横光 利一(よこみつ りいち、1898年〈明治31年〉3月1… 横光 利一(よこみつ りいち、1898年〈明治31年〉3月17日 - 1947年〈昭和22年〉12月30日)は、日本の小説家・俳人・評論家。本名は漢字表記同じで「よこみつ としかず」。 菊池寛に師事し、川端康成と共に新感覚派として大正から昭和にかけて活躍した。『日輪』と『蠅』で鮮烈なデビューを果たし、『機械』は日本のモダニズム文学の頂点とも絶賛され、また形式主義(英語版)文学論争を展開し『純粋小説論』を発表するなど評論活動も行い、長編『旅愁』では西洋と東洋の文明の対立について書くなど多彩な表現を行った。1935年(昭和10年)前後には「文学の神様」と呼ばれ、志賀直哉以来の「小説の神様」とも称された。
稲村 隆一(稻村隆一、いなむら りゅういち、1898年3月7… 稲村 隆一(稻村隆一、いなむら りゅういち、1898年3月7日 - 1990年11月20日)は、日本の農民運動家、政治家、衆議院議員(4期)。政治家の稲村順三は弟、稲村稔夫は甥。 北海道虻田郡喜茂別町出身。 1918年北海中学校(旧制)、1923年早稲田大学政治経済学部卒業。 早稲田大学在学中から建設者同盟に参加、その後農民運動に入った。その間日本共産党に入党し、1926年に労働農民党に入党。 1928年の三・一五事件で検挙された後、社会大衆党に移った。 1937年に新潟県日本農民連盟を結成し、皇国農民連盟と連携を図った。 1940年に東方会、石原莞爾の東亜連盟運動にも参加。戦後、日本社会党に入ったが、公職追放を受けた。
井伏 鱒二(いぶせ ますじ、1898年〈明治31年〉2月15… 井伏 鱒二(いぶせ ますじ、1898年〈明治31年〉2月15日 - 1993年〈平成5年〉7月10日)は、日本の小説家。本名:井伏 滿壽二(いぶし ますじ)。広島県安那郡加茂村(現福山市)出身。筆名は釣り好きだったことによる。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。福山市名誉市民、広島県名誉県民、名誉都民。 1898年、広島県安那郡加茂村粟根に父・井伏郁太、母・ミヤの次男として生まれた。井伏家は室町時代の1442年(嘉吉2年)まで遡れる旧家で、「中ノ土居(土地の言葉でナカンデエ)」の屋号をもつ代々の地主である。5歳のときに父を亡くし、特に祖父にかわいがられて育つ。 1905年、加茂小学校入学。
斎藤 憲三(さいとう けんぞう、1898年2月11日 - 1… 斎藤 憲三(さいとう けんぞう、1898年2月11日 - 1970年10月31日)は、日本の実業家・政治家。TDKの創業者で衆議院議員・科学技術政務次官を務めた。 1898年(明治31年)斎藤宇一郎とミネの三男として、秋田県由利郡平沢村(現にかほ市)に生まれた。父の宇一郎は秋田の農業の発展に尽力し、代議士にもなった人である。憲三は地元の平沢小学校を卒業した後、本荘中学(現:秋田県立本荘高等学校)への進学を希望していたが、父の勧めにより大阪の私立学校である桃山中学(現:桃山学院高等学校)に入学した。 1922年(大正11年)早稲田大学商学部を卒業後、農家の副業奨励のため炭焼きや養豚などの事業に取り組むが、いずれも失敗する。
島田 芳文(しまだ よしふみ、1898年(明治31年)2月1… 島田 芳文(しまだ よしふみ、1898年(明治31年)2月11日 - 1973年(昭和48年)5月3日)は昭和期の作詞家。本名は島田義文。 福岡県豊前市黒土生まれ。島田芳文の実家は黒土の大地主の家であった。早稲田大学出身。中学時代に島田青峰、若山牧水に短歌を学ぶ。1927年(昭和2年)、処女詩集「農土思慕」刊行。 1929年(昭和4年)、コロムビアレコードの専属作詞家になる。1931年(昭和6年)には、古賀政男と組んだ一連の作品「キャンプ小唄」、「丘を越えて」、「スキーの唄」が大ヒット。藤山一郎の歌声でたくさんの人々に愛唱された。 1941年(昭和16年)に「雪の満州里」を発表後、しばらくの間作詞家としての活動を休業。
宮之原 謙(みやのはら けん、1898年(明治31年)2月9… 宮之原 謙(みやのはら けん、1898年(明治31年)2月9日 - 1977年(昭和52年)8月23日)は日本の陶芸家。日展理事・参与、光風会理事などを歴任。東京教育大学窯業科講師を務めた。 1898年(明治31年)鹿児島市鷹師町生まれ。麹町小学校、旧制麻布中学校卒業。早稲田大学建築科中退。1924年(大正13年)頃に川端画学校へ通い、山之内高門に日本画、宮川香山に陶芸を学んだ。また、板谷波山にも師事し、1927年(昭和2年)「東陶会」創立に参加。1929年(昭和4年)第10回帝展に「鉄砂釉竹又陶製花器」で初入選し、岡倉由三郎にインド哲学を学ぶ。1931年(昭和6年)第12回帝展に壁面照明「銀河」、翌年の第13回には釉薬象嵌「十字文花瓶」で連続して特選を受賞し、1933年(昭和8年)帝展無鑑査となった。
