荒木 芳久(あらき よしひさ、1939年4月8日 - )は、… 荒木 芳久(あらき よしひさ、1939年4月8日 - )は、日本の男性脚本家。主にテレビアニメを手がけた。 東京府出身。東京都立大森高等学校放送同好会および日本大学芸術学部で脚本などの作劇を学び、卒業後は東映の脚本家に師事しテレビドラマを手掛ける傍ら、系列の東映動画の作品 ひみつのアッコちゃんの制作現場に呼ばれる。その後もフリーとして各社で仕事を重ね、日本サンライズにおいては『無敵超人ザンボット3』、『無敵鋼人ダイターン3』、『機動戦士ガンダム』、『戦闘メカ ザブングル』を始めとする富野由悠季監督作品や『無敵ロボ トライダーG7』や『最強ロボ ダイオージャ』等の作品を手がけた。
石川 孝人(いしかわ たかと、1938年5月22日 - )は… 石川 孝人(いしかわ たかと、1938年5月22日 - )は日本の脚本家。福岡県出身。 1963年に日本大学芸術学部を卒業し、シナリオ作家協会のシナリオ研究所研修科の第1期生となる。
山根 成之(やまね しげゆき、1936年6月14日 - 19… 山根 成之(やまね しげゆき、1936年6月14日 - 1991年12月27日)は、日本の映画監督、脚本家。1970年代に松竹の映画で活動した。 東京府東京市向島区寺島町(現・東京都墨田区東向島)で帽子屋の息子として生まれた。小学生の頃から浅草の映画館に通うほどの大の映画好きで、都立両国高校3年の時には年間800本を記録した。その一方で演劇部で活躍し、舞台俳優を目指し劇団俳優座への入団を志したが、方向転換して日本大学芸術学部映画学科に入学し、1960年に卒業後、松竹に入社。高橋治、小林正樹、中村登、篠田正浩、野村芳太郎らの作品の助監督につく。作風では、他社(日活)であるが鈴木清順の作品の影響を受けたという。
冨田 義治(とみた よしはる、1935年12月25日 - 没… 冨田 義治(とみた よしはる、1935年12月25日 - 没年不明)は、岐阜県出身の映画監督、助監督、脚本家。
小山 幹夫(こやま みきお、1934年12月7日 - )は日… 小山 幹夫(こやま みきお、1934年12月7日 - )は日本の映画監督、テレビディレクター、舞台演出家、脚本家、日本映画監督協会会員。日本大学芸術学部映画科卒業、神奈川県茅ヶ崎市出身。福島県西白河郡矢吹町在住。 神奈川県茅ヶ崎市生まれ。神奈川県立湘南高等学校、日本大学芸術学部映画科を卒業。 1957年(昭和32年)東映東京撮影所の助監督として入社。関川秀雄、佐伯清、深作欣二らに師事。 1965年(昭和40年)東映東京撮影所・監督に昇進。初監督作品は藤田まこと主演映画『喜劇・一発かましたれ!』、キャッチコピー「昼はサラリーマン、夜はギャングのボス!腰抜け社員で笑わせて、恐いギャングでまた笑わせる、爆笑必至の底抜けコメディー!!」。
片野 満(かたの みつる、1934年 - )は、日本の映画脚… 片野 満(かたの みつる、1934年 - )は、日本の映画脚本家・演出家・監督・プロデューサー。 東京都出身。長野県諏訪清陵高等学校を経て、日本大学芸術学部卒業。岩波映画製作所にて科学映画、教育放送番組の脚本・演出・監督・プロデューサーを歴任し、内閣総理大臣賞ほか多数の受賞作品に携わった。安井電子出版取締役制作本部長を務めた。
