渡辺 泰輔 (わたなべ たいすけ、1942年7月13日 - … 渡辺 泰輔 (わたなべ たいすけ、1942年7月13日 - 2023年12月20日)は、福岡県直方市出身のプロ野球選手(投手)。パームボールが武器。 福岡県出身ながら神奈川県の慶應義塾高校に進学したのは、当時八幡製鐵の監督だった加藤喜作が母校・慶應義塾大学に入れるため説得したもの。2年生の時、1959年の夏の甲子園県予選決勝に進むが、法政二高に敗れる。秋季関東地区大会で優勝し、翌1960年の春の選抜に出場。準々決勝まで進出し、今川敬三投手(早大)を擁する秋田商と対戦するが、延長11回1-2で敗退。同年夏は県予選準決勝で横浜商を相手にノーヒットノーランを達成。しかし決勝では法政二高の柴田勲と投げ合い、延長11回の激闘の末敗れる。
才所 俊郎(さいしょ としろう、1942年4月7日 - )は… 才所 俊郎(さいしょ としろう、1942年4月7日 - )は、福岡県出身の元プロ野球選手(外野手、一塁手)。 八女高校では1年生の時、1958年夏の甲子園に控え外野手として出場。3回戦で板東英二投手のいた徳島商に敗退。2年、3年の夏はいずれも県大会準決勝で延長戦の末に敗退。卒業後は日鉄二瀬へ進み、都市対抗野球大会に出場すると河合楽器へ移籍。俊足好打の外野手として知られ、1964年から2年連続で都市対抗野球に出場。 1965年ドラフト会議で読売ジャイアンツより5位指名で入団。1年目の1966年から一軍に上がり、9月には右翼手として先発出場を果たす。1968年にはイースタン・リーグで盗塁王になる。しかし層の厚い外野陣の中であまり活躍の場はなく、代走等の起用が多かった。
龍 隆行(りゅう たかゆき、1941年11月25日 - 20… 龍 隆行(りゅう たかゆき、1941年11月25日 - 2017年3月15日)は、福岡県出身の元プロ野球選手(投手)、プロボウラー。1971年プロ入りJPBA日本プロボウリング協会第8期生ライセンス№225。 小学生の時に野球をやっていた兄の影響でプロ野球選手を志すようになり、その兄からカーブを教えてもらってから頭角を現し、中学の時に4番で投手を務める程に活躍をしていた。 三池高校では、エースとして1958年秋季九州大会で準々決勝に進むが、長崎南山高の杉町攻(西鉄)に完封を喫する。翌1959年は春季九州大会決勝で宮崎大淀高を降し優勝を飾る。夏の甲子園県予選でも準々決勝に進むが、戸畑高に敗退し甲子園には届かなかった。
矢ノ浦 国満(やのうら くにみつ、1941年2月23日 - … 矢ノ浦 国満(やのうら くにみつ、1941年2月23日 - )は、昭和中期(1960年代)のプロ野球選手(内野手)。福岡県出身(満州生まれ)。右投げ右打ち。
淡河 弘(おごう ひろし、1940年2月19日 - )は、福… 淡河 弘(おごう ひろし、1940年2月19日 - )は、福岡県出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ。
高野 一彦(たかの かずひこ、1939年12月18日 - )… 高野 一彦(たかの かずひこ、1939年12月18日 - )は、福岡県出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。 福岡県立京都高等学校卒業後、1958年に東映フライヤーズへ入団。 1959年に42試合に登板し4勝、1960年は32試合に登板し9勝を挙げている。 肩の故障により1963年に引退。
高岡 英司(たかおか えいじ、1939年3月10日 - )は… 高岡 英司(たかおか えいじ、1939年3月10日 - )は、福岡県出身の元プロ野球選手(投手)。
