加田 克司(かだ かつじ、1931年3月18日 - 1996… 加田 克司(かだ かつじ、1931年3月18日 - 1996年8月24日)は、日本の囲碁棋士。大分県別府市出身、日本棋院所属、木谷實九段門下、九段。加納嘉徳、大平修三とともに戦後新三羽烏と言われた。堅実な碁風で、特に序盤に時間をかける長考で有名。また現代における詰碁創作の第一人者と評されていた。 中華民国青島市に生まれる。1945年4月に一家で祖父のいる天津に疎開。1946年3月に帰国し別府に住む。この年8月、中学3年の時に、神戸から別府を周遊した木谷實と五子局を打って勝ち、三子で負けるが、入門を認められ、木谷門下の戦後第1号として11月から内弟子となる。1947年初段。1948年二段。1950年三段。
埴 沙萠(はに しゃぼう、1931年2月3日 - 2016年… 埴 沙萠(はに しゃぼう、1931年2月3日 - 2016年2月23日)は、日本の植物生態写真家。40年以上植物の生態を撮り続けた。特に人生の後半は、植物が芽を出す瞬間を取り続けた。持論は足元に小宇宙がある。 1949年に「シャボテン研究家」(原文のママ)の龍膽寺雄に師事。1951年に東京農業大学に砂漠植物研究室を設置したとしている。 また、1960年には静岡県伊東市大室山のシャボテン公園の企画設計を担当し、砂漠植物研究室のコレクションを移した。 なお、同地は2016年10月22日に名称変更して「伊豆シャボテン動物公園」となっている。公園完成後に東京農業大学を辞して、山口県屋代島(周防大島)に移住。
藤井 凡大(ふじい ぼんだい、1931年1月2日 - 199… 藤井 凡大(ふじい ぼんだい、1931年1月2日 - 1994年7月24日)は、日本の作曲家、指揮者、音楽教育家である。 大分県竹田市生まれ。 幼児の頃から母に生田流箏曲を学ぶ。旧制福岡高等学校時代、福岡合唱協会で知り合った指揮者の石丸寛から影響を受ける。 九州大学工学部造船学教室へ進学し、1953年卒業。在学中より作曲を始める。同年、東京新聞主催の全国邦楽コンクール作曲部門で「和楽器と管弦楽協奏の為の一楽章」を自演(箏)して作曲部門の第1位となり、文部大臣賞、NHK賞を受賞。以後、放送音楽を中心とする作曲・指揮活動に入る。 作品には「東洋の楽器による交響曲・西遊記」(1967年文部省芸術祭レコード部門受賞)、「絲竹交響」、「伊勢物語抄」などの邦楽器楽曲、「北原白秋の詩による9つのカノン」、「筑紫のわらべ唄」などの合唱曲、オーケストラ作品等、作曲・編曲多数。
小野 信爾(おの しんじ、1930年10月23日 - )は、… 小野 信爾(おの しんじ、1930年10月23日 - )は、日本の歴史学者。花園大学名誉教授。専攻は中国近代史。 1930年、大分県竹田市で生まれた。生家は豊後岡藩主中川家の菩提寺として知られる寺院・碧雲寺。山門には豊臣秀吉の朝鮮出兵に際して略奪してきたという「碧雲寺」の扁額が掲げられていた。父親は旧制中学の国語教師であった。 大分県立竹田高等学校を経て、1949年に京都大学文学部入学。1951年2月22日、下鴨警察署近くで「アメリカの朝鮮戦争に協力するな」という趣旨のビラを撒いたことで、GHQの占領政策違反に問われて軍事裁判を受け、重労働3年・罰金1000ドルの判決を受けた。文学部の同級生、教授らの減刑嘆願署名などによって刑期は2年に減刑された。
坂本 休(さかもと やすむ、1930年10月8日 - )は、… 坂本 休(さかもと やすむ、1930年10月8日 - )は、大分県日田郡中津江村の自治体としての同村の最後の村長。最終学歴は中津江村国民学校卒業。自称「日本人のカメルーン人」。 日田市中津江村栃野在住。 自らが村長を務めていた当時の2002年、中津江村が2002 FIFAワールドカップ(W杯)でカメルーン代表のキャンプ地に選ばれたが、カメルーン選手団の中津江村入りが予定より5日も遅れたことで村とともに坂本の名も全国に知れ渡った。「W杯(中津江村)」は2002年の新語・流行語大賞年間大賞に選ばれ、坂本もその受賞者となった。 W杯後も大分スポーツ公園総合競技場(ビッグアイ、現:昭和電工ドーム大分)で開催された日本代表対カメルーン代表の親善試合(キリンチャレンジカップ)に顔を出したり、自身がカメルーンを訪問し、友好都市であるメヨメサラ市にも足を運ぶなど中津江とカメルーンの交流を続けている。
栗木 安延(くりき やすのぶ、1930年5月8日 - 200… 栗木 安延(くりき やすのぶ、1930年5月8日 - 2002年3月1日)は、日本のマルクス経済学者・歴史学者。専修大学名誉教授。博士(経済学)。 大分県中津市出身。雑貨商の家に生まれる。1944年、旧制大分県立中津中学校(現在の大分県立中津南高等学校・大分県立中津北高等学校の前身)在学中に、熊本陸軍幼年学校に入学した。しかし、敗戦に伴い、陸軍幼年学校は解散し、中津中学校に復学した。中学校卒業後、旧制第五高等学校(現在の熊本大学)への入学を希望したが、GHQが軍関係の学校に在籍していた者の旧制高等学校入学者に占める割合を制限したため、やむなく1948年、官立明治工業専門学校(現在の九州工業大学)に進学した。
