徳永 春夫(とくなが はるお、1921年 - )は、日本の教… 徳永 春夫(とくなが はるお、1921年 - )は、日本の教育者。 熊本県玉名郡石貫村(現・玉名市)に、石貫村村長も務めた徳永右馬七の三男として生まれる。徳永右馬七は旧制第五高等学校で嘱託教員を務めたことがあり、当時同僚だった夏目漱石とも親交を結んでいた。 熊本県立玉名中学校(現・熊本県立玉名高等学校・附属中学校、1938年卒業)、旧制第五高等学校を経て、東京帝国大学文学部を卒業した。卒業後は、海軍兵学校の文部教官となった。 終戦後、母校の玉名高等学校教諭に就いたのち、熊本県立牛深高等学校では教頭・指導主事・主幹、熊本県立大津高等学校・熊本県立八代高等学校(1971年 - 1974年)・熊本県立熊本西高等学校・熊本国府高等学校(1980年 - 1989年)では校長を務めた。
八田 亭二(はった こうじ、1915年3月17日 - 199… 八田 亭二(はった こうじ、1915年3月17日 - 1994年)は、日本の教育者。父は元旧制新潟高等学校初代校長の八田三喜。兄は演出家の八田元夫。 東京出身。東京帝国大学大学院理学部動物学科卒業。
吉永 孝雄(よしなが たかお、1910年5月24日 - 19… 吉永 孝雄(よしなが たかお、1910年5月24日 - 1992年10月17日)は日本の文楽研究家、教育者。大阪府出身。 旧制大阪府立生野中学校、大阪高等学校から東京帝国大学に進み、国文学を専攻。浄瑠璃の研究で文学博士。 大阪府立大手前高等学校などで国語科教諭として教壇に立ち、大阪府立勝山高等学校教頭、大阪府立清水谷高等学校校長を務めた。 その傍ら、文楽の研究に取り組み、番付、ちらしなど興行関係資料、ビデオテープ、レコード、新聞・雑誌の記事切抜、写真など多数の資料を収集。その一部は、園田学園女子大学近松研究所に「吉永孝雄文庫」として寄贈されている。 後年は羽衣学園短期大学教授、学長となり、文楽の教育に従事。
石塚 太喜治(いしづか たきじ、1908年7月5日 - 19… 石塚 太喜治(いしづか たきじ、1908年7月5日 - 1994年8月8日)は、日本の美術史研究者、美術教育者、洋版画家。太平洋戦争中から戦後にかけて活動した。 千葉県山辺郡東金町(現・東金市)に父・石塚留吉、母・きせの長男として生まれる。生家は鶴牧藩士の出自といわれるが、父の代では瓦屋を営み裕福な家ではなかった。幼少の頃からその才能を見込まれ、教育の機会を得た。 千葉県立成東中学校(現・千葉県立成東高等学校)から第六高等学校文科乙類に進む。中学時代より油絵の制作を始める。六高では独語部に入り、部長の山岡望教授の下で昭和三年度と四年度に委員を務める。東京帝国大学文学部美学美術史学科に進学して1933年3月に卒業した。
原島 鮮(はらしま あきら、1908年(明治41年) 2月1… 原島 鮮(はらしま あきら、1908年(明治41年) 2月18日 - 1986年(昭和61年) 12月26日)は、日本の物理学者、教育者。東京帝国大学理学博士、東京工業大学名誉教授。分かりやすい教科書執筆に定評があり、物性論や統計力学、特に表面張力の研究に取り組んだ[3][4]。旧制第一高等学校、九州帝国大学、東京工業大学、国際基督教大学、東京神学大学で教授を歴任し、東京女子大学では学長を務めた。実子に原島文雄がいる[3]。クリスチャンであり、温厚な人柄で知られた[4]。
仲宗根政善(なかそね せいぜん、1907年4月26日-199… 仲宗根政善(なかそね せいぜん、1907年4月26日-1995年2月14日)は、日本の教育者、言語学者、琉球大学名誉教授。
