近藤 憲二(こんどう けんじ、1895年2月22日 - 19… 近藤 憲二(こんどう けんじ、1895年2月22日 - 1969年8月6日)は、大正・昭和期の無政府主義者。 1895年2月22日、兵庫県氷上郡前山村に生まれる。兵庫県立柏原中学を卒業後、上京して早大政経科に入学。在学中の1914年、大杉栄の論文集『生の闘争』に感動し、大久保に大杉を訪ね同志に加わる。バクーニン主義をとる。1916年、荒畑寒村と『労組』を、続いて『青服』(囚人服の意)を発行する。1919年、大杉の『労働運動』同人となる。1920年、「日本社会主義同盟」準備会発起人となる。1921年、第2回メーデーで警察隊と激突、市ヶ谷刑務所に下獄。1923年、大杉の計画する全国アナキスト同盟結成を手伝い関西・九州をオルグにまわる。
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浅原 六朗(あさはら ろくろう、1895年2月22日 - 1… 浅原 六朗(あさはら ろくろう、1895年2月22日 - 1977年10月22日)は、日本の小説家、作詞家、俳人、大学教授。 代表作は「ある自殺階級者」「H子との交渉」「混血児ジヨオジ」など。童謡「てるてる坊主」の作詞者、浅原鏡村としても知られる。 1982年(昭和57年)3月27日 てるてる坊主の館浅原六朗文学記念館が竣工。同年6月1日に開館となった。館内には浅原六朗の蔵書・ノートに書かれた青春日記・交友のあった作家たちの書簡及び写真、自筆の書や筆記用具なども展示されている。また、隣接する池田町文化財資料館にも「町ゆかりの文学者」として紹介されており、長野県池田町を代表する文学者である。 また、町役場の屋上で鳴らされていたサイレンも、「てるてる坊主」のメロディーに替わった。
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村上 藤太郎(むらかみ とうたろう、1895年〈明治28年〉… 村上 藤太郎(むらかみ とうたろう、1895年〈明治28年〉2月21日 - 2004年〈平成16年〉7月30日)は、男性長寿日本一だった人物。 兵庫県八鹿町(現・養父市)生まれ。1910年ごろ病気を機に金光教に入信。1946年から朝来教会教会長を務めた。2002年までは朝の祈祷を日課としていた。2003年ごろからは自室で休むことが多く、2004年6月から体調を崩し入院していた。 2004年7月、腎不全のため兵庫県和田山町(現・朝来市)の病院で死去。109歳160日没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
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篠遠 喜人(しのとお よしと、1895年2月20日 - 19… 篠遠 喜人(しのとお よしと、1895年2月20日 - 1989年9月16日)は、日本の遺伝学者、科学史家、東京大学名誉教授。国際基督教大学元学長。 1895年(明治28年)、長野県下諏訪町生まれ。旧制長野県立諏訪中学(のち長野県諏訪清陵高等学校)、第八高等学校を経て、東京帝国大学理学部植物学科で学んだ。1920年(大正9年)に卒業。 1923年(大正12年)頃より、徳川生物学研究所に研究員として在籍。1929年(昭和4年)、学位論文『Chromosome studies in some dioecious plants : with special reference to allosomes(雌雄異株植物の染色體に関する研究 : 殊にアロゾームに就て)』を東京帝国大学に提出して理学博士号を取得。
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鍛冶 良作(かじ りょうさく、1895年〈明治28年〉2月2… 鍛冶 良作(かじ りょうさく、1895年〈明治28年〉2月20日 - 1980年〈昭和55年〉6月8日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(7期)。 富山県下新川郡生地町(現黒部市)出身。1915年に上京して谷欽太郎の書生となる。その後明治大学に入学して雄弁部に所属したが、部内の社会主義論になじめず退部し、「桜桂会」というグループを結成して雄弁部に対抗した。 1921年に明治大学を卒業。翌年神田区会議員となり、1947年、富山一区から衆議院議員に初当選し、以降7期務め、法務政務次官、大蔵政務次官などを歴任。1960年、裁判官弾劾裁判所裁判長に就任。1965年秋の叙勲で勲二等旭日重光章受章。1970年秋の叙勲で勲一等瑞宝章。
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金子 小一郎(かねこ こいちろう、1895年〈明治28年〉2… 金子 小一郎(かねこ こいちろう、1895年〈明治28年〉2月19日 - 1983年〈昭和58年〉10月17日)は、日本の政治家。神奈川県会議員。藤沢市長(通算6期)。位階は正五位。勲三等瑞宝章。 神奈川県高座郡明治村大庭出身。金子角之助の長男。1916年、東京農業大学専門部卒業、農業を営んだ。父・角之助が亡くなると藤沢町農会長となり、1942年に市議会における旧村町間の対立を収める格好で藤沢市長となる。同時に大政翼賛会の推薦候補として神奈川県会議員に当選するが、戦後このことが問題となり1946年に藤沢市長を辞職。続いて公職追放処分となる。 追放解除後の1952年に藤沢市長選挙に出馬。市政運営につまづき赤字財政に転落させた現職の伊沢十郎に対し、財政再建を訴え市長に返り咲く。
