四方田 草炎(よもだ そうえん、1902年 - 1981年)… 四方田 草炎(よもだ そうえん、1902年 - 1981年)は、埼玉県児玉郡北泉村四方田(現本庄市北堀)出身の昭和期の画家。本名青次郎。北泉村の旧家・四方田家の次男として生まれ、生前は著名とはなれなかったが、死後、「孤高の素描画家」としてスポットを浴びる。浦和画家の一人。 高等小学校卒業後に上京し、神田の書店に勤める。そのかたわら川端画学校に学び、日本画家を志す。この時期、川端龍子を師と仰いだ。また、浦和市の別所沼畔に居住し須田剋太ら浦和画家と交流した。 1928年(昭和3年)に至り、龍子主宰の画塾・御形塾に進む。青次郎の雅号は、1930年(昭和5年)に第二回青龍展に龍子が出品した作品名『草炎』から与えられた。
村上 与市(むらかみ よいち、1902年(明治35年) - … 村上 与市(むらかみ よいち、1902年(明治35年) - 2005年(平成17年))は、日本の教育者。藤島町町長、栄典・称号は、勲四等旭日小綬章・藤島町名誉町民(現・鶴岡市名誉市民)
根本 行都(ねもと ゆきさと、1902年 - 没年不明)は、… 根本 行都(ねもと ゆきさと、1902年 - 没年不明)は、日本の野球選手・監督。東京都出身。 早稲田中学校(現在の早稲田高等学校)から茨城県の竜ヶ崎中学校に転校し、1921年の甲子園に投手として出場(初戦で大連商に3-5で惜敗)。早稲田大学では名遊撃手として活躍した。 プロ野球選手としての経歴はないものの、指導者として長く様々なチームに関わった。早大進学後には、合宿を抜け出して母校の竜ヶ崎中学校を泊まり込みで指導し、甲子園に導いている。秋田商や中央大学の監督を経て、1938年に桝嘉一の後任として名古屋軍の監督に就任した。 しかし、当時の名古屋軍は主力が抜けた後でチーム事情が悪く、投手では西沢道夫・松尾幸造、打者では大沢清が活躍するも低迷。
小川 寛爾(おがわ かんじ、1902年 - 1944年)は千… 小川 寛爾(おがわ かんじ、1902年 - 1944年)は千葉県出身の飛行家。名手として知られたが、第二次大戦中に航空事故で没する。航空有功章受章。 千葉県山武郡南郷村(成東町を経て現山武市)で1901年(明治34年)3月28日に生まれる。小川政蔵の三男で県立成東中学校に進学。当時開校したばかりの日本飛行学校の記事を見て、飛行家への憧れを持つ。最年少練習生として紹介されていた辻村泰作にファンレターを送るなどしていたが、4学年で中退し東京へ出た。 唯一の教官であり共同経営者だった玉井清太郎の事故死と大水害の影響で蒲田へ移転、自動車学校へと路線変更していた元日本飛行学校。寛爾はここで運転や発動機修理の技術を学び、整備工見習として働いている。
辻 葦夫(つじ あしお、1902年(明治35年) - 198… 辻 葦夫(つじ あしお、1902年(明治35年) - 1980年(昭和55年)11月13日)は、日本の洋画家。「葦夫」は筆名で、本名は芳雄。 山梨県甲府市に生まれる。山梨県立甲府中学校(山梨県立甲府第一高等学校)を卒業後、上京して慶應義塾大学に入学する。大学時代から油絵をはじめ、1929年(昭和4年)には福沢一郎に師事する。翌年には地元で米倉壽仁らとシュルレアリスム絵画グループである「六人社」を結成する。また、1937年(昭和12年)に設立された山梨美術協会の結成にも参加し、1941年(昭和16年)・翌42年(昭和17年)には副委員長を務める。 1944年(昭和19年)には独立美術協会で《秋》、《静物》が入選し、同年にはサロン・ド・ジュワン会員となる。
森本 治枝(もりもと はるえ、1902年(明治35年) - … 森本 治枝(もりもと はるえ、1902年(明治35年) - 1995年(平成7年)3月12日)は、日本の数学者。女性数学者の先駆けで、女手で育て上げた子供4人とも教授(天文学者の森本雅樹、経済学者の森本芳樹ら)になったことでも有名である。夫は数学者森本清吾。 1902年(明治35年)大阪府大阪市北区曽根崎生まれ。大阪府立清水谷高等女学校(現・大阪府立清水谷高等学校)卒業後の1918年(大正7年)東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)理科に進学した。卒業後の1924年東北帝国大学(現・東北大学)理学部数学科に入学し1927年(昭和2年)3月卒業。この年6月、数学科で出会った東北帝大助手の深澤清吾と、周囲から反対されたが結婚した(清吾が、姓を森本に改称)。
白川 晴一(しらかわ せいいち、1902年 - 1952年7… 白川 晴一(しらかわ せいいち、1902年 - 1952年7月28日)は、昭和時代の労働運動家。日本共産党中央委員。 愛媛県温泉郡和気村(現松山市)生まれ。愛媛県立松山中学校(現愛媛県立松山東高校)在学時に重松鶴之助(画家)、伊丹万作(映画監督)、伊藤大輔(映画監督)、中村草田男(俳人)らと同人雑誌『楽天』を発行。5年生のとき中退し、重松と京都・東京を放浪後、東京の感化院で働く。1923年の関東大震災直前に結核のため帰郷、左翼運動に関わる。回復後に再び上京するが、1926年に画業に行き詰った伊丹を援けるため、重松と3人で松山市三番町におでん屋・瓢太郎を開業。この時期に同郷の岩田義道と出会い、その影響で労働運動の世界に入る。