城戸 則文(きど のりふみ、1939年3月5日 - )は、福… 城戸 則文(きど のりふみ、1939年3月5日 - )は、福岡県北九州市出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ。 画家でタレントの城戸真亜子は姪に当たる。 常磐高校から1957年に西鉄ライオンズへ入団。大型内野手として期待され、1958年にはウエスタン・リーグの本塁打王と打点王を獲得。入団して2年間はあまり一軍の試合に出られなかったが、3年目の1959年には中西太の故障もあって開幕から三塁手として起用される。同年の近鉄戦で黒田勉に死球を受け、深刻なダメージを受けた影響で、後に極端に死球の少ない選手として知られる。打撃フォームも極端なクローズドスタンスから身体を開きつつ打つ独特なもので、死球を避ける工夫でもあった。
柄崎 英樹(つかざき ひでき、1938年3月17日 - )は… 柄崎 英樹(つかざき ひでき、1938年3月17日 - )は、福岡県出身の元プロ野球選手(外野手)。右投右打。 福岡県立戸畑高等学校から日本大学へ進学。大学時代は主将として活躍した。1961年に大洋ホエールズへ入団したものの、1年限りで引退。
高島 正義(たかしま まさよし、1938年2月7日 - 没年… 高島 正義(たかしま まさよし、1938年2月7日 - 没年不明)は、福岡県出身のプロ野球選手(内野手)。 西南学院高校では、1956年に春季九州大会県予選南部準決勝に進むが修猷館高に敗退。卒業後は門司鉄道管理局に進み、都市対抗などで活躍。この時のチームメートに宮川孝雄がいた。 1960年に東映フライヤーズへ入団。1年目から西園寺昭夫の控え三塁手として起用され、6月からは西園寺の故障もあって26試合に先発出場。その後は一時低迷するが、1963年には準レギュラーとして復帰。1964年は二塁手も兼ね自己最多の124試合に出場、うち32試合に先発する。翌1965年は主に守備固めとして出場、1966年限りで引退。
池田 英俊(いけだ ひでとし、1937年〈昭和12年〉5月1… 池田 英俊(いけだ ひでとし、1937年〈昭和12年〉5月13日 - 2023年〈令和5年〉1月16日)は、福岡県福岡市出身のプロ野球選手(投手)・コーチ、解説者。 進学校・福岡高校では当初遊撃手であったが、1年次の1953年秋から投手に転向。2年次の1954年には夏の甲子園県予選で準決勝に進み、小倉高の畑隆幸と投げ合うが0-1で惜敗。その後も県予選で敗れ、甲子園出場はならなかった。 高校卒業後は西鉄の誘いを断り、1956年に兄が講師をしていた明治大学へ進学。1年次の同年秋季リーグから投手陣の主軸となり、東京六大学野球リーグでは優勝に届かなかったが、2年次の1957年秋季に7勝を記録。長嶋茂雄らのいた立大には及ばぬも2位躍進に貢献したが、冬休みのランニング中に肉離れを起こす。
西尾 裕(にしお ゆたか、1937年2月1日 - 2009年… 西尾 裕(にしお ゆたか、1937年2月1日 - 2009年6月11日)は、福岡県出身の元プロ野球選手(投手)。元八幡大学硬式野球部監督。 1955年に小倉南高から南海ホークスに入団。 宅和本司、皆川睦雄と肩を並べる実力のある新人投手として期待されたが、入団早々肩を壊してしまい、一軍での成績は0勝1敗に終わり、芽が出ないまま1957年に退団。 その後は、北九州市の企業に就職し社会人野球を経験。 1960年に八幡大学に入学し硬式野球部に入部。1961年の九州六大学野球春季リーグ初優勝に貢献。3学年時から選手兼監督を務める。 1964年に八幡大学を卒業。その後も同大の野球部監督を継続、後就職課長、学部事務長を務めた。
