内田 一臣(うちだ かずとみ、1915年(大正4年)6月8日… 内田 一臣(うちだ かずとみ、1915年(大正4年)6月8日 - 2001年(平成13年)7月5日)は、日本の海軍軍人及び海上自衛官。海軍兵学校卒業(第63期)。第8代海上幕僚長。 岡山県出身。旧制津山中学を経て海軍兵学校に入校。1936年(昭和11年)3月、海軍兵学校を卒業。海軍少尉候補生として遠洋航海に参加し、アメリカ合衆国各地を巡った。 1937年(昭和12年)8月、軽巡洋艦「川内」乗組みだった海軍少尉時代に第二次上海事変を迎える。同艦の乗員で急遽編成された臨時の陸戦隊小隊長として参加し、1ヶ月間に及ぶ戦闘に従事した。その際、中華民国陸軍の師団本部を殲滅し師団長を戦死させた。この功績により金鵄勲章を授与される。
国定 謙男(くにさだ かねお、1913年(大正2年)2月10… 国定 謙男(くにさだ かねお、1913年(大正2年)2月10日 - 1945年(昭和20年)8月22日)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争の敗戦を受けて、一家四人で自決した海軍少佐である。 岡山県出身。幼少期に北海道へ移り、室蘭中学4年修了で海軍兵学校入校。1932年(昭和7年)11月卒業。国定は海兵60期で、席次4番の恩賜組である。 国定は第26期飛行学生を修了した搭乗員であった。1937年(昭和12年)、海軍中尉で空母「龍驤」乗組であった国定は、第二次上海事変に出征し、日本国内で度々報じられる奮戦振りであった。岩国海軍航空隊飛行長として太平洋戦争の開戦を迎え、第12連合航空隊参謀、三重海軍航空隊教官、練習連合航空隊参謀などを歴任した。
小福田 租(こふくだ みつぎ、1909年(明治42年)10月… 小福田 租(こふくだ みつぎ、1909年(明治42年)10月18日 - 1995年(平成7年)7月29日)は日本の海軍軍人、航空自衛官である。海軍兵学校(第59期)卒。最終階級は海軍で海軍中佐、自衛隊で空将。ペンネームは小福田 晧文(こふくだ てるふみ)。 1909年(明治42年)10月、岡山県津山に生まれる。1928年(昭和3年)3月、岡山県立津山中学校(現:岡山県立津山高校)卒業し、同年4月、江田島海軍兵学校第59期に入校。1931年(昭和6年)11月、海軍兵学校卒業。1933年(昭和8年)4月、第25期飛行学生を卒業。1934年(昭和9年)、大村海軍航空隊で戦闘機課程を受ける。周囲の勧めもあり、結婚を考えて海軍省に結婚願いを提出し、晩秋に「結婚認可書」を受けとるも、すぐに「戦地に転勤を命ず」という辞令がきたので、婚約を解消した。
穐田 弘志(あきた ひろし、1903年(明治36年)1月1日… 穐田 弘志(あきた ひろし、1903年(明治36年)1月1日 - 1969年(昭和44年)2月28日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍大佐。陸士36期(騎兵、優等)・陸大46期。 岡山県岡山市出身(福岡県とも)。広島陸軍幼年学校を経て1924年(大正13年)7月、陸軍士官学校(36期)を優等卒業し、騎兵第4連隊附となる。陸軍騎兵学校も優等卒業し、陸士教官を経て陸大に入学。卒業後は原隊復帰したが、日中戦争勃発後は北支那方面軍参謀。駐独武官輔佐官在任中の1940年12月から、山下奉文陸軍中将を団長とする独伊軍事使節団に随行し、ドイツでの新兵器開発状況について視察した。帰国後は参謀本部ドイツ班長。独ソ戦直前、駐日武官のアルフレート・クレッチマー大佐にソ連軍の情報を渡した疑いが当時武官輔佐官のフリッツ=ユリウス・フォン・ペータースドルフ中佐の証言にあり、のち極東国際軍事裁判では「一度だけソ連軍の動向について尋ねられたことがあったためロシア班に持ち込んだものの、確証が持てないため「よく分からない」と回答した」と答弁している。
