小柳 俊一(こやなぎ しゅんいち、1927年4月25日 - … 小柳 俊一(こやなぎ しゅんいち、1927年4月25日 - 2004年7月7日) は、日本の化学技術者、実業家。信越化学工業代表取締役副社長や、信越半導体代表取締役社長、電気化学協会会長などを歴任した。紫綬褒章受章。 1952年東京工業大学化学科卒業、信越化学工業入社。1961年東京工業大学工学博士。1975年全国発明表彰経済団体連合会会長発明賞受賞。1976年信越化学工業塩ビ技術研究所長。1978年信越化学工業合成技術研究所長兼任。1981年信越化学工業取締役。1984年信越化学工業常務取締役。1987年信越化学工業専務取締役、紫綬褒章受章。1990年信越化学工業代表取締役副社長。1994年電気化学協会会長。
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中塚 武司(なかつか たけし、1926年11月13日 - 2… 中塚 武司(なかつか たけし、1926年11月13日 - 2008年10月30日)は、日本の自動車技術者。元車体工業株式会社社長。元いすゞ自動車株式会社理事。 エンジンの設計をはじめ、制御技術、タイヤ、新素材、サスペンションなど自動車を構成するほぼ全ての技術に携わり、日本の自動車技術の発展に著しく貢献した。 日本初の空気ばね車や電子制御によるディーゼルエンジン、新素材、4輪独立懸架乗用車、4WD車、電子制御機械式自動変速機などの新技術を開発した。とりわけ、1955年に行った空気ばねの研究・開発は、後の東海道新幹線における同技術の先鞭となった。また、自動車運動の解析及び理論化に努め、さらに人間工学や環境工学、医学、生理学的観点から《人間-機械-環境系》という体系を提唱・確立すると共に、従来の“設計者”の枠を実験・研究者の司る範疇にまで拡張し、今日における“技術者”の再定義に寄与した。
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服部 正(はっとり まこと、1926年8月7日 - 1983… 服部 正(はっとり まこと、1926年8月7日 - 1983年1月29日)は、日本の建築構造エンジニア、工学者。株式会社構造計画研究所を創業。建築物の構造計算にコンピュータを日本で初めて導入した。また、構造設計事務所を設立し、技術コンサルティングビジネスを確立し、知業のビジネス展開で活躍した人物。工学博士。 1926年8月7日、東京都港区青山にて、父和三郎、母和子の長男として生まれる。5才で父を亡くす。柳原白蓮の門下に入った母のもとで文筆力を鍛える。 港区立青南小学校卒業後、1944年に開成中学校卒業(同期に渡邉恒雄)。山梨高等工業高校を経て、1951年東京工業大学建築学科卒業。谷口忠教授の下で建築構造解析を専攻する。 卒業後は日本電信電話公社建築局に就職。
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奥野 健男(おくの たけお、1926年〈大正15年〉7月25… 奥野 健男(おくの たけお、1926年〈大正15年〉7月25日-1997年〈平成9年〉11月26日)は、文芸評論家・化学技術者。多摩美術大学名誉教授。父は最高裁判事の奥野健一。
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古賀 義根(こが よしね、1925年1月1日 - 2014年… 古賀 義根(こが よしね、1925年1月1日 - 2014年9月23日)は、日本の技術者、実業家。東陶機器(現TOTO)社長や、日本セラミックス協会会長、九州・山口経済連合会(現九州経済連合会)副会長、北九州商工会議所会頭等を歴任した。正四位勲二等瑞宝章。藍綬褒章受章 佐賀県唐津市出身。1947年東京工業大学窯業学科卒業後、東陶機器(現TOTO)に入社し、衛生陶器の開発に従事。インドネシア進出担当役員等を経て、1987年からは社長を務め、アメリカ合衆国に子会社を設立するなど、国際化を進めた。1988年藍綬褒章受章。1992年に社長を退任し、同年から10年間北九州商工会議所会頭を務め、末吉興一市長とともに北九州都市圏の再興にあたった。
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鈴木 哲夫(すずき てつお、1924年12月5日 - 201… 鈴木 哲夫(すずき てつお、1924年12月5日 - 2015年6月15日)は、日本の技術者、実業家。HOYA中興の祖・元名誉会長。 愛知県瀬戸市生まれ。1943年東京工業大学(のちの東京科学大学)付属高等工業教員養成所卒業。 1944年東洋工学硝子製造所(現HOYA)技術長。1949年同社取締役工場長に昇格。1957年に岳父であり同社創業者の山中茂が病で倒れたため、その跡を受けて代表取締役社長に就任、5年間で売り上げを10倍の20億円に拡大し、社名を保谷硝子に変更、1961年に東証2部に株式上場を果たしたが、昭和40年不況により赤字・無配となり、1967年相談役に降格。 1970年代表取締役社長に復帰。
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中込 雪男(なかごめ ゆきお、1922年5月22日 - 20… 中込 雪男(なかごめ ゆきお、1922年5月22日 - 2014年8月18日) は、日本の技術者。国際電信電話副社長、国際ケーブル・シップ社長、電子情報通信学会副会長、テレビジョン学会会長などを歴任した。紫綬褒章受章。 山梨生まれ。1949年東京工業大学電気工学科卒業、逓信省入省、電気通信研究所方式実用化部電信課。1960年東京工業大学工学博士。1973年前島密賞受賞。1976年国際電信電話研究所(のちのKDDI総合研究所)所長。1978年科学技術庁長官賞受賞。1980年国際電信電話研究所取締役、テレビジョン学会評議員。1981年電子通信学会編集長。1983年紫綬褒章受章。1984年国際電信電話常務取締役。
