早嶋 喜一(はやしま きいち、1900年(明治33年)12月… 早嶋 喜一(はやしま きいち、1900年(明治33年)12月28日 - 1966年(昭和41年)2月4日)は、日本の実業家。産業経済新聞社長で旭屋書店の創業者。産経学園理事長。 岡山県津山市の出身。津山中学から早稲田大学に進学するも中退。職を転々とした後、1924年(大正13年)に前田久吉の経営する南大阪新聞社に入社する。前田が『南大阪新聞』・『日本工業新聞』を根城に事業を拡張すると早嶋もそれらの事業に関与し、戦時中の新聞統制に伴う合併を経て、2紙は『大阪新聞』と『産業経済新聞』となるが、早嶋は大阪新聞では専務、産業経済新聞では社長にまで登り詰める。 戦後の1947年(昭和22年)、早嶋は公職追放に伴い大阪新聞・産業経済新聞の役職を退くが、前年に大阪市北区で創業していた雑貨・化粧品販売店「旭屋商店」を書籍専業の「旭屋書店」とし、書店経営に専念する。
三宅 正一(みやけ しょういち、1900年(明治33年)11… 三宅 正一(みやけ しょういち、1900年(明治33年)11月28日 - 1982年(昭和57年)5月23日)は、日本の農民運動家、政治家。衆議院副議長。 岐阜県恵那郡明智町(現・恵那市)出身。父親は村長を務める名望家だった。弟は名古屋市で眼科医院を開業した三宅寅三(歌人・三宅千代の夫)。旧制岐阜中学校(現・岐阜県立岐阜高等学校)から早稲田大学政治経済学部に進学。早大では学生無産運動団体の「建設者同盟」に参加した。同学年に平野力三(元農林大臣)。 1923年早大を卒業。翌1924年に日本農民組合関東同盟の新潟県出張所を新発田に開設、以後新潟県に定住する。1926年、小作料の減免を求める農民に対し、地主が土地への立入禁止処分で対抗したことから始まった木崎村小作争議(木崎村は現在の新潟市北区)を先頭にたって指導し、小作料不納同盟の結成、小作人子弟の同盟休校、村政改革、無産農民学校設立などを行い対抗した。
岡 一男(おか かずお、1900年〈明治33年〉11月17日… 岡 一男(おか かずお、1900年〈明治33年〉11月17日 - 1981年〈昭和56年〉5月17日)は、日本の国文学者。専門は平安朝文学。学位は、文学博士(1953年)(学位論文「紫式部の研究」)。早稲田大学名誉教授。 福井県生まれ。早稲田大学国文科卒業、早稲田大学教授。五十嵐力に学ぶ。1953年、「紫式部の研究」で文学博士の学位を取得。1971年、定年退任、二松学舎大学教授。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
安藤 常次郎(あんどう つねじろう、1900年(明治33年)… 安藤 常次郎(あんどう つねじろう、1900年(明治33年)11月11日 - 1994年(平成6年)9月28日)は、日本の国文学者。 福岡県生まれ。俳号・安藤のりを。福岡県立中学修猷館を経て、1926年早稲田大学文学部国文科卒業。 早稲田大学教育学部教授、71年定年退職、名誉教授。武蔵野女子大学教授。能狂言を専門とした。
横関 英一(よこぜき ひでいち、1900年(明治33年)11… 横関 英一(よこぜき ひでいち、1900年(明治33年)11月11日 - 1976年(昭和51年)1月16日)は日本の地図考証家。江戸、東京の名のある坂道について研究し、『江戸の坂 東京の坂』を著した。 1900年(明治33年)11月11日、埼玉県入間郡川越町(現・川越市)で肥料商の家に生まれた。1924年(大正13年)早稲田大学商学部卒業、同年東京府立第五中学校(現・東京都立小石川中等教育学校)に事務職として勤務した。大学時代から文学に凝り、私小説を著した。1929年(昭和4年)に結婚した時にはすでに坂に熱中しており、江戸地誌、切絵図、陸軍参謀本部地図を持って坂を渡り歩いた。1937年(昭和12年)、真山青果の研究助手となり、演劇の時代考証を手伝う傍ら、『浮世絵界』誌上に江戸の坂等について記事を発表した。
高木 翔之助(たかぎ しょうのすけ、1900年〈明治33年〉… 高木 翔之助(たかぎ しょうのすけ、1900年〈明治33年〉11月9日 – 1980年〈昭和55年〉)は、昭和のジャーナリスト・文筆家・出版業者。満洲・華北でジャーナリストとして活動し、日本による満洲国・冀東防共自治政府の樹立などを擁護した。その一方で、関東軍による出版弾圧にも激しく抵抗したことで知られる。戦後は地元・群馬県の地方ジャーナリストとして活動した。 群馬県佐波郡采女村(現・伊勢崎市)に生まれる。1923年(大正12年)、早稲田大学専門部政治経済科を中退。1925年(大正14年)5月、横浜市で週刊新聞『日本実業新報』を創刊・主宰した。1927年(昭和2年)9月に同紙を廃刊すると満洲に渡り、雑誌『海外之日本』大連支局主任となる。
