室 俊司(むろ しゅんじ、1931年11月23日 - 200… 室 俊司(むろ しゅんじ、1931年11月23日 - 2009年9月)は、日本の教育学者。立教大学名誉教授。 東京市(現墨田区)出身。1950年日本大学第一高等学校卒、1958年東京大学教育学部卒、64年同大学院博士課程満期退学、1963年『月刊社会教育』編集長、1964年立教大学文学部講師、66年助教授、73年教授、96年定年退任、名誉教授。
立教大学:1,675人
室 俊司(むろ しゅんじ、1931年11月23日 - 200… 室 俊司(むろ しゅんじ、1931年11月23日 - 2009年9月)は、日本の教育学者。立教大学名誉教授。 東京市(現墨田区)出身。1950年日本大学第一高等学校卒、1958年東京大学教育学部卒、64年同大学院博士課程満期退学、1963年『月刊社会教育』編集長、1964年立教大学文学部講師、66年助教授、73年教授、96年定年退任、名誉教授。
平山 城児(ひらやま じょうじ、1931年10月28日 - … 平山 城児(ひらやま じょうじ、1931年10月28日 - 2023年9月16日)は、日本文学研究者。専門は上代文学・近代文学。立教大学名誉教授。 京都生まれ。鎌倉育ち。作家・平山蘆江の孫。父は非凡閣の編集者などをしていた平山清郎。母は宝塚歌劇団に在籍した元タカラジェンヌで、戦後は同じ鎌倉市在住であった川端康成の『歌劇学校』の代筆をしていた平山宮子(旧姓:森下。芸名:近江ひさ子、宝塚歌劇団14期生)。 湘南高等学校卒、1954年立教大学英文科卒、1957年同大学院修士課程修了、1960年立教大学日本文学科卒、1965年同大学院博士課程中退。 立教大学一般教育部講師、1967年同助教授、1974年教授、1995年同文学部教授、1997年定年退任、名誉教授。
永瀬 洋治(ながせ ようじ、1931年(昭和6年)9月10日… 永瀬 洋治(ながせ ようじ、1931年(昭和6年)9月10日 - 2012年(平成24年)2月11日)は日本の政治家。埼玉県川口市長(第15代 - 第18代)。 埼玉県川口市出身。市立浦和高等学校を経て1954年に立教大学を卒業し、川口市役所に就職、1967年に川口市議会議員に初当選、この年の第22回国民体育大会では事務局長を務めた。 埼玉県議会議員を経て1981年から1997年まで4期16年川口市長を務めた。市長退任後も日本体育協会の理事、埼玉県体育協会の副会長、埼玉県国際交流協会の副会長、日本オペレッタ協会の理事を務めた。 市長在任中、「文化の香る街づくり」を掲げて川口駅前の公害資源研究所跡地の払い下げを受けて川口リリアを建設すると共に川口市民音楽協会会長(市長を退任した1998年から名誉会長)に就任、第九の会などを設立した。
保坂 幸永(ほさか ゆきなが、1931年8月13日 - )は… 保坂 幸永(ほさか ゆきなが、1931年8月13日 - )は、山梨県塩山市赤尾出身の元プロ野球選手(捕手、投手)。 山梨県立日川高等学校では、捕手として1949年の春の選抜に出場。1回戦で北野高に敗退。同年夏の甲子園県予選を勝ち抜き山静大会決勝に進むが、静岡城内高に敗れ甲子園出場を逸する。 卒業後は立教大学へ進学。1年上に堀川瑛(東洋レーヨン)がおり、4年生から正捕手となる。東京六大学野球リーグでは、1953年春季リーグで優勝を経験するが、その後は明大、早大に圧倒され、優勝には届かなかった。大学同期に大沢昌芳、古田昌幸がいる。2年後輩の杉浦忠ともバッテリーを組んだことがあった。 1956年大映スターズに入団。
高林 隆(たかばやし たかし、1931年8月2日 - 200… 高林 隆(たかばやし たかし、1931年8月2日 - 2009年12月27日)は、埼玉県さいたま市出身のサッカー選手。ポジションはMF。 埼玉県立春日部高校時代に頭角を現し3年次に高校選手権埼玉県予選優勝。1950年に立教大学へ進学し3年次の1953年に大学選手権優勝に貢献すると、4年次に日本代表に選出された。また関東大学選抜にも1年次から選出されている。 1953年に、日本学生選抜に選出され西ドイツのドルトムントで開催された国際大学スポーツ週間(ユニバーシアードの前身)に出場。この選抜員には長沼健、岡野俊一郎らといった日本サッカーの中枢となる人物が多数参加していた。 卒業後の1954年に田辺製薬に加入、3度の全日本実業団選手権優勝(1954年、1955年、1957年)に貢献した。