笹原 儀三郎(ささはら ぎさぶろう、1902年(明治35年)… 笹原 儀三郎(ささはら ぎさぶろう、1902年(明治35年) - 1994年(平成6年)9月6日)は、日本の教育者、郷土史家。 山形県鶴岡町(現:鶴岡市)に生まれる。 荘内中学校(現:山形県立鶴岡南高等学校)、旧制第二高等学校を経て、京都帝国大学文学部文学科を卒業。同大大学院で英文学を研究する。 秋田県立秋田中学校(現:秋田県立秋田高等学校)、京都市立第一工業学校(現:京都市立洛陽工業高等学校)、京都府立第一中学校(現:京都府立洛北高等学校・附属中学校)、旧制二高で教鞭を執り、鶴岡南高等学校、山形県立鶴岡北高等学校、山形県立山形北高等学校で校長、鶴岡工業高等専門学校では教授を務めた。 1994年9月6日、死去。
田坂 定孝(たさか さだたか、1902年 - 1990年7月… 田坂 定孝(たさか さだたか、1902年 - 1990年7月22日)は日本の医学者、内科医。東京帝国大学卒業。新潟大学(新潟医科大学)教授、千葉大学教授、東京大学教授を歴任した。
野々内 保太郎(ののうち やすたろう、1902年 - 198… 野々内 保太郎(ののうち やすたろう、1902年 - 1985年12月5日)は、日本画家。 明治35年(1902年)島根県八束郡東出雲町(現・松江市)で生を受け、西山翠嶂に師事し京都市立絵画専門学校(現在の京都市立芸術大学)を卒業。「祥雲」という号を名乗っていたが、1932年から本名の保太郎へ改め、その翌年の1933年第13回帝展に「みやまの春」が初入選。以来、帝展・文展・日展に28回の入選を重ねる。1959年に皆川千恵子らと共に「牧人社」結成。画風は、細密かつ華麗な花鳥画を得意としていた。息子の、野々内良樹、井上稔、野々内宏の3人も絵の道に進み日本画家として活躍している。 この項目は、日本の文化に関連した書きかけの項目です。
鄭 海駿(チョン・ヘジュン、朝鮮語: 정해준、1902年また… 鄭 海駿(チョン・ヘジュン、朝鮮語: 정해준、1902年または1903年12月17日 - 1993年5月4日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の独立運動家、ジャーナリスト、政治家、画家。制憲韓国国会議員。 本貫は河東鄭氏(朝鮮語版)。号は元斉または元斎。 全羅北道(現・忠清南道)錦山郡出身。錦山公立普通学校、錦山簡易公立農業学校、京城普成高等普通学校、早稲田大学政経科、東京文学院(現・中央大学)または東京大学大学院卒。第3次共産党事件により1年6ヶ月間服役し、1931年に治安維持法違反により8ヶ月間服役した。朝鮮日報社学芸部長、忠南モダス会社支配人、大韓独立促成国民会文芸部長・組織部長・文教部長・全国大会議長、民族代表外交後援会宣伝部次長、民族統一総本部事務局員、独立戦取決起大会宣伝部長、工業新聞編集顧問、制憲国会財政経済委員長・交通逓信委員長、韓米経済協定韓国側代表、韓国重石顧問を務めた。
木村 重(きむら しげる、1902年 - 1977年3月19… 木村 重(きむら しげる、1902年 - 1977年3月19日)は、日本の魚類学者。 茨城県出身。幼少時より鬼怒川周辺の豊かな自然に触れ、旧制山形高校在学中にはアンモナイトなど化石に興味を持ち、はるばる満州まで化石採集に赴いた。その後、興味の対象は魚類に移り、東京帝国大学農学部水産学科に入学。岸上鎌吉に師事し、卒業後、東京帝国大学農学部水産学科の副手となる。 1927年12月から翌年1月にかけて、岸上・瀬沼秀夫・蔡邦華の三名と共に南京より下流の揚子江流域調査を行う。同年5月、岸上と共に第二回目調査のため上海に渡り尉鴻謨と合流するが、済南事件が勃発し調査行は中止となる。一年後の1929年8月、第三回目調査のために董聿茂・金炤華と共に、再び上海に赴き、岸上・尉両者と合流した後に、鉄道にて鎮江経由で南京に到着。
関谷 陽(せきや たかし、1902年(明治35年)- 198… 関谷 陽(せきや たかし、1902年(明治35年)- 1988年(昭和63年)2月6日)は、昭和時代の洋画家。大正-昭和時代に活躍した日本画家の関谷雲崖の長男。 1902年(明治35年)栃木県那須郡両郷村富貴田(現:栃木県大田原市河原)に生まれる。東京美術学校西洋画科卒業。1930年代従軍画家として中国へ赴く。妻は同じく画家で従兄弟である関谷富貴(せきや ふき、1903-1969)。晩年まで東京都世田谷区松原に暮らす。二科会に属した。 陽は「たかし」と読むが、作品の署名は「YO」としていた。