千葉 茂樹(ちば しげき、1933年2月12日 - )は、日… 千葉 茂樹(ちば しげき、1933年2月12日 - )は、日本の映画監督、脚本家、教育者。市民グループ「地球家族の会」代表、日本映画学校校長、日本映画大学特任教授。キリスト教徒。川崎市のみやまえ映像コンクール審査委員長。 1933年2月12日、福島県福島市に9人兄妹の次男として生まれる[1]。福島県立福島高等学校卒業。高校時代は元総務官僚で川崎市長を務めた阿部孝夫と同窓。福島大学経済学部に入学し、役場で働きながらの学生生活を送る。仕事の合間に訪れた映画館で黒澤明監督の「生きる」を観た影響で映画監督を目指すことを決意。福島大学から日本大学へ編入をし、1956年に日本大学芸術学部映画学科を卒業。 大学卒業時に応募をした「新人シナリオコンクール」で入賞(千葉は最年少入賞、受賞者6人の中には既に助監督として働いていた深作欣二もいた。
新藤 孝衛(しんどう こうえ、1932年2月22日 - 20… 新藤 孝衛(しんどう こうえ、1932年2月22日 - 2020年8月10日)は、日本の実業家、映画監督、脚本家、映画プロデューサーである。映画プロデューサーとしての名を新船 澄孝(あらふね すみたか)とし、1972年(昭和47年)、映画監督としての名を南雲 孝(なぐも たかし)と改名した。1969年(昭和44年)、学校法人川口ふたば幼稚園理事長。 1932年(昭和7年)2月22日、埼玉県北足立郡芝村大字柳崎(現在の同県川口市柳根町)に生まれる。祖父は芝村の村議を歴任、父はのちの川口市議会議長となる新藤勝衛である。新制の埼玉県川口市立川口高等学校(現在の埼玉県立川口高等学校)に入学、水泳部で活躍する。
杉山 義法(すぎやま ぎほう、1932年1月17日 - 20… 杉山 義法(すぎやま ぎほう、1932年1月17日 - 2004年8月3日)は、新潟県新発田市出身の脚本家。新潟県立新発田高等学校を経て、日本大学芸術学部映画学科卒業。 代表作は、日本テレビ系列の「年末時代劇スペシャル」シリーズ。本名をそのまま筆名にしているが、読み方は、筆名が「すぎやま・ぎほう」、本名が「すぎやま・よしのり」。 日本放送作家協会、脚本家連盟、各会員。 生家は映画館で、本人も少年時代は映画少年だったと話す。映画監督を志すも、映画会社の入社試験には次々に失敗。「そんなに映画が僕を嫌うなら映画の敵になってやる」として、まず映画とは違う方向へ行ってみようと、フリーでラジオ界入り。野坂昭如と知り合い、野坂が回してくれた伝手を頼って紹介してくれたNHKディレクターの安江泰雅との出会いが大きな転機となる。
石森 史郎(いしもり ふみお、1931年〈昭和6年〉7月31… 石森 史郎(いしもり ふみお、1931年〈昭和6年〉7月31日 - 2025年〈令和7年〉6月9日)は、日本の脚本家。エ・ネスト所属。北海道羽幌町出身。 別名義に松宮瑩子などがあるほか、資料によっては石森史朗とも表記されている。漫画家の石ノ森章太郎は母方の従兄弟。 北海道留萌高等学校を経て、日本大学芸術学部を卒業した。日大在学中に執筆した『晩鐘』がシナリオ作家協会新人シナリオコンクールに入賞する。大学卒業後の1955年に近畿広告へ入社したが、脚本家を目指すため1959年に退社した。同年、テレビ『ママちょっと来て』で脚本家デビューする。 1963年に日活へ入社し、映画『噂の風来坊』から始まり、『私は泣かない』、『あゝひめゆりの塔』などを執筆。
田口 勝彦(たぐち かつひこ、1931年1月24日 - 20… 田口 勝彦(たぐち かつひこ、1931年1月24日 - 2020年4月27日)は、日本の映画監督、テレビドラマの演出家、アニメーション監督、脚本家。脚本家としてのペンネームは山崎久、田口章一。岡山県津山市出身。シナリオ協会作家会員。日本映画監督協会会員。 日本大学芸術学部卒業後、東映へ入社。編集業務を経て、1年後に演出部へ異動。東映東京撮影所で1961年の『ファンキーハットの快男児シリーズ』である『ファンキーハットの快男児』、『ファンキーハットの快男児 二千万円の腕』の助監督を経て、東映東京制作所でテレビドラマの監督として活動。1966年に『悪魔くん』で監督としてデビューし、初期の「仮面ライダーシリーズ」や「スーパー戦隊シリーズ」のローテーション監督として同シリーズを支えた。