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松原 喜之次(まつばら きのじ、1895年2月18日 - 1… 松原 喜之次(まつばら きのじ、1895年2月18日 - 1971年11月13日)は、日本の政治家である。衆議院議員(6期)。 大阪府南河内郡黒山村出身。1922年(大正11年)、京都帝国大学経済学部卒業。桃山学院中学校の英語教諭、大阪府立黒山実業学校の教頭などを経て、経済界に転身した。神国海上火災KK(日本興亜損害保険の前身会社)、大阪タクシーKK、大阪メーターKK等を経て、1946年(昭和21年)、日本社会党に入党、日本社会党大阪府連合常任執行役員となる。 1947年(昭和22年)第23回衆議院議員総選挙で大阪第3区より衆議院議員に初当選、日本社会党中央委員に就任。大阪メーターKKを退職。1950年(昭和25年)東京相互タクシーKKを設立し、代表取締役に就任。
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木谷 千種(きたに ちぐさ、1895年(明治28年)2月17… 木谷 千種(きたに ちぐさ、1895年(明治28年)2月17日 - 1947年(昭和22年)1月24日)は、大正時代から昭和時代の日本画家。 1895年(明治28年)、大阪府大阪市北区堂島の唐物雑貨商を営む吉岡政二郎の娘として生まれる。本姓は吉岡、本名英子。幼くして母を失った後、12歳の時に渡米し2年間シアトルで洋画を学んでいる。1909年(明治42年)に帰国、帰国後の大阪府立清水谷高等女学校在学中より深田直城に師事して花鳥画を学んだ。同年7月の北の大火(天満焼け)により罹災して堂島の自宅を焼失した。そのため女学校卒業間際に東京に移住し、1913年(大正2年)から2年ほど日本画家の池田蕉園に師事している。
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尹 致旺(ユン・チワン、朝鮮語: 윤치왕、1895年2月17… 尹 致旺(ユン・チワン、朝鮮語: 윤치왕、1895年2月17日 - 1982年12月21日)は、韓国の産婦人科医師、軍医である。朝鮮戦争時、彼は軍医官として在職し軍医官を教育、育成した。尹雄烈の庶子であり政治家である尹致昊の異母弟。字は「聖雲」、号は「南圃」。日本名は「伊東致旺」。 1895年、漢城府生まれ。京都帝国大学で学び、1930年8月5日、京都帝国大学大学院で医学博士号を取得(産婦人科分野)。また、グラスゴー大学大学院 医学修士(産婦人科分野)。 1949年8月18日、陸軍本部医務監となる(~1953年9月5日)。。 1953年5月16日、少将に任ぜられる。1956年11月より、第2軍管区司令官。
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平泉 澄(ひらいずみ きよし、 1895年〈明治28年〉2月… 平泉 澄(ひらいずみ きよし、 1895年〈明治28年〉2月15日 - 1984年〈昭和59年〉2月18日)は、日本の国史学者。文学博士。専門は日本中世史。東京帝国大学教授。号は布布木の屋、寒林子、白山隠士[要出典]。 福井県出身の国史学者。東京帝国大学教授、平泉寺白山神社第4代宮司、皇學館大学学事顧問等を歴任。白山神社名誉宮司、玄成院第二十四世。 国体護持のための歴史を生涯にわたって説き続けたことから、「代表的な皇国史観の歴史家」といわれており、彼の歴史研究は「平泉史学」と称されている。近衛文麿など政界とのつながりも深かった。 日本を守る国民会議の結成に際して、発起人として参加している。著作に『中世に於ける社寺と社会との関係』(1926年11月15日)、『国史学の骨髄』(1932年9月18日)など。
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遠山 静雄(とおやま しずお、1895年2月15日 - 19… 遠山 静雄(とおやま しずお、1895年2月15日 - 1986年11月10日)は、日本の照明技師。舞台照明の草分け。広島県出身。 1915年東京高等工業学校(現東京工業大学)電気科卒。東京電気(現東芝)に4年半勤務のち退職して演劇の道に入る。1920年、田中良を主唱者とする舞台美術会(トンボヤの会)に土方与志、伊藤憙朔らと共に参加。「私がやらなければ恐らく誰もやらないだろう」と1920年から本格的に舞台照明に関わる。1921年から新劇、新歌舞伎、新舞踊の舞台照明を担当。当時未開であった舞台照明の研究と確立を目指し、その実践を行うため1929年、小川昇、神保道臣等と共に「遠山照明研究所」(TIL)を創設した。
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森田 豊寿(豊壽、もりた とよひさ、1895年(明治28年)… 森田 豊寿(豊壽、もりた とよひさ、1895年(明治28年)2月14日 - 1962年(昭和37年)1月6日)は、昭和期の農業協同組合指導者、政治家。衆議院議員、参議院議員。 静岡県駿東郡楊原村下香貫(現沼津市下香貫楊原)で、沼津市長を務めた森田泰次郎の長男として生まれる。1917年(大正6年)千葉高等園芸学校を卒業。父が勧めた銀行家への道を断り、農業経営に従事。 1921年(大正10年)楊原産業組合を設立し組合長に就任。以後、沼津市販売購買利用組合長、同市農会長に就任し、沼津市信用組合長、静岡県信用組合連合会専務理事を長らく務めた。1941年(昭和16年)から静岡県内の各種農業団体の代表を務め、沼津倉庫社長、静岡県食糧品工業社長、同県蚕糸社長、駿河銀行(現スルガ銀行)取締役なども務めた。
