江島 久米雄(えじま / えしま くめお、1850年(嘉永3… 江島 久米雄(えじま / えしま くめお、1850年(嘉永3年2月)- 1933年(昭和8年)3月18日)は、明治から大正期の政治家。衆議院議員。本名・粂雄。 豊前国宇佐郡南宇佐村(大分県宇佐郡宇佐町を経て現宇佐市南宇佐)で、農業・江島茂兵衛の長男として生まれる。1872年(明治5年)中津の白石照山塾に入り、1876年(明治9年)郡立宇佐中学校を卒業した。 連合町村会議員、所得税調査委員、宇佐郡会議員、同議長代理者などを務めた。1879年(明治12年)に上京したが、1880年(明治13年)大分県会議員に当選したため帰郷し、1894年(明治27年)まで在任。この間、1889年(明治22年)と1893年(明治26年)に県会副議長となり、同常置委員、同参事会員も務めた。
肥田木 基昌(ひだき もとよし、1850年(嘉永3年8月)-… 肥田木 基昌(ひだき もとよし、1850年(嘉永3年8月)- 1906年(明治39年)5月10日)は、明治期の政治家。衆議院議員、宮崎県西諸県郡飯野村長。 日向国諸県郡飯野郷大明司村(宮崎県北諸県郡飯野郷大明司村、西諸県郡飯野郷大明司村、飯野村大字大明司、飯野町、えびの町を経て現えびの市大明司)で生まれた。漢学を修めた。 飯野村長、飯野村会議員、宮崎県会議員を務めた。1894年(明治27年)9月、第4回衆議院議員総選挙(宮崎県第2区、自由党)で当選し、衆議院議員に1期在任した。
三浦 信六(みうら しんろく、1850年(嘉永3年7月)- … 三浦 信六(みうら しんろく、1850年(嘉永3年7月)- 1897年(明治30年)9月19日)は、明治期の政治家。衆議院議員、福島県耶麻郡加納村長。 陸奥国耶麻郡上野村(福島県耶麻郡米岡村、加納村、熱塩加納村を経て現喜多方市熱塩加納町米岡上野)で、肝煎(庄屋)三浦嶺八の息子として生まれる。日新館で学び、その後江戸に出て昌平坂学問所で学んだ。 1881年(明治14年)頃から自由民権運動に加わり、同年5月、会津地方有志大親睦会で座長となり、自由党会津支部の創設に尽力し、1882年(明治15年)2月に同支部常任委員に就任。同年12月、福島県会議員に選出され、三島通庸県令反対派であったが、会津三方道路問題には関与しなかった。
中田 長茂(なかた ながしげ、1850年(嘉永3年7月) -… 中田 長茂(なかた ながしげ、1850年(嘉永3年7月) - 1929年(昭和4年)1月3日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 近江国高島郡勝野村(のち滋賀県高島郡大溝村→大溝町→高島町、現・高島市)生まれ。漢学を学ぶ。高島郡書記、滋賀県属、滋賀県会議員、同参事会員、所得税調査委員、地方森林会議員、地方衛生会委員、近江銀行取締役、滋賀県農工銀行監査役、近江貯蓄銀行頭取となる。 1892年の第2回衆議院議員総選挙において滋賀1区から同盟倶楽部所属で立候補したが落選した。1894年3月の第3回衆議院議員総選挙では立憲革新党所属で立候補して当選する。同年9月の第4回衆議院議員総選挙で落選した。衆議院議員は1期務め、1929年に死去した。
一瀬 代蔵(いちせ だいぞう、1850年〈嘉永3年〉 - 1… 一瀬 代蔵(いちせ だいぞう、1850年〈嘉永3年〉 - 1920年〈大正9年〉)は、日本の政治家。福井県大飯郡青郷村長(第3代)。勲等は勲七等。 青郷村(現・高浜町)関屋生まれ。1884年(明治17年)7月に小和田村ほか8ヶ村の戸長となった。1891年(明治24年)5月1日から1894年(明治27年)2月16日まで青郷村助役を、同月17日から1906年(明治39年)2月22日まで第3代青郷村村長を務めた。在任中は小学校の建設をした。名誉職郡参事会員である。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
三遊亭 圓鶴(さんゆうてい えんかく、1850年 - 190… 三遊亭 圓鶴(さんゆうてい えんかく、1850年 - 1901年9月21日)は、武州所沢(現:埼玉県所沢市)出身の落語家。本名は倉片順六。兄は同じ落語家の三遊一朝。 明治初期に兄と同じ三遊亭圓朝の下に入門して、兄が名乗った三遊亭勢朝を名乗り、1877年ころに圓鶴と改名する。 1901年9月21日盲腸で死去。享年51。亡くなる直前『噺家は自分一代で沢山、子孫は落語家になってはいけない』と遺言と『亡き父の月と変らぬ死出の旅』と言う辞世の句を残した。 なお、一朝は圓鶴よりも長寿であり、圓鶴が死去してから29年後の1930年に亡くなった。一朝は圓朝一門でも最も長寿であった。 長男助次郎は父の遺言に背向き4代目橘家圓蔵門下で落語家になり、鶴蔵を名乗ったが、前座で廃業した。
小川 虎一(おがわ とらいち、1850年(嘉永3年9月) -… 小川 虎一(おがわ とらいち、1850年(嘉永3年9月) - 1916年(大正5年)5月4日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 肥前国彼杵郡長浦村(のち長崎県西彼杵郡長浦村、琴浦村、琴浦町を経て現長崎市)生まれ。大村藩校五教館で学ぶ。長浦村戸長、同村長、長崎県会議員となる。 1894年(明治27)12月、家永芳彦の辞職による第4回衆議院議員総選挙補欠選挙で長崎1区から立候補して初当選した。続く1898年(明治31年)3月の第5回総選挙では立憲自由党公認で立候補して再選した。衆議院議員を2期務め、同年8月の第6回総選挙は不出馬。1916年に死去した。
