谷口 千吉(たにぐち せんきち、1912年〈明治45年〉2月… 谷口 千吉(たにぐち せんきち、1912年〈明治45年〉2月19日 - 2007年〈平成19年〉10月29日)は、日本の映画監督。妻は女優の八千草薫。東京府南葛飾郡寺島村(現在の東京都墨田区)出身。 東京府立第四中学校(現在の東京都立戸山高等学校)卒業。早稲田大学文学部英文科在学中は、千田是也、東野英治郎と演劇活動を行い[要出典]左翼系新劇の演出家を目指すも弾圧を受けて[要出典]1930年に中退。1933年に助監督としてP.C.L.(東宝の前身)に入社する。山本嘉次郎、島津保次郎らの助監督を務める。同期には、亀井文夫、本多猪四郎がいた。ともに山本の助監督についていた黒澤明、本多は親友である。 1947年、山岳アクション映画『銀嶺の果て』で監督デビュー。
阿部 功(あべ いさお、1912年2月18日 - 1980年… 阿部 功(あべ いさお、1912年2月18日 - 1980年2月15日)は、日本の投擲競技選手。 1936年ベルリンオリンピックにハンマー投で出場。 北海道札幌郡円山町(現在の札幌市中央区)生まれ。札幌師範学校附属小学校、北海中学校(現在の北海高等学校)に進む。北海中学校在学中には、砲丸投で北海道選手権を獲得。 中央大学に進学、在学中に1933年・1934年と日本陸上競技選手権大会ハンマー投種目で優勝。1934年9月9日には日本記録となる48.98mを投擲し、同年10月10日には49.10mに日本記録を更新した。 中央大学を卒業し、1936年ベルリンオリンピック出場時には鉄道省所属。 第二次世界大戦後、1947年の日本陸上競技選手権大会で3度目の優勝を果たす。
長瀬 喜伴(ながせ よしとも / きはん、1912年2月18… 長瀬 喜伴(ながせ よしとも / きはん、1912年2月18日 - 1966年6月16日)は、日本の脚本家。 東京府東京市下谷区(現・東京都台東区)生まれ。東京府立第一商業学校を経て横浜専門学校商科を卒業。 1935年に松竹の蒲田脚本研究所に第4期生として入所し、1937年に松竹大船脚本部に入って斎藤良輔のもとで助手を務めた後、1938年に清水宏監督「新家庭暦」で一本立ちの脚本家となる。以後、家庭劇的なドラマの展開を基調とした“大船調”メロドラマに健筆をふるい、娯楽作家として活躍した。 太平洋戦争末期の1944年に近衛連隊に入隊し、1945年に小笠原諸島の父島で終戦を迎えた。 1954年にフリーとなり、東宝、大映、東京映画などで娯楽ものを中心に多数の映画で脚本を担当したほか、親友の新藤兼人が主宰する近代映画協会にも参加し、会計事務を担当するなど、協力者として会の活動を支えた。
森本 一正(もりもと かつまさ、1912年2月18日 - 1… 森本 一正(もりもと かつまさ、1912年2月18日 - 1986年8月28日)は、日本の実業家。三菱倉庫の会長、米国三菱倉庫の社長などを歴任した。 東京都出身。1934年に彦根高等商業学校(現:滋賀大学経済学部)を卒業し、同年4月に共同運輸(現:日本郵船)へ入社した。1941年12月、三菱倉庫に転じた。 三菱倉庫では本店を中心に営業・業務部門を歩み、1955年11月に本店業務課長、1961年11月に業務部長となった。1965年5月に取締役、1968年5月に常務取締役に選任された。 常務在任中には、三菱倉庫の国際物流事業にも関与した。1970年には、米国西海岸のロサンゼルスを拠点とする International Warehouse Corporation(インターナショナル・ウエアハウス) の社長に就任・兼任した。
東富士夫(あずまふじお、1912年2月18日 - 1991年… 東富士夫(あずまふじお、1912年2月18日 - 1991年1月1日)は昭和時代の寄席芸人、曲芸師。 静岡県下田市出身。18歳で針金渡り名人の東冨士子に弟子入りし、富士坊を名乗る。1935年、東冨士夫に改名。出征を経て、1946年に復員。その後は駐留軍のキャンプ回りも経験。寄席出演時には撥の曲、皿回し、帽子回しなどの他、足で樽を回す曲芸などを披露した。 この項目は、お笑いタレント・コメディアン(これらの関連記事を含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:お笑い/PJ:お笑い)。
