加納 莞蕾(かのう かんらい、1904年3月1日 - 197… 加納 莞蕾(かのう かんらい、1904年3月1日 - 1977年8月15日)は、日本の画家、政治家。本名辰夫。莞蕾は雅号。島根県能義郡布部村(現在の安来市広瀬町布部)出身。マニラ軍事裁判により戦後フィリピンの刑務所に収容されていた日本人戦犯の釈放に尽力したことで知られる。 1926年(大正15年)に上京して川端画学校および本郷洋画研究所に入り、岡田三郎助に師事し、前田寛治・佐伯祐三らと交友を深めた。 1931年(昭和6年)の第1回独立美術協会展に出品し、入選を重ねた。1932年から1937年まで島根県那賀郡浜田町(現在の浜田市)原井尋常高等小学校(現在の浜田市立原井小学校)に赴任し、訓導として児童の指導にあたるかたわら、中尾彰らと本格的な洋画研修会を開き、東京から中山巍を招いて指導を仰いだ。
12代 桜井 三郎右衛門(さくらい さぶろうえもん、明治36… 12代 桜井 三郎右衛門(さくらい さぶろうえもん、明治36年(1903年)12月9日 - 平成3年(1991年)3月24日)は、日本の実業家、政治家。旧姓は大村、幼名は泰吉。桜井家第12代当主。 実父は実業家大村貞蔵、実兄は実業家大村義雄。 島根県簸川郡大社町(現出雲市)大村家に生まれ、大社中学を卒業して桜井家の養子となった。 島根県信用農協連、中央農協連、同信連各会長、県農業会議員、仁多郡町村会長、同畜産、同農業雲南漁業各組合長、仁多町長、島根県日産販売(株)、山陰酸素工業(株)各社長等を歴任。
錦織 清治(にしきおり せいじ、1903年(明治36年)10… 錦織 清治(にしきおり せいじ、1903年(明治36年)10月1日 - 1969年(昭和44年)6月17日)は日本の金属工学者。 島根県出雲市出身。1928年(昭和3年)、東北帝国大学工学部金属工学科を卒業する。1934年(昭和9年)に東北帝大工学部助教授に就任。 1935年(昭和10年)に大同製鋼に入社する。その間に、特殊水処理薬剤による鉄鋼防食、均質鋳造法(HOC法)、取鍋レンガの侵蝕、熔鋼に及ぼす耐火物の影響、高アルミナ質電気炉炉蓋煉瓦、低ニッケル高マンガンステンレス鋼、熱処理用連続炉、バルブ鋼、不消化石灰の実用試験などについての研究に従事する。 大同製鋼取締役、研究所長などを経て、1962年には大同工業短期大学、1964年(昭和39年)には大同工業大学(現・大同大学)の初代学長に就任した。
今井 忍(いまい しのぶ、1903年9月26日 - 1976… 今井 忍(いまい しのぶ、1903年9月26日 - 1976年)は、日本の会計学者。 島根県松江市出身。1931年東京商科大学卒。1962年「原価管理の基礎理論と生産技術との関連性に関する研究」で中央大学商学博士。1937年三菱化成工業勤務、1942年海軍省嘱託、日本原価計算協会常務理事、1946年物価庁参与、経済安定本部委員、1949年千葉工業大学教授、1951年中央大学教授、1963年成蹊大学教授。1975年退職。
田畑 修一郎(たばた しゅういちろう、本名:田畑 修蔵(たば… 田畑 修一郎(たばた しゅういちろう、本名:田畑 修蔵(たばた しゅうぞう)、1903年(明治36年)9月2日 - 1943年(昭和18年)7月23日)は、島根県出身の作家。代表作は1933年に発表し、芥川賞候補にもなった『鳥羽家の子供』。 島根県美濃郡益田町(現益田市)に生まれる。3歳の時に母が病死、9歳の時に銀行支店長だった父も自殺し、旅館を営む田畑キクの養子になる。早稲田大学英文科に入学するも中退。その後、宇野浩二に師事する。また、火野葦平・寺崎浩・丹羽文雄らと「街の会」を作り、同人雑誌『街』を創刊する。 1933年に自伝的創作『鳥羽家の子供』を発表。『鳥羽家の子供』は、芥川賞の候補作となり、同じく候補作であった中山義秀の『厚物咲』と競うも落選する。
三原 スヱ(みはら スヱ、1903年〈明治36年〉9月1日 … 三原 スヱ(みはら スヱ、1903年〈明治36年〉9月1日 - 1986年〈昭和61年〉7月8日)は、日本の社会事業家。四国唯一の女子専門少年院「丸亀少女の家」(香川県丸亀市)の創設者にして初代院長である。終戦直後に戦災孤児の少女を引き取ったことを皮切りとして、私費を投じて更生施設として「少女の家」を開設、約800人の少女の保護と更生に尽くした。更生保護施設「和光園」により、出院後の少女たちのアフターケアにも努めた。晩年は研修宿泊施設「瀬戸青少年会館」を設立して、青少年育成のために尽力した。別表記は三原スエ、三原すゑ、三原寿恵など。 島根県益田町(現・益田市)で誕生した。幼少時に両親が離別して、母子家庭に育った。
矢田 恒久(やだ つねひさ、1903年8月13日 - 199… 矢田 恒久(やだ つねひさ、1903年8月13日 - 1991年12月27日)は、日本の経営者。第一生命保険社長、会長を務めた。 島根県出雲市出身。1928年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に第一生命保険に入社した。1946年7月に総務部長に就任し、取締役、常務、専務を経て、1959年5月に副社長に就任し、1964年5月に社長に昇格した。1970年5月に会長に就任し、京王帝都電鉄監査役も務めた。 1968年10月に藍綬褒章を受章し、1974年4月に勲二等瑞宝章を受章した。 1991年12月27日、呼吸不全のために死去。87歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