深作 欣二(ふかさく きんじ、1930年7月3日 - 200… 深作 欣二(ふかさく きんじ、1930年7月3日 - 2003年1月12日)は、日本の映画監督・脚本家。愛称はサクさん。茨城県緑岡村出身。 6人兄弟姉妹の次男(第5子)として生まれる。茨城大学教育学部附属中学校、水戸第一高等学校、日本大学芸術学部卒業。1953年(昭和28年)に東映へ入社。 1961年(昭和36年)、千葉真一の初主演作品となる『風来坊探偵 赤い谷の惨劇』で監督デビュー。千葉とはこののち23作品でコンビを組み、ヒットを連発していく。千葉を主演に据え置き演出した『風来坊探偵シリーズ』『ファンキーハットの快男児シリーズ』、1966年(昭和41年)の『カミカゼ野郎 真昼の決斗』は、『キイハンター』(1968年 - 1973年)の土台となった作品で、『キイハンター』の企画にも関わり、第1,2,157,158,178話を演出した。
鈴木 尚之(すずき なおゆき、1929年10月5日 - 20… 鈴木 尚之(すずき なおゆき、1929年10月5日 - 2005年11月26日)は、日本の脚本家。岐阜県高山市(旧・吉城郡国府村大字広瀬)出身。 父親は警察官で、岐阜県内で転校を繰り返し、父は退官時は高山警察署の署長であった。旧制岐阜二中(現・岐阜県立加納高等学校)の二学年下に篠田正浩がいたが、在学中に面識はない。同中学から日本大学藝術学部に進み、大学卒業後、1954年東映に入社。同期に東映京都撮影所に配属された高岩淡ら。東映東京撮影所の助監督となるが、同スタジオの埃が原因で、気管支炎を患い、一番仲良しだった深作欣二は引き留めてくれたが、やむなく1955年、本社企画本部脚本課に転属し脚本家となる。
早坂 暁(はやさか あきら、1929年〈昭和4年〉8月11日… 早坂 暁(はやさか あきら、1929年〈昭和4年〉8月11日 - 2017年〈平成29年〉12月16日)は、日本の脚本家、小説家。 本名、富田 祥資(とみた よしすけ)。 愛媛県温泉郡北条町(現松山市)生まれ。日本大学芸術学部演劇学科卒業。 戦後の日本を代表する脚本家のひとりである。 愛媛県温泉郡北条町(後の愛媛県北条市、現在の松山市北条)で、遍路道の大商家に生まれ育ち、幼少の頃からお遍路さんに接した。 旧制松山中学校(現在の愛媛県立松山東高等学校)を経て、海軍兵学校在学中に終戦。海軍兵学校からの復員途中に広島で一夜を明かし、被爆直後の広島の惨状を目撃した。旧制松山高等学校(現在の愛媛大学文理学部の構成母体)卒業後、東京大学医学部に合格するも、医業に疑問を持ち入学せず[信頼性要検証]、日本大学芸術学部演劇学科に進学し同校卒業。
鳥海 尽三(とりうみ じんぞう、1929年2月1日 ‐ 20… 鳥海 尽三(とりうみ じんぞう、1929年2月1日 ‐ 2008年1月17日)は、日本の男性脚本家、小説家。シナリオサークル鳳工房主幹、早稲田シナリオ義塾講師、代々木アニメーション学院講師、日本シナリオ作家協会会員、日本放送作家協会会員。 主にテレビアニメの脚本を執筆。『昆虫物語 みなしごハッチ』『科学忍者隊ガッチャマン』『新造人間キャシャーン』など、アニメ制作会社タツノコプロの草創期から1970年代まで黄金時代のほぼ全ての作品を企画文芸の中核として支えた。また、1970年に師匠である脚本家・陶山鉄の長男で、日活企画室に勤務していた陶山智、同じく日活で陶山の上司だった陣野修、SF作家の広瀬正をタツノコプロへ招聘して、人材面でも大きな役割を果たした人物でもある。