有光 次郎(ありみつ じろう、1903年12月15日 - 1… 有光 次郎(ありみつ じろう、1903年12月15日 - 1995年2月22日)は、日本の官僚(文部事務次官)・教育者。1974年勲一等瑞宝章受章。1989年名誉都民受賞。板垣退助先生顕彰会創立発起人兼顧問。 高知県生まれ。旧制高知県立第一中学校、旧制第三高等学校を経て、東京帝国大学法学部を卒業した。1927年、文部省に入省した。1932年に宗教局保存課長、1934年に専門学務局学務課長、1941年に大臣官房文書課長、1942年に大臣官房秘書課長兼大臣秘書官、1945年6月に科学局長、1945年9月に体育局長、1945年10月に教科書局長を経て1947年に文部事務次官に就任した。 教育基本法の制定、小学校6年、中学校3年の六・三制の実施などの戦後の教育改革に携わる。
釜瀬 冨士雄(かませ ふじお、1903年4月9日 - 198… 釜瀬 冨士雄(かませ ふじお、1903年4月9日 - 1985年[要出典])は、日本の教育者。学校法人九州学園理事長。 九州学園創立者釜瀬新平の長男として福岡市に生まれる。1921年福岡県立中学修猷館を経て、1926年東京帝国大学文学部心理学科を卒業。 1928年6月旧制松本高等学校教授となり、1950年2月福岡県教育委員会に転じ、1955年4月久留米大学商学部教授に就任。 1960年6月九州学園理事長および九州女子高等学校(現・福岡大学附属若葉高等学校)校長に就任。1966年4月福岡女子短期大学を創設し学長を兼ねる。
鈴木 弼美(すずき すけよし、1899年〈明治32年〉11月… 鈴木 弼美(すずき すけよし、1899年〈明治32年〉11月21日 - 1990年〈平成2年〉5月26日)は、日本の教育者。内村鑑三の弟子で、基督教独立学園高等学校の創設者。初代校長。 山梨県北都留郡七保村大字葛野(現・大月市)で、800年続いた甲斐絹問屋・鈴木商店の店主鈴木治作の次男として生まれる。 1920年、東京帝国大学理学部物理学科に入学。1924年1月27日、東京府柏木の内村鑑三邸内にある今井館で行われた聖書研究会に出席。6月頃、内村が柏木集会に参加していた青年に山形県小国郷と岩手県の北上山地への伝道を呼びかける。この2ヵ所は、内村がアメリカに留学していた頃に日本地図を広げて、将来伝道すべき所として選んだ、人跡稀な34ヵ所の場所の一つであった。
留岡 清男(とめおか きよお、1898年9月16日 - 19… 留岡 清男(とめおか きよお、1898年9月16日 - 1977年2月3日)は、日本の教育者・教育学者。専攻は価値心理学、教育科学・生活教育論。 東京府北豊島郡巣鴨村(現・豊島区)出身。旧制早稲田中学校を経て1920年6月、第二高等学校卒業。東京帝国大学法学部に入学し、翌年文学部に転部、1923年3月、東京帝国大学文学部心理学科卒業。 1923年4月、東京農業大学予科大学部講師(英語等担当)。1925年3月、東京農業大学予科大学部教授。1926年から法政大学講師、武蔵高等学校講師を兼務。1929年法政大学児童研究所設立に参画。1929年病気に伏した留岡幸助に代わり、教職を辞して北海道遠軽の家庭学校社名渕分校教頭に就き教護事業を継ぐ。
松沢 兼人(松澤、まつざわ けんじん / かねんど / かね… 松沢 兼人(松澤、まつざわ けんじん / かねんど / かねと、1898年(明治31年)1月10日 - 1984年(昭和59年)5月23日)は、日本の社会運動家、教育者、政治家。衆議院議員(3期)、参議院議員(3期)。 新潟県北蒲原郡水原町(現阿賀野市)で、裁判官の息子として生まれる。父の転勤に伴い各地の小学校へ転校した。1915年、長野県立上田中学校を卒業し、第七高等学校造士館に入学。同年12月、メソヂスト鹿児島教会(現:日本基督教団鹿児島加治屋町教会)で洗礼を受けた。1918年、東京帝国大学法科大学政治学科に入学し、新人会の結成に加わった。1921年、同大法学部を卒業した。 卒業後、大阪市社会部に勤務し、その後、大阪労働学校主事兼講師に就任。