岩谷 直治(いわたに なおじ、1903年3月7日 - 200… 岩谷 直治(いわたに なおじ、1903年3月7日 - 2005年7月19日)は、日本の実業家。LPガスと産業ガスを基幹事業とし、機械、マテリアルなど幅広い分野で事業を展開する商社、岩谷産業株式会社の創業者。家庭用プロパンガス(LPガス)を全国に普及させた功績から「プロパンの父」と慕われた。水素エネルギー社会への先鞭をつけたと評されている。1985年勲二等瑞宝章。2005年従四位叙位。 岩谷直治は、1903年3月7日、島根県安濃郡長久村(現・大田市)に、父 邦吉郎と母 ミサの五男として生まれた。五男五女の男の末っ子だったので可愛がられたが、時には厳しく躾けられた。1907年大田農業学校(現 島根県立大田高等学校)を卒業。
近藤 英明(こんどう ひであき、1902年8月19日 - 1… 近藤 英明(こんどう ひであき、1902年8月19日 - 1991年10月27日)は、日本の内務官僚、国会職員。参議院草創期の1949年から1953年までの間、参議院事務総長を務めた。 島根県松江市出身。1927年に東京帝国大学法学部政治科を卒業し、内務省に入省。1931年12月に貴族院書記官に任ぜられ、以後、貴族院事務局で委員課長、議事課長、庶務課長を務めた。 この間、1935年の天皇機関説事件の際には、菊池武夫男爵による政府に対する緊急質問の通告を聞いた美濃部達吉から一身上の弁明のための発言通告を受け、近藤は恩師でもある美濃部に対し、一身上の弁明をせずに黙殺する方が賢明であり、菊池男爵のような右翼議員はいかによく説明しても納得するわけはなく、菊池が屈服したとしても背後の右翼勢力を刺激するだけである旨を伝えたが、美濃部は「お前の言うところは十分わかる。
石丸 重治(いしまる しげはる、1902年(明治35年)5月… 石丸 重治(いしまる しげはる、1902年(明治35年)5月12日 - 1968年(昭和43年)12月12日)は、美術評論家。慶應義塾大学教授(法科)。 島根県出身。叔父に柳宗悦 。1915年(大正4年)、府立一中(現・都立日比谷高校)に入学したが半途(中途)退学。1927年(昭和2年)、慶應義塾大学英文科卒業。一中時代は小林秀雄や西竹一(バロン西、半途退学)、迫水久常、原奎一郎らと同期。また「青銅時代」を創刊するなど、この中学校の頃から評論に携わっていた。小林秀雄などとは、同人誌「山繭」を主宰し、また柳宗悦や吉田璋也、河井寛次郎らの民藝運動に初期には関わっている。 美術評論家として知られ、主な著作に『英国の工芸』(工政會出版部、1930年)、『英国教会本寺考』(好學社、1953年)。
佐藤 信彦(さとう のぶひこ、1902年5月11日 - 19… 佐藤 信彦(さとう のぶひこ、1902年5月11日 - 1977年2月3日)は、慶應義塾大学文学部教授などを務めた、日本の国文学者。 彦根藩出身の軍人であった父の任地だった島根県那賀郡浜田町(後の浜田市の中心部)で生まれ、宮城県立仙台第一中学校(宮城県仙台第一高等学校の前身)を経て、東京の私立日本中学校(日本学園中学校・高等学校の前身)に転じ、校長だった杉浦重剛の薫陶を受けた。1920年に卒業して、慶應義塾大学文学部予科に入学し、1924年には本科国文学科に進んで、折口信夫の指導を受け、川合貞一や田中豊蔵に学ぶ。1927年に大学を卒業して予科の国語教師に採用され、その後、1943年に藤山工業図書館の事務監督・主事、1945年から1947年にかけて工学部事務監督を兼任となり、戦中戦後の混乱期に、大学行政の一翼を担った。
山内 以九士(やまのうち いくじ、1902年3月31日 - … 山内 以九士(やまのうち いくじ、1902年3月31日 - 1972年6月3日)は、日本の野球公式記録員。日本プロ野球の規則や記録の整理・研究に貢献した人物である。本名・山内育二、後に祖名相続により山内佐助となる。 島根県松江市天神町の「山内佐助商店」の跡取りとして生まれる。山内佐助商店は1764年(明和元年)創業で、小間物問屋から始まり廻船問屋を経て、山内の誕生当時は呉服反物商だった。当主は代々「佐助」を名乗り、自身も1936年に7代目佐助を襲名している。長男にもかかわらず「育二」と名付けられたのは、養子の義兄がいたためとされる。生家は天神町および隣接する灘町に485坪の土地を持ち、祖父(5代目佐助)と父(6代目佐助)はともに地元銀行や商業会議所の要職も兼ね、松江市議会議員も務める名士で、裕福な家庭だった。
山本 栄一郎(やまもと えいいちろう、1902年(明治35年… 山本 栄一郎(やまもと えいいちろう、1902年(明治35年)3月8日 - 1979年(昭和54年)12月15日)は、日本のプロ野球選手。日本初のプロ野球球団である日本運動協会で主将を務め、後に東京巨人軍(現・読売ジャイアンツ)にも入団した。右投げ右打ちで、守備位置は投手を中心に捕手以外のほぼ全て。投法はサイドスローであった。 大の餅好きであったことから、チームメイトからは「バブさん」(バブは島根の方言で餅のこと)のあだ名で呼ばれた。 島根県松江市出身。島根商業(現・島根県立松江商業高等学校)卒業後、神戸で働いていたが、1920年(大正9年)、早稲田大学野球部OBである加藤吉兵衛(後に山陽クラウンズの総監督)の紹介で日本運動協会の入団テストを受け合格。