土屋 隼(つちや じゅん、1902年 - 1978年2月9日… 土屋 隼(つちや じゅん、1902年 - 1978年2月9日)は、昭和時代の日本の外交官。位階は正三位。 静岡県出身。東京府立中学の教諭を務めた後、1930年東北帝大法学部卒業、外交官試験合格、同年外務省入省。外交官補として米国勤務の後、1935年情報部第2課、40年上海、42年調査局、スウェーデンで勤務。戦後は終戦連絡中央事務局総務部を経て、1950年調査局長、翌年12月欧米局長を務める。欧米局長時代の1953年2月、接収解除貴金属及びダイヤモンド関係事件に関し衆議院行政監察特別委員会に証人喚問された。その後、1954年4月総領事としてニューヨークへ赴任。 1957年3月駐コロンビア大使、61年3月駐フィリピン大使、63年1月駐ギリシャ大使を歴任。
印南 弘(いんなみ ひろし、1902年 - 1938年9月1… 印南 弘(いんなみ ひろし、1902年 - 1938年9月13日)は、日本の映画監督、脚本家である。サイレント映画の時代にモダンな現代劇を得意とした。 1902年(明治35年)、広島県に生まれる。 日本大学を卒業し、兵庫県西宮市甲陽園にあった東亜キネマ甲陽撮影所に入社する。1927年(昭和2年)1月9日に公開された『黄金の弾丸』で、満24歳で監督に昇進した。同年、阪妻・立花・ユニヴァーサル聯合映画に招かれて秋田伸一を主演に『港の灯』を監督、山口俊雄の主演作『仇討殉情録』の脚本をマキノ・プロダクションで書いたり、山口俊雄が独立して設立した山口俊雄プロダクションで『月形半平太』を監督したが、1929年(昭和4年)には、東亜キネマに復帰した。
金 俊熙(キム・ジュニ、朝鮮語: 김준희、1902年 - 没… 金 俊熙(キム・ジュニ、朝鮮語: 김준희、1902年 - 没年不詳)は、大韓民国の政治家。第2代韓国国会議員。 全羅北道鎮安郡生まれ。兵庫県立神戸商業高等学校卒。三和商業会社重役、大東化学工業会社代表、大韓青年団(朝鮮語版)鎮安郡団長、大韓国民党中央執行委員、醸造業経営者、第2代国会議員などを務めた。朝鮮戦争の際に拉致されたという情報もあるが、自由党に移籍した後、族青系という理由で除名され、1967年時点で民主共和党に所属しながら実業を商っていた。以後不明。 1952年11月13日の第14回第20次国会本会議の商工会議所法案第2読会において、本法案は時期尚早であると指摘した。
泉 詩郎(いずみ しろう、1902年 - 1978年5月2日… 泉 詩郎(いずみ しろう、1902年 - 1978年5月2日)は、昭和初期から戦後にかけて活躍した活動弁士。岡山県岡山市出身。本名は姫路与四郎(ひめじ よしろう)。坊主頭に眼鏡をかけた姿であった。 8人兄弟の末っ子で、両親は荒物商を営んでいた。岡山商業高校(現在の岡山東商業高等学校)卒業後、来阪して活動弁士の泉浩一路に師事し、1924年に道頓堀朝日座で初舞台。無声映画時代の名弁士として活躍し、「東に夢声あり、西に詩郎あり」と称された。トーキー化以降は自身の名を冠した団員数30人近あまりの大所帯の泉詩郎歌謡楽団を結成。戦後はボーイズ物泉詩郎歌謡ショウと称して寄席や劇場に進出すると共に、映画・歌謡曲の解説をした。
島戸 繁(しまと しげる、1902年〈明治35年〉 - 19… 島戸 繁(しまと しげる、1902年〈明治35年〉 - 1998年〈平成10年〉3月14日)は、日本の洋画家、教育者。位階は従四位。勲等は勲三等。静岡女子大学名誉教授。 滋賀県立彦根高等女学校教諭、彦根工業専門学校助教授、滋賀県立短期大学教授、静岡女子短期大学教授などを歴任した。 岐阜県出身。滋賀県の彦根城城下町にアトリエを構え、城や琵琶湖の風景、人々の生活などを描いた。また、フランス・パリに滞在し描くなど、当時かなり珍しかった海外での先進的な芸術活動も行った。西洋美術の模倣ではない独自の洋画を追求し、関西洋画壇で活躍した。作品に対しては複数の受賞歴があり、当人も勲三等旭日中綬章を受章した。彦根を代表する和菓子の老舗、いと重の代表銘菓「埋れ木」のパッケージに描かれている彦根城の絵や、多賀大社御田植祭のうちわ絵など、墨絵や水彩画も多く描いている。
松栄 俊三(まつばえ しゅんぞう、1890年12月31日 -… 松栄 俊三(まつばえ しゅんぞう、1890年12月31日 - 1983年1月28日 )は、日本の実業家、政治家。新潟県佐渡郡相川町長・新潟県議会議員・佐渡汽船社長、会長などを務めた。 新潟県佐渡郡金丸村金丸の舟崎家の出で、相川の素封家松栄家に婿入りした。1889年の相川町の長者番付では、秋田藤十郎・幅野長蔵に次いで養父の松栄治作が3位にランクされている。 1915年早稲田大学商学部を卒業、1918年から町会議員を5期20年務める。この間郡会議員に2回当選。また1923年9月と1935年9月に県議に、高位当選している。相川町長は、1926年8月から1927年7月までと、佐渡鉱山の縮小騒ぎが起きた1928年6月から約1年余、推されて難しい時期の町政を担った。
富士川 漻(ふじかわ きよし(富士川 きよし)、1890年1… 富士川 漻(ふじかわ きよし(富士川 きよし)、1890年12月29日 - 1978年9月13日)は、韓国海苔の生産向上に貢献した日本の水産学者。 1890年12月29日広島県沼田郡安村(現・広島市安佐南区)生まれ。東京帝国大学水産学科卒業後、1919年から朝鮮総督府勤務。同水産試験場主任技師として水産養殖、加工研究に従事。特に海苔養殖と加工で独自の養殖技術を開発、生産量を向上させた。朝鮮半島での海苔養殖が盛んになるのは、日本が韓国併合した1910年前後からで、広島出身者を中心に多くの民間養殖業者が渡航、移住し日本式の養殖技術が導入され各地に広まった。しかし品質に問題があったため、富士川ら学者・技術者がこれの改善、品質の均一化等の研究を進めた。