境 一雄(さかい かずお、1900年(明治33年)11月8日… 境 一雄(さかい かずお、1900年(明治33年)11月8日 - 1983年(昭和58年)9月17日)は、大正・昭和期の労働運動家、実業家、政治家。衆議院議員。 北海道小樽区(現小樽市)で生まれる。1920年(大正9年)小樽中学校(現北海道小樽潮陵高等学校)を卒業。その後、早稲田大学政経科で学んだが中退した。割箸製造販売業を営む。その後、岸鉄工所庶務課長、小樽物産取締役、北海道配電小樽支店経営協議会委員などを務めた。 1926年(大正15年)日本労働組合評議会北海道地方評議会議長に就任。同年5月1日、北海道初のメーデー実行委員長を務めた。 1947年(昭和22年)4月、第23回衆議院議員総選挙で北海道第1区から日本社会党公認で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
9代 岡村 利右衛門(利右衞門、おかむら りえもん、1900… 9代 岡村 利右衛門(利右衞門、おかむら りえもん、1900年(明治33年)10月29日 - 1965年(昭和40年)12月28日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(3期)。幼名は良守。 岐阜県吉城郡国府村広瀬町(国府町広瀬町を経て現高山市国府町広瀬町)で、8代利右衛門の息子として生まれる。斐太中学校(現岐阜県立斐太高等学校)を経て、1928年(大正14年)早稲田大学政治経済科を卒業。その後、アメリカ合衆国に留学し、ベイツ大学、コロンビア大学を経て、ニューヨーク大学大学院を修了しマスター・オブ・ビジネス・アドミニストレーションの学位を受けた。 逓信省嘱託、牧野良三逓信政務次官秘書官、電気協会(現日本電気協会)弁理課長を経て、1938年(昭和13年)北支那開発に転じたが、終戦により解散となり帰国。
田嶋 恩(たじま めぐみ、1900年(明治33年)10月12… 田嶋 恩(たじま めぐみ、1900年(明治33年)10月12日 - 1985年(昭和60年)4月23日)は、日本の実業家。東京測器(現・日本ファイリング)株式会社社長。小竹商店、湘南軌道各取締役。 田嶋勝次郎の四男として豊島区に生まれる。祖父の宇太郎は加賀国出身で、江戸に出て東本願寺の寺侍となった。早稲田工手学校(現・早稲田大学芸術学校)を卒業。その後、東京建鉄技師、大東工業副社長、日本鋼鉄家具常務、京浜鋼鉄工業社長、清水建材興行取締役を歴任。1939年(昭和14年)12月23日、東京測器(現・日本ファイリング)株式会社を設立し、同社社長に就任。1961年(昭和36年)紫綬褒章を受け、1970年(昭和45年)11月勲四等に叙せられた。
中山 義秀(なかやま ぎしゅう、1900年10月5日 - 1… 中山 義秀(なかやま ぎしゅう、1900年10月5日 - 1969年8月19日)は、日本の小説家。本名は中山 議秀(なかやま よしひで)。横光利一に兄事し、無名時代の長い苦節を経て『厚物咲』『碑』で文壇に登場。以後作家として幅広く活躍した。後年は、戦国武将物や剣豪物を多く書いた。日本芸術院会員。 福島県西白河郡大屋村(後の大信村、現在の白河市)生まれ。 1918年に旧制福島県立安積中学校(現在の福島県立安積高等学校)を卒業、1923年に早稲田大学文学部英文科卒業。 早稲田大学在学中に、横光利一、富ノ澤麟太郎、小島勗らと同人誌『塔』を創刊。小説『穴』を発表。また、帆足図南次と『農民リーフレット』を発刊。
椎名 隆(しいな たかし、1900年(明治33年)9月12日… 椎名 隆(しいな たかし、1900年(明治33年)9月12日 - 1983年(昭和58年)1月17日)は、大正から昭和期の弁護士、政治家。衆議院議員。 千葉県海上郡西銚子町(現銚子市)で、椎名八十二郎の長男として生まれる。千葉県立銚子商業学校(現千葉県立銚子商業高等学校)を経て、1920年(大正9年)早稲田大学専門部法律科を卒業した。 1923年(大正12年)弁護士を開業した。銚子市会議員に選出され4期在任。1940年(昭和15年)1月、千葉県会議員に当選し7年間在任し、参事会員(3期)、同補充員(2期)も務めた。その他、銚子市消防団長、銚子市西漁業協同組合長に在任した。 1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙で千葉県第2区から民主党公認で出馬して次点で落選。
当間 重民(とうま じゅうみん、1900年8月19日 - 1… 当間 重民(とうま じゅうみん、1900年8月19日 - 1952年2月8日)は、戦前の沖縄県、沖縄諮詢会、及び沖縄民政府時代の政治家で那覇市長。
西田 安逸(にしだ やすいつ、1900年 <明治33年> 8… 西田 安逸(にしだ やすいつ、1900年 <明治33年> 8月13日 - 1970年 <昭和45年> 3月10日)は、日本の経営者。青森銀行頭取を務めた。 青森県出身。1925年に早稲田大学商学部を卒業し、1929年に日本勧業銀行に入行。1954年5月に常任監査役に就任し、同年11月に青森銀行副頭取を経て、1955年2月から1968年11月までに頭取を務めた。 1965年9月に藍綬褒章を受章。 1970年3月10日急性心不全のために死去。69歳没。