岩本 薫(いわもと かおる、1902年〈明治35年〉2月5日… 岩本 薫(いわもと かおる、1902年〈明治35年〉2月5日 - 1999年〈平成11年〉11月29日)は、大正・昭和の囲碁棋士。第3、4期本因坊で本因坊 薫和と号する。島根県益田市出身、広瀬平治郎八段門下。 中盤の戦いに強く、序盤はあちこちに散在する石が徐々に関連して相手に圧力をかけてくるところから「豆まき碁」と呼ばれた。 1945年の第3期本因坊戦での橋本昭宇本因坊との挑戦手合において、広島市郊外の五日市(現佐伯区五日市町)で行われた6番勝負の第2局は原爆下の対局として有名。1948年から日本棋院理事長、1954年から中央会館館長を歴任。囲碁の海外普及に尽力し、また私財を投じた岩本基金により、サンパウロ、アムステルダム、ニューヨーク、シアトルの囲碁会館設立に多大な貢献をした。
直良 信夫(なおら のぶお、1902年1月1日(戸籍上の生年… 直良 信夫(なおら のぶお、1902年1月1日(戸籍上の生年月日は1902年1月10日) - 1985年11月2日)は、日本の考古学者、動物考古学者、古生物学者、文学博士。 明石人、葛生人などの発見で知られる。また、従来の日本考古学では等閑に付されていた、遺跡から出土する骨や種子といった、動物植物の様々な遺骸を考古学的に研究し、過去の食物や環境復元を進めた。特に貝塚研究では先駆的業績をあげ、今日の動物考古学や環境考古学の礎(いしずえ)を築いた。明石市文化功労賞受賞。なお直良姓は婿養子として結婚後の姓であり、旧姓は村本。 1902年1月10日、大分県北海部郡臼杵町(現・臼杵市)に、8人姉弟の次男として生まれる。
服部 之総(はっとり しそう、1901年(明治34年)9月2… 服部 之総(はっとり しそう、1901年(明治34年)9月24日 - 1956年(昭和31年)3月4日)は、日本の歴史学者(マルクス主義歴史学・歴史哲学・現代史)。島根県浜田市金城町出身。
大野 操一郎(おおの そういちろう、1901年(明治34年)… 大野 操一郎(おおの そういちろう、1901年(明治34年)2月25日 - 1995年(平成7年)4月23日)は、日本の剣道家。段位は範士九段。雅号は雲外。国士舘大学の初代剣道部長。 島根県玉造村(現在の松江市)で代々村医をしている家の次男として生まれた。父は福間寛平、母はフサ。後年、大野藤吉・エイの養子となり大野姓となった。幼い頃から体格に恵まれ、運動神経は抜群であった。県立松江中学校で教師の芦田長一(俳優・芦田伸介の父)に剣道の手解きをうけ、持ち前の高い運動能力で頭角をあらわし、2年生で主将の腕前があると芦田にその素質を賞賛されたという。 1922年(大正11年)、東京高等師範学校(現在の筑波大学)体操科(剣道専攻)に入学。
松本 美行(まつもと よしゆき、1901年〈明治34年〉 -… 松本 美行(まつもと よしゆき、1901年〈明治34年〉 - 没年不明)は、日本の実業家、政治家。 島根県松江市生まれ。1925年、京都帝国大学経済学部を卒業。山陰合同銀行参与、山陰貯蓄銀行頭取、松江市議会議長、島根県松江市教育委員会委員長などをつとめた。 趣味は読書。宗教は禅宗。住所は松江市寺町。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
永野 重雄(ながの しげお、1900年7月15日 - 198… 永野 重雄(ながの しげお、1900年7月15日 - 1984年5月4日)は、日本の実業家。新日本製鐵会長・経済同友会代表幹事・日本商工会議所会頭などを歴任した、戦後日本を代表する経済人の一人。財界四天王の一人といわれ、"戦後の財界のドン"ともいわれた。正三位勲一等旭日桐花大綬章。広島市名誉市民。島根県松江市生まれ、広島県広島市南区出汐育ち。 広島県呉市沖の瀬戸内海に浮かぶ下蒲刈島三之瀬にある浄土真宗本願寺派の弘願寺が実家。寺院の開基は室町時代の1525年(大永5年)源氏との壇の浦の戦いに敗れた平家の武将・永野小佐衛門がこの地に落ちのび名を常浄と改め、元行寺という浄土宗の廃寺跡に弘願寺を建立した。
竹下 勇造(たけした ゆうぞう、1900年〈明治33年〉6月… 竹下 勇造(たけした ゆうぞう、1900年〈明治33年〉6月25日 - 1984年〈昭和59年〉3月21日)は、日本の実業家、政治家。掛合町名誉町民。島根県議会議員、掛合村長、竹下酒造代表取締役などを務めた。旧姓は武永(たけなが)。 第74代内閣総理大臣・竹下登の実父。漫画家・影木栄貴、ミュージシャン・DAIGOの曾祖父。 島根県簸川郡今市町(現:出雲市)出身。武永貞一の弟。掛合町(現:雲南市)竹下儀造の養子となった。旧制島根県立松江中学校(現・島根県立松江北高等学校)を経て、1923年(大正12年)早稲田大学専政科(現、政治経済学部)卒業。 竹下家は日本三大山林王の一家として出雲一円に権勢を誇っていた田部家の傘下で庄屋を務めており、掛合一の旧家であった。
