岩松 玄十(いわまつ げんじゅう、1881年〈明治14年〉2… 岩松 玄十(いわまつ げんじゅう、1881年〈明治14年〉2月5日 - 1976年〈昭和51年〉3月5日)は、日本の検事。 佐賀県佐賀市出身。1908年(明治41年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業し、司法官試補となる。大津地方裁判所判事、奈良区裁判所検事、東京区裁判所検事、長野地方裁判所検事、千葉地方裁判所検事、同検事正、台湾総督府高等法院検察官長、横浜地方裁判所検事正、東京控訴院検事、司法省行刑局長、宮城控訴院検事長、長崎控訴院検事長を歴任し、1941年(昭和16年)からは大阪控訴院検事長を務めた。 1976年(昭和51年)3月、急性心不全で死去した。
副島 綱雄(そえじま つなお、1881年〈明治14年〉1月2… 副島 綱雄(そえじま つなお、1881年〈明治14年〉1月24日 - 1941年〈昭和16年〉11月27日)は、日本の実業家。元大阪三品取引所常務理事。佐賀県多久市出身。 上皇后美智子の祖父で、今上天皇の曽祖父にあたる。 1881年(明治14年)1月24日、佐賀県士族の副島哲吾の次男として同県多久市で生まれる。1896年(明治29年)に副島富五郎の養子となる。1902年(明治35年)大阪高等商業学校(現在の大阪市立大学)を卒業。 その後、1917年(大正6年)から1923年(大正12年)まで江商(現在の兼松)上海支店長を務める。また日本が上海に作った国策企業である中支那復興の常務理事も務めた。その他にも天満織物監査役や1934年(昭和9年)から1937年(昭和12年)までは大阪三品取引所常務理事を歴任。
梅崎 延太郎(うめざき のぶたろう、1880年(明治13年)… 梅崎 延太郎(うめざき のぶたろう、1880年(明治13年)7月13日 - 1964年(昭和39年)4月24日)は、大日本帝国陸軍軍人。陸軍士官学校12期、陸軍大学校22期。最終階級は陸軍中将(1931年8月1日)。栄典は従三位勲一等。 1880年(明治13年)7月13日、士族の梅崎信量の長男として生まれる。1916年(大正5年)家督を相続。 1901年(明治34年)陸軍士官学校を卒業し、陸軍少尉に任官する。 それからドイツ、スウェーデンなどに留学し、スウェーデン公使館、デンマーク公使館附武官を勤め、1920年(大正9年)9月27日、騎兵第18連隊長、1928年(昭和3年)3月8日陸軍騎兵学校長、1929年(昭和4年)8月1日騎兵第1旅団長、1930年(昭和5年)12月22日、軍馬補充本部長などを歴任する。
持永 浅治(淺治、もちなが あさじ、1880年(明治13年)… 持永 浅治(淺治、もちなが あさじ、1880年(明治13年)5月8日 - 1956年(昭和31年)3月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 佐賀県出身。持永房種の三男として生まれる。佐賀中学校(現佐賀県立佐賀西高等学校)を経て、1904年(明治37年)10月、陸軍士官学校(16期)を卒業し、同年11月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第46連隊付となる。 1907年(明治40年)12月、歩兵中尉に昇進し、1913年(大正2年)7月、兵科を憲兵科へ転科し憲兵中尉となる。1914年(大正3年)4月、憲兵大尉、1920年(大正9年)8月、憲兵少佐に進み東京憲兵分隊長に就任。1922年(大正11年)8月、弘前憲兵隊長に就任。
古賀 伝太郎(こが でんたろう、1880年3月1日 - 19… 古賀 伝太郎(こが でんたろう、1880年3月1日 - 1932年1月9日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍大佐。しばしば「古賀聯隊長」とよばれる。旧姓、野方。 佐賀県佐賀郡生まれ。野方房次の五男として生まれ、古賀家の養子となる。佐賀中学校卒を経て、1901年(明治34年)12月、士官候補生(15期)として騎兵第3連隊に入隊。1903年(明治36年)11月、陸軍士官学校を卒業。1904年(明治37年)3月、騎兵少尉に任官、騎兵第3連隊付としてただちに日露戦争に出征し、随所で戦って戦功あり。奥保鞏軍司令官から個人感状を授与された。 以後、1910年(明治43年)9月、騎兵第3連隊副官となり、同中隊長、騎兵第22連隊中隊長、同連隊副官、騎兵第2旅団副官などを歴任し、累進して1927年(昭和2年)7月、騎兵中佐に任じ、翌年8月、騎兵第27連隊長に補せられた。