田原 春次(たはら はるじ、1900年(明治33年)7月28… 田原 春次(たはら はるじ、1900年(明治33年)7月28日 - 1973年(昭和48年)7月14日)は、日本の政治家、部落解放運動家。衆議院議員(7期)。 福岡県京都郡行橋町(現行橋市)の被差別部落の出身。田原寅次郎の長男。豊津中学校(現・育徳館高校)卒業後、早稲田大学に入学し学生団体 黎民創生会の一員として活動した。1922年、早稲田大学専門部法律学科を卒業。翌年渡米しミズーリ州立大学に留学。1924年、福岡日日新聞社に入り同社海外特派員として北米中米南米に滞在。 1928年、帰朝。同年4月東京朝日新聞社に転じ1930年8月まで在社。その後、全国大衆党に入党。機関誌主任になる。農民運動にも参加した。
斎藤 一寛(さいとう かずひろ、1900年7月25日 - 1… 斎藤 一寛(さいとう かずひろ、1900年7月25日 - 1978年4月16日)は、フランス文学者、早稲田大学名誉教授。 山梨県生まれ。1927年早大仏文科卒、日本女子高等学院教諭。1929年早大出版部入社、1930年退社し著述に専念、1934年日本電報通信社入社、1947年第二早稲田高等学院講師、1949年早大講師、1950年教育学部教授、1956年から1957年までパリ留学、1960年から1962年まで教育学部長、1966年から1968年まで早大理事、1971年早大を定年退任、名誉教授。 フランス演劇を専攻し、晩年は比較文学にも手を染めた。
服部 龍太郎(はっとり りゅうたろう、1900年7月15日 … 服部 龍太郎(はっとり りゅうたろう、1900年7月15日 - 1977年6月18日)は、日本の音楽評論家、著述家、翻訳家、作詞家、訳詞家。 静岡県生まれ。早稲田大学文学部卒業。新交響楽団(のちNHK交響楽団)編集主幹、ニットーレコード洋楽部長、桐朋学園講師。西洋音楽、民謡、易学などについて多数の著作を著す。 ※JASRACには服部名義で作詞・作曲の登録をされている日本民謡もある。 この項目は、クラシック音楽に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル クラシック音楽/ウィキプロジェクト クラシック音楽)。
信夫 韓一郎(しのぶ かんいちろう、1900年7月1日 - … 信夫 韓一郎(しのぶ かんいちろう、1900年7月1日 - 1976年8月23日)は、日本の新聞記者。元朝日新聞社代表取締役専務取締役。 父信夫淳平は、外交官で、国際法学者として早稲田大学教授にもなった。弟信夫清三郎は、政治学者・歴史学者で名古屋大学教授であった。大韓帝国時代の仁川で生まれる。 早稲田大学政治経済学部卒。「早稲田大学新聞」の創刊に携わる。早稲田大学在学中の1923年7月に父との不仲から家出して、大学の友人相馬安雄(中村屋第2代社長)の母親、相馬黒光の世話になる。信夫家は、韓一郎の弟3人、満二郎(自殺)、清三郎、墺四郎(自殺)もいずれも家出しており、一家は離散している。 1925年3月の朝日新聞社入社以降、入社試験の成績が悪かったこともあって、特に出世コースを歩んでいた訳ではなかったが、副社長緒方竹虎の退社(1944年7月)以降もくすぶり、敗戦で再燃した社内の緒方派と反緒方派の対立で、社主の村山長挙社長ら反緒方派の経営陣が退陣し、公職追放で村山長挙、上野精一(会長)両社主が追放され、緒方が社内権力基盤のひとつとしていた東京本社政治部出身の長谷部忠(信夫の1年後輩)を会長(1949年12月に社長)とする緒方派経営陣が成立する中で、1945年11月大阪本社編集局次長兼整理部長、1946年4月大阪本社編集局長、1949年12月東京本社編集局長。
竹下 勇造(たけした ゆうぞう、1900年〈明治33年〉6月… 竹下 勇造(たけした ゆうぞう、1900年〈明治33年〉6月25日 - 1984年〈昭和59年〉3月21日)は、日本の実業家、政治家。掛合町名誉町民。島根県議会議員、掛合村長、竹下酒造代表取締役などを務めた。旧姓は武永(たけなが)。 第74代内閣総理大臣・竹下登の実父。漫画家・影木栄貴、ミュージシャン・DAIGOの曾祖父。 島根県簸川郡今市町(現:出雲市)出身。武永貞一の弟。掛合町(現:雲南市)竹下儀造の養子となった。旧制島根県立松江中学校(現・島根県立松江北高等学校)を経て、1923年(大正12年)早稲田大学専政科(現、政治経済学部)卒業。 竹下家は日本三大山林王の一家として出雲一円に権勢を誇っていた田部家の傘下で庄屋を務めており、掛合一の旧家であった。
重富 卓(重冨、しげとみ たく、1900年(明治33年)6月… 重富 卓(重冨、しげとみ たく、1900年(明治33年)6月16日 - 1979年(昭和54年)2月17日)は、昭和期の農業指導者、実業家、政治家。衆議院議員。 山口県出身。1910年(明治43年)に出家したが1918年(大正7年)に還俗。1920年(大正9年)山口中学校(現山口県立山口高等学校)を卒業。1925年(大正14年)早稲田大学政治経済学部を卒業。同年農林省に入省し農務局雇となる。同年、一年志願兵として入隊し、1926年に除隊した。1927年(昭和2年)農林省に復帰し、同年12月、高等試験行政科試験に合格。1930年(昭和5年)東京府に出向し農林主事補、同属となり、1932年(昭和7年)に退官した。