嘉村 平八(かむら へいはち、1890年(明治23年)12月… 嘉村 平八(かむら へいはち、1890年(明治23年)12月25日 - 1967年(昭和42年)6月28日)は、日本の冶金学者。九州工業大学及び西日本工業大学学長を務めた。 1890年12月25日、佐賀市に生まれる。佐賀中学5年生の時、明治専門学校総裁を務めていた山川健次郎の講演に触発されて1909年に私立明治専門学校(現・九州工業大学)1期生として冶金科に入学する。 卒業後明治鉱業に入社、米国リーハイ大学留学を経て、1925年に母校の教壇に立つ。爾来36年間に亘って、明治専門学校、明治工業専門学校、九州工業大学の教育研究に大きな足跡を残した。その間、水素還元製法による超高純度鋼いわゆる嘉村鋼の発明により帝国発明協会表彰、鉄の磁気的性質に及ぼす燐の影響に就いての論文に対して日本鐵鋼協会表彰など鉄冶金界に名声を刻し、九州大学より工学博士の学位を授与される。
小谷 勝重(こたに かつしげ、1890年〈明治23年〉12月… 小谷 勝重(こたに かつしげ、1890年〈明治23年〉12月24日 - 1963年〈昭和38年〉10月27日)は、日本の法律家。最高裁判所裁判官、弁護士。 1890年(明治23年)12月24日、京都府に生まれる。子供の頃は「とても7歳までもつまい」と医者に言われたほど体が弱く、弱い者びいきとして弁護士を志す。1914年(大正3年)、法政大学専門部法律科を卒業する。弁護士試験に合格後、大阪で開業する。 1929年(昭和4年)、大阪弁護士会副会長に、1946年(昭和21年)、大阪弁護士会会長に就任する。1941年(昭和16年)『日本取引所法制史論』で法政大学より法学博士を授与される。 裁判官任命諮問委員会による諮問の結果、1947年(昭和22年)、最高裁判所裁判官に任命される。
波多野 乾一(はたの けんいち、1890年12月23日 - … 波多野 乾一(はたの けんいち、1890年12月23日 - 1963年12月29日)は、日本の新聞記者、中国研究者、中国演劇(京劇)研究者。 大分県出身。東亜同文書院卒業。1913年、大阪朝日新聞社入社。北京特派員、時事新報社北京特派員。戦後は産業経済新聞論説委員。榛原茂樹の筆名も用いた。
大島 良士(おおしま よしお、1890年(明治23年)12月… 大島 良士(おおしま よしお、1890年(明治23年)12月23日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。実業家。 香川県木田郡氷上村(現在の三木町)出身。1915年(大正4年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、大学院に進んだ。同年、高等文官試験に合格し、翌年に朝鮮総督府試補となった。道事務官、咸鏡北道財務部長、慶尚南道財務部長、京畿道財務部長、全羅北道内務部長、平壌府尹、釜山府尹、京畿道内務部長などを歴任した。 1936年(昭和11年)に退官した後は、東亜窒業株式会社社長、協同油脂株式会社社長、満州協同油脂株式会社社長、協同油脂販売株式会社社長、協同油脂製函株式会社社長、朝鮮造船鉄工所株式会社取締役、朝鮮水産開発株式会社顧問、朝鮮協同海運株式会社相談役などを務めた。
丸木 末次郎(まるき すえじろう、1890年〈明治23年〉1… 丸木 末次郎(まるき すえじろう、1890年〈明治23年〉12月23日 - 1960年〈昭和35年〉11月4日)は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚。 鹿児島県出水郡出水町(現出水市)に生まれる。1908年(明治41年)台湾総督府に奉職し、通信局勤務、土木局庶務課勤務、総督官房会計課勤務を経て、1936年(昭和11年)12月に地方理事官に進み、台南市助役となった。その後は、台北州羅東郡守、同州基隆郡守を経て、1942年(昭和17年)4月に退官し、皇民奉公会中央本部主事に就任した。 戦後は、日本基督教団阿久根伝道所長老となった。
柴田 徳次郎(しばた とくじろう、1890年12月20日 -… 柴田 徳次郎(しばた とくじろう、1890年12月20日 - 1973年1月26日)は、日本の右翼で教育者。国士舘創立者。正四位勲二等、瑞宝章受章。経済学博士。