橋爪 勇(はしづめ いさむ、1880年(明治13年)2月21… 橋爪 勇(はしづめ いさむ、1880年(明治13年)2月21日 - 没年不詳)は、佐賀市長。弁護士。 佐賀県佐賀市出身。1908年(明治41年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業した。同年、司法官試補となる。1911年(明治44年)に長野地方裁判所判事、米子区裁判所判事となったが、翌年に退官した。退官後は佐賀市で弁護士事務所を開業し、また高取鉱業株式会社監査役・肥前電気株式会社取締役も務めた。1916年(大正5年)、佐賀市会議員に当選し、副議長、議長を歴任した。 1936年(昭和11年)、佐賀市長に選出され、1946年(昭和21年)まで務めた。その後、公職追放となった。
嘉村 達次郎(かむら たつじろう、1879年(明治12年)1… 嘉村 達次郎(かむら たつじろう、1879年(明治12年)11月6日 - 1963年(昭和38年)2月20日)は、明治・大正・昭和初期の軍人。佐賀郡東与賀町(現佐賀市東与賀町)出身。最終階級は陸軍少将。 父卯七母トメの長男として東与賀村下飯盛生まれる。地元の私塾「興文塾」で学んだのち、軍人を志して陸軍士官学校に進学する(陸士13期)。1902年(明治35年)歩兵少尉として歩兵第24連隊に配属。その後は熊本陸軍幼年学校生徒監(大尉)、仙台陸軍幼年学校長(中佐)、金沢連隊区司令官、歩兵第42連隊長(大佐)と進み、1930年(昭和5年)8月少将に昇進し朝鮮軍第20師団所属の歩兵第39旅団長に就任した。
高柳 直夫(たかやなぎ ただお、1878年(明治11年)5月… 高柳 直夫(たかやなぎ ただお、1878年(明治11年)5月4日 - 1904年(明治37年)5月3日)は、日本の海軍軍人。第三回旅順港閉塞作戦で「江戸丸」指揮官を務め戦死した海軍少佐である。従六位勲五等功五級。 佐賀県出身。佐賀中学で2年間学び、知新館を経て、海軍兵学校26期を59名中11番で卒業した。同期に小林躋造、野村吉三郎、水野広徳などがいる。1900年(明治33年)少尉任官。日露戦争開戦を迎え、防護巡洋艦「秋津洲」砲術長として出征した。 高柳は第3回閉塞作戦に「江戸丸」 指揮官として参加する。「江戸丸」は「遠江丸」(本田親民少佐)、「釜山丸」 (大角岑生大尉)とともに第二小隊を構成し、中央左側に沈没させる予定であった。
鳥巣 玉樹(とす たまき、1877年〈明治10年〉12月1日… 鳥巣 玉樹(とす たまき、1877年〈明治10年〉12月1日 - 1949年〈昭和24年〉5月21日)は、大日本帝国海軍の軍人。最終階級は海軍中将。佐賀県佐賀市出身。 佐賀県佐賀中学校、福岡県立尋常中学修猷館を経て、海軍兵学校第25期入校。入校時成績順位は36名中第4位、卒業時成績順位は32名中第3位。 鳥巣の経歴の特徴は教育部門勤務とイギリス派遣が目立ち、駐在武官2回、艦船回航委員2回の計4回の在英経験は当時としても多い方である。1924年(大正13年)から1925年(大正14年)には、東宮御用掛として海軍軍事学を進講した。 艦隊司令官在勤2年未満を理由に大将昇格は見送られ予備役に編入された。
福田 五郎(ふくだ ごろう、1877年(明治10年)10月3… 福田 五郎(ふくだ ごろう、1877年(明治10年)10月3日 - 1931年(昭和6年)6月23日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党)、検事。 佐賀市出身。兄は佐賀商業会議所会頭となった福田慶太郎。1905年(明治38年)、京都帝国大学法科大学卒業。司法官試補から福岡地方裁判所判事、小倉区裁判所判事、熊本区裁判所検事、熊本地方裁判所検事、福岡地方裁判所検事、仙台区裁判所検事、神戸区裁判所検事兼神戸地方裁判所検事を歴任した。1919年(大正8年)、官を辞し、海運業を営んだ。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、3回の当選を重ねた。その間、濱口内閣で逓信参与官を務めた。
中冨 三郎(なかとみ さぶろう、1876年(明治9年)2月 … 中冨 三郎(なかとみ さぶろう、1876年(明治9年)2月 - 1957年(昭和32年)3月17日)は、日本の実業家。久光製薬の前身にあたる久光合名会社の創業者であり社長である。 平成31年3月28日、中冨記念くすり博物館に銅像が建立された。 基肄郡田代村(現佐賀県鳥栖市)出身。久光与市の三男として誕生した。 1903年(明治36年)12月10日、佐賀県三養基郡田代村大字田代又203番地において、兄弟(安次郎・友三・伍郎)とともに久光兄弟合名会社を設立、代表社員となった。 1905年(明治38年)、旧筑後国久留米藩士族中冨家の養子となり、中冨姓となった。和紙に薬剤を展延した膏薬づくりを研究し、1907年(明治40年)に「朝日万年膏」を改良し、ついで健胃下剤の「快復丸」、消炎鎮痛の「アスピリン丸」、感冒薬の「赤龍丸」などを開発し、朝鮮・中国・台湾などへ販路を拡大。