柳谷 保一(やなぎたに やすいち、明治31年(1898年)2… 柳谷 保一(やなぎたに やすいち、明治31年(1898年)2月8日 - ?)は日本の教育者、実業家、政治家。元鳥取県議会議員、米子市議会議員。 元鳥取県議会議員の柳谷中は長男。 鳥取県出身。丈四郎の長男。 大正12年(1923年)早稲田大学商学部卒業。 倉吉中学校・米子高等女学校各教諭の後、昭和16年(1941年)日本海新聞に入社、米子支社長、取締役総務局長を歴任。 其間米子市議、米子市国民健康保険組合常務理事となり、昭和30年(1955年)8月米子自動車学校理事長・校長に就任。 趣味は釣、俳句。宗教は曹洞宗。住所は米子市皆生・米子市角盤町。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
尾崎 士郎(おざき しろう、1898年(明治31年)2月5日… 尾崎 士郎(おざき しろう、1898年(明治31年)2月5日 - 1964年(昭和39年)2月19日)は、日本の小説家。新聞連載小説『人生劇場』がヒットし、流行作家になった。 愛知県幡豆郡横須賀村宮前(現・西尾市吉良町上横須賀宮前)に生まれる。尾崎が生まれた年に父の嘉三郎は自宅で三等郵便局を開業した。1904年(明治37年)8月、神奈川県横浜市野毛町(現・中区野毛町)で耳鼻咽喉科医院を営む田島藤一郎(母の兄)の養子となる。1905年(明治38年)、心臓疾患とホームシックを理由に離籍、生家に戻った。 1910年(明治43年)、横須賀尋常高等小学校(現・西尾市立横須賀小学校)卒業。同年、愛知県立第二中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)に進学した。
工藤 好美(くどう よしみ、男性、1898年1月26日 - … 工藤 好美(くどう よしみ、男性、1898年1月26日 - 1992年2月22日)は、日本の英文学者。 1898年、大分県佐伯生まれ。第五高等学校で種田山頭火を知る。1924年、早稲田大学英文科を卒業。 卒業後は、千葉県立佐倉中学校(現:千葉県立佐倉高等学校)などで教えたのち、1926年に富山高等学校(現:富山大学文理学部)教授に就いた。土居光知の知遇を得て『享楽主義者マリウス』を訳した。1928年、台北帝国大学助教授となった。1930年から1931年まで、英米文学研究のためオックスフォード大学に留学を命じられ、帰国後教授となった。 敗戦後本土へ帰国し、1948年に名古屋大学文学部教授となった。
津島 文治(つしま ぶんじ、1898年〈明治31年〉1月20… 津島 文治(つしま ぶんじ、1898年〈明治31年〉1月20日 - 1973年〈昭和48年〉5月6日)は、日本の実業家、政治家、地主、青森県多額納税者。 金木銀行頭取。衆議院議員(3期)。参議院議員(2期)。青森県知事(公選初・第2・3代)。陸奥銀行、津軽鉄道、津軽酒造各取締役。東北鳩協会顧問。農業。 小説家の太宰治(津島修治)は弟、俳優の津島康一は長男。元衆議院議員の津島雄二は義理の甥。 大地主で銀行家の津島源右衛門(旧姓松木)とタ子(たね)の三男として青森県北津軽郡金木村(現在の五所川原市)に生まれた。 金木第一尋常小学校から五所川原農学校(現青森県立五所川原農林高等学校)を卒業後上京し、早稲田大学政治経済学部に入学。
田島 淳(たじま じゅん、1898年(明治31年)1月19日… 田島 淳(たじま じゅん、1898年(明治31年)1月19日 - 1975年(昭和50年)1月29日)は、日本の劇作家、脚本家。 神奈川県横浜市出身。田島商事社長・田島啓次郎の長男。1922年、早稲田大学英文科を卒業した。早大在学中に執筆した処女作(戯曲)「能祇と泥棒」が1921年旧帝国劇場で上演(十四代守田勘彌、二代 市川猿之助による)されている。また同じく早大在学中に松竹キネマに入社した。のち松竹本社文芸部に入社した。昭和期に入ってから劇作から遠ざかり、演出などをした。1926年、『田島淳戯曲集』を刊行した。1968年に復刊された『劇と評論』では編集長を務めた。宗教は日蓮宗。住所は神奈川県横浜市中区根岸町。
陸 直次郎(くが なおじろう、1898年1月12日 - 19… 陸 直次郎(くが なおじろう、1898年1月12日 - 1944年8月11日)は日本の作家。本名は野沢嘉哉(のざわ よしや)。東京府東京市本郷区(現・東京都文京区)本郷出身。 早稲田大学文科中退。中央新聞、時事新報、萬朝報、読売新聞に勤務。妻の清子は直次郎と死別した後、弁当屋の経営を経て小唄の師匠に転向、堀小代清の芸名で活動した。 息子は4人おり、三男はクラブ馬主「東京ホースレーシング」創業者の野沢直哉、四男は声優・俳優・演出家の野沢那智、孫にお笑いタレントの野沢直子(直哉の娘)、クリエイティブディレクターの野澤直龍(直哉の息子)、声優・俳優の野沢聡(那智の息子)、曾孫に格闘家の真珠・野沢オークレアー(直子の娘)。