二階堂 暹(にかいどう あきら、1930年3月11日 - 2… 二階堂 暹(にかいどう あきら、1930年3月11日 - 2006年9月15日)は、日本の経営者。二階堂酒造社長を務めた。大分県出身。 杵築中学校(旧制)を卒業後に、実家の家業を引き継ぐ。1964年に二階堂酒造取締役に就任し、1972年には社長に昇格。1995年には会長に就任。 2006年9月15日肝臓癌のために死去。76歳没。
仲道 俊哉(なかみち としや、1929年11月25日 - )… 仲道 俊哉(なかみち としや、1929年11月25日 - )は、日本の政治家。自由民主党所属の元参議院議員(1期)。 30年近くの教員生活の後、4期にわたって大分県議会議員を務め、県議会副議長などを歴任。 1998年の第18回参議院議員通常選挙に自由民主党公認で立候補し、民主党公認の釘宮磐を僅差で破って初当選。2001年に発足した第1次小泉内閣では、内閣府大臣政務官(科学技術・沖縄振興担当)に任命された。 2004年の第20回参議院議員通常選挙では、民主党公認の足立信也に10万票以上の大差で敗れ、落選した。
渡辺 四郎(渡邊 四郎、わたなべ しろう、1929年(昭和4… 渡辺 四郎(渡邊 四郎、わたなべ しろう、1929年(昭和4年)7月29日 - 2007年(平成19年)12月24日)は、日本の政治家。参議院議員(2期)。 現在の大分県日田市出身。大分県立日田林工学校卒。1947年(昭和22年)、福岡県庁に入り、1970年(昭和45年)、福岡県職員労組委員長。1979年(昭和54年)、自治労福岡県本部委員長。 1986年(昭和61年)の第14回参議院議員通常選挙福岡県選挙区に日本社会党公認で立候補して当選。2期務めた。1998年(平成10年)に引退。 1999年(平成11年)、秋の叙勲で勲二等瑞宝章受章。 2007年(平成19年)12月24日午後8時27分、胃癌のため福岡県筑紫野市の病院で死去、78歳。
佐藤 三吾(さとう さんご、1929年7月8日 - 2005… 佐藤 三吾(さとう さんご、1929年7月8日 - 2005年1月11日)は、日本の政治家、参議院議員(3期、日本社会党)。お墓はモンゴルにあり(分骨)。 大分県挾間町出身。1948年庄内農芸学校卒、同年大分県庁に入る。県庁内では労働運動に加わり、大分県労組委員長、自治労大分県本部委員長、自治労中央副委員長などを歴任し、1977年の第11回参議院議員通常選挙において日本社会党公認で全国区から立候補して当選した。国会では決算委員長などを務めた。3期務めた後、1995年に参議院議員を引退した。1999年秋の叙勲で勲二等旭日重光章受章。2005年1月11日、心不全のため死去、75歳。死没日をもって正四位に叙される。
直野 敦(なおの あつし、1929年3月18日 - )は、日… 直野 敦(なおの あつし、1929年3月18日 - )は、日本の翻訳家・東欧・ロシア文学者。東京大学教養学部名誉教授。 大分県大分市生まれ。1954年東京大学文学部仏文科卒、1957年一橋大学大学院社会学研究科修士課程修了。金子幸彦ゼミ出身。1958年からルーマニア・ブカレスト大学に学び、1963年同文学部卒業。1965年同大学院修士課程修了、帰国。翻訳を幾つか出し、1969年東京大学教養学部専任講師、1971年11月助教授、1976年12月教授、1989年定年退官し名誉教授、文化女子大学教授、1990年文学部長。2004年退職。 主としてルーマニア語、ルーマニア文学の教育、翻訳を行なった。かつては社会主義思想を信奉していたが、後年は、宗教学者ミルチャ・エリアーデが、初期に書いた小説作品の翻訳で知られる。
立川 清登(たちかわ すみと、1929年〈昭和4年〉2月15… 立川 清登(たちかわ すみと、1929年〈昭和4年〉2月15日 - 1985年〈昭和60年〉12月31日)は、日本のバリトン歌手。二期会所属。本名は立川 澄人(たつかわ すみと)。旧芸名は立川 澄人、所属レコード会社はビクター音楽産業(現在のビクターエンタテインメント〈二代目法人〉)。洗足学園大学客員教授も務めた。 大分県大分市出身。春日浦海岸近くのフグ料理の料亭である春日亭(現在は閉店)に生まれる。大分県立別府第二高等学校(現在の大分県立芸術緑丘高等学校)、東京芸術大学卒業。マルガレーテ・ネトケ=レーヴェ、中山悌一に師事し、1953年『椿姫』のジェルモンでデビュー。歌劇を始めミュージカル、テレビ番組への出演も多く、NHK紅白歌合戦にも1963年から1966年まで連続4回出場した。