三和 義勇(みわ よしたけ、1899年(明治32年)4月26… 三和 義勇(みわ よしたけ、1899年(明治32年)4月26日 - 1944年(昭和19年)8月2日)は、日本の海軍軍人。海兵48期。最終階級は海軍少将。テニアン島で戦死。 1899年(明治32年)4月26日、岡山県に中学校長も勤めた教育者の息子として生まれる(本籍は岐阜県)。旧制北野中学を経て、1920年(大正9年)7月16日、海軍兵学校48期を171名中31番の席次で卒業、少尉候補生。 1921年(大正10年)6月、少尉任官。1923年(大正12年)6月、霞ヶ浦海軍航空隊に第9期航空術学生として入隊し、1924年(大正13年)5月に卒業。戦闘機搭乗員任命。1925年(大正14年)、霞ヶ浦海軍航空隊分隊長。
光延 東洋(みつのぶ とうよう、1897年(明治30年)10… 光延 東洋(みつのぶ とうよう、1897年(明治30年)10月9日 - 1944年(昭和19年)6月9日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 岡山県高梁市出身。大阪府立北野中学校より海軍兵学校第47期に進み首席で卒業した。しかし海軍大学校甲種課程には進まず、ヨーロッパへの出張と駐在を繰返し、井上成美らにその常識的思考を高く評価されていた。 イタリアでバドリオ政権が連合国に降伏した際、スイスに業務連絡の為に移動。フィレンツェ北方のアッペンニーノ山脈を通行中にマンリーコ・ドゥッチェスキ(イタリア語版)率いるパルチザンの襲撃に遭い、同乗していた山仲伝吾海軍中佐は重傷だったが、光延は射殺され戦死扱となる。
金光 恵次郎(かねみつ けいじろう/えじろう、1896年(明… 金光 恵次郎(かねみつ けいじろう/えじろう、1896年(明治29年)3月12日 - 1944年(昭和19年)9月6日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大佐。 岡山県和気郡備前町出身。貧しい農家に生まれる。貧農の家に育った金光は非常に勉強好きな少年で近所の人から”二宮金次郎”と呼ばれていた。学校の成績はとびぬけていたが、家が貧しいので高等小学校卒業後に上級学校へは進めなかった。 20歳のとき、金光は徴兵検査を受け、現役兵として、1916年(大正5年)12月、野砲兵第10連隊に入隊した。勉強家であった金光はそこで伍長、軍曹と進級し、少尉候補者の試験を受け合格し、1926年(大正15年)12月に陸軍士官学校に入学。
守屋 精爾(もりや せいじ、1895年(明治28年)11月2… 守屋 精爾(もりや せいじ、1895年(明治28年)11月2日 - 1943年(昭和18年)5月20日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。旧姓・梶田。 岡山県出身。梶田寿平の五男として生まれ、守屋弁之助の養子となる。岡山第一中学校(現岡山県立岡山朝日高等学校)、広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1917年(大正6年)5月、陸軍士官学校(29期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し野砲兵第11連隊付となる。1920年(大正9年)11月、陸軍砲工学校高等科(26期)を卒業。陸士生徒隊付、山砲兵第11連隊付などを経て、1929年(昭和4年)11月、陸軍大学校(41期)を卒業した。 1931年(昭和6年)3月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員を務め、1932年(昭和7年)8月、砲兵少佐に進級。