権 仲敦(クォン・ジュンドン、朝鮮語: 권중돈/權仲敦、19… 権 仲敦(クォン・ジュンドン、朝鮮語: 권중돈/權仲敦、1912年2月17日または11月17日 - 1983年または1985年6月27日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の公務員、政治家。第10代国防部長官、第2・3・4・5・8代韓国国会議員、国家保衛立法会議議員を歴任した。 本貫は安東権氏(朝鮮語版)。日本名は権田仲敦。 日本統治時代の慶尚北道永川郡(現・永川市)出身。普成高等普通学校(現・普成高等学校(朝鮮語版))を経て、1940年早稲田大学政治経済学部卒。慶尚北道労働局長、永川穀物株式会社理事、初代総選挙慶尚北道選挙委員、民主党慶尚北道党委員長・副議長、憲政同志会宣伝部長、民主党政権の国防部長官(通算第10代、1960年9月12日~1961年1月30日)、新民党中央常任委員会議長(1961年)、民政党中央委員会議長(1964年)・全党大会議長、民衆党指導委員(1967年)、新民党指導委員(1969年)・鍾路区党委員長(1972年)・全党大会議長・政務委員(1973年)、国家保衛立法会議議員(1980年)を務めた。
市川 男女之助(いちかわ おめのすけ、本名:河島 武雄(かわ… 市川 男女之助(いちかわ おめのすけ、本名:河島 武雄(かわしま たけお)1912年2月17日 - 1992年5月6日)は、日本の俳優である。テレビ「暴れん坊将軍」などに出演。社団法人映像コンテンツ権利処理機構においては不明権利者とされている。
渋谷 邦蔵(澁谷 邦蔵、しぶや くにぞう、1912年(明治4… 渋谷 邦蔵(澁谷 邦蔵、しぶや くにぞう、1912年(明治45年)2月16日 - 2002年(平成14年)2月14日)は、日本の地方政治家。旧清瀬町長から清瀬市への市制施行に伴って初代市長となり、36年間首長を務めた。位階は正五位。 東京府出身。埼玉県所沢市の所沢実業学校(現・埼玉県立所沢高等学校)を卒業。 1950年清瀬村議会議員(のち町制施行により同町議会議員)となり、同議長、町教育委員を務めた。 1959年5月、46歳で清瀬町長に就任。1970年に市制執行に伴い、初代市長となる。市制施行直前の『町報きよせ』5月15日号には以下の所信を記している。 1995年4月、82歳で政治家を引退し、星野繁に市長を譲った。
石丸 静雄(いしまる しずお、1912年2月16日 - 19… 石丸 静雄(いしまる しずお、1912年2月16日 - 1988年5月14日)は、日本のドイツ文学者、宇都宮大学名誉教授。 佐賀県神埼郡神埼町生まれ。1937年東京帝国大学独文科卒。1952年宇都宮大学教授、1975年定年退官、名誉教授。1988年、胃癌のため死去。 ドイツ・ロマン派を専門とした。
伊藤 眞次(いとう しんじ、1912年2月16日 - 200… 伊藤 眞次(いとう しんじ、1912年2月16日 - 2003年12月10日)は、三重県宇治山田市(現伊勢市)出身の北海道大学名誉教授。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
佐藤 碧子(さとう みどりこ、1912年2月15日 - 20… 佐藤 碧子(さとう みどりこ、1912年2月15日 - 2008年7月5日)は、日本の作家。小磯なつ子の筆名を持つ。また佐藤みどりと表記し、「碧子」で「みどり」と読ませたりする。菊池寛の愛人でもあり秘書、代作を行った。 本名・石井光枝。東京市下谷区龍泉寺生まれ。精華高等女学校卒。文藝春秋社に入社、菊池寛の秘書を務める。小説も書き、またその代作を行い『新道』などは佐藤の作である。川端康成にもかわいがられた。六興出版社長となる石井英之助と結婚。戦後1950年小磯なつ子の筆名で「雪化粧」により直木賞候補。1961年『人間・菊池寛』を刊行。 猪瀬直樹が菊池伝『こころの王国 菊池寛と文藝春秋の誕生』を『文學界』2002年4月号から2003年12月号まで連載中、佐藤の甥(姉の息子)である矢崎泰久に『人間・菊池寛』からの「剽窃であり、盗作とも言える」と言われたこともあって、連載途中で猪瀬は佐藤との対談を行って協力を得ていたことを明らかにした。
森川 信(もりかわ しん、1912年(明治45年)2月14日… 森川 信(もりかわ しん、1912年(明治45年)2月14日 - 1972年(昭和47年)3月26日)は、日本の俳優およびコメディアン。本名は森川 義信。神奈川県横浜市南区出身。横浜市立商業学校卒業。元妻は水戸光子。 商業学校卒業後、銀行に勤める傍ら、役者になるために演劇学校へ通う。 1931年、遠戚にあたる俳優・静香八郎と共に俳優の道へ進み、1932年に静香主演の『肉弾三勇士』での死体役でデビュー。 その後、一座を組んで浅草で芝居を試みるが、浅草演劇界ではエノケンとロッパが君臨していたため、競合を余儀なくされた。 その後、大阪、名古屋、京都、博多など各地を転々とし、この頃に清水金一、田崎潤、淀橋太郎などを知った。