佐藤 文夫(さとう ふみお、1929年2月14日 - 202… 佐藤 文夫(さとう ふみお、1929年2月14日 - 2023年8月23日)は、日本の経営者。東芝社長を務めた。 大分県臼杵市出身。1953年、東京大学工学部機械工学科卒業。同年、東京芝浦電気(現在の東芝)に入社。1982年6月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1988年6月に副社長に就任した。1992年6月に社長に昇格し、1996年6月に会長に就任し、1999年からは相談役を務めた。 日本ロジスティクスシステム協会会長、日本科学技術振興財団理事、日本機械学会会長なども歴任した。 2023年8月23日腎不全のために死去。94歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
夜桜 銀次(よざくら ぎんじ、1929年 - 1962年1月… 夜桜 銀次(よざくら ぎんじ、1929年 - 1962年1月16日)は、20世紀に活動した日本のヤクザ。暴力団・三代目山口組 石井組組員(舎弟)。大分県由布市出身。本名は平尾 国人。全身に夜桜の咲き乱れる刺青をしていたことからこの呼び名がついた。 大分県大分郡庄内町に出生。1952年頃に石井一郎(のちの三代目山口組直参)の舎弟となり、1957年の別府抗争では襲撃の先頭に立ち警察に指名手配された。このため神戸に逃れ、山口組・田岡一雄組長の舎弟・白石幸吉の許に身柄預かりとなる。 1960年の明友会事件でも明友会襲撃に猛威を振るい、再度大阪府警から傷害・銃刀法違反容疑で指名手配された。このため、山口組若頭・地道行雄、山口組若頭補佐・山本広、白石幸吉の勧めで、福岡県福岡市の伊豆組・伊豆健児組長の許に身を寄せる。
畑 英次郎(はた えいじろう、1928年〈昭和3年〉9月10… 畑 英次郎(はた えいじろう、1928年〈昭和3年〉9月10日 - 2023年〈令和5年〉8月4日)は、日本の政治家。位階は従三位、勲章は勲一等瑞宝章。 通商産業大臣(第56代)、農林水産大臣(第19代)、衆議院議員(7期)、民主党副代表、太陽党幹事長、大分県日田市長(3期)等を歴任した。 大分県日田市生まれ。1946年、武蔵工業専門学校(現東京都市大学)を中退し、出身地である日田市の市役所に入庁。その後、旧大分1区選出の衆議院議員・広瀬正雄の秘書に転じる。 1968年、日田市長選挙に立候補し、初当選。市長を3期11年務め、1979年に3期目の任期途中で辞職。同年の第35回衆議院議員総選挙に自由民主党の公認を受け、旧大分1区から広瀬の地盤を引き継いで出馬し、当選した(当選同期に佐藤信二・保利耕輔・麻生太郎・小里貞利・岸田文武・白川勝彦・丹羽雄哉・亀井静香・吹田愰・宮下創平・亀井善之・船田元らがいる)。
大内 初夫(おおうち はつお、1928年(昭和3年)8月16… 大内 初夫(おおうち はつお、1928年(昭和3年)8月16日 - 2003年(平成15年)9月13日)は、日本の国文学者。鹿児島大学名誉教授。専門は俳文学。 大分県日田市生まれ。九州大学国文科卒業。同大学院、佐賀龍谷短期大学(現・九州龍谷短期大学)助教授を経て、1958年、鹿児島大学教養部助教授、のちに教授。1982年、「近世九州俳壇史の研究」で、九州大学より文学博士の学位を取得。1994年、定年退官、名誉教授、ノートルダム清心女子大学教授。1999年、退職。 2003年9月13日、脳出血のため死去。75歳没。没後正四位勲三等旭日中綬章受勲。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
菊池 功(きくち こう、1928年7月9日 - 2006年2… 菊池 功(きくち こう、1928年7月9日 - 2006年2月5日)は、日本の経営者。安川電機社長、会長を務めた。 大分県中津市出身。1956年に慶應義塾大学工学部を卒業し、同年に安川電機製作所(のちの安川電機)に入社した。1978年に取締役に就任し、常務を経て、1985年に社長に就任した。1996年に会長に就任し、1999年には特別顧問に就任。1994年から1996年までに日本電機工業会会長を務めた。 1989年に藍綬褒章を受章。 2006年2月5日心不全のために死去。77歳没。