長野 卓 (ながの たかし、1927年12月22日 - 19… 長野 卓 (ながの たかし、1927年12月22日 - 1998年4月4日)は日本の映画監督、脚本家。 静岡県浜松市生まれ。1947年に日本大学を卒業。1950年、東宝で助監督を務め、映画監督に就任した。1960年代と1970年代に多くのテレビシリーズを監督した。 1998年4月4日、東京都で肺梗塞のため死去。 ※のみ監督、他は助監督
笠原 和夫(かさはら かずお、1927年5月8日 - 200… 笠原 和夫(かさはら かずお、1927年5月8日 - 2002年12月12日)は、日本の脚本家。東京府日本橋出身。日本大学中退。 裸電球を一つを灯した部屋に壁に作品の時間軸を記した巻物を壁に貼り執筆した。 第二次世界大戦後まもない頃に、大日方傳の経営していたキャバレーで従業員兼用心棒をしていた[要出典]。晩年にも日本の政治などの現状を憂いており、「戦後、暗殺事件がもっとあったなら、今よりは良い社会になっていたかもしれない。」と発言。 生前、自身の脚本について「ストーリーではなく、怒りを売っている。鬱屈したものを叩きつけている」と発言し、「大衆は、作っている人間の情念、怨念、恨みつらみを受け止めている」と語っていた。
石川 義寛(いしかわ ぎかん、1925年〈大正14年〉3月2… 石川 義寛(いしかわ ぎかん、1925年〈大正14年〉3月23日 - 2024年〈令和6年〉)は、日本の映画監督、脚本家。 静岡県富士宮市出身。日本大学法文学部政治経済学科卒業後、映画界に入る。1957年『怪談かさねが渕』、1958年『毒婦高橋お伝』、『憲兵と幽霊』、『女吸血鬼』、(『亡霊怪猫屋敷』脚本)、1959年『東海道四谷怪談』助監督を経て1960年『怪猫お玉ヶ池』で監督を務める。 2024年死去、99歳。 『酒をたしなみ糖尿病とも闘う 人生は“心”楽しく』健友館 2001年 ISBN 978-4773705782
成沢 昌茂(なるさわ まさしげ、1925年(大正14年)1月… 成沢 昌茂(なるさわ まさしげ、1925年(大正14年)1月29日 - 2021年(令和3年)2月13日)は、日本の脚本家、映画監督。 長野県上田市原町出身。上田市長をつとめた成沢伍一郎の二男。旧制上田中学(長野県上田高等学校)卒業後、1941年に松竹京都に入社、溝口健二に師事する。1944年、日本大学芸術学部卒業。 学徒出陣し捕虜生活を経て1945年に復員。1946年、松竹を退社。1952年に溝口にならって大映と契約、溝口の『噂の女』『新・平家物語』『赤線地帯』など、次々と巨匠と組んで名脚本を書き続けた。1962年、『裸体』で監督に転身、5作品を残す。1970年以降は映画から離れ、1975年から1977年にかけてNHK連続人形劇『真田十勇士』(柴田錬三郎原作)を担当。
阿部 桂一(あべ けいいち、1923年11月11日 - 19… 阿部 桂一(あべ けいいち、1923年11月11日 - 1991年8月15日)は、日本の脚本家である。 筆名は別に新井 啓(あらい けい)がある。日本シナリオ作家協会会員・功労賞受賞者、日本放送作家協会会員、日本脚本家連盟信託者。フジテレビジョン映画部の五社英雄が手がけたテレビ映画『トップ屋』、『刑事』で頭角を現し『三匹の侍』の成功で知られる。テレビの代表作はほかに『SFドラマ 猿の軍団』、『佐武と市捕物控』等、劇場用映画の代表作には『花と怒濤』等がある。 1923年(大正12年)11月11日、宮城県に生まれる。『放送作家年鑑 1966』の阿部の項には東京府(現在の東京都)に生まれた旨の記述がある。