御木本 伸介(みきもと しんすけ、1931年5月22日 - … 御木本 伸介(みきもと しんすけ、1931年5月22日 - 2002年8月5日)は、石川県金沢市出身の日本の俳優。本名は鈴木 脩一(すずき しゅういち)。 石川県生まれ。出生地については、羽咋郡押水町とするものと、金沢市高岡町とするものがある。 一男一女の長男で、日舞藤間流名取の姉がいる。父方の鈴木家は、代々加賀前田家の御殿医を務めた家柄。父の武も医師だったが、太平洋戦争末期には、海軍に徴用されていた日本郵船所有の貨客船筥崎丸に機関士として乗船していた。1945年3月19日、筥崎丸はアメリカ海軍の潜水艦による雷撃を受けて沈没し、父は戦死。長唄の師匠だった母・喜美の稽古料が遺された家族の生活の支えとなるが、1950年には母も病死し、祖母と姉との生活になった 。
石井 政雄(いしい まさお、1931年〈昭和6年〉1月29日… 石井 政雄(いしい まさお、1931年〈昭和6年〉1月29日 - 2007年〈平成19年〉5月9日)は、日本の陸上自衛官。第20代陸上幕僚長、第17代統合幕僚会議議長。勲二等正四位。 千葉県出身。松戸の旧家の生まれ。中学3年で終戦を迎えたため、目指す陸士に進めず、地元の高校から立教大学へ進学。大学を卒業後は計算機の会社に就職した。1年間の研修が終わるころ、たまたま訪れた都庁で保安隊の幹部候補生募集のポスターを見て入隊を決意した。 幹部候補生学校を卒業後、普通科教導連隊に配属。普通科を選んだ理由は「普通科(歩兵)こそ軍の主兵だと思い、自衛隊に入ると決めた以上、普通科になると決めていた」と語っている。
矢野 祐弘(やの すけひろ、1931年1月6日 - 1993… 矢野 祐弘(やの すけひろ、1931年1月6日 - 1993年6月11日)は、愛媛県出身のアマチュア野球の野球指導者。 西条高校(旧制西条中学校)を経て、立教大学に進学し野球部に属したが、2年で中退。1950年3月に母校の西条高校の監督に就任した。1956年の選抜高校野球で初めて甲子園への出場を果たし、1959年の全国高校野球では、エースの金子哲夫を擁し、初めて全国制覇を果たした。1962年の岡山国体でも優勝を果たした。 実績を買われて、1965年から1977年までの間、亜細亜大学の監督を務めた。山本和行投手を擁し1971年春に東都大学野球リーグで亜大3回目の優勝を果たすと、全日本大学野球選手権大会で法政大学を破り亜大を全国大会初優勝に導いた。
萩原 忠(はぎわら ただし、1931年 - )は、日本の実業… 萩原 忠(はぎわら ただし、1931年 - )は、日本の実業家、発明家。ハジー技研株式会社代表取締役、株式会社インターホールディングス名誉会長 1931年、山梨県甲府市生まれ。山梨県立甲府中学校(現・甲府第一高等学校)卒業。 立教大学卒業後、金門製作所(ガス、水道メーターの専門メーカーであるに就職。流体制御技術を習得し、LPG小型ガスメーター、高層ビル用流量測定メーターを開発、発明して高い評価を得る。 1962年、アメリカ(DYNAMIC ECOLOGY社)に招聘され、NASAアポロ計画に参加。 油圧機器の劣化防止装置の開発を担当。以降、製鉄、鉄鉱、石油、電力、化学、原子力、鉄道等すべての基幹産業における流体制御(濾過、分離、混合、劣化防止)の専門技術者として従事。
伊藤 紫朗(いとう しろう、1931年 - )は日本のファッ… 伊藤 紫朗(いとう しろう、1931年 - )は日本のファッション・プロデューサー、服飾評論家。(株)チェスターフィールド代表取締役。 1953年に立教大学経済学部経営学科卒業。同年白木屋に入社して紳士服仕入部に配属される。1954年には「イヤーラウンドスーツ」考案し、実用新案特許取得により社長表彰。
後藤 昭次(ごとう しょうじ、1931年 - )は、日本のア… 後藤 昭次(ごとう しょうじ、1931年 - )は、日本のアメリカ文学者、翻訳家。立教大学名誉教授。 立教大学英文学大学院博士課程満期退学。立教大学助教授、教授、1997年定年退任、名誉教授。 立教大教授(アメリカ文学)の後藤和彦(1961 - )とは無関係。
手塚 伸一(てづか しんいち、1931年 - )は、日本のフ… 手塚 伸一(てづか しんいち、1931年 - )は、日本のフランス文学者、翻訳家。立教大学名誉教授。 ジュール・ヴェルヌ、フランシス・ジャムなどを研究・翻訳した。 立教大学大学院中退、同大学助教授、教授、1997年定年退任、名誉教授。