古田 徳昌(ふるた のりまさ、1928年3月27日 - 20… 古田 徳昌(ふるた のりまさ、1928年3月27日 - 2019年9月9日)は、日本の通商産業官僚。通商産業省貿易局長を最後に退官後、電源開発理事等を経て、マツダ第7代社長に就任。 大分県宇佐市出身。実兄は珉珉創業者であり日本画家の古田安夫。中津商業学校(現大分県立中津東高等学校)、大分経済専門学校(現大分大学経済学部)を経て、東京大学経済学部卒業。 1952年(昭和27年)、通商産業省入省。同期には杉山和男(通産省事務次官)、並木信義(名古屋市大教授)、小松国男(通産審議官)、小島英敏(経企次官)、谷村昭一(経企次官、日商専務理事)、服部典徳(工業技術院総務部長)、倉部行雄(防衛庁装備局長)、平林勉(官房審議官)などがいる。
千葉 馨(ちば かおる、1928年3月6日 - 2008年6… 千葉 馨(ちば かおる、1928年3月6日 - 2008年6月21日)は、日本のホルン奏者。NHK交響楽団の首席ホルン奏者を長く務め、「バーチ」の愛称でも知られた。妻はピアニストの本荘玲子。 大分県別府市出身。7歳からヴァイオリンを学び、中学校(旧制)在学中にラッパ鼓隊の一員となってホルンを学んだ。東京音楽学校に進み、在学中に日本交響楽団(現:NHK交響楽団)の研究員となり、1949年に卒業すると同時に同楽団の正団員となった。 1956年から1958年まで渡欧、デトモルト音楽大学のグスタフ・ノイデッカーおよびフィルハーモニア管弦楽団のデニス・ブレインに師事した。 日本のホルン奏者の草分け的な存在で、NHK交響楽団の首席奏者として長く活躍した。
大江 志乃夫(おおえ しのぶ、1928年2月8日 - 200… 大江 志乃夫(おおえ しのぶ、1928年2月8日 - 2009年9月20日)は、日本の歴史学者、作家。茨城大学名誉教授。専門は日本近現代史。文学博士(東京教育大学)。 大分県大分市生まれ。父は陸軍軍人の大江一二三(敗戦時に大佐。陸士32期)。大分県師範学校附属小学校(現大分大学教育福祉科学部附属小学校)、東京市立富久小学校、東京府立第四中学校(現東京都立戸山高等学校)を経て、1944年、熊本陸軍幼年学校を卒業し陸軍予科士官学校へ進学。1945年陸軍航空士官学校に入学し、在学中に敗戦。敗戦による士官学校の解散に伴い復員。1950年旧制第五高等学校卒業、1953年旧制名古屋大学経済学部卒業、1954年名古屋大学大学院経済学研究科中退。
今村 俊三(いまむら しゅんぞう、1928年1月25日 - … 今村 俊三(いまむら しゅんぞう、1928年1月25日 - 1990年12月24日)は日本の俳人。 大分県大分市生まれ。教職にあった父親の転勤にともない、中津市、若松市(現北九州市)、直方市などで幼少期・少年期を過ごし、終戦を福岡市で迎える。旧制福岡県立福岡中学校在学中に、右上葉浸潤、左肺上部空洞、左腎臓結核を併発、その後死去まで、結核と闘うことになる。 1946年、同中学校卒業。桂樟蹊子および石田波郷に師事。「霜林」「鶴」を経て、1979年、「桃滴舎」を創刊、主宰。1980年から1983年まで、西日本新聞のコラム「風車」を担当。句集10冊のほかに、「風車」のコラムをまとめた『桃滴コラム』、「桃滴舎」に連載したエッセイなどをまとめた『桃滴記』『桃滴日録』などの著書がある。
石井 均(いしい きん、1927年〈昭和2年〉11月30日 … 石井 均(いしい きん、1927年〈昭和2年〉11月30日 - 1997年〈平成9年〉12月31日)は、日本の俳優、喜劇役者。 大分県豊後高田市是永町出身。本名は石原 仁。芸名の由来は、「〝一〟獲千〝金〟」という言葉が好きな事に由来。(一均=井均) 熊本逓信講習所卒業(昭和18年)。 1948年(昭和23年)、八幡の寿座で初舞台を踏み、以後旅回りをする。 1956年(昭和31年)、新宿フランス座に加入。体技型のコメディアンとして頭角を現す。 1958年(昭和33年)6月、軽演劇一座「笑う仲間」を旗揚げ、後に「石井均一座」に改組。主に新宿の松竹演芸場を根城にし、座員には戸塚睦夫のほか、石井の弟子の伊東四朗(当時は伊藤証)、財津一郎(当時は財津肇メ)らがいた。
岩澤 重夫(いわさわ しげお、1927年 <昭和2年> 11… 岩澤 重夫(いわさわ しげお、1927年 <昭和2年> 11月25日 - 2009年 <平成21年> 11月7日)は、日本の画家、日本芸術院会員、文化功労者。位階は正四位。旭日重光章。 大分県日田市出身。京都府京都市に在住していた。大分県立日田中学校、京都市立美術専門学校卒。 1927年に現在の大分県日田市豆田町に生まれる。幼少の頃は、学校に行く前に魚釣りのに行くほど川が大好きな少年だった。晩年水辺に緑の山や季節の花を描いた小品を制作したが、それは全て魚釣りをするときの視点に基づいている。14歳の時に真珠湾攻撃が勃発、父親の勧めで17歳にして自ら入隊を志願。終戦までの1年5ヶ月の間に滋賀県で訓練を受けた後、盛岡、福生、万世、横田と日本各地を転々と移動。