野長瀬 三摩地(のながせ さまじ、1923年8月30日 - … 野長瀬 三摩地(のながせ さまじ、1923年8月30日 - 1996年5月23日)は、日本のテレビ監督、脚本家。京都府京都市出身。別名:南川 竜、南川 龍。 父は大正画壇で活躍した野長瀬晩花。伯父はトピー工業創業者の一人である野長瀬忠男。 野長瀬氏の末裔で、本名の三摩地は仏教用語のサマディー(三昧)にちなんで名付けられた。 幼少より父に連れられてよく映画を観に行き、映画制作の道を志す。 1946年に日本大学芸術学部映画学科を卒業し、東宝に入社。渡辺邦男、青柳信雄、本多猪四郎らの助監督を務め、主に杉江敏男監督作品に従事。黒澤明監督の『蜘蛛巣城』『どん底』(1957年)、『隠し砦の三悪人』(1958年)ではチーフ助監督を務めた。
関 喜誉仁(せき きよひと、1923年4月13日 - 没年不… 関 喜誉仁(せき きよひと、1923年4月13日 - 没年不詳)は、日本の映画監督、脚本家である。旧漢字表記関 喜譽仁、別名に沖 全吉(おき ぜんきち)、沖 弘次(おき こうじ)。 allcinema等での読み「せき きよじ」は誤りである。 1923年(大正12年)4月13日、関東州大連市(現在の中華人民共和国遼寧省大連市)に生まれる。 旧制中学校に在学中、校内での月1度の選定上映で映画に夢中になり、東京に出て、日本大学法文学部芸術学科映画専攻(現在の日本大学藝術学部映画学科)に入学する。同学在学中に、マキノ雅弘(当時は正博)に個人的に師事する。関が満18歳であった1941年(昭和16年)12月8日に太平洋戦争が開戦し、やがて戦況は激化、応召して1944年(昭和19年)9月に同学を繰り上げ卒業する。
福田 純(、1923年〈大正12年〉2月17日 - 2000… 福田 純(、1923年〈大正12年〉2月17日 - 2000年〈平成12年〉12月3日)は、日本の映画監督、脚本家。満洲出身。日本大学芸術学部卒業。 1923年、中国吉林省長春県(現・長春市)で生を受ける。父が南満洲鉄道に勤務していたため、幼少期を満洲で過ごす。 1941年(昭和16年)、日本本土へ渡り、松山高等学校へ入学。1943年、日本大学に進学したが、講義にはほとんど出ず、1日の大半を読書と映画鑑賞に費やしていた。在学中、学徒動員に従事。第二次世界大戦中に外地で鑑賞した映画『無法松の一生』に感銘を受け、映画監督を志す。 1946年(昭和21年)、東宝へ入社。助監督募集を聞いて試験に参加し、200人が応募する中で合格であった。
小沢 茂弘(おざわ しげひろ、1922年8月29日 - 20… 小沢 茂弘(おざわ しげひろ、1922年8月29日 - 2004年10月12日)は、日本の映画監督、脚本家、占い師、山伏。 戦後、日本映画の最盛期に娯楽性の高い作品を世に数々送り出し、職人監督と評されている。長野県東筑摩郡四賀村出身。 易者・山伏名:小沢 宏瑞(おざわ こうずい)、本名:小沢 茂美(おざわ しげよし)。 少年時代は松本市で上映される無声映画を頻繁に見ていた。1930年に旧制松本中学に入学。日本大学芸術科専門部映画科へ入学し、演劇科には三木のり平、映画科には沼田曜一がいた。在学中の17歳に映画研究会を作り、熊谷久虎・マキノ正博らに講演依頼をしたのが縁で、やがて正博の家に居候をし、薫陶を受ける。
キノ トール(1922年5月30日〈または5月31日〉 - … キノ トール(1922年5月30日〈または5月31日〉 - 1999年11月29日)は、日本の劇作家、脚本家、演出家。本名は木下 徹(きのした とおる)。東京都出身。テアトル・エコー顧問。妻は、産婦人科医、性医学評論家であるドクトル・チエコ(本名:木下 和子)。 出生時の姓名は松宮 徹。父は東京市世田谷区在住の松宮三郎。のちに木下荘()(満洲パルプ工業常務)の養子となる。俳優の松宮五郎(本名:隆)は、徹の実弟にあたる。 日本大学芸術学部卒業。第二次世界大戦中、予備学生として学徒出陣、海軍航空隊中尉で終戦を迎える。戦後、「独立劇場」設立。「東京青年劇場」を経てテアトル・エコーに入団。脚本家、演出家として劇団活動の基礎を築いた。