稲川 誠(いながわ まこと、1936年7月25日 - )は、… 稲川 誠(いながわ まこと、1936年7月25日 - )は、福岡県福岡市出身(満洲国新京生まれ)の元プロ野球選手(投手)・コーチ。 父親が古河電工北京支店長で、満洲国新京で生まれ、小学3年までは中国北京で育った。少年時代は裕福であったが、9歳で終戦を迎え一変。中国軍に追い立てられて天津の収容所へ送られたが、そこで病に侵され生死をさまよった。父の背中から見た無数に横たわる病人の光景が強烈な記憶として残るが、その後は引揚船で佐世保に到着。初めて祖国の土を踏むが、引き揚げ後には母に「あなたを(中国に)置いていこうと思った」と告白されている。帰国後は父がサラリーマンであったため各地を回り、西南学院中学部時代には好投手として福岡県内で有名になった。
宮川 孝雄(みやがわ たかお、1936年1月31日 - 20… 宮川 孝雄(みやがわ たかお、1936年1月31日 - 2016年1月8日)は、福岡県出身のプロ野球選手(外野手)。晩年の姓は「村上」。 通算代打安打数の日本記録(186本)保持者で、引退後は30年以上に渡り、広島のスカウトを務めた。 豊国学園高校から門司鉄道管理局に進む。 1957年から右翼手、三番打者として2年連続で都市対抗に出場。 1959年オフに広島カープへ入団。広島入団に際しては、ノンプロでライバルであった八幡製鐵の加藤喜作監督が、「あいつがいたのでは、うちは都市対抗に出れん」と、広島に話を持ちかけた、といういきさつがある。 卓越した打撃技術を買われ、背番号は新人ながら「2」に決まったが、入団当時の広島には宮川と同じ左打ちの外野手が多かった。
有町 昌昭(ありまち まさあき、1935年11月13日 - … 有町 昌昭(ありまち まさあき、1935年11月13日 - )は、福岡県京都郡行橋町(現:行橋市)出身の元プロ野球選手。
滝内 弥瑞生(たきうち やすお、1935年10月30日 - … 滝内 弥瑞生(たきうち やすお、1935年10月30日 - 2018年9月23日)は、福岡県出身のプロ野球選手(内野手)・コーチ・監督。 戸畑高校ではエース・中島孝司(南海)を擁し、3年次の1953年に夏の甲子園県予選で決勝に進出するが、後にプロで同僚となる東筑高の仰木彬投手に抑えられ惜敗。卒業後の1954年に西鉄ライオンズへ入団。3年目の1956年に一軍に定着し、内野のユーティリティプレイヤーとして39試合に先発出場。また代走・守備要員としても起用され、同年からの3年連続リーグ優勝・日本一に貢献。1年先輩の正遊撃手であった豊田泰光が少し打撃不調になると、滝内はベンチの横に来て「あんたが打てんかったら何の取り柄もなか。
井上 忠行(いのうえ ただゆき、1935年10月25日 - … 井上 忠行(いのうえ ただゆき、1935年10月25日 - 2007年12月15日)は、福岡県出身のプロ野球選手、プロ野球審判員。セ・リーグ袖番号は2(1988年初採用から2001年退職まで、専任指導員に転じた1997年以降もつけていた。2004年以降は敷田直人がつけている。)。 八女工業高校卒業後、門司鉄道管理局に進み、1956年の都市対抗に出場。1957年に西鉄ライオンズに内野手として入団。1959年には一軍に定着、主に一塁手として起用される。1962年には、選手兼監督に就任した中西太の故障が悪化したこともあり、一塁手、三塁手として56試合に先発出場を果たす。しかし翌年にはジョージ・ウィルソン、ジム・バーマらが入団して出場機会が減り、1964年限りで現役引退。
仰木 彬(おおぎ あきら、1935年4月29日 - 2005… 仰木 彬(おおぎ あきら、1935年4月29日 - 2005年12月15日)は、福岡県出身のプロ野球選手、プロ野球監督、野球解説者。血液型はA型。