原田 東岷(はらだ とうみん、1912年2月14日 - 19… 原田 東岷(はらだ とうみん、1912年2月14日 - 1999年6月25日)は、日本の外科医、平和運動家。広島県広島市出身。広島市名誉市民。 旧制・広島県立広島第一中学校、旧制・広島高等学校を経て、東京慈恵会医科大学を卒業。第二次世界大戦中、軍医として中国大陸を転戦する。1946年(昭和21年)に広島へ戻り、原子爆弾投下直後の同市で爆心地にバラックの外科病院を作り、治療を開始する。被爆によるケロイド治療や原爆医療法の制定で中心的な役割を担うなど被爆者医療に尽力した。外科医としての活動の傍ら、平和運動に参加。1955年(昭和30年)体にケロイドの残る「原爆乙女」に付き添う形で訪米。渡米治療に道を開くとともに、原爆の惨禍を世界に伝えた。
田中順二(たなか じゅんじ、1912年2月14日 - 199… 田中順二(たなか じゅんじ、1912年2月14日 - 1997年1月16日)は、日本の歌人、国文学者。 東京深川区生まれ。京都帝国大学国文科に入学し、「短歌草原」「香蘭」(村野次郎主宰)を経て、1933年(昭和8年)より吉澤義則が立ち上げた歌誌『ハハキギ』同人の編集に参画。なお吉澤没後、1962年より『ハハキギ』を引き継いで主宰した。 1936年(昭和11年)京都帝国大学国文科卒。卒業後、不況のため就職難先の確保に苦労したが、滋賀県立膳所中学校で教員を4年間務めた後、京都府立第一中学校で教員を務めた。この際、『ハハキギ』で交流があった日本文学研究者、里井陸郎に借家を用意してもらっている。その後、同志社女子大学教授、1982年(昭和57年)定年、奈良大学教授。
穴水 清彦(あなみず きよひこ、1912年2月14日 - 1… 穴水 清彦(あなみず きよひこ、1912年2月14日 - 1979年9月29日)は、日本の経営者。相模鉄道社長を務めた。父親は京王電気軌道の社長を務めた穴水熊雄。 山梨県出身。1935年に慶應義塾大学経済学部を卒業。 北海道配電監事を経て、1944年6月に東京急行電鉄取締役と相模鉄道常務に就任し、1947年6月に相模鉄道専務、1962年9月に相模鉄道副社長を経て、1965年11月に相模鉄道社長に就任。1976年6月には会長に就任した。 1970年6月に運輸大臣表彰を受け、1968年に紺綬褒章を受章し、1974年に藍綬褒章を受章。 1979年9月29日、腎不全のために死去。67歳没。墓所は多磨霊園(10-1-7-2)。
福田 三枝(ふくだ みえ、1912年〈明治45年〉2月14日… 福田 三枝(ふくだ みえ、1912年〈明治45年〉2月14日 - 2013年〈平成25年〉9月16日)は、日本の第67代内閣総理大臣である福田赳夫の妻。第91代内閣総理大臣である福田康夫の母。孫は衆議院議員の福田達夫。 群馬県吾妻郡原町(現:東吾妻町)出身。元大審院判事の新井善教の孫娘で、裁判官であった新井文雄の三女として生まれる。1933年(昭和8年)に大蔵省で勤務していた福田赳夫と結婚。ふたりの馴初めのエピソードは公にはされていないが、一説には赳夫が東京帝国大学時代に出会ったとされる。 1976年(昭和51年)12月24日から1978年(昭和53年)12月7日までのおよそ2年間、赳夫が内閣総理大臣に就任したため、ファーストレディとして活動を行った。
武田 泰淳(たけだ たいじゅん、1912年〈明治45年〉2月… 武田 泰淳(たけだ たいじゅん、1912年〈明治45年〉2月12日 - 1976年〈昭和51年〉10月5日)は、日本の小説家。浄土宗僧侶。大正大学教授。幼名覚。 第一次戦後派を代表する作家で、戦前期は左翼運動から離脱後、泰淳と改名。得度した。その後大陸(中華民国)に出征。除隊後、評伝『司馬遷』を経て小説に転じ、『蝮のすゑ』で認められた。その後も思想的重量感を持った作品を発表し、幾屈折もする人間生存の諸相を描き出した。 妻は随筆家の武田百合子、娘は写真家の武田花。兄は水産生物学者・東大農学部教授の大島泰雄。伯父に僧侶・仏教学者・社会事業家の渡辺海旭がいる。 東京市本郷区(現在の東京都文京区本郷)にある浄土宗の寺に大島泰信の三男として生まれる。