大河原 重信(おおかわら しげのぶ、1890年(明治23年)… 大河原 重信(おおかわら しげのぶ、1890年(明治23年)12月20日 - 没年不詳)は、日本の検事。朝鮮総督府官僚。海軍司政長官。弁護士。 長野県に石田善吉の三男として生まれ、大河原昇五郎の養子となった。1917年(大正6年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、朝鮮銀行に入ったが翌年に退職した。1919年(大正8年)に司法官試補となり、東京地方裁判所判事、土浦区裁判所検事・水戸地方裁判所検事、八日市場区裁判所検事・千葉地方裁判所検事、東京区裁判所検事・東京地方裁判所検事を歴任。 1930年(昭和5年)、朝鮮総督府道事務官に転じ、咸鏡北道財務部長、黄海道警察部長、全羅南道警察部長、慶尚北道警察部長、咸鏡北道内務部長、忠清南道内務部長、釜山税関長を務めた。
谷崎 精二(たにざき せいじ、1890年12月19日 - 1… 谷崎 精二(たにざき せいじ、1890年12月19日 - 1971年12月14日)は、日本の英文学者、小説家。早稲田大学教授。小説家谷崎潤一郎の弟。 東京市日本橋区蛎殻町(現・東京都中央区日本橋人形町)出身。谷崎倉五郎の二男。生家は母方の祖父が事業に成功したため、当初は裕福だったが、父が事業に失敗し、次第に零落、兄潤一郎は家庭教師をして糊口を凌いだが、精二は阪本尋常小学校高等科を経て工手学校(現在の工学院大学)に通った。卒業後は通信技手をしていたが、しかし兄の影響もあって文学を志し、国民英学会、正則予備校に通い、1909年、早稲田大学高等予科英文科入学、同期に広津和郎があり、坪内逍遥、相馬御風、島村抱月らの指導を受けた。
内藤 秀因(ないとう しゅういん、1890年(明治23年)1… 内藤 秀因(ないとう しゅういん、1890年(明治23年)12月19日~1987年(昭和62年)4月10日)は、庄内町名誉町民、元日本水彩画会理事長の画家。 1890年(明治23年)12月19日、山形県東田川郡余目町大和村古関(現庄内町古関)の寺院・玄通寺の二男として生まれる。1913年(大正2年)山形県師範学校本科第一部卒業。22歳で小学校の教師となるも25歳で上京し、東京美術学校(現東京藝術大学)に入学。しかし、生活苦により中退。東京で教師として務めるながら、画家の石井柏亭、石川寅治に師事する。 1927年(昭和2年)美術および美術教育を研究するためにヨーロッパへ留学。1928年(昭和3年)パリに渡り、画家のアマン・ジャンやオットン・フリエスに師事する。
松岡 弘(まつおか ひろむ、1890年12月19日 - 19… 松岡 弘(まつおか ひろむ、1890年12月19日 - 1983年3月8日)は、日本の教育者。第二次世界大戦後、長く信濃教育会会長を務め、また日本連合教育会会長も務めた。 長野県南安曇郡温村(現在の安曇野市三郷温下長尾)に生まれた。務台理作とは同郷で、南安曇郡温村立長尾尋常小学校以来の同級生であった。梓農業補習学校に学んだ後、1908年に長野県師範学校(信州大学教育学部の前身のひとつ)に入学し、1912年に卒業して教師となり、以降、訓導、校長、県視学官などを務めた。 松岡は師範学校在学中に手塚縫蔵と知り合い、キリスト教に入信し、松本市の聖公会で受洗した。松岡は、長野県師範出身者を中心として青年教師らが集まっていた東西南北会に参加しており、1912年に最初に着任した南安曇郡温明小学校で校長排斥運動に関与したが、岡村千馬太に諭され、同校を去った。
玉島 愛造(たましま あいぞう、1890年12月19日 - … 玉島 愛造(たましま あいぞう、1890年12月19日 - 没年不明)は、日本の俳優。本名は菊沢 敬之助(旧姓は山内)。 1890年(明治23年)12月19日、愛媛県宇和島市に生まれる。東京の私立商工中学を中退後、独学で教員免状を取り、小学校に8年間勤務した。また、その間に川端画学校で西洋画を学び、十数年の間絵画の製作を続けた。 1925年(大正14年)、東亜キネマ甲陽撮影所に開設された佐藤紅緑主宰の俳優養成所に年齢超過で資格がないのを無理に頼んで入所する。同年に『海国の母』で映画デビューし、脇役として細山喜代松監督『赤熱の力』等に出演。やがて等持院撮影所に移籍し、多くの作品で老け役、敵役を演じた。
服部 峻治郎(はっとり しゅんじろう、1890年(明治23年… 服部 峻治郎(はっとり しゅんじろう、1890年(明治23年)12月18日 - 1983年(昭和58年)4月19日)は、日本の医学者、小児科医。医学博士。第14代京都大学総長。 1890年兵庫県生まれ。京都帝国大学教授、同病院長を経て1951年に京都大学総長に就任。その直後、昭和天皇の京都大学視察訪問に際し、学生が公開質問状を用意し「平和の歌」をうたって迎えた『京大天皇事件』が起こり、その責任をとって1953年辞任。1983年に92歳で死去。 主な受章歴は以下のとおり。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