吉田 新一(よしだ しんいち、1931年 - 2025年2月… 吉田 新一(よしだ しんいち、1931年 - 2025年2月24日)は、日本の児童文学研究者、翻訳家、教育者。立教大学名誉教授、日本女子大学元教授、日本イギリス児童文学会会長、絵本学会会長。日本におけるピーターラビットとビアトリクス・ポター研究の第一人者として、海外児童文学作品の翻訳も精力的に行い、海外児童文学の研究・教育と普及に貢献する。教え子に桂宥子、北野佐久子がいる。 1931年、東京に生まれる。立教大学文学部英米文学科卒業、同大学院文学研究科修了。 立教大学一般教育部教授となり、英米文学を教える。 1960年代後半、立教大学を含む日本の各大学で起こった学園紛争が収束に向かった頃、新カリキュラムの導入が進められるが、吉田の提案によって英米児童文学分野も新たに設けられ、授業を担うこととなる。
浅田 肇(あさだ はじめ、1930年9月21日 - )は、北… 浅田 肇(あさだ はじめ、1930年9月21日 - )は、北海道岩見沢市出身の元プロ野球選手(投手)。 北海高校から立教大学へ進学し、1951年に中退して国鉄スワローズへ入団 1953年に退団し、1956年から1962年まで電電北海道でプレーした。
佐野 哲也(さの てつや、1930年9月13日[要出典] -… 佐野 哲也(さの てつや、1930年9月13日[要出典] - 1983年2月9日)は、日本の俳優。東京都出身。立教大学卒業[要出典]。劇団手織座に所属していた。 1981年、舞台「楢山節考」で芸術祭賞奨励賞を受賞。 1982年、「楢山節考」の名古屋公演中に倒れ、1983年2月9日に死去。52歳没。
浅坂 武次(あささか たけじ、1930年7月24日 - )は… 浅坂 武次(あささか たけじ、1930年7月24日 - )は、日本の元スピードスケート選手である。青森県八戸市出身。 八戸商業高校卒業後一旦就職、その後立教大学に進学した。 1948年から1951年まで青森県選手権4連覇。1954、1955世界選手権代表。 立教大学在学時の1956年コルティナダンペッツォオリンピックに出場、500m22位、1500m21位、5000m28位、10000m22位だった。
鈴木 常司(すずき つねし、1930年7月6日 - 2000… 鈴木 常司(すずき つねし、1930年7月6日 - 2000年11月15日)は、日本の実業家、ポーラ化粧品元会長。 1930年7月6日、静岡県生まれ。立教大学卒業。1953年8月経営学を学ぶため、アメリカへ留学。ウィリアムズ・カレッジに学ぶ。1954年創業者である父鈴木忍の急死により留学先のアメリカから帰国。24歳でポーラ化成工業とポーラ化粧品本舗の社長となる。セールスレディーによる高級化粧品の訪問販売「ポーラ商法」で業績をのばした。1996年会長。2000年11月15日死去。 美術品の収集家でもあったが、特定のアドバイザーを持たず、美術の専門書によって独学で美術史を学び、その知識を収集に活かすことで19~20世紀の西洋・日本美術の歴史を追うことのできる体系的な西洋絵画コレクションを作り上げた。
大久保 白村(おおくぼ はくそん、1930年3月27日-)は… 大久保 白村(おおくぼ はくそん、1930年3月27日-)は俳人。東京都生まれ。本名は泰治。日本伝統俳句協会副会長、元・東京都俳句連盟会長。「ホトトギス」、「玉藻」同人。父も俳人で初代海上保安庁長官の政治家、大久保武雄(俳号・橙青)。 1930年、蕉門の俳人、大久保長水(八左衛門宗雅)を先祖に持つ大久保家、大久保武雄の子として東京都に生まれる。学生時代より父親の影響で高濱虚子の「ホトトギス」や水原秋桜子の「馬酔木」、富安風生の「若葉」に投句。立教大学経済学部卒業後、1952年、富士銀行に入行。同行の職場句会がきっかけで風生に師事、後に「ホトトギス」、星野立子の「玉藻」同人となる。父とともに日本伝統俳句協会の設立に尽力し後年、父と同じ副会長となる。
木滑 良久(きなめり よしひさ、1930年2月22日 - 2… 木滑 良久(きなめり よしひさ、1930年2月22日 - 2023年7月13日)は、日本の編集者。元マガジンハウス社長。 東京府出身。米沢藩の側用人・木滑要人の子孫。15歳で太平洋戦争の敗戦に遭遇し、進駐軍を通じアメリカの文化に接して強烈な憧れを抱く。1954年3月、立教大学文学部史学科卒業。学生時代から出入りしていた平凡出版(現在のマガジンハウス)に1955年3月に入社し、1965年から1980年まで『週刊平凡』『平凡パンチ』『an・an』『POPEYE』『BRUTUS』の各編集長を歴任した。1980年12月取締役に就任。1982年6月には『Olive』の編集長を兼任する。1984年10月、取締役編集担当副社長に就任し、1988年には『Hanako』を創刊しブームを作るきっかけを与えた。