額田 坦(ぬかた ひろし、1895年〈明治28年〉9月5日 … 額田 坦(ぬかた ひろし、1895年〈明治28年〉9月5日 - 1976年〈昭和51年〉9月21日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 医師・額田篤太の三男として生れる。岡山一中、広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1917年(大正6年)5月、陸軍士官学校(29期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第54連隊付となる。1928年(昭和3年)12月、陸軍大学校(40期)を卒業した。 歩兵第40連隊中隊長、教育総監部付勤務、教育総監部課員、ドイツ駐在、陸軍歩兵学校教官などを歴任。1936年(昭和11年)12月、陸軍省人事局課員となり、人事局補任課長、独立歩兵第11連隊長、陸士生徒隊長などを経て、1941年(昭和16年)10月、陸軍少将に昇進した。
花谷 正(はなや ただし、1894年(明治27年)1月5日 … 花谷 正(はなや ただし、1894年(明治27年)1月5日 - 1957年(昭和32年)8月28日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。奉天特務機関員として柳条湖事件(満洲事変)に関与したとされ、太平洋戦争では第55師団長としてビルマ戦線で作戦を指揮した。人物・指揮ぶりの評価は一様ではなく、統率の強硬さを問題視する見解と、作戦指揮を評価する見解が併存している。 岡山県勝田郡広戸村村長・花谷章の息子として生まれる。津山中学校、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1914年(大正3年)5月、陸軍士官学校(26期)を卒業し、同年12月、歩兵少尉任官。歩兵第54連隊付となる。1922年(大正11年)11月、陸軍大学校(34期)を卒業した。
宇垣 纒(うがき まとめ、1890年(明治23年)2月15日… 宇垣 纒(うがき まとめ、1890年(明治23年)2月15日 - 1945年(昭和20年)8月15日)は、日本の海軍軍人。海兵40期・海大22期。最終階級は海軍中将。陣中日記『戦藻録』が有名。また終戦後に多数の部下を道連れに「特攻」を実施したことでも知られている。 1890年(明治23年)2月15日、岡山県赤磐郡潟瀬村(現・岡山市東区瀬戸町肩脊)の農家で教師の父・善蔵のもとに生まれる。宇垣一成陸軍大将、宇垣完爾海軍中将は近郷同族だが、縁戚関係はない。岡山中学校を経て、海軍兵学校および陸軍士官学校(第24期)を受験し、双方に合格している。ちなみに陸士の合格成績は12番だった。1909年(明治42年)9月11日、海軍兵学校40期に成績順位150名中第9位で入校。
宇垣 完爾(うがき かんじ、1889年(明治22年)1月23… 宇垣 完爾(うがき かんじ、1889年(明治22年)1月23日 - 1974年(昭和49年)9月27日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 岡山県出身。農業・宇垣十七八(陸軍大将宇垣一成の長兄)の二男として生れた。岡山中学校を経て、海軍兵学校と陸軍士官学校(23期)の両方に合格する。また、歩兵第39連隊の配属予定だったことが官報に確認できる。1911年(明治44年)7月、海軍兵学校(39期)を卒業し、1912年(大正元年)12月、海軍少尉に任官。海軍水雷学校高等科を卒業し、「安芸」分隊長、「第23潜水艦」乗組、第3艦隊参謀、「第16潜水艦」「第19潜水艦」の各艦長などを経て、1925年(大正14年)11月、海軍大学校(甲種23期)を卒業した。