宇野 喜代之介(うの きよのすけ、1894年 - )は日本の… 宇野 喜代之介(うの きよのすけ、1894年 - )は日本の教育者、小説家。
稗方 弘毅(ひえかた こうき、1887年(明治20年)9月2… 稗方 弘毅(ひえかた こうき、1887年(明治20年)9月20日 - 1973年(昭和48年)3月8日)は、日本の内務官僚、教育者。官選秋田県知事。 熊本県下益城郡海東村南海東小園に、海東村長・稗方惟一の長男として生まれる。熊本県立中学済々黌、第五高等学校を経て、1913年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し熊本県属となる。以後、大正4年(1915年)に山口県警視、大正6年(1917年)に山口県佐波郡長、大正7年(1918年)に宮城県理事官、大正10年(1921年)に福岡県理事官から内務省に異動し国勢院書記官となり、大正13年(1924年)11月に山梨県書記官・内務部長となり、その後、神奈川書記官・内務部長などを歴任。
井上 徳命(いのうえ とくめい、1887年(明治20年)6月… 井上 徳命(いのうえ とくめい、1887年(明治20年)6月11日 - 1966年(昭和41年)5月3日)は、明治末から昭和期の僧侶、教育者、政治家。衆議院議員。旧姓・岡。 佐賀県藤津郡、のちの七浦村(現鹿島市)の関家で生まれる。1904年(明治37年)鹿島中学校(現佐賀県立鹿島高等学校)を卒業後、すぐに鹿児島市和田の妙行寺のおじを頼って来鹿し第七高等学校造士館に入学。1910年(明治43年)7月、東京帝国大学文科大学哲学科(教育学)を卒業した。 佐賀の龍谷中学校(現龍谷中学校・高等学校)で勤務後、のちの出水市、西照寺・井上尽済の養子となる。鹿児島別院副輪番などを務め、出水高等女学校教員、伊作高等女学校長に在任。
湛増 庸一(たんそう よういち、1886年(明治19年)4月… 湛増 庸一(たんそう よういち、1886年(明治19年)4月17日 – 1941年(昭和16年)5月14日)は、日本の政治家、教育者。衆議院議員(1期)。 岡山県久米郡倭文西村(現在の美咲町)出身。1904年(明治37年)、岡山県立第一中学校を卒業。1908年(明治41年)に東京帝国大学農科大学を卒業。その後、アメリカ合衆国に留学して、ミネソタ州立農科大学を卒業し、さらにノースダコタ大学に学んだ。1912年(明治45年)に帰国した後は、岡山県農業試験場講師、山本農学校校長・山本実科高等女学校校長などを務めた。 1924年(大正13年)の第15回衆議院議員総選挙に出馬して当選を果たしたがその際、同じ岡山県第七区での競合相手だった藤島守太と談合して藤島方の選挙民を1万円で買収、衆議院選挙罰則違反で禁錮3月の判決を受け、1925年(大正14年)11月19日、大審院で上告棄却され、失職した。
渡辺 銕蔵(わたなべ てつぞう、明治18年(1885年)10… 渡辺 銕蔵(わたなべ てつぞう、明治18年(1885年)10月14日 - 昭和55年(1980年)4月5日)は、大正・昭和期の経済学者、教育者、政治家、実業家。東宝争議時の東宝社長。 大阪市生まれ。9歳から広島県広島市本通電停前の書店・積善館店主の子として育つ。 広島済美小学校(広島偕行社付属済美学校)~広島一中~第一高等学校を経て明治43年(1910年)、東京帝国大学法科大学政治学科を首席で卒業。同年から文部省特派海外留学生として英国・ドイツ・ベルギーに留学。 大正2年(1913年)帰国し東京帝国大学法科大学助教授となる。同年北里柴三郎の長女と結婚。大正5年(1916年)教授、大正6年(1917年)法学博士。