山田 昭次(やまだ しょうじ、1930年〈昭和5年〉1月8日… 山田 昭次(やまだ しょうじ、1930年〈昭和5年〉1月8日 - 2025年〈令和7年〉3月15日)は、日本の日本史学者、立教大学名誉教授。 1930年、埼玉県入間郡山口村(現・所沢市)に生まれる。1953年、立教大学文学部史学科卒業。1962年、立教大学一般教育部講師。後に助教授、教授。1995年、同大学を定年退職、名誉教授。 2025年3月15日、誤嚥性肺炎で死去。95歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
船戸 英夫(ふなと ひでお、1930年1月7日 - 1994… 船戸 英夫(ふなと ひでお、1930年1月7日 - 1994年4月27日)は、日本の英文学者。 埼玉県川越市生まれ。立教大学大学院文学研究科修士課程修了。立教大学助教授、教授を務めた。1994年4月27日、在職中に肝不全のため死去。
加茂 元照(かも もとてる、加茂五郎右衛門元照、1930年 … 加茂 元照(かも もとてる、加茂五郎右衛門元照、1930年 - )は日本の園芸家。加茂グループ会長。日本花菖蒲協会名誉会長。 1930年(昭和5年)生まれ。静岡県掛川市の桃山時代から続く豪農・庄屋の家系で、加茂家17代当主。1948年(昭和23年)、静岡県立静岡第一高等学校卒業。立教大学経済学部から同大大学院経済研究科に進み、1957年(昭和32年)、家業のため中退後、自宅に加茂花菖蒲園を開園。以来花菖蒲のほか、ベゴニア・フクシア・コリウスなどの花卉栽培や、フクロウなど鳥類の飼育に専念する。コンピュータ制御による巨大温室でのサガリバナの品種改良のほか、鳥ウイルス・病原菌の検出等に努める。人と鳥が間近で触れ合えることを特徴とした観光農園のテーマパーク・植物園を運営。
出光 謙介(いでみつ けんすけ、1930年 - )は、日本の… 出光 謙介(いでみつ けんすけ、1930年 - )は、日本の実業家。出光興産厚生年金基金理事長、日章興産株式会社常務取締役、日・豪・ニュージーランド協会理事。 1930年、出光計助(出光興産第2代社長、出光佐三の末弟)の長男として生まれる。弟(計助の二男)は、出光昭(出光興産第7代社長)。 1954年3月、立教大学経済学部経済学科卒業。 大学卒業後、大和銀行(現・りそな銀行)に勤務。 その後、出光興産の関連会社である日章興産常務取締役を務めたほか、出光興産厚生年金基金理事長を歴任した。 公益社団法人 日・豪・ニュージーランド協会理事も務めた。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
藤村 和夫(ふじむら かずお、1930年 - 2011年)は… 藤村 和夫(ふじむら かずお、1930年 - 2011年)は、日本の蕎麦職人。有楽町更科(1902年創業、1994年閉店)の4代目店主を務め、蕎麦に関する書籍を多数上梓している。山本おさむの漫画『そばもん ニッポン蕎麦行脚』では監修を務め、没後も「名誉監修」としてクレジットされ続けた。 1930年、有楽町更科店主・布屋源三郎の長男として誕生する。 立教大学文学部英文科を卒業後、祖父 昇太郎の薫陶を受け、1959年に「有楽町更科」4代目店主となる。 1985年に直腸癌を患い、直腸の摘出手術を受ける。手術は成功するが、これを機に家業からは引退。有楽町更科は姉に任せ、夫婦で箱根の山中に引っ越す。 箱根で暮らすようになってから、精力的に蕎麦についての本を執筆する。
塚田 理(つかだ おさむ、1929年12月31日 - 201… 塚田 理(つかだ おさむ、1929年12月31日 - 2016年11月15日)は、日本の神学者。立教大学名誉教授。第7代学校法人立教学院院長。第15代立教大学総長。 新潟県上越市出身。立教大学文学部卒業。聖公会神学院卒業。オックスフォード大学大学院修了。 1957年より日本聖公会名古屋学生センター主事、聖公会神学院を経て立教大学文学部キリスト教学科勤務。 その後、同大学文学部長を経て、1994年大学総長(第15代)、1995年立教学院院長(第7代)。