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中島 平太郎(なかじま へいたろう、1921年3月19日 -… 中島 平太郎(なかじま へいたろう、1921年3月19日 - 2017年12月9日)は、デジタルオーディオ技術の草分け的人物とされる日本の技術者である。コンパクトディスク メディア(CD-DA規格) 開発においてソニー側の責任者で、「CDの父」とも呼ばれる。福岡県久留米市生まれ。任意団体CDs21ソリューションズ会長。ビフレステック株式会社代表取締役会長。 CD-DAはソニーとフィリップスの共同開発だが、中島はそのソニー側の責任者だった。規格制定の貢献度は両社50%ずつと公式に発表されているが、技術コンペを経てソニー側が主張した技術が多く採用されている。 デジタル録音可能メディアであるDATとCD-Rにおいて音楽著作権の在り方に関し、日本レコード協会としばしば対立した。
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大和田 国男(おおわだ くにお、1919年12月3日 - 2… 大和田 国男(おおわだ くにお、1919年12月3日 - 2003年3月24日)は、日本の技術者、実業家。不二越代表取締役社長や、日本プラントメンテナンス協会会長などを務めた。 東京府北豊島郡滝野川町(現東京都北区)生まれ。旧制小学校を首席で卒業後、東京府立化学工業学校(のちの東京都立化学工業高等学校)を経て、1941年に横浜高等工業学校(のちの横浜国立大学理工学部)機械科卒業。同年東京工業大学機械工学科へ進学。 東京工業大学在学中に海軍学生となり、1943年に大学を繰り上げ卒業後、豊川海軍工廠機銃部配属。九九式二〇ミリ機銃、五式三十粍固定機銃などを担当し、大日本帝国海軍技術大尉として日本の降伏時を迎えた。
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田中 次郎 (たなか じろう、1917年〈大正6年〉1月19… 田中 次郎 (たなか じろう、1917年〈大正6年〉1月19日 - 2017年〈平成29年〉9月28日[要出典])は、日本の航空機・自動車技術者。 立川飛行機入社後、陸軍に入隊し、陸軍機の各種エンジン評価を担当。1944年(昭和19年)から、軍籍のまま元の勤務先の立川飛行機にて、試作遠距離偵察爆撃機キ74の与圧室装備等の設計仕上げを担当。戦後、米軍にキ74とキ77を引き渡すための修理・整備を行う。 その後、立川飛行機から分離した東京電気自動車(後のたま電気自動車→たま自動車→プリンス自動車工業)にて電気自動車、そしてガソリン自動車の開発に従事する。 日産自動車と合併後、同社役員を経て、日産ディーゼル工業副社長を歴任し、1986年(昭和61年)、同社を顧問で退社。
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出川 雄二郎(でがわ ゆうじろう、1909年(明治42年)5… 出川 雄二郎(でがわ ゆうじろう、1909年(明治42年)5月31日 - 1997年(平成9年)4月24日)は、昭和から平成時代の日本の計算機科学者、通信技術者。 1933年(昭和8年)東京工業大学電気工学科を卒業後、同大学助手を経て、1934年(昭和9年)日本電気(NEC)に入社し、通信技術の研究開発に従事する。多重通信における非直線ひずみの研究や二重平衡変調器の発明などに尽力し、これら研究により1943年(昭和18年)東京工業大学より工学博士の学位を授与される。ほか、同軸ケーブルによる広帯域通信技術の研究なども行った。1957年(昭和32年)日本電気にてコンピュータの製品化・事業化を目指し新組織を編成。
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川崎 京市(かわさき きょうし、1908年9月2日 - 19… 川崎 京市(かわさき きょうし、1908年9月2日 - 1987年12月)は、日本の化学技術者、実業家、工学博士。日本合成ゴム代表取締役社長や、化学工学協会会長、日本工学アカデミー副会長などを歴任した。 1932年東京工業大学染料化学科卒業、近藤製薬工場入社。1950年「人造麝香に関する研究」により東京工業大学工学博士。1957年日本合成ゴム常務取締役。1961年有機合成化学協会会長。1968年日本合成ゴム取締役副社長。1969年日本合成ゴム取締役社長。1971年藍綬褒章受章。1975年日本合成ゴム取締役会長。1979年日本合成ゴム相談役、勲二等瑞宝章受章。1980年石油学会名誉会員。1981年日本粉体工業技術協会会長、化学工学会名誉会員。
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日野原 保(ひのはら たもつ、1908年5月2日 - 199… 日野原 保(ひのはら たもつ、1908年5月2日 - 1999年11月20日)は、日本の鉄道技術者。京浜急行電鉄副社長、東京電機社長、会長などを務めた。 1908年(明治41年)横浜市生まれ。電鉄技術者を志した日野原は1929年(昭和4年)に東京高等工業高校(現、東京工業大学)を卒業したが、折しくも世界恐慌で、なんとか開業準備中の湘南電気鉄道の金沢工場でに実習生のもと無給ながら湘南電気鉄道デ1形電車の装備品の取り付け工事などをし、当時の最新技術を体に叩き込んだ。そして1931年(昭和6年)、京浜電気鉄道に入社した。その後、戦時合併で大東急を経て発足した京浜急行電鉄だが、日野原は戦争で疲弊した鉄道の施設や車両をみて、電車部次長時代に1952年の4月から4ヶ月の間アメリカ、カナダの鉄道視察に出かけた。