金馬 昭郎(きんば あきお、1927年8月18日 - 201… 金馬 昭郎(きんば あきお、1927年8月18日 - 2019年4月15日)は、日本の実業家。京阪電気鉄道社長、会長などを務めた。 大分県大分市出身。大分県立大分上野丘高等学校、東京大学第二工学部土木工学科卒業。1951年4月、京阪電気鉄道に入社。主に技術畑を歩み、1977年から取締役、常務、専務を経て1992年から副社長。1995年から社長に就任。京阪神急行電鉄(1943年に阪神急行電鉄と京阪電気鉄道が合併して発足。企業としては現在の阪急阪神ホールディングス)から京阪電鉄が再分離した後に入社した、初の社長となった。社長時代は子会社の整理など事業の構造改革に取り組んだ。2001年に社長を退任。尚、後任の社長の佐藤茂雄も同郷・大分県出身である。
寺司 勝次郎(てらし かつじろう、1927年8月1日 - 2… 寺司 勝次郎(てらし かつじろう、1927年8月1日 - 2015年4月3日)は、大分県大分市出身の版画家。昭和36年棟方志功らの日本版画会創立に参加し、一貫して屋根瓦を題材とした作品を発表した。 以下、公式ウェブサイトによる。 大分県大分市三ケ田町の呉服店の次男として生まれる。大分県立大分中学校(現:大分県立大分上野丘高等学校)に進学するが、4年生だった1943年の2学期より大日本帝国海軍航空隊に志願入隊する。5ヶ所の航空隊勤務を経て特攻訓練中に入院した。終戦後の1945年9月に復員する。11月に大分経済専門学校(現:大分大学経済学部)1年に編入する。 1948年に大分経専を卒業後は家業の呉服商、銀行員、会社員、不動産業を経験する。
河合 誓徳(かわい せいとく、1927年4月3日 - 201… 河合 誓徳(かわい せいとく、1927年4月3日 - 2010年3月7日)は、日本の陶芸家、日本芸術院会員。 大分県東国東郡国見町生まれ。1940年、旧制宇佐中学校に入学するも、1943年、鹿児島海軍航空隊甲飛13期飛行練習生として入隊。上海海軍航空隊を経て、終戦により復員。1947年、京都で山本紅雲に師事。1949年、国東へ戻るが陶磁の道を諦められず、諸隈貞山に弟子入りする。1951年、京都の加藤利昌の下で下絵付に従事。1952年、京都陶芸家クラブに加入し、6代清水六兵衛に師事。1952年、日展に初入選。1953年、河合栄之助の長女登志子と結婚し、河合家の後継者となる。その後、1961年設立の日本現代工芸美術家協会へ活躍の幅を広げ、その作品は数多くの賞を受賞する。
中村 裕(なかむら ゆたか、1927年3月30日 - 198… 中村 裕(なかむら ゆたか、1927年3月30日 - 1984年7月23日)は、日本の医師・整形外科医。身体障害者のスポーツ振興をはかった。日本パラリンピックの父と呼ばれる。 大分県別府市出身。九州大学医学部卒業後、九州大学病院整形外科に医師として勤務。 1958年から大分県の国立別府病院整形外科医長。1966年、大分中村病院を設立。1979年-1983年国際パラプレジア医学会副会長、1979年-1980年日本パラプレジア医学会会長。 1965年に障害者の自立のための施設「太陽の家」を創設。また、障害者スポーツ振興に情熱を傾け、1964年の東京パラリンピックで選手団長を務め、第1回極東・南太平洋身体障害者スポーツ大会(フェスピック)開催に尽力。
本郷 公威(ほんごう こうい、 1926年(大正15年)11… 本郷 公威(ほんごう こうい、 1926年(大正15年)11月26日 - 1991年(平成3年)3月31日)は、昭和期の教育者、政治家。日本社会党衆議院議員(1期)。 大分県直入郡白丹村(久住町を経て現竹田市)出身。1947年(昭和22年)大分師範学校卒。大分県内で小中学校の教員を務め、1972年(昭和47年)大分県教職員組合委員長となる。教職員の待遇改善、教育問題の解決に努め、日の丸・君が代反対運動などを推進した。 1979年の第35回衆議院議員総選挙で大分1区から日本社会党公認で立候補して当選。この選挙で大分1区では同じ社会党から村山富市も当選し、2名当選した。翌年の第36回衆議院議員総選挙で落選した(同選挙では村山も落選した)。
荒巻 淳(あらまき あつし、1926年11月16日 - 19… 荒巻 淳(あらまき あつし、1926年11月16日 - 1971年5月12日)は、大分県大分市出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ、解説者。