安 駿相(アン・ジュンサン、朝鮮語: 안준상、1898年1月… 安 駿相(アン・ジュンサン、朝鮮語: 안준상、1898年1月9日 - 1994年12月27日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の教育者、実業家、政治家、独立運動家。制憲韓国国会議員。 初代文教部長官の安浩相は従弟。 慶尚南道宜寧郡富林面立山里の耽津安氏(朝鮮語版)の世居地である立山村出身。東萊高等普通学校、正則英語学校(現・正則学園高等学校)卒。早稲田大学政経科2年修了。三・一運動のときは宜寧郡内の万歳運動を主導し、その後も族叔の安熙済の独立闘争活動を手伝った。また、立山学院長、古今社経営者、宜寧協同組合創立・経営者、馬山ゴム工業社経営者、薬草栽培園経営者を歴任した。光復後は慶尚南道ハングル文化普及会長、釜山東亜大学(現・東亜大学校)理事、独立促成国民会釜山支部副会長、朝鮮民族青年団慶尚南道団部理事、釜山一五倶楽部幹事、宜寧郡選出の国会議員、制憲同志会会長などを務めた。
松田 義郎(まつだ よしろう、1898年 - 没年不詳)は、… 松田 義郎(まつだ よしろう、1898年 - 没年不詳)は、日本のアナウンサー。ラジオ創生期の日本放送協会で活動した。 生家は味噌・醤油醸造業の「松田屋」(松田甚兵衛参照)。旧制東京府立第三中学校(現・東京都立両国高等学校・附属中学校)、旧制官立第四高等学校、早稲田大学政治経済学科を経て、兄とともに家業を手伝ったのち、1926年2月、社団法人東京放送局(のちの日本放送協会東京放送局)に入局。 株式市況、ニュース、天気予報の読み上げを担当したほか、肉声で時報を担当し、1932年末の自動化まで務めた[要出典]。 政府による各種式典の音声中継に、スタジオで予定稿とブザーによる合図を使ってアナウンスを追加する、「式典放送」と呼ばれる疑似実況放送を得意とした。
萱場 四郎(かやば しろう、1898年 - 1974年)は宮… 萱場 四郎(かやば しろう、1898年 - 1974年)は宮城県出身のエンジニアであり兵器開発者。萱場工業を創設した。後に萱場 資郎と改名。 宮城県宮城郡七郷村にて1898年(明治31年)4月1日、萱場富次郎の二男として生まれる。生家は平家の末裔と言われる素封家で、祖父の利兵衛は小学校長及び村長を務めた。四郎は東北学院中等部を1916年(大正5年)3月に卒業し、早稲田大学理工科に進学。1919年(大正8年)11月に萱場発明研究所を東京市芝区日之出町に開設する。同年大学を中退。1921年(大正10年)に海軍艦政本部の嘱託となる。1923年(大正12年)関東大震災で被災したため発明研究所を閉鎖したが、1927年(昭和2年)1月に芝区西応寺町で新たに萱場製作所を創業。
海野 十三(うんの じゅうざ)、1897年(明治30年)12… 海野 十三(うんの じゅうざ)、1897年(明治30年)12月26日 - 1949年(昭和24年)5月17日)は、日本の小説家、SF作家、推理作家、漫画家、科学解説家。「日本SFの始祖の一人」と呼ばれる。本名は佐野 昌一(さの しょういち)。 徳島市徳島本町に生まれ、幼少期は安宅町の祖父の家で育つ。徳島市立福島小学校3年生の時、神戸に移住。神戸一中(現兵庫県立神戸高等学校)を卒業後、早稲田大学理工科で電気工学を専攻。逓信省電務局電気試験所に勤務しながら、機関紙などに短編探偵小説を発表。 1928年(昭和3年)、雑誌『新青年』から依頼を受け、探偵小説「電気風呂の怪死事件」を発表して本格的文壇デビュー。
岸田 正次郎(きしだ まさじろう、1897年〈明治30年〉1… 岸田 正次郎(きしだ まさじろう、1897年〈明治30年〉12月26日 – 1979年〈昭和54年〉3月29日)は、日本の実業家。 元衆議院議員岸田正記の弟。元衆議院議員岸田文武の叔父。衆議院議員・第100代内閣総理大臣岸田文雄の大叔父。 広島県出身。父は岸田幾太郎。大正10年(1921年)早稲田大学政経科、大正14年(1925年)ハーバード大学各卒業。英独に留学、昭和元年(1926年)帰朝、内務省嘱託、富士瓦斯紡績に勤務、昭和9年(1934年)幾久屋百貨店専務。 宗教は真宗。趣味は庭球、碁。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
水嶋 篤次(みずしま とくじ、1897年 <明治30年> 1… 水嶋 篤次(みずしま とくじ、1897年 <明治30年> 11月2日 - 1979年 <昭和54年> 10月2日)は、日本の経営者。新潟県出身。位階は従四位。 1922年に早稲田大学商学部を卒業し、同年に大倉土木(のちの大成建設)に入社。1946年8月に取締役に就任し、1947年3月に常務に就任したが、同年10月に公職追放を受け、退社。1950年12月に顧問として復帰し、監査役、常務、専務を経て、1960年12月から1963年5月までに社長を務めた。 1961年に藍綬褒章を受章し、1964年に紺綬褒章を受章し、1967年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1979年10月2日心不全のために死去。81歳没。
黄 朝琴(おう ちょうきん、1897年〈明治30年〉10月2… 黄 朝琴(おう ちょうきん、1897年〈明治30年〉10月25日 - 1972年〈民国61年〉7月5日)は台湾嘉義県塩水港(現:台南市塩水区)出身の政治家。 妹は日本統治時代の台南で有名な詩人、黄金川。 内地とアメリカ国際法を学んだ後、中華民国に渡って国民政府外交部に勤務した。台湾光復後は台湾省議会議長、中国国民党中央委員等を歴任し、省議会を20年近く主宰した。連震東、黄国書、林頂立らとともに1950年代の台湾政治を代表する「半山(中国語版)」の一人である。 東京やアメリカへの留学を経て政治学に親しみ、国民党の台湾統治の仲介役を務めた。 1897年10月25日、台湾嘉義県塩水港の裕福な家庭に生まれた。