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中山 一郎(なかやま いちろう、1907年(明治40年)7月… 中山 一郎(なかやま いちろう、1907年(明治40年)7月3日 - 1995年(平成7年)6月11日)は、日本の技術者、実業家。日本軽金属社長や、電気化学協会会長、軽金属学会会長、日本アルミニウム連盟(現日本アルミニウム協会)会長等を歴任した。 千葉県千葉市出身。1930年東京工業大学窯業学科卒業。1933年東京工業大学応用化学科卒業。1944年日本軽金属入社。1961年日本軽金属取締役に昇格。1963年日本軽金属常務取締役。1965年日本軽金属取締役副社長。1967年日本軽金属取締役社長、日本ゼオン監査役。1968年藍綬褒章受章。1970年アルミニウム資源開発を設立し同社取締役社長に就任。同年沖縄アルミニウムを設立し同社取締役社長に就任。
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岩岡 次郎(いわおか じろう、1905年 - 1991年)は… 岩岡 次郎(いわおか じろう、1905年 - 1991年)は、日本の自動車技術者。トヨタ自動車工業の製造部長などを経て、アイシン精機の初代社長や会長を務めた。藍綬褒章受章。自動車部品製造事業を確立した。 福岡県出身。1927年東京高等工業学校(のちの東京科学大学)機械科卒業、豊田自動織機製作所入社。豊田喜一郎の紹介により1934年から東北帝国大学に国内留学して成瀬政男に師事し、紡織機製造の傍らで自動車試作などに従事した。その後自動車量産化のため、菅隆俊のもと、豊田英二、齋藤尚一と豊田自動織機製作所挙母工場(のちのトヨタ自動車本社工場)の建設構想にあたった。トヨタ自動車工業設立後は同社製造部長に就任。
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白澤 富一郎(しらさわ とみいちろう、1903年(明治36年… 白澤 富一郎(しらさわ とみいちろう、1903年(明治36年)6月16日 - 1990年(平成2年)11月6日)は、日本の電気技術者、実業家。東京電力副社長や、日本原子力発電社長、同社会長、日本原子力産業会議副会長等を務めた。 1926年東京高等工業学校(現東京工業大学)電気科卒業。東京電力副社長を経て、1970年から日本原子力発電取締役社長を務め、もんじゅへの技術協力などを進めた。1977年日本原子力発電取締役会長。1978年蔵前工業会理事長。1982年日本動力協会会長。日本原子力産業会議副会長、原子力委員会新型転換炉実証炉評価検討専門部会長等も歴任した。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
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木谷 龍吉(きたに りゅうきち、1902年(明治35年)12… 木谷 龍吉(きたに りゅうきち、1902年(明治35年)12月8日 - 没年不明は、日本の技術者(化学者)。 福井県敦賀郡(現:敦賀市)出身。東京高等工業学校応用化学科(現:東京科学大学)を卒業し、東京電気株式会社(現:東芝)に入社。東芝マツダ研究所の主任研究員を務め、東芝の電球ブランド「マツダ」の化学的基礎研究を行った。 1936年(昭和11年)に照明学会発達調査委員会の委員となる。。 父は敦賀二十五銀行主任の木谷滋治郎。従兄弟は旅順工科大学教授の木谷要一。東京電気入社直後は親族で外務省の成田五郎宅に居住していた。
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倉田 元治(くらた もとはる、1901年(明治34年)7月2… 倉田 元治(くらた もとはる、1901年(明治34年)7月22日 - 1989年(平成元年)3月19日)は、日本の技術者、実業家。旭硝子(現AGC)社長や、同社会長、日本ソーダ工業会会長などを務めた。 福島県会津若松市で豪商倉田為実の家系に生まれる。会津中学校(現福島県立会津高等学校)を経て、1925年東京高等工業学校(現東京工業大学)窯業科卒業、旭硝子入社。三菱化成工業尼崎工場長在任中の1945年には尼崎工業会初代会長に就任した。1946年尼崎商工会議所副会頭。 1950年旭硝子常務取締役。1961年日本建鉄取締役、日本光学工業取締役。1963年旭硝子副社長。1967年から旭硝子社長を務めた。
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尾見 半左右(おみ はんぞう、1901年4月5日 - 198… 尾見 半左右(おみ はんぞう、1901年4月5日 - 1985年1月30日)は、日本の通信技術者。富士通の常務取締役、電気通信学会及び情報処理学会の会長などを歴任。 茨城県真壁郡明野に生誕。1923年、東京高等工業学校(現・東京工業大学)を卒業。南満州鉄道の鉄道研究所に入社し、電気通信の研究に従事する。1936年、富士通信機製造株式会社に入社。情報・通信の技術開発・研究に従事し、同社の取締役、常務取締役、富士通研究所の代表取締役社長などを歴任。その他、鉄道通信協会の副会長、電気通信学会会長、情報処理学会会長、神戸工業株式会社の取締役社長、富士電機化学株式会社の代表取締役社長なども務めた。 情報・通信分野で技術発展・産業振興に国内外で広く尽力し、国産大型電子計算機の開発にとくに貢献した。