日高 重孝(ひだか しげたか/じゅうこう、1884年10月3… 日高 重孝(ひだか しげたか/じゅうこう、1884年10月3日 - 1980年3月5日)は、日本の歴史学者、郷土史家、教育者、宮崎県立博物館初代館長。その他、旧制中学校の校長、宮崎県立宮崎図書館長、上代日向研究所長を歴任。 宮崎県宮崎市中村町生まれ、同市福島町出身。田村弥太郎、きさの二男奈太郎として生まれ、6歳の時に伯父日高健助の養嗣子となる。高等小学校を終えて、1897年(明治30年)に旧制宮崎県立宮崎中学校(現 宮崎県立宮崎大宮高等学校)へ入学し、1902年(明治35年)卒業。1905年(明治38年)旧制第七高等学校造士館卒業。1910年(明治43年)東京帝国大学文科大学史学科国史学専修卒業。
菰田 万一郎(こもだ まんいちろう、1882年(明治15年)… 菰田 万一郎(こもだ まんいちろう、1882年(明治15年)11月9日 - 1939年(昭和14年)3月6日)は、日本の教育者。旧姓は早川。 長野県小県郡当郷(現青木村)生まれ。長野県尋常中学校上田支校(1899年(明治32年)には長野中学校上田支校に、翌1900年(明治33年)に上田中学校として独立、現・長野県上田高等学校)、同松本本校(現・長野県松本深志高等学校)を経て、旧制浦和高等学校、東京帝国大学哲学科卒業。尋常中学校の同級生に五島慶太がいた。千葉県夷隅郡中川村の菰田家の養子となる。 東京府立第二中学、旧制山口高等学校で教壇に立った後、1928年(昭和3年)文部省学務局事務官となり、翌年学生課長、調査課長を務めた。
白井 柳治郎(しらい りゅうじろう、1882年〈明治15年〉… 白井 柳治郎(しらい りゅうじろう、1882年〈明治15年〉7月12日 - 1966年〈昭和41年〉3月22日)は、日本の教育者。北海道でアイヌへの差別意識が根強かった明治時代において、差別意識に真っ向から立ち向かい、数々の教育改革に取り組んだ。同様にアイヌのために尽力した教育者である吉田巖と共に「アイヌ教育の父」とも呼ばれる。茨城県真壁郡関本町(後の筑西市)出身。 染物業との兼業農家の二男として誕生。地元の農学校を卒業後、農業の教師を志し、1900年(明治33年)、当時の農業教員養成学校としては最高学府である東京帝国大学農科大学付属農業教員養成所に入所した。 同年5月、東京のキリスト教青年会館で、北海道旧土人教育会主催による演説会に参加し、ハワイでの伝道から帰ってきたアイヌ救済運動家・小谷部全一郎の、アイヌについての講演を聞いた。
橋田 邦彦(はしだ くにひこ、1882年(明治15年)3月1… 橋田 邦彦(はしだ くにひこ、1882年(明治15年)3月15日 - 1945年(昭和20年)9月14日)は、日本の医学者、教育者。医学博士。号は無適。旧姓藤田。生理学者藤田敏彦(東北帝大名誉教授)の実弟。 「科学する心」を推称、学校教育での自然観察を推進するなど、戦後の科学教育においても影響を与えた。また、興亜工業大学(現・千葉工業大学)の創立に際して、政府代表として関わっている。 日本で最初に「実験生理学」を提唱するなどして生理学者・医学者として多くの業績を上げた。その名声ゆえに近衛文麿・東條英機両首相より文部大臣として招聘された。このため、太平洋戦争敗戦後にGHQよりA級戦犯容疑者として指名されて、警察が迎えに来た際、服毒自殺をした。