小淵 泰輔(こぶち たいすけ、1935年1月9日 - 201… 小淵 泰輔(こぶち たいすけ、1935年1月9日 - 2011年4月1日)は、福岡県大牟田市出身のプロ野球選手(内野手)・コーチ。 三池工業高校を卒業後の1954年に東洋高圧大牟田へ入社。1955年の都市対抗では中心打者として準々決勝に進み、全鐘紡に惜敗したものの首位打者賞を獲得。1956年の大会では濃人渉監督率いる日鉄二瀬に補強され3番打者として活躍し、打撃賞を得る。この時のチームメイトには古葉毅・吉田勝豊・江藤慎一がいた。同年の第2回世界野球大会に社会人野球日本代表として出場。 1957年に西鉄ライオンズへ入団し、同年から一軍に定着。仰木彬の控えではあったが、主に二塁手として49試合に先発出場。
荻 孝雄(おぎ たかお、1934年12月6日 - 2014年… 荻 孝雄(おぎ たかお、1934年12月6日 - 2014年12月)は、福岡県久留米市出身のプロ野球選手。
寺田 陽介(てらだ ようすけ、1934年11月19日 - )… 寺田 陽介(てらだ ようすけ、1934年11月19日 - )は、福岡県福岡市出身の元プロ野球選手(一塁手)。右投右打。 博多工業から濃人渉が監督を務める日鉄二瀬に進む。1954年から2年連続で都市対抗野球大会に出場。1955年の大会では東洋高圧大牟田に補強され、日立製作所との1回戦で決勝本塁打を放つなど活躍。準々決勝で全鐘紡に敗退するが好打者として注目を集める。この時のチームメートに小淵泰輔がいた。 1956年に南海ホークスに入団。入団に当たっては地元の西鉄ライオンズとの間で激しい争奪戦があり、西鉄が投手の島原幸雄を獲得の見返りに日鉄に譲渡するという噂まで流れたほどであった[要出典]。当時、南海の監督であった鶴岡一人は、守備はよい一方で、「穴が多く、いい投手にかかると打てないという欠点」があり、期待ほどの実績はあげられなかったと評しているものの、南海が400フィート打線と称していた打線の担い手の一人と位置づけられていた。
石田 泰三(いしだ やすぞう、1934年6月11日 - )は… 石田 泰三(いしだ やすぞう、1934年6月11日 - )は、福岡県豊前市出身の元プロ野球選手(内野手)。
小川 健太郎(おがわ けんたろう、1934年1月12日 - … 小川 健太郎(おがわ けんたろう、1934年1月12日 - 1995年10月8日)は、福岡県久留米市出身の元プロ野球選手(投手)。 現役時代は1964年から1970年まで中日ドラゴンズに所属し、1967年には29勝を挙げて最多勝利のタイトルを獲得、沢村賞を受賞するなど、アンダースローの好投手として活躍した。また1967年から1970年まで4年連続で開幕投手を務めたが、これは1996年時点で球団最長となる連続開幕投手記録だった。王貞治(読売ジャイアンツ)に対して腕を背中から繰り出す「背面投げ」を行った投手としても知られる。しかし1970年、球界を震撼させた八百長事件である「黒い霧事件」への関与が疑われ、オートレース八百長に関与したとして逮捕される。
森下 整鎮(もりした のぶやす、1933年9月4日 - 20… 森下 整鎮(もりした のぶやす、1933年9月4日 - 2018年10月26日)は、福岡県八幡市(現:北九州市八幡東区)出身のプロ野球選手(内野手)・コーチ・監督、解説者・評論家。 1952年から1958年及び1986年の登録名は森下 正夫(もりした まさお)。本名は森下 正弘(もりした まさひろ)。 八幡高校時代は高校屈指の強打者として注目され、2年次の1950年に遊撃手として春の選抜へチーム初出場。1回戦で萩北高のエース椙本勝を打ち崩し初勝利を飾る。続く準々決勝では、この大会に優勝した韮山高の東泉東二投手から5点を奪うが、9回裏逆転サヨナラ負けを喫する。この試合では9回まで5-2と勝っていたが、遊撃を守っていた森下が9回裏満塁のピンチでバックホームを大悪投し、サヨナラ負けを喫した。