小島 勗(こじま つとむ、1900年(明治33年)6月1日 … 小島 勗(こじま つとむ、1900年(明治33年)6月1日 - 1933年(昭和8年)1月6日)は、日本の小説家、劇作家。 1900年6月1日、宮城県仙台市に生まれる。長野県旧制松本中学(現在の長野県松本深志高等学校)を経て、1924年に早稲田大学文学部哲学科卒業。在学中に横光利一や中山義秀と同人誌『塔』を発行した。卒業後はプロレタリア文学に傾倒し、1925年、『早稲田文学』に「地平に現れるもの」を発表したが発禁処分となる。翌年には『新小説』に「遥かなる眺望」、創作集『ケルンの鐘』などの戯曲を発表して、社会主義とモダニスムを併せ持つ作風で注目を集めた。当初は労農芸術家連盟に所属していたが、その後第二文戦打倒同盟をへて日本プロレタリア作家同盟に参加した。
稲本 早苗(いなもと さなえ、1900年(明治33年)5月2… 稲本 早苗(いなもと さなえ、1900年(明治33年)5月28日 ‐ 1977年(昭和52年)1月21日) は、昭和期の醸造家、実業家、政治家。衆議院議員、愛媛県越智郡岩城村長。 愛媛県越智郡岩城村(現上島町)で、酒造業・稲本幸次郎の長男として生まれた。1922年(大正11年)早稲田大学専門部商科を卒業した。 1929年(昭和4年)岩城村長に就任し1946年(昭和21年)3月まで在任。この間、産業組合の改組、産業振興、道路整備、河川改修、診療所設置などに尽力した。1937年(昭和12年)9月、愛媛県会議員補欠選挙に当選し、1939年(昭和14年)9月に再選され1946年4月まで在任し、同参事会員も務めた。
西村 源二郎(にしむら げんじろう、1900年5月25日 -… 西村 源二郎(にしむら げんじろう、1900年5月25日 - 1983年4月23日)は日本の実業家。シーリージャパンの創業者。諱は光源(こうげん)。 1900年(明治33年)北海道樺戸郡新十津川町にて、西村源蔵の2男4女の次男として生まれる。九歳の時、両親を失い、函館市在住の叔父、河村織右エ門(八代目)に預けられる。少年時代は河村家の四人の子供と一緒に養育された。長じて、九代目河村織右エ門(現在は十代目河村織右ヱ門がコドモわた株式会社を経営)を支えて、(資)河村ふとん(後のコドモわた(株))の総支配人を務め、道内最大手の寝具メーカーの地位を築いた。 早稲田大学専門部政経科卒。1936年(昭和11年)(資)河村ふとんから独立、ミシン業に転進、函館市五稜郭町にて日本ミシン(株)を設立。
高塩 三郎(たかしお さぶろう、1900年〈明治33年〉5月… 高塩 三郎(たかしお さぶろう、1900年〈明治33年〉5月10日 - 1977年〈昭和52年〉1月14日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、栃木県塩谷郡喜連川町長、剣道六段教士。 栃木県塩谷郡喜連川町(現さくら市)で、高塩武の三男として生まれる。1924年(大正13年)早稲田大学政治経済学部を卒業した。在学中は弁論部に所属し、のち「高塩しゃべ郎」と称された。 1929年(昭和4年)喜連川町会議員に当選。3期12年町会議員を務めた。1947年(昭和22年)栃木県議会議員に就任。1949年(昭和24年)1月の第24回衆議院議員総選挙に栃木県第1区から民主自由党公認で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
下条 恭兵(下條、しもじょう きょうへい、1900年(明治3… 下条 恭兵(下條、しもじょう きょうへい、1900年(明治33年)4月12日 - 1986年(昭和61年)1月12日)は、昭和期の実業家、政治家、学校法人理事長。参議院議員(1期)。 新潟県刈羽郡吉井村(中通村を経て現柏崎市吉井)出身。小学校卒業後、農業、石油坑夫などを務め苦学して、1922年(大正11年)早稲田工手学校(現早稲田大学芸術学校)を卒業した。 1922年、日本石油(現新日本石油)に入社。配管工事下請会社を設立して独立。分解揮発油精製器などの特許権を得て日本油機製造を設立して社長に就任。その他、昭和精密機械社長、太田鉄工所社長、米華貿易取締役会長などを務めた。 1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙で新潟県地方区に日本社会党公認で出馬して当選し、参議院議員に1期在任した。
時子山 常三郎(とこやま つねさぶろう、1900年〈明治33… 時子山 常三郎(とこやま つねさぶろう、1900年〈明治33年〉4月9日 - 1984年〈昭和59年〉6月26日)は、日本の経済学者。早稲田大学第9代総長。日本私立大学連盟第5代会長。 長男は元一橋大学経済学部教授で計量経済学者の時子山和彦。 1900年4月8日、大阪府堺市に生まれる。旧制桃山中学校(現・桃山学院中学校・高等学校)卒業。早稲田大学附属第一高等学院文科(政経)、早稲田大学政治経済学部経済学科を経て、1927年4月、早稲田大学大学院(財政学・統計学専攻)に進学し、1929年3月まで在籍する。1933年4月から在外研究員としてアメリカ合衆国・ドイツに留学する。 1939年4月から早稲田大学専門部政治経済科教授に、1940年2月から同大学政治経済学部教授に、1949年4月から第一・第二政治経済学部教授および同学部長になる。