壺井 繁治(つぼい しげじ、1897年〈明治30年〉10月1… 壺井 繁治(つぼい しげじ、1897年〈明治30年〉10月18日 - 1975年〈昭和50年〉9月4日)は、日本の詩人。日本共産党員。 香川県小豆郡苗羽村(現在の小豆島町)出身、早稲田大学に学ぶ。1920年代にはアナキズムの陣営に属し、『赤と黒』などに拠って詩作をはじめた。その後、共産主義に接近、プロレタリア文学の詩の分野で活躍した。1930年代には何度か投獄され、その後は小熊秀雄や村山知義たちと〈サンチョ・クラブ〉を結成し、風刺的な詩を作っていた。 1925年(大正14年)に作家の壺井栄と結婚。 戦後は新日本文学会の創立に参加し、発起人となる。しかし、戦後登場した武井昭夫や吉本隆明たち若手からは、戦時中の行動との差のために批判の対象にされた。
金 祐鎮(キム・ウジン、朝鮮語: 김우진/金祐鎭、1897年… 金 祐鎮(キム・ウジン、朝鮮語: 김우진/金祐鎭、1897年9月19日 - 1926年8月4日)は、日本統治時代の朝鮮の詩人、劇作家。本貫は安東金氏。号は焦星(チョソン、초성)、水山(スサン、수산)。 1897年9月19日、李氏朝鮮で全羅南道の長城にて、務安郡の監理であった金星圭(父)と順天朴氏(母)のもと、長男として生まれた。 木浦公立普通学校(現: 木浦北橋初等学校)を卒業後渡日し、日本の熊本農業学校(現: 熊本県立熊本農業高等学校)を経て、1924年に早稲田大学英文科を卒業した。 1920年代には『劇芸術協会』と『同友会巡回演劇団』を主導した。また、西洋の表現主義の文芸理論を翻訳し、紹介した。
中野 以佐夫(なかの いさお、1897年9月18日 - 19… 中野 以佐夫(なかの いさお、1897年9月18日 - 1971年3月12日)は、日本の経営者。北海道新聞社社長を務めた。 佐賀県出身。1917年に早稲田大学文学部国文学科を中退し、1918年に小樽新聞社に入社。1945年に北海道新聞社取締役に就任し、1947年11月に専務を経て、1957年12月に社長に就任した。1968年12月に相談役に退いた。 1968年4月に勲二等瑞宝章を受章した。 1971年3月12日、圧迫性脊髄炎のために死去。73歳没。
石黒 敬七(いしぐろ けいしち、1897年8月10日 - 1… 石黒 敬七(いしぐろ けいしち、1897年8月10日 - 1974年10月1日)は、日本の柔道家(講道館8段、大日本武徳会10段)、随筆家、古写真収集家。徳川夢声が創設した「ゆうもあくらぶ」の二代目会長。レジオンドヌール勲章受章者。長男は写真コレクションを引き継いだ石黒敬章。 新潟県柏崎市出身。父親は越後縮布の行商人で、七男なので敬七と名付けられた。 中学時代から柔道に熱を入れ、18歳で講道館に入門。早稲田大学政治経済学部に入学し、学生時代は柔道部の主将を務めた。1922年(大正11年)に同大を卒業。1924年(大正13年)柔道普及のため海外周遊に出発、フランス、英国、トルコ、エジプトなどの陸軍・警察で柔道を教え、ルーマニアでは国王から王冠章を授与された。
中村 高一(なかむら たかいち、1897年〈明治30年〉7月… 中村 高一(なかむら たかいち、1897年〈明治30年〉7月31日 - 1981年〈昭和56年〉7月27日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(社会党、当選8回)。日本社会党顧問。衆議院副議長(第41代)を務めた。弁護士として社会運動や人権活動に取り組んだ。 東京府西多摩郡西秋留村(現在の東京都あきる野市)出身。中村作兵衛の六男。東京府立第二中学校出身。1922年、弁護士試験に合格。1923年、早稲田大学法学部英法科卒業。弁護士開業。1930年、労農党中央執行委員。1936年、社会大衆党中央執行委員。早くから自由法曹団に参加し、自由法曹団事件で検挙された。 東京市会議員を経て、1937年の第20回衆議院議員総選挙に東京7区から出馬し当選。
軽部 慈恩(かるべ じおん、1897年〈明治30年〉7月14… 軽部 慈恩(かるべ じおん、1897年〈明治30年〉7月14日 - 1970年〈昭和45年〉10月16日)は日本の考古学者。山形県寒河江市出身。太平洋戦争以前に朝鮮半島に住んで古代百済の遺跡を研究し、敗戦により日本に戻ったあとは、日本大学で教鞭をとりつつ静岡県三島市に住み、伊豆地方の遺跡研究を行った。 1897年(明治30年)に、現在の山形県寒河江市である旧西村山郡醍醐村慈恩寺に生まれる。現在の静岡県伊豆市である旧田方郡修善寺町の修禅寺に来て仏門の修行に入る。以後「慈恩」と名乗る。 1925年(大正14年)に早稲田大学を卒業し、百済研究のため、日本統治時代の朝鮮半島に渡って現地の学校教員をしつつ、公州の三国時代の遺跡を発掘した。