岡本 健治(おかもと けんじ、1933年〈昭和8年〉2月15… 岡本 健治(おかもと けんじ、1933年〈昭和8年〉2月15日 - )は、福岡県福岡市出身の元プロ野球選手(投手)。左投左打。 西南学院高校から日鉄二瀬を経て、1952年に西鉄ライオンズへ入団。 しかしプロ初登板の試合で二者連続四球を出して降板。結果的にこれがプロ唯一の登板となった。 1954年に引退。その後はノンプロに参加した後、起業。「岡本食品機器販売」の社長を務めている。
渡辺 清(わたなべ きよし、1932年11月30日 - )は… 渡辺 清(わたなべ きよし、1932年11月30日 - )は、福岡県出身の元プロ野球選手(外野手)。 福岡県立戸畑高等学校への在学中は投手で、エースとして活躍するが、甲子園球場での全国大会と縁がなかった。 高校からの卒業後に専修大学へ進学すると、3年生から外野手に転向。在学中には、東都大学野球リーグで4回の優勝を経験した。4年時の1954年、第3回大学選手権の準決勝で明大の「五人衆」(秋山登と土井淳のバッテリー、岩岡保宏、黒木弘重、沖山光利)を擁する明治大学に敗れた。硬式野球部の同期生に岡本健一郎と片山嘉視がいて、1955年に3人揃って阪急ブレーブスへ入団した。 入団1年目の1955年から、レギュラー外野手としてパシフィック・リーグ公式戦132試合に出場するとともに、リーグの最終規定打席へ到達。
大神 武俊(おおがみ たけとし、1932年11月1日 - 2… 大神 武俊(おおがみ たけとし、1932年11月1日 - 2003年1月16日)は、福岡県福岡市出身のプロ野球選手(投手、右投右打)・解説者、野球指導者。 博多工業高から社会人野球の東洋高圧大牟田を経て、1951年に南海ホークスの2軍的なチームであった社会人野球の南海土建に入団。 1952年に南海ホークスに昇格する。1年目の当初は、ぱっと見で身体が細くて、使い物になるか危ぶまれるような選手であったという。しかし、キャンプで注目を集めると、シーズンでは8勝を挙げる。巨人との日本シリーズでは新人にもかかわらず、第1戦の先発に抜擢される(大神以後、日本シリーズ第1戦に先発登板した新人投手は、楽天の則本昂大が2013年に先発登板するまで61年間にわたって現れなかった。
水上 靜哉(みずかみ しずや、1932年2月16日 - )は… 水上 靜哉(みずかみ しずや、1932年2月16日 - )は、福岡県福岡市出身の元プロ野球選手(内野手)。
松永 怜一(まつなが れいいち、1931年11月3日 - 2… 松永 怜一(まつなが れいいち、1931年11月3日 - 2022年5月12日)は、福岡県北九州市出身のアマチュア野球指導者。 学生・社会人野球界で監督を歴任。野球が公開競技であったロサンゼルスオリンピックでは野球日本代表を監督として金メダルに導いた。 八幡市立(現在の北九州市立)槻田小学校時代、家の近くの八幡製鉄のホームグラウンド大谷球場(現在の北九州市立大谷球場)で八幡製鉄と門司鉄道管理局の春・秋の定期戦「製門戦」に夢中になる。 福岡県立八幡中学校(1948年の学制改革により福岡県立八幡高等学校となる)では三塁手、三番打者として活躍。同じ北九州の福岡県立小倉中学校(のち福岡県立小倉高等学校)がエース福嶋一雄(2013年野球殿堂入り)を擁し、1947年から夏の甲子園で連続優勝、打倒小倉高が目標となる。
三船 正俊(みふね まさとし、1931年7月10日 - 20… 三船 正俊(みふね まさとし、1931年7月10日 - 2012年9月16日)は、福岡県山田市(現:嘉麻市)出身のプロ野球選手。 福岡県立山田高等学校(現在は統合され福岡県立嘉穂総合高等学校)、日鉄鉱業二瀬を経て、1952年に大阪タイガースに入団。同年はルーキーながら開幕投手を務め、この試合で完封を記録した。タイガースでルーキーでありながら、開幕投手を務めたのは、1936年春の藤村富美男以来2人目の快挙だった。同年シーズンは、防御率4点台ながら7勝を挙げるなど、将来を非常に期待された。1953年も6勝を挙げ、防御率も3点と改善したが、1954年は僅か10試合の登板で1勝に終わった。同年オフに金銭トレードで東映フライヤーズに移籍。