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淡路 円治郎(淡路 圓治郎、あわじ えんじろう、1895年2… 淡路 円治郎(淡路 圓治郎、あわじ えんじろう、1895年2月13日 - 1979年4月30日)は、日本の心理学者、社会学者、教育者。立教大学名誉教授・初代社会学部長、東京帝国大学教授・航空研究所教授。心理学および労務管理学の権威で、立教大学社会学部の創設者である。労働、通産、文部各省の審議会委員も歴任し、日本労務研究会理事長や雇用問題研究会会長なども務めた 兵庫県神戸市生まれ。1919年(大正8年)、東京帝国大学文学部心理学科を卒業した。その後、大学院に学び、1925年(大正14年)からドイツに留学し、ベルリン大学、ハンブルク大学で学ぶ。 1927年(昭和2年)、立教大学教授に就任。1929年(昭和4年)に東京帝国大学助教授、1939年に(昭和14年)教授となった。
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野田 誠三(のだ せいぞう、1895年(明治28年)2月11… 野田 誠三(のだ せいぞう、1895年(明治28年)2月11日 - 1978年(昭和53年)3月28日)は、日本の実業家。阪神電気鉄道社長・会長、阪神百貨店社長、阪神不動産社長、阪神タイガースオーナーなどを歴任。阪神甲子園球場の設計者でもある。大阪北ロータリークラブ初代会長。朝日放送元取締役。勲二等瑞宝章受章。1974年野球殿堂入り。 現在の兵庫県加西市出身。旧制姫路中学(現兵庫県立姫路西高等学校)を経て、旧制第八高等学校、京都帝国大学工学部卒業後、1922年に阪神電鉄へ入社。1924年から甲子園球場建設の設計主任として携わり、1941年に取締役、1951年に社長に就任。1967年から5年間、会長を務めた。
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増田 八郎(ますだ はちろう、1895年2月11日 - 19… 増田 八郎(ますだ はちろう、1895年2月11日 - 1945年9月29日)は、日本の建築家。内務省技師などを歴任し、和歌山県庁舎の実施設計者として知られる。 東京で江戸時代から続く袴製造の商家に長男として生まれた。学業が優秀だったため東京帝国大学に進学し、家業は弟が継いだ。 1921年(大正10年)に東京帝国大学工学部建築学科を卒業して内務省に入省し、都市計画課に配属される。1922年、警視庁建築監督官となる。1924年4月、内務省外局として設置された復興局の建築講習会講師嘱託を務める。6月に再び都市計画局に戻った後、1925年から内務省復興局技師となり、帝都復興事業に従事した。 1929年(昭和4年)、東北帝国大学技師として赴任し、その後営繕課長や助教授を歴任した。
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野田 武夫(のだ たけお、1895年2月8日 - 1972年… 野田 武夫(のだ たけお、1895年2月8日 - 1972年6月7日)は、昭和期の日本の政治家。総理府総務長官・自治大臣。位階は正三位。元衆議院議員の野田毅は娘婿。 熊本県飽託郡川口村(現・熊本市南区)出身。 旧制熊本中学校(現熊本県立熊本高等学校)を経て、1923年早稲田大学法学部独法科を卒業後、国民新聞記者、東京朝日新聞政治部記者、神奈川新聞社社長、町田忠治商工大臣秘書官を経て、1936年第19回衆議院議員総選挙に立憲民政党公認で旧神奈川2区より立候補して当選を果たす。以後戦後も含めて当選8回。戦前は軍需政務次官、商工省参与などを務めた。政党解消後は翼賛議員同盟→翼賛政治会→大日本政治会に所属した。
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川島 四郎(かわしま しろう、1895年(明治28年)2月8… 川島 四郎(かわしま しろう、1895年(明治28年)2月8日 - 1986年(昭和61年)12月3日)は、日本の陸軍軍人、栄養学者。最終階級は陸軍主計少将。農学博士。 京都府出身。東本願寺内陣・川島幸之助の四男として生まれる。京都二中を卒業し、陸軍経理学校に入学。1918年(大正7年)5月、同校(12期)を卒業。同年12月、三等主計に任官し歩兵第12連隊付となる。第11師団経理部員、第8師団経理部員、独立守備歩兵第4大隊付兼関東軍経理部員などを歴任。 1927年(昭和2年)5月、経理学校高等科(5期)を卒業した。さらに、員外学生として東京帝国大学農学部農芸化学科に1930年(昭和5年)5月15日まで3年間派遣された。
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武藤 勝彦(むとう かつひこ、1895年(明治28年)2月7… 武藤 勝彦(むとう かつひこ、1895年(明治28年)2月7日 - 1966年(昭和41年)8月16日)は、参謀本部陸地測量部の測量官を務めた陸軍技師、内務官僚。地理調査所長を経て初代国土地理院長を務めた。 埼玉県本庄市出身。1915年(大正4年)旧制埼玉県立熊谷中学校卒業後、第八高等学校から大学予科第二部乙類を経て1922年(大正11年)3月31日東京帝国大学理学部物理学科卒業後、同年9月11日山形高等学校教授に任官(高等官七等)。陸軍工兵曹長を経て、1925年(大正14年)5月18日陸地測量師に任官し陸地測量部付となる。1926年(大正15年)3月31日陸軍工兵少尉に昇進し、1930年(昭和5年)4月1日後備役編入となる。
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宮崎 周一(みやざき しゅういち、1895年(明治28年)2… 宮崎 周一(みやざき しゅういち、1895年(明治28年)2月6日 - 1969年(昭和44年)10月16日)は、昭和期日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。兵科は歩兵。 長野県下伊那郡飯田町(現飯田市)出身。警察官・宮崎岩太郎の長男として生まれる。豊橋中学校を経て、1916年(大正5年)5月、陸軍士官学校(28期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第17連隊付となる。陸士予科区隊長などを経て、1927年(昭和2年)12月、陸軍大学校(39期)を卒業し歩兵第17連隊中隊長に就任。 1929年(昭和4年)2月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員(外国戦史課)に異動。1931年(昭和6年)8月、歩兵少佐に昇進。