永山 時雄(ながやま ときお、1912年〈明治45年〉2月1… 永山 時雄(ながやま ときお、1912年〈明治45年〉2月11日 - 1999年〈平成11年〉7月11日)は、神奈川県出身の官僚。旧通商産業省初代大臣官房長。位階は従三位。 神奈川県立小田原中学校(現:神奈川県立小田原高等学校)、第一高等学校 (旧制) を経て、1935年に東京帝国大学法学部卒業。同年、商工省入省。入省同期に、斎藤正年(特許庁長官)、小出栄一(共石社長、経済企画事務次官)、鹿子木昇(アジア経済研究所所長、大阪通産局長)、小山雄二(中小企業庁長官)、油谷精夫(東京通産局長)など。 戦後、商工省外局の貿易庁に、時の貿易庁長官に就任した白洲次郎が貿易庁と共に商工省も解体し新制・通商産業省へと改組する構想を松田太郎商工次官が掴み、当初その動向を監視するため、当時商工省物資調整課長であった永山が筆頭課長である貿易課長として送り込まれた。
丸木 俊(まるき とし、1912年2月11日 - 2000年… 丸木 俊(まるき とし、1912年2月11日 - 2000年1月13日)は洋画家である。
塚本 倉人(つかもと くらと、1912年〈明治45年〉2月1… 塚本 倉人(つかもと くらと、1912年〈明治45年〉2月10日 - 2001年〈平成13年〉5月11日)は、日本の実業家。政治家。元福岡県甘木市(現・朝倉市)長(5期)。位階は正五位。 福岡県出身。1930年(昭和5年)、甘木町立実業専修学校(現・福岡県立朝倉高等学校)卒。精米業を営み、後に合名会社化し、塚本食糧工業所を興す。1955年(昭和30年)に甘木市議会議員に初当選した。1963年(昭和38年)5月7日から1964年(昭和39年)10月8日まで、第6代市議会議長を務めた。同年、甘木市長に当選する。同年11月から1972年(昭和47年)11月まで2期務めた。 1976年(昭和51年)の甘木市長選挙に立候補して、保守系無所属の新人を破って返り咲きを果たした。
小堀 清一(こぼり せいいち、1912年2月10日 - 19… 小堀 清一(こぼり せいいち、1912年2月10日 - 1996年2月2日)は、将棋棋士。九段。神奈川県横浜市出身。金子金五郎九段門下。
双葉山 定次(ふたばやま さだじ、1912年2月9日 - 1… 双葉山 定次(ふたばやま さだじ、1912年2月9日 - 1968年12月16日)は、大分県宇佐郡天津村布津部(現:大分県宇佐市下庄)出身で立浪部屋に所属した大相撲力士。第35代横綱。位階は従四位。本名は龝吉 定次(あきよし さだじ)。 現在も破られていない69連勝の大相撲記録を樹立し、太平洋戦争前の日本で国民的人気を得た。横綱在任時代に双葉山相撲道場を創立して指導者(親方)となり後進力士を育て時津風一門を形成、日本相撲協会理事長として運営の改善にも取り組んだ。 1912年2月9日に大分県宇佐郡天津村布津部(現:大分県宇佐市下庄)で生まれる。5歳の時に吹き矢が自身の右目に直撃して負傷し、右目が半失明状態になった。
愛宕 松男(おたぎ まつお、1912年2月8日 - 2004… 愛宕 松男(おたぎ まつお、1912年2月8日 - 2004年6月17日)は、東洋史学者、東北大学名誉教授。 1912年、京都府生まれ。1935年、京都帝国大学文学部史学科を卒業。1951年より東北大学文学部教授。1959年に『キタイ部族制社会の研究』を京都大学に提出して文学博士。1974年に定年退官し名誉教授。 退官後は京都女子大学教授となった。2004年6月17日、肺炎のため死去。子息の愛宕元も東洋史学者(京都大学名誉教授)だった。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
藪内 芳彦(やぶうち よしひこ、1912年2月8日 - 19… 藪内 芳彦(やぶうち よしひこ、1912年2月8日 - 1980年3月13日)は、人文地理学者。 和歌山県生まれ。1935年京都帝国大学文学部地理学科卒。和歌山師範学校教授、和歌山大学教育学部助教授、金沢大学法文学部助教授、教授、大阪市立大学教授。1976年定年退官、名誉教授、関西大学教授。ポリネシアの島嶼などを研究した。 1962年京都大学で文学博士。論文の題は「漁村の生態 : 人物地理学的研究」。
高島 三次(たかしま さんじ、1912年2月7日 - )は、… 高島 三次(たかしま さんじ、1912年2月7日 - )は、日本の実業家。ワーナー・ブラザース映画会社大阪支社長、極東支配人などを務めた。戦前から戦後にかけて、日本における映画文化・外国映画配給の発展に大きく貢献した。位階は従七位、勲六等授与。 大阪市東淀川区出身。1932年、彦根高等商業学校(滋賀大学経済学部)を卒業した。 1933年、メトロ・ゴールドウイン・メーヤー(現:Amazon MGMスタジオ)の大阪支社に入社し、映画業界での経歴を開始した。その後、1941年に東宝映画(現:東宝)関西支社へ転じた。1943年には映画配給社に勤務し、関西支社および南方支社で活動した。戦時中はシンガポールを中心とする南方地域で、現地向け映画配給に関わったとされる。