吉村 正(よしむら ただし、1900年〈明治33年〉3月23… 吉村 正(よしむら ただし、1900年〈明治33年〉3月23日 - 1984年〈昭和59年〉4月9日)は、日本の政治学者。早稲田大学教授、東海大学教授、東海大学初代政治経済学部長を務めた。 1900年(明治33年)、福井県福井市木田町に生まれる。1919年4月、早稲田大学高等予科に入学。1921年(大正10年)4月、早稲田大学政治経済学部政治学科に入学。1924年3月、同大学卒業。同大学大学院に進み、高橋清吾の下で政治学を専攻する。1929年9月~1931年12月、コロンビア大学に留学、マッキーヴァ―の指導を受ける。その後、イギリス、ドイツでの研究を経て、1932年9月に日本に帰国。 同年9月に早稲田大学講師、1934年に同大学助教授、1938年に同大学教授に就任。
富木 謙治(とみき けんじ、1900年3月15日 - 197… 富木 謙治(とみき けんじ、1900年3月15日 - 1979年12月25日)は、日本の武道(合気道・柔道)家。教育学者(武道論)。日本合気道協会、秋田県角館町(後の仙北市)出身。 満州建国大学教授、早稲田大学教育学部教授を歴任、合気道創始者・植芝盛平の高弟として成立期の合気道に理論面で影響を与え、自ら考案した競技合気道の普及発展に努めた。講道館柔道創始者・嘉納治五郎が柔術を柔道に昇華させたように、合気道をより昇華させることを目指し、合気道の乱取り稽古を考案し導入した。富木の合気道は乱取り稽古を行うなど、他の会派と異なる点も多く、区別するため、「富木流合気道」、「富木合気道」と通称される(ただし、富木自身はこの呼称を用いておらず、「新合気道」「合気道競技」と命名していた)。
鈴木 八郎(すずき はちろう、1900年3月3日 - 198… 鈴木 八郎(すずき はちろう、1900年3月3日 - 1985年9月14日)は、日本の写真家。写真雑誌編集者、カメラ文化史研究者。 北海道余市町に生まれた。早稲田工手学校(現早稲田大学芸術学校)建築科を中退する。東京芝にあった丸木利陽門下の前島英男の写真館に入門して、前島の義弟の金丸重嶺と同門になった。また『写真の趣味』『写真月報』を編集していた高桑勝男の紹介で、小野隆太郎に住込みで弟子入りし、ゴム印画法を習得した。その後大正から昭和にかけて、アルスより技法書を多数執筆した。戦前の『カメラクラブ』や戦後復刊の『写真サロン』編集長を務めた。ペンタックスギャラリー館長。古典カメラやカメラの歴史に関する記事を多く執筆した。
衣巻 省三(きぬまき せいぞう、1900年(明治33年)2月… 衣巻 省三(きぬまき せいぞう、1900年(明治33年)2月25日 - 1978年(昭和53年)8月14日)は、日本の作家である。 兵庫県朝来郡生まれ。とても裕福な家庭に育った。早稲田大学英文科中退。神戸時代に稲垣足穂と共に佐藤春夫に師事し大正末から文学活動を始め、詩や小説を発表。一時、東京・馬込付近に居住し(馬込文士村)、ダンスパーティーを開いて知人の文士たちと交わった。1935年に「けしかけられた男」で、第一回芥川賞の候補になる。 第二次世界大戦の戦火で自宅を失う。戦後は足穂を追って京都へ移ったが寡作となり、主に同人誌で随筆を発表した。 1978年8月14日、食道がんのため神奈川県横浜市戸塚区の三和病院にて死去。
日下田 武(ひげた たけし、1900年(明治33年)2月17… 日下田 武(ひげた たけし、1900年(明治33年)2月17日 - 1966年(昭和41年)1月3日)は、昭和時代の政治家。実業家。大日本帝国陸軍軍人。衆議院議員。栃木県芳賀郡益子町長。 日下田実の長男として、栃木県芳賀郡益子町に生まれる。1924年(大正13年)早稲田大学政治経済学部経済科卒業。陸軍に入り、満州事変、支那事変に従軍し主計中尉に進んだ。 益子町長、栃木県森林組合連合会長、栃木県地方木材社長を歴任した。 1942年(昭和17年)4月の第21回衆議院議員総選挙では栃木県第2区から翼賛政治体制協議会推薦で出馬し当選。臨時召集を受け一時議員を退職し、1945年(昭和20年)8月25日に召集が解除され議員に復職した。
中村 俊定(なかむら しゅんじょう、1900年〈明治33年〉… 中村 俊定(なかむら しゅんじょう、1900年〈明治33年〉2月13日 - 1984年〈昭和59年〉8月19日)は、日本の日本文学研究者。専門は日本近世文学、特に俳諧。 愛知県宝飯郡形原町(現・蒲郡市)生まれ。旧名・市川唯治。3歳で、幡豆郡幡豆町の浄土宗西山派の僧中村俊達の養子となり僧籍に入る。京都で7年間僧侶の修行をする。1922年、早稲田高等学院に入学し、片上伸にロシア文学を学ぶ。のちに国文学に転じて早稲田大学文学部国文科に入学し、山口剛に師事する。1928年に卒業して実業之日本社に入社する。担当雑誌の廃刊を機に退職し、深川高等家政女学校、豊島高等女学校、調布高等女学校で教鞭をとる。この間、伊藤松宇の『俳書解題』編纂を手伝い、荻野清と『大芭蕉全集』の企画・刊行に尽力した。