川部 修詩(かわべ しゅうじ、1922年4月17日 - 20… 川部 修詩(かわべ しゅうじ、1922年4月17日 - 2006年4月3日)は、日本の俳優、脚本家、映画評論家、雑誌編集者である。旧芸名川部 守一(かわべ しゅいち)。筆名の秋田 謙三(あきた けんぞう)では、テレビ台本の執筆、記録映画の製作を行う。日本映画ペンクラブ会員。麹町区第22代区長の川部爽介は実父である。 1922年(大正11年)4月17日、東京府豊多摩郡渋谷町(現在の東京都渋谷区)に生まれる。父の爽介は旧天童藩士で、川部が満3歳であった1925年(大正14年)8月に東京府東京市麹町区(現在の東京都千代田区)の区長に就任し、川部が満7歳を目前にし尋常小学校就学直前であった1929年(昭和4年)3月まで同職を務めた。
松浦 健郎(まつうら たけお/けんろう、1920年9月29日… 松浦 健郎(まつうら たけお/けんろう、1920年9月29日 - 1987年5月7日)は、日本の脚本家、小説家。 埼玉県秩父郡大滝村大血川(現・秩父市)出身。1942年日本大学専門部国文科中退、満州映画協会に入社。1944年東宝に移籍し、黒澤明、山本薩夫らの助監督を務める。1948年脚本家に転向、代表作に「風速40米」(1958年)、「電光石火の男」(1960年)、「青年の椅子」(1962年)など。弟子に雪室俊一、曽田博久がいる。1966年からは小説も書いた。 生涯に映画脚本を約170本、テレビなどの脚本を含めると約340本を手掛けた敏腕だったが、その作業は弟子との共同作業が多く、作成の多くが弟子たちに口述筆記、清書させるものであった。
竹内勇太郎(たけうち ゆうたろう、1919年11月10日 -… 竹内勇太郎(たけうち ゆうたろう、1919年11月10日 - 1993年2月14日)は、日本の脚本家、小説家。 山梨県塩山市(現甲州市)出身、1926年七里小学校(現・塩山南小学校)入学、甲府市貢川尋常小学校に転校、山梨師範学校(現・山梨大学)、日本大学卒業。山梨県北都留郡沢松国民学校、中巨摩郡竜王町の村立竜王小学校など県内の学校で教師となる。この頃、児童劇『桂川』の脚本を手がけNHKラジオで放送される。 時事新聞社山梨支社に事業部長兼文化部長として入社。芸術や文化活動の分野を担当する。演劇雑誌テアトロに戯曲を投稿。1955年頃上京し、東芸に所属し本格的に脚本を書きはじめる。 1956年5月28日、山梨県甲府市朝気で開業していた眼科医の雨宮一枝と結婚。
西村 元男(にしむら もとお、1913年7月15日 - 19… 西村 元男(にしむら もとお、1913年7月15日 - 1998年2月7日)は、日本の映画監督、脚本家。主にコメディ映画、ミュージカル映画、ドキュメンタリー映画を監督した。 日本大学芸術学部卒業(6期生)。その後、大映株式会社入社。 終戦後、大映に復帰。助監督から監督となり、1963年の退職まで多数の映画に携わる。 独立して映像編集、制作会社を立ち上げるも、1969年に解散。 1998年、肺ガンにより死去。 死後、2002年、企画した『陽はまた昇る』が西田敏行主演で東映より映画化された。 movie walkerplus 西村 元男 日本映画監督協会会員名鑑 西村元男 文化庁 日本映画情報システム 西村元男 資料データベース|東宝WEB SITE この項目は、映画関係者に関連した書きかけの項目です。