楠山 義太郎(くすやま よしたろう、1897年(明治30年)… 楠山 義太郎(くすやま よしたろう、1897年(明治30年)6月28日 – 1990年(平成2年)1月7日)は、大正・昭和期のジャーナリスト、政治家。衆議院議員。 和歌山県日高郡由良村(現由良町)で楠山四郎右衛門の二男として生まれた。1920年(大正9年)早稲田大学政治経済学科を卒業。同年9月、大阪毎日新聞社に入社。1921年(大正10年)コロンビア大学に留学し、さらにバージニア大学で学んだ。 ロンドン特派員となり、1932年(昭和7年)リットン調査団報告書をスクープした。神戸支局長を経て、東京日日新聞外国通信部長に転じて第二次世界大戦下のヨーロッパを視察した。欧米部長、副主筆を経て、戦時中は日本タイムス社長、上海タイムス社長を務めた。
合田 健吉(ごうだ けんきち、1897年(明治30年)6月2… 合田 健吉(ごうだ けんきち、1897年(明治30年)6月28日 - 1975年(昭和50年)8月5日)は、日本の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員、香川県仲多度郡多度津町長。位階は正八位。勲等は勲四等。 香川県多度郡多度津町本通(現:仲多度郡多度津町)で、豪商「嶋屋」合田房太郎の二男として生まれる。早稲田大学商科を卒業。1937年(昭和12年)家督を相続した。 1928年(昭和3年)以降、四国水力電気取締役、琴平電気鉄道取締役、琴平参宮電鉄取締役、屋島登山鉄道取締役、槙田鉄工取締役、協和鉄工所社長、亀陽航空社長、中讃興業社長、多度津銀行監査役などを務めた。その他、多度津町社会教育委員、同農業会監事などにも就任した。
山口 喜久一郎(やまぐち きくいちろう、1897年 <明治3… 山口 喜久一郎(やまぐち きくいちろう、1897年 <明治30年> 5月11日 - 1981年 <昭和56年> 5月6日)は日本の政治家、第52代衆議院議長(在任期間・1965年12月20日 - 1966年12月3日)。長崎県佐世保市出身(選挙区は和歌山県)。栄典は勲一等旭日大綬章、正三位、佐世保市名誉市民。 1915年旧制鹿島中学(現佐賀県立鹿島高等学校)卒業。1920年早稲田大学専門部中退。株式ブローカー、岡崎邦輔秘書を経て、1930年和歌山県会議員に当選。1937年の第20回衆議院議員総選挙に当時の旧和歌山1区から立憲政友会公認で立候補するが落選。同年より県会議長を2期務めた後、1942年の第21回衆議院議員総選挙(翼賛選挙)に前回と同じく旧和歌山1区から非推薦で立候補し衆議院議員に初当選。
福田 雅之助(ふくだ まさのすけ, 1897年5月4日 - … 福田 雅之助(ふくだ まさのすけ, 1897年5月4日 - 1974年12月21日)は、東京府豊多摩郡戸塚村(現在の東京都新宿区西早稲田)出身の男子テニス選手である。全日本テニス選手権の第1回大会男子シングルス優勝者。 早稲田大学では1902年9月に運動場が改築され、その一部が福田家の所有する土地であったことから、雅之助はごく幼い頃から運動場でのスポーツ観戦を楽しんでいた。彼は戸塚睦合小学校(現在の戸塚第一小学校)時代は野球部員であったが、早稲田中学に入学した1910年に13歳でテニスを始めた。福田が16歳の時、1913年(大正2年)に慶應義塾大学庭球部が「硬式テニス(ローンテニス)への転向」を表明したが、早稲田大学庭球部は当初は硬式テニスに乗り気ではなく、三神八四郎(1887年 - 1919年)の説得に応じなかった。
瀬尾 俊三(せお しゅんぞう、1897年4月11日 - 19… 瀬尾 俊三(せお しゅんぞう、1897年4月11日 - 1980年9月17日)は、日本の経営者。雪印乳業社長を務めた。 北海道札幌市出身。札幌第一中学校(現・北海道札幌南高等学校)を経て、1922年に早稲田大学商学部を卒業。東海林太郎とは大学時代に同じ下宿にいた親友。 名古屋銀行での勤務を経て、1926年に北海道酪農販売組合連合会主事に就任し、1938年に専務、1950年6月に雪印乳業専務、1957年5月に副社長を経て、1963年5月に社長に就任。1971年5月に会長を経て、1973年5月には相談役に就任した。 1963年に藍綬褒章を受章し、1967年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1980年9月17日、急性肺炎のために死去。
里見 岸雄(さとみ きしお、1897年3月17日 - 197… 里見 岸雄(さとみ きしお、1897年3月17日 - 1974年4月18日)は、日本の思想家、人文学者、国体学者、法学者。国柱会を創設した田中智学の三男として東京で生まれ、のちに里見家へ養子に入る。日本国体学の創始者として知られ、戦前の言論に大きな影響を与えた。 1920年旧制早稲田大学哲学科卒業。1922年から1924年にかけて英独仏などに遊学し、帰朝後に里見日本文化学研究所を創立。1936年、日本国体学会を創立。後に立命館大学法学部教授に就任、法学博士号を同大より授与され、国体学科を創設。主任教授となる。 近年、戦前期の国家主義に関する研究が進む中、大谷栄一による近代日蓮主義運動史研究、大塚桂・昆野伸幸による政治思想史研究、林尚之による憲法学史研究などにおいて、その独自性が評価されつつある。