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チョウ・ディン(Kyaw Din、1900年6月 - 没年不… チョウ・ディン(Kyaw Din、1900年6月 - 没年不詳)は、イギリス統治下のビルマ(現ミャンマー)出身のエンジニア、陸上競技選手、日本のサッカー指導者。日本に留学中の1920年代に、日本サッカーの技術、戦術の伝統の基礎を作ったとして知られる。名をモン・チョー・ディンとする資料もある。 チョウ・ディンの経歴は断片的に調査・紹介されているものの、1920年代前半の日本への留学時代以外については不明な点が多い。第一次世界大戦では宗主国であったイギリスの兵士として従軍し、負傷したという。 チョウ・ディンは走高跳の選手だったが、ミャンマーは他の東南アジア同様、古くからサッカーが盛んであり、チョウ・ディンもショートパス戦法を編み出したスコットランド人にサッカーを学んだという。
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篠原 昌三(しのはら しょうぞう、1899年3月9日 - 1… 篠原 昌三(しのはら しょうぞう、1899年3月9日 - 1986年)は、日本の通信技術者、実業家。 篠原多一郎の三男として福岡市に生まれる。1918年福岡県立中学修猷館を経て、1922年7月東京高等工業学校(現・東京工業大学)電気科を卒業。 卒業後、朝鮮総督府逓信局の技手となる。同局において放送用無線電話(ラジオ放送)の調査研究と知識普及のために、官営の実験用無線電話局を開設することが計画され、篠原にその任務が命ぜられる。1924年1月に東京に赴き、技術修得と共に、通信機器を調達、京城に戻り、通信設備工事と機器調整を行い、同年11月、朝鮮半島最初の放送電波を発射した。1926年11月京城放送局(コールサイン「JODK」)が設立され、篠原はその技術責任者として通信設備を構築し、1927年2月16日、1kw放送設備での本放送が開始された。
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橋本 彦七(はしもと ひこしち、1897年(明治30年)8月… 橋本 彦七(はしもと ひこしち、1897年(明治30年)8月11日 - 1972年(昭和47年)9月12日)は、日本の政治家、技術者。熊本県水俣市長(4期)。日本窒素肥料株式会社(現・チッソ)水俣工場勤務時代、水銀触媒を用いたアセトアルデヒドと酢酸の合成法を発明。1938年(昭和6年)から1946年(昭和21年)まで水俣工場長を務めた。 現在の北海道札幌市に南部家の四男として生まれる。旧制札幌第一中学校卒業後、1916年(大正5年)、東京市日本橋在住の橋本家の養子となる。1919年(大正8年)、東京高等工業学校電気化学科(現・東京工業大学)卒業。同年、日本窒素肥料(現・チッソ)に入社。 1931年(昭和6年)、橋本らは、カーバイトからアセチレンを作り,これを水銀触媒を使ってアセトアルデヒドに変える一連の合成方法を発明し、特許原簿に登録した。
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石毛 郁治(いしげ いくじ、1895年5月18日 - 198… 石毛 郁治(いしげ いくじ、1895年5月18日 - 1981年9月1日)は、日本の化学技術者、実業家。東洋高圧工業(現三井化学)社長や、三井化学工業社長を務めた。 千葉県海上郡飯岡町(現旭市)生まれ。1912年飯岡小学校代用教員。1917年東京高等工業学校(現東京工業大学)応用化学科卒業、三井鉱山入社。肥料用尿素の大量生産法の開発に成功し、1947年から東洋高圧工業社長を務め、1963年には会長に就任。1964年蔵前工業会理事長。1965年飯岡町名誉町民第1号。1966年からは三井化学工業社長を務め、1968年には東洋高圧工業と三井化学工業の合併にあたった。紺綬褒章、藍綬褒章、勲二等旭日重光章受章。
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織本 道三郎(おりもと みちさぶろう、1895年 - 197… 織本 道三郎(おりもと みちさぶろう、1895年 - 1974年)は、日本の構造家・構造設計技術者・発明家・全国建築士事務所連合会(現:日本建築士事務所協会連合会)初代会長・織本建築設計計算事務所創立者。織本匠は義子。 1895年、栃木県南河内町(現宇都宮市)に生まれる。 1916年に、東京高等工業学校(現・東京工業大学)建築科を卒業し、鉄道省に入省した。 1923年に織本建築設計計算事務所(現・織本総合建築設計)を下根岸に開設した。日本で最初の建築構造体の設計監理を業務とする建築事務所といわれる 1952年に鉄骨大張間の特殊組方・木造接手の改良およびその他の発表考案により藍綬褒章を受章。 1962年に全国建築士事務所連合会初代会長に就任した。
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津守 英五郎(つもり えいごろう、1891年5月8日 - 1… 津守 英五郎(つもり えいごろう、1891年5月8日 - 1979年5月1日)は、日本の技術者。 和歌山県出身。1912年(明治45年)に東京高等工業学校電気科を卒業し、吉村商会、東洋無線電信電話社長、吉村木工所監査役を務めた。 日本で初めて真空管式無線機の実験に成功した。 妻の八重は、共立電機常務取締役を務めた石黒慶三郎の長女。長女は佐治守夫に嫁いだ。