大野 良蔵(良藏、おおの りょうぞう、1890年(明治23年… 大野 良蔵(良藏、おおの りょうぞう、1890年(明治23年)12月17日 - 1976年(昭和51年)2月18日)は、大正から昭和期の外科医、政治家。貴族院勅選議員、医学博士。 福岡県御笠郡二日市村(筑紫郡二日市町、筑紫野町を経て現筑紫野市)で大野良作の長男として生まれる。1917年(大正6年)九州帝国大学医学部を卒業した。卒業後、同医学部第一内科教室、同外科教室で勤務した。1923年(大正12年)7月24日、九州帝大より医学博士号を授与された。 1924年(大正13)大阪で外科大野病院を開業した。その他、港病院院長、木津川病院院長も務めた。 1946年(昭和21年)6月19日、貴族院勅選議員に任じられ、研究会に属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
近藤 駿介(こんどう しゅんすけ、1890年(明治23年)1… 近藤 駿介(こんどう しゅんすけ、1890年(明治23年)12月17日 - 1966年(昭和41年)4月30日)は、日本の内務官僚。県知事、南洋庁長官。 長崎県出身。呉服商・近藤九右衛門の五男として生まれる。長崎県立中学猶興館、第五高等学校を経て、1916年5月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1915年10月、文官高等試験に合格した。 1916年5月、内務省に入り警視庁警部として保安部保安課に配属された。以後、総監官房文書課審査係長、保安部保安課長、日本橋堀留警察署長、芝三田警察署長、深川西平野警察署長などを歴任。 1921年7月、高知県内務部商工水産課長に就任。以後、同県教育課長、東京府内務部学務兵事課長、同府視学官、同学務部長、山口県書記官・警察部長、警視庁書記官・衛生部長、同保安部長、青森県書記官・内務部長、京都府書記官・内務部長などを歴任。
大澤 雅休(おおさわ がきゅう、1890年〈明治23年〉12… 大澤 雅休(おおさわ がきゅう、1890年〈明治23年〉12月17日 - 1953年〈昭和28年〉9月12日)は、昭和時代の日本の書家・歌人。平原社主宰。日本の書道界における前衛派の先駆けである。本名・雅休(まさやす)。 群馬県群馬郡大類村(現・高崎市柴崎町)の農家の長男として生まれる。高陽義塾を経て高山社に学ぶ。 1908年(明治41年)群馬郡金島村金島小学校代用教員となり、翌1909年同郡倉賀野町へ転勤。1911年高崎歩兵第15連隊に入営、除隊後大類小学校に勤務。村上鬼城や村上成之(蛃魚)に俳句の指導を受ける。 1916年(大正5年)栃木県那須開墾地に入植。このころ『ホトトギス』に小説や俳句を発表、また『アララギ』会員となり島木赤彦の指導を受ける。
坂本 末雄(さかもと すえお、1890年(明治23年)12月… 坂本 末雄(さかもと すえお、1890年(明治23年)12月16日 - 1966年(昭和41)9月28日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。陸軍士官学校第26期、陸軍大学校第35期卒業 1890年(明治23年)に熊本県菊池郡田島村で生まれた。熊本県立鹿本中学校(現・熊本県立鹿本高等学校)卒業後、海軍経理学校に合格したが陸軍への道を選び、1911年12月に士官候補生として歩兵第53連隊に入隊。なお、この時経理学校に補欠合格した林義秀も同じく入学を辞退し、陸士・陸大で同期となっている。陸軍士官学校第26期、陸軍大学校第35期卒業。1938年(昭和13年)3月1日に陸軍歩兵大佐に進級、6月30日に歩兵第53連隊長(中支那派遣軍・第17師団・第17歩兵団)に就任し、日中戦争では、武漢攻略に参加した。
片倉 三平(かたくら さんぺい、1890年12月15日 - … 片倉 三平(かたくら さんぺい、1890年12月15日 - 1977年3月29日)は、日本の実業家、長く日東紡績などの経営に当たった。妻・かずは2代目片倉兼太郎の次女。 片倉三平は、片倉財閥を興した片倉家の一員・片倉光治の三男として、長野県諏訪郡川岸村(現岡谷市)に生まれた。長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)を経て、東京高等蚕糸学校(現東京農工大学)を卒業。その後、片倉合名会社社員となり、その北陸監督や、片倉共栄製糸社長、片倉越後製糸社長など、傘下の様々な企業の役職を兼務した。 1921年に片倉傘下となっていた福島紡織が改組され、新たに福島県郡山市を拠点とする日東紡績が1923年に設立された際には、片倉三平が初代社長に就任した 。
牧野 虎雄(まきの とらお、明治23年(1890年)12月1… 牧野 虎雄(まきの とらお、明治23年(1890年)12月15日 - 昭和21年(1946年)10月18日)は、日本の洋画家である。現在の新潟県上越市西城町1丁目に生まれた。父は藤一郎、母は兼。 父・藤一郎は、虎雄が生まれたころ東京府東京市下谷区役所に単身で勤務していた。虎雄が5歳のときに土木請負「久米組」の社員となり、今の渋谷区代々木で一緒に暮らすようになった。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