和田 傳(わだ つとう、1900年(明治33年)1月17日 … 和田 傳(わだ つとう、1900年(明治33年)1月17日 - 1985年10月12日)は、神奈川県厚木市生まれの小説家。一般的には「わだ でん」と呼ばれている。農村を舞台とした作品を得意とした。代表作に「沃土」、「大日向村」、「日本農人傳」、「鰯雲」などがある。 小説の他、評論や随筆、伝記などを著した。ここでは、再版・改訂版などは除いて、「小説名」(発表月日)で表記している。
栗原 浩(くりはら ひろし、1900年〈明治33年〉1月16… 栗原 浩(くりはら ひろし、1900年〈明治33年〉1月16日 - 1978年〈昭和53年〉8月24日)は、日本の政治家。埼玉県知事などを歴任した。 埼玉県北埼玉郡原道村(現・加須市)出身。私立埼玉中学校(現・埼玉県立不動岡高等学校)を卒業。早稲田大学高等師範部(現・早稲田大学教育学部)を中途退学。 知事引退後、埼玉医科大学理事長、校外教育協会会長、社会福祉協議会会長、共同募金会会長を歴任。県知事の職に4期16年間あり、長期政権であった。県知事であった時期と高度経済成長期が重なったこともあり、任期中には住宅・工業団地や鉄道・道路の整備に努めたほか、1963年には「総合開発計画」を決定した。また、1972年に勲一等瑞宝章を授与された。
東海林 武雄(しょうじ たけお、1900年1月14日 – 1… 東海林 武雄(しょうじ たけお、1900年1月14日 – 1988年9月20日)は、日本の実業家。元旭電化工業社長、元日本専売公社(現・日本たばこ産業)総裁。 秋田県生まれ、北海道小樽市育ち。旧制小樽中学校(現・北海道小樽潮陵高等学校)を経て、1925年早稲田大学政治経済学部を卒業。旭電化工業に入社する。1953年に社長に就任し、主に工業用マーガリンの製造販売を中心に業績を伸ばす。早大時代は浅沼稲次郎も加入していた左派学生団体「建設者同盟」で活動していたこともあり、修正資本主義派の論客としても知られ、1952年から1955年まで経済同友会代表幹事も務めた。 1962年、中山素平(日本興業銀行頭取)、佐々木直(日本銀行副総裁)らに請われ、経営不振に陥っていた藤山コンツェルンの中核企業日東化学工業の社長に就任、再建に尽力する。
境野 清雄(さかいの きよお、1900年〈明治33年〉1月9… 境野 清雄(さかいの きよお、1900年〈明治33年〉1月9日 - 1968年〈昭和43年〉7月2日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)。 群馬県山田郡桐生町(現・桐生市)で、境野源八郎の二男として生まれる。群馬県立太田中学校(現群馬県立太田高等学校)を経て、早稲田大学商学部を卒業した。 家業の輸出織物商を営む。桐生絹人絹織物配給常務取締役、群馬織物代表取締役、桐生布帛製品代表取締役、群馬県輸出織物社長、三山物産社長、桐生商工会議所会頭、群馬県地方労働委員会委員などを務めた。 1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙で群馬県地方区から民主党公認で出馬して落選。竹腰徳蔵の公職追放に伴い同年8月に実施された第1回通常選挙・群馬県地方区補欠選挙に出馬して当選し、その後、民主クラブに所属し参議院議員に1期在任した。
佐藤 久雄(さとう ひさお、1900年(明治33年)1月9日… 佐藤 久雄(さとう ひさお、1900年(明治33年)1月9日 - 1982年(昭和57年)2月14日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・杉野。 富山県東礪波郡出町(砺波町を経て現砺波市)で、杉野久松の二男として生まれる。1918年(大正7年)砺波中学校(現富山県立砺波高等学校)を卒業。1924年(大正13年)早稲田大学商学部を卒業し佐藤組(現佐藤工業)に入社した。1925年(大正14年)佐藤與左衛門の養子となる。佐藤工業営業部長を経て、1940年(昭和15年)代表取締役、1945年(昭和20年)取締役社長を歴任。 また、柳瀬村会議員、大阪財務局(現近畿財務局)管内所得審査委員、富山県東礪波郡地方事務所参与などを務めた。
左本 政治(さもと まさじ、1900年 - 没年不詳)は、日… 左本 政治(さもと まさじ、1900年 - 没年不詳)は、日本の新聞記者、演劇・舞踊評論家。「女剣劇」の命名者とされる。 1900年(明治33年)、北海道に生まれる。大正時代に上京し早稲田大学に入学。卒業後、1928年(昭和3年)に都新聞社(1942年より東京新聞)に入社、演劇記者となる。1936年(昭和11年)、浅草で観劇した不二洋子の剣劇芝居を「女剣劇」と記事で紹介したことから、「女剣劇」の名付け親とされる。第二次世界大戦中に空襲で家を焼かれ、東京新聞を退社し妻と娘を連れて北海道へ疎開、北海タイムスで働く。1951年(昭和26年)に再び上京し報知新聞社に入社する。1960年(昭和35年)に定年退職後は、演劇・舞踊の評論家として活躍。