三浦 靱郎(みうら ゆきお、1912年2月5日 - 1997… 三浦 靱郎(みうら ゆきお、1912年2月5日 - 1997年5月20日)は、日本のドイツ文学者。 東京出身。1934年東京帝国大学文学部独文科卒。1937年第七高等学校教授、陸軍教授、第五高等学校教授、法政大学教授、東京学芸大学教授。1975年日本工業大学教授、1978年学長。1987年勲二等瑞宝章受勲。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
古沢 岩美(ふるさわ いわみ、1912年(明治45年)2月5… 古沢 岩美(ふるさわ いわみ、1912年(明治45年)2月5日 - 2000年(平成12年)4月15日)は、日本の洋画家、前衛美術家。 1920年代から1940年代にかけて、池袋周辺に集う芸術家たちのアトリエ村「池袋モンパルナス」に参加した一人として知られている。 佐賀県三養基郡旭村(現・鳥栖市)出身。1927年に久留米商業学校中退。当時は日本統治下だった朝鮮半島の大邱に渡った後、翌1928年に画家を志して上京。岡田三郎助に師事した。豊島区で画家が集まっていた長崎アトリエ村に移って交流を広げるとともに、前衛美術を志向するようになった。1938年に「創紀美術協会」、1939年には「美術文化協会」創立に参加。
中村 哲(なかむら あきら、1912年2月4日 - 2003… 中村 哲(なかむら あきら、1912年2月4日 - 2003年8月10日)は、日本の政治学者、憲法学者。法政大学総長、参議院議員。父方の叔母に竹越光代(婦人運動家、歴史家・政治家竹越与三郎の妻)がいる。 東京府出身。府立三中、旧制成城高等学校(現成城大学)を経て、1934年に東京帝国大学法学部卒業(美濃部達吉門下生)。台北帝国大学文政学部の助教授・教授を経て、戦後我妻栄の引きで法政大学法学部教授に。法学部長・常務理事を歴任し、1968年に法政大学総長となった。 総長就任時は学生運動が激しく、学内で内ゲバ殺人事件(海老原事件)が発生するなど危機的な状況にあったが、警官隊の学内導入をほのめかした秦野章警視総監と対立しながらも大衆団交を繰り返し、終に警官隊を導入することなく事態を乗り切った。
横山 正克(よこやま まさかつ、1912年〈明治45年〉2月… 横山 正克(よこやま まさかつ、1912年〈明治45年〉2月4日 - 没年不詳)は日本の実業家。島根県安来市出身。 政治家の亀井久興の父親亀井茲建とは中学の同窓、高等学校で同級生だった。また亀井久興の後援会「明るい日本をつくる会」の会長を務めた。また、娘・陽子は亀井久興の妻となった。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
檀 一雄(だん かずお、1912年〈明治45年〉2月3日 -… 檀 一雄(だん かずお、1912年〈明治45年〉2月3日 - 1976年〈昭和51年〉1月2日)は、日本の小説家、作詞家、料理家。 私小説や歴史小説、料理の本などで知られる。「最後の無頼派」作家・文士ともいわれた。また、西遊記の日本語抄訳もある(東京創元社ほか)。 代表作は、律子夫人の没後に描いた『リツ子 その愛』『リツ子 その死』、時代娯楽作品も人気があり『真説石川五右衛門』(1950年、第24回直木賞受賞)、『夕日と拳銃』など、また20年以上に亘り、書き継がれライフワークとなった遺作『火宅の人』(1986年、東映で異父弟のプロデューサーの高岩淡の企画、深作欣二監督、緒形拳主演により映画化)など。
小形 研三(おがた けんぞう、1912年2月3日 - 198… 小形 研三(おがた けんぞう、1912年2月3日 - 1988年2月13日)は、日本の造園家、作庭家。 作庭、公共造園の設計、海外への日本庭園文化の紹介、後進の教育、育成などなど、その生涯を造園分野の向上に捧ぐ。社団法人日本造園コンサルタント協会会長としては広く造園学の目的とする住環境の向上に貢献する。 自然観察から養われた作庭の発想から「自然写景式庭園」に多大の関心を持ち、飯田十基の門下となる。作庭にあたり創意工夫による岩、水、樹木などによる造景美には、伝統庭園技術の研さんを積みながら、新に現代の庭園のあり方を示され今後の指標となっていく。これらの新しい傾向の作庭活動は、後継者の養成にも貢献する。
安西 正道(あんざい まさみち、1912年 <大正15年> … 安西 正道(あんざい まさみち、1912年 <大正15年> 2月3日 - 1990年 <平成2年> 9月10日)は、日本の官僚、実業家。元全日本空輸社長。千葉県出身。位階は従三位。