小幡 英之助(おばた えいのすけ、嘉永3年(1850年) -… 小幡 英之助(おばた えいのすけ、嘉永3年(1850年) - 1909年(明治42年)4月26日)は、日本最初の歯科医師。豊前国中津(現・大分県中津市)出身。 中津藩甲州流軍学師範役・小幡孫兵衛の長男で、慶應義塾塾長となった小幡篤次郎の従弟。 藩校・進脩館に学び、15歳で元服して藩大砲方に加わり長州戦争で初陣。1869年(明治2年)20歳で上京、叔父・小幡篤次郎を頼って芝新銭座の慶應義塾に入り、さらに同郷出身の医師・佐野諒元について医学を修め、次いで近藤良薫について横浜で外科を習得。 米国人歯科医師セント・ジョージ・エリオットから西洋式の最新歯科技術と知識を学び、1874年(明治7年)医制の公布の後、第1回目の医術開業試験に「歯科」として受験し合格した。
安倍 慎太郎(あべ しんたろう、1850年(嘉永3年)- 1… 安倍 慎太郎(あべ しんたろう、1850年(嘉永3年)- 1882年(明治15年)10月10日)は、日本の政治家。 1850年、安倍英任の長男として長門国大津郡蔵小田村(現:山口県長門市油谷蔵小田)に生まれ、安倍家中興の祖と評される。安倍家は江戸時代に大庄屋を務め、酒と醤油の醸造を営む大地主であり、地元の名門として知られた豪家である。慎太郎は明治12年(1879年)の第1回山口県議会議員選挙に当選、中央政界入りを狙うも明治15年(1882年)10月10日に32歳で死去した。 安倍慎太郎には直系が育たなかったため、妹のタメが郡内で名門として知られる椋木(むくのき)家から彪助を婿養子に迎える。彪助はタメとの間に一人息子・安倍寛を儲けた。
源 晟(みなもと あきら、1850年(嘉永3年8月) - 1… 源 晟(みなもと あきら、1850年(嘉永3年8月) - 1918年(大正7年)9月29日)は、明治時代の政治家。自由民権運動家。弁護士。日本ハリストス正教会洗礼者(霊名パウェル)。衆議院議員(2期)。旧姓・河原木。幼名は滝蔵。 八戸藩士。祐筆を務めた河原木弥兵衛の九男に生まれる。藩学校で漢学や洋学を修めたのち明治維新前後は八戸藩学二等寮長となり、1871(明治 4)年5月に東京に遊学した。1872年(明治5年)壬申戸籍編成の時、八戸に伝わる義経伝説にちなんで、源晟と姓名を改める。 21歳で代言人となったのち、公娼廃止運動や救貧運動的な考えを持ちギリシャ正教に傾倒する。1876年(明治9年)陸奥国八戸光栄会を設置し関春茂や久保忠勝(のち鮫村長)らと共に沢辺琢磨より八戸初の洗礼を受ける。
古屋 満寿(ふるや ます、1850年〈嘉永3年〉 - 190… 古屋 満寿(ふるや ます、1850年〈嘉永3年〉 - 1907年〈明治40年〉3月19日)は、日本の商人・慈善家。東京都銀座の百貨店である松屋の前身の1つ、鶴屋呉服店を、夫の古屋徳兵衛(1849年〈嘉永2年〉4月10日 - 1911年〈明治44年〉7月30日)と共に創業し、松屋の黎明期を支えた人物の1人である。出生名は牛山 とみ。甲斐国巨摩郡(後の山梨県)下教来石村出身。東北地方が飢饉に見舞われた際、白米を入れた袋を「同情袋」と名付けて多数送るなど、慈善事業を行なった。 下教来石村の村長である牛山半左衛門(牛山慶長)の長女として誕生した。1869年(明治2年)2月、隣村の巨摩郡上教来石村出身の古屋徳兵衛と、質素な祝言を挙げた。
豊田 元良(とよだ もとよし、1850年(嘉永3年) - 1… 豊田 元良(とよだ もとよし、1850年(嘉永3年) - 1915年(大正4年)5月17日)は、日本の政治家。香川県丸亀市初代市長。香川県会議員。旧姓は高畑。名は元良。号は柳南又萍舟。 讃岐・丸亀の高畑家に生まれ、後琴平の豊田家を嗣ぐ。尾池松湾に学んで詩書を得意とした。大いに吏才があり、始め戸長、県会議員となり、次いで仲多度郡長、三豊郡長を歴任し、最後に市制実施第1期の丸亀市長となったが、まもなく辞めて公共事業に尽力した。 世間の人たちは豊田のことを否定的に「大言壮語の卸問屋」、「絶大突飛の空想家」とみなしていた。細心綿密の人ではなかった。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
長井 松太郎(ながい まつたろう、1850年(嘉永3年7月)… 長井 松太郎(ながい まつたろう、1850年(嘉永3年7月)- 1892年(明治25年)8月10日)は、明治前期の政治家。衆議院議員、広島県会議長。 備後国御調郡、のちの広島県御調郡貢村(糸崎町を経て現三原市)で生れた。漢学、武術を修めた。 東野村里正、木原村里正、御調郡書記、広島県会議員、同常置委員、同副議長、同議長を務めた。日本赤十字社常議員にも在任した。 1890年(明治23年)7月、第1回衆議院議員総選挙(広島県第7区、無所属)では次点で落選したが、1892年(明治25年)2月の第2回総選挙(広島県第7区、 中央交渉会)では当選した。しかし、1期目在任中の同年8月に肺病により死去した。