笠原 良三(かさはら りょうぞう、1912年1月19日 - … 笠原 良三(かさはら りょうぞう、1912年1月19日 - 2002年6月22日)は、日本の脚本家、小説家。本名:笠原 良三郎。社長シリーズなどの喜劇映画の脚本を多く手がけた。 栃木県足利郡足利町(現:足利市)出身。1932年に日本大学芸術学部を中退し、1936年に日活多摩川撮影所脚本部に入社。1941年に新興シネマ脚本部に転属後、大映東京撮影所脚本部に移籍。1955年に東宝撮影所の契約者となる。弟子に東映ヤクザ映画の隆盛を支えた笠原和夫などがいる。オリジナル作品は自らノベライゼーションを行っている。 2002年6月22日、死去。90歳没。 銀座の若大将 - 日本一の若大将 海の若大将 - エレキの若大将 アルプスの若大将 - 歌う若大将 レッツゴー!若大将 - 南太平洋の若大将 - ゴー!ゴー!若大将 フレッシュマン若大将 - ニュージーランドの若大将 ブラボー!若大将 - 俺の空だぜ!若大将 社長になった若大将(テレビドラマ) 加山雄三 - 大矢茂 - 草刈正雄 田中邦衛 - 高松しげお - 湯原昌幸 星由里子 - 酒井和歌子 - 吉沢京子 - いけだももこ - 坂口良子 有島一郎 - 飯田蝶子 - 中真千子 - 三條美紀 - フランキー堺 - 高橋恵子 藤本真澄 - 神谷一夫 - 大森幹彦 - 安武龍 - 田波靖男 田波靖男 - 笠原良三 杉江敏男 - 福田純 - 古澤憲吾 - 岩内克己 - 小谷承靖
小林 恒夫(こばやし つねお、1911年9月19日 - 19… 小林 恒夫(こばやし つねお、1911年9月19日 - 1991年12月6日)は、日本の映画監督・脚本家。東京都京橋出身。東映で現代劇をメインに撮っていた。 その後、テレビドラマ、PR映画の演出を手がける。テレビ映画では主に東映と古巣の東宝(系列会社宝塚映画も含む)製作作品の演出を多く手がけた。当時東宝の子会社だった円谷プロ作品にも参加する。特に『マイティジャック』でパイロット版を本放送版へ補強する仕事から入り、事実上のメイン監督を務めた。 監督昇進が41歳と遅かったものの、『点と線』における無駄をなるべく排し、テンポの良い時間経過と万人に理解しやすい物語の展開と切り口が持ち味であり、巧みな演出でリアリズム重視の独特の重厚さと緊迫感を与える作風であった。
猪俣 勝人(いのまた かつひと、1911年6月27日 - 1… 猪俣 勝人(いのまた かつひと、1911年6月27日 - 1979年8月7日)は、日本の脚本家・映画監督、映画評論家。東京府出身。 牛込出身。父が検事という厳格な家庭に育つ(のちに初期テレビドラマ『検事』の脚本も手がけている)。父の転任のたびに、長野、東京、千葉、新潟、福岡と転々とする。少年時代から学業を嫌い、文学書に親しみ、中学3年生の時には新聞『万朝報』の長編小説募集に応募、落選するもそれ以降は雑誌にの懸賞小説に毎年応募をし続けたが、当選することは一度もなかった。 日本大学芸術学部卒業後は、福岡で1年半ほど職に就けないでいたが、『九州日報』の短編小説募集で一等に入り、賞金5円を貰い、1934年に松竹蒲田撮影所にシナリオ・ライターの研究生として入社した。
印南 弘(いんなみ ひろし、1902年 - 1938年9月1… 印南 弘(いんなみ ひろし、1902年 - 1938年9月13日)は、日本の映画監督、脚本家である。サイレント映画の時代にモダンな現代劇を得意とした。 1902年(明治35年)、広島県に生まれる。 日本大学を卒業し、兵庫県西宮市甲陽園にあった東亜キネマ甲陽撮影所に入社する。1927年(昭和2年)1月9日に公開された『黄金の弾丸』で、満24歳で監督に昇進した。同年、阪妻・立花・ユニヴァーサル聯合映画に招かれて秋田伸一を主演に『港の灯』を監督、山口俊雄の主演作『仇討殉情録』の脚本をマキノ・プロダクションで書いたり、山口俊雄が独立して設立した山口俊雄プロダクションで『月形半平太』を監督したが、1929年(昭和4年)には、東亜キネマに復帰した。