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赤津 庄兵衛(あかつ しょうべえ、1895年(明治28年)2… 赤津 庄兵衛(あかつ しょうべえ、1895年(明治28年)2月4日 - 1981年(昭和56年)9月20日)は、福島県勿来市(現・いわき市)長(2期)。位階は正六位。 福島県菊多郡窪田村(のち石城郡窪田村→勿来町→勿来市、現・いわき市)に生まれる。1912年福島県立磐城中学校卒。卒業後は家業の味噌醤油醸造業に従事、1920年磐城造林会社を設立、取締役社長となる。1932年勿来町長を2期、1940年福島県会議員を2期務める。1950年植田信用金庫理事長、1953年福島県教育委員、1956年福島県公安委員を歴任する。1959年勿来市長に初当選。1963年に再選。勿来市長をいわき市に合併するまで務めた。
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小山 亮(こやま まこと、1895年2月4日 - 1973年… 小山 亮(こやま まこと、1895年2月4日 - 1973年2月9日)は、日本の政治家(衆議院議員)。 自由民権運動家で衆議院議員を務めた長野県小諸出身の小山久之助の次男として、東京市麹町に生まれる。6歳の時に父が亡くなり、父の郷里である小諸に移る。1912年3月、小諸町立小諸商工学校(現・長野県小諸商業高等学校)を卒業後上京し、父と知遇のあった大隈重信から援助を得て三重県立鳥羽商船学校(現・鳥羽商船高等専門学校)に入学したが1年で退学、新潟県立新潟商業学校(現・新潟県立新潟商業高等学校)の商船科に移ったがここもその年に退学し、1914年3月に愛媛県立弓削商船学校(現・弓削商船高等専門学校)に移り、1919年に卒業した。
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森下 信衛(もりした のぶえ、1895年(明治28年)2月2… 森下 信衛(もりした のぶえ、1895年(明治28年)2月2日 - 1960年(昭和35年)6月17日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。正しくは、「衛」ではなく旧字体の「衞」である[信頼性要検証]。 愛知県出身。旧制明倫中学校(現・愛知県立明和高等学校)を経て、 1917年(大正6年) 海軍兵学校45期で卒業。戦艦榛名、大和などの艦長を務め、天一号作戦(坊ノ岬沖海戦)では第2艦隊参謀長を務めた。この坊の岬沖海戦時の大和艦長有賀幸作大佐、第二水雷戦隊司令官古村啓蔵少将(軽巡洋艦矢矧乗組)とは海兵同期である。数少ない戦艦大和沈没時の生存者であった。 海上幕僚監部装備部長、防衛装備庁長官官房装備官を歴任し、2017年(平成29年)12月に退官した舩木洋海将は孫。
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山上 宗治(やまがみ そうじ、1895年〈明治28年〉2月2… 山上 宗治(やまがみ そうじ、1895年〈明治28年〉2月2日 - 1965年〈昭和40年〉5月13日)は、大日本帝国陸軍の法務高等官二等であり法務少将である。二・二六事件、ノモンハン事件の裁判官。岡山県倉敷市出身。 1895年(明治28年)に岡山県児島郡藤戸村(現在の倉敷市)に生れる。地元に近い旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)を1913年(大正2年)に卒業し、1915年(大正4年)旧制第六高等学校へ進学。同期には、東京帝国大学教授になる宇野弘蔵、関西大学教授になる高木益郎などがいた。1918年(大正7年)同校を卒業し、同年、郷里の同期である高木益郎と共に、京都帝国大学法学部へ進学する。
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阿部 豊(あべ ゆたか、明治28年(1895年)2月2日 -… 阿部 豊(あべ ゆたか、明治28年(1895年)2月2日 - 昭和52年(1977年)1月3日)は、ハリウッド無声映画期の俳優、また日本の映画監督。
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山羽 儀兵(やまは ぎへい、1895年(明治28年)2月2日… 山羽 儀兵(やまは ぎへい、1895年(明治28年)2月2日 - 1948年(昭和23年)2月4日)は、日本の植物学者である。 三重県に生まれ、東京帝国大学理科大学(現在の東京大学大学院理学系研究科・理学部)植物学科に入学する。1918年(大正7年)に卒業後は、翌1919年(大正8年)から1928年(昭和3年)まで母校で教鞭を執った。東京帝大勤務中の1927年(昭和2年)には理学博士を取得している。翌年には留学のため離日し、ドイツを経てフランスで学んだ。 帰国後は東京文理科大学および東京高等師範学校(いずれも後の東京教育大学、現在の筑波大学)で教鞭を執り、その傍らで原形質を中心に細胞学等の研究に携わる。