中川 寛治(なかがわ かんじ、1897年(明治30年)3月1… 中川 寛治(なかがわ かんじ、1897年(明治30年)3月11日 - 1984年(昭和59年)11月29日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、富山県下新川郡泊町長。 富山県下新川郡泊町(現朝日町)で、綿商人・中川屋、中川彦吉の長男として生まれる。1909年(明治42年)家督を相続した。1919年(大正8年)早稲田大学政治経済科を卒業した。三菱海上保険会社に入社したが、1926年(大正15年)に退職して帰郷し農業を営む。 また、黒東銀行取締役、泊銀行取締役、泊通運取締役、泊郵便局長などを務めた。1939年(昭和14年)9月、立憲民政党公認で富山県会議員に選出され、1期約3年間在任し、同副議長も務めた。
石崎 千松(いしざき せんまつ、1897年〈明治30年〉3月… 石崎 千松(いしざき せんまつ、1897年〈明治30年〉3月5日 - 1972年〈昭和47年〉6月12日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 福岡県企救郡、のちの門司市大里御所町(現北九州市門司区)で、石崎作蔵の息子として生まれた。1922年、早稲田大学商科卒。1930年アメリカアラバマ大学大学院経済学科卒、ノースウエスタン大学院政治家で学ぶ。その後は新聞記者となり、日本人会会長、同幹事、日本語学校校長となる。 1946年の第22回衆議院議員総選挙で福岡2区(大選挙区制)から無所属で立候補して当選。当選後は日本民主党準備会、新政会、国民党、国民協同党と変わった。この間、国民党渉外部長、国民協同党中央常任委員を歴任した。
関内 正一(關内、せきうち しょういち、1897年(明治30… 関内 正一(關内、せきうち しょういち、1897年(明治30年)3月4日 - 1962年(昭和37年)4月26日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・新妻。 福島県岩城郡大浦村上仁井田(四倉町を経て現いわき市)で素封家・新妻伊之助の長男として生まれ、岩城郡平町(平市を経て現いわき市平)の老舗・関内家の養子となる。福島県立磐城中学校(現福島県立磐城高等学校)を経て早稲田大学商科で学んだ。 28歳で平町会議員に就任。同議長、福島県会議員、平市会議員、同議長を務めた。1947年(昭和22年)4月、第23回衆議院議員総選挙で福島県第3区から自由党公認で出馬して当選。第24回総選挙で再選され、1952年(昭和27年)10月の第25回総選挙では次点で落選。
藤井 顕孝(ふじい けんこう、1897年〈明治30年〉3月3… 藤井 顕孝(ふじい けんこう、1897年〈明治30年〉3月3日 - 1979年〈昭和54年〉10月21日)は、日本の地方政治家。初代東久留米市長。 1924年(大正13年)早稲田大学文学部卒。浄牧院住職、鉄道教習所講師、東京府立第六中学校(現・東京都立新宿高等学校)教員、久留米町教育委員長を歴任した。 1959年(昭和34年)の久留米町長選挙に立候補したが、この時は前職の番場憲隆に敗れた。 ※当日有権者数:-人 最終投票率:-%(前回比:-pts) 1963年(昭和38年)の町長選挙で、社会党の新人を破って、初当選を果たした。 ※当日有権者数:-人 最終投票率:-%(前回比:-pts) 1967年(昭和42年)の町長選挙では、別の社会党新人との争いとなったが、これを破って再選を果たした。
京口 元吉(きょうぐち もときち、1897年(明治30年)2… 京口 元吉(きょうぐち もときち、1897年(明治30年)2月28日 - 1967年(昭和42年)9月3日)は、日本の日本史学者。 兵庫県姫路市出身。朝鮮で小学校教師ののち早稲田高等学院卒。1926年早稲田大学文学部史学科卒。学生時代は尾崎一雄らと同人誌をやっていた。1929年早大附属高等学院講師、1933年教授、1940年早稲田大学文学部助教授。この間明治文化研究会で活動。 警視庁から「反軍国的なマルキスト」「自由主義的」であると問題視され、1941年3月11日付で大学を引責辞職する。1946年2月1日付で文学部講師として復職する。同年5月から助教授となる。1947年教授、1967年定年退職。
上泉 秀信(かみいずみ ひでのぶ、1897年2月12日 - … 上泉 秀信(かみいずみ ひでのぶ、1897年2月12日 - 1951年5月14日)は、日本の劇作家、新聞記者。 山形県米沢市生まれ。米沢中学(現山形県立米沢興譲館高等学校)時代は浜田廣介や大熊信行と同人誌を発行。 早稲田大学中退。大正初期から短歌、戯曲を発表。都新聞学芸部長として、尾崎士郎の『人生劇場』を連載させた。 1935年発表の「村道」は4幕の舞台として創作座にて上演。1938年発表の「ふるさと紀行」も、翌1939年に4幕の舞台として新築地劇団により築地小劇場で上演された。 戦時中は大政翼賛会文化副部長。 戦後は福島県に疎開。「わが山河「鯉」(1946年)、「節分の客」(1948年)などを執筆。