岸本 鹿子治(きしもと かねじ、1888年(明治21年)4月… 岸本 鹿子治(きしもと かねじ、1888年(明治21年)4月14日 - 1981年(昭和56年)1月1日)は、大日本帝国海軍の軍人。海兵37期。最終階級は海軍少将。酸素魚雷と特殊潜航艇(甲標的)の開発を成功させた。実兄は岸本信太海軍中将(海軍機関学校10期)。岳父は豊辺新作陸軍中将。 岡山県出身。岡山一中を経て海軍兵学校(37期)を卒業。席次は179人中23番。岸本は海軍大学校乙種学生、海軍水雷学校高等科、同特修科を修了した水雷専攻の士官で、「夕暮」駆逐艦長、「長良」水雷長、「霧島」水雷長、海軍水雷学校教官、呉海軍工廠魚雷実験部員、第九駆逐隊司令などを歴任した。 他に、第五戦隊参謀、海軍兵学校教官、第三艦隊参謀、連合艦隊参謀などを経て、1930年(昭和5年)12月1日、海軍大佐に進級。
秋山 静太郎(あきやま しずたろう、1887年(明治20年)… 秋山 静太郎(あきやま しずたろう、1887年(明治20年)11月20日 - 1951年(昭和26年)6月20日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。位階勲等は従四位勲三等。 1887年(明治20年)に岡山県吉備郡神在村(現:総社市)で生まれた。陸軍士官学校第20期、陸軍大学校第29期卒業。フランス駐在を経て、1931年(昭和6年)8月1日に陸軍歩兵大佐進級と同時に陸軍技術本部附となった。1932年(昭和7年)4月11日に第12師団司令部附となり長崎医科大学に配属されたが、5月30日に配属を解かれて第12師団司令部附となった。同年8月8日に長崎要塞司令官に就任し、1936年(昭和11年)8月1日に陸軍少将に進級して待命となり、8月28日に予備役に編入された。
太田 泰治(おおた たいじ、1887年1月25日 - 196… 太田 泰治(おおた たいじ、1887年1月25日 - 1960年2月12日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 岡山県出身。太田吉三郎の二男として生れる。岡山津山中学校を経て、1909年11月、海軍兵学校(37期)を卒業し、翌年12月、海軍少尉任官。1916年12月、海軍砲術学校高等科を卒業し、以後、「薩摩」「浅間」「扶桑」の各分隊長、「澤風」砲術長、東郷平八郎元帥付副官、「三日月」「初雪」の各駆逐艦長、横須賀鎮守府参謀、海軍省軍務局員などを経て、1926年6月から翌年1月にかけて欧米に出張した。 人事局員(第1課)、「加古」「榛名」の各副長、運送艦「洲埼」・「大井」・「浅間」の各艦長、軍務局第2課長などを歴任し、1936年12月、海軍少将に進級した。
工藤 義雄(くどう よしお、1885年(明治18年)1月7日… 工藤 義雄(くどう よしお、1885年(明治18年)1月7日 - 1940年(昭和15年)11月30日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 岡山県出身。工藤敏夫の二男として生まれる。岡山中学校(現岡山県立岡山朝日高等学校)、広島陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て、1905年(明治38年)3月、陸軍士官学校(17期)を卒業し、翌月、歩兵少尉に任官し歩兵第11連隊付となる。1915年(大正4年)12月、陸軍大学校(27期)を卒業した。 1916年(大正5年)12月、教育総監部付となり、同課員、陸軍兵器本廠付兼陸軍省軍務局課員、軍務局課員兼参謀本部員、歩兵第9連隊大隊長、同連隊付、陸士教官、参謀本部員などを務め、1928年(昭和3年)8月、歩兵大佐に昇進し歩兵第6連隊長に就任。