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鮎川 武雄(あゆかわ たけお、1891年5月6日 - 197… 鮎川 武雄(あゆかわ たけお、1891年5月6日 - 1979年10月9日)は、日本の技術者、実業家。東陶機器(現TOTO)社長や、北九州商工会議所会頭を務めた。正四位勲二等瑞宝章。藍綬褒章受章。 1917年6月東京高等工業学校(現東京科学大学)窯業科卒業、8月東洋陶器入社。茅ヶ崎工場長や、取締役等を経て、1959年代表取締役副社長。1963年代表取締役社長。1965年藍綬褒章。1967年、杉原周一に社長を禅譲し取締役会長。同年勲三等旭日中綬章受章。北九州商工会議所会頭等も務め、1968年には初代北九州貿易協会会長に就任。1972年伊奈長三郎、田所芳秋、山内俊吉、森本貫一らとともに日本セラミックス協会名誉会員の称号を受けた。
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柴田 勝太郎(しばた かつたろう、1889年(明治22年)2… 柴田 勝太郎(しばた かつたろう、1889年(明治22年)2月3日 - 1975年(昭和50年)11月10日)は、日本の化学技術者、実業家。東洋高圧工業(現三井化学)社長や、有機合成化学協会会長、安全工学協会会長等を歴任した。 兵庫県朝来市山東町大月生まれ。東京高等工業学校(現東京工業大学)電気化学科を経て、1915年東北帝国大学理科大学化学科卒業。同年日本製鋼所に入社するが、室蘭町の寒さで神経痛にかかり、8カ月で退社した。1916年9月の新学期より母校東京高等工業学校電気化学科助教授を務め、アンモニア合成の研究に従事し、1918年に農商務省臨時窒素研究所が設立されると、同研究所のアンモニア合成研究の主任研究員に就任。
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深尾 淳二(ふかお じゅんじ、1889年(明治22年)2月2… 深尾 淳二(ふかお じゅんじ、1889年(明治22年)2月2日 - 1977年(昭和52年)10月17日)は、日本の生産技術者、造船技術者、及び航空技術者であり、とりわけ第二次世界大戦期の航空機開発における最重要人物の一人である。九七式艦上攻撃機や九六式陸上攻撃機をはじめとする日本の主力軍用機に搭載されたエンジン「金星」の開発主導者として有名。 1909年(明治42年)、東京高等工業学校(現・東京工業大学)機械科卒業後、同年、三菱合資会社神戸造船所入社。1926年、三菱造船株式会社長崎造船所を経て、1933年に三菱航空機株式会社名古屋製作所(翌年、三菱重工業株式会社名古屋航空機製作所に改名)に転勤。
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菅 隆俊(かん たかとし、1886年10月9日 - 1961… 菅 隆俊(かん たかとし、1886年10月9日 - 1961年7月16日)は、日本の自動車技術者。トヨタ自動車工業取締役設計部長を経て、豊田工機社長を務めた。紫綬褒章受章。 香川県三豊郡財田村(現・三豊市)出身。1914年東京高等工業学校(のちの東京科学大学)機械科卒業。1916年住友私立職工養成所(のちの住友工業高等学校)仕上・旋工・鍛工場主任。1920年に豊田佐吉の豊田式織機株式会社(のちの豊和工業)に転じる。 1933年に豊田喜一郎により豊田自動織機製作所に招聘される。1934年には自動車量産化のためアメリカ合衆国で調査を行い、挙母工場(のちのトヨタ自動車本社工場)の設計責任者を務め、岩岡次郎、豊田英二、齋藤尚一と建設構想にあたった。
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石川 等(いしかわ ひとし、1886年2月18日 - 195… 石川 等(いしかわ ひとし、1886年2月18日 - 1953年5月27日)は、日本の技術者、実業家、工学博士。日本カーボン創立者・初代代表取締役社長。電気化学協会第11代会長。炭素協会初代会長。 長野県生まれ。1910年東京高等工業学校(現東京工業大学)電気化学科卒業。学科の1年先輩に冨山保(のちに初代横浜国立大学学長)がいた。同年設立された東京カーボン工業所に技師長として入り、電極の国産化に成功。1915年には原富太郎ら横浜財界の支援を得て独立して日本カーボンを設立。日本における安定的炭素工業企業の先駆けとなった。同社初代代表取締役社長。1930年工学博士(京都帝国大学)。1933年の電気化学協会創立に参画し、同協会関東支部長も務めた。
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大野 一造(おおの いちぞう, 1885年4月5日 – 19… 大野 一造(おおの いちぞう, 1885年4月5日 – 1967年3月6日)は、愛知県碧海郡刈谷町(現・刈谷市)出身の技術者・実業家・政治家。刈谷町会議員、愛知県会議員、刈谷町長、衆議院議員を務めた。刈谷市名誉市民。かんばん方式などの「トヨタ生産方式」を築いた大野耐一は息子。 1885年(明治18年)4月5日、愛知県碧海郡刈谷町緒川町(現・刈谷市八幡町6丁目78番地)にて旧刈谷藩士の大野介蔵の長男として生まれた。介蔵は刈谷城本丸隅の十朋亭を隠居家としており、1936年(昭和11年)には十朋亭を刈谷町に売却している。 刈谷町立亀城小学校を中途退学。兵庫県立神戸中学校(のちの兵庫県立神戸高等学校)を経て、東京高等工業学校(のちの東京科学大学)窯業科を卒業。