舩木 道忠(ふなき みちただ、1900年(明治33年)5月1… 舩木 道忠(ふなき みちただ、1900年(明治33年)5月18日 - 1963年(昭和38年)1月22日)は、日本の島根県の陶芸家である。 布志名焼舩木窯4代目。島根県無形文化財志布名焼技術保持者。 1900年(明治33年)5月18日、島根県八束郡湯町村志布名(現・松江市玉湯町布志名)の、江戸時代中期に出雲国松江藩藩主・松平不味に命ぜられ「出雲焼」の窯元を開いた「灘舩木」の屋号を持つ布志名焼の舩木平兵衛窯を営む家に、3代目の次男として生まれた。 画家を志して東京美術学校で洋画を学んだが、卒業後は帰郷して作陶活動を開始し家業を継いで布志名舩木窯4代目となった。 舩木窯は、明治、大正時代を通じて美術工芸品を制作し、フランスのリモージュ磁器やアメリカの陶器メーカー「ルックウッド」など、海外の窯元と技術的に競い合っていた。
森脇 将光(もりわき まさみつ、1900年1月17日 - 1… 森脇 将光(もりわき まさみつ、1900年1月17日 - 1991年6月2日)は、日本の実業家。 島根県簸川郡平田町(現・出雲市)出身。慶應義塾大学経済学部経済学科中退。大学在学中に金融業を始め、東京・日本橋に事務所を構えた。1948年度の長者番付で所得9,000万円で1位となり、「金融王」と呼ばれ名を馳せた。戦後の混乱期に乗じて高利で莫大な利益を得た所得は、2位・4,530万円の倍であった。しかし、その翌年、巨額な国税滞納額が発覚して、話題を呼んだ。また、金融業と共に出版業も手掛け、戦後出版した尾崎秀実の獄中書簡集『愛情はふる星のごとく』(世界評論社)は大ベストセラーとなり、1959年には週刊誌『週刊スリラー』を創刊した。
恒松 安夫(つねまつ やすお、1899年(明治32年)3月1… 恒松 安夫(つねまつ やすお、1899年(明治32年)3月18日 - 1963年(昭和38年)5月20日)は、日本の政治家・歴史学者。島根県知事(2期)、大田市名誉市民。政治家・恒松隆慶の孫。位階は従四位。勲三等瑞宝章。 島根県安濃郡長久村(現大田市長久町)で、恒松嘉吉・ケン夫妻の二男として生まれる。杵築中学校(現島根県立大社高等学校)在学中は剣道に励んだ。祖父隆慶と岡本かの子の父・大貫寅吉が親しかったことから、慶應義塾大学予科に進学後、岡本一平・かの子の家に寄宿していた。岡本夫妻はともに家事家計が苦手であり、見るに見かねて手伝っているうちに家事一切や幼い息子太郎の世話、夫妻の給金や原稿料の貯蓄、かの子の執筆のための資料集めや原稿の清書までやる羽目になったという。
上田 精一(うえだ せいいち、1899年3月1日 - 没年不… 上田 精一(うえだ せいいち、1899年3月1日 - 没年不明)は、日本の陸上競技選手。 現在の島根県出雲市出身。島根師範学校から東京高等師範学校に進む。 東京高等師範学校在学中、1922年・1923年の日本陸上競技選手権大会のやり投種目を連覇。1923年には第6回極東選手権競技大会(大阪)に五種競技で出場して優勝した。 東京高等師範学校在学中に、1924年パリオリンピックで男子五種競技に出場した。 1925年には第7回極東選手権競技大会(マニラ)に五種競技で出場した。 この項目は、陸上選手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:陸上競技/PJ陸上競技)。
足立 全康(あだち ぜんこう、男性、1899年(明治32年)… 足立 全康(あだち ぜんこう、男性、1899年(明治32年)2月8日 - 1990年(平成2年)12月19日)は日本の実業家。素封家。島根県能義郡飯梨村字古川(現・安来市古川町)出身。 実家は農業を営む。尋常小学校卒業後、家業を手伝う傍ら、村の商売の手伝いをし、次第に商売に深い関心を寄せてゆく。14歳の頃、炭を大八車で運搬する傍らそれを売ることで、初めて商売を手がけることになる。その後はさらに商売を手がけてゆき、類い希な商才を発揮してゆくことになる。 第二次世界大戦後は、敗戦後の瓦礫の中を駆け回り、大阪を商売の本拠地として、大阪と安来を商売で往復するようになる。その後、不動産投資を手がけるようになり、一代で財産を築く。
武永 貞一(たけなが ていいち、1898年〈明治31年〉8月… 武永 貞一(たけなが ていいち、1898年〈明治31年〉8月5日 - 没年不詳)は、日本の実業家、政治家。元武永明文舎印刷工場経営主、今市水道取締役。 元首相竹下登の伯父。元島根県会議員竹下勇造の実兄。 旧制島根県立杵築中学校(現・島根県立大社高等学校)卒業。1925年(大正14年)より1955年(昭和30年)まで今市町議から出雲市議を連続つとめ、また同商工会議所会頭等を歴任。 趣味は書画、骨董、旅行。宗教は真宗。
竹内 民次郎(たけうち たみじろう、旧姓・岩崎、1897年〈… 竹内 民次郎(たけうち たみじろう、旧姓・岩崎、1897年〈明治30年〉4月12日 - 没年不明)は、日本の酒造家(竹内本店)、政治家。 島根県能義郡宇賀荘村(現・安来市)に岩崎庫三郎の長男として生まれ、竹内信次郎の養子となる。1921年、家督を相続する。明治大学修業。 小学校訓導を経て酒造業を営む。町会議員、町信用組合理事、出雲銀行取締役などをつとめる。 宗教は浄土宗。趣味は文学。住所は島根県大原郡加茂町(現・雲南市)。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