石原 照夫(いしはら てるお、1929年11月28日 - 2… 石原 照夫(いしはら てるお、1929年11月28日 - 2006年3月16日)は、千葉県成田市出身のプロ野球選手(内野手)。 兄は戦前投手として、東京セネタースや翼軍、大洋軍、大和軍に所属した石原繁三。1960年代に東映フライヤーズ、1970年代にロッテオリオンズの球団代表を務めた石原春夫とは別人。 旧制成田中学校では、エースとして戦後初の開催となった1946年夏の大会では、球史に残る1回戦最初の試合で京都二中と対戦するが0-1で惜敗。 立教大学へ進学し、野手転向。東京六大学野球リーグでは優勝に届かなかったが、リーグ通算86試合出場、338打数101安打、打率.299の成績を残す。 大学卒業後は、社会人野球の藤倉電線に入社。
池広 一夫(いけひろ かずお、1929年10月25日 - 2… 池広 一夫(いけひろ かずお、1929年10月25日 - 2025年10月15日)は、日本の映画監督。脚本家の石松愛弘は義弟。 東京府(現東京都)出身。父親は大映の重役で 製作部長・大阪支社長・東京撮影所所長などを歴任した池広利夫。東京都立千歳中学校(のちの東京都立千歳高等学校)卒業。幼少時から撮影所の近くで育ったこともあり、小学生時代には子役としての活動もしていた。立教大学経済学部在学中は「映画研究会」に属する。映画監督を志し、父親の反対を押し切り、レッドパージで加藤泰らを解雇した影響から臨時の助監督を募集していた大映京都撮影所の入社試験を受験。1950年10月付で同社に入社。同期には土井茂、黒田義之、井上昭らがいる。
髙橋 種昭(たかはし たねあき、1929年10月13日 - … 髙橋 種昭(たかはし たねあき、1929年10月13日 - 2021年10月22日)は、日本の児童福祉学者・教育者。 1956年立教大学大学院文学研究科児童福祉専攻修了。同年社会福祉法人母子愛育会愛育研究所に勤務、子どもの発達相談、母子福祉の研究調査に携わる。1976年淑徳短期大学社会福祉学科教授、1983年日本女子大学家政学部児童学科教授。1997年群馬社会福祉大学教授。日本児童学会名誉会員、日本子ども家庭総合研究所客員研究員。
杉原 鏘一郎(すぎはら しょういちろう、1929年7月3日 … 杉原 鏘一郎(すぎはら しょういちろう、1929年7月3日 - 2006年9月19日)は、日本の元自転車競技選手。東京都八王子市出身。 八王子市千人町の自転車店に生まれる。杉原一郎の長男で、長篠の戦いにおいて武田方足軽大将として討ち死に(参考:「信長公記」長篠の戦)した杉原日向守直明(正直とも)の末裔。日向守直明の母親は豊臣秀吉の正妻高台院の生家との関連も指摘されている。武田家の滅亡後は旗本200俵で番士として徳川幕府に仕え、幕末の当主平助直養は儒学者として知られ、青木昆陽(甘藷先生)の曽孫にあたる。 立教大学在学時代、1951年に行われた第1回アジア競技大会(インド・ニューデリー)、1000mタイムトライアルで優勝。
小坂井 澄(こさかい すみ、1929年4月19日 - )は、… 小坂井 澄(こさかい すみ、1929年4月19日 - )は、ノンフィクション作家。 東京生まれ。立教大学文学部中退。集英社勤務の後、1967年よりフリーライターになる。1975年から著作の上梓を始め、1983年、『これはあなたの母』で大宅壮一ノンフィクション賞受賞。一貫してキリスト教精神に貫かれており、当初は不幸な女性たちの評伝、近年はキリスト教関係の書物が多い。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
森川 時久(もりかわ ときひさ、1929年(昭和4年)3月7… 森川 時久(もりかわ ときひさ、1929年(昭和4年)3月7日 - 2022年(令和4年)8月28日)は、日本の映画監督、テレビドラマ演出家。立教大学卒業。 立教大学卒業後、文化放送に就職。1959年にフジテレビのディレクターになり、社会派ドラマを多く手がける。1967年、人気ドラマ『若者たち』の劇場版で映画監督デビュー。その後はフリーランスとして活動した。 2022年8月28日、消化管出血のため死去。93歳没。 この項目は、映画監督に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ映画)。
