韮澤 潤一郎(にらさわ じゅんいちろう、1945年1月9日 … 韮澤 潤一郎(にらさわ じゅんいちろう、1945年1月9日 - )は、日本の実業家で、たま出版社長・編集長である。自称UFO、超常現象研究家。量子力学、意識の問題を研究しているとも述べている。 新潟県生まれ。法政大学文学部を卒業。 1995年に第17回参議院議員通常選挙(参院選)の比例代表区で「開星論」のUFO党より立候補、落選。
新潟県立長岡高等学校:133人
韮澤 潤一郎(にらさわ じゅんいちろう、1945年1月9日 … 韮澤 潤一郎(にらさわ じゅんいちろう、1945年1月9日 - )は、日本の実業家で、たま出版社長・編集長である。自称UFO、超常現象研究家。量子力学、意識の問題を研究しているとも述べている。 新潟県生まれ。法政大学文学部を卒業。 1995年に第17回参議院議員通常選挙(参院選)の比例代表区で「開星論」のUFO党より立候補、落選。
八木忠栄(やぎ ちゅうえい、1941年6月28日- )は、日… 八木忠栄(やぎ ちゅうえい、1941年6月28日- )は、日本の詩人。 新潟県見附市田井町出身。新潟県立長岡高等学校、日本大学芸術学部卒業。「むむ」「新日本詩人」「悪徒」「炎」「ぎゃあ」などの同人をへて、1962年詩集「きんにくの唄」を発表。1965-69年「現代詩手帖」編集長を務めたのち73年から個人詩誌「いちばん寒い場所」を創刊。2004年の「雲の縁側」で現代詩花椿賞、2015年「雪、おんおん」で詩歌文学館賞、現代詩人賞受賞。2011年日本現代詩人会会長。スタジオ200、銀座セゾン劇場総支配人をへて、セゾン文化財団常務理事。落語に関する著作もある。新潟日報読者文芸選者。
高橋 実(たかはし みのる、1940年7月4日 - 2023… 高橋 実(たかはし みのる、1940年7月4日 - 2023年9月26日)は、日本の郷土史家、小説家。『北方文学』同人。 新潟県刈羽郡上小国村楢沢生まれ。長岡高等学校卒、1963年新潟大学教育学部卒。「北越雪譜」の著者・鈴木牧之を在学中から研究し、1964年牧之を題材とした「雪残る村」(『文学北都』)で第52回芥川賞候補。新潟県内の中学校教諭、新潟県立小千谷西高等学校、新潟県立小千谷高等学校教諭を長年務め、2001年定年退職。新潟県の地方文化人として、新潟県民俗学会常任理事、『十日町市史』調査員や県立新潟女子短期大学非常勤講師を歴任する。
斎藤 惇夫(さいとう あつお、1940年6月20日 - )は… 斎藤 惇夫(さいとう あつお、1940年6月20日 - )は、日本の児童文学作家、編集者。 1940年に新潟県新潟市に生まれる。小学校から高校卒業までを長岡市で過ごす。新潟大学教育学部附属長岡小学校、新潟県立長岡高等学校を卒業後、立教大学法学部法学科に進学。60年安保闘争に参加。同大卒業後、大手電機メーカーに勤務した。 その後、福音館書店編集部に勤務。長年にわたり児童書籍の編集に携わる。同社編集担当取締役となった。 1970年の処女作『グリックの冒険』で、翌年に日本児童文学者協会新人賞を受賞。 1972年の『冒険者たち ガンバと15ひきの仲間』で、国際児童年特別アンデルセン賞優良作品に選出。 1983年には、『ガンバとカワウソの冒険』で野間児童文芸賞を受賞した。