飯尾 憲士(いいお けんし、1926年8月21日 - 200… 飯尾 憲士(いいお けんし、1926年8月21日 - 2004年7月26日)は、日本の小説家。大分県竹田市生まれ。 父は1916年に日本統治下の朝鮮・京城から渡日した朝鮮人、母は日本人で、戸籍上は母の私生児であった。旧制竹田中学を卒業後、1944年陸軍航空士官学校に入学するも、終戦のため中途退学。1949年第五高等学校文科卒。新制高校の教師や、業界誌編集などの後、文筆業などに従事した。 1964年「炎」(『詩と眞實』)で芥川賞候補、『文學界』に転載される。1975年初の著書を刊行、1978年父の秘密を描いた「海の向うの血」ですばる文学賞佳作。1980年「ソウルの位牌」で、1981年「隻眼の人」で芥川賞候補、1982年、終戦直後に自決した航空士官学校時代の自身の区隊長であった上原重太郎大尉の真相を追う『自決』が直木賞候補となり注目される。
工藤 良平(くどう りょうへい、1926年(大正15年)3月… 工藤 良平(くどう りょうへい、1926年(大正15年)3月14日 – 1986年(昭和61年)9月10日)は、昭和期の農林技官、労働運動家、政治家。衆議院議員、参議院議員。 大分県直入郡阿蘇野村(大分郡阿蘇野村、庄内村、庄内町を経て現由布市庄内町阿蘇野)で生まれる。1943年(昭和18年)大分県立三重農学校(のちの大分県立三重農業高等学校)を卒業。阿蘇野小学校助教を務め、その後徴兵され陸軍少尉となる。 戦後、農業に従事し青年団活動を行う。1950年(昭和25年)農林省食糧庁に入庁し大分食糧事務所に配属され、その後、農林技官となる。労働運動に加わり、全食糧労働組合中央本部役員、全農林労働組合大分支部長、同中央本部執行委員、大分県労働組合評議会事務局長、同副委員長、大分県地方労働委員会委員、同農政審議会委員などを務めた。
秋吉 良雄(あきよし よしお、1926年(大正15年)2月8… 秋吉 良雄(あきよし よしお、1926年(大正15年)2月8日 - 没年不詳)は、日本の大蔵官僚。北海道開発事務次官、武富士社長、同副会長などを務めた。 大分県別府市出身。1947年9月:東京帝国大学法学部政治学科卒業。1947年10月:復興金融公庫経理部書記。1947年12月:高等試験行政科を合格。 1947年12月:大蔵省入省。管理局属。1949年6月:管財局外国財産課。1949年6月:門司税関監視部付。 1949年12月:門司税関長官房付。1950年5月:八戸税務署長。1952年3月:仙台国税局総務部総務課長。 1953年7月:主計局主計官補佐。1953年9月:主計局主計官補佐(農林係)。
千原 雅生(ちはら まさお、1926年1月1日 - )は、大… 千原 雅生(ちはら まさお、1926年1月1日 - )は、大分県出身の元プロ野球選手。右投右打で、ポジションは三塁手。
江河 徹(えがわ とおる、1926年 - )は、英文学者、立… 江河 徹(えがわ とおる、1926年 - )は、英文学者、立教大学・フェリス女学院大学名誉教授。 大分県日田市生まれ。1962年東京都立大学 (1949-2011)大学院英文学専攻博士課程修了。立教大学助教授、教授、1992年フェリス女学院大学教授。2002年定年、名誉教授。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
豊光 重信(とよひかり しげのぶ、1925年9月28日 - … 豊光 重信(とよひかり しげのぶ、1925年9月28日 - 1962年8月6日)は、立浪部屋、時津風部屋(当初は双葉山相撲道場)に所属した元大相撲力士。元若者頭。本名は和間 重信(わま しげのぶ)(旧姓清水)。現在の大分県中津市出身。183cm、84kg。最高位は東十両18枚目。得意技は右四つ、上手投げ。 1941年1月場所に初土俵。1954年3月場所に十両昇進。しかし、連続負け越しで幕下陥落。1957年1月場所に引退し、若者頭に転じた。
横尾 幸弘(よこお ゆきひろ、1925年3月31日 - 20… 横尾 幸弘(よこお ゆきひろ、1925年3月31日 - 2009年12月25日)は、戦後の日本ギター界の黎明期にギターを発展させた。日本のクラシック・ギタリスト兼作曲家。171cm、B型。 1925年3月31日、大分県日田市川原町三隈川河川の町屋の和紙卸商横尾紙店、父東次、母時枝。7人兄弟の三男として生まれた。両親はともに達筆であり町内ポスターなどの制作も手掛けていた。また母方の祖父横尾清は日田郡立工藝學校家具科の教諭であった。 1931年大分県三芳尋常高等小学校へ入学。1939年中学3年生の時京都の大学へ通う一つ上の兄大助が持ち帰ったギターの影響を受け横尾は独学でギターを学び始める。京城歯科医専(現在のソウル大学)へ主席の成績で入学するもののギターへの思いが強く両親の反対を押し切り中退する。
濤崎 忍(とうさき しのぶ、1925年1月21日 - 199… 濤崎 忍(とうさき しのぶ、1925年1月21日 - 1996年6月6日)は、日本の経営者。川崎製鉄社長、会長を務めた。大分県中津市出身。 1944年に東京帝国大学第一工学冶金学科を卒業し、同年に川崎重工業に入社した。1950年に川崎製鉄に移り、取締役、常務、専務を経て、1986年に副社長に就任し、1990年6月には社長に昇格した。1995年から会長に就任した。 1979年と1981年に大河内賞を受賞した。 1996年6月6日心不全のために死去。71歳没。