窪田 畔夫(くぼた くろお、1838年12月5日(天保9年1… 窪田 畔夫(くぼた くろお、1838年12月5日(天保9年10月19日) - 1921年(大正10年)4月30日)は、長野県の政治家。本名は窪田重国、号は松門であった。 信濃国筑摩郡和田町村(天領、現在の松本市和田)に生まれ、青年期から寺子屋を開いて教育に従事した 1872年に開智学校の前身となった筑摩県学の開設を進め、また、市川量造らとともに、松本を拠点とした『信飛新聞』の創刊に参加した。以降、同紙や、1876年に改題した『松本新聞』の紙面で、自由民権運動の論陣を張った。 1879年には、北安曇郡の初代郡長となり、在任中の1883年には渡辺敏らとともに白馬岳に初登頂した。 1888年に長野県会議員、1892年には帝国議会衆議院議員となった。
3代 伊澤 平藏(いさわ / いざわ へいぞう、1838年(… 3代 伊澤 平藏(いさわ / いざわ へいぞう、1838年(天保9年)12月 - 1911年(明治44年)3月19日)は、日本の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。旧姓・板橋。幼名・哲右衛門。衆議院議員、貴族院議員伊澤平左衛門の父。 陸奥国宮城郡笠神村(現・宮城県多賀城市)に生まれる。仙台に出て、醸造業伊澤平藏(2代目)の元で働き、平藏の娘を娶り婿養子となる。1889年(明治22年)仙台市が施行されると市会議員となる。同参事会員、宮城県会議員、仙台市長代理などを歴任する。この間、仙台商業会議所の議員を発足時(1891年)から務め、同副会頭(1899年)、同会頭(1904年)に就任した。 1906年(明治39年)に宮城県多額納税者として貴族院議員補欠選挙で互選され、同年9月29日から1908年(明治41年)7月2日まで務めた。
坪田 仁兵衛(仁兵衞、つぼた にへえ、1838年11月22日… 坪田 仁兵衛(仁兵衞、つぼた にへえ、1838年11月22日(天保9年10月1日)- 1896年(明治29年)7月10日)は、明治期の農業経営者、政治家。衆議院議員(1期)。幼名・慎之丞。 越前国坂井郡大牧村(福井県坂井郡大石村、春江町を経て現坂井市春江町大牧)で、大地主、大庄屋・先代坪田仁兵衛の二男として生まれた。農業を営み、坂井郡会議員、石川県会議員、福井県会議員、同常置委員となる。 1894年の第4回衆議院議員総選挙において福井県第2区から自由党所属で当選。衆議院議員を1期務め、在職中の1896年に死去。
長與 專齋(新字体:長与 専斎、ながよ せんさい、天保9年8… 長與 專齋(新字体:長与 専斎、ながよ せんさい、天保9年8月28日〈1838年10月16日〉 - 明治35年〈1902年〉9月8日)は、日本の官僚、医師。本姓は藤原氏、号は松香、諱は秉継。 肥前国大村藩(現在の長崎県大村市)に代々仕える漢方医・長与中庵の子として生まれる。 大村藩の藩校である五教館(長崎県立大村高等学校の前身)で学んだ後、安政元年(1854年)、大坂にて緒方洪庵の適塾に入門し、やがて塾頭となる(福澤諭吉の後任)。のち大村藩の侍医となった。 文久元年(1861年)、長崎に赴き、医学伝習所にて、オランダ人医師ポンペのもとで西洋医学を修める。その後、ポンペの後任マンスフェルトに師事し、医学教育近代化の必要性を諭される。
上野 彦馬(うえの ひこま、1838年10月15日〈天保9年… 上野 彦馬(うえの ひこま、1838年10月15日〈天保9年8月27日〉 - 1904年〈明治37年〉5月22日)は、幕末期から明治時代にかけて活動した日本の写真家(写真師)。日本における最初期の写真家で、日本最初の戦場カメラマン(従軍カメラマン)としても知られる。号は季渓。家紋は桔梗の二引。 天保9年(1838年)、長崎銀屋町で蘭学者・上野俊之丞(1790 - 1851)の次男として生まれる。広瀬淡窓の私塾、咸宜園で2年間学び、咸宜園を離れた後の安政5年(1858年)にはオランダ軍医ポンペ・ファン・メールデルフォールトを教官とする医学伝習所の中に新設された舎密試験所に入り、舎密学(化学)を学んだ。
岩城 隆常(いわき たかつね、1838年10月10日(天保9… 岩城 隆常(いわき たかつね、1838年10月10日(天保9年8月22日)- 1893年(明治26年)10月18日)は、明治期の農業経営者、政治家。衆議院議員。 越中国新川郡大村(石川県新川郡大村、富山県上新川郡大広田村を経て現富山市海岸通)で、加賀藩十村役・重右衛門の息子として生まれた。 1873年(明治6年)新川県第7大区長、1876年(明治9年)石川県第2大区副区長に就任。その後、上新川郡首席書記、大村外16カ村戸長、大村外7カ村戸長を務めた。1890年(明治23年)3月、富山県会議員に選出され、1892年(明治25年)2月まで在任した。 1892年2月、第2回衆議院議員総選挙(富山県第2区、独立倶楽部)で当選し、衆議院議員に1期在任した。