石井 秀八(いしい ひではち、1876年(明治9年)1月 -… 石井 秀八(いしい ひではち、1876年(明治9年)1月 - 没年不明)は、日本および台湾の実業家、技術者、電気工業家。 佐賀県杵島郡住吉村(のち山内村→山内町、現・武雄市)で、石川政右衛門の長男として生まれる。家は代々鍋島氏の藩臣だった。幼時に郷校で学を修め、1889年(明治22年)に上京して欧文成功学館に入って語学を学ぶ。その後、工手学校に入り、芝中学校に転校して卒業した後、高等工業学校に入学して電気科を卒業。東京の三吉電気工場に入って、技師となる。 その後、京都電燈付属工場の主任技師に転じ、さらに横浜電話交換局技師、不二製紐会社電気部技師、横浜ヒーリング商社の主任技師などを経て、明治35年に横浜で電気商社を起こして独力で経営に従事するが不成功に終わり、大阪に出て関西電気商社を設立・経営するがこれもうまくいかなかった。
緒方 勝一(おがた しょういち、1875年1月25日 - 1… 緒方 勝一(おがた しょういち、1875年1月25日 - 1960年12月28日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍大将。
木下 文次(きのした ぶんじ、1875年(明治8年)1月3日… 木下 文次(きのした ぶんじ、1875年(明治8年)1月3日 - 1968年(昭和43年))は、明治・大正・昭和初期の軍人。佐賀郡東与賀町(現佐賀市東与賀町)出身。最終階級は陸軍中将。栄典は正二位勲二等。 1875年、元東与賀村助役木下善次の長男として生まれる。与賀高等小学校から佐賀中学校、さらに陸軍士官学校に8期生として入校。成績優秀で所謂「恩賜の銀時計」組であった。日露戦争に従軍し、遼陽会戦にて負傷し前線を離れた。戦後は陸軍大学校に学び(陸大18期)ここでも銀時計組となった。 その後は歩兵第56連隊長、第2師団参謀長、歩兵第29旅団長を経て1925年(大正14年)旅順要塞司令官に着任。軍事に加え遼東半島の軍政を司った。
大石 和三郎(おおいし わさぶろう、1874年〈明治7年〉3… 大石 和三郎(おおいし わさぶろう、1874年〈明治7年〉3月15日 - 1950年〈昭和25年〉12月18日)は、日本の気象学者。ジェット気流の発見者として有名。エスペランティストである。 1874年、佐賀県鳥栖市生まれ。第一高等中学校予科尋常中学科、第一高等学校第二部学科を経て、1898年(明治31年)東京帝国大学理科大学物理学科を卒業。さらに大学院で学んだ。1899年(明治32年)中央気象台に入り、地磁気、空中電気の観測を担当する。1911年(明治44年)ドイツのリンデンベルク高層気象台及びポツダム気象台に留学した。帰国後の1920年(大正9年)に高層気象台の初代台長に就任した。 1926年に刊行された「高層気象台報告第1号」で、大石は測風気球による高層気流の観測結果をエスペラントで世界に公表した(同年に「高層気象台彙報」にて日本語で報告している)。
安満 欽一(やすみつ きんいち、1871年4月2日(明治4年… 安満 欽一(やすみつ きんいち、1871年4月2日(明治4年2月13日) - 1960年10月24日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。
西久保 豊一郎(にしくぼ とよいちろう、明治2年12月6日〈… 西久保 豊一郎(にしくぼ とよいちろう、明治2年12月6日〈1870年1月7日〉 - 明治38年〈1905年〉7月12日)は、日本の陸軍軍人。階級は陸軍歩兵少佐。栄典は正六位勲四等功四級。 歩兵第50連隊第1大隊長、後備歩兵第29連隊大隊長等を務め日露戦争で勇戦、樺太の戦いに於いて戦死を遂げた。 三重県警部長従七位の西久保紀林の子として肥前国佐賀郡鍋島村八戸(現佐賀市)に生まれる。兄は西久保弘道。明治7年、父に従い東京へ移住。明治8年8月から東京芝区巴町の第一番小学鞆絵学校(後の港区立鞆絵小学校。平成3年3月閉校し現在は港区立御成門小学校)に入校する。明治10年10月に佐賀の日新小学校に転校。明治12年4月には再び父の転勤の為三重県津市養正小学校に転校する。
石井 良一(いしい りょういち、1869年10月30日(明治… 石井 良一(いしい りょういち、1869年10月30日(明治2年9月26日)- 1950年(昭和25年)7月8日)は、日本の実業家、政治家、郷土史研究家。福岡県若松市長。旧姓・山崎。 肥前国杵島郡武雄村下西山(現佐賀県武雄市)で山崎又七の三男として生まれる。1884年6月、武雄中学校を卒業して九州鉄道に入社。1887年11月、石井宗直の婿養子となり石井に改姓。 九州鉄道では福岡、博多、小倉、門司の各駅長、門司運輸事務所長、本社調査係長などを務め、1907年7月、鉄道国有化後に帝国鉄道庁参事となる。1910年9月、植村俊平大阪市長に迎えられ大阪市主事となり、さらに大阪市電気鉄道部長を務めた。 1914年から1922年まで福岡県若松市長を務め、この間、武雄に株式会社蓬莱銀行を設立して頭取となった。