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大野 政吉(おおの まさきち、1884年(明治17年)4月1… 大野 政吉(おおの まさきち、1884年(明治17年)4月14日 - 1970年(昭和45年)7月31日)は、日本の技術者、実業家。旭硝子(現AGC)社長や、窯業協会会長を務めた。 東京生まれ。1906年東京高等工業学校(現東京工業大学)窯業科卒業、農商務省入省。1907年島田硝子製造所入社。1908年に旭硝子入社後、尼崎工場長、鶴見工場長、牧山工場長、技術課長、支配人、取締役等を務め、日本初の窓ガラスの本格量産化を成功させた。 1927年大日本窯業協会理事長。旭硝子常務取締役を経て、山田三次郎会長が死去した1939年から旭硝子社長及び旭化学工業奨励会理事長を務めた。1940年緑綬褒章受章。 1941年日本光学工業取締役。
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周徳鴻(しゅう とくほう/チャオ・デーホン、1884年 - … 周徳鴻(しゅう とくほう/チャオ・デーホン、1884年 - ?)は、清末民初の技術者、官僚。字は伯彬。四川省巴県(現重慶市巴南区)出身。東京高等工業学校機械科卒業。 航空技師として北洋政府軍に加わり、奉天派に属する。国民政府でも空軍軍属として参加。 成都より官費生として日本に留学。1911年(宣統三年)9月、学部(中国語版)(文部省に相当)の試験を受け最優等となり、工科進士の賞給を受ける。 辛亥革命後の1913年(民國二年)の間、四川公立工業專門学校(現四川大学)教員として機械工学や製図を教えていた。1921年(民國十年)5月、北洋政府に加わり、郭世綰、盛紹章、黄耀栄らとともに北京航空署(署長:丁錦)附技師。
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村井 信平(むらい しんぺい、1883年11月 - 1969… 村井 信平(むらい しんぺい、1883年11月 - 1969年3月24日)は岩手県釜石出身の機械技術者。父は日本近代製鉄の原点とも言える釜石鉱山田中製鉄所をその立ち上げ時から支えた村井源兵衛であり、信平自らも明治・大正・昭和にかけて父と同じ釜石製鉄所に長く勤めた。第十四期・釜石町会議員。 村井信平は日本で3番目に鉄道が走った釜石の地で1883年(明治16年)11月に生まれた。父・源兵衛は1875年(明治8年)17歳の時に工部省鉱山局の釜石支局に採用され、1880年(明治13年)9月より同地で稼働した日本初の官営製鉄所でも働いたが、操業開始から実働わずか97日で現場は頓挫。1882年3月に再開するもやはり上手くいかず、政府は1883年(明治16年)に製鉄所廃止の判断を下した。
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石神 球一郎(いしがみ きゅういちろう、1883年〈明治16… 石神 球一郎(いしがみ きゅういちろう、1883年〈明治16年〉- 1932年〈昭和7年〉)は甑島出身の技術者。金瓜石鉱山所長及び台湾鉱業会理事を務めた。本項では甑島における鹿の子百合球根輸出の先駆けとなった父の石神弘志についても併せて記述する。 石神家は鹿児島県上甑島の士族であり、1862年(文久2年)の文久の法難の際に地頭の石神萬兵衛を派遣したという記録が残っている。その後明治維新を経て父・弘志は東京の警視庁に警部として勤める。1873年(明治6年)に西郷隆盛が官職を辞し鹿児島へ帰ると、多くの同調者がそれに倣った。弘志もまた職を辞し故郷の鹿児島に戻ったが、私学校の生徒らに官軍のスパイと疑われ捕らえられてしまう。
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百木 三郎(ももき さぶろう、1880年8月12日 - 19… 百木 三郎(ももき さぶろう、1880年8月12日 - 1940年12月3日)は、日本の技術者、実業家。東洋陶器(現TOTO)取締役社長を務めた。 窯業家河原徳立の三男として東京深川に生まれる。順天求合社(現順天高等学校)を経て、1899年東京高等工業学校(現東京工業大学)窯業科卒業後、農商務省海外窯業練習生としてアメリカ合衆国に留学し、1903年コーネル大学大学院修了。父の親友だった大倉孫兵衛に雇われ、1904年の日本陶器設立時に同社入社。 日本陶器では解任された飛鳥井孝太郎の後任として技師長となり、同窓の西山貞を招聘するなどして衛生陶器の開発にあたり、"sanitary ware"の訳語として「衛生陶器」の語を考案するなどもした。
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橋本 増治郎(はしもと ますじろう、1875年(明治8年)4… 橋本 増治郎(はしもと ますじろう、1875年(明治8年)4月28日 - 1944年(昭和19年)1月18日)は、愛知県額田郡柱村(現・岡崎市柱)出身の技術者・実業家。 日産自動車、ダットサン、いすゞ自動車の前身である快進社の創立者。 1875年(明治8年)4月28日、愛知県額田郡柱村19番(現・岡崎市柱6丁目)に生まれた。父は橋本斧吉、母はくらであり、増治郎は次男だった。生家は「大橋本」と呼ばれる旧家であり、兄の橋本松次郎は岡崎村会議員や岡崎村長を務めている。 羽根小学校、額田郡高等小学校(現・岡崎市立梅園小学校)を卒業すると、1891年(明治24年)に東京工業学校(現・東京工業大学)に入学し、1895年(明治28年)に工芸部機械科を卒業した。