田中 芳男(たなか よしお、天保9年8月9日(1838年9月… 田中 芳男(たなか よしお、天保9年8月9日(1838年9月27日) - 大正5年(1916年)6月22日)は、幕末から明治期の博物学者、動物学者、植物学者、農学者、園芸学者、物産学者。錦鶏間祗候、男爵。 「日本の博物館の父」として知られる。博物学や分類学における翻訳語の成立に関わった。市川清流によって考案された「博物館」という和製漢語を、町田久成とともに普及させた。東京国立博物館や上野動物園の設立に携わった。パリ万博やウィーン万博での日本の出展に貢献した。殖産興業や啓蒙活動に努めた。元老院議官、貴族院議員、大日本山林会会長、日本園芸会副会長を歴任した。 1838年(天保9年)8月9日、信濃国伊那郡飯田城下の中荒町(現在の長野県飯田市中央通り)に旗本千村氏の典医を務める医師田中隆三(号:如水)の三男として生まれた。
高瀬 藤次郎(髙瀨、たかせ とうじろう、1838年8月28日… 高瀬 藤次郎(髙瀨、たかせ とうじろう、1838年8月28日(天保9年7月9日) - 1913年(大正2年)1月6日)は、明治時代の政治家、実業家。新聞経営者。衆議院議員(2期)。 播磨国加東郡、のちの兵庫県加東郡永富村(上福田村、社町を経て現加東市)の大庄屋の家に生まれる。1872年(明治5年)永富村戸長に就任し、学区取締などを経て、1879年(明治12年)兵庫県会議員に当選。1887年(明治20年)まで務めた。この間、1884年(明治17年)同志と共に五州社を設立し、神戸又新日報を発刊。のち神戸相生町に神戸日報社を設立し愛国新聞を発刊した。ほか、加東郡社村長を務め、神戸法律学校や山陽鉄道の設立にも関与した。
宮島 誠一郎(みやじま せいいちろう、天保9年7月6日〈18… 宮島 誠一郎(みやじま せいいちろう、天保9年7月6日〈1838年8月25日〉 - 1911年〈明治44年〉3月15日)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代にかけて活躍した官僚・政治家。元米沢藩士。位階および勲等は従四位・勲四等。 幼名は熊蔵。諱は吉久。号は栗香、養浩堂など。幕末に締結された奥羽越列藩同盟交渉時に中心的な役割を果たしたほか、明治維新後は自由民権運動に先駆けていち早く憲法制定・議会開設の建白を行い、また後にアジア主義団体「興亜会」設立に関わった。その膨大な日記・記録類は現在でも貴重な史料となっている。子に書家・中国語研究で知られる宮島大八(詠士)がいる。「米沢海軍」の立役者である小森沢長政は弟。
4代 桜木 嘉右衛門(櫻木、さくらぎ かえもん、1838年8… 4代 桜木 嘉右衛門(櫻木、さくらぎ かえもん、1838年8月20日〈天保9年7月1日〉 - 1914年〈大正3年〉1月8日)は、幕末から明治時代の醸造家、政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。名は正義。前名は馬之助。族籍は高知県平民。 3代目桜木嘉右衛門正利、鹿の二男として高知城下種崎町(現・高知市はりまや町)に生まれ、のち前名を改めて襲名する。藩政下、町内総組頭を務め、廃藩後は町内取締役となる。本業は酒造業で「葉柳」の醸造元。 1877年(明治10年)第七国立銀行が設立すると同取締役に就任。1881年(明治14年)帆走船運漕営業会社天佑社を設立し、相談役を経て社長に就任。1886年(明治19年)土佐郡酒造家連合会を設立し同会長に就任。
宮地 兵次郎(みやち ひょうじろう、1838年〈天保9年〉8… 宮地 兵次郎(みやち ひょうじろう、1838年〈天保9年〉8月15日 - 1910年〈明治43年〉9月21日)は、岐阜県出身の地域活動家。中山道(中街道)の開削に尽力し、日吉村の戸長を務めた。 1838年8月15日、岐阜県土岐郡日吉村半原(現在の瑞浪市日吉町半原)に生まれる。 半原宮地氏は安藤氏・遠藤氏・山内氏と共に土岐氏に属し、天文13年(1544年)日吉神社を創建した。 (先祖代々の記録)(10.兵次郎寛朋が宮地兵次郎) 先祖・宮地重勝頌徳碑(背面)には下記の文が彫ってある。写真の左の碑:宮地重勝隠居士。右の碑:宮地重勝頌徳碑。 宮地氏ハ代々土岐氏ノ臣ニシテ天文十一年頼芸亡ブルヤ鶴ケ城代宮地九郎左衛門藤原重勝半原自邸ニ隠遁シ農ニ帰スコレ即チ祖ナリ昭和二十八年十月再建之(天文11年=1542年)(昭和28年=1953年)土岐頼芸は土岐頼兼、正中の変と関係する。
金田 平五郎(かねだ へいごろう、1838年8月13日(天保… 金田 平五郎(かねだ へいごろう、1838年8月13日(天保9年6月24日) - 1921年(大正10年)7月20日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 能登国羽咋郡中沼村(のち石川県羽咋郡南大海村→高松町→かほく市)出身。漢学を学ぶ。農業を営み、1860年には中沼村、次いで夏栗村、更に二ツ屋村の肝煎となる。1873年、石川県第4区小1区戸長、1889年、南大海村会議員、所得税調査委員、1891年、連合村会議員、同年、羽咋郡会議員、1897年、石川県会議員となる。 1898年8月の第6回衆議院議員総選挙において石川3区から憲政党公認で立候補して当選した。1902年の第7回衆議院議員総選挙は不出馬。