大津 守(おおつ まもる、1931年3月5日 - 2007年… 大津 守(おおつ まもる、1931年3月5日 - 2007年10月2日)は、福岡県嘉穂郡桂川町出身のプロ野球選手(投手)・コーチ、解説者。 明善高校からノンプロ時代の西日本鉄道を経て、1950年にセ・パ両リーグ分立に際して球団結成したばかりの西鉄クリッパースへ入団。 3年目の1952年にリーグ最多となる46試合に登板して、チームでは野口正明の23勝に次ぐ18勝、リーグ3位の防御率2.73を挙げて主戦投手となる。1954年9月22日の南海戦では、大津は完投勝ちして南海の連勝記録を18で止める。同年のシーズンでは18勝、リーグ3位の防御率1.78を記録して、河村久文(25勝)、西村貞朗(22勝)と共に初優勝に貢献。
福嶋 一雄(ふくしま かずお、1931年1月6日 - )は、… 福嶋 一雄(ふくしま かずお、1931年1月6日 - )は、日本の野球選手(投手)。1940年代から1950年代にかけてアマチュア野球でプレーした。
河野 昭修(こうの あきのぶ、1930年8月22日 - 20… 河野 昭修(こうの あきのぶ、1930年8月22日 - 2011年8月8日)は、福岡県出身のプロ野球選手(内野手)。
原 勝彦(はら かつひこ、1930年6月3日 - )は、福岡… 原 勝彦(はら かつひこ、1930年6月3日 - )は、福岡県出身の元プロ野球選手(捕手)。
大野 正隆(おおの まさたか、1930年3月31日 - )は… 大野 正隆(おおの まさたか、1930年3月31日 - )は、福岡県福岡市出身の元プロ野球審判員(パシフィック・リーグ)。 1947年福岡県中学修猷館を卒業。在学中は野球部に所属し、同期には、同じくパ・リーグ審判員となる吉田正雄、名古屋ドラゴンズ(現・中日ドラゴンズ)内野手の菅野武雄、一年後輩には、西鉄ライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)の内野手として黄金期を支えた河野昭修がいる。その後、福岡第一師範学校(現・福岡教育大学)本科を卒業し、福岡県の公立学校の教員となる。 1959年、福岡県高野連・九州六大学・社会人野球の審判員を経て、菅野武雄からプロ野球審判員になることを勧められたことにより、1961年に教員を退職し、パ・リーグ審判員に就任。
菅野 武雄(かんの たけお、1930年3月7日 - )は、福… 菅野 武雄(かんの たけお、1930年3月7日 - )は、福岡県出身の元プロ野球選手。 修猷館中学から1948年に明治大学に入学。主に守備固めとして活躍した。同期には樽井清一、加藤一昭などがいる。 明大OBである天知俊一の誘いで、木下育彦とともに1951年に名古屋ドラゴンズに入団。しかし児玉利一の壁を崩せず、1952年限りで退団。 その後は、東海電通でプレーした。
簑原 宏(みのはら ひろし、1929年9月25日 - 199… 簑原 宏(みのはら ひろし、1929年9月25日 - 1999年12月28日)は、福岡県福岡市出身のプロ野球選手(外野手)。右投右打。 旧制福岡県筑紫中学校から西日本鉄道、国鉄志免鉱業所を経て、1950年に南海ホークスへ入団。1年目からいきなり中堅手のレギュラーポジションを獲得し、1番打者として活躍。翌年以降も笠原和夫が不調の際には代わりを頼まれるなど南海の主力打者として3度のリーグ優勝を経験した。 1955年に東映フライヤーズへ移籍。4番打者として活躍した。1956年も4番打者として活躍するが、この年に引退した。 引退後は九州朝日放送やRKB毎日放送で長きにわたって野球解説者を務めた。 1999年12月28日に心筋梗塞のため死去(享年70歳)。
滝口 豊広(たきぐち とよひろ、1927年12月22日 - … 滝口 豊広(たきぐち とよひろ、1927年12月22日 - 没年不明)は、福岡県出身の元プロ野球選手。 戦前の来歴は不明。戦後の1946年に西南学院中学部に入学するが、小倉中学監督の鬼塚格三郎にその才能を見出され、鬼塚の推薦で1947年に明治大学に入学。入学時すでに20歳と高齢だったため、若手捕手との争いに敗れ、主にブルペン捕手として活躍した。同期には牧野茂、山崎善平、菅原道裕などがいた他、1学年下に実弟が在籍していた。 明大専門部卒業後、同郷の先輩の誘いで1949年に大映スターズへ入団。しかしプロでもブルペン捕手としての起用が中心で、1軍出場は1試合のみだった。 その後は門司鉄道局でプレー。1952年、1953年の全国鉄硬式野球大会にも出場している。
末吉 俊信(すえよし としのぶ、1927年2月11日 - 2… 末吉 俊信(すえよし としのぶ、1927年2月11日 - 2016年2月24日)は、元プロ野球選手。ポジションは投手。サイドスローでカーブやシュートを得意とした。
野口 正明(のぐち まさあき、1925年3月7日 - 200… 野口 正明(のぐち まさあき、1925年3月7日 - 2004年3月24日)は、福岡県飯塚市出身のプロ野球選手(内野手、外野手、投手)。 飯塚商業学校卒業後、1942年名古屋軍に内野手として入団。同年5月、プロ野球史上最長イニング記録の28イニングを戦った対大洋戦では、六番・一塁手として出場。翌1943年、投手に転向し12勝をあげ、石丸進一、西沢道夫らと共に投手陣の柱として活躍した。この頃、晩年の沢村栄治からも安打を放っている。1944年9月に行われた日本野球総運動大会にも参加し、その後応召された。 戦時中は満州で憲兵として活躍していたが、シベリア抑留を経験。栄養失調で倒れ、生死の境を彷徨ったが、戦友の看護により一命を取り留める。
塚本 悦郎(つかもと えつろう、1924年11月30日 - … 塚本 悦郎(つかもと えつろう、1924年11月30日 - 2014年8月16日)は、福岡県出身のプロ野球選手(外野手)。 明善中を経て西南学院経済専門学校を卒業。戦前にプロ球団を保有し、日本野球連盟への復帰を目指す西日本鉄道に進む。1948年の都市対抗にチーム初出場。武末悉昌の好投もあって決勝に勝ち進み星野組と対戦、初参加で初優勝を果たす。武末以外のチームメートにも宮崎要、武末悉昌、上野義秋、深見安博、大崎憲司、伴勇資ら、のちにプロ球団の主力となる選手が揃っていた。 1950年に西日本鉄道が創立した西鉄クリッパースへ入団する。1952年には外野陣の一角として起用され、規定打席には届かなかったが打率.308を記録。
伴 勇資(ばん ゆうじ、1923年5月20日 - 2003年… 伴 勇資(ばん ゆうじ、1923年5月20日 - 2003年7月29日)は、福岡県出身のプロ野球選手(捕手、三塁手)。野球監督。
井上 次平(いのうえ じへい、1923年5月11日 - )は… 井上 次平(いのうえ じへい、1923年5月11日 - )は、福岡県出身の元プロ野球選手。
西江 一郎(にしえ いちろう、1923年5月6日 - 没年不… 西江 一郎(にしえ いちろう、1923年5月6日 - 没年不明)は福岡県飯塚市出身の元プロ野球選手(内野手)、野球監督。 旧制嘉穂中学(現:嘉穂高校)、社会人野球の日鉄二瀬を経て、1948年秋に大阪タイガースに入団。 入団初年度の1948年から31試合に出場した。1950年には、前年まで遊撃手のレギュラーだった長谷川善三(1949年オフに西鉄に移籍)に代わって遊撃手のレギュラーとして135試合に出場した。この年は、セ・リーグ遊撃手シーズン最多失策記録である71失策を記録した。翌1951年には白坂長栄の台頭で、レギュラーの座を奪われるものの貴重な控え選手として活躍した。1954年オフに自由契約になり、東映フライヤーズに移籍。