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小林 豊造(こばやし とよぞう、1874年〈明治7年〉2月2… 小林 豊造(こばやし とよぞう、1874年〈明治7年〉2月27日 - 1921年〈大正10年〉3月20日)は、日本の技術者、経営者。兵庫県出身。ダイヤモンド研磨技術を欧州に学び日本に初めて導入し起業した。また日本初となる蓄音機のルビー針など多くの技術を開発した。文芸評論家小林秀雄の父。幼名・豊蔵。 農家の二男として生まれたが、幼少期に出石藩士・小林家の養子となり、兵庫県師範学校を経て、1899年 東京工業学校(後に東京高等工業学校と改称、現東京工業大学)工業教員養成所金工科卒業。同校の教員となり、1903年に文部省の派遣留学生として1年間欧米の金属技術を視察し研究した。 貴金属時計装身具卸売製造の「村松万次郎商店」の顧問を兼ねていたが、1908年に万次郎が死去すると、真珠養殖に成功していた御木本幸吉に乞われて1910年に御木本真珠店貴金属工場長に就任、社命により1911年にベルギーのアントワープのダイヤモンド研磨工場の研修生となり、日本人で初めて宝石用ダイヤモンド原石のカットと研磨技術を習得する。
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竹尾 年助(たけお としすけ、1873年8月10日 - 19… 竹尾 年助(たけお としすけ、1873年8月10日 - 1956年)は、明治時代の実業家、エンジニア。 1873年、愛知県八名郡賀茂村(現、豊橋市)の竹尾彦九郎の二男として生まれた。 1894年(明治27年)、東京高等工業学校を卒業。アメリカ・ニューヨークに渡り、高峰譲吉の研究所に入る。1896年、スティーブンス工科大学機械科に編入学、1898年に卒業。卒業後も、同大学でディーゼルエンジン開発研究などに10年間従事した。1908年、アメリカ機械学会(ASME, The American Society of Mechanical Engineers)会員に推挙される。 1903年に帰国。幸袋製作所と大阪鉄工所に勤務した。
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大石 鍈吉(おおいし えいきち、1873年(明治6年) - … 大石 鍈吉(おおいし えいきち、1873年(明治6年) - 1947年(昭和22年))は、日本の技術者、大日本帝国海軍技師。初代海軍省海軍艦政本部海軍技術研究所研究部長。 1893年東京工業学校(のちの東京科学大学)機械工芸部機械科卒業。1896年大日本帝国海軍横須賀鎮守府兵器工場海軍技手に着任。1900年からイギリスに出張し、1904年に帰国すると海軍技師に就任。1916年海軍経理学校教官兼任。1917年造兵廠製造部長。1923年に海軍艦政本部に海軍技術研究所が設立されると、同研究所の初代研究部長に就任し、海軍艦政本部技術会議会員も兼務した。1924年依願退官、従四位、日本光学工業取締役。1933年退任。
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江田 鎌治郎(えだ かまじろう、1872年6月22日(明治5… 江田 鎌治郎(えだ かまじろう、1872年6月22日(明治5年5月17日) - 1957年(昭和32年)5月7日)は、日本の技術者、実業家。速醸酛の発明者として知られ、「酒聖」「酒造界の大恩人」と賞される。 1872年(明治5年)、新潟県糸魚川に生まれる。新潟師範学校、東京高等工業学校応用化学科(現・東京工業大学)卒業。東京税務監督局、大蔵省醸造試験所、大阪工業大学講師などを歴任。1909年、速醸酛を開発した。大蔵省を退官後、1933年(昭和8年)に江田醸造研究所(後の江田醸造株式会社)を設立。1916年に勲六等瑞宝章、1955年に紫綬褒章を受賞。 没後、日本生物工学会による生物工学奨励賞(江田賞)が創設された。
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濱田 彪(はまだ ひょう、1871年1月9日(明治3年11月… 濱田 彪(はまだ ひょう、1871年1月9日(明治3年11月19日) - 1938年(昭和13年)11月7日)は、日本の技術者、実業家。第3代三菱造船(現三菱重工業)会長を務めた。 長崎県東彼杵郡福重村野田郷(現大村市野田町)で、初代村長一瀬信造の次男として生まれた。大村中学校(現長崎県立大村高等学校)卒業後、1891年東京工業学校(現東京工業大学)機械科卒業、三菱合資入社。長崎造船所で「常陸丸」の受注にあたるなどし、同所機械工場支配人を経て、1898年三菱造船所電気主任技師。三菱造船所副長を経て、1917年三菱造船長崎造船所所長。1920年三菱造船常務取締役。1925年三菱造船会長。1931年蔵前工業会理事長。
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山田 三次郎(やまだ さんじろう、1870年9月14日(明治… 山田 三次郎(やまだ さんじろう、1870年9月14日(明治3年8月19日) - 1939年(昭和14年)6月23日)は、日本の技術者、実業家。旭硝子(現AGC)会長や、日本化成工業(のちの三菱化学、現在の三菱ケミカル)社長を務めた。 鹿児島県生まれ。東京数学院(現東京高等学校)を経て、1897年に東京工業学校(現東京工業大学)窯業科卒業後、1900年から1903年まで農商務省海外実業練習生としてブリュッセルのガラス工場に留学した。 農商務省嘱託を経て、1906年東洋硝子技師。1908年旭硝子工務長となり、岩崎俊弥による旭硝子創業に加わり、欧米の調査などを行った。1918年日米板ガラス取締役。旭硝子常務取締役を経て、初代社長の岩崎の死後、1931年から後継として旭硝子取締役会長(第2代社長)を務めた。