佐沢 太郎(さざわ / ささわ たろう、1838年8月8日(… 佐沢 太郎(さざわ / ささわ たろう、1838年8月8日(天保9年6月19日) - 1896年(明治29年)5月26日)は明治時代の日本の洋学者、文部官僚。旧名元太郎、諱は高仰。 天保9年6月19日(1838年8月8日)、備後国品治郡新市村に三木嘉久平の五子として生まれる。福山藩儒江木鰐水の門に学んだのち、安政2年(1855年)に品治郡江良村の医師佐沢泰介の養継子となり、蘭方医となるため藩校誠之館の洋学教官寺地舟里、次いで長州藩の青木周弼に師事。さらに文久元年(1861年)、大阪の緒方洪庵に入門し、翌年秋には幕命により江戸に赴く師に同伴。幕府の西洋医学研究教育機関・医学所に入った。文久3年(1863年)、福山藩から洋学修行を命じられ、幕府の洋学研究教育機関・洋書調所(同年中に開成所と改称)でも修学。
真中 忠直(眞中、まなか ただなお、1838年7月30日(天… 真中 忠直(眞中、まなか ただなお、1838年7月30日(天保9年6月10日)- 1906年(明治39年)4月27日)は、日本の逓信官僚、実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・増田、幼名・隼太。 武蔵国葛飾郡惣新田村(のち埼玉県北葛飾郡吉田村、現幸手市)で、増田彦右衛門の二男として生まれる。その後、埼玉郡川口村(現加須市)真野家の養子となる。江戸に出て蘭学、漢学を学んだ。 明治3年3月12日(1870年4月12日)民部省に出仕し駅逓少令史に任官。以後、駅逓大令史、駅逓権少佑、駅逓少佑を歴任。明治4年7月27日(1871年9月11日)民部省が廃止され大蔵省へ異動。駅逓司四等出仕、駅逓権中属、駅逓権大属、駅逓大属を歴任。
上島 正(かみじま ただし、天保9年5月15日(1838年7… 上島 正(かみじま ただし、天保9年5月15日(1838年7月6日) - 1919年(大正8年))は明治時代の札幌開拓者。信濃国諏訪藩出身。江戸に出て商家に奉公し、行商人、測量師を経て北海道に渡り、札幌で初めて水田稲作に成功、東皐園で花菖蒲等の栽培を行った。 天保9年(1838年)5月15日信濃国諏訪郡南真志野村(長野県諏訪市湖南南真志野)に諏訪藩普請奉行上島幸右衛門の子として生まれた。幼名は源吉で、家督相続後、正と改めた。9歳から17歳まで生之堂鏡湖に書画を学び、画家を志したが、画家は妻帯できないと父に言われ、断念した。 安政2年(1855年)父の命で江戸に出て、森備中守屋敷富木衛門七方に奉公したが、半年後、武家社会を見限り、町家に奉公した。
山縣 有朋(やまがた ありとも、新字体:山県 有朋、1838… 山縣 有朋(やまがた ありとも、新字体:山県 有朋、1838年6月14日〈天保9年閏4月22日〉- 1922年〈大正11年〉2月1日)は、日本の政治家・軍人。最終階級・称号は元帥陸軍大将。位階・勲等・功級・爵位は従一位大勲位功一級公爵。 内務卿(第9代)、内務大臣(初代)、内閣総理大臣(第3・9代)、司法大臣(第7代)、枢密院議長(第5・9・11代)、陸軍第一軍司令官、貴族院議員、陸軍参謀総長(第5代)を歴任した。 幼名辰之助、通称は小助、1864年以降は狂介・小輔・狂助・狂輔。変名として萩原鹿之助の名も用いた。1871年以降に有朋の諱を称した。号は1871年まで素狂、以降は無隣庵主、含雪。 長州藩の蔵元付仲間だった下級武士の家に生まれ、学問と槍の稽古に励んだ。
堀 真五郎(ほり しんごろう、天保9年閏4月11日〈1838… 堀 真五郎(ほり しんごろう、天保9年閏4月11日〈1838年6月3日〉 - 1913年〈大正2年〉10月25日)は、幕末の長州藩の志士で、明治時代の大審院判事、貴族院勅選議員。諱は義彦。変名は有田又四郎。姓は藤原とも。号は水石・風民・白鷺夫・斜石。 天保9年(1838年)4月11日、長門国阿武郡萩町において、妙玖寺の臣・堀文左衛門松園の子として生まれる。年少の頃から軍談を好んで、功名心旺盛だったため、脱藩して各国の志士達、特に久坂玄瑞・高杉晋作らと交友を深めて尊皇攘夷活動に加わった。文久2年(1862年)11月に高杉晋作らの英国公使館焼き討ち事件にも参加し、文久3年(1863年)に八幡隊が結成されると初代総管に就任した。
中川 万之丞(なかがわ まんのじょう、1838年5月19日 … 中川 万之丞(なかがわ まんのじょう、1838年5月19日 - 1912年5月25日)は、占い師。喜多方市塩川町出身。 農家の長男に生まれ、本名は惣三郎(武田惣角の3男時宗の幼名と同じ)、千葉県成田山新勝寺で修行、真言密教、湯殿山修験、九字護身法、呪法、易学、宿曜道、民間療法、天文暦法(独自の星座図)などに通じていた。幕末の会津藩士が出入りし、藩から名人呼称の万之丞の名前、銘刀の道辰・手柄山の短刀、元藩主松平容保の祝歌掛軸を与えられた。信者に治療と占いを無料で行い、勝手に置いた贈答品は欲しい人に与え、独特の霊符も与えた。。初体面の客を顔を見ただけで、何の用向きかを察する霊視能力があった。子どもはいなかった。
渡辺 昇(わたなべ のぼり 、天保9年4月8日〈1838年5… 渡辺 昇(わたなべ のぼり 、天保9年4月8日〈1838年5月1日〉 - 大正2年〈1913年〉11月10日)は、日本の官僚・政治家、また剣術家。元は諱を武常と名乗った。号は東民、其鳳。位階勲等は正三位勲一等。兄とともにほぼ同時期に華族に列したが、兄が男爵どまりであったのに対し子爵に叙された。剣道の称号は範士。 肥前国大村に生まれる。江戸の神道無念流剣術道場・練兵館に入門し、桂小五郎の後を受けて塾頭を務める。尊王攘夷、倒幕運動の志士として活動し、坂本龍馬の依頼で薩長同盟を周旋した。明治政府では、大阪府知事、元老院議官、会計検査院長、貴族院議員を歴任した。また、大日本武徳会商議員を務め近代剣道の発展に尽力し、最初の剣道範士号を授与された。