坂野 常善(さかの つねよし、1884年〈明治17年〉12月… 坂野 常善(さかの つねよし、1884年〈明治17年〉12月1日 - 1971年〈昭和46年〉9月21日)は、日本の海軍軍人。海兵33期。最終階級は海軍中将。岳父は宮原二郎(海軍機関中将、男爵)。 岡山県津高郡野谷村(現・岡山市)出身。岡山県士族・坂野半四郎の二男。 岡山県岡山中学校(現・岡山県立岡山朝日高等学校)を経て海軍兵学校に入校(第33期)。入校時席次は180名中第84位、卒業時席次は171名中第22位。第一次世界大戦中は、第二特務艦隊参謀として地中海に遠征し、英国海軍との連絡業務にあたった。 坂野は海軍部内で対英米協調派(条約派)の1人に数えられていた。海軍軍事普及部部長在任中に、陸軍強硬派と海軍艦隊派から買収された報知新聞記者に『海軍は宇垣一成 内閣に反対ではない』と発言 したことが海軍大臣・大角峯生の怒りを買い、いわゆる「大角人事」により予備役に編入された。
谷 寿夫(たに ひさお、1882年(明治15年)12月23日… 谷 寿夫(たに ひさお、1882年(明治15年)12月23日 - 1947年(昭和22年)4月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 陸士15期、陸大24期(優等)。師団参謀長、旅団長、師団長を歴任し、第6師団師団長として第二次上海事変、南京攻略戦に参加した。第二次世界大戦後、南京軍事法廷で、南京事件の首脳クラスの責任者の一人とされ死刑判決、銃殺刑に処せられた。 岡山県の農民出身。岡山中学校、東京府立四中(現東京都立戸山高等学校)卒業。 1937年(昭和12年)10月29日施行を昭和天皇に裁可された、帷幄上奏勅令軍事機密『軍令陸甲第34号』を根拠とした、軍政上の奉勅命令である中支那方面軍司令部の動員命令が、陸軍大臣杉山元大将によって動員担任官へ伝宣され、同司令部の動員がなされた。
中島 権吉(なかじま ごんきち、1882年(明治15年)12… 中島 権吉(なかじま ごんきち、1882年(明治15年)12月20日 - 1946年(昭和21年)12月22日)は、大日本帝国の軍人である。海軍入隊後、海軍少将まで出世し、その後、海軍大学校の教頭を務めた。岡山県高梁市出身。 1882年(明治15年)に岡山県上房郡高梁町(現:高梁市川端町)で中島岩松・嘉代の次男として生まれる。旧制高梁中学校(現:岡山県立高梁高校)を経て、1902年(明治35年)海軍兵学校を優等で卒業し、エリートコースを歩むことになる。日露戦争では、東郷艦隊付けとなり、佐世保海兵団附で津島海峡警備に当たった。 1908年(昭和41年)海軍砲術学校特修科を修了し、1917年(大正6年)に3ヶ月渡米出張した後、大正7年から10年まで(1918~21年)英国に駐在した。
中島 三郎(なかじま さぶろう、1882年(明治15年)4月… 中島 三郎(なかじま さぶろう、1882年(明治15年)4月15日 - 1952年(昭和27年)2月17日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。岡山県岡山市出身。 1882年(明治15年)に岡山県上道郡字野村(現:岡山市)で生まれた。旧制岡山中学(現:岡山県立岡山朝日高等学校)を経て、陸軍士官学校第13期として卒業する。1925年(大正14年)5月1日に陸軍重砲兵学校教育部長に就任し、8月7日に陸軍砲兵大佐に進級した。1928年(昭和3年)3月に横須賀陸軍重砲兵連隊長に転じ、1929年(昭和4年)8月に陸軍造兵廠総務部長に就任した。 1930年(昭和5年)8月1日に陸軍少将進級と同時に陸軍技術本部総務部長に着任し、1932年(昭和7年)8月に陸軍技術本部第1部長に転じた。
中岡 弥高(なかおか やたか、1882年(明治15年)1月1… 中岡 弥高(なかおか やたか、1882年(明治15年)1月1日 - 1975年(昭和50年)1月21日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。 岡山県出身。中岡黙陸軍少将の長男として東京で生れる。岡山中学、陸軍幼年学校を経て、1901年(明治34年)11月、陸軍士官学校(13期)を卒業。翌年6月、砲兵少尉に任官し野砲兵第1連隊付となる。1907年(明治40年)12月、陸軍砲工学校高等科を卒業。陸士教官などを経て、1912年(大正元年)11月、陸軍大学校(24期)を卒業した。 1912年12月、野砲兵第17連隊中隊長となり、参謀本部付、参謀本部員、フランス留学、イタリア軍従軍などを歴任。