古城 利明(ふるき としあき、1939年1月10日 - )は… 古城 利明(ふるき としあき、1939年1月10日 - )は、日本の社会学者、中央大学名誉教授。専門分野は政治社会学、地域社会学である。新潟県生まれ。 1957年新潟県立長岡高等学校卒業。1962年東京大学文学部社会学科卒業、1965年3月東京大学大学院社会学研究科修士課程修了。同年4月東京大学大学院社会学研究科博士課程中退。1965年4月東京大学文学部助手、1967年中央大学法学部講師、1969年同法学部助教授を経て、1975年より中央大学法学部教授。東京大学・一橋大学・東京都立大学 (1949-2011)・立教大学・成蹊大学・北海道大学・名古屋大学・東京女子大学・新潟大学で講師も務めた。1994年中央大学社会科学研究所長。
小林 達雄(こばやし たつお、1937年11月2日 - 20… 小林 達雄(こばやし たつお、1937年11月2日 - 2025年8月22日)は、日本の考古学者。國學院大學文学部名誉教授。新潟県立歴史博物館名誉館長。 1937年、新潟県長岡市生まれ。新潟県立長岡高等学校を卒業。その後、國學院大學文学部で学び、國學院大學大学院博士課程満期退学。 東京都教育庁文化課に入り、文化庁文化財調査官に転任。1978年に調査官を退任し、國學院大學文学部助教授に就いた。1985年に教授昇格。1994年、学位論文『縄文土器の研究』を國學院大學に提出して博士号を取得。2008年に國學院大學を定年退任し、名誉教授となった。2023年、アメリカ芸術科学アカデミーの会員に選出された。
森 俊三(もり しゅんぞう、1937年6月27日 - )は、… 森 俊三(もり しゅんぞう、1937年6月27日 - )は、日本の実業家。信越化学工業代表取締役社長、塩ビ工業・環境協会会長を務めた。 新潟県出身。1956年新潟県立長岡高校卒業、1963年新潟大学工学部機械工学科卒業、信越化学工業入社。1985年信越エンジニアリング取締役。1988年同社常務取締役。1992年武生工場長。1992年取締役。1996年常務取締役電子材料事業本部長。1998年専務取締役電子材料事業本部長。2001年兼総務関係担当。2002年兼人事関係担当。2007年代表取締役専務。2009年代表取締役副社長。2010年に20年ぶりの社長交代で代表取締役社長に昇格したが、2016年健康上の理由で取締役相談役に退いた。
青柳 卓雄(あおやぎ たくお、1936年2月14日 - 20… 青柳 卓雄(あおやぎ たくお、1936年2月14日 - 2020年4月18日)は、日本の医用工学者。新潟県新発田市生まれ、同県三島町(現・長岡市三島地区)育ち。日本光電工業でのパルスオキシメーターの原理の発見と装置の発明で知られる。 1936年2月14日、新潟県新発田市にて、数学および電気工学の教師の父・紋七と専業主婦だった母・タツのもとに生まれ、2男2女の4人の兄弟姉妹の次男である。 1954年に新潟県立長岡高等学校を、1958年に新潟大学工学部電気工学科を卒業。 卒業研究担当の恩師(淀川寛)の推薦で島津製作所に入社した。当初は中央研究所の電子工学研究室に配属され、特に半導体応用電子機器の開発に従事した。
浅井 信雄(あさい のぶお、1935年6月23日 - 201… 浅井 信雄(あさい のぶお、1935年6月23日 - 2015年3月6日)は、日本の国際ジャーナリスト。三桂所属。 新潟県長岡市出身。新潟県立長岡高等学校、東京外国語大学インド・パーキスターン語学科卒。 1958年読売新聞社入社。海外特派員としてジャカルタ、ニューデリー、カイロ各特派員を経て、1978年から1981年までワシントン支局長。1981年に読売新聞社を退社。 その後はジョージタウン大学研究員、野村総合研究所在米コンサルタント、1983年に東京大学、東京外国語大学各講師、三菱総合研究所研究員、財団法人中東調査会理事を歴任。 1987年から1998年まで、神戸市外国語大学国際関係学科教授(国際政治学)。