伊東 祐保(いとう すけやす、1869年4月14日(明治2年… 伊東 祐保(いとう すけやす、1869年4月14日(明治2年3月3日) - 1914年(大正3年)10月18日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大佐。 第一次世界大戦において防護巡洋艦・「高千穂」艦長として戦死した。 佐賀県佐賀市松原にて佐賀藩士伊東祐寿の三男として生まれる。維新後間も無く父を亡くし、藩中老として総野軍監を務めた祖父の伊東祐元に育てられる。攻玉社を経て明治19年(1886年)海軍兵学校に進み、明治23年(1890年)卒業(17期)。同期に秋山真之、山路一善、森山慶三郎らがいる。 海軍少尉に任官後、日清戦争に参戦。威海衛で行われた世界初の水雷夜襲実施の際は、占領した砲台に赴き港内偵察にあたった。
南部 麒次郎(なんぶ きじろう、1869年4月2日(明治2年… 南部 麒次郎(なんぶ きじろう、1869年4月2日(明治2年2月21日) - 1949年(昭和24年)5月1日)は、日本の陸軍軍人、銃器開発者。東京砲兵工廠提理、南部銃製造所創設者。階級勲等は陸軍中将勲二等。工学博士。 明治末期、大正、昭和にかけて銃器開発で活躍した日本陸軍技術将校である。日本の警察が制式採用する拳銃ニューナンブM60や、明治時代の傑作軍用小銃と評価される三八式歩兵銃などにその名を残す。 肥前鍋島藩の士族、砲術家の南部春雍の二男として生まれる。母親は幼少の時に亡くなり、実家も大変貧乏だったため10歳で商家に奉公に出される。苦労を重ねた後、佐賀中学、干城学校を経て、陸軍士官学校合格(2期)。
岡田 三郎助(おかだ さぶろうすけ、旧姓:石尾、1869年2… 岡田 三郎助(おかだ さぶろうすけ、旧姓:石尾、1869年2月22日 〈明治2年1月12日〉 - 1939年9月23日)は、明治から昭和にかけて活躍した日本の洋画家、版画家である。女性像を得意とし、日本的な感覚の洋画に秀作を残し、現存する作品のほぼ半分を風景画が占める。第1回文化勲章を受章。東京美術学校(現:東京藝術大学)教授。現在の佐賀県佐賀市八幡小路生まれ。族籍は東京府平民。 1869年、肥前佐賀藩の石尾家に生まれる。士族・石尾孝基の三男。幼名は芳三郎。1887年、岡田政蔵の養子になり、家督を相続する。二松学舍、成立学舎、東洋英和学校等に学ぶ。 父とともに幼くして上京し、麹町の鍋島侯邸内で暮らした。
石井 次郎(いしい じろう、1868年7月8日(明治元年5月… 石井 次郎(いしい じろう、1868年7月8日(明治元年5月19日)- 1939年(昭和14年)3月19日)は、日本の教育者、実業家、政治家。衆議院議員をつとめた。 肥前国小城郡、のちの佐賀県小城郡南多久村(現在の多久市)に生まれる。生家の石井家は、旧佐賀藩主鍋島家の外戚家門で、佐賀地方で繁栄した一族であった。 地元で小学校の教師として働き始めるが、郷里の先輩である大隈重信らの活躍に憧れて、政治家を志す。1888年(明治20年)には、弱冠20歳にして郡会議員に選ばれ、政治家としての第一歩を踏み出す。10年後には佐賀県会議員に当選し、その期間、第17代県会議長もつとめた。また、小城郡是製糸、多久金融、多久土地の各社の取締役社長などもつとめた。
松村 龍雄(まつむら たつお、1868年2月25日(慶応4年… 松村 龍雄(まつむら たつお、1868年2月25日(慶応4年2月3日) - 1932年7月18日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍中将。
伊丹 弥太郎(伊丹 彌太郎、いたみ やたろう、慶応2年12月… 伊丹 弥太郎(伊丹 彌太郎、いたみ やたろう、慶応2年12月12日(1867年1月17日) - 1933年(昭和8年)10月3日)は、明治から昭和初期にかけて活動した日本の実業家。 現在の佐賀県佐賀市出身。父の事業を継いで佐賀の栄銀行(佐賀銀行の前身の一つ)頭取を務め、同行を中心に多数の企業に関係して「佐賀財閥」と呼ばれる地方財閥を築いた。また佐賀県下有数の地主でもあり、佐賀県多額納税者として貴族院議員を1期7年務めている。 佐賀県外では電気事業や鉄道事業にかかわり、九州電灯鉄道・東邦電力社長、九州鉄道(現・西日本鉄道)初代社長を歴任した。 伊丹弥太郎は慶応2年12月12日(1867年1月17日)、佐賀県士族伊丹文右衛門の長男として生まれた。
松尾 広吉(松尾 廣吉、まつお こうきち / ひろきち、18… 松尾 広吉(松尾 廣吉、まつお こうきち / ひろきち、1867年1月8日〈慶応2年12月3日〉- 1937年〈昭和12年〉1月16日)は、日本の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員、佐賀県西松浦郡伊万里町長。 肥前国松浦郡伊万里町(現佐賀県伊万里市伊万里町)で、素封家・松尾貞吉の長男として生まれる。漢学を修める。 1904年(明治37年)、陸海軍の諸機械器具製造を行う松尾鉄工所を設立。家業をたばこ専売のほかに郡内の「煙草元売捌所」を開業して拡大。その他、伊万里銀行監査役、伊万里鉄道監査役、魚市 (名) 社長、東洋油脂工業取締役などを務めた。 政界では、伊万里町会議員、西松浦郡会議員などを務め、1911年(明治44年)9月29日、貴族院多額納税者議員に就任し、一期務めて1918年(大正7年)9月28日まで在任した。
石井 義太郎(いしい よしたろう / ぎたろう、1866年9… 石井 義太郎(いしい よしたろう / ぎたろう、1866年9月5日(慶応2年7月27日) - 1927年(昭和2年)2月16日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 佐賀城下水ヶ江にて、士族石井忠方の子として生まれた。生家は佐賀藩主鍋島氏の藩祖以来の外戚家門で、祖父石井忠彬は、藩の重職にあった。 明治19年(1886年)12月、海軍兵学校(12期)を卒業。兵学校時代の同期生には、同じ佐賀県出身の江頭安太郎らがいた。1888年(明治21年)1月、海軍少尉に任官。 明治25年(1892年)12月、海軍大尉に昇進し「筑波」航海長に就任。以後、「千代田」「扶桑」「吉野」「金剛」の各航海長を歴任。明治31年(1898年)2月、海軍少佐に昇進した。
伊東 祐俊(いとう すけとし、慶応2年(1866年)9月 -… 伊東 祐俊(いとう すけとし、慶応2年(1866年)9月 - 没年不詳)は日本の陸軍軍人。最終階級は中佐。 肥前国松原(佐賀県佐賀市)出身。佐賀藩士伊東祐寿の子。維新後間も無く父を亡くし、藩中老として総野軍監を務めた祖父の伊東祐元に育てられる。1889年(明治22年)7月、陸軍士官学校(旧11期)を卒業、歩兵第24連隊、歩兵第48連隊を経て明治天皇直属の近衛歩兵第2連隊第3大隊第11中隊長を務める。日露戦争にも参戦し、奉天会戦・黒溝台会戦などで第一軍の先陣指揮をとる。近衛歩兵第1連隊第1大隊長として凱旋し、歩兵第3連隊、歩兵第2連隊で大隊長、1910年から1912年まで陸軍水戸連隊区司令官。1913年1月に中佐で予備役編入。
森永 太一郎(もりなが たいちろう、慶応元年6月17日(18… 森永 太一郎(もりなが たいちろう、慶応元年6月17日(1865年8月8日) - 昭和12年(1937年)1月24日)は、日本の実業家。森永製菓創業者。安倍晋三首相の妻・昭恵は外曾孫娘にあたる。父親の死後、幼少期のほとんどを母親の実家力武家で養われる。 父・常次郎、母・キクの長男・伊左衛門として肥前国松浦郡伊万里(現・佐賀県伊万里市)に生まれる。生家の森永商店は陶磁器の積み出し港として栄えた伊万里で一番の陶器問屋で、伊万里湾の漁業権を握る網元でもあったが、父の代には家勢も衰え、6歳の時に父が病死すると財産は人手に渡り、母は再婚。親類の家を転々とする不遇な幼少時代を過ごした。やがて伯父の山崎文左衛門に引き取られて山崎太一郎となり、商人の心構えを教え込まれた。
張 二男松(ちょう におまつ、1865年(慶応元年)2月23… 張 二男松(ちょう におまつ、1865年(慶応元年)2月23日 - 1952年(昭和27年))は、日本の教育家。佐賀県師範学校及び長崎県女子師範学校元校長。元トヨタ自動車株式会社名誉会長・張富士夫の祖父。従五位勲五等。族籍は佐賀県士族。 唐津町出身。長崎県師範学校中等師範科卒業。卒業後、同校教諭、諫早中学、小城中学教諭を経て、1884年(明治17年)7月佐賀中学兼佐賀県師範学校教諭に就任。 1886年(明治19年)、教育令改正と共に師範学校教諭となり、1918年(大正7年)に長崎県女子師範学校、1921年(大正10年)に佐賀県師範学校校長となる。 1927年(昭和2年)5月、退職。
西 英太郎(にし えいたろう、元治元年9月3日(1864年1… 西 英太郎(にし えいたろう、元治元年9月3日(1864年10月3日) - 1930年(昭和5年)8月5日)は、日本の衆議院議員(立憲同志会→憲政会→立憲民政党)、実業家。 肥前国小城郡多久村(現在の佐賀県多久市)に、佐賀藩士西雅広の長男として生まれる。儒学者岡松甕谷に漢学を学んだ後、東京に出て中村正直の同人社で英学を学んだ。 小城郡会議員、佐賀県議会議員を経て、1914年(大正3年)の衆議院補欠選挙に出馬し、当選。以後、当選回数は6回を数えた。 その他、佐賀県農工銀行頭取、唐津鉄道取締役、肥前電気鉄道取締役、唐津製鋼所取締役、佐賀毎日新聞社社長などを歴任した。
千葉 胤明(ちば たねあき、1864年7月14日(元治元年6… 千葉 胤明(ちば たねあき、1864年7月14日(元治元年6月11日) - 1953年(昭和28年)6月25日)は、東京府士族、歌人、書家、日本芸術院会員。親族:秋山虎六、天本浩義。 肥前佐賀出身。1881年佐賀中学校卒。1884年佐野常民に師事、竜地会事務職に就く。1885年高崎正風に師事、和歌を学ぶ。書を長三州に学ぶ。1888年農商務省博覧会勤務。1890年内国勧業博覧会、パリ万国博覧会事務。1892年宮内省御歌所勤務。1908年御歌所寄人。1916-1919年明治天皇御製編纂に従事。1936-1944年歌会始点者。1937年帝国芸術院会員。1946年従三位に叙せられた。墓所は青山霊園。 近衛公爵、徳川公爵、大山公爵、前田侯爵、蜂須賀侯爵、鍋島侯爵等へ伺う。
大石 熊吉(おおいし くまきち、元治元年5月13日(1864… 大石 熊吉(おおいし くまきち、元治元年5月13日(1864年6月16日) - 昭和20年(1945年)5月11日)は、日本の衆議院議員(憲政本党)。 佐賀藩士大石良英の二男として生まれる。藩校弘道館で学ぶが、東京に出て神田共立学校、大学予備門で学んだ。その後大隈重信の知遇を得、1884年(明治17年)に大隈の勧めでアメリカ合衆国のラトガース大学に留学した。ラトガーズ大学で学位を得た後、1889年(明治22年)にニューヨーク大学に入り、1892年(明治25年)に哲学博士号を得た。 帰国後は『報知新聞』記者や東京専門学校(現在の早稲田大学)講師を務めた。1897年(明治30年)、大隈が農商務大臣に就任するとその秘書官となり、翌年に大隈が内閣総理大臣に就任にすると秘書官となった。
狩野 雄一(かのう ゆういち、文久3年11月21日(1863… 狩野 雄一(かのう ゆういち、文久3年11月21日(1863年12月31日) - 大正12年(1923年)4月29日)は、日本の衆議院議員(立憲国民党→立憲同志会)。 肥前国佐賀郡赤松(現在の佐賀県佐賀市)出身。狩野玄介、タキ夫妻の長男として生まれる。西肥日報社の経営にあたった。 1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙で当選を果たした。
江藤 新作(えとう しんさく、1863年11月27日(文久3… 江藤 新作(えとう しんさく、1863年11月27日(文久3年10月17日) - 1910年(明治43年)1月6日)は、明治時代の政治家、衆議院議員。幼名松次郎。号は節山。初代司法卿、江藤新平の次男。次男は江藤夏雄(衆議院議員)。 江藤新平の次男として佐賀に生まれる。1874年(明治7年)に父・新平が佐賀の乱に敗れ刑死すると、新平の弟の源作に引き取られた。新作の名は父と叔父から1字ずつ取ったものである。1878年(明治11年)に佐賀県参事や水戸裁判所長などを歴任した元佐賀藩士の家永恭種が開いた戊寅義学に入学。また1883年(明治16年)に4歳年上の兄・熊太郎が23歳で亡くなると江藤家の家督を継いでいる。
藤山 雷太(ふじやま らいた、1863年9月13日(文久3年… 藤山 雷太(ふじやま らいた、1863年9月13日(文久3年8月1日)- 1938年(昭和13年)12月19日)は、佐賀藩出身の明治・大正・昭和の実業家、貴族院勅選議員。福澤諭吉門下直系の実業家として、東京商業会議所会頭、芝浦製作所所長、大日本製糖社長、藤山同族社長、大日本製氷会長、日印協会理事、また三井財閥・安田財閥・共同の各信託会社の相談役・取締役等を歴任し、藤山コンツェルンを創立した。正五位勲三等。 1919年(大正8年)に藍綬褒章、1923年(大正12年)に紺綬褒章を受章。次いでフランス政府からレジオン・ドヌール・シュバリエ勲章を受章。安南(現在のベトナム)国王からはグラン・オフィシェ・ド・ランテン勲章を贈られた。
井原 喜代太郎(いはら きよたろう、1863年8月5日(文久… 井原 喜代太郎(いはら きよたろう、1863年8月5日(文久3年6月21日)- 1920年(大正9年)8月6日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員、佐賀県会議長、佐賀県藤津郡南鹿島村長。俳号・黄渓。 肥前国藤津郡高津原村(佐賀県藤津郡南鹿島村、鹿島町、現鹿島市横田)で、鹿島藩士・井原五兵衛(陶一、為助)の長男(長子)として生まれる。谷口藍田(中秋)から漢学を学び、鹿島変則中学で普通学を修めた。その後上京し、専修学校(現専修大学)で学び、慶應義塾を卒業した。1882年(明治15年)12月、家督を相続した。 1886年(明治19年)鹿島銀行の創立に参画し、佐世保支店長、取締役、頭取を歴任。
村上 格一(むらかみ かくいち、文久2年11月1日(1862… 村上 格一(むらかみ かくいち、文久2年11月1日(1862年12月21日) - 昭和2年(1927年)11月15日)は、日本の海軍軍人。海軍大将。清浦内閣の海軍大臣。佐賀県出身。幼名は袈裟之助(けさのすけ)。養子に海軍少将・村上暢之助。また実娘は海軍少将・横井忠雄と結婚している。
相浦 多三郎(あいのうら たさぶろう、1862年6月19日(… 相浦 多三郎(あいのうら たさぶろう、1862年6月19日(文久2年5月22日)- 1942年(昭和17年)6月16日)は、明治期の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。従四位、勲三等、功四級。 佐賀藩士・相浦蕃慎の次男として生まれる。兄に海軍中将相浦紀道がいる。藩校(弘道館)を経て、1883年(明治16年)12月25日に陸軍士官学校(フランス式旧士官学校)を卒業(旧6期、騎兵)し、同日、陸軍騎兵少尉に任官。 1901年(明治34年)5月に騎兵第12連隊長に就任。1904年(明治37年)5月に騎兵大佐となる。日露戦争に出征し、鴨緑江会戦、遼陽会戦、沙河会戦、奉天会戦などに参戦した。1908年(明治41年)12月に軍馬補充部白河部長に就任後、1910年(明治43年)6月に陸軍少将に昇進と同時に予備役に編入された。
宇都宮 太郎(うつのみや たろう、1861年4月27日〈文久… 宇都宮 太郎(うつのみや たろう、1861年4月27日〈文久元年3月18日〉- 1922年〈大正11年〉2月15日)は、日本の陸軍軍人。階級は陸軍大将、位階・勲等は正三位勲一等功三級。 イギリス大使館付武官、参謀本部第二部長、第7師団長、第4師団長、三・一運動時の朝鮮軍司令官、軍事参議官を歴任した。桂太郎、仙波太郎と共に「陸軍の三太郎」と呼ばれる。最近15年分の日記を遺族が公開し、2007年(平成19年)4月から11月にかけて出版された。いわゆる「佐賀の左肩党」の盟主で、皇道派の荒木貞夫・真崎甚三郎の庇護者でもあった。子息にミノファーゲン社長・衆議院議員の宇都宮徳馬。 佐賀鍋島藩士、亀川貞一の四男として生まれる。
中江 豊造(なかえ とよぞう、1861年(文久元年2月)- … 中江 豊造(なかえ とよぞう、1861年(文久元年2月)- 1942年(昭和17年)3月4日)は、明治期の教育者、政治家。衆議院議員。 肥前国松浦郡、のちの佐賀県東松浦郡相知村(相知町を経て現唐津市相知町)で生まれる。1878年(明治11年)佐賀県師範学校速成科を卒業した。 長崎県地租改正御用掛、小学校訓導、小学校長を歴任。佐賀県会議員に選出され、同常置委員を務めた。 1894年(明治27年)3月、第3回衆議院議員総選挙で佐賀県第2区から自由党所属で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
野口 能毅(のぐち のうき、万延元年8月17日(1860年1… 野口 能毅(のぐち のうき、万延元年8月17日(1860年10月1日) - 昭和15年(1940年)5月22日)は、日本の内務官僚、政治家。秋田市長や佐賀市長を務めた。 肥前国小城郡小城町(現在の佐賀県小城市)に小城藩剣道師範波多野信倚の子として生まれ、家老野口雲斎の養子となった。1880年(明治13年)に任官して、佐賀県警部、同警察署長、三重県警察署長などを務めた。さらに1899年(明治32年)から小城郡長、大分県警察部長、佐賀県警察部長、秋田県警察部長を歴任した。 1905年(明治38年)から1906年(明治39年)にかけて秋田市長を務め、その後、1912年(明治45年)から1931年(昭和6年)まで佐賀市長を5期務めた。
川原 茂輔(かわはら もすけ、1859年10月10日〈安政6… 川原 茂輔(かわはら もすけ、1859年10月10日〈安政6年9月15日〉- 1929年〈昭和4年〉5月19日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議長、佐賀県会議長。位階は従四位。勲等は勲二等。 肥前国西松浦郡大川内村(現:佐賀県伊万里市)生まれ。草場船山の塾で漢学を学ぶ。佐賀県参事会員、佐賀日日新聞社長などを歴任。 1884年(明治17年)4月から1892年(明治25年)9月まで佐賀県会議員を務めた。同年2月、第2回衆議院議員総選挙に佐賀県第2区で中央交渉部から出馬し初当選。次の第3回衆議院議員総選挙では国民協会から出馬するも落選。1899年(明治32年)9月に佐賀県会議員選挙に西松浦郡選挙区から自由派(憲政党派)所属で立候補して、当選した。
岡田 時太郎(おかだ ときたろう、1859年9月13日(安政… 岡田 時太郎(おかだ ときたろう、1859年9月13日(安政6年8月17日) - 1926年(大正15年)6月5日)は、日本の建築家。同郷でもある辰野金吾の門下生で、茨城県牛久市にあるシャトーカミヤや、長野県軽井沢町の旧三笠ホテル(いずれも国の重要文化財)の設計を手がけた。 唐津藩下に、辰野金吾生家のすぐ近くで生まれ育つ。1872年(明治5年)、唐津藩が設置した英語学校である耐恒寮に入学し、3年間英語を学ぶ。 1875年12月に大阪の英学校へ進学、翌1876年3月に造幣寮附属日進学校に入学した。日進学校では4年英語を勉強する。在学中の1876年5月に造幣寮に入官し、文書課詰となる。1877年10月に造幣局(この年1月11日に造幣寮より改称)貯蔵掛に移る。
南里 琢一(なんり たくいち、1859年3月4日(安政6年1… 南里 琢一(なんり たくいち、1859年3月4日(安政6年1月30日)- 1938年(昭和13年)4月14日)は、明治から大正期の政治家。衆議院議員、佐賀県小城郡芦刈村長。 肥前国小城郡川越村(佐賀県小城郡浜枝川村、芦刈村、芦刈町川越を経て現小城市芦刈町浜枝川川越)で、小城藩士・南里俊八の長男として生まれる。小城藩校興譲館で学び、さらに川副二水に師事し漢学を修めた。農業を営み、地域の産業振興に尽力した。 2代刈芦村長に就任し13年間在任した。小城郡会議員、同参事会員、佐賀県会議員、西芦刈水利組合議員なども務めた。松田正久の側近として活動し、立憲政友会佐賀県支部長を務めた。 1915年(大正4年)3月の第12回衆議院議員総選挙に佐賀県郡部から政友会所属で出馬して初当選。
第11代齋藤 用之助(さいとう ようのすけ、1859年(安政… 第11代齋藤 用之助(さいとう ようのすけ、1859年(安政6年) - 1933年(昭和8年))は、沖縄県の行政官、実業家。中頭郡長、首里区長、島尻郡長、那覇区長を歴任した。 佐賀藩(現在の佐賀県佐賀市諸富町山領)で誕生し、1877年(明治10年)、佐賀で巡査となるが、明治政府による1872年(明治5年)から続いた琉球処分の結果、1879年(明治12年)に琉球が沖縄県となったため、初代県令に任命された鍋島直彬に随って沖縄に赴任した。その後、県行政職に転じ、46年間にわたって沖縄の近代化に大きく貢献した。
北古賀 竹一郎(きたこが たけいちろう、1858年9月9日(… 北古賀 竹一郎(きたこが たけいちろう、1858年9月9日(安政5年8月3日)- 1926年(大正15年)8月14日)は、明治時代から大正時代の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 肥前国佐賀郡本庄村(現在の佐賀県佐賀市)において、佐賀藩士の北古賀兵蔵の長男として生まれる。海軍兵学校を卒業し海軍少尉となる。同期に海軍大将となった斎藤実がいる。後に海軍大学校に入学し、卒業後に日清戦争に従軍した。1899年、海軍大佐となり海軍省軍務局兵器課長に就任した。 1906年、呉工廠長となり、1908年に舞鶴工廠長、同年に海軍水雷学校校長兼横須賀水雷団長などとなった。また、駐英造船造兵監督官や艦政本部第1部長、東京造兵廠長なども務めた。
納富 教雄(安政5年6月11日(1858年7月21日)- 昭… 納富 教雄(安政5年6月11日(1858年7月21日)- 昭和9年(1934年)2月)は、日本の剣術家。流派は戸田流。称号は大日本武徳会剣道範士。 肥前国小城郡西川(現在の佐賀県小城市)に生まれる。納富家は小城藩の武術師範の家系で、代々五郎太夫を名乗った。教雄が明治30年(1897年)7月に建碑した石碑によれば、五郎太夫(父と祖父のどちらを指しているか不明)は「真之乱流組打・真之乱流棒縄術・戸田流剣術・真之乱流二刀・根岸流長刀」9代師範とある。納富家の道場での他流試合や道場での修行中に無念にも亡くなった人々を葬ったという「鬼塚」が現在も残る。 「鬼塚」は、納富道場へ来訪した諸国を廻る武者修行の剣士や道場破り、他流試合などの中で亡くなった人々のみを葬ったと言われているが、道場の稽古中に無念ながら亡くなった身寄りの無い門下生や、諸国巡礼中に病気や怪我により亡くなった方々を弔うための塚である。
小林 芳郎(こばやし よしろう、安政4年3月29日(1857… 小林 芳郎(こばやし よしろう、安政4年3月29日(1857年4月23日) - 昭和11年(1936年)3月23日)は、明治から大正期にかけて活動した日本の検事。大正時代初期には大阪控訴院検事長として辣腕をふるい、「検察の神様」と呼ばれた。 肥前国水ヶ江(現・佐賀県佐賀市)において、葉隠の武士、佐賀藩士 南里与助の四男として生まれる。生まれてすぐに、与助の兄・小林丈蔵の養子となった。このころ、叔父にあたる真崎秀郡や、その友人である楠田英世と交流を持った。上京ののち東京開成学校に学ぶも中退。明治12年(1879年)、中村正直の私塾・同人社に入学した。 明治16年(1883年)に判事補となり、のちに判事から検事に転じる。
志田 林三郎(しだ りんざぶろう、1856年2月1日(安政2… 志田 林三郎(しだ りんざぶろう、1856年2月1日(安政2年12月25日) - 1892年(明治25年)1月4日)は、日本の物理学者・電気工学者。佐賀県小城郡東多久村(現在の多久市、当時佐賀藩)生まれ。工学博士、電気学会創設者。 日本で初めて工学博士となった5人のうちの1人。他に古市公威、松本荘一郎、原口要、長谷川芳之助がいる。 饅頭屋の子として小城郡東多久村別府に生まれる。早くに父親を亡くし、母の手で育てられたが、神童の誉れ高く、佐賀藩家老多久氏の家臣に取り立てられる。幼少時から学問に優れ、特に数学が得意だった。藩費により1872年に工部省工学寮(後に工部大学校、現在は東京大学工学部)に入学し、ウイリアム・エアトン等の下で電信学を学んだ。
長谷川 芳之助(はせがわ よしのすけ、1856年1月22日(… 長谷川 芳之助(はせがわ よしのすけ、1856年1月22日(安政2年12月15日)- 1912年(大正元年)8月12日)は、明治期の鉱山学者、実業家、政治家。衆議院議員、工学博士。 日本で初めて工学博士となった5人のうちの1人。他に古市公威、松本荘一郎、志田林三郎、原口要がいる。 肥前国松浦郡唐津城下(佐賀県東松浦郡唐津町を経て現唐津市)で、唐津藩士・長谷川久徴の長男として生まれた。長谷川家は代々同藩数学師範を務め、父は剣術にも優れていた。8歳で藩校に入り漢学を修めた。また父から数学を、佐藤与造から蘭学を学ぶ。父の大坂在勤に従い、1868年(明治元年)長崎通詞何礼之から英学を学び、大阪開成所(のち大阪英語学校)で英語を教えた。