西沢 一俊(にしざわ かずとし、1912年2月3日 - 20… 西沢 一俊(にしざわ かずとし、1912年2月3日 - 2012年10月10日)は、日本の化学者、東京教育大学名誉教授。 長野県更級郡布施村(現・長野市)出身。長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)を経て、1933年東京高等師範学校三年修了、1936年東京文理科大学生物学科植物学専攻卒、1948年「Studien uber die enzymatische Spaltung von Galaktosiden (ガラクトシドの酵素分解に関する研究) 」」で理学博士。 1936年東京文理科大学副手、1945年上田繊維専門学校講師、1949年信州大学繊維学部助教授、1957年から1959年まで州立アラバマ大学に留学し糖質化学を学ぶ。
金 源(キム・ウォン、朝鮮語: 김원、1912年2月2日 -… 金 源(キム・ウォン、朝鮮語: 김원、1912年2月2日 - 1994年8月5日)は、大韓民国の洋画家。日本統治時代の朝鮮平安南道平壌出身。 1937年、日本の帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)西洋画科を卒業し、帰国後は咸興のヨンセン中学校で教員を務めた。1946年から梨花女子大学校教授、1954年以後からは弘益大学校教授を務めた。1960年からは第3次国際美術教育協会に韓国代表として参加し、約4ヶ月間欧米美術界を視察した。 モク会会員、国展審査委員を歴任し、印象主義的な写実化風の風景画を多く描いた。1994年8月5日、持病により82歳で死去した。
安田 優(やすだ ゆたか、1912年(明治45年)2月1日 … 安田 優(やすだ ゆたか、1912年(明治45年)2月1日 - 1936年(昭和11年)7月12日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍砲兵少尉。陸軍砲工学校学生。二・二六事件に参加して他の将校らと内大臣斎藤實、教育総監渡辺錠太郎を相次いで襲撃、殺害し、事件後処刑された。 安田のほか、中尉坂井直、少尉高橋太郎、少尉麦屋清済が率いる150人の襲撃部隊が、東京府東京市四谷区仲町三丁目(現東京都新宿区若葉一丁目)の内大臣斎藤実の私邸を急襲。斎藤を機関銃で殺害した。 このあと、 安田は高橋少尉とともに30人を連れ、上荻窪の渡辺錠太郎教育総監私邸へ向かい、 渡辺を射殺。後の安田の供述によれば、本来、渡辺に関しては殺害する意図は無く、陸軍大臣官邸まで連行するのが目的であったという。
井手 宣通(いで のぶみち、1912年〈明治45年〉2月1日… 井手 宣通(いで のぶみち、1912年〈明治45年〉2月1日 - 1993年〈平成5年〉2月1日)は、日本の洋画家。熊本県上益城郡御船町出身。 帝展、新文展、日展、光風会などを中心に活躍。その後、自ら「日洋会」を組織し、戦後の洋画壇の刷新と、日本人の感性による新たな具象絵画の可能性を追求した。 熊本市現代美術館に、井手宣通記念ギャラリーがある。
比田井 南谷(ひだい なんこく、英語: Nankoku Hi… 比田井 南谷(ひだい なんこく、英語: Nankoku Hidai)、1912年〈明治45年〉2月1日 - 1999年〈平成11年〉10月15日)は書家。本名は漸(すすむ)。神奈川県出身。 父・比田井天来、母・小琴の次男として生まれ、天来没後は書道研究機関「書学院」を継承し、碑帖の管理や出版部の再開に努める。書学院長・毎日書道展名誉会員・書宗院顧問・独立書入団客員などを歴任し、プリンストン大学・オックスフォード大学など、約20の大学で書道史を講演する。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
桝本 セツ(ますもと せつ、1912年2月 - 没年不明)は… 桝本 セツ(ますもと せつ、1912年2月 - 没年不明)は、日本のロシア語翻訳家、政治運動家。岡邦雄の愛人として知られる。名前は節子とも。 長崎県生まれ。父は造船技師の桝本卯平、母は長崎の料亭で働いており、3歳のときに死別。日本女子大学附属女学校卒、東京女子高等師範学校中退。朝鮮京城で2年間ロシア語を学び帰国。唯物論研究会に入り、1936年に妻のある岡邦雄と恋におち、アパートに同棲。 1938年、岡とともに治安維持法違反で検挙される。1942年に男児、1944年に女児を生む。1946年、岡と日本共産党に入党。1957年に離党。1971年岡が死去する。