楠本 正隆(くすもと まさたか、1838年4月14日〈天保9… 楠本 正隆(くすもと まさたか、1838年4月14日〈天保9年3月20日〉- 1902年〈明治35年〉2月7日)は、肥前大村藩の武士、明治期の政治家。男爵。大久保利通の腹心として知られた。 肥前大村藩士・楠本直右衛門正式(60石)の長男として玖島城下の岩船に生まれる。藩校・五教館の監察、頭取を務めた。中老として尊攘倒幕運動で活躍し、渡辺昇ら「大村藩勤王三十七士」の一人として知られる。 1868年(明治元年)、徴士として新政府に出仕。長崎府判事兼九州鎮撫使参謀助役をつとめ、1870年(明治3年)8月)に外務権大丞、1872年(明治5年)5月に外務大丞を経て、同年5月24日に新潟県令として就任する。
後藤 象二郎(ごとう しょうじろう、1838年4月13日〈天… 後藤 象二郎(ごとう しょうじろう、1838年4月13日〈天保9年3月19日〉 - 1897年〈明治30年〉8月4日)は、日本の政治家、実業家。名は象次郎とも表記される。栄典は正二位勲一等伯爵。土佐三伯の1人(他に板垣退助、佐佐木高行)。 土佐藩士・後藤正晴(馬廻格・150石)の長男として高知城下片町に生まれる。母は大塚勝従の長女。幼名は保弥太(やすやた)。通称は良輔(りょうすけ)だったが、後に象二郎と改名。諱は正本(まさもと)、後に元曄(もとはる)。字は日曄、暢谷、雲濤、不倒翁など。雅号に暘谷、雲濤、光海、鷗公など。 板垣退助とは竹馬の友で互いに「いのす(猪之助=板垣の幼名)」と「やす(保弥太=後藤の幼名)」と呼び会う仲であった。
千葉 さな子(ちば さなこ、天保9年3月6日(1838年3月… 千葉 さな子(ちば さなこ、天保9年3月6日(1838年3月31日) - 明治29年(1896年)10月15日)は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけての女性。 北辰一刀流桶町千葉道場主・千葉定吉の二女。北辰一刀流小太刀免許皆伝、長刀師範。学習院女子科(後の女子学習院)舎監。漢字表記では坂本龍馬に与えた長刀目録に佐那と記述され、司馬遼太郎の小説でその表記を用いたため、この名称が一般化しているが、千葉家の位牌には佐奈と記されている。初名を乙女。 天保9年(1838年)、北辰一刀流桶町千葉道場主・千葉定吉の二女として誕生。兄に千葉重太郎がいる。北辰一刀流の剣術を学び、特に小太刀に優れ、10代の頃に皆伝の腕前に達したという。
大隈 重信(おおくま しげのぶ、1838年3月11日〈天保9… 大隈 重信(おおくま しげのぶ、1838年3月11日〈天保9年2月16日〉- 1922年〈大正11年〉1月10日)は、日本の政治家・教育者。位階勲等爵位は従一位大勲位侯爵。菅原姓。 参議、大蔵卿、内閣総理大臣(第8・17代)、外務大臣(第3・4・10・13・28代)、農商務大臣(第11代)内務大臣(第26・28代)、枢密顧問官、貴族院議員。報知新聞経営者(社主)。聖路加国際病院設立評議会会長。同志社社友。 通貨・円の制定、日本初の鉄道敷設、政党内閣制を基軸にした即時国会開設を主張するなど議会制推進。 東京専門学校(現・早稲田大学)を創設。官学に匹敵する高等教育機関を育成するために力を注いだ。また、日本における女子高等教育の開拓者の1人であり、成瀬仁蔵と共に日本女子大学の創設に関わったほか、長崎の私塾でチャニング・ウィリアムズに師事して英学を学び、外交的素養を培った旧誼から、立教大学の発展を深く支援した。
田部 密(たなべ ひそか、1838年2月16日(天保9年1月… 田部 密(たなべ ひそか、1838年2月16日(天保9年1月22日) - 1910年(明治43年)10月5日)は、幕末彦根藩士、明治期代の地方官僚・実業家・漢学者。 1838年2月16日((旧暦)天保9年1月22日)近江犬上郡彦根城下上藪下町の同藩足軽谷口他三郎の次男として誕生し、同じ足軽の田部全次の養子となる。両家とも8石取りと伝えられている。通称は全蔵又は先蔵と称した。藩校弘道館で学び、特に漢学を修めた。 文久・元治より慶応・明治維新の間、藩の外交掛りに属し、諸藩の志士と交わり、大東義徹・川上吉太郎・外村省吾・西村捨三・西川吉輔・大音竜太郎等と共に活動した。特に1866年(慶応2年)第二次長州征討に際して、岩国藩用人であり漢学者であった塩谷鼎助を介し秘密裏の交渉を取り持った(『吉川経幹周旋記』)。
吉富 簡一(よしとみ かんいち、旧名: 吉富 藤兵衛(よしと… 吉富 簡一(よしとみ かんいち、旧名: 吉富 藤兵衛(よしとみ とうべえ)、天保9年1月19日(1838年2月13日) - 大正3年(1914年)1月18日)は、日本の江戸時代末期(幕末)から明治時代の実業家、政治家。幼名は美之助。 周防国矢原村(現・山口県山口市湯田)の裕福な豪農・庄屋に生まれ、井上聞多(後の井上馨)の幼馴染でもあり、尊王攘夷運動及び倒幕運動に参加。農民ではあるが大地主として裕福だった吉富は高杉晋作の奇兵隊に資金提供する他、鴻城軍(長州藩諸隊)を組織し井上を総裁に据える。 明治維新後は長州閥の一員として活動。木戸孝允に認められて明治3年(1870年)に上京して官吏となり士族に列せられ吉富簡一と改名するが、翌明治4年(1871年)に廃藩置県のあおりで長州藩への多額の貸し付けが焦付き、家計の立て直しの為に山口県に帰る。