酒井 幾造(さかい いくぞう、1881年(明治14年)2月2… 酒井 幾造(さかい いくぞう、1881年(明治14年)2月2日 - 1944年(昭和19年)8月10日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功四級。 岡山県久米郡西川村(現:久米郡美咲町)出身。1902年(明治35年)陸軍士官学校第14期卒業。 1926年(大正15年)3月に新発田連隊区司令官、同年7月に陸軍歩兵大佐を経て、1927年(昭和2年)7月に第7師団司令部附・北海道帝国大学配属将校となる。 ついで、1929年(昭和4年)8月に歩兵第12連隊長を経て、1931年(昭和6年)8月1日に陸軍少将に進級と同時に待命、同月29日に予備役に編入した。
杉 政人(すぎ まさと、明治13年(1880年)8月13日 … 杉 政人(すぎ まさと、明治13年(1880年)8月13日 - 昭和26年(1951年)11月19日)は、大日本帝国の海軍軍人。最終階級は海軍中将。岡山県高梁市出身。渋谷隆太郎、上田宗重らと同様に機関科出身者として最初の海軍大将候補であった。退官後は、日本製鋼所の社長を務めた。 明治13年(1880年)に岡山県上房郡高梁町の備中松山藩士杉忠三郎と、その妻で由との間に次男として生まれる。地元の高梁男子校高等科を卒業し、創立第一回の県立高梁中学校(現:岡山県立高梁高等学校)の二年生の編入試験に合格。中学時代に母の由が死去する不運に見舞われる。しかし、母の葬式では、一切涙を見せることはなかった。 卒業後、単身で当時、神奈川県横須賀にあったいわゆる「海軍三校」の一つ海軍機関学校へ入学(他二つは、海軍兵学校および海軍経理学校)。
濱野 英次郎(はまの えいじろう、1880年〈明治13年〉5… 濱野 英次郎(はまの えいじろう、1880年〈明治13年〉5月24日 - 1952年〈昭和27年〉3月2日)は、日本の海軍軍人。美保関事件後に連合艦隊参謀長を務めた海軍中将である。 岡山県出身。旧制岡山尋常中学(現:岡山県立岡山朝日高等学校)を経て、1902年(明治35年)12月海軍兵学校(30期)を席次15番で卒業。同期に百武源吾、今村信次郎、松山茂らがいる。海軍大学校乙種学生及び専修学生を修了し航海科専攻士官となり、「新高」、「利根」、「富士」の航海長を務めた。海軍大学校甲種学生(12期)を修了。 第一艦隊参謀を経て、第二南遣枝隊参謀として第一次世界大戦に出征し、南洋群島の占領作戦に従事した。
高杉 新一郎(たかすぎ しんいちろう、明治13年(1880年… 高杉 新一郎(たかすぎ しんいちろう、明治13年(1880年)1月21日 - 昭和33年(1958年)4月25日)は、大日本帝国の海軍軍人。最終階級は海軍中将。海軍医学校の要職を務めた後、医学校校長となる。その後、軍医最高職である高等官一等・軍医中将となり、海軍医務局長、日本医療団副総裁になる。岡山県真庭市出身。 明治13年(1880年)岡山県阿賀郡呰部村(現:真庭市)の庄屋である高杉良太郎の五男として生まれる。実家は代々油製造業を営んでいた。明治28年(1895年)地元の創立第一回の旧制高梁尋常中学校(現:岡山県立高梁高等学校)へ入学する。同期には、同じく海軍中将(海軍大将候補)になる杉政人、海軍少将の中島権吉、衆議院議員になる則井万寿雄、早稲田大学教授になる横山有策がいた。