川上 景司(かわかみ けいじ、1912年〈明治45年〉2月 … 川上 景司(かわかみ けいじ、1912年〈明治45年〉2月 - 1973年〈昭和48年〉6月2日)は、日本の撮影技師、特撮監督。東京府東京市小石川区(現東京都文京区小石川)出身。 1931年(昭和6年)、東京府立工芸学校(現:東京都立工芸高等学校)を卒業し、文部省文書課に入省する。その後、社会教育映画課に異動し、映画キャメラマンとなる。 1939年(昭和14年)10月27日を以て、東宝に見習い入社し、円谷英二を課長とする特殊技術課に配属される。特殊技術課には同期として、川上に先駆けて6月に鷺巣富雄(うしおそうじ)が入社している。 1940年(昭和15年)、『燃ゆる大空』(阿部豊監督)に参加。 1941年(昭和16年)、特殊技術課内の、三谷栄三を主任とする合成作画係に異動。
津島 美知子(つしま みちこ、1912年(明治45年)1月3… 津島 美知子(つしま みちこ、1912年(明治45年)1月31日 - 1997年(平成9年)2月1日)は、小説家・太宰治の妻。旧姓:石原。 太宰の作品に登場することも多い。「春の盗賊」「薄明」「親友交歓」「女神」「父」「美男子と煙草」「家庭の幸福」ほか、「十二月八日」では一人称で登場する。 石原初太郎・くらの四女として島根県那賀郡浜田町(現:浜田市)に生まれる。父の初太郎は山梨県中巨摩郡松島村大下条(現:甲斐市大下条)出身の地質学者で、当時島根県の中学校で校長を務めていた。 山形県の山形県立米沢中学校校長や広島県の広島高等師範学校地質学教室講師を務めた父の転勤に伴い、各地を転々と移り住んだが、1922年(大正11年)、父祖の地である山梨県甲府市水門町29番地(現・山梨県甲府市朝日一丁目)に戻る。
南 俊夫(みなみ としお、1912年〈明治45年〉1月31日… 南 俊夫(みなみ としお、1912年〈明治45年〉1月31日 - 没年不明)は、香川県綾歌郡出身の実業家、政治運動家。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。 この項目は、政治に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 政治学/ウィキプロジェクト 政治)。
川上 源一(かわかみ げんいち、1912年1月30日 - 2… 川上 源一(かわかみ げんいち、1912年1月30日 - 2002年5月25日)は、日本の実業家。日本楽器製造株式会社(現ヤマハ株式会社)の第4代社長で、ヤマハ発動機株式会社創業者でもある。 本業の楽器製造に加えてオートバイ、スポーツ用品、レクリエーションなど各種事業を創業し、社業の業績向上と多角化に大きな成果を挙げてヤマハ中興の祖ともいわれる。 音楽や楽器演奏を身近にするためにヤマハ音楽教室を全国で展開して音楽教育の裾野を広げるほかに、『ヤマハポピュラーソングコンテスト』や『世界歌謡祭』などを開催して、1970年代から80年代のフォークソングとロックミュージックに功績している。特に、アマチュア時代の中島みゆきを見いだし、浜松市にあった川上の自宅に中島を呼び出し「あなたはすごい詞を書く。
小此木 真三郎(おこのぎ しんざぶろう、1912年1月30日… 小此木 真三郎(おこのぎ しんざぶろう、1912年1月30日 - 1994年8月9日)は、西洋史学者。美術界のパトロンとして知られる久保貞次郎の弟。 栃木県足利市の金物店の三男として生まれる。1934年東京帝国大学文学部西洋史学科卒。羽仁五郎に師事。卒業後会社員となり、1938年に兄の欧米視察に同行。1941年応召、即日帰郷。文化学院講師、世界経済調査会嘱託、1952年静岡大学文理学部助教授、1959年法経学部教授、1975年定年退官、名誉教授、日本福祉大学教授。1982年退職。
柳原 敏雄(やなぎはら としお、1912年〈明治45年〉1月… 柳原 敏雄(やなぎはら としお、1912年〈明治45年〉1月29日 - 1991年〈平成3年〉2月2日)は、日本の料理研究家。江戸懐石近茶流家元。旧姓:高橋。 群馬県前橋市出身。父・高橋喜代次は香山と号した俳人だった。旧制前橋中学校(現群馬県立前橋高等学校)卒業。1931年に東京農業大学を卒業。 割烹緑風閣を経営後、江戸懐石の近茶料理を体系づけ、1946年近茶流を興して宗家となる。東京赤坂で柳原料理教室を主宰。息子は第2代宗家の柳原一成、娘は作家の柳原一日。