高垣 松雄(たかがき まつお、1890年12月13日 - 1… 高垣 松雄(たかがき まつお、1890年12月13日 - 1940年9月13日)は、アメリカ文学者。立教大学文学部教授、文学部英文学科長。日本で初めてアメリカ文学を専門に研究した人とされ、日本におけるアメリカ文学研究の権威として基礎を築いた。 神奈川県横須賀市生まれ。早稲田大学文科を中退した後、1919年(大正8年)立教大学英文科卒業。大学卒業後すぐに、旧制立教中学校の英語教師となるが、同年夏にハワイのザ・フレンド・ピース奨学生の銓衡試験をパスして、ホノルルにある、孫文や第44代アメリカ大統領のバラク・オバマも学んだプナホ・アカデミーに留学。翌1920年(大正9年)にはシカゴ大学に入学。 病のため1921年(大正10年)に帰国し、1922年(大正11年)立教大学文学部教授に就任。
原 邦道(はら くにみち、1890年12月11日 - 197… 原 邦道(はら くにみち、1890年12月11日 - 1976年10月10日)は、日本の官僚、経営者。日本長期信用銀行初代頭取を務めた。島根県平田市(現在の出雲市)出身。 1916年に東京帝国大学経済科を卒業。大蔵省での勤務を経て、1939年に日本製鉄に転じ、常任監査役、常務、副社長を歴任した。1943年に東京証券取引所副理事長を経て、1944年に野村合名会社総務理事に就任し、野村銀行(現在の大和銀行)社長、野村證券会長、野村生命会長を歴任した。1952年12月に日本長期信用銀行初代頭取に就任し、1957年11月から1959年5月までに会長を務めた。大和銀行相談役も務めた。 1966年5月に勲一等瑞宝章を受章。
六代 正田 文右衛門(ろくだい しょうだ ぶんえもん、前名・… 六代 正田 文右衛門(ろくだい しょうだ ぶんえもん、前名・敏一郎、1890年〈明治23年〉12月9日 - 1973年〈昭和48年〉7月25日)は、日本の実業家、醤油醸造家(亀甲正醸造元)。正田醤油、館林航器各社長。日本醤油協会会長。日本栄養食料(現日本農産工業)監査役。館林町会議員、群馬県公安委員。上皇后美智子の生家正田家の本家筋の出身で、大叔父にあたる。 1890年(明治23年)群馬県邑楽郡館林町(現・館林市)に、5代・正田文右衛門の長男として生まれる。1909年(明治42年)、東京府立第一中学校卒業。1914年(大正3年)、東京高等商業学校卒業。 1917年(大正6年)正田醤油専務取締役に就任。
高橋 権六(權六、たかはし ごんろく、1890年(明治23年… 高橋 権六(權六、たかはし ごんろく、1890年(明治23年)12月9日 - 1972年(昭和47年)3月4日)は、大正から昭和期の実業家・政治家。衆議院議員。 福岡県八女郡、現在の八女市で酒造家の家に生まれる。1918年(大正7年)明治学院普通部を卒業。 若いときから院外団に加わった。福岡県会議員に選出され2期在任し、同参事会員、八女郡教育会評議員も務めた。1930年(昭和5年)の第17回衆議院議員総選挙から1947年(昭和22年)第23回総選挙まで立候補を続けたがいずれも落選。同年の福岡県知事選挙でも落選した。1949年(昭和24年)1月の第24回総選挙(福岡県第3区、無所属)で当選。当時の地元新聞に「同情票で勝利」と分析した記事が掲載された。
神林 美治(かんばやし よしはる、明治23年(1890年)1… 神林 美治(かんばやし よしはる、明治23年(1890年)12月8日 - 昭和54年(1979年))は、大日本帝国の海軍軍人。最終階級は海軍軍医中将。呉海軍病院長、海軍医学校校長を歴任する。長野県長野市出身。 明治23年(1890年)12月8日、長野県更科郡稲里村(現在の長野市)の士族であった神林英三郎の五男として出生する。第二高等学校を経て、大正6年(1917年)に九州帝国大学医学部医学科を成績優秀で卒業し、恩賜の銀時計を授与される。海軍省に入省後、軍医となる。大正12年4月に九州帝国大学大学院へ進学し、小野寺教授の下で指導を受ける。大正14年11月に同校を修了する。 大正15年(1926年)には、久邇宮の欧州外遊に同行し、昭和3年(1927年)2月、ドイツ駐在員となる。
伊藤 清(いとう きよし、1890年(明治23年)12月7日… 伊藤 清(いとう きよし、1890年(明治23年)12月7日 - 1981年(昭和56年)6月12日)は、大正から昭和期の弁護士、裁判官、政治家。衆議院議員。 千葉県匝瑳郡福岡町(八日市場町、八日市場市を経て現匝瑳市)で、伊藤啓三郎の二男として生まれる。錦城中学校(現錦城学園高等学校)、第三高等学校を経て、1918年(大正7年)東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業した。 1918年8月、司法官試補に任官し、東京地方裁判所予備判事、長崎地方裁判所判事を歴任し、1921年(大正10年)7月に退官した。留学してロンドン大学、ベルリン大学で学び、在学中に司法省から英独の労働法研究の委嘱を受けた。1925年(大正14年)に帰国し弁護士を開業した。