二宮 治重(にのみや はるしげ、1879年(明治12年)2月… 二宮 治重(にのみや はるしげ、1879年(明治12年)2月17日 - 1945年(昭和20年)2月17日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。文部大臣。 岡山県出身。二宮成重の三男として生まれる。母は松平紀伊守娘の志乃。次兄に重友、養子に三郎(森定次郎の三男)がいる。岡山中学校を経て、1898年(明治31年)12月、士官候補生となる。1900年(明治33年)11月、陸軍士官学校(12期)を卒業。翌年6月、歩兵少尉に任官し歩兵第20連隊付となる。1904年(明治37年)5月、歩兵第20連隊中隊長となり、1906年(明治39年)1月まで日露戦争に出征した。1910年(明治43年)11月、陸軍大学校(22期)を優等で卒業。
伊丹 松雄(いたみ まつお、1875年(明治8年)9月22日… 伊丹 松雄(いたみ まつお、1875年(明治8年)9月22日 - 1958年(昭和33年)6月23日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 岡山県岡山市桶屋町出身。鹿児島県士族の伊丹親恒の長男として生れる。岡山中学校(現岡山県立岡山朝日高等学校)を経て、1896年(明治29年)5月、陸軍士官学校(7期)を卒業、翌年1月歩兵少尉に任官し、歩兵第20連隊付となる。1902年(明治35年)11月、陸軍大学校(16期)を卒業。1903年(明治36年)6月、歩兵大尉に昇進し歩兵第20連隊中隊長に就任。参謀本部出仕、参謀本部員を経て、1904年(明治37年)4月、第10師団参謀に発令され日露戦争に出征した。
岩本 熊雄(いわもと くまお、明治4年3月21日(1871年… 岩本 熊雄(いわもと くまお、明治4年3月21日(1871年5月10日) - 没年不詳)は、日本の陸軍軍人、鉄道官僚。一年志願兵を経て将校となり、鉄道会社勤務を経て帝国鉄道庁・鉄道省に出仕。札幌鉄道局苗穂工場長や北海道鉄道管理局旭川工場長等を歴任する。東京府士族で官位は陸軍歩兵少尉従五位勲四等。 岡山県岡山市富田町に生まれ、1893年(明治26年)に東京工業学校機械工芸部機械科を卒業、同年12月、一年志願兵として歩兵第2連隊に入隊。1895年(明治28年)7月、歩兵少尉任官と共に予備役となり日本鉄道株式会社に入社、汽車課に勤務する。同年10月、勲六等瑞宝章を受章。1896年(明治29年)2月、盛岡工場に転属。
宇垣 一成(うがき かずしげ、慶応4年6月21日(1868年… 宇垣 一成(うがき かずしげ、慶応4年6月21日(1868年8月9日) - 昭和31年(1956年)4月30日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍大将。
九津見 雅雄(くつみ つねお、1866年12月22日(慶応2… 九津見 雅雄(くつみ つねお、1866年12月22日(慶応2年11月16日)- 1943年(昭和18年)7月25日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍少将。 美作勝山藩(現・岡山県真庭市)出身。1889年(明治22年)4月、海軍兵学校(15期)を卒業し、少尉候補生として「金剛」(金剛型コルベット一番艦)に乗組む。1894年(明治27年)4月、「鳥海」航海士となり日清戦争に出征した。その後、佐世保水雷団水雷艇隊艇長、「吉野」航海長、駆逐艦「曙」艦長などを経て、日露戦争に出征。 日本海海戦では第1艦隊第1駆逐隊・駆逐艦「有明」艦長として参加。海軍大佐となり、1910年(明治43年)、「葛城」艦長に就任。
井出 台水(いで だいすい、本名・井出治、1865年4月29… 井出 台水(いで だいすい、本名・井出治、1865年4月29日(慶応元年4月5日) - 1950年(昭和25年)8月1日)は、岡山県出身の日本の俳人、陸軍軍人。最終階級は陸軍主計総監(中将相当官)。旧姓・佐々。別号に彭洋。 岡山藩(現・岡山県赤磐市)で佐々寅三の二男として生まれる。少年時代から父の影響で定型俳句を始めるも、軍人の道を進んだ。陸軍監督長・井出正章の養嗣子となり、1899年(明治32年)1月に家督を相続した。 1886年6月25日、工兵少尉に任官。1889年11月2日、工兵中尉に昇進し、1894年7月31日に経理部へ転科し監督補となる。陸軍経理学校卒業後、陸軍省経理局建設課長、陸軍主計監・第18師団経理部長、近衛師団経理部長、朝鮮駐剳軍(朝鮮軍)経理部長等を歴任。