飯田 忠雄(いいだ ただお、1912年1月28日 - 201… 飯田 忠雄(いいだ ただお、1912年1月28日 - 2012年1月16日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期、公明党)、参議院議員(1期)、神戸学院大学教授。俳人。 愛知県名古屋市出身。1939年京都帝国大学法学部卒。同年満洲に渡り、総務庁協和会に勤める。1946年帰国し、翌年運輸省に入る。内閣調査室に出向、海上保安庁に戻ってからは、海上保安大学校の首席教授を最後に1969年に退職し神戸学院大学教授に就任した。 1974年の兵庫県知事選に公明党推薦で立候補するが落選、1976年の総選挙において兵庫3区から公明党公認で立候補して当選し2期務める。この間1977年4月18日の衆院法務委でロッキード事件の灰色高官を擁護する質問をした。
鈴木 幸夫(すずき ゆきお、1912年1月28日 - 198… 鈴木 幸夫(すずき ゆきお、1912年1月28日 - 1986年12月24日)は、英文学者、推理作家、早稲田大学名誉教授。 大阪府出身。早稲田大学文学部英文科卒業、旧制大学院修了。1939年、早稲田大学理工学部講師。1954年、早稲田大学文学部教授。1982年定年退職、名誉教授。その後は跡見学園短期大学教授、同大学学長を務めた。 1951年、探偵作家クラブ新年会の犯人当てゲームで2年連続して正解した実績を買われ、同ゲームのために「痴人の宴」を書き下ろし、同作が千代 有三の筆名で『宝石』に掲載されて探偵作家としてデビューする。 1954年、日本初のSF商業誌『星雲』を創刊された際、同年に組織された日本科学小説協会の参与となった。
小島 太作(こじま たいさく、1912年1月27日 - 20… 小島 太作(こじま たいさく、1912年1月27日 - 2002年11月4日)は、日本の外交官。位階は正三位。 初代駐フィンランド特命全権大使や、外務省研修所長、駐インド特命全権大使等を歴任した。 神奈川県出身。1936年東京商科大学(現一橋大学)卒業、外務省入省、中華民国留学。1943年総力戦研究所入所。外務省アジア局一課長、外務省アジア局参事官等を経て、1961年駐フィンランド特命全権公使。1962年駐フィンランド特命全権大使。1964年駐エチオピア特命全権大使。1967年駐マレーシア特命全権大使。同年トゥンク・アブドゥル・ラーマンマレーシア首相との間で戦争賠償協定たる血債協定を締結。1970年外務省研修所長。
相馬 雪香(そうま ゆきか、1912年〈明治45年〉1月26… 相馬 雪香(そうま ゆきか、1912年〈明治45年〉1月26日 - 2008年〈平成20年〉11月8日)は、日本の平和活動家。位階は正五位。 「憲政の神様」と言われた尾崎行雄の三女であり、欧州を回る父に随行し、通訳を務めた。戦後は道徳再武装(MRA)運動などの社会活動に取り組むと共に、民主主義と議会政治の普及に尽力した尾崎行雄の理想の普及を目的とした「尾崎行雄記念財団」の副会長を務めた。また、インドシナ難民救済のために「難民を助ける会」を設立し、対人地雷廃絶に向けた活動、子供や障害者への援助に取り組んだ。他にも多くの団体の要職を務め、世界各地で活躍した。「日本のNGOのパイオニア」とも呼ばれる。
津村 枕石(つむら ちんせき、1912年(明治45年)1月2… 津村 枕石(つむら ちんせき、1912年(明治45年)1月26日 - 1997年(平成9年)1月7日)は、和歌山県御坊市出身の書家。本名、津村 俊次郎(つむら しゅんじろう)。小林増石に書の手ほどきを受け、炭山南木に師事する。 1953年(昭和28年)、日展に初入選を果たし、以後連続入選する。1962年、自身の一門として『石門会(せきもんかい)』を創設。1963年に、日展で特選を得た後は、1966年に日展委嘱、1974年に日展審査員となる。1970年に和歌山県立日高高等学校を退職し、続いて大阪教育大学講師となる。御坊市文化賞、国際アカデミー賞、和歌山県文化功労賞、田辺市特別表彰などを得る。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
高橋 岩太郎(たかはし いわたろう、1912年1月25日 -… 高橋 岩太郎(たかはし いわたろう、1912年1月25日 - 2002年)は、日本のヤクザ、右翼活動家。日本国粋会落合一家六代目総長。東京都中野区本町出身。 明治45年(1912年)1月25日、東京府東多摩郡中野町(現:東京都中野区本町)で生まれた。実家は農業と酒造業を営む旧家だった。 大正12年(1923年)、中野の桃園尋常小学校を卒業。東京府立第六中学校(現:東京都立新宿高校)に進学した。 同年9月1日昼、自宅の裏の鶏小屋で卵を取っていたところ、関東大震災に遭遇。中学校は半年間休校となった。その間、酒や煙草、博打を覚え、喧嘩に明け暮れるようになった。 大正14年(1925年)には喧嘩で相手を刺す事件を起こし、から放校処分を受けた。