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陳 澄波(ちん とうは、チェン・チェンボー、ダン・ティンプ、… 陳 澄波(ちん とうは、チェン・チェンボー、ダン・ティンプ、拼音: Chén Chéngbō、白話字: Tân Têng-pho、英語: Tan Teng-pho、1895年2月2日 - 1947年3月25日)は、台湾の画家。台湾近代美術界を代表する画家であり、「台湾画壇のモダニズムの父」とされている。 清朝の台南府嘉義県に生まれ、日本の東京美術学校(現・東京芸術大学)を卒業した。1926年には台湾人画家として初めて帝展に入選した。1947年の二・二八事件で中華民国政府軍によって殺害された。故郷の嘉義市文化会館の一角には陳澄波記念館が設置されている。 1895年2月2日、清朝統治時代の台南府嘉義県に生まれた。
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加藤 吉太夫(かとう きちだゆう、1895年(明治28年)2… 加藤 吉太夫(かとう きちだゆう、1895年(明治28年)2月2日 - 1988年(昭和63年)3月11日)は、日本の農業経営者、農民運動家、政治家。衆議院議員(1期)、福井県今立郡中河村長。1930年(昭和5年)吉太夫と改名。位階は従五位。 福井県今立郡中河村下河端(現鯖江市)で、加藤家の二男として生まれる。1911年(明治44年)福井県立武生中学校(現福井県立武生高等学校)を卒業した。 農業を営み、下河端青年団長、中河村会議員、福井県農民連盟副委員長、中河村長、中河村徳尾合同耕地整理組合長などを務めた。 1947年(昭和22年)4月、第23回衆議院議員総選挙で福井県全県区から福井県農民連盟副委員長として出馬し当選し、衆議院議員に1期在任した。
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遠山 信一郎(とおやま しんいちろう、1895年2月1日 -… 遠山 信一郎(とおやま しんいちろう、1895年2月1日 - 1979年6月14日)は、日本の内務官僚。 千葉県印旛郡八街村(現・八街市)生まれ。第四高等学校を経て、東京帝国大学法学部政治科卒業。 1920年 内務省に入省。長野県配属。1931年 静岡県内務部地方課長。1932年3月 富山県学務部長。学務部長という職にありながら農村報徳運動の普及に力をそそぎ、飛行場建設にも幹事長として重要な役割を果たし、影のプロモーターといわれた。富山県新興報徳社など各地の報徳社の設置にも携わる。1935年1月18日 埼玉県経済部長。なお、1936年2月26日から1941年2月27日まで大日本報徳社の参事を兼ねており、1936年12月26日に設立された報徳経済学研究会では実行委員を務めていた。
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松井 豊吉(まつい とよきち、1895年〈明治28年〉2月1… 松井 豊吉(まつい とよきち、1895年〈明治28年〉2月1日 - 1959年〈昭和34年〉1月23日)は、日本の政治家・実業家。衆議院議員(3期)、桐生市会議員。 群馬県桐生市宮本町に松井兵三郎の次男として生まれる。尋常高等小学校卒。1915年(大正4年)徴兵検査に合格し水戸の工兵大隊に入営し、伍長勤務上等兵として満期除隊。その後は一時農業に従事したが、1928年(昭和3年)に土建業を創業。桐生屈指の業者に成長する。 1933年(昭和8年)に桐生市会議員に当選して以来15年在職。1945年(昭和20年)10月に群馬民衆党を結党し党首となった。1946年(昭和21年)の第22回衆議院議員総選挙に立候補するも落選。
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清水 虎尾(しみず とらお、1895年〈明治28年〉1月30… 清水 虎尾(しみず とらお、1895年〈明治28年〉1月30日 - 1968年〈昭和43年〉10月14日)は、大宮市(現・さいたま市)長(第7代)。勲五等瑞宝章。 埼玉県北足立郡大宮町(のち大宮市、現・さいたま市)に生まれる。1921年(大正10年)中央大学商科卒。卒業後は日清紡績に入り、商務課長を最後に退職した。その後は、材木屋や建築請負を経て、大宮でパン屋を開業した。その後、大宮町役場に入った。勧業課長を務めた。1938年(昭和13年)大宮町助役となり、市制施行に尽力した。1941年(昭和16年)1月20日から1943年(昭和18年)9月17日まで大宮市助役を務めた。 1947年(昭和22年)の大宮市長選挙に日本自由党公認で立候補したが、社会党公認の津川辰政に敗れた。
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小池 藤五郎(こいけ とうごろう、1895年1月30日 - … 小池 藤五郎(こいけ とうごろう、1895年1月30日 - 1982年11月4日)は、日本近世文学の研究者。狂歌人でもあった。 山東京伝、曲亭馬琴などの読本を専門とし、『南総里見八犬伝』岩波文庫版の校訂者として知られる。黄表紙研究者の小池正胤は息子。 山梨県北巨摩郡更科村(現韮崎市)生まれ。 実家は富裕な名主の家系で、甲斐国のみならず江戸の文人との交流のある環境であった。曽祖父に当たる小池伝右衛門富章(号は勝山、文雅園)は国学・漢学に通じ、狂歌師として「白水亭亀丸」の号を持っていた。小池家には『南総里見八犬伝』が肇輯から初版本がそろっており、近郷唯一の『八犬伝』として親戚・知人や家来筋の人々にも愛読されたというが、1898年(明治31年)の洪水で書庫とともに流され失われたという。