生越 三郎(おごし さぶろう、1897年(明治30年)4月1… 生越 三郎(おごし さぶろう、1897年(明治30年)4月1日 - 1969年(昭和44年)12月2日)は、大正から昭和期の技術者、実業家、政治家。衆議院議員(1期)。 島根県那賀郡、現在の浜田市で生まれる。1919年(大正8年)大阪工業専門学校機械科を卒業。 三菱造船に技師として入社した。1935年(昭和10年)に日本機械車両工業を設立し社長に就任。その他、東京大同商会代表社員、日本電気漂白専務取締役、三星工業取締役社長、日本化機工業取締役などを務めた。 1940年(昭和15年)財団法人石見工業専修学校を設立し理事長に就任。同校は石見工業学校、益田商工高等学校を経て益田工業高等学校(現益田東高等学校)となり各理事長を務めた。
金関 丈夫(かなせき たけお、1897年2月18日 - 19… 金関 丈夫(かなせき たけお、1897年2月18日 - 1983年2月27日)は、日本の解剖学者、人類学者。 1897年、香川県仲多度郡榎井村(現:琴平町)に生まれた。幼少期を四国で過ごしたが、小学6年の時に岡山に移った。松江中学校を経て、第三高等学校に進んだ。西洋文学や日本の古典文学に関心を持っていたが、父の反対もあり文系ではなく医学部進学を目指すようになった。1919年7月に卒業し、京都帝国大学医学部解剖学科に入学。1923年7月に卒業した。 卒業後は、足立文太郎教授が率いる解剖学教室助手に採用された。足立は日本における軟部人類学の先駆け的な存在であり、その助手を務めつつ、足立の勧めにより同大学の病理学者清野謙次や文学部考古学教室の濱田耕作の指導も受けた。
数藤 鉄臣(すどう かねおみ、1896年(明治29年)9月8… 数藤 鉄臣(すどう かねおみ、1896年(明治29年)9月8日 - 1994年(平成6年)3月26日)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事、海軍司政長官。旧姓・村上。 本籍島根県。旧松江藩士・地方行政官、村上寿夫の二男として岡山県に生まれる。松江市北堀尋常小学校、松江中学校を卒業。海軍兵学校を志願したが、試験前の水泳で外耳炎となり身体検査で不合格となる。1915年2月、第一高等学校数学教授・数藤斧三郎の養子となる。第一高等学校第一部甲類を卒業。1920年10月、高等試験行政科試験に合格。1921年4月、東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業。同年7月、内務省に入省し内務属となり警保局図書課に配属された。
市原 硬(いちはら かたし、1896年〈明治29年〉5月2日… 市原 硬(いちはら かたし、1896年〈明治29年〉5月2日 - 1979年〈昭和54年〉1月10日)は、日本の医化学者。医学博士。大阪大学名誉教授。日本生化学会会長。位階は従三位。 島根県那賀郡江津村(のち江津町、現・江津市)出身。市原朋作の長男。1914年、浜田中学卒業。1923年、大阪医大卒業。同医化学教室に勤務する。1928年に大阪帝国大学医学部助教授、1940年に教授、1960年に定年退官。1961年、和歌山医大学長に就任。1979年死去。死没日付をもって従三位に叙された。 古武弥四郎大阪帝国大学医学部教授に師事、その後継者として1961年に有核アミノ酸代謝の研究で須田正巳と共に日本学士院賞を受賞した。
内藤 雋輔(ないとう しゅんぽ、1896年3月30日 - 1… 内藤 雋輔(ないとう しゅんぽ、1896年3月30日 - 1990年5月8日)は、日本の東洋史学者。島根県出身。岡山大学名誉教授。次男は島根大学名誉教授の内藤正中。 1896年(明治29年)、島根県浜田市生まれ。1918年(大正7年)、京都帝国大学文学部史学科(支那史専攻)に入学して東洋史学者の内藤湖南(名字は同じ内藤姓だが血縁関係はない)に師事。卒業後、1929年(昭和4年)から岡山大学の前身である旧制第六高等学校教授を務める。戦後、1949年(昭和24年)、新制岡山大学教授に就任。1961年(昭和36年)、岡山大学を定年退官して名誉教授となる。定年退官後、1973年(昭和48年)までノートルダム清心女子大学教授。
平塚 運一(ひらつか うんいち、1895年11月17日 - … 平塚 運一(ひらつか うんいち、1895年11月17日 - 1997年11月18日)は、島根県八束郡津田村(現松江市)出身の版画家。勲三等瑞宝章受章(1977年)、松江市名誉市民(1989年)。 1895年(明治28年)11月17日、島根県八束郡津田村(現松江市)に生まれた。島根県立松江商業学校に入学したが、1913年(大正2年)に中途退学し、松江市役所に勤務。石井柏亭の洋画講習会がきっかけとなり、1915年(大正4年)に上京してデッサンに励み、さらに版画技術を会得。1916年(大正5年)には、二科展に版画作品が入選し、日本美術院展には油彩作品と水彩画作品が入選した。1917年(大正6年)に帰郷して結婚し、公立小学校の図画教員となった。