半藤 末利子(はんどう まりこ、1935年6月4日 - )は… 半藤 末利子(はんどう まりこ、1935年6月4日 - )は、日本の随筆家。旧姓は松岡(まつおか)。 東京府生まれ。夏目漱石の長女・筆子と作家松岡譲の間に四女として誕生 第二次世界大戦中は、父の故郷である新潟県長岡市に疎開した。新潟県立長岡高等学校を経て、早稲田大学芸術科と上智大学比較文化科を卒業した。2017年9月24日、夏目漱石生誕150年に新宿区立漱石山房記念館名誉館長に就任した。 著書に『夏目家の糠みそ』『漱石夫人は占い好き』などがある。 夫の半藤一利は作家、随筆家。姉の松岡陽子マックレインは比較文学研究者でオレゴン大学名誉教授。
廣川 洋一(ひろかわ よういち、1935年1月19日 - 2… 廣川 洋一(ひろかわ よういち、1935年1月19日 - 2019年11月8日)は、日本の哲学者。筑波大学名誉教授。専攻は西洋哲学。古代ギリシア哲学が専門。 新潟県出身。1954年新潟県立長岡高等学校卒業。1958年東京教育大学文学部卒業。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学。田中美知太郎、松平千秋、藤沢令夫らに学ぶ。1977年京都大学で博士号を取得。同年から翌年までロンドン大学研究員。 東海大学文学部助教授、教授を経て、1988年筑波大学哲学・思想学系教授、1999年定年退官、名誉教授。龍谷大学文学部教授。2005年退任。 2019年11月8日、前立腺がんのため死去。83歳没。
山本 迪夫(やまもと みちお、1933年7月6日 - 200… 山本 迪夫(やまもと みちお、1933年7月6日 - 2004年8月23日)は、日本の映画監督。 新潟県長岡市出身。新潟県立長岡高等学校を経て早稲田大学卒業後、1956年に東宝に入社。岡本喜八の助監督を多く務め、1966年に『遊撃戦』でテレビドラマ監督としてデビュー。1969年には三橋達也主演のアクション映画『野獣の復活』で劇場用映画を初監督する。女性スリラー映画を得意とした。 代表作は、『幽霊屋敷の恐怖 血を吸う人形』(1970年)、『呪いの館 血を吸う眼』(1971年)、『血を吸う薔薇』(1974年)の3本からなる血を吸うシリーズ。日本の風土に吸血鬼ならびにヨーロッパのゴシック的ムードを大胆に導入し、さらに演出もハマー・フィルムを思わせるショッカー演出で、日本のホラー映画史でもひときわ異彩を放つものになっている。
大井 邦雄(おおい くにお、1933年3月19日 - 202… 大井 邦雄(おおい くにお、1933年3月19日 - 2020年1月20日)は、日本の英文学者、早稲田大学名誉教授。位階は正五位。 新潟県長岡市生まれ。1954年新潟県立長岡高等学校卒、1959年早大文学部英文科卒、1964年同大学院博士課程満期退学。早稲田大学文学部助教授を経て教授。2003年定年、名誉教授。2014年、瑞宝中綬章受章。正五位。 シェイクスピア、エリザベス朝演劇が専門。 2020年1月20日死去。86歳没。没後に正五位に追叙された。
近藤 秀樹(こんどう ひでき、1932年(昭和7年)4月16… 近藤 秀樹(こんどう ひでき、1932年(昭和7年)4月16日 - 1983年(昭和58年)10月16日)は、日本の歴史学者。新潟大学教授。専攻は中国近代史。 1932年、新潟県長岡市生まれ、または村松町(現・五泉市)生まれ。新潟県立長岡高等学校を経て、京都大学文学部史学科で東洋史を専攻して卒業。同大学院文学研究科修士課程、博士課程を修了。 卒業後はクラレチアン会立の高校教諭、大阪工業大学一般教育科の社会思想史担当を経て、1978年より新潟大学で中国史を教える。「范氏義荘の変遷」(『東洋史研究』21巻4号、1963年)は義荘研究の必読文献である。