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三樹 樹三(みき きぞう、1895年(明治28年)1月30日… 三樹 樹三(みき きぞう、1895年(明治28年)1月30日 - 1948年(昭和23年)12月15日)は、日本の内務官僚。官選島根県知事。 神奈川県津久井郡三ケ木村(現・相模原市緑区)出身。明治書院創業者・三樹一平の三男として生まれる。第一高等学校を卒業。1918年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。同年10月、高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し岡山県属となる。 以後、岡山県理事官、長野県理事官、臨時震災救護事務局事務官、復興局経理部会計課長、内務書記官、大臣官房会計課長、滋賀県書記官・内務部長、群馬県書記官・総務部長、兵庫県書記官・総務部長、大阪府総務部長などを歴任。 1937年2月、島根県知事に就任。
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逸見 享(へんみ たかし、1895年(明治28年)1月29日… 逸見 享(へんみ たかし、1895年(明治28年)1月29日 - 1944年(昭和19年)10月19日)は、大正時代から昭和時代戦前にかけての版画家、装幀家。 和歌山県和歌山市生まれ。1913年(大正2年)に和歌山市立和歌山商業学校を出て上京し、1914年(大正3年)中央大学に入学する。1915年(大正4年)12月に同郷で3学年先輩に当たる田中恭吉の遺作展覧会を東京・日比谷美術館で見て感銘を受ける。 1916年(大正7年)に小林富次郎商店(後のライオン歯磨本舗小林商店)に入社し、同社意匠部に勤めるかたわら木版画を始めた。詩人の大手拓次が小林商店広告部の文案係に入ると彼と知り合い、共に詩や短歌を作りながら詩集『異香』(1917年)、『あをちどり』(1918年)、『詩情』(1924年)、後に大手の遺作となる『藍色の蟇』(1936年)などの装幀を手がけるようになった。
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足立 実(あだち みのる、1895年(明治28年)1月28日… 足立 実(あだち みのる、1895年(明治28年)1月28日 - 1974年(昭和49年)4月2日)は、日本の政治家。鳥取県境港市長(初代)。 鳥取県西伯郡余子村大字福定(現境港市福定町)出身。 京都高等蚕糸学校(現京都工芸繊維大学)卒業。郡是製紙の技師として占領下の中国に渡り、帰国した昭和16年(1941年)から5年間、余子村長に、昭和29年(1954年)に境港町長に、昭和31年(1956年)市制施行に伴い初代の境港市長にそれぞれ就任した。 市長を退任するまで村長、町長を含め18年間、地方行政の長として境港市の基盤づくりに努めた。 足立について、次男の足立純一によると
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田中 菊松(たなか きくまつ、1895年(明治28年)1月2… 田中 菊松(たなか きくまつ、1895年(明治28年)1月27日 - 1964年(昭和39年)10月7日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 新潟県出身。1915年(大正4年)12月、海軍兵学校43期を卒業。席次は95名中42位。1916年(大正5年)12月、海軍少尉に任官。砲術学校高等科で学んだ。1922年(大正11年)12月、駆逐艦「浦風」砲術長。1925年(大正14年)12月、砲術学校教官兼副官を経て、1929年(昭和4年)11月、海軍大学校(甲種27期)を卒業。 1930年(昭和5年)12月、砲術学校教官、兼水雷学校教官、兼装甲巡洋艦「春日」教官、兼通信学校教官となり、重巡洋艦「青葉」砲術長を経て、1933年(昭和8年)11月、海軍中佐に進級し、連合艦隊参謀、兼第一艦隊参謀に就任。
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四手井 綱正(しでい つなまさ、1895年1月27日 - 1… 四手井 綱正(しでい つなまさ、1895年1月27日 - 1945年8月18日)は、日本の陸軍軍人、戦史研究者。最終階級は陸軍中将。 京都府山科(現京都市)の旧家(郷士)出身。教員・四手井彦四郎の長男として生まれる。京都一中、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、陸軍騎兵少尉に任官し騎兵第23連隊付となる。1922年(大正11年)11月、陸軍大学校(34期)を優等で卒業した。 陸軍騎兵学校教官、ドイツ駐在、陸大教官、兼参謀本部員などを経て、1935年(昭和10年)8月から1939年(昭和14年)3月まで侍従武官を務めた。この間、1936年(昭和11年)には、飛行第五連隊で発生した飛行機墜落事故発生の状況実視に遣わせられた。
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山口 益(やまぐち すすむ、1895年1月27日 - 197… 山口 益(やまぐち すすむ、1895年1月27日 - 1976年10月21日)は、日本の仏教学者。大谷大学教授・学長。 1895年、京都府京都市に生まれた。大谷大学で学び、1918年に卒業。1927年から29年にかけてフランスに留学し、シルヴァン・レヴィに師事。欧州における梵語・チベット語研究を学び、チベット大蔵経や大乗仏典などの原典文献の研究を行った。 1933年より大谷大学教授。1943年、京都帝国大学に学位論文『仏教に於ける無と有との対論』を提出して文学博士号を取得。1950年より1958年まで大谷大学学長を務めた。大谷大学を退任後、名誉教授となった。また、京都産業大学教授。1965年、日本学士院会員に選出された。
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内山 泰(うちやま とおる、1895年(明治28年)1月27… 内山 泰(うちやま とおる、1895年(明治28年)1月27日 - 1944年(昭和19年)7月6日)は、病理学者、専門は組織化学。医学博士。正五位。学生時代から禅に打ち込み、盛岡において盛岡禅道会を創立した。二高時代には、黒川利雄と特に親しかった。 新潟県中魚沼郡芦ヶ崎村(現・津南町)に出生。 胃癌の肝転移のため逝去、享年49。