坂本 義和(さかもと よしかず、1925年 - 没年不詳)は… 坂本 義和(さかもと よしかず、1925年 - 没年不詳)は、日本の社会運動家。「引揚を記念する舞鶴全国友の会」理事長、関西蒲江郷友会理事および教育報道新聞神戸市局長を歴任した。大分県蒲江町出身。 1945年(昭和20年)8月の終戦時、旧満州奉天第三方面軍司令部に所属していた。シベリア抑留(パフタラル収容所(現・ウズベキスタン)、カラカンダ収容所(現・カザフスタン)を経て、1948年(昭和23年)9月、舞鶴港に復員した。 帰国後は第百生命保険に勤務し、1985年(昭和60年)に定年退職する。 2006年には劇団四季がシベリア抑留を題材として上演した『ミュージカル異国の丘』の公演に招待された。
巌 浩(いわお ひろ、1925年 – 2019年6月12日)… 巌 浩(いわお ひろ、1925年 – 2019年6月12日)は、大分県出身の編集者。 書評紙『日本読書新聞』の黄金時代の編集長、雑誌『伝統と現代』の編集・発行人として知られる。 おさない頃におじ(父の兄弟)の、大分県津久見市の西教寺住職の巌義円(元津久見町長・市長、元大分県議会副議長)の養子となる。臼杵中学を卒業。 1942年に鹿児島の旧制七高に入学。のちに政界の黒幕といわれた四元義隆が柔道部の先輩にいた。1944年9月に東京大学に入学。だが同年12月に召集され、国内で陣地構築を行い、終戦を迎える。 戦後、復学して東京大学文学部卒業後の1949年、田所太郎が編集長をつとめていた『日本読書新聞』(刊行元:日本出版協会)に入社。
茅野 良男(かやの よしお、1925年 - 2016年7月3… 茅野 良男(かやの よしお、1925年 - 2016年7月3日)は、日本の哲学者、大阪大学名誉教授。ハイデッガーを中心としてドイツ哲学を研究した。
石松 安次(いしまつ やすじ、1924年(大正13年)11月… 石松 安次(いしまつ やすじ、1924年(大正13年)11月17日 - 2018年(平成30年)3月20日)は、昭和から平成時代の政治家。位階は正五位。 大分県日田市長。日田市名誉市民。 日田市出身。高等小学校卒業。 日田商工会議所会頭を経て、1979年(昭和54年)から日田市長に4選。1995年(平成7年)引退した。市政、郷土の振興発展の実績から、2000年(平成12年)9月、日田市名誉市民に推挙された。 2018年(平成30年)3月20日、心不全のため死去した。
木崎甲子郎(きざき こうしろう、1924年9月16日 -20… 木崎甲子郎(きざき こうしろう、1924年9月16日 -2022年2月26日)は、日本の地質学者、琉球大学名誉教授。 大分県大分市出身。1951年北海道大学理学部地質・鉱物学科卒、1960年「日高変成帶におけるミグマタイトの研究」で理学博士。1952年北大助手、助教授。1968年メルボルン大学研究員をへて、1972年琉球大学教養部教授、のち理学部教授。1980-1983年国立極地研究所併任教授。1990年琉球大を定年退官、名誉教授となる。1993-1996年、ネパール国立トリブバン大学地質学教室客員教授(JICA専門員として)。1980年『琉球の自然史』で沖縄タイムス出版文化賞、1985年『琉球弧の地質誌』で沖縄タイムス伊波普猷賞受賞。
姫野 好治(ひめの こうじ、1924年6月18日 - 没年不… 姫野 好治(ひめの こうじ、1924年6月18日 - 没年不明)は、大分県出身の元プロ野球選手(投手)。 1950年5月11日の対東急フライヤーズ戦で、塩瀬盛道に生涯唯一の打席で本塁打を打たれた投手である。 大分工業から社会人野球の星野組、明電舎を経て、1949年に大映スターズへ入団。 独特のフォームのサイドスローであり、カーブや高速シュートを武器に1年目の1949年から9勝を挙げ、2年目の1950年も8勝を挙げる。特に球が走っている時だけ直球を決め球とする、普段は技巧派の投手である。 1951年9月9日にはサヨナラボークを記録している。1952年には36試合に登板し、13勝で初の2桁勝利を記録。
上野 他一(うえの たいち、1924年6月10日 - 201… 上野 他一(うえの たいち、1924年6月10日 - 2015年5月4日)は、日本の経営者。クラレ社長を務めた。大分県大分市出身。 1958年に九州帝国大学法文学部を卒業し、同年に日本興業銀行に入行。 1972年11月に取締役に就任し、1975年5月には専務に就任した。 1978年5月にクラレに転じ、同年6月に専務に就任し、1981年6月に副社長に就任し、1982年10月には社長に昇格した。1990年6月から相談役に就任した。 2015年5月4日前立腺がんのために死去。90歳没。