前田 孝次郎(まえだ こうじろう、1895年〈明治28年〉9… 前田 孝次郎(まえだ こうじろう、1895年〈明治28年〉9月10日 - 没年不明)は、日本の銀行家。旧姓・松本。 島根県能義郡安田村(現・安来市)の農家、松本家に生まれる。島根県能義郡立農業学校を卒業する。鳥取米子の前田家に入る。 1919年に山陰実業銀行に入り雲陽実業銀行、松江銀行勤務を経て1939年に山陰合同銀行業務部次長となり総務業務各部長を歴任、1944年に取締役業務部長に推され、同年10月に業務部長を解かれ、1946年10月に常務に進み、審査部長委嘱、1961年に監査役に就任する。 高額所得者である。米子の自宅では100本もバラを栽培して余生を楽しんだ。趣味は書画。住所は鳥取県米子市久米町。
宮井 一郎(みやい いちろう、1895年3月21日-1991… 宮井 一郎(みやい いちろう、1895年3月21日-1991年)は、日本の文芸評論家。 島根県邑智郡川本町出身。1913年慶應義塾卒、慶應義塾大学理財科中退[要校閲]。満洲で新進コンクリート常務取締役。大連で刊行されていた文芸同人誌『作文』に参加、戦後郷里で工場を経営し、東京で再刊された『作文』同人となる。1962年「『明暗』の主題」を発表して注目され、以後漱石論を書く。江藤淳の漱石と嫂の恋に関する説を激しく批判した。子に映像作家・宮井陸郎がいる。
松本 淳三(まつもと じゅんぞう、1895年(明治28年)1… 松本 淳三(まつもと じゅんぞう、1895年(明治28年)1月1日 - 1950年(昭和25年)10月9日)は、日本のプロレタリア詩人、無政府主義者、政治家。衆議院議員。本名・淳造。 島根県美濃郡高城村神田(現益田市)で、山口唯美、松本カノ夫妻の長男として生まれ、祖父養軒に養育された。1914年、島根県立浜田中学校を卒業し、慶應義塾大学部理財科に進んだが1916年に中退し、その後、西日本各地や東京などを放浪した。 1918年、久原鉱業佐賀関製錬所に作業員として就職。1920年、堺利彦の推薦で雑誌『中外』の記者となり、日本社会主義同盟に加盟。1921年、自由人連盟の演説会で右翼に刺された。同年9月、再刊された『種蒔く人』の同人となる。
山本 亮(やまもと りょう、明治27年(1894年)12月1… 山本 亮(やまもと りょう、明治27年(1894年)12月14日 - 昭和48年(1973年)2月18日)は、日本の実業家、漢詩人、政治家。鳥取県西伯郡境町長(17代)、町会議員。号大麓。鳥取県平民。 境町長、鳥取県議会議長等を歴任した山本熊吉の長男。 鳥取県西伯郡境町栄町(いまの境港市)出身。山本熊吉の長男。 松江農林学校を卒業後、家業(醤油醸造)を継いだ。境電気会社設立等、実業界で活躍した。 昭和20年(1945年)4月23日、軍用船玉栄丸爆発事故が発生。山本町長は昼夜にわたる救援活動を指揮する一方で、軍に対して罹災者補償を請求、自ら現地調査に当たる等の尽力によってこの問題を解決した。 茶道、琵琶、漢詩等趣味も多かった。
小石 雄治(こいし ゆうじ、1894年9月5日- 1984年… 小石 雄治(こいし ゆうじ、1894年9月5日- 1984年1月28日 )は、日本の経営者。ダイハツ工業社長、会長を務めた。島根県浜田市出身。 1912年3月、旧制浜田中学(現在 島根県立浜田高等学校)卒業、1917年に大阪高等工業学校機械科(現在、大阪大学)を卒業し、同年にダイハツ工業の前身である発動機製造に入社。1939年2月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1950年12月にダイハツ工業社長に就任し、軽三輪車や電気自動車の開発に着手し、1967年にトヨタ自動車との業務提携を結ぶなど同社発展の礎を築いていた。1968年に会長を務め、1971年12月から相談役を務めた。 1960年に藍綬褒章を受章し、1973年に勲二等旭日重光章を受章した。
太刀ノ海 浪右エ門(たちのうみ なみえもん、1894年7月2… 太刀ノ海 浪右エ門(たちのうみ なみえもん、1894年7月25日 - 1964年8月4日)は、現在の島根県安来市出身で友綱部屋、東関部屋、高砂部屋に所属した力士。本名は野津 貞助(旧姓草間)。8代木村瀬平。174cm、88kg。最高位は西前頭3枚目。 1913年1月初土俵。入門時は太刀山峯右エ門の弟子であった。1922年1月新入幕。突っ張りと左四つからの寄りを武器に幕内を5場所務め、1923年1月場所に最高位である西前頭3枚目まで番付を上げるが、その後病気がちで休場も多く、最後は十両であった。1925年1月に引退して8代木村瀬平を襲名した。1947年11月廃業。 1937年2月、師匠の太刀山の還暦土俵入りでは露払いを務めた。
徳川 夢声(とくがわ むせい、1894年4月13日 - 19… 徳川 夢声(とくがわ むせい、1894年4月13日 - 1971年8月1日)は、日本の弁士、漫談家、作家、俳優。ラジオ・テレビ番組などをはじめ、多方面で活動した日本の元祖マルチタレントとも言える人物である。本名は福原駿雄(ふくはら としお)。「彼氏」「恐妻家」の造語でも知られる。日本放送芸能家協会(現・日本俳優連合)初代理事長。