山本 忠興(やまもと ただおき、1881年(明治14年)6月… 山本 忠興(やまもと ただおき、1881年(明治14年)6月25日 - 1951年(昭和26年)4月21日)は、日本の電気工学者、発明家、教育者。 高知県香美郡岩村(現南国市金地)出身。政治家山本忠秀の長男として生まれるが、母親の山本さがは入籍前に死去したため、忠秀の養子として育てられる。 1893年(明治26年)高知県尋常中学校進学、野球やボートなどスポーツに取り組み、英語や体操は得意だったが、数学や図画は不得意だった。1898年(明治31年)同校を首席で卒業し上京、1899年(明治32年)9月第一高等学校入学、剣道や野球、ボートの選手として活躍する。1902年(明治35年)9月東京帝国大学工科大学電気工学科入学、在学中に植村正久の指導でキリスト教に入信。1905年(明治38年)同大学を卒業、芝浦製作所(現東芝)に入所。
大島 正徳(おおしま まさのり、旧字体: 大島 正德、188… 大島 正徳(おおしま まさのり、旧字体: 大島 正德、1880年11月11日 - 1947年4月21日)は、日本の哲学者・教育家。 神奈川県海老名市出身。実家は豪農で、父親は蚕種業のかたわら自由民権運動に携わり、子供の教育にも自由主義を貫いた。耕余塾で学んだのち、同志社中学校、第一高等学校を経て、1904年東京帝国大学文学部哲学科卒。研究生を09年までやり、14年東京帝国大学哲学科講師、16年助教授、1924年に同大及び一高教授を務める。 帝大を退職し、1925年東京市学務局長に就き、同教育局長、東京市会議員、帝国教育会理事などを務めた。37年世界教育会議日本事務局の事務総長。1942年には村田省蔵大日本帝国陸軍第十四軍(フィリピン占領軍)最高顧問の比島調査委員会で教育及び宗教担当委員を務めた。
岡上 梁(おかのうえ りょう、1880年(明治13年)1月3… 岡上 梁(おかのうえ りょう、1880年(明治13年)1月3日 - 1954年(昭和29年)12月14日)は、日本の教育者。 岡上市次・竹の次男として高知県長岡郡大篠村(現・南国市)に生まれる。高知県尋常中学校(現・高知県立高知追手前高等学校)、第五高等学校を経て、1903年(明治36年)に東京帝国大学文科大学哲学科を卒業。 私立有恒学舎教授、金沢第一中学校教諭、佐沼中学校校長、第七高等学校造士館教授、第五高等学校教授、東亜同文書院副院長、徳島中学校校長、新潟高等学校校長、広島高等学校校長を歴任した。1936年(昭和11年)、浦和高等学校校長に就任し、1939年(昭和14年)に第四高等学校校長に転じた。
貝原 良介(かいばら りょうすけ、1879年8月17日 - … 貝原 良介(かいばら りょうすけ、1879年8月17日 - 1918年10月22日)は、日本の教育者、物理学者。 福岡藩士族貝原信の長男として、福岡県に生まれる。1898年福岡県立尋常中学修猷館、1901年第五高等学校理科を経て、1904年東京帝国大学理科大学理論物理学科を卒業。 1906年学習院教授に就任し、物理、数学を講じた。 1918年10月22日、腎臓病により死去、従五位勲六等。
倉敷 福太郎(くらしき ふくたろう、旧姓・渡部、1878年〈… 倉敷 福太郎(くらしき ふくたろう、旧姓・渡部、1878年〈明治11年〉7月 - 1942年〈昭和17年〉2月4日)は、日本の教育家。学習院名誉教授。族籍は鳥取県平民。位階は正三位、勲等は勲二等。 島根県簸川郡上津村大字上島字和久輪(現・出雲市上島町和久輪)・渡部桑右衛門の四男、渡部金三郎の弟。松江生まれ。 松江中学校、第四高等学校を卒業。東京帝国大学に入り、在学中鳥取県西伯郡米子町(現・米子市)・倉敷岩太郎の養子となる。1904年に東京帝国大学理科大学数学科を卒業。1925年に家督を相続する。 宮城県立第一中学校教諭を経て後学習院教授に任じ、教務課長を命ぜられる。秩父宮、高松宮、三笠宮などの教育に当る。
古賀 毅(こが つよし、1877年7月 - 1968年1月)… 古賀 毅(こが つよし、1877年7月 - 1968年1月)は、日本の教育者。 福岡県山門郡沖端村(後の柳川町、柳川市の一部)出身で、古賀生三の子。同じく沖端村(柳川)出身の詩人北原白秋の親友であったといわれている。中学伝習館(現:福岡県立伝習館高等学校)、1899年7月第五高等学校文科を経て、1902年7月東京帝国大学文科大学哲学科を卒業。 青森県立八戸中学校教諭を経て、長崎県立島原中学校校長、埼玉県立川越中学校校長、埼玉県立熊谷中学校校長を歴任。1924年から1930年まで鹿児島県立第二鹿児島中学校校長。在任中に鹿児島県議会を説得し、第二鹿児島中学校校舎の鉄筋コンクリート造新校舎への建て替えに尽力。
額田 豊(ぬかだ ゆたか、1877年(明治12年)3月23日… 額田 豊(ぬかだ ゆたか、1877年(明治12年)3月23日 - 1972年(昭和47年)7月29日)は、日本の医師・医学者(内科学)・教育者。東邦大学共同創立者。日本大学医学部医学科初代医学科長。日本大学名誉教授。 1878年(明治11年)、岡山県邑久郡に医師の長男として生まれた。上京して獨逸学協会学校中等部、旧制一高に通い、東京帝国大学医学科に入学した。大学在学中はボート部で活躍し、大学を休みがちであったがドイツ語の原書を読んで補った。 大学卒業後の1907年(明治40年)にドイツへ3年間私費留学する。留学中にドイツ女性に感銘を受け、女性を対象とした教育を使命と考える。 帰国後に医学博士の学位を取得する。
森 総之助/森 總之助(もり そうのすけ、1876年5月11… 森 総之助/森 總之助(もり そうのすけ、1876年5月11日-1953年4月23日)は、明治-昭和期の物理学者・教育者。 高知県香美郡野市村(現在の香南市)出身。1892年高知尋常中学校を卒業後、第三高等学校・第二高等学校を経て1899年に東京帝国大学理科大学を卒業する。 卒業後、新潟県立長岡中学校教諭になるが、1901年に第三高等学校教授に迎えられる。 「森総」の愛称を持ち、多くの物理学の著書を著したことから、その著書は”森総の物理学"の異名を得た。また、教育者としても湯川秀樹や朝永振一郎などを物理を教えて彼らに大きな影響を与えたとされる。 1935年、同じ高知県出身でもある前任の校長・溝淵進馬の急逝を受けて第三高等学校校長に就任する。
阿部 宗孝(あべ むねたか、1875年(明治8年)6月20日… 阿部 宗孝(あべ むねたか、1875年(明治8年)6月20日 - 1944年(昭和19年)3月31日)は、日本の教育者。山口県豊浦郡( 現・下関市)の出身である。東京府立六中(都立新宿高校)初代校長、府立高等学校2代目校長。 1875年(明治8年)6月20日、山口県豊浦郡豊田中村(現:下関市豊田町)に、豊浦藩藩士・阿部宗忠の二男として出生。初め伝(つたえ)、1911年(明治44年)に宗孝と改名し、陸柱と号した。兄が早逝したため嫡子となった。 1902年(明治35年)に東京帝国大学文科大学国史科を卒業後、神奈川県立第二中学校(現:神奈川県立小田原高等学校)へ教諭として赴任した。赴任当初は絣木綿の着物に袴をつけていたことからまるで書生のようであったという。
内藤 馬藏(ないとう うまぞう、1873年(明治6年)11月… 内藤 馬藏(ないとう うまぞう、1873年(明治6年)11月17日 - 1940年(昭和15年)1月10日)は、日本の教育者。岡山県倉敷市出身。 1873年(明治6年)岡山県倉敷市に住む内藤永吉の次男として出生する。1899年(明治32年)、旧制岡山中学(現:岡山県立岡山朝日高等学校)、旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学文科大学史学科を卒業し、大学院に入った。1901年(明治34年)、第六高等学校教授となり、20年余り勤務した。1924年(大正13年)から1927年(昭和2年)まで高知高等学校校長を務めた。
吉丸 一昌(よしまる かずまさ、1873年(明治6年)9月1… 吉丸 一昌(よしまる かずまさ、1873年(明治6年)9月15日 - 1916年(大正5年)3月7日)は、日本の作詞家、文学者、教育者。代表作は「早春賦」など。東京府立第三中学校教諭、東京音楽学校(現在の東京芸術大学)教授。大分県北海部郡海添村(現・臼杵市海添)出身。 日本基督教団の牧師で讃美歌第二編の委員長の藤田昌直の実父。 大分県の旧臼杵藩下級武士・吉丸角内の長男として生まれる。小学校尋常科から小学校高等科卒業までの成績は非常に優秀で、県から度々表彰を受けるほどだった。1889年、大分県立大分中学校(のち大分県立大分上野丘高等学校)を経て1894年、熊本市の第五高等学校(熊本大学の前身)に進学する。
八田 三喜(はった みき、1873年 - 1962年)は、日… 八田 三喜(はった みき、1873年 - 1962年)は、日本の教育者。 息子は演出家の八田元夫と教育者の八田亭二。
三根 円次郎(みね えんじろう、1873年 - 1935年3… 三根 円次郎(みね えんじろう、1873年 - 1935年3月18日)は長崎県旧西彼杵郡瀬戸町(現在の西海町)出身の日本の教育者である。歌手ディック・ミネの父親で、ギタリスト三根信宏の祖父。 長崎県(江戸時代の大村藩)の大庄屋に生まれる。族籍は士族。旧制私立大村中学(現・長崎県立大村高等学校)、熊本県の旧制第五高等学校、旧制第一高等学校を経て、明治27年(1894年)に東京帝国大学文学部哲学科に入学し、お雇い外国人だったラファエル・フォン・ケーベルらの教えを受ける。明治30年(1897年)に帝国大学を卒業し、謹厳な教育者として、山形県の山形中学で修身(道徳)、福岡県の東筑中学で英語の授業を、それぞれ教諭として歴任し、29歳の時に、佐賀県の佐賀県立第三中学校(現・唐津東高等学校)の校長に就任する。
山脇 春樹(やまわき はるき、1871年7月11日(明治4年… 山脇 春樹(やまわき はるき、1871年7月11日(明治4年5月24日) - 1948年(昭和23年)1月3日[要出典])は、日本の農商務・内務官僚、教育者。官選県知事、山脇高等女学校長。旧姓・畑田。 京都府出身。畑田清平の四男として生まれ、1901年(明治34年)5月、山脇玄の養子となる。第一高等学校を卒業。1899年(明治32年)、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。大蔵省に入省し主計局属となる。 以後、司税官を経て農商務省に転じ、農商務大臣秘書官に就任。さらに、農商務書記官、商務局商事課長、台湾総督府専売局長、臨時博覧会事務官長などを歴任。 1916年(大正5年)10月、山梨県知事に就任。
武田 千代三郎(たけだ ちよさぶろう、1867年5月27日〈… 武田 千代三郎(たけだ ちよさぶろう、1867年5月27日〈慶応3年4月24日〉- 1932年〈昭和7年〉5月26日)は、日本の内務官僚、教育者、スポーツ指導者。官選県知事、神宮皇學館長、大日本体育協会副会長、大阪市立高等商業学校長。駅伝競走の命名者、運動中の水分補給を禁止する風潮を創り上げた人物として知られる。 柳河藩士・武田道夫の二男として筑後国山門郡柳河(現:柳川市)で生まれる。共立学校、第一高等学校を経て、1889年7月、東京帝國大學法科大学法律学科(英法)を卒業。 1889年8月、法制局雇となる。同年12月に徴兵され近衛歩兵第1連隊に入隊。1890年11月、陸軍歩兵二等軍曹で満期除隊となる。
菊池 謙二郎(きくち けんじろう、1867年2月23日(慶応… 菊池 謙二郎(きくち けんじろう、1867年2月23日(慶応3年1月19日) - 1945年(昭和20年)2月3日)は、日本の教育者、歴史研究者。号は仙湖。正岡子規、秋山真之、夏目漱石らとの交友、藤田東湖を中心とした水戸学の研究で知られ、衆議院議員も務めた。
廣田 理太郎(ひろた りたろう、1865年12月23日(慶應… 廣田 理太郎(ひろた りたろう、1865年12月23日(慶應元年11月6日) - 1935年(昭和10年)9月2日)は、日本の工学者、実業家、教育者。 広島県福山市出身。廣田家は代々備後福山藩の勘定役を勤めた家系であった。県立広島中学(現・広島県立国泰寺高校)を経て東京帝国大学機械科卒業。帝大の技術者の第一期の卒業生で技術者のはしり。当時は機械そのものが外国から輸入され、参考書や説明書も全て外国から取り寄せるため英語は不可欠だった。帝大在学中の1886年、学友と東京理科大学の生徒計4人で自転車会を設立。これは日本で最初の自転車クラブともいわれ、金を出し合って購入したオーディナリー型自転車を廣田らが日本人で初めて乗ったともいわれる。
山川 健次郎(やまかわ けんじろう、嘉永7年/安政元年閏7月… 山川 健次郎(やまかわ けんじろう、嘉永7年/安政元年閏7月17日〈1854年9月9日〉- 昭和6年〈1931年〉6月26日)は、明治から昭和初期にかけての日本の物理学者、教育者。男爵、理学博士。東京帝国大学総長の在任期間は計11年11か月に及び歴代最長。 会津藩出身で白虎隊士(途中離脱)として明治政府と戦った後、アメリカへの官費留学を経て東京開成学校・東京大学(日本人初の物理学教授)に登用された。その後、東京帝国大学理科大学長、東京帝国大学総長、明治専門学校(九州工業大学の前身)初代総裁、九州帝国大学(九州大学の前身)初代総長、京都帝国大学(京都大学の前身)総長、旧制武蔵高等学校(武蔵高等学校中学校および武蔵大学の前身)校長、貴族院議員、枢密顧問官を歴任した。
長井 長義(ながい ながよし、ドイツ語: Wilhelm N… 長井 長義(ながい ながよし、ドイツ語: Wilhelm Nagayoshi Nagai, Nagajosi Nagai、1845年7月24日〈弘化2年6月20日〉- 1929年〈昭和4年〉2月10日)は、日本の薬学者、化学者、教育者。東京帝国大学名誉教授。日本薬学会初代会頭、大日本製薬技師長。日独協会理事長。帝国学士院会員。学位は哲学博士(ベルリン大学)、理学博士(明治天皇勅令)、薬学博士(明治天皇勅令)。名は直安、長吉。号は朴堂。ドイツ名はヴィルヘルム(Wilhelm)。エフェドリンの発見者、メタンフェタミンの合成者。 弘化2年6月20日(1845年7月24日)、阿波国名東郡常三島村薙刀丁(現:徳島県徳島市中常三島町2丁目)に、長井琳章と田鶴子の長子として生まれた。
竹下 武雄(たけした たけお)は、日本の教育者。 熊本県に生… 竹下 武雄(たけした たけお)は、日本の教育者。 熊本県に生まれる。熊本県立玉名中学校(1911年卒業、同級生に薬師寺尊正がいる)、第五高等学校を経て、東京帝国大学を卒業した。 鳥取高等農林学校(現・鳥取大学農学部)教授、福岡県立女子専門学校教授、熊本県第一高等女学校教授、主任教授などを歴任した。長年にわたり、熊本県区の女子教育に携わった。熊本県立第一高等学校の記念誌[要文献特定詳細情報]によると、時には生徒が驚くような出で立ちで授業をすることもあったとされる。