千頭 久米夫(ちかみ くめお、1922年12月3日 - )は… 千頭 久米夫(ちかみ くめお、1922年12月3日 - )は、福岡県出身のプロ野球選手(二塁手、三塁手、遊撃手、外野手)。
武末 悉昌(たけすえ よしまさ、1922年10月4日 - 1… 武末 悉昌(たけすえ よしまさ、1922年10月4日 - 1998年6月2日)は、福岡県出身のプロ野球選手(投手)・コーチ・監督、解説者・評論家。 名前は、悉昌を音読みして「しっしょう」とも称した。 福岡県筑紫郡の農家の家系に生まれる。父が農業を継がせようとする両親(武末にとっては祖父母にあたる)に反発して家を出奔して銀行員となったため、1人残った武末は祖父母からの迫害を受けることになった。旧制筑紫中学(現:福岡県立筑紫丘高等学校)を卒業後、親類から逃れて野球を続けるために旧満州に渡り、大連高等商業学校を経て、満協中央銀行に入る。その後、1944年に召集令状を受け取り、関東軍に経理将校として召集される。
金山 次郎(かなやま じろう、1922年7月19日 - 19… 金山 次郎(かなやま じろう、1922年7月19日 - 1984年3月30日)は、福岡県(朝鮮・慶尚南道晋陽郡生まれ)出身のプロ野球選手(内野手)。 豊国商業(現豊国学園高)から1943年に名古屋軍へ入団。 1944年に3本で本塁打王を獲得。 1948年に球団代表の赤嶺昌志が辞任に追い込まれると、後を追って、小鶴誠、加藤正二、古川清蔵、三村勲、野口正明、岩本章、井上嘉弘、藤原鉄之助らと共に退団し、永田雅一が結成した大映球団に所属し大映球団が東急フライヤーズに合流する形で急映フライヤーズに移籍した。 1949年に金星スターズが永田雅一によって買収され大映スターズとなり、そのチームに小鶴誠らと共に移籍。
江藤 晴康(えとう はるやす、1922年5月9日 - 201… 江藤 晴康(えとう はるやす、1922年5月9日 - 2016年2月21日)は、福岡県北九州市出身のプロ野球選手である。現役時代のポジションは、投手。1949年から1954年は、「江藤 正(えとう ただし)」の名前でプレーした。 八幡中(現:八幡高)・法政大学でエース投手として活躍。在学中に学徒出陣で召集され、台湾で終戦を迎える。大学卒業後は社会人野球の門司鉄道局・大洋漁業でプレー。1949年に南海ホークスに入団した。 プロ入りに際し、大阪タイガースと南海ホークスとの二重契約が発覚。これには、以下のような事情がある。以前に武末悉昌の獲得を巡って両球団が争い、武末が南海に入ったことを「奪われた」と考えた大阪の若林忠志監督が南海の山本一人監督に抗議したところ、山本が「武末は南海、江藤は大阪ということにしよう」と口にした。
岩橋 利男(いわはし としお、1921年3月6日 - 没年不… 岩橋 利男(いわはし としお、1921年3月6日 - 没年不明)は、福岡県出身のプロ野球選手。 明善中学校から門司鉄道管理局に入社。門司鉄道管理局時代は三塁手として活躍するも、戦後の国鉄の人員整理に掛かり、退社を余儀なくされた。 1950年に、この年創設された国鉄スワローズの結成に参加。3月10日の開幕戦(かつスワローズの緒戦)・大洋戦(下関球場)では「3番・一塁手」として先発出場。チーム事情から4番を打つ機会も多かった。球団初のサヨナラ安打を含む、サヨナラヒットを2本打っている。1952年に引退した。
大崎 憲司(おおさき けんじ、1920年12月20日 - )… 大崎 憲司(おおさき けんじ、1920年12月20日 - )は、福岡県出身のプロ野球選手(投手)。