斎藤 耕一(さいとう こういち、1929年2月3日 - 20… 斎藤 耕一(さいとう こういち、1929年2月3日 - 2009年11月28日)は、日本の映画監督、写真家、スチルカメラマン。 東京府八王子市に生まれる。立教大学中退後、東京写真工業専門学校(現・東京工芸大学)に入学する。卒業後、1949年、太泉映画(現・東映東京撮影所)にスチルカメラマンとして入社し、今井正の『ひめゆりの塔』で「キネマ旬報スチールコンテスト」で1位入賞する。 1954年、日活に引き抜かれ、中平康、今村昌平、市川崑など多くの作品のスチルを担当した。その他には中平康の『月曜日のユカ』などの脚本も手がけている。 しかし次第に自身のイメージと作品とのあまりのずれに失望し、1967年、私財を投じて「斎藤プロダクション」を設立する。
寺尾 睦男(てらお むつお、1929年1月30日 - 201… 寺尾 睦男(てらお むつお、1929年1月30日 - 2019年7月24日)は、日本の実業家。京都府生まれ。ライオン副社長、公共広告機構(ACジャパンの前身)理事長、ACジャパン相談役、日本広告写真家協会理事、NPO法人LWC Happy Rice理事、世界の子どもにワクチンを日本委員会理事などを歴任。 1929年京都生まれ。後に東京へ転居し、永田町小学校(現・麹町小学校)、旧・関東中学校(現・聖徳学園中学校・高等学校)、立教大学経済学部卒業。 大学卒業翌年の1951年、ライオン油脂(のちのライオン)に入社。以来、一貫して広告宣伝マーケティングに従事し、ビートルズ日本公演特番の単独CM提供やエメロン「ふりむかないでキャンペーン」などを手掛け、商品のヒットにつなげた。
嶌村 剛雄(しまむら つよお、1928年3月10日 - 19… 嶌村 剛雄(しまむら つよお、1928年3月10日 - 1994年6月4日)は、日本の会計学者。元明治大学教授(在職死亡)。 熊本市出身。立教大学卒、同大学院経済学研究科博士課程満期退学、1977年「会計上の資産概念に関する研究」で、明治大学より経営学博士の学位を取得。明治大学経営学部助教授、教授を務め、在任中に66歳で死去した。
小宮山 昭一(こみやま しょういち、1928年1月1日 - … 小宮山 昭一(こみやま しょういち、1928年1月1日 - 2013年1月21日)は、日本の実業家、埼玉銀行(現・埼玉りそな銀行)元専務、学校法人立教学院元理事長。 1928年生まれ。1950年、立教大学経済学部経済学科卒業。 埼玉銀行(現・埼玉りそな銀行)に入行。銀行では広報マンとして広報業務を担った。 同行専務を務める。同行退職後、1995年7月から2007年5月まで学校法人立教学院理事長を務めた。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
長谷川 潔(はせがわ きよし、1927年5月14日 - 20… 長谷川 潔(はせがわ きよし、1927年5月14日 - 2009年2月23日)は、日本の英語学者。 神奈川県横浜市出身。立教大学卒。バルパライソ大学卒、カリフォルニア州立大学大学院修士課程修了。お茶の水女子大学助教授、横浜国立大学教育学部教授。93年定年退官、関東学院大学教授を務めた。日本丸名誉船長。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
川崎 淳之助(かわさき じゅんのすけ、1927年 - 201… 川崎 淳之助(かわさき じゅんのすけ、1927年 - 2018年)は、英文学者、立教大学名誉教授。 神奈川県生まれ。立教大学文学部英米文学科卒業。立教大学文学部教授、1992年定年退職、川並総合研究所をへて聖徳大学人文学部学部教授。日本ワイルド協会名誉会長。専攻はイギリス演劇(エリザベス朝演劇、風習喜劇)中央アジア・モンゴルの歴史にも造詣が深い。
浜野 卓也(はまの たくや、1926年1月5日 - 2003… 浜野 卓也(はまの たくや、1926年1月5日 - 2003年8月10日)は、日本の児童文学作家、評論家、教育者。専攻は近代文学。中学、高校での教師を務めたのち、山口女子大学(現・山口県立大学)教授、日本大学芸術学部講師、立教女学院短期大学講師、日本児童文学学会代表理事を歴任した。日本児童文学者協会理事、日本児童文芸家協会理事、日本文芸家協会会員。 静岡県御殿場市出身。早稲田大学第一文学部国文科を卒業後、都内の中学、高校教師を務め、立教大学大学院を修了(近代文学専攻)。 上野高等学校教頭を最後に高校教師を退職したのち、山口女子大学(現・山口県立大学)教授、日本大学芸術学部講師、立教女学院短期大学講師、日本児童文学学会代表理事などを歴任。