広瀬 誠一郎(ひろせ せいいちろう、1838年2月9日(天保… 広瀬 誠一郎(ひろせ せいいちろう、1838年2月9日(天保9年1月15日) - 1890年(明治23年)3月18日)は、幕末から明治時代前期の政治家、治水家。 下総国相馬郡下高井村(現在の茨城県取手市)の名主の家に生まれる。18歳で名主見習いとなり、父が在職中に病没したため跡を継ぐ。明治に入ると、下高井村組合取締役、戸長、勧農方頭取を経て、戸長頭取に就任し、地券調査に従事した。1879年(明治12年)茨城県会議員となったが、当時の県会では土木費について治水問題を優先すべきとする「河川党」と道路整備を優先すべきとする「山岳党」に分かれ意見が鋭く対立していた。こうした中で1881年(明治14年)県令の人見寧に利根運河開削を建議し、翌年北相馬郡長を発令された。
池辺 吉十郎(いけべ きちじゅうろう、旧字体:池邊 吉十郎、… 池辺 吉十郎(いけべ きちじゅうろう、旧字体:池邊 吉十郎、1838年2月5日(天保9年1月11日) - 1877年(明治10年)10月26日)は幕末から明治前期の武士、士族、志士、教育家。本名は重章。熊本藩士の子として宇土に生まれる。武士や志士として活動していたが、西南戦争では、西郷隆盛軍の下で、熊本隊の隊長として奮戦するも捕らわれ長崎で処刑された。 天保9年1月11日(1838年2月5日)に熊本藩士の子として生まれる。本名は重章(しげあき)。また、藩校で学ぶ。翌年には世話役や組役なども任せられた。その後、家督を継ぎ、また、京都守護も命じられる。 26歳になると、第二次長州征伐の際に小倉出兵に従った。
泉 亮之(いずみ すけゆき、天保9年1月11日(1838年2… 泉 亮之(いずみ すけゆき、天保9年1月11日(1838年2月5日) - 大正7年(1918年)2月)は、明治から大正前期の彫刻家。 泉亮之は、天保9年1月11日(1838年2月5日)に近江坂田郡息郷村(現滋賀県米原市番場)の泉孫右衛門の長男に生まれ、幼名を豊次郎と称した。泉家は商業に従事する傍らで農業を営んでいた。元々手先が器用な子であったと伝えられ、25歳の時飛騨に商いに出た時、「亮水」と称する彫師の作品に接し深く感銘を受け自らの名を「亮之」と改め、家業を捨て彫刻に専念した。 よく蛇・蝦蟇・髑髏を得意とし、明治24年(1891年)5月10日訪日中のロシア皇太子により泉亮之作品が買い上げられ、この後明治26年(1893年)アメリカで開かれた博覧会に泉亮之の作品が出品され賞を授けられ、またシカゴで開催されたコロンブス上陸400年祭記念博覧会においても、泉亮之の作品は賞牌を得た。
西山 禾山(にしやま かさん、1838年1月19日(天保8年… 西山 禾山(にしやま かさん、1838年1月19日(天保8年12月24日) - 1917年(大正6年)4月3日)は江西山大法寺の18代住職。臨済宗の師家。現在の愛媛県八幡浜市穴井出身。 父は須賀吟助、母は徳子という。12歳の時に八幡浜市の江西山大法寺の徒弟となり、20歳頃から約10年間、宇和島市の金剛山大隆寺の晦巌について修行する。さらに久留米市の梅林寺や、岐阜県伊深の正眼寺などで座禅を習った。その後、京都の相国寺で越渓老師に参禅しようとしたがその時は相国寺を去っていたために、後継者となっていた独園につく。越渓が妙心寺の天授庵で僧堂を開いたので、同じ妙心寺の大嶺院に住み、明治元年から越渓の猛烈な指導のもと修行に励む。
和泉守兼定(いずみのかみ かねさだ、1838年1月8日(天保… 和泉守兼定(いずみのかみ かねさだ、1838年1月8日(天保8年12月13日) - 1903年(明治36年)3月28日)は、会津兼定のうち11代目に相当する、江戸時代末期から明治時代にかけて活動した刀工。加茂打ちと呼ばれる1869年(明治2年)から1874年(明治7年)までに越後加茂にて鍛刀した作品で知られ、1892年(明治25年)には皇太子に刀を献納する。銘は「陸奥国会津住兼元」「奥州会陽臣和泉守兼㝎」「会津刀匠和泉守兼㝎」「岩代国若松住和泉守兼㝎」「於新発田和泉守藤原兼㝎謹鍛」「大日本岩城国会津住兼㝎」「奥州會津住兼本」「和泉守兼定」「岩代國會津住兼定」。 1838年1月8日(天保8年12月13日)に会津若松浄光寺町に生まれる。
武居 代次郎(たけい だいじろう、1838年 - 1896年… 武居 代次郎(たけい だいじろう、1838年 - 1896年)は、長野県諏訪郡平野村(現・岡谷市)の製糸家。諏訪式繰糸機の開発者として知られる。代々続く糸商に生まれる(3代目武居代次郎)。 明治維新による開国により、政府は輸出品目として生糸を重要視し、富岡製糸場を開設する(1872年)等、増産の機運が高まった。 当時ヨーロッパより導入された繰糸機械は2種類。富岡製糸場へと官営輸入されたフランス式繰糸機と、民間輸入のイタリア式繰糸機である。イタリア式を輸入した小野組の援助を受け、2代目武居代次郎が現在の岡谷市間下にてイタリア式を模した洋式器械を操業(18釜)するも、成功せずに病没(1873年)。その遺志を継ぐ形で3代目武居代次郎が製糸に取組む事になった。