佐藤 邦之助(さとう くにのすけ、1894年 - 1981年… 佐藤 邦之助(さとう くにのすけ、1894年 - 1981年)は、日本の牧師。バークレー・バックストン、堀内文一らの薫陶を受け、長年日本イエス・キリスト教団を指導した。 ピューリタン - シュペーナー - 敬虔主義 - フレンド派 - ジョン・ウェスレー - D・L・ムーディー - ジョージ・ホウィットフィールド - ジョナサン・エドワーズ - チャールズ・フィニー - A・B・シンプソン バックストン - ウィルクス - 竹田俊造 - 堀内文一 - 笹尾鉄三郎 - 松野菊太郎 - 秋山由五郎 - 御牧碩太郎 - 柘植不知人 - 土肥修平 中田重治 - 中田かつ子 - 中田あやめ - チャールズ・カウマン - レテー・カウマン - アーネスト・キルボルン - 三谷種吉 - 山崎亭治 - 米田豊 - 車田秋次 - 小原十三司 - 小原鈴子 - 一宮政吉 - 菅野鋭 - 野辺地天馬 - 金森通倫 - 小出朋治 - 小出忍 - 森五郎 - 江賀寅三 - 小林和夫 - 尾花晃 - 村上宣道 - 松木祐三 - 千代崎秀雄 - 峯野龍弘 - 安倍豊造 - 辻啓蔵 - 辻宣道 - 蔦田二雄 - 蔦田公義 - 藤本栄造 - 藤本満 メリマン・ハリス - 本多庸一 - 赤澤元造 - 釘宮辰生 - 阿部義宗 - 結城無二三 - 都田恒太郎 - 渡辺善太 河辺貞吉 - 河辺満甕 - 野田秀 ウィリアム・ブース - 山室軍平 - 山室武甫 マーガリット・バーネット - 舟喜麟一 - 舟喜拓生 - 舟喜信 - 安藤喜市 - 羽鳥明 - 羽鳥純二 小島伊助 - 佐藤邦之助 - 沢村五郎 - 森山諭 - 中田羽後 - 本田弘慈 - 中島秀一 平出慶一 - 大江邦治 - 大江捨一 - 大江寛人 喜田川広 - 本間俊平 - 土山鉄次 - 木村清松 - 岩井清 - 松原和人 - 大槻武二 中央福音伝道館(1901-1908) - 東洋宣教会(1908- ) - 日本聖教団(1911) - 日本ホーリネス教会(1917-1936) - 日本宣教会(1923) - 日本聖教会(1936-1941) - きよめ教会(1936-1941) - イムマヌエル綜合伝道団(1945- ) - ウェスレアン・ホーリネス教団(1992- ) - 基督兄弟団(1946- ) - 基督聖協団(1958 - ) - 東洋宣教団きよめキリスト教会(1940- ) - ホーリネスの群(1946- ) - 日本福音教会連合(1971- ) - 日本福音教団(1952- ) - 日本ホーリネス教団(1949- ) - 日本聖泉基督教会連合(1969- )
田中 隆吉(たなか りゅうきち、1893年(明治26年)7月… 田中 隆吉(たなか りゅうきち、1893年(明治26年)7月9日 - 1972年(昭和47年)6月5日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 第一次上海事変(1932年)・綏遠事件(1936年)において主導的役割を果たし、日本軍の数々の謀略に直接関与していた。太平洋戦争開戦時には陸軍省兵務局長であったため、対米作戦について関与することはなく予備役とされ、極東国際軍事裁判(東京裁判)において、検事側の証人として被告に不利な証言もした。検事の求めに応じどんなことでも証言した。ことに満州国は独立国ではないと。個人的には自分と競争的立場にあった武藤章に対しては、対英米開戦の責任について徹底的に不利益な証言をした。
中田 瑞穂(なかた みずほ、1893年〈明治26年〉4月24… 中田 瑞穂(なかた みずほ、1893年〈明治26年〉4月24日 - 1975年〈昭和50年〉8月18日)は、日本の脳神経外科医・俳人。新潟大学名誉教授。俳号はみづほ、瑞翁、穭翁。島根県津和野町生まれ。 日本における脳神経外科学の権威で、その数々の功績から「日本脳外科の父」とも呼ばれる。 日本初の脳神経外科学講座を新潟大学に設立し、新潟大学脳研究所の設立と発展に貢献した。また、てんかんの治療法として現在も行われている大脳半球切除手術に日本で初めて成功したことでも知られる。ホトトギス派の俳人。主著に『脳手術』、『脳腫瘍』等。 旧制六高を経て東京帝国大学医科大学を卒業後直ちに同大学の近藤次繁教授の外科教室に入局し、4年間の勤務の後新潟医科大学の外科教室に助教授として赴任した。
岡崎 清三郎(おかざき せいざぶろう、1893年〈明治26年… 岡崎 清三郎(おかざき せいざぶろう、1893年〈明治26年〉3月17日 - 1979年〈昭和54年〉5月27日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 島根県出身。松江市で岡崎竜次郎の三男として生まれる。松江中学校を経て、1914年5月、陸軍士官学校(26期)を卒業し、同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第63連隊付となる。1921年11月、陸軍大学校(33期)を卒業した。 参謀本部付勤務、参謀本部員などを経て、1925年5月、皇族(秩父宮雍仁親王)付武官となり、秩父宮の外遊(オックスフォード大学)に随行した。参謀本部員(編制班)、ジュネーヴ出張、陸軍省整備局課員(統制課)、兼参謀本部員、上原勇作元帥副官(近衛歩兵第3連隊付、歩兵第59連隊付)、留守第4師団参謀長などを経て、日中戦争に支那駐屯歩兵第2連隊長として出動。