徐 相国(ソ・サングク、朝鮮語: 서상국/徐相國、1897年… 徐 相国(ソ・サングク、朝鮮語: 서상국/徐相國、1897年2月11日または3月11日 - 1977年1月4日)は、大韓民国の政治家。第2代韓国国会議員。 現在の全羅南道咸平郡出身。早稲田大学専門部政経科卒。1925年には長城郡の精米所で約5か月間勤めていた。中央中学校、中央大学校の教員を務めた後、1950年の第2代総選挙に咸平選挙区から民主国民党所属で出馬し、国会議員を務めた。政界では民主国民党中央執行委員を務めた。
除村 吉太郎(よけむら よしたろう、1897年〈明治30年〉… 除村 吉太郎(よけむら よしたろう、1897年〈明治30年〉2月10日 - 1975年〈昭和50年〉11月3日)は、ロシア・ソビエト文学者。東京外国語学校教授、早稲田大学文学部客員教授。 1897年(明治30年)、群馬県多野郡美土里村(現・藤岡市)に生まれる。旧制藤岡中学校(群馬県立藤岡高等学校、現・群馬県立藤岡中央高等学校)を経て、1918年(大正7年)東京外国語学校(現・東京外国語大学)ロシア語科を卒業。 深井英五の紹介により、一時日本銀行調査部に勤務するが退職。駐日ロシア大使館に勤務した後、1922年(大正11年)にハルビンの日露協会学校助教授となった。1924年(大正13年)、母校である東京外国語学校助教授に就任し、1930年(昭和5年)教授に昇任。
縄田 尚門(なわた ひさと/しょうもん、1897年(明治30… 縄田 尚門(なわた ひさと/しょうもん、1897年(明治30年)2月8日 - 1968年(昭和43年)4月29日)は、大正・昭和期の日本の陸上競技(中距離走・長距離走)選手・指導者。現在の山口県宇部市出身。選手としては大正末期に800m走・1500m走・5000m走で当時の日本記録を保持した。第二次世界大戦後はマラソン選手の育成に当たるとともに、日本陸上競技連盟常務理事などを務めた。 現在の山口県宇部市中野に生まれる。旧制興風中学校(現在の山口県立小野田高等学校)を経て、早稲田大学に入学。 早稲田大学在学中の1923年(大正12年)5月25日、極東公開競技会(大阪)男子5000mで日本記録を更新した(16分11秒0)。
朴 瓚熙(パク・チャニ、朝鮮語: 박찬희、1897年1月29… 朴 瓚熙(パク・チャニ、朝鮮語: 박찬희、1897年1月29日 - 1972年3月2日または4月2日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国のジャーナリスト、政治家。参議員。 漢字表記は朴讚熙とも。 漢城府出身。本籍地は忠清北道鎮川郡鎮川面。早稲田大学経済学部卒。1919年には出版法と保安法違反により起訴されたが、免訴放免の処分を受けた。時代日報記者、東亜日報地方部長を務めた後、韓国民主党結党に参加し、同党情報部長・運動部長・労働部長・調査部長を歴任した。その後は民主国民党と民主党の結党にも参加し、民主党中央常任委員を務めた。1950年の第2代総選挙と1954年の第3代総選挙ではいずれも落選したが、四月革命以後の第5代総選挙では民主党所属の参議員に当選し、国会交通逓信委員会委員長を務めた。
大塚 有章(おおつか ゆうしょう、1897年1月22日 - … 大塚 有章(おおつか ゆうしょう、1897年1月22日 - 1979年9月8日)は、日本の社会運動家。教育家。戦前、日本共産党に入党して日本最初の銀行強盗事件である赤色ギャング事件の実行犯となるも出獄後は満洲国に渡り、満洲映画協会で巡映課長となる。戦後、日中友好運動に尽力し、日中友好協会(正統)の会長などを務める。また毛沢東思想学院を設立する。兄に大塚武松、姉に河上秀(河上肇の妻)、妹に末川八重(末川博の妻)がおり、姪の河上芳子をハウスキーパーとしていた。 元岩国藩士・衆議院議員の大塚慊三郎の子として生まれる。1920年早稲田大学卒業、同年南満洲鉄道に入社するも、1922年病気で退職。療養を経て、藤本ビルブローカー銀行に入社。
幡谷 正雄(はたや まさお、1897年1月20日 - 193… 幡谷 正雄(はたや まさお、1897年1月20日 - 1933年6月17日)は、日本の英文学者。 島根県浜田市顕正寺生まれ。1920年早稲田大学文学部英文科卒。坪内逍遙、島村抱月の指導を受ける。のち千葉師範学校で5年間教え、辞任後は雑誌「文芸研究」(1928)「イギリス文学」(バイロン社、1929)「日本女性」を編集した。
藤原 繁太郎(ふじわら しげたろう、1897年(明治30年)… 藤原 繁太郎(ふじわら しげたろう、1897年(明治30年)1月15日 - 1981年(昭和56年)5月28日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 長崎県南松浦郡奈留島村(のち奈留町、現・五島市)出身。1923年(大正12年)早稲田大学商学部を卒業した。 日本電報通信社通信記者となる。興亜精機顧問、興亜産業顧問、興亜産業取締役社長を務めた。また、日本漁民組合組合長、日本社会党長崎県支部連合会副会長を務めた。1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙に長崎県第2区から日本社会党所属で出馬して当選し、衆議院議員を1期務めた。 その後、長崎新聞社常務、同東京支社代表取締役、同社長、民華企業取締役など務めた。