藤井 較一(ふじい こういち、1858年9月24日〈安政5年… 藤井 較一(ふじい こういち、1858年9月24日〈安政5年8月18日〉- 1926年〈大正15年〉7月9日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。 岡山藩士・藤井広の長男として生まれる。私立遺芳館、電信学校を経て、1880年(明治13年)12月、海軍兵学校(7期生)を卒業し少尉補、1883年(明治16年)11月に少尉任官。日清戦争には砲艦「大島」分隊長として従軍。1897年(明治30年)11月、防護巡洋艦「高砂」の回航委員に任命され、イギリスに出張し「高砂」副長となり翌年に帰国。 その後、防護巡洋艦「須磨」「秋津洲」の各艦長、台湾総督府海軍参謀、ドイツ公使館付、海軍省軍務局第2課長、軍令部第2局長を歴任し、1903年(明治36年)10月に「吾妻」艦長に着任し、日露戦争を迎えた。
時尾 善三郎(ときお ぜんざぶろう、嘉永6年3月10日(18… 時尾 善三郎(ときお ぜんざぶろう、嘉永6年3月10日(1853年4月17日) - 1922年(大正11年)以降)は大日本帝国陸軍の軍人。工兵第2方面工役長・鳴門支署長・舞鶴支署長、陸軍省築城部横須賀支部長、臨時軍用鉄道監部馬山浦鉄道班長、朝鮮総督府営林廠長。対馬・由良・舞鶴・東京湾要塞、馬山浦鉄道(朝鮮語版)等の構築に関わった。 嘉永6年(1853年)3月10日備前国邑久郡(岡山県瀬戸内市邑久町笠加地区)に5人兄弟の次男として生まれ、隣村福田村の時尾姓を継いだ。社軍隊・耕戦隊等民兵組織が盛んな岡山藩領にあって早くから軍人を志し、1874年(明治7年)陸軍教導団工兵科に入学し、隊長佐々木直前工兵少佐の下で操練・算術・画図・造屋を学んだ。
戸塚 文海(とつか ぶんかい、天保6年9月3日(1835年1… 戸塚 文海(とつか ぶんかい、天保6年9月3日(1835年10月24日) - 明治34年(1901年)9月9日)は、日本海軍の軍人、医師。茶人。最終階級は海軍軍医総監。海軍軍医制度創設に貢献した。 備中国浅口郡玉島村(現在の倉敷市)出身。中桐幸右衛門の息子として生まれ、幕府奥医師・戸塚静海の養子となる。適塾、シーボルトに学び、将軍侍医となる。 明治維新後、静岡病院頭となる。明治5年(1872年)、海軍省5等出仕となり、軍医寮学舎長、海軍省医務局長兼本病院長、本病院長などを歴任し、明治9年(1876年)12月、海軍軍医総監(少将相当)に進級した。 明治10年(1877年)1月から同16年(1883年)10月まで医務局長に在任。
青山 好昌(あおやま よしまさ/こうしょう)は、明治時代から… 青山 好昌(あおやま よしまさ/こうしょう)は、明治時代から大正時代にかけての日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少佐。 嘉永4年4月10日(1851年)、岡山藩士・難波湛の次男として岡山市内七軒町に生まれる。のちに岡山藩士・青山市衛の養子となり、青山姓を称した。 幼少より武技を好み、軍人として身を立てることを志す。明治4年(1871年)に陸軍へ入隊し、明治10年(1877年)の西南戦争では出征軍に参加して各地に転戦し、武功を挙げた。これにより陸軍歩兵大尉に昇進した。 明治18年5月、願い出て退職し、以後は閑地に居住して悠々自適の生活を送っていたが、明治37年(1904年)の日露戦争に際し動員令を受けて再び軍務に復帰し、清国に渡航して征露軍に参加、奮戦して軍功を挙げた。