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川越 守二(かわごえ もりじ、1895年(明治28年)1月2… 川越 守二(かわごえ もりじ、1895年(明治28年)1月25日 - 1976年(昭和51年)12月20日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 鹿児島県出身。農業・川越半之丞の五男として生まれた。鹿児島第一中学校(現鹿児島県立鶴丸高等学校)を経て、1916年(大正5年)5月、陸軍士官学校(28期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し野砲兵第1連隊付となる。1919年(大正8年)11月、陸軍砲工学校高等科(25期)を卒業。1924年(大正13年)11月、陸軍大学校(36期)を卒業した。 1925年(大正14年)8月、野砲兵第1連隊中隊長に就任。1926年(大正15年)3月、参謀本部付勤務となり、関東軍幕僚付、第6師団参謀を務め、1931年(昭和6年)8月、砲兵少佐に進級し野砲兵第6連隊大隊長に就任。
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松井 芒人(まつい ぼうじん、本名: 源衛、1895年1月2… 松井 芒人(まつい ぼうじん、本名: 源衛、1895年1月25日 - 1980年12月27日)は、日本の歌人、教育者である。 長野県上伊那郡伊那富村(現辰野町羽場)生まれ。長野県立諏訪中学校を経て、1914年長野県師範学校(現・信州大学)を卒業。上伊那郡七久保小学校を振り出しに県内各地で教職に携わる。高遠国民学校、高遠拓殖青年学校、高遠実科高等女学校の校長を歴任。 1917年、「アララギ」入会。島木赤彦、土屋文明、土田耕平と相識り、歌は「アララギ」一筋によりながら、1947年には歌誌「流域」を主宰して、上伊那地域の人々の短歌指導にあたった。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
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湯浅 十郎(ゆあさ じゅうろう、1895年(明治28年)1月… 湯浅 十郎(ゆあさ じゅうろう、1895年(明治28年)1月24日 - 1981年(昭和56年)6月26日)は、ブラジル・ホーリネス教団の牧師である。 湯浅治郎、湯浅初子の子供として生まれる。同志社中学に学び、1910年(明治43年)に原田助から洗礼を受ける。1913年に第三高等学校に入学する。また、東京神学社で学ぶ。 1915年(大正4年)、日本ホーリネス教会の田辻敏子の指導を受けて、同教会に転入する。1919年(大正8年)に辻静子と結婚する。純、敬が生まれる。 1929年(昭和4年)に中田重治監督と共に、ブラジル伝道に行き、先に派遣されていた物部赳夫に会う。湯浅は一家でブラジルに永住することになる。
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根来 治(ねごろ おさむ、1895年(明治28年)1月24日… 根来 治(ねごろ おさむ、1895年(明治28年)1月24日 - 1971年(昭和46年)2月25日)は、日本の郷土史家である。号は鉄蕉。 大阪府東鳥取村(後の東鳥取町、現在の阪南市)に生まれる。後に上京し早稲田大学に入学するが、中退し故郷に帰った。 後に同地で「鳥取史談会」の結成に携わり、同郷の郷土史家と共に東鳥取の歴史が書かれた『東鳥取村誌』の編纂の一人となった。なお、この著書は1958年(昭和33年)に刊行されている。その後は『鳥取郷史』の編纂にも携わるが編纂中に死去し、死去から2年後の1973年(昭和48年)に刊行された。 この項目は、大阪府に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(Portal:日本の都道府県/大阪府)。
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小坂 武雄(こさか たけお、1895年(明治28年)1月23… 小坂 武雄(こさか たけお、1895年(明治28年)1月23日 - 1971年(昭和46年)10月26日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。小坂財閥小坂善之助の子。 1895年、長野県長野市で小坂善之助の息子として生まれる。東京帝国大学法学部卒業後、1924年に兄・小坂順造の経営する信濃毎日新聞社に入社する。1942年に同社社長に就任し、同年の衆議院選挙に翼賛政治体制協議会の推薦で長野県第1区から出馬して当選した(所属は翼賛政治会→大日本政治会→日本進歩党)。戦後、公職追放により社長を辞任するが、1953年に公職追放解除により再び社長に就任、積極経営で同社を発展させた。その後は長野商工会議所会頭などを歴任する。
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八坂 善一郎(やさか ぜんいちろう、1895年(明治28年)… 八坂 善一郎(やさか ぜんいちろう、1895年(明治28年)1月23日 - 1980年(昭和55年)8月29日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、初代大分県旧杵築市長。 大分県速見郡八坂村大字日野(現杵築市)で、大分県会議長を務めた八坂三治の長男として生まれる。早稲田大学政治経済科で学んだが、中国大陸に心惹かれ中退して満州に渡った。1927年(昭和2年)政治家を目ざして帰郷。 1933年(昭和8年)八坂村会議員に選出された。別府自動車社長に就任し、1939年(昭和14年)大分県会議員となる。1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙で大分県全県区から日本進歩党公認で出馬して当選し、その後、民主党に所属し衆議院議員に1期在任した。