大沢 貞義(おおさわ さだよし、1926年 - )は、島根県… 大沢 貞義(おおさわ さだよし、1926年 - )は、島根県出身の元アマチュア野球選手(投手、内野手、外野手)。 松江商業学校から1948年に立教大学に進学。投手、主力打者として活躍する。東京六大学野球リーグでは優勝には届かなかったが、1950年秋季リーグでは早大に次ぐ2位。1951年春季リーグでは13試合に登板し早慶両校との3者プレーオフに持ち込むが、敗退し3位に終わった。同季は42打数17安打、打率.405で首位打者となる。リーグ通算57試合登板、24勝19敗、156奪三振、防御率2.75。 卒業後は熊谷組に入社、エース兼右翼手として起用される。1952年の都市対抗で準決勝に進むが全鐘紡に敗退。
敷田禮二(しきだ れいじ、1926年 - 1993年6月3日… 敷田禮二(しきだ れいじ、1926年 - 1993年6月3日)は、日本の経営学者。 石川県出身。1950年立教大学経済学部卒、1958年同大学院博士課程単位取得退学。1952年立教大学経済学部助手、1956年講師、1959年助教授、1966年教授となる。1983年「管理会計批判 戦後日米資本主義史と蓄積手段」で経済学博士。1992年定年、名誉教授。66歳で死去。
田村 逸也(たむら いつや、1925年12月29日 - 20… 田村 逸也(たむら いつや、1925年12月29日 - 2022年2月13日)は、日本の実業家。株式会社タムラ製作所元代表取締役会長・社長。藍綬褒章受章。 1925年12月29日、タムラ製作所(前・田村ラヂオ商会)創業者・田村得松の長男として生まれる。 1950年3月、立教大学経済学部卒業。同月、株式会社タムラ製作所入社。 1953年9月、同社取締役副社長就任。1960年5月、同社代表取締役社長就任。 1999年6月、同社代表取締役会長就任。2001年6月、同社取締役会長就任。 父で創業者である得松の後継者として、約40年間(1960~1999年)にわたって2代目社長を務めた。この間、高度経済成長期の波の中で、生産や販売などの面において国内外で業績を拡大させ、会社の成長をけん引した。
鈴木 明(すずき あきら、1925年10月28日 - 200… 鈴木 明(すずき あきら、1925年10月28日 - 2003年7月22日)は、日本のノンフィクション作家・フリージャーナリスト。本名は今井 明夫。
小川 隆司(おがわ たかし、1925年5月24日 - 200… 小川 隆司(おがわ たかし、1925年5月24日 - 2007年7月10日)は、日本の実業家。トンボ鉛筆元代表取締役社長、元会長、取締役名誉会長、日本鉛筆工業協同組合元理事長。通産大臣表彰(現・経済産業大臣表彰)受賞者。 1925年、トンボ鉛筆の創業者小川春之助と妻・小川とわの三男として生まれる。 1948年3月 立教大学経済学部経営学科(現・経営学部)卒業。同年4月、トンボ鉛筆製作所(現・株式会社トンボ鉛筆)入社。1951年、トンボ鉛筆製作所取締役に就任。同社常務、専務を歴任後、1963年、同社副社長に就任。 1964年、株式会社トンボ鉛筆製作所から株式会社トンボ鉛筆へ社名変更される。 1980年には、工業標準化功労者として通産大臣表彰(現・経済産業大臣表彰)を受賞。
河渕 務(かわぶち つとむ、1925年5月16日 - 201… 河渕 務(かわぶち つとむ、1925年5月16日 - 2014年1月19日)は、日本のアイスホッケー選手、指導者。 日本女子アイスホッケーの父と呼ばれた。 北海道苫小牧市出身。1938年に旧制苫小牧中学校(現北海道苫小牧東高等学校)に入学してからアイスホッケーを始めた。立教大学に進学した後、1945年に中退し応召されて樺太に行った。復員した後、1947年に岩倉組に入社、アイスホッケー部の選手として、1954年の第7回国体、1957年の全日本アイスホッケー選手権で優勝、1959年に監督に就任した。 アイスホッケー日本代表の監督を務め、1960年の世界選手権Bプールで優勝、1964年インスブルックオリンピックの監督も務めた。