岡田 文秀(おかだ ふみひで、1892年(明治25年)11月… 岡田 文秀(おかだ ふみひで、1892年(明治25年)11月25日 - 1989年(平成元年)11月19日)は、日本の内務・厚生官僚。官選県知事、厚生次官、海軍司政長官。旧姓・吉岡。 島根県出身。島根県官房主事・吉岡謙太郎の三男として生まれ、岡田宇之助の養子となる。島根県立松江中学校、第一高等学校を卒業。1916年10月、文官高等試験行政科試験に合格。1917年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。内務省に入省し東京府属となる。 1918年1月、東京府南葛飾郡長に就任。以後、岐阜県理事官・内務部地方課長、東京府理事官・視学官、内務書記官・都市計画局庶務課長、内務事務官・土木局勤務、土木局河川課長などを歴任。
清水 郁子(しみず いくこ、1892年10月2日 - 196… 清水 郁子(しみず いくこ、1892年10月2日 - 1964年6月24日)は、教育学者、教育者、教育評論家・女性問題評論家。崇貞学園経営者、桜美林学園創立者、桜美林学園初代学園長。旧姓小泉。 1892年10月、島根県松江市に生まれる。1895年、弟の誕生後、菅浦の漁民の家の里子となり、幼少期を過ごすが、学齢期を迎えて実家にもどり、尋常小学校に入学した。 小学生時に教会へ通いキリスト教と出会った。地元の中学校卒業後は上京し東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)へ進学、1915年の卒業間近にキリスト教の洗礼を受ける。 東京女子高等師範学校在学中に平塚らいてう他の「青鞜社」の運動に啓発され、女性問題、男子との社会的平等思想に関心を持つようになる。
草光 信成(くさみつ のぶしげ、1892年4月5日 - 19… 草光 信成(くさみつ のぶしげ、1892年4月5日 - 1970年12月21日)は、日本の洋画家。 島根県出雲市出身。1916年東京美術学校(現在の東京芸術大学)卒。和田三造に師事した。1916年の第4回帝展に出品した「簾の影」が初入選した。その後、1927年に「四人の子等」、1928年に「立像」で2年連続帝展特選を受賞した。1930年に「前庭」でも帝展特選を受賞した。 1936年ベルリンオリンピックの芸術競技の絵画種目に、「スタート」「用意」という作品を出品した。 1938年には従軍画家として中国に赴任した。 1950年には新世紀美術協会の創立に参画し、その委員を務めた。
大達 茂雄(おおだち しげお、1892年(明治25年)1月5… 大達 茂雄(おおだち しげお、1892年(明治25年)1月5日 - 1955年(昭和30年)9月25日)は、日本の内務官僚、政治家。内務大臣(小磯内閣)、文部大臣(第5次吉田内閣)。参議院議員(1期)。 島根県那賀郡浜田町(現・浜田市)に、酒造業・大達新作の次男として生まれる。浜田中学から一高に進み、1916年(大正5年)に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業、内務省に入る。宮城県属。 内務省では地方局財務課長を経て1932年(昭和7年)福井県知事となる。福井師範学校整理問題で県会と衝突し、それに対する内務省の扱いに不満を抱いて辞表を提出した。 1934年に満洲国に招かれて満洲国国務院総務庁法制処長、1936年同国務院総務庁長を歴任。
福島小蕾(ふくしま しょうらい、1891年〈明治24年〉7月… 福島小蕾(ふくしま しょうらい、1891年〈明治24年〉7月15日 - 1969年〈昭和44年〉2月1日)は俳人。島根県安来市今津生まれ。本名、亮。別号、梨東・梨東書屋主人。 広島高等師範学校文科中退。中学校長のち大正5年より神職。俳句は1906年(明治39年)に広江八重桜門に入り、のち奈倉梧月に師事。 「ホトトギス」「懸葵」を経て、「石楠」同人。「礼讃」(のち「白日」「契」「瓶麓」「俳句地帯」「地帯」と改題)主宰。 著書に句集『狭田長田』(昭17)。「狭田長田」「日々」「静日」「雫」。『土をしたふ』(昭和28)啓蒙書に『俳句の第一門』などがある。
米山 治(よねやま はる、1890年11月21日 - 196… 米山 治(よねやま はる、1890年11月21日 - 1968年1月)は、日本の銀行員、作詞家。島根県出身。本名は米山 豊蔵(よねやま とよぞう)。 1890年(明治23年)、島根県神門郡杵築町(現在の出雲市大社町)の旧家に生まれる。1907年(明治40年)に京都市立商業実修学校を卒業し、大阪の三十四銀行へ入行。京橋、次いで神田支店長に就いた。三十四銀行は1933年(昭和8年)に鴻池・山口の両行と合併して三和銀行(現在の三菱UFJ銀行)となり、船場支店長を経て天満、朝日橋、中央市場支店長を歴任する。 定年退職後は島根へ帰郷し悠々自適の生活を送っていたが、1952年(昭和27年)のサンフランシスコ講和条約発効記念事業として島根県が懸賞募集を行った県民歌で応募作「薄紫の山脈」が宮田隆の応募作「青い空なら」と並んで準入選で採用された。