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伊藤 野枝(いとう のえ、1895年(明治28年)1月21日… 伊藤 野枝(いとう のえ、1895年(明治28年)1月21日 - 1923年(大正12年)9月16日)は、日本の婦人解放運動家、無政府主義者、作家、翻訳家、編集者。戸籍名は伊藤ノヱ。 かつて平塚らいてうが編集長を務めていた雑誌「青鞜」で活躍するも編集作業を放棄して休刊させ、不倫を堂々と行い、結婚制度を否定する論文を発表して戸籍上の夫である辻潤を捨てて大杉栄の妻、愛人と四角関係を演じた。その暮らしから世評に「わがまま」「奔放」と批判された反面、現代的自我の精神を50年以上も先取りして人工妊娠中絶(堕胎)、売買春(廃娼)、貞操など現在においても問題として取り上げられている課題を題材とし、多くの評論や小説、翻訳を発表した。
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平賀 文男(ひらが ふみお、1895年(明治28年)1月20… 平賀 文男(ひらが ふみお、1895年(明治28年)1月20日 - 1964年(昭和39年)4月19日)は、山梨県出身の登山家、郷土史家。 山梨県北巨摩郡穂坂村(現・韮崎市)に、父「延富」、母「ふで」の長男として生まれる。1909年(明治42年)4月に山梨県立甲府中学校(現・山梨県立甲府第一高等学校)に入学したが1911年(明治44年)3月に中退し同年4月に東京の目白中学校に転入。同校卒業後の1914年(大正3年)に早稲田大学政治経済学科に入学し1917年(大正6年)に卒業とともに帰郷。 1921年(大正10年)に穂坂村村会議員に当選、また北巨摩郡農会議員を務めるなど村治や新興産業発展につくし、特に地域の開発に熱心で広く各地の山野を跋歩し、未知の景勝、山岳などを調査研究し、甲斐山岳会の設立を提唱して実現。
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実吉 捷郎(さねよし はやお、1895年(明治28年)1月2… 実吉 捷郎(さねよし はやお、1895年(明治28年)1月20日 - 1962年(昭和37年)2月15日)は、日本の独文学者、翻訳家。 1895年に実吉安純の六男として東京に生まれる。東京帝国大学卒業後、水戸高等学校(旧制)、府立高等学校などで教師生活を経て、1949年旧・東京都立大学教授となる。後に桐朋学園大学教授、立正大学教授。トーマス・マンなど近代ドイツ文学の紹介で貢献的な役割を果たした。 一時期は伯爵・日野資秀の三女と結婚し、婚姓から「日野 捷郎」という名前で著作活動をした。義兄日野資謙の死去に伴い、1925年6月1日に伯爵を襲爵するも、1931年2月27日に隠居し、同年4月10日に離婚したため復姓した。
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辰巳 栄一(たつみ えいいち、1895年(明治28年)1月1… 辰巳 栄一(たつみ えいいち、1895年(明治28年)1月19日 - 1988年(昭和63年)2月17日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。公職追放中にもかかわらず、吉田茂とGHQの橋渡しを務めた。そのとき、吉田にウィロビーを引き合わせた。戦後の連合軍占領中にウィロビーの発案で河辺機関が組織された。 佐賀県出身。商業・辰巳兵三郎の二男として生まれる。佐賀中学校を経て1915年5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第21連隊付となる。独立守備隊第4大隊付、陸軍歩兵学校付などを経て1925年11月、陸軍大学校(37期)を優等で卒業し歩兵第21連隊中隊長に就任した。
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長 勇(ちょう いさむ、1895年1月19日 - 1945年… 長 勇(ちょう いさむ、1895年1月19日 - 1945年6月23日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
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坂口 二郎(さかぐち じろう、1895年(明治28年)1月1… 坂口 二郎(さかぐち じろう、1895年(明治28年)1月19日 - 1975年(昭和50年)6月16日)は、日本の実業家。ユニチカ初代社長。関西棋院理事長。 揖野要太郎の四男として、島根県安濃郡大田町(現:大田市)に生まれる。 1918年(大正7年)神戸高等商業学校(現:神戸大学)、1920年東京高等商業学校(現:一橋大学)専攻部をそれぞれ卒業する。同年坂口製糸合資会社を前身とする日本製糸に入社する。翌年、坂口財閥の初代・坂口平兵衛に懇望されて長女の婿養子となり、1922年に常務に抜擢され、1926年には副社長に昇格した。社長は初代・平兵衛で二郎は事実上のトップだった。 1942年(昭和17年)、戦時下の企業統合で日本製糸は大日本紡績(現:ユニチカ)の子会社・日本レイヨンに吸収合併されると、常務に転じ、戦後の1946年、社長に昇格した。
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