小出 正吾(こいで しょうご、1897年1月5日 - 199… 小出 正吾(こいで しょうご、1897年1月5日 - 1990年10月8日)は、日本の児童文学作家。 1897年、静岡県三島出身。祖父の小出市兵衛は元質屋で、J・H・バラによって洗礼を受けた。中学時代に受洗しキリスト教信者となる。1918年早稲田大学商学部を卒業すると、南洋商会に勤め南洋へおもむくが、1922年退職して帰郷、三島教会の独立に尽くした。1928年、再び上京し明治学院で教え、明治学院教授(1935年、社会事業科)。 戦後、三島市教育委員長を務める。キリスト教ヒューマニズムの立場で創作を行う。1957年、三島市長選挙に革新統一候補として出馬し落選。1966年から1972年日本児童文学者協会会長[疑問点 – ノート]。
荒尾 静一(あらお せいいち、1897年1月 - 没年不詳)… 荒尾 静一(あらお せいいち、1897年1月 - 没年不詳)は、日本の元俳優、舞踏家、振付師、元オペラ歌手である。荒尾 靜一と表記されることもある。本名及び旧芸名は吉冨 一郎(よしとみ いちろう)。マキノ・プロダクションの主要人物の一人であり、東京少女歌劇団の花形としても知られる。 1897年(明治30年)1月、鹿児島県に生まれる、とされている。『日本歌劇俳優写真名鑑』(歌舞雑誌社)には、生年は「明治三十年五月十三日」(1897年5月13日)である旨が記されている。また、2000年(平成12年)4月1日に発行された『日本映画興亡史 マキノ一家』(ワイズ出版)には、生年・出生地は不詳としている。 旧制・海城中学校(現在の海城高等学校)在学中から音楽研究所で声楽を学び、1912年(明治45年)、同中学校卒業後は早稲田大学に進学する傍ら高田舞踊団に入団、西本朝春らと同じ小学校出身の高田雅夫、石井漠らに師事して舞踊を学ぶ。
春日 俊吉(かすが しゅんきち、1897年 - 1975年7… 春日 俊吉(かすが しゅんきち、1897年 - 1975年7月7日)は、大正・昭和期の登山家・ノンフィクション作家。本名は伊藤照雄。 現在の千葉県山武市(旧松尾町)出身。1920年に早稲田大学英文科卒業後に読売新聞社に入り、新聞記者をする傍ら、登山家・作家活動を行う。 学生時代に木曽駒ヶ岳大量遭難事故を知って山岳遭難事故に関心を抱くようになり、遭難事故に関する多くの著作を著した。『中央公論』及び『山と渓谷』両誌に掲載されたものを纏めた『日本山岳遭難史』(三省堂、1933年)は、日本の山岳遭難記の先鞭と言える。しかし、参考文献の欠如や感傷的で興味本意の文章が多いとする批判もある。 主な著作に『日本山岳遭難史』、『登山遭難の実相と対策』、『山岳遭難記』(全6巻)、『山と雪の墓標 松本深志高校生徒落雷遭難の記録』、『山の遭難譜』などがある。
具 中会(ク・ジュンフェ、朝鮮語: 구중회/具中會、1897… 具 中会(ク・ジュンフェ、朝鮮語: 구중회/具中會、1897年または1898年4月21日 - 没年不詳)は、日本統治時代の朝鮮の教育者、独立運動家、大韓民国・朝鮮民主主義人民共和国の政治家。号は蓮波(ヨンパ、연파)。天道教徒。 同じく独立運動家の具南会は弟。 慶尚南道昌寧郡霊山面出身。霊山公立普通学校(現・霊山初等学校)、普成中学校卒。己未独立運動での投獄を経て、しばらく周時経の下で韓国語文を学んだ後、早稲田大学高等師範学校英文科(現・早稲田大学教育学部)に留学し1926年に卒業した。大卒後は密陽郡北面私立精進学校設立校長、馬山中学校校長、木浦女子高等学校校長を歴任し、天道教の宣教活動にも従事した。
東 舜英(あずま しゅんえい、1896年(明治29年)12月… 東 舜英(あずま しゅんえい、1896年(明治29年)12月15日 - 1986年(昭和61年)1月11日)は、日本の新聞記者、政治家。衆議院議員。 石川県出身。東栄松の三男として生まれる。1923年、早稲田大学政治経済学部を卒業した。 萬朝報記者、読売新聞記者、國民新聞記者、拓務省嘱託、日満醸造社長、逓信大臣秘書官、東京市会議員などを務めた。 1947年4月、第23回衆議院議員総選挙おいて石川県第一区で民主党から立候補して当選し、衆議院議員を一期務めた。この間、民主自由党総務に就任。 炭鉱国管疑獄により逮捕され、1950年4月21日、東京地方裁判所で、懲役4ヶ月の判決を受けた。その後、控訴して争い、1951年5月22日、東京高等裁判所で無罪となり判決が確定した。
足立 直郎(あだち なおろう、1896年12月14日 - 1… 足立 直郎(あだち なおろう、1896年12月14日 - 1980年10月10日)は、歌人、劇作家、小説家。千葉県生まれ。本名・直太郎。別号・高梨直郎。早稲田大学文学部国文科卒。橋田東声の『珊瑚礁』に拠って歌人として出発、次第に戯曲、小説に手を染める。聚芳閣の経営者足立家に婿入りする。妻の養兄が足立欽一。