牛原 虚彦(うしはら きよひこ、1897年3月22日 - 1… 牛原 虚彦(うしはら きよひこ、1897年3月22日 - 1985年5月20日)は、日本の映画監督、脚本家。本名は牛原 清彦。 初期の松竹蒲田撮影所で活躍した映画監督で、鈴木傳明とのコンビで明朗な青春映画などを作り、島津保次郎らとともに蒲田映画の一翼を担った。渡米してチャールズ・チャップリンの映画『サーカス』の製作に参加したことでも知られる。監督引退後は日本大学芸術学部教授や日活芸術学院初代学院長などに就いて後進の指導にあたった。毎日映画コンクール創設メンバーの一人でもある。妻は女優の三村千代子で、息子は日活で活躍した映画監督の牛原陽一。 1897年(明治30年)3月22日、熊本県熊本市京町に、父・満太郎と母・冬の6人兄妹の5番目として生まれる。
猪原 健太 は、日本の脚本家。高知県出身。OFFICE BL… 猪原 健太 は、日本の脚本家。高知県出身。OFFICE BLUE所属。
田中 孝治(たなか こうじ)は、日本の脚本家。
豊田 百香 は、日本の脚本家。株式会社アンドリーム所属。
いながわ 亜美(いながわ あみ)は日本の脚本家。株式会社アン… いながわ 亜美(いながわ あみ)は日本の脚本家。株式会社アンドリーム所属。 日本大学芸術学部映画学科監督コース卒業。ディレクターとしてNHKの番組を制作。2012年、脚本家デビュー。
岩本 真耶(いわもと まや)は、日本の脚本家。三重県出身。日… 岩本 真耶(いわもと まや)は、日本の脚本家。三重県出身。日本脚本家連盟の信託者。 2009年、日本大学芸術学部を卒業。 東北新社に勤務する傍ら、脚本教室に通う。 池端俊策と出会い、主に池端が脚本を担当する作品に脚本協力の形で関わるようになる。以降、プライベートにおいても池端と交流がある。 2016年、NHK BSプレミアムのプレミアムドラマ『鴨川食堂』の第7話の脚本を単独で担当し、脚本家デビュー。 地元である中京圏のKITTE名古屋×中京テレビドラマプロジェクト『名駅1丁目1番1号 〜人と、幸せを、つなぐ場所。〜』の脚本を手がける。 2020年から2021年にかけて放送されたNHK大河ドラマ『麒麟がくる』に参加。
香坂 隆史(こうさか たかふみ)は日本のテレビドラマの脚本家… 香坂 隆史(こうさか たかふみ)は日本のテレビドラマの脚本家。日本大学法学部、ニューヨークフィルムアカデミー映画制作コース卒業。 日本大学法学部卒業後、渡半し、ニューヨークフィルムアカデミーで映画作りを学ぶ。 2006年より映画・ドラマの助監督として数々の作品に携わる。 2011年、城戸賞準入賞。 2012年、WOWOWシナリオ大賞 大賞受賞。 2014年、『埋もれる』(WOWOW)で脚本家として本格的にデビュー。
坂本 正吾(さかもと しょうご)は、日本の男性脚本家、ゲーム… 坂本 正吾(さかもと しょうご)は、日本の男性脚本家、ゲームシナリオライター、声優。 日本大学芸術学部卒。在学中より、雑誌『コンプティーク』にてライターをつとめる。並行して青二塾に通い、その後青二プロダクションより声優としてデビュー。以降、銀プロダクション移籍後から、徐々に「書く仕事」にウェイトを移していく。アコルトおよびリップオンヒップ所属を経て、長年のフリーランス活動の後、2017年頃からサイゲームス所属となった。 ゲームの制作現場への理解も深い。特に『侍』開発の際には、外注参加であるにも関わらず、シナリオおよびスクリプトチームの実質チームリーダーとして、三浦洋晃と共にチーム全体をまとめ上げた。