半藤 一利(はんどう かずとし、1930年〈昭和5年〉5月2… 半藤 一利(はんどう かずとし、1930年〈昭和5年〉5月21日 - 2021年〈令和3年〉1月12日)は、日本のジャーナリスト、戦史研究家、作家。近現代史、特に昭和史に関し人物論・史論を、対談・座談も含め多く刊行している。 先祖は長岡藩士。東京府東京市向島区(現在の東京都墨田区)に生まれる。実父は運送業と区議をつとめる。近所に幼少期の王貞治が住んでおり顔見知りだった。東京府立第七中学校に入学、1945年(昭和20年)3月の東京大空襲では逃げまどい中川を漂流し、死にかける体験をする。茨城県の県立下妻中学校を経て、父の生家のある新潟県長岡市へ疎開し、県立長岡中学校3年次で終戦を迎え、そこを卒業後東京へ戻る。
多田 雄幸(ただ ゆうこう、1930年4月10日 - 199… 多田 雄幸(ただ ゆうこう、1930年4月10日 - 1991年3月8日〈60歳没〉)は、日本のヨットマン。新潟県出身。 史上初の世界一周単独ヨットレース「アラウンド・アローン(BOCレース(英語版))」クラスIIの優勝者。 1930年、新潟県長岡市生まれ。 新潟県立長岡中学校時代、グライダー部に所属、3級滑空士の資格を得た。3年生のとき、志願して予科練に入るが、戦争は末期、飛行機も壊滅状態で飛行訓練もできなかった。戦後、解体中の焼夷弾の不発弾が爆発し、右手などを負傷。 旧制新潟高等学校に入学。絵画や陶器に親しむ。卒業後、実家の商売を手伝い、衣類の行商を行う。 上京し、世田谷交通のタクシー運転手を経て、個人タクシー運転手となる。
後藤 文雄(ごとう ふみお、1929年9月13日 - 202… 後藤 文雄(ごとう ふみお、1929年9月13日 - 2025年9月17日)は、日本のカトリック教会司祭、神言会士。 1929年、新潟県長岡市の浄土真宗本願寺派の末寺の次男として生まれる。1947年3月、県立長岡中学校(翌年に県立長岡高等学校に改称)を卒業後、代用教員。1950年、岐阜県多治見市の神言神学院に入学。 1955年、南山大学哲学科を卒業後、神学研修を積み、1960年、司祭として叙階を受ける。同期の叙階は他に三好迪ら3人がいたが、3人は後に司祭を辞めて還俗している。 カトリック南山教会、カトリック吉祥寺教会主任司祭など、神言会運営の教会にて司祭を歴任。1981年から1994年まで、14人のカンボジア難民の子どもを次々に里子として引き受け、養育。
大橋 和夫(おおはし かずお、1928年(昭和3年)8月3日… 大橋 和夫(おおはし かずお、1928年(昭和3年)8月3日 - 2005年(平成17年)10月25日)は、日本の政治家。千葉県船橋市長。 新潟県長岡市出身。表町小学校、旧制長岡中学校、旧制新潟高等学校を経て、東京大学法学部卒業後、自治庁に入庁。外事広報課長、地方課長、衆議院議長秘書官、埼玉県財政課長等を歴任、1968年4月、千葉県へ赴任。企画部長を経て、1971年7月には千葉県教育長に就任、県立高校7校を新設開校したのをはじめ、若潮国体の開催、千葉県立美術館の開館等に尽力。後に川上紀一と千葉県知事の座を巡って争うが、知事選挙において川上に敗れる。 習志野文化ホール理事長を歴任後、1981年7月、公選制第6代の船橋市長に就任した。