末光 賢吉(すえみつ けんきち、前名・一郎、1900年(明治… 末光 賢吉(すえみつ けんきち、前名・一郎、1900年(明治33年) - 没年不明)は、日本の実業家。関門日報社会長。 山口県下関市出身。末光鉄之助の長男。前名・一郎を改める。1926年、早稲田大学専門部法科を卒業する。父経営の関門日日新聞に入り社長秘書兼会計課長を経て、1942年1月合併と共に関門日報社監査役。住所は山口県下関市阿弥陀寺町。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
趙 憲泳(チョ・ホニョン、朝鮮語: 조헌영、1900年または… 趙 憲泳(チョ・ホニョン、朝鮮語: 조헌영、1900年または1901年1月8日 - 1988年5月23日)は、日本統治時代の朝鮮、大韓民国および朝鮮民主主義人民共和国の韓医学者、韓医師、政治家、独立運動家。制憲・第2代韓国国会議員、元在北平和統一促進協議会書記長。 本貫は漢陽趙氏(朝鮮語版)。字は応文、号は海山。趙光祖の子孫で、元義兵隊長の趙承基は祖父、教育者の趙寅錫は父。元国立図書館長の趙銀泳は兄、元大邱市長・慶尚北道知事の趙俊泳は弟、時調詩人の趙愛泳は妹。詩人の趙芝薫(趙東卓)と趙東振(朝鮮語版)は息子、外交官・外交部長官の趙兌烈は孫。 慶尚北道英陽郡日月面出身。祖父と父から四書三経や漢文を学んだ後、大邱公立高等普通学校卒。
尾崎 一雄(おざき かずお、1899年(明治32年)12月2… 尾崎 一雄(おざき かずお、1899年(明治32年)12月25日 - 1983年(昭和58年)3月31日)は、日本の小説家。三重県生まれ。早稲田大学文学部国文科卒。志賀直哉に師事。生活苦の中で執筆し、短編集『暢気眼鏡』で芥川賞受賞。その後大病を患い、療養生活の中で自然や生き物への観察眼を深め、身近に迫る死を見つめた心境小説を発表して高い評価を受けた。昭和期の代表的な私小説作家であり、『虫のいろいろ』や『美しい墓地からの眺め』などの作品は、作者のみならず心境小説の代表的作品として知られている。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 実家は祖父の代まで神奈川県小田原市北東部の宗我神社の神官を務めた一族だが、父・尾崎八束(1872-1920)は東京帝国大学文学部史学科卒、神宮皇學館講師をしており、三重県宇治山田町(現・伊勢市)で生まれる。
請川 卓(うけがわ たかし、1899年12月16日 - 19… 請川 卓(うけがわ たかし、1899年12月16日 - 1960年3月24日)は、日本の実業家。元香川相互銀行社長。男子テニス選手。 香川県三豊郡紀伊村(現 観音寺市木之郷町)出身。旧制香川県立三豊中学校(現 香川県立観音寺第一高等学校)、早稲田大学政治経済学部卒業。 1924年(大正13年)早稲田大学卒業後、明治生命保険本社に入社。1年後に帰郷、1928年(昭和3年)七宝無尽株式会社監査役に就任。翌年の1929年(昭和4年)7月、同社社長に昇任。また、大阪市の日本科学研究所所長、紀州田辺市の日本木材株式会社社長を兼任する。 1939年(昭和14年)10月、香川県会議員に当選し、県政に尽力する。
浅岡 信夫(あさおか のぶお、明治32年(1899年)12月… 浅岡 信夫(あさおか のぶお、明治32年(1899年)12月15日 - (昭和43年)1968年11月12日)は、日本の俳優、政治家である。第二次世界大戦前、サイレント映画時代の日活スター俳優であり、映画監督、プロデュースも務めた。戦後、参議院議員も務めた。身長177.3cm、体重93Kg。身長180cm、体重90Kg。
服部 敬雄(はっとり よしお、1899年(明治32年)12月… 服部 敬雄(はっとり よしお、1899年(明治32年)12月10日 - 1991年(平成3年)3月14日)は日本の実業家。山形県山形市出身。 父は山形新聞社長の服部敬吉(旧新発田藩士湯浅保之進の子で、現在の新潟県新発田市出身。山形人の服部茂の養子となる。1872年2月〜1952年12月1日)。山形県立新庄中学校を経て早稲田大学政経学部経済科卒業後、同大学大学院へ進学する。在学中は早稲田大学新聞発刊に関わっている。卒業後、朝日新聞社記者を経て、1928年(昭和3年)に父が社長を務める山形新聞の専務取締役として迎えられる。山形新聞は戦時下、県内の中小他紙を吸収合併し県内随一の報道機関に成長する。また、父敬吉と戦時下に進められた県内交通会社の合併の裁定をし、山形交通(現・山交バス)と庄内交通の2社にまとめた。