仁科 芳雄(にしな よしお、1890年〈明治23年〉12月6… 仁科 芳雄(にしな よしお、1890年〈明治23年〉12月6日 - 1951年〈昭和26年〉1月10日)は、日本の物理学者。学位は理学博士(東京帝国大学・1930年)。日本現代物理学の父。 岡山県浅口郡里庄町浜中出身。東京帝国大学卒。日本に量子力学の研究拠点を作ることに尽力し、理化学研究所(理研)に在籍して宇宙線関係、加速器関係の研究で業績をあげた。 死去から4年後の1955年、原子物理学とその応用分野の振興を目的として仁科記念財団が設立された。この財団では毎年、原子物理学とその応用に関して著しい業績を上げた研究者に仁科記念賞を授与している。また理研の仁科加速器科学研究センターにも名を残す。 ニールス・ボーアの下で身に着けたその自由な学風は、自由で活発な精神風土を日本にもたらし、日本の素粒子物理学を世界水準に引き上げた。
内海 清温(うつみ きよはる、1890年(明治23年)12月… 内海 清温(うつみ きよはる、1890年(明治23年)12月6日 - 1984年(昭和59年)3月9日)は、大正時代から昭和時代の土木工学者、内務官僚。 鳥取県久米郡倉吉町(現・倉吉市)に生まれる。第一高等学校を経て、1915年(大正4年)東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業し、内務省に入省する。江戸川改修事務所勤務として江戸川分流頭首工事を担当する。1919年(大正8年)9月に退官し、朝鮮に渡り電気化学工業(現・デンカ)の発電水力調査業務に従事。工務部土木課長として朝鮮での10万kW級の水力発電所の建設可能性を現地調査し、帰朝後は宮崎県の大淀川の水力発電所建設所長に転じ、1万5千kWと3万kWの2ヵ所の水力発電所を建設した。
阿部 浅十(あべ あさじゅう、1890年〈明治23年〉12月… 阿部 浅十(あべ あさじゅう、1890年〈明治23年〉12月6日 - 没年不明)は、日本の政治家、農民。鳥取県西伯郡余子村会議員。境港町議会議員。境港市議会議員。 鳥取県西伯郡余子村大字高松(現・境港市高松町)出身。久栄の長男。弓浜高等小学校を卒業後、家業の農業に専念し、傍ら弓浜組合製糸監事、農協理事、農会理事等を歴任する。1954年、境港町議会議員に当選する。西伯郡米子市養蚕農業協同組合連合会理事、誠道中組合議員を兼任する。1956年、市制実施とともに市会議員となる。 自治及び養蚕功労者として当局より再三表彰され、地区有力者として尊敬される。趣味は畜育。宗教は曹洞宗。住所は境港市高松町。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
田代 茂樹(たしろ しげき、1890年〈明治23年〉12月5… 田代 茂樹(たしろ しげき、1890年〈明治23年〉12月5日 - 1981年〈昭和56年〉8月8日)は、日本の実業家。東洋レーヨン(現・東レ)社長、日本化学繊維協会会長、日本腎臓財団初代会長、福岡県人会第三代会長などを務めた。明治専門学校(現・九州工業大学)第一期生。 福岡県遠賀郡香月村楠橋(現・北九州市)生まれ。父は村役場の助役、収入役を経て長らく村長を務めた。 旧制東筑中学(現・福岡県立東筑高等学校)、明治専門学校機械工学科を卒業後、三井物産に入社。 三井物産名古屋支店長時代の1936年、当時の東洋レーヨン社長に見込まれ、同社取締役に転じる。1945年に社長となるが、公職追放となる。1950年代表取締役会長として復帰し、1970年まで務めた。
森 慈秀(もり じしゅう、1890年12月5日 - 1973… 森 慈秀(もり じしゅう、1890年12月5日 - 1973年4月15日)は、熊本県天草郡湯島村(現上天草市)出身の政治家。熊本県議会議員(1期)、大矢野町長(3期)。天草五橋架橋の功労者として知られている。 1890年(明治23年)12月5日、熊本県天草郡湯島村(天草諸島の湯島、現上天草市大矢野町湯島)に生まれた。父は森幸吉、母は森タミ。幼名は秀松であり、長男である。 1901年(明治34年)には湯島村立尋常小学校4年課程を修了し、湯島村役場の小使となった。18歳か19歳の時、貿易商の親戚を頼って上海に渡航し、事業によって財を成した。1917年(大正6年)または1918年(大正7年)頃に日本に引き揚げたが、この時には当時の金額で100万円を持ち帰っている。
石榑 敬一(いしぐれ けいいち、1890年12月5日 - 1… 石榑 敬一(いしぐれ けいいち、1890年12月5日 - 1968年11月1日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 岐阜県岐阜市生まれ。1908年岐阜県立農林学校卒。陸軍に入り、中尉まで進む。その後、岐阜市主事、三里村(現・岐阜市)村長、岐阜県会議員、岐阜在郷軍人連合分会長、岐阜市警防団長などを歴任する。 1928年12月4日から1931年10月15日まで第36代岐阜県会副議長を務めた。 1942年の総選挙(いわゆる翼賛選挙)では、岐阜1区(当時)から立候補する。翼協の非推薦ながら在郷軍人会をバックに当選を果たす。衆議院議員は1期務めた。 戦後の1955年の岐阜市長選挙に立候補したが、自由党推薦の松尾吾策に敗れて落選した。