藤山 種廣(ふじやま たねひろ、1838年(天保9年) - … 藤山 種廣(ふじやま たねひろ、1838年(天保9年) - 1886年(明治19年))は、幕末の佐賀藩士、明治時代のガラス工芸技師。別名は文一。長男の藤山常一は北海カーバイド工場(現在のデンカ)の創立者、次男の田中不二は田中林太郎の娘婿。 肥前国神埼郡尾崎村唐香原(現在の佐賀県神埼市)に生まれる。幕末には佐賀藩精錬方として同藩の硝子工場で技術を磨き、1867年(慶応3年)に江戸幕府・佐賀藩・薩摩藩が参加したパリ万国博覧会には、佐賀藩使節団の一員として派遣された。 1873年(明治6年)、明治新政府(工部省)は富国強兵の政策に則り、全国から17名の技術伝習生を選定してウィーン万国博覧会へ派遣し、藤山もその一人として、ガラス製造・活版印刷・鉛筆製造に関する技術伝習生として、明治新政府の使節団に参加して現地に留学し、翌年帰国した。
高山保次郎(たかやま やすじろう、1838年 - 1907年… 高山保次郎(たかやま やすじろう、1838年 - 1907年11月3日)は、幕末-明治期の神官、歌人。本姓は里井、名は慶孝、号は苞居。 1838年(天保9年)、和泉泉南郡南中通村(現・大阪府泉佐野市)、里井孝幹の二男として生まれる。幼名は寬三郞。 里井家は代々好学で、幼少より学を好み、家翁の教授を受け、15歳のとき堺市九間町の高山家の養子となり家督を継ぎ、名を保次郎と改める。 父の没後は岩崎長世に国学をまなび、大阪枚岡神社に出仕、歌会始の撰者に加わる。また堺の区長などをつとめる。 長世の没後は尾崎正明、渡辺重春らと交り歌道に専心する。 1907年(明治40年)、70歳で死去。没後に『苞居歌集』が刊行された。
小柳 常吉(こやなぎ つねきち、1838年〈天保9年〉 - … 小柳 常吉(こやなぎ つねきち、1838年〈天保9年〉 - 1881年〈明治14年〉8月20日)は、阿武松部屋、武隈部屋、鬼面山部屋に所属した元力士。本名は御簾生 春吉(御簾納とする資料もある)。上総国市原郡戸田村岩崎(現在の千葉県市原市南岩崎)出身。身長170cm・体重115kg。最高位は西関脇。 1858年1月場所で初土俵(二段目〈現在の幕下〉)を踏んだ。1861年10月場所5日目に千草山と改名し、徳島藩のお抱え力士となった。1866年3月場所で東十両9枚目(十枚目格)に昇進。その場所で、いきなり7勝1敗の優勝次点の好成績を挙げた(優勝相当成績は同じ徳島藩お抱えの千羽ヶ嶽兵右エ門〈8勝1分け〉)。
鳥居 断三(斷三、とりい だんぞう、天保9年〈1838年〉 … 鳥居 断三(斷三、とりい だんぞう、天保9年〈1838年〉 - 1911年〈明治44年〉1月27日)は、幕末の大垣藩士。明治時代の官吏。判事。弁護士。三河県知事。柏崎県参事。大審院判事、東京始審裁判所長、東京重罪裁判所長。本姓は平氏、名は重雄。諱は朝道。号は圭陰。 美濃大垣藩士の子として大垣城辰之口内清水馬場北詰の家に生まれる。幼名は鉄五郎。嘉永4年11月、病気の兄元次郎の養子となった。嘉永6年12月に使番役に出仕、安政6年11月に留守居役江戸定府を申し付けられた。文久2年正月、奏者番となり、慶応3年3月に用人と留守居の兼務となった。戊辰戦争では1868年(慶応4年1月)大垣藩軍事副総裁助役、のち同藩軍事奉行として東山道先鋒軍に従い、各地を転戦した。
松本 八十八(まつもと やそはち、1838年(天保9年4月)… 松本 八十八(まつもと やそはち、1838年(天保9年4月)- 1915年(大正4年)2月21日)は、幕末の村役人、明治期の政治家。衆議院議員、新潟県佐渡郡恋ヶ浦村長。 佐渡国雑太郡真野村背合(新潟県雑太郡真野村、佐渡郡真野村、真野町を経て現佐渡市背合)で、松本与三兵衛の息子として生まれた。圓山溟北に漢学を、堀口松庵に書法を学んだ。 相川奉行所教導職事務掛、浦役人を務めた。明治維新後、滝脇背合村戸長、大小外6ケ村戸長、小学区学務委員、恋ヶ浦村長などを務めた。1893年(明治26年)新潟県会議員に選出された。また、真野村会議員にも在任した。 1894年(明治27年)3月、第3回衆議院議員総選挙(新潟県第9区、立憲改進党)で当選し、衆議院議員に1期在任した。
笠原 克太郎(かさはら こくたろう、1838年(天保9年11… 笠原 克太郎(かさはら こくたろう、1838年(天保9年11月) - 1898年(明治31年)11月7日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 越後国頸城郡潟町村(のち新潟県中頸城郡潟町村→大潟町、現・上越市)生まれ。農業を営み、郷長、第七大区長、新潟県会議員、第百三十九国立銀行取締役となる。 1898年3月の第5回衆議院議員総選挙において新潟8区から立憲自由党公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、同年8月の第6回衆議院議員総選挙で憲政党から立候補して落選した。落選から間もない11月に死去した。