中谷 博(なかたに ひろし、1899年12月1日-1971年… 中谷 博(なかたに ひろし、1899年12月1日-1971年10月25日)は、ドイツ文学者、大衆文学研究家。 和歌山県出身。旧姓は高石。早稲田大学文学部独文科卒。第一早稲田高等学院、早大の講師、1949年早大教授。70年定年退職、名誉教授。1934年「大衆文学本質論」を発表、大衆文学論でも活躍した。1935年早稲田大学明治文学研究会の結成に参加。息子は大衆文学研究家の中谷治夫。
本田 親男(ほんだ ちかお、1899年11月21日 - 19… 本田 親男(ほんだ ちかお、1899年11月21日 - 1980年7月30日)は、鹿児島県出身のジャーナリスト、実業家。毎日新聞社社長、会長、最高顧問、毎日放送会長、相談役を歴任した他、日本新聞協会会長を2期務めた。 本田の祖先は、武蔵国本田郷の領主・本田左衛門尉貞親で、島津忠久夫人の父。 1899年11月21日、鹿児島市下荒田町生まれ。鹿児島師範学校附属幼稚園を経て、1906年に鹿児島市立八幡小学校へ入学。このころ本田の人間形成に与えた訓育がある。旧薩摩藩独自の教育制度・郷中制度の精神を受け継いだ学舎「研明舎」での教育がそれで、本田は5歳ごろより小学校の放課後にここへ通い、先輩舎生の監督下で諸学科の復習や予習をした。
麻生 武治(あそう たけはる、1899年11月21日 - 1… 麻生 武治(あそう たけはる、1899年11月21日 - 1993年5月30日)は、日本のスキー選手、陸上競技選手、登山家。父親は日本銀行の理事、母親はピアニストであった。 東京市麻布区(現在の東京都港区)に生まれる。 旧制暁星中学校を経て、早稲田大学へ進学した。早稲田大学時代には第1回の箱根駅伝より出場し1年目は9区、2年目、3年目は5区で山登り5区を走り、3回とも区間賞を獲得した。その後はベルリン体育大学(ドイツ語版)に留学し、1923年には日本人として初めてマッターホルンに登頂し、翌年にはスキーで冬の槍ヶ岳の登頂に成功している。 1928年にはスイスで開催された1928年サンモリッツオリンピックに日本人として冬季オリンピック初出場を果たす。
友田 恭助(ともだ きょうすけ、1899年(明治32年)10… 友田 恭助(ともだ きょうすけ、1899年(明治32年)10月30日 - 1937年(昭和12年)10月6日)は、日本の新劇俳優。本名は伴田五郎。 1899年(明治32年)、東京市日本橋区(現 : 東京都中央区)に実業家の伴田六之助の子として生まれる。幼い頃から芝居を好んで過ごし、錦城中学校へと進んだ。中学生の頃に土方与志と知り合い、伯母の住む神奈川県茅ヶ崎の家に南湖座と名付けられた芝居小屋を作ってもらい、土方らと素人劇団を作りそこで演劇をしていた。1917年(大正6年)に早稲田大学独文科へと進み、在学中に新劇協会の畑中蓼坡の指導を受けて、1919年(大正8年)に『ワーニャ伯父さん』で本格的な舞台初出演を果たした。
佐藤 武夫(さとう たけお、1899年10月22日 - 19… 佐藤 武夫(さとう たけお、1899年10月22日 - 1972年4月11日)は、日本の建築家。建築音響工学の先駆者。 日本建築学会元会長、同名誉会員、日本建築家協会終身正会員、英国王立建築家協会名誉会員。日本芸術院賞受賞者。 オーディトリウム設計の第一人者として、さらに市庁舎、市民会館、公会堂などが彼の数多い作品の中でも圧倒的に数が多い。科学者としての学識、一方で新劇運動に熱中し、劇場史を研究するほどの芸術青年で分離派時代の山口文象をしてまったくシャッポを脱がされた、といわしめたほどのスケッチの名手、作品はその天賦の芸術家の才能と、情熱のぬくもりがあるとされ、また塔も多く、”塔の佐藤"ともいわれるゆえんである。
東久世 通忠(ひがしくぜ みちただ、1899年(明治32年)… 東久世 通忠(ひがしくぜ みちただ、1899年(明治32年)10月13日 - 1962年(昭和37年)11月10日)は、日本の実業家、教育者、華族。貴族院伯爵議員。 伯爵・東久世通敏の長男として生まれる。父の死去に伴い1944年(昭和19年)8月15日、伯爵を襲爵した。1926年、早稲田大学政治経済学部を卒業した。 帝国在郷軍人会渋谷町分会評議員、同麻布支部参事、小西六日野分工場長、同社取締役、同社青年学校長、東京写真工業専門学校長、淀橋工場協会会長などを務めた。 1946年(昭和21年)5月9日、貴族院伯爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
佐藤一英(さとう いちえい、1899年(明治32年)10月1… 佐藤一英(さとう いちえい、1899年(明治32年)10月13日 - 1979年(昭和54年)8月24日)は、日本の詩人。 愛知県中島郡祖父江町に生まれ、萩原町高松(現・一宮市)に育つ。萩原尋常高等小学校卒業。愛知第一師範学校中退、早稲田大学英語科中退。「青騎士」など、いくつかの雑誌を主宰、編集。1931年から1932年に発行した『児童文学』は、宮沢賢治が童話「北守将軍と三人兄弟の医者」「グスコーブドリの伝記」を発表したことで知られる。木曽川高校をはじめ、郷里の小・中学校、高等学校の校歌の作詞も手掛けている。 1939年、『空海頌』で第1回詩人懇話会賞を受賞。1979年、民間人として最初の一宮市政功労者となった。