五井 孝蔵(ごい こうぞう、1925年4月15日 - 200… 五井 孝蔵(ごい こうぞう、1925年4月15日 - 2007年1月12日)は、秋田県出身のプロ野球選手(投手、内野手)。 旧制秋田県立角舘中學校から立教大学へ進学し、主将を務めた。リーグ通算13勝32敗。 1950年に創立された近鉄パールスへ入団。3月31日に対毎日オリオンズ戦でプロ入り初登板、5安打5与四球2奪三振の内容で完封勝利を挙げた。初登板完封勝利は日本プロ野球史上10人目、球団およびパ・リーグでは初めての記録となった。この年は37試合を投げて8勝15敗の成績だった。1951年9月16日の対阪急ブレーブス戦で、野口二郎からパ・リーグ史上初、日本プロ野球史上3人目の代打サヨナラ本塁打を放っている。
岩崎 福三(いわさき ふくぞう、1925年3月11日 - 2… 岩崎 福三(いわさき ふくぞう、1925年3月11日 - 2012年2月29日)は日本の実業家で、鹿児島県に本拠を置く企業集団・岩崎産業の会長。 鹿児島県出身。旧制立教中学校(現:立教池袋中学校・高等学校)を経て、1948年に立教大学経済学部を卒業。1965年千石運送社長、1968年岩崎産業副社長、1972年鹿児島交通社長。岩崎産業の創業者であった父・與八郎から同社を引き継ぎ、1981年にその社長に就任。 後に息子の芳太郎にその役を譲り、同社の会長に就任した。 鹿児島商工会議所の会頭・名誉会頭、指宿市の岩崎美術館の理事長、鹿児島経済同友会の特別幹事、鹿児島県バス協会の名誉会長、鹿児島日仏協会の会長なども務めるなど、地元鹿児島県の経済界の主導者として活躍。
住谷 一彦(すみや かずひこ、1925年〈大正14年〉1月1… 住谷 一彦(すみや かずひこ、1925年〈大正14年〉1月1日 - 2022年〈令和4年〉8月15日)は、日本の経済社会学者、立教大学名誉教授。 経済学者・住谷悦治の子として京都市に生まれる。弟は住谷磬。松山中学校、旧制松山高等学校を経て、1949年東京大学文学部心理学科卒業。名古屋大学法経学部助手、東京都立大学 (1949-2011)人文学部助手、1957年立教大学経済学部講師。助教授を経て、1965年立教大学教授。この間、1958-1960年ウィーン大学民族研究所に留学し、アレクサンダー・スラヴィク教授の指導を受ける。 1969年「共同体の史的構造論」で早稲田大学文学博士。1969-1970年ケルン大学客員教授、1976年ウィーン大学客員教授、1990年立教大学を定年退任、名誉教授、帝京大学教授、東京国際大学教授を務めた。
草下 英明(くさか ひであき、1924年12月1日 - 19… 草下 英明(くさか ひであき、1924年12月1日 - 1991年6月22日)は、日本の科学解説者、科学ジャーナリスト。 東京府(現・東京都)出身。立教大学経済学部卒業。在学中には、箱根駅伝に出場した経験がある(第22回大会)。1947年大成建設(旧大倉組)に入社した後、1948年から誠文堂新光社「子供の科学」のち「科学画報」編集部、1952年には教育弘報社勤務、1953年から平凡社の編集部員、1956年から五島プラネタリウム解説員。 1957年に創設されたSFファングループ「宇宙塵」に、初期から参加。短編「カスティリョ・ゴメスの脚」が、のちに『宇宙塵傑作選〈1〉日本SFの軌跡』に収録されている。
北見 俊郎(きたみ としろう、1924年11月10日 - 2… 北見 俊郎(きたみ としろう、1924年11月10日 - 2014年2月7日)は、港湾経済学者。 神奈川県生まれ。1954年立教大学大学院満期退学、コロンビア大学大学院、1989年「「港湾政策」の形成と課題」で青山学院大学経済学博士。青山学院大学経営学部助教授、教授、経営学部長、1993年定年、名誉教授、静岡産業大学教授、関東学院大学教授。北見港湾総合研究所代表。日本都市学会賞受賞。日本港湾経済学会は北見俊郎賞を創設した。
西山 千明(にしやま ちあき、1924年8月9日 -2017… 西山 千明(にしやま ちあき、1924年8月9日 -2017年11月20日)は、日本の経済学者。立教大学名誉教授、国際大学大学院教授、スタンフォード大学フーヴァー研究所上級研究員、ロンドン経済事情研究所理事。専門は、理論経済学、貨幣論、経済哲学、人的資本論。日本を代表する自由主義経済学者で、モンペルラン・ソサイエティー会長も務めた。 『ハイエク全集』(春秋社)の監修・監訳者を気賀健三、古賀勝次郎などと務め、フリードリヒ・ハイエクの著作群の日本への紹介者として知られ、ミルトン・フリードマンの『選択の自由』の日本語訳を行い、一般向け著作も多く、日本におけるマネタリズムの樹立や自由主義経済の進展に尽くした。