江戸に出て蘭医学者の戸塚静海と土生玄昌に教えを受ける。その後、万延元年(1860年)に長崎に赴いて、ポンペから医学を教授された。この長崎滞在中に記した日記が残されている。
原 直行(はら なおゆき)は、明治時代初期の海軍・陸軍軍人・… 原 直行(はら なおゆき)は、明治時代初期の海軍・陸軍軍人・警視隊幹部。海軍少佐・陸軍中尉を歴任し、のち三等大警部として西南戦争に従軍した人物。勲六等受章者。 原直行は元・新潟士族で、柏崎の人。維新後は新政府の軍制整備の中で海軍士官として登用され、明治5年(1872年)には海軍大尉に任じられ、正七位を授けられた。 明治6年(1873年)6月には海軍少佐へ進み、砲兵隊長を命じられている。翌・明治7年には業務上の不都合により3日間の謹慎処分を受けた記録が残る。 その後、原は陸軍および警察機構へ転じ、明治10年(1877年)3月2日には陸軍中尉兼三等大警部となった。 同年、西南戦争が勃発すると、自身が三等大警部として率いる警視隊400名とともに戦地へ向かい、3月26日に八代へ入港した。
古木 秀太郎(ふるき ひでたろう、慶応3年12月13日(18… 古木 秀太郎(ふるき ひでたろう、慶応3年12月13日(1868年1月7日)– 1948年(昭和23年)2月2日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。群馬県高崎市長。 越後国中頸城郡三郷村出身。1887年(明治20年)、陸軍教導団砲兵科課程を卒業。1893年(明治26年)に陸軍士官学校を卒業し、翌年に歩兵少尉に任官した。第2師団副官、高崎連隊区司令官を経て、1913年(大正2年)に歩兵大佐・歩兵第15連隊長に任じられた。1918年(大正7年)に陸軍少将に昇進し、待命となった。 1919年(大正8年)、予備役に編入され、高崎市長に選出された。 1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた。