藤谷 俊雄(ふじたに としお、1912年7月2日 - 199… 藤谷 俊雄(ふじたに としお、1912年7月2日 - 1995年2月11日)は、日本の歴史学者、部落問題研究家である。 京都府京都市出身。生家は真宗大谷派の即現寺。京都府立第二中学校卒業後、1934年に高知高等学校文科甲類、1937年京都帝国大学文学部史学科卒業。1938年、治安維持法違反で検挙。その後、生家の住職、また京都市史編纂に参加。 戦後、日本史研究会創設に参加。また1966年には部落問題研究所理事長兼所長に就任し、文化厚生会館問題によって奈良本辰也・林屋辰三郎・原田伴彦らが去った後の研究所再建に尽力。
野間 三郎(のま さぶろう、1912年5月5日 - 1991… 野間 三郎(のま さぶろう、1912年5月5日 - 1991年12月4日)は、日本の地理学者。兄は国文学者の野間光辰。 兵庫県神戸市生まれ。1930年に旧制大阪府立高津中学校卒業。1933年に旧制大阪高等学校卒業。1936年に京都帝国大学文学部史学科地理学専攻卒業。1941年に京都帝国大学講師。大東亜戦争中、室賀信夫、小牧実繁らと関係していたため、公職追放された。1946年に同大学を退職。 その後、第三高等学校講師、京都新聞社出版部、毎日新聞社調査部を経て、1952年に立命館大学教授。1959年、金沢大学教授。1962年に「近代地理学の潮流 十九世紀地理学史研究」で京都大学より文学博士の学位を取得。
小川 昂(おがわ たかし、1912年3月1日 - 2008年… 小川 昂(おがわ たかし、1912年3月1日 - 2008年4月14日)は日本のミュージック・ライブラリアン (音楽司書) の先駆者。NHK資料室でレコードや楽譜など音楽資料の整理に長年携わり、音楽関係の多様なレファレンスブックを刊行。また後進の育成にも尽力した。1972年黄綬褒章受章。 1912年東京に生まれた小川昂は、父の転勤により10歳の時京都へ転居。役人であった父親は几帳面で整理魔であり、また管楽器を吹く趣味もあった。小川は中学在学中からチェロを学び東京音楽学校に進学を志すが、父の許しが得られず断念。京都帝国大学農学部図書室へ就職し、上司や先輩から仕事の手ほどきを受ける。京大オーケストラに参加する一方、青年図書館連盟の集会で間宮不二雄に認められる。
井出 一太郎(いで いちたろう、1912年1月4日 - 19… 井出 一太郎(いで いちたろう、1912年1月4日 - 1996年6月2日)は、日本の政治家。内閣官房長官(第39代)、農林大臣(第23-24代)、郵政大臣(第29代)。衆議院議員(16期)。 長野県(旧南佐久郡臼田町、現佐久市)出身。家は元禄時代(1688年~1704年)から続いた古い造り酒屋の橘倉酒造。県会議員を務めた今朝平の長男。 旧制野沢中学(長野県野沢北高等学校)を経て、1931年旧制松本高校文科甲類卒業。10年間家業に専念した後、1941年京都帝国大学農学部入学。すでに3人の子持ちで、家業をみながらの大学生活だった。 1946年、第22回衆議院議員総選挙に旧長野2区から初当選。連続当選16回。
田井啓吾(たい けいご、1912年 - 1947年3月16日… 田井啓吾(たい けいご、1912年 - 1947年3月16日)は、日本の歴史家。 1912年奈良県に生まれる。兵庫県立第一神戸中学校から第三高等学校文科に進む。その後、1930年に京都帝国大学文学部史学科に進み、日本中世史を専攻する。卒業論文「王朝時代に於ける荘園の発展過程」をまとめ、1933年に卒業。治安維持法違反容疑で検挙され、釈放後に「封建社会ノ研究」のため京都帝国大学大学院に進学する。1941年から京都府社寺課に嘱託として勤務し、赤松俊秀のもとで京都府内の寺社の宝物の調査に従事する。戦時中に病気になり、出雲町へ移り、療養のため入院していたが、その間にも、歴史学研究会の京都支部を発足させようと西岡虎之助に相談するなどしたことが、日本史研究会の設立につながり、創立委員の一人となった。
柳井 深造(やない しんぞう、1911年(明治44年)7月1… 柳井 深造(やない しんぞう、1911年(明治44年)7月16日- 没年不詳)は、陸上選手であり研究者でもある。川崎重工業研究室長を務め、流体力学の研究で知られる。岡山県出身。 1911年(明治44年)岡山県に生れる。1925年(大正14年)、旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学する。1930年(昭和5年)3月、同校を卒業し、旧制第六高等学校理科乙類へ進学する。1933年(昭和8年)同校を卒業し、京都帝国大学工学部へ進学する。 京大では、陸上部に所属し、1934年(昭和9年)柳井が大学2年生のとき、兵庫県にある甲子園南運動場で行われた第21回全日本陸上競技選手権大会の男子110mハードルでは、15.4秒で準優勝している。
加藤 静雄(かとう しずお、1911年(明治44年)4月25… 加藤 静雄(かとう しずお、1911年(明治44年)4月25日 - 1960年(昭和35年)12月7日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(1期)。旧姓は増田。 静岡県志太郡豊田村(現焼津市)の増田家に生まれる。静岡県立志太中学校(現静岡県立藤枝東高等学校)の第一期生で、同校4年修了で静岡高等学校に進んだ。1939年(昭和14年)京都帝国大学法学部法律学科を卒業。戦後、東京の加藤家の養子となるが、焼津に在住した。 実業界では、合資会社東亜製作所副会長、焼津水産取締役社長などを務めた。 1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙で静岡県第1区から日本社会党公認で出馬して実業家の長兄、増田年郎の援助と志太中同窓生の支援を受けて当選し、衆議院議員に1期在任した。
西山 夘三(にしやま うぞう、1911年3月1日 - 199… 西山 夘三(にしやま うぞう、1911年3月1日 - 1994年4月2日)は日本の建築学者、建築家。都市計画家。住宅問題を科学的に研究する基礎を築いた。
高井 悌三郎(たかい ていざぶろう、1911年(明治44年)… 高井 悌三郎(たかい ていざぶろう、1911年(明治44年)1月3日 - 2004年(平成16年)9月28日)は、日本の考古学者・教育者。考古学者としては、日本の地方郡衙の調査研究で先駆的な成果を上げた。元甲陽学院中学校・高等学校教諭。 1911年(明治44年)1月3日、富山県射水郡伏木町(現・高岡市)中道に生まれる。伏木町立尋常高等小学校、富山県立高岡中学校、第四高等学校を経て、1931年(昭和6年)4月に京都帝国大学文学部に入学。大学では西田直二郎らの教えを受ける。大学を1934年(昭和9年)3月に卒業した翌月に茨城県立水戸第二高等女学校講師兼茨城県女子師範学校(茨城県女子師範学校は後,茨城師範学校となる)講師として茨城県に着任する。
松沢盛茂(まつざわ もりしげ、1911年(明治44年) - … 松沢盛茂(まつざわ もりしげ、1911年(明治44年) - 1999年(平成11年)11月25日)は、日本の農業経済学者。
佐伯 富(さえき とみ、1910年11月6日 - 2006年… 佐伯 富(さえき とみ、1910年11月6日 - 2006年7月5日)は、日本の東洋史学者。専門は、宋代より清代に至る中国近世史。学位は、文学博士。京都大学名誉教授。 1910年、香川県三豊郡萩原村(現:観音寺市大野原町)で生まれた。旧制香川県立三豊中学校を経て、旧制第六高等学校に入学。第六高等学校で、生涯にわたって薫陶を受ける宮崎市定と出会った。1931年、京都帝国大学文学部に入学、東洋史を専攻する。六高から転任していた宮崎の指導を再び受けることになった。1935年、京都帝国大学文学部史学科を卒業し、同大学大学院に進学。同時に、東方文化学院京都研究所研究嘱託となった。 1940年、京都帝国大学人文科学研究所助手に採用。
大賀 小四郎(おおが こしろう、1910年(明治43年)11… 大賀 小四郎(おおが こしろう、1910年(明治43年)11月3日 - 1991年(平成3年)2月24日)はドイツ文学者、外交官。兵庫県西宮市の甲陽中学校出身(七回卒)。妻はヴァイオリニストの諏訪根自子。 1934年京都帝国大学文学部独文科卒。1937年からドイツのライプツィヒ大学に学ぶ。1939年に、帰国し外務省に入り、結婚するも、その後、外交官補としてベルリンに赴任。ドイツ留学中は朝永振一郎とも交流があった。 1945年、ドイツの敗戦とともに、アメリカ軍に捕らえられて、アメリカに拘留。この一連の出来事では、前田陽一、諏訪根自子が一緒だった。 帰国後、1949年、一高教授を経て、東京大学教養学部助教授、教授を1969年まで歴任した。
高橋 清一郎(たかはし せいいちろう 1910年2月3日 -… 高橋 清一郎(たかはし せいいちろう 1910年2月3日 - 1972年10月29日)は、衆議院議員を5期務めた日本の政治家である。 1910年(明治43年)2月、新潟市に生まれる。私立新潟夜間中学校、高検を経て新潟高等学校卒業。1936年(昭和11年) 京都帝国大学法学部卒業。 1937年(昭和12年)、南方に出征。 1947年(昭和22年)、新潟県議会議員・新潟市議会議員。1958年(昭和33年)5月、第28回衆議院議員総選挙で新潟1区初当選(無所属)し、以後5期連続で務める。 1964年(昭和39年)7月、第3次池田改造内閣防衛政務次官。同年11月、第1次佐藤内閣防衛政務次官。1967年(昭和42年)11月、第2次佐藤第1次改造内閣郵政 政務次官。
清水 三男(しみず みつお、1909年12月20日 - 19… 清水 三男(しみず みつお、1909年12月20日 - 1947年1月27日)は、日本の歴史学者。専門は日本中世史。山部好吉のペンネームによる論文もある。 京都市下京区生まれ。京都府立第一中学校(現:京都府立洛北高等学校・附属中学校)を経て、1928年第三高等学校を卒業し、京都帝国大学に入学。同期に赤松俊秀らがいる。義兄でもあった中村直勝の影響と、指導教官三浦周行の指導で荘園研究を行った。卒業論文「封建制度の成立に関する一考察」をまとめ、1931年京都帝国大学文学部を卒業する。同年、大学院に進学し、西田直二郎の指導を受ける。唯物史観の立場に立って中世封建社会成立についての研究を進めた。 1931年10月から1934年3月まで、叡山学院で神道史の講師を務めた後、1935年、和歌山県立和歌山商業学校教員となる。
平岡 武夫(ひらおか たけお、1909年12月10日 - 1… 平岡 武夫(ひらおか たけお、1909年12月10日 - 1995年5月31日)は、中国哲学者、専攻は儒教経典の成立史的研究など。京都大学名誉教授。
樋口 和博(ひぐち かずひろ、1909年12月1日 - 20… 樋口 和博(ひぐち かずひろ、1909年12月1日 - 2009年2月7日)は、日本の裁判官、弁護士。 長野県上伊那郡川島村(現辰野町)生まれ。旧制松本第二中学(現長野県松本県ヶ丘高等学校)、旧制松本高校文科甲類、京都帝国大学法学部卒業。昭和11年司法官試補、以後、大阪、青森、高松、長野、東京の各地裁で約38年間裁判官生活を送る。昭和49年定年退官。昭和50年1月、弁護士登録(東京弁護士会)。
曽沢 太吉(曾澤太吉、そざわ たきち、1909年10月17日… 曽沢 太吉(曾澤太吉、そざわ たきち、1909年10月17日 - 1996年2月13日)は、国文学者。中古・中世文学が専門。 長野県上高井郡小山村(現須坂市)生まれ。旧制須坂中学(長野県須坂高等学校)を経て、1933年京都帝国大学文学部国文科卒。旧制大阪府立市岡中学、池田中学などの旧制中学校教諭を経て、1943年大東亜錬成院錬成官、1944年長岡工業専門学校教授、1947年奈良女子高等師範学校教授、1950年奈良女子大学教授、1963年文学部長、1971年学長。1977年定年退官、名誉教授、摂南大学国際言語文化学部教授。仏教美術協会理事長。文化庁平城宮跡保存整備委員会委員などを歴任した。
小林 米三(こばやし よねぞう、1909年8月18日 - 1… 小林 米三(こばやし よねぞう、1909年8月18日 - 1969年2月10日)は、京阪神急行電鉄元社長、宝塚歌劇団元理事長。プロ野球球団阪急ブレーブスのオーナーでもあった。 阪急電鉄や宝塚歌劇団の創業者である小林一三の三男として生まれた。 京都帝国大学経済学部卒業後、1932年に阪神急行電鉄に入社。 1946年に取締役、1951年に専務取締役、1959年に代表取締役社長に就任。 専務時代の1956年に発生した庄内事件では、事件現場となった宝塚線庄内駅に自ら出向き、事態を収拾するため騒ぎを起こした群衆を説得した。 1968年5月から1969年1月まで宝塚歌劇団理事長を務め、2014年には『宝塚歌劇の殿堂』最初の100人のひとりとして殿堂表彰される。
浦辺鎮太郎(うらべ しずたろう、1909年3月31日 - 1… 浦辺鎮太郎(うらべ しずたろう、1909年3月31日 - 1991年6月8日)は、日本の建築家。 岡山県児島郡粒江村(現:倉敷市)出身。岡山県第一岡山中学校(現:岡山県立岡山朝日高等学校の一つ)、旧制第六高等学校を経て、1934年京都帝国大学工学部建築学科卒業後、倉敷レイヨン(現:クラレ)に入社し営繕関連部門に勤務。1962年、倉敷レイヨン内に同社社長で同郷の実業家大原総一郎の庇護のもとに倉敷建築研究所(現:浦辺設計の前身)を設立した。1964年に倉敷レイヨンを退社し倉敷建築事務所として独立、1966年に浦辺建築設計事務所と改称した。倉敷レイヨン時代から大原総一郎の構想する倉敷のまちづくりを建築家として支え、1968年の総一郎死去後も大原家や倉敷に関連する建築をはじめ多くの作品を残している。
伊達 秋雄(だて あきお、1909年(明治42年)1月1日 … 伊達 秋雄(だて あきお、1909年(明治42年)1月1日 - 1994年(平成6年)12月25日)は、日本の裁判官、弁護士、法学者。法政大学名誉教授。砂川事件一審において、日米安全保障条約によるアメリカ軍の駐留は日本国憲法違反とする判断を示したことで知られる。長男の伊達寛は東京メトロポリタンテレビジョン社長[要出典]。 大分県出身。旧制静岡県立掛川中学校を経て旧制静岡高等学校に進んだ。高校時代、軍事教練に反対して安倍川渡河演習を拒否したり、銃掃除の命令に従わなかったことがあったという。 京都帝国大学卒業。1933年(昭和8年)判事となる。1942年(昭和17年)、満州国司法部刑事司参事官となったが、この時期、不当に拘束され強制労働をさせられた中国人らを次々と釈放していた、との逸話がある。
田中 正佐(たなか しょうすけ、1908年(明治41年)11… 田中 正佐(たなか しょうすけ、1908年(明治41年)11月2日 - 2000年(平成12年)1月8日)は、日本の実業家。大丸副社長を経て、東急グループの総帥である五島昇に招かれ、東急百貨店社長に就き、東光ストア(現・東急ストア)や東急エージェンシー社長も兼任し、グループの流通事業の発展に力を尽くした。 山形県鶴岡市出身。父正造、母こえだのもと7人兄弟の次男として生まれる。田中家は庄内藩の家臣で、母方は家老の家柄だった。 鶴岡中学校、新潟高等学校、京都帝国大学経済学部を卒業。山添直(小田急不動産社長)は幼友達。 満鉄への入社を希望していたが、知人のすすめもあって1933年、大丸に入社。入社5年後の1938年、大丸が進出していた中国の蘇州店支配人を任される。
平田 陽一郎(ひらた よういちろう、1908年11月1日 -… 平田 陽一郎(ひらた よういちろう、1908年11月1日 - 1988年10月10日)は、日本のジャーナリスト、実業家。 愛媛県八幡浜市生まれ。松山中学校 (旧制)に入学。松山高等学校 (旧制)在学時、のちの日本共産党議長宮本顕治や憲法学者大野盛直らと同人雑誌『白堊紀』を発行するなどの親交があった。 京都帝国大学卒業。大阪毎日新聞記者を経て、1942年愛媛合同新聞社(現愛媛新聞社)編集局長。1946年愛媛新聞社社長。1947年日本で初めて新聞週間行事を実施した。1953年南海放送開局、社長に就任。 1963年1月の第5回愛媛県知事選挙に「県政刷新県民の会」より出馬、自由民主党公認の現職知事久松定武に接戦の末惜敗した。
武藤 千秋(むとう ちあき、1908年(明治41年)10月2… 武藤 千秋(むとう ちあき、1908年(明治41年)10月29日 - 1991年(平成3年)8月18日)は、実業家である。元栗本鐵工所専務取締役・顧問を務める。岡山県高梁市出身。 1908年(明治41年)岡山県に出生する。地元に近い旧制岡山県立高梁中学校(現:岡山県立高梁高等学校)に進学する。1927年(昭和2年)に同校を卒業する。同年、旧制第六高等学校理科甲類へ進学する。その後、1930年(昭和5年)同校を卒業し、京都帝国大学工学部へ進学する。1933年(昭和8年)3月、工学部採鉱冶金学科を卒業する。 京大卒業後、栗本鐵工所へ就職する。入社後、臨時建設部次長を経て、1954年(昭和29年)に材料研究部次長、1957年(昭和32年)研究所長・技術部長となり。
松田 道雄(まつだ みちお、1908年10月26日 - 19… 松田 道雄(まつだ みちお、1908年10月26日 - 1998年6月1日)は、日本の医師・育児評論家・歴史家。著述家・マジック研究家の松田道弘は息子。 茨城県水海道町(現・常総市)に代々医師の家に生まれ、生後すぐ京都に移る。松田家の初代は千姫の侍医と伝わり、祖父は江戸で修行した蘭学医だった。父は京都で小児科医を開業していた。 京都市立明倫小学校、京都一中、旧制第三高等学校、京都帝国大学医学部卒業。大学時代は「社会科学研究会」に所属してマルクス主義の研究・運動を行うが、共産党に入党する決心はできなかった。1929年には太田武夫が京都の被差別部落でひらいていた診療所に手伝いに行っていた。 1932年に京都帝大医学部副手となり、父親も師事していた平井毓太郎らの影響で小児結核を研究対象とする。
四本 潔(よつもと きよし、1908年9月29日 - 198… 四本 潔(よつもと きよし、1908年9月29日 - 1981年4月14日)は、日本の実業家。川崎重工業社長を務めた。 兵庫県神戸市出身。1932年に京都帝国大学工学部を卒業し、川崎汽船に入社した。1966年に川崎航空機社長に就任し、川崎重工業副社長を経て、1969年11月に川崎重工業社長に就任した。1977年6月に会長に就任日本初のヘリコプターの生産を手掛けたり、アメリカのボーイング社との提携によるYX開発に携わるなど日本の航空機技術の発展に大きな功績を残した。 民間輸送機開発協会理事長、日本航空宇宙工業会会長なども歴任した。 1971年11月に藍綬褒章を受章。 1981年4月14日心筋梗塞のために死去。
宮沢 縦一(みやざわ じゅういち、1908年9月22日 - … 宮沢 縦一(みやざわ じゅういち、1908年9月22日 - 2000年7月8日)は、音楽評論家。東京都出身。京都帝国大学法学部を卒業した。在学中にエマヌエル・メッテルの指導を受ける。オペラ中心に解説、評論を行い、武蔵野音楽大学教授を務めた。1968年にNHK放送文化賞、1972年に紫綬褒章を受賞した。1987年に脳梗塞で倒れ、第一線を退いたが、以後も妻の秋子の口述筆記による「オペラシリーズ」などを出版した。
藤後 左右(とうご さゆう、1908年1月21日 - 199… 藤後 左右(とうご さゆう、1908年1月21日 - 1991年6月11日)は、鹿児島県出身の俳人、医師(医学博士)。本名惣兵衛。 東志布志村(現志布志町)生。志布志尋常高等小学校尋常科、旧制鹿児島県立志布志中学校(現鹿児島県立志布志高等学校)、旧制第七高等学校造士館理科を経て、1928年京都帝国大学医学部に入学し、京大三高俳句会に入会。『ホトトギス』に投句を始め、高浜虚子に師事。在学中の1930年に『ホトトギス』巻頭。1931年、「噴火口近くて霧が霧雨が」により『日本新名勝俳句』の帝国風景院賞(高浜虚子選)を獲得。1932年京大医学部卒業。1933年、平畑静塔らと「京大俳句」創刊。 大学卒業後は松尾内科を経て京都市立病院に勤務。
佐伯 千仭(さえき ちひろ、1907年(明治40年)12月1… 佐伯 千仭(さえき ちひろ、1907年(明治40年)12月11日 - 2006年(平成18年)9月1日)は、日本の法学者(刑法)。弁護士。熊本県出身。 熊本県上益城郡木山町生まれ。旧制熊本県立中学済々黌(現熊本県立済々黌高等学校)を経て、1927年旧制第五高等学校卒業。1930年、京都帝国大学法学部卒業後、同大学助手。1932年、同助教授。1933年の滝川事件の際に京都大学を離れ、立命館大学教授に就任するも、1934年に京都大学法学部助教授に復帰した。1941年、同大学教授。 戦後、自著『刑法総論』の国家主義的内容が問題となって教職不適格指定を受け、1947年に京都大学を追放された。同年、弁護士登録。
中井 徳次郎(中井 德次郎、なかい とくじろう、1907年(… 中井 徳次郎(中井 德次郎、なかい とくじろう、1907年(明治40年)5月29日 - 1991年(平成3年)12月18日)は、三重県出身の政治家。三重県上野市(現在の伊賀市)の市長だった。日本社会党に所属して衆議院議員を6期務めた。長男の中井洽も衆議院議員となった。 三重県立上野中学校、第八高等学校を経て、京都帝国大学法学部卒業後、高等文官試験合格。 満洲にわたり全満洲の電気供給事業を統制して電力・電燈の供給事業を独占的に行う満洲電業株式会社に入社。企画主計課長、文書課長を歴任した後、長男の洽が満洲で誕生した。終戦で三重県に引揚げた。 1947年(昭和22年)に全国で最初の日本社会党の公認候補者として三重県上野市長に当選し、以後2期、革新的な市政を行った。
長谷川 素逝(はせがわ そせい、1907年(明治40年)2月… 長谷川 素逝(はせがわ そせい、1907年(明治40年)2月2日 - 1946年(昭和21年)10月10日)は、日本の俳人。本名・直次郎。 父が大阪砲兵工廠の技師であったため大阪府で生まれたが本籍は三重県津市。1915年父の退職により津に戻り、津中学校、京都市の第三高等学校を経て京都帝国大学に入学。 俳句を田中王城、鈴鹿野風呂に師事し、1929年野風呂主宰の「京鹿子」同人。また高濱虚子にも師事し、1930年「ホトトギス」初入選。 後に平畑静塔らとともに「京大俳句」創刊に参加するも、1933年に志を異にして決別。同年、「阿漕」を創刊・主宰。1937年、砲兵少尉として応召。同年、病により内地送還。1939年、戦争を詠んだ句を集めた句集『砲車』を刊行。
江藤 智(えとう あきら、1907年(明治40年)1月19日… 江藤 智(えとう あきら、1907年(明治40年)1月19日 - 1982年(昭和57年)6月26日)は、日本の鉄道官僚、政治家。工学博士。位階は従三位、勲等は勲一等。 山口県下関市貴船町で陸軍将校・江藤鋪の二男として生まれた。文関尋常小学校(現下関市立文関小学校)、豊浦中学校(現山口県立豊浦高等学校)、旧制第三高等学校を経て、1929年(昭和4年)3月、京都帝国大学工学部土木工学科を卒業。同年4月、鉄道省に入省した。 函館保線事務所長、大臣官房幹線調査課勤務、広島鉄道局施設部長、本省施設局停車場課長、同施設局次長、札幌鉄道局長、兼北海道営業支配人、本省施設局長、日本国有鉄道理事などを歴任。 1952年(昭和27年)7月30日、『重力操車場の設計について』により京都大学から工学博士の学位を授与された。
吉田 留三郎(よしだ とめさぶろう、1906年11月3日 -… 吉田 留三郎(よしだ とめさぶろう、1906年11月3日 - 1978年5月25日)は、日本の評論家、上方芸能評論家。愛称は「留サン」。 大阪府大阪市出身。旧制大阪府立生野中学校、松江高等学校を経て、京都帝国大学文科卒業。 学生時代から寄席に通い詰め、戦前は吉本興業、戦後は松竹芸能に在籍。織田作之助、秋田實らとともに、上方芸能の発展に寄与した。 1977年、秋田が死去した後、秋田が育てた漫才師のミヤコ蝶々、夢路いとし・喜味こいしらに呼び掛け、玉造稲荷神社に記念碑を建設した。 1978年に死去。生前の業績を讃え、雑誌『上方芸能』第58号で「吉田留三郎の死と総合芸能時代の終焉」と題する特集が組まれた。
岩田 久二雄(いわた くにお、1906年(明治39年)5月2… 岩田 久二雄(いわた くにお、1906年(明治39年)5月25日 - 1994年(平成6年)11月29日)は、日本の昆虫学者・生態学者。 学位は理学博士(京都帝国大学、1944年)。 常木勝次とともに日本における昆虫の行動研究の草分けであり、ハチ類の習性研究をほぼ生涯の課題とした。高校生(旧制)時代から孤独性の狩り蜂や花蜂の習性研究を行い、特に狩り蜂の習性研究を発展させた。岩田の業績で特筆されるのは、個々の種の習性(行動 behaviour の連鎖たる habit )の記述のみでなく、繁殖習性の要素を5つの単位習性に分類し、種間の習性を普遍的に比較できる方法を提示したことであり、これによってこの分野は近代的な進化生態学・動物行動学に進む道筋の一つを得た。
見田 石介(みた せきすけ、1906年4月23日 - 197… 見田 石介(みた せきすけ、1906年4月23日 - 1975年8月9日)は、日本の哲学者・マルクス主義経済学者・ヘーゲル研究者。旧姓は甘粕、筆名「佐竹 恒有」、「瀬木 健」。 1906年、島根県津和野生まれ。1923年3月県立富山中学校4学年修了。1927年3月旧制第四高等学校理科卒業。1930年京都帝国大学文学部哲学科卒業。波多野精一に師事し、ヘーゲルの歴史哲学を研究した。 1930年4月に同大学大学院に進学し、同時に平安女学院講師に就職するが、1931年3月に大学院を退学。同年4月に平安女学院講師も退職する。1932年10月に創立された唯物論研究会に11月に参加。1933年機関誌『唯物論研究』に執筆開始。
工藤 信一良(くどう しんいちろう、1906年4月17日 -… 工藤 信一良(くどう しんいちろう、1906年4月17日 - 1981年7月23日)は、日本の実業家、パシフィック・リーグ元会長。京都府京都市出身。 1939年に京都帝国大学英文学科を卒業し、毎日新聞社に入社した。取締役、東京本社編集局長、副社長を歴任した後に、1968年1月には、相談役を務めた。1949年の大リーグのサンフランシスコ・シールズの招聘と毎日オリオンズの創設に尽力した。 1974年から1978年までにNHK経営委員会委員長を務め、1978年10月1日からパシフィック・リーグ会長に就任し、エキサイティング・リーグ「パ」のキャンペーンを繰り広げるなど、パ・リーグの観客動員の増加に力を入れた。
第23代 田部 長右衛門(たなべ ちょうえもん、1906年(… 第23代 田部 長右衛門(たなべ ちょうえもん、1906年(明治39年)3月25日 - 1979年(昭和54年)9月15日)は、日本の実業家、政治家、芸術家。衆議院議員。島根県知事。位階は従三位。勲一等瑞宝章。 奥出雲の山林大地主で「たたら御三家」の一つ「田部家」の第23代当主。名は朋之。号は松露亭。茶室「明々庵」の再建や「田部美術館」の設立など文化振興にも尽力した。竹下登元首相も彼が支援した政治家の一人である。 祖父と同じ部屋で寝起きしていたため、大ダンナ教育は早朝から始められた。夜も明けぬ暗いうちに起こされ、武士の出で養子だった祖父の長秋から毎日昔の武士気質を聞かせられたという。 若い頃、女優司葉子の父・庄司繁二郎に良いことも悪いこと(遊ぶこと)もしょっちゅう連れ歩いてもらって教わったこともあり司の姉妹揃って大いに可愛がった。
薮内 清(藪内 清、やぶうち きよし、1906年(明治39年… 薮内 清(藪内 清、やぶうち きよし、1906年(明治39年)2月12日 - 2000年(平成12年)6月2日)は、日本の天文学者・科学史学者(中国科学史)。京都大学名誉教授。初めは天文学の研究者であったが、新城新蔵の影響を受けて古代中国の暦法の研究へ転じた。 兵庫県神戸市生まれ。甲陽中学校、旧制大阪高等学校(現大阪大学)理科丙類を経て、昭和4年(1929年)京都帝国大学理学部宇宙物理学科卒業。 1929年、京都帝国大学副手、1935年(昭和10年)東方文化学院(現京都大学人文科学研究所)京都研究所嘱託、後に同研究員。1948年(昭和23年)京都大学研究員、1949年(昭和24年)同大人文科学研究所教授として、共同研究などにより中国科学史研究を世界的水準で進め高めた。
北原 覚雄(きたはら かくお、1906年1月15日 - 19… 北原 覚雄(きたはら かくお、1906年1月15日 - 1977年1月23日)は、日本の農芸化学者。専門は応用微生物学。 長野県上伊那郡長藤村(現・伊那市)生まれ。1923年旧制長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)卒業、1926年旧制大阪高等工業学校卒業、1929年京都帝国大学農学部農林化学科卒業。同年京都帝大講師、助教授となり、1940年農学博士取得。1947年京都大学食糧科学研究所教授、1953年東京大学応用微生物研究所第1研究部(現・東京大学定量生命科学研究所)主任教授に転じた。1963年同大学同研究所所長。 1966年に退官、東京農業大学教授となり、1976年から同大客員教授となった。
池田 亮一(いけだ りょういち、本名:三村亮一、1906年(… 池田 亮一(いけだ りょういち、本名:三村亮一、1906年(明治39年) - 1963年(昭和38年)6月14日)は日本のコミュニスト。しんぶん赤旗の編集長。共産党幹部。岡山県出身。 1906年(明治39年)、岡山県に生まれる。旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)を経て、1923年(大正12年)第六高等学校文科乙類に進学、1927年(昭和2年)、同校を卒業し、京都帝国大学経済学部へ進学した。1930年(昭和5年)に同大学を卒業した。京大時代に出会った共産主義に没頭し、卒業後は共産党員として活動した。 池田は、若いころからコミュニズムに共鳴し、早くからその活動に関与していた。日本の労働運動や左翼活動に身を投じ、共産党の機関紙『赤旗』の編集長を務めるなど、指導的な立場にあった。
高橋 松蔵(たかはし まつぞう、1905年〈明治38年〉12… 高橋 松蔵(たかはし まつぞう、1905年〈明治38年〉12月14日 - 1981年〈昭和56年〉1月31日)は、日本の外科医、内科医、小児科医。紫野診療所元所長、京都民医連第2代会長、ミノファーゲン製薬本舗元顧問。 新潟県出身。新潟師範学校附属小学校を経て、1922年(大正11年)3月に新潟中学校を4年で修了(四修)、1925年(大正14年)3月に新潟高等学校を卒業、1929年(昭和4年)3月に京都帝国大学医学部医学科を卒業。 1929年(昭和4年)4月に京都帝国大学医学部外科学教室副手に就任、1930年(昭和5年)9月15日に京都府宇治市の花屋敷浮舟園で結婚。 1931年(昭和6年)に京都府京都市左京区田中馬場町の養正隣保館に診療所を開設。
加古 祐二郎(かこ ゆうじろう、1905年12月2日 - 1… 加古 祐二郎(かこ ゆうじろう、1905年12月2日 - 1937年7月20日)は、日本の法学者(法哲学)。京都府与謝郡宮津町(現:宮津市)波路出身。京都帝国大学法学部講師、立命館大学法経学部教授。旧制甲南高等学校講師。 1905年(明治38年)12月2日、父・加古寅治、母・久子との間に、男3人女4人の七人兄弟の三男として生まれる。代々父方の家系は兵庫県加古郡平岡村一帯を治める郷士であったが、寅治が司法官の道を選んだため、一家が加古郡に定住することはなく、舞鶴、丸亀、堺、宮津、大阪などを転々をして過ごすこととなった。司法官としての寅治は、大阪控訴院部長まで務めている。 1923年(大正12年)、天王寺中学校を卒業した祐二郎は、旧制の甲南高等学校に第一期生として入学。
小野 勝年(おの かつとし、1905年12月1日 - 198… 小野 勝年(おの かつとし、1905年12月1日 - 1988年12月20日)は、日本の歴史家。専門は、東洋史・仏教史。 1905年、長野県上伊那郡小野村(現:辰野町)で生まれた。長野県松本中学校、松本高等学校文科乙類を経て、1927年に京都帝国大学文学部史学科に入学。在学中に2年間病気療養のために休学したが、1933年に卒業論文『両税制度の一考察を提出して卒業。京都帝国大学大学院へ進んだ。 同じく1933年、京都帝国大学文学部副手に採用(-1943年5月)。1937年より外務省在支特別研究員として中華民国北平市(現:北京市)に留学。華中・華北・東北・蒙古等の史蹟の調査を行い、中国美術・考古の研究を進めた。
矢田貝 顕造(やたがい けんぞう、1905年〈明治38年〉1… 矢田貝 顕造(やたがい けんぞう、1905年〈明治38年〉11月13日 - 1992年〈平成4年〉)は、日本の政治家。鳥取県西伯郡岸本町長。矢田貝家4代目。 鳥取県西伯郡大幡村大字上細見(のち西伯郡岸本町大字上細見、現・西伯郡伯耆町大字上細見)出身。矢田貝猶治の長男。1926年、松江高等学校文科乙類卒業。京都帝国大学法科に入学、1年在学し、中退する。 農業を営む。1967年に岸本町長に就任し、1976年に退任する。岸本町議会議員・同議長、教育委員会委員長、民生委員会会長、西部議長会会長などをつとめる。1985年に5代目淑朗の住む東京に転居する。 趣味は旅行、読書。座右の銘は、「禁酒禁煙」。処世観は、「誠実、断行、冷静、公平」。
田中 忠雄(たなか ただお、1905年9月13日 - 199… 田中 忠雄(たなか ただお、1905年9月13日 - 1991年5月30日)は、日本の保守評論家。 佐賀県出身。旧制佐賀中学、旧制佐賀高校を経て、1929年京都帝国大学文学部哲学科卒業。西田幾多郎に師事。京都市立第一工業学校で英語教師をするが(同僚に下村寅太郎、北川桃雄)、1937年主催誌『リアル』が治安維持法違反の嫌疑をかけられ二年投獄。その間澤木興道に傾倒、禅思想を研究。1939年上京し上智大学でカトリック大辞典を編纂。 戦後、保守思想に共鳴して生長の家関連の出版社である日本教文社に入社、編集局長。谷口雅春に帰依し、生長の家政治連合会長として政界で活動。1955年公職を離れる。1974年に自由民主党から第10回参院選に出馬するも落選。
平畑 静塔(ひらはた せいとう、1905年(明治38年)7月… 平畑 静塔(ひらはた せいとう、1905年(明治38年)7月5日 - 1997年(平成9年)9月11日)は、日本の俳人、精神科医。和歌山県出身。 本名は富次郎。海草郡和歌浦町(現・和歌山市)に生まれる。父は銀行員で静塔は三男。和歌山県立和歌山中学校、第三高等学校を経て、1931年に京都帝国大学医学部を卒業。大学時代は精神医学を専攻した。1932年結婚。1937年兵庫県立精神病院に赴任。1944年応召し南京陸軍病院に勤務。1946年京都帝大医学博士。戦後は大阪女子医学専門学校(現関西医科大学)教授、阪本病院(布施市 現・東大阪市)院長、京阪病院院長(守口市)、を歴任。1961年に宇都宮市に移り、宇都宮病院の顧問となった。
金井 勝助(かない かつすけ、1905年(明治38年)5月2… 金井 勝助(かない かつすけ、1905年(明治38年)5月27日 - 1986年(昭和61年)4月18日)は、日本の銀行家。荘内銀行頭取、会長を歴任した。 六十七銀行頭取を務めた金井成功の3男として、山形県西田川郡大宝寺村(現:鶴岡市)に生まれる。 旧制鶴岡中学(現:山形県立鶴岡南高等学校)卒業後、医師を目指し旧制第四高等学校に進むが、在学中に両親を亡くし、六十七銀行から強く入行を求められた。このため進路を変え、京都帝国大学経済学部に入学。卒業後、同行に入行した。 1941年4月に合併によって荘内銀行が発足する際には、合併事務の統括を担当。荘銀が誕生後には35歳にして支配人に就き、営業部長と庶務部長を兼務した。
川畑 愛義(かわばた あいよし、1905年5月8日 - 20… 川畑 愛義(かわばた あいよし、1905年5月8日 - 2005年1月23日)は、日本の公衆衛生学・健康学者。 鹿児島県南九州市旧川辺町出身。旧制鹿児島県立川辺中学校、旧制第七高等学校造士館理科乙類を経て、1931年京都帝国大学医学部卒業。1935年「晝光照明学の根本命題」で京大医学博士。京都市立衛生試験所、京都大学教養部助教授、教授、1970年定年退官、名誉教授。京都府衛生研究所長。京都栄養学院長。日本水質保健研究所所長。日本生活医学研究所所長。1977年勲三等旭日中綬章受章。長命を保ち多くの一般啓蒙書を著した。体育生理学の研究の一環として「どうすれば身長は伸ばせるか」を研究し、発育開発協会より通信教育講座「川畑式背伸び法」を開講した。
小葉田 淳(こばた あつし、1905年4月24日 - 200… 小葉田 淳(こばた あつし、1905年4月24日 - 2001年8月8日)は、日本の歴史学者(専攻は貨幣史・鉱山史・貿易史)。京都帝国大学名誉教授。日本学士院賞受賞者、学士院会員、文化功労者。 1905年、福井県坂井郡丸岡町(現在の坂井市)生まれ。1922年に福井中学校(現:福井県立藤島高等学校)、1925年に第四高等学校を卒業した。その後は京都帝国大学文学部史学科に進んだ。卒業論文「貨幣流通の發展」をまとめ、1928年に卒業。 卒業後は、堺市史編纂部嘱託となった。1930年、台北帝国大学文政学部講師に着任。後に同大学助教授に昇進。1944年に応召し、陸軍中尉に至った。戦後も1946年まで国立台湾大学副教授として同地にとどまったが、同年中に帰国した。
藪田 嘉一郎(やぶた かいちろう、1905年3月28日 - … 藪田 嘉一郎(やぶた かいちろう、1905年3月28日 - 1976年1月13日)は、日本の編集者・歴史家。出雲国風土記偽書説など大胆な新説を唱え、松本清張が師事した在野の古代史家として知られる。 京都市生まれ。1924年京都市立第一商業学校専修科卒業。1925年京都帝国大学文学部史学科選科入学、1928年中退。 1928年至誠堂に入社し、1932年飛鳥園、1933年日出芸林社と転籍し、書籍の編集者として活躍する。1934年株式会社便利堂に入社し、1950年同社取締役に就任。1951年に退社。同年、自ら綜芸舎(綜芸種智院に因む)を創立する。この間、文献、美術、石造文化財などの史資料を使った古代史研究や能楽研究、易学研究の著作・論文を公刊した。
奥平 英雄(おくだいら ひでお、1905年 -2000年 )… 奥平 英雄(おくだいら ひでお、1905年 -2000年 )は、日本ほ日本美術史家・日本美術評論家。 1905年、広島県呉市で生まれた。江田島の海軍兵学校への登竜門としても有名な呉第一中学校(現広島県立呉三津田高等学校)を経て、旧制広島高等学校に1期生として入学。卒業後、京都帝国大学哲学科に進学したが中退し、東京帝国大学文学部美学科美術史に転じた。1932年に東京帝国大学文学部を卒業し、同大学大学院に進んだ。 大学院修了後、東京国立博物館に技官として勤務。在任中は資料課長を務めた。東京国立博物館を退任後、名誉館員。その後は和光大学教授、共立女子大学教授を務め、同大学文芸学部の設立に携わった。2000年に死去。