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飛鳥井 孝太郎(あすかい こうたろう、慶応3年11月3日(1… 飛鳥井 孝太郎(あすかい こうたろう、慶応3年11月3日(1867年11月28日) - 昭和2年(1927年)7月29日)は、日本の実業家、技術者。同志社の教授を経て、ノリタケカンパニーリミテドや、鳴海製陶を創業した。 加賀国大聖寺藩(現石川県加賀市大聖寺町)出身。父は旧大聖寺藩士飛鳥井清。東京工業学校(現東京工業大学)陶器玻璃工科でゴットフリード・ワグネルに師事して青磁を研究し、1890年に卒業後、同志社波理須理化学校(のちの同志社大学理工学部)陶磁器科長・教授等を経て、1896年に森村組に入社し、名古屋支店で洋食器の研究開発に従事。1897年から農商務省海外貿易練習生としてヨーロッパに留学。
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笹村 吉郎(ささむら きちろう、1867年5月14日(慶應3… 笹村 吉郎(ささむら きちろう、1867年5月14日(慶應3年4月11日) - 1960年(昭和35年)7月24日)は、日本の技術者、実業家。日本で先駆け的にディーゼル機関を開発し、新潟鐵工所社長や同社会長を務めた。 長州藩士の長男として萩町川島村(現山口県萩市大字川島)に生まれる。父が「士族の商法」で事業に失敗したため中学校に進学する資金がなく、公費で通える山口師範学校(現山口大学教育学部)を1885年に卒業し、船木小学校校長となった。その後叔父の援助などもあり、1892年に東京工業学校(現東京工業大学)機械科を卒業し、東京石川島造船所へ入社した。 銅ヶ丸鉱山機械課長を経て、1897年日本石油付属新潟鉄工所技師長に就任。
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山崎 久太郎(やまざき きゅうたろう、1864年12月3日(… 山崎 久太郎(やまざき きゅうたろう、1864年12月3日(元治元年11月5日)- 1942年(昭和17年)9月28日)は、明治期の製鋼技術者、大正期から戦前昭和期に活躍した実業家。官営八幡製鉄所に先立ち、日本で最初の民間平炉を創設した。 肥前国(現佐賀県)唐津藩藩士の子として生まれる。官営八幡製鉄所に先立ち、日本で最初の民間平炉を創設した。製鉄技術習得のため官費でドイツ留学した際、鉄の技術の先端が鋼に転換する様子を目の当たりにして先進の製鋼技術を積極的に習得した。この時得た知識や経験、技術に基づく製鋼法の理解者や有力な支援者が集まり会社が設立され日本鋳鋼所(現日本製鉄株式会社関西製鉄所製鋼所地区)が創設された。
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上野 裕明(うえの ひろあき)は、日本の実業家、技術者、理学… 上野 裕明(うえの ひろあき)は、日本の実業家、技術者、理学博士。 田辺三菱製薬代表取締役社長を経て、日本製薬工業協会会長、日本製薬団体連合会副会長。
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五十嵐 崇博(いがらし むねひろ)は、日本の国土交通技官、土… 五十嵐 崇博(いがらし むねひろ)は、日本の国土交通技官、土木学会認定上級土木技術者(河川・流域)。国土交通省大臣官房審議官や、国土交通省水資源部長、内閣官房内閣審議官兼水循環政策本部事務局長、応用地質取締役副社長を務めた。 福井県出身。福井県立藤島高等学校を経て、1985年東京工業大学(のちの東京科学大学)大学院工学研究科土木工学専攻修了、建設省入省、中部地方建設局河川部河川計画課配属蓮ダム建設担当。 1995年建設省河川局河川環境課長補佐。1998年中国地方建設局苫田ダム工事事務所長。2000年中国地方建設局企画部企画調査官。2001年中国地方整備局企画部企画調整官。2003年国土交通省大臣官房技術調査課企画専門官。
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榎木 孝知(えのき たかとも) は、日本の技術者。元NTTフ… 榎木 孝知(えのき たかとも) は、日本の技術者。元NTTフォトニクス研究所所長。元電子情報通信学会エレクトロニクスソサイエティ会長。 1984年東京工業大学大学院修士課程修了、日本電信電話公社入社。1986年信学会学術奨励賞受賞。1996年東京工業大学より博士(工学)の学位を取得。光通信や、高速集積回路の研究開発を行い、2003年から2004年まで電子情報通信学会電子デバイス研究専門委員会委員長。2010年NTTフォトニクス研究所所長。2013年から2014年まで電子情報通信学会エレクトロニクスソサエティ会長。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
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金井 俊孝(かない としたか) は、日本の化学技術者。出光興… 金井 俊孝(かない としたか) は、日本の化学技術者。出光興産樹脂テクニカルセンター主幹研究員を経て、京都工芸繊維大学特任教授や、プラスチック成形加工学会会長を務めた。 1974年東京工業大学高分子工学科卒業。1976年東京工業大学大学院修士課程修了、出光興産入社。1981年テネシー州立大学高分子工学科留学。1986年東京工業大学より工学博士の学位を取得、出光興産樹脂研究所主任研究員。1990年出光興産樹脂研究所構造物性研究室長。2000年出光興産樹脂テクニカルセンター主幹研究員。2003年金沢大学大学院次世代高機能材料技術講座客員教授。2005年プライムポリマー兼任。2008年The Polymer Processing Society日本代表理事。
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