平松 守彦(ひらまつ もりひこ、1924年〈大正13年〉3月… 平松 守彦(ひらまつ もりひこ、1924年〈大正13年〉3月12日 - 2016年〈平成28年〉8月21日)は、日本の通産官僚、大分県知事。 「一村一品運動」の提唱者として有名である。その他、関西大学政策創造学部客員教授や立命館アジア太平洋大学 アドバイサリー・コミッティ名誉委員などを務めた。座右の銘は「継続は力なり」。マグサイサイ賞受賞者。 大分市出身。大分中学、第五高等学校を卒業。短期現役海軍主計科士官(12期)を志願。1944年(昭和19年)9月、海軍経理学校に入学し1945年に卒業。同年6月、海軍主計少尉に任官して終戦を迎え、その後、解員(復員)した。 1949年(昭和24年)3月、東京大学法学部を卒業後、1949年(昭和24年)旧商工省(後の通商産業省、現・経済産業省)に入省。
玉ノ川 正行(たまのかわ まさゆき、1924年3月6日 - … 玉ノ川 正行(たまのかわ まさゆき、1924年3月6日 - 没年不明)は、二所ノ関部屋に所属した元大相撲力士。本名は恵良 正行(えら まさゆき)。現在の大分県宇佐市出身。176cm、92kg。最高位は西十両7枚目。得意技は右四つ、押し。 1943年5月場所に初土俵。1950年5月場所に十両昇進。自己最高位まで番付を上げた1951年1月場所は初日から休場し、この場所限りで廃業した。廃業後はプロレスラーに転向した。
合沢 栄(合澤 榮、あいざわ さかえ、1923年(大正12年… 合沢 栄(合澤 榮、あいざわ さかえ、1923年(大正12年)5月22日 – 1986年(昭和61年)12月25日)は、昭和期の農業協同組合指導者、実業家、政治家。衆議院議員(1期)。 大分県北海部郡一尺屋村(佐賀関町を経て現大分市)の農家に生まれる。臼杵中学校(現大分県立臼杵高等学校)を経て、1943年(昭和18年)大分高等商業学校を卒業。海軍飛行予備学生となり、海軍中尉で解員(復員)し帰郷した。 1946年(昭和21年)一尺屋農業会に務めた。その後、佐賀関農業協同組合長、大分県果実農協連常務理事、同県経済農業協同組合連合会会長、全国購買農業協同組合連合会理事、全国農協観光協会理事、大分協和飼料取締役、東九州協同食品取締役、大分協同建設事業団代表取締役、大分陸運社長などを務めた。
玉乃海 太三郎(たまのうみ だいさぶろう、1923年1月2日… 玉乃海 太三郎(たまのうみ だいさぶろう、1923年1月2日 - 1987年9月27日)は、大分県大分市出身で二所ノ関部屋に所属した大相撲力士。本名は三浦 朝弘(みうら ともひろ)。最高位は東関脇。全盛期の体格は181cm、120kg。得意手は右四つ、櫓投げ、外掛け。栃若時代の実力者の一人で、長谷川や琴錦と並んで、最強関脇との見方もある。 引退後は年寄・12代片男波を襲名し、片男波部屋を興した。 1923年1月、料亭の板前の家に六人兄弟の長男として生まれる。小学校時代は野球に熱中しており、大分県立商業学校(現大分県立大分商業高等学校)からの誘いもあったが中学には進学せず、玉錦(二所ノ関部屋)の一行が巡業に来たのを見て力士になることを志望した。
高橋百代(たかはし ももよ、1923年 - 1998年)は、… 高橋百代(たかはし ももよ、1923年 - 1998年)は、大分県臼杵市出身の小説家。大分県立臼杵高等女学校卒業。本名に同じ。 文芸雑誌『海燕』1983年6月号に「盲女の手すさび」が掲載され、地方文学の担い手として注目される。主たる活動の場をあえて地元同人誌におき、「みずき」、「臼杵文学」、「環状集落」、「東九州文学」、「詩と眞実」、「日田文学」などの文芸同人誌に作品を発表。(このうち「臼杵文学」は自身が創刊。) 1998年4月12日、大分市明野の山中にて不慮の死を遂げる。75歳没。
大石 泰彦(おおいし やすひこ、1922年7月21日 - 2… 大石 泰彦(おおいし やすひこ、1922年7月21日 - 2014年1月16日)は、日本の経済学者。専門は、近代経済学(厚生経済学・交通問題)。学位は、経済学博士(東京大学・論文博士・1961年)。東京大学名誉教授。元東京大学経済学部長。日本会議代表委員。勲二等瑞宝章受章者。位階は正四位。 大分県中津市生まれ。旧制水戸中学校、旧制水戸高等学校を経て、1943年、東京帝国大学経済学部卒業。 1948年、東京帝国大学大学院特別研究生を退学し、東京大学経済学部助教授に就任。1960年、東京大学経済学部教授に昇任。1969年から1970年まで東京大学経済学部長。1983年、東京大学を退官し、東京大学名誉教授となる。