長谷川 信(はせがわ しん、1918年12月4日 - 199… 長谷川 信(はせがわ しん、1918年12月4日 - 1990年10月28日)は、日本の政治家。参議院議員(3期)。位階は従三位。勲等は勲一等。 新潟県長岡市で生まれ育つ。旧制新潟県立長岡中学校(現新潟県立長岡高等学校)卒業後、旧制第一早稲田高等学院(現在の早稲田大学の教養課程)入学している。その後は、父の死去に伴い旧制早稲田高等学院を中退し、17歳で長谷川酒造社長に就任する。 その後、戦時中は1942年5月、南西方面艦隊海軍民政府に志願し、インドネシアのセレベス島マカッサルに勤務したとされている。1944年12月、帰国した。 終戦後、青年団活動を経て、上組村議、宮内町議、長岡市議を2期、新潟県議会議員を4期を務めあげた。
村山 達雄(むらやま たつお、1915年〈大正4年〉2月8日… 村山 達雄(むらやま たつお、1915年〈大正4年〉2月8日 - 2010年〈平成22年〉5月20日)は、日本の大蔵官僚、政治家。正三位勲一等旭日大綬章。 衆議院議員(12期)、大蔵大臣(第82代・第91代・第92代)、厚生大臣(第60代)を歴任。税制通で知られ、消費税導入にもかかわった。 新潟県長岡市坂之上町生まれ。株屋をやっていた幸太郎の三男。 長岡市立表町尋常小学校から長岡中学校に進む。長岡中二年の時、母が死去、姉静子に身のまわりの面倒をみてもらうようになった。当時の旧制中学は五年制だったが、中学四年生から旧制高校を受験できた。担任教諭の勧めで一高を受験、合格した。 1937年(昭和12年)に東京帝国大学法学部を卒業。
宮 柊二(みや しゅうじ、1912年(大正元年)8月23日 … 宮 柊二(みや しゅうじ、1912年(大正元年)8月23日 - 1986年(昭和61年)12月11日)は、昭和時代に活躍した日本の歌人。位階は正五位。本名は宮肇(はじめ)。 長岡中学在学中から作歌をはじめる。1932年に上京、翌年北原白秋を訪ねて門下に入る。1935年、白秋主宰の歌誌「多磨」の創刊に参加。日中戦争に応召し、中国を転戦した体験が、歌集『山西省』(1949年)に結実した。1953年には「多磨」の流れをくむ歌誌「コスモス」を創刊、主宰した。ながらく勤めた製鉄会社を辞して歌作と著作に専念し、74歳で死去。 一生活者の真実の声を響かせた誠実な歌風が特色。歌集に、『日本挽歌』(1953年)、『多く夜の歌』(1961年)、『濁石馬』(1975年)など、エッセイに、『埋没の精神』(1955年)、『西行の歌』(1977年)など。
桑原 実(くわはら みのる、1912年(明治45年)3月10… 桑原 実(くわはら みのる、1912年(明治45年)3月10日 - 1979年2月11日)は新潟県刈羽郡出身の画家。 二科会会員、東京芸術大学教授。ユネスコ・ジュニア文化センター理事長、日本造型教育連盟委員長、教育美術振興会理事。 1929年新潟県立旧制長岡中学校(現新潟県立長岡高等学校)卒業、翌1930年東京美術学校(現東京芸術大学)図画師範科入学。1933年3月卒業。同年、東京市下小岩尋常小学校(現江戸川区立下小岩小学校)教諭。 1935年第22回二科展に「父と子」が入選となり、以後、二科展に毎回出品。 1939年豊島区池袋第五小学校(現豊島区立池袋小学校)教諭。1946年東京第二師範学校教諭。
大野 市郎(おおの いちろう、1910年(明治43年)11月… 大野 市郎(おおの いちろう、1910年(明治43年)11月25日 - 1988年(昭和63年)2月9日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(7期)。 新潟県長岡市で大野屋旅館主・大野甚松の孫として生まれた。新潟県立長岡中学校[要出典]を経て1932年(昭和7年)兵庫県立神戸高等商業学校卒業。箱根富士屋ホテルに勤めた。 1936年(昭和11年)静岡県熱海市でホテル大野屋を開業した。1940年(昭和15年)父から大野屋本店社長を継承した。熱海市会議員を務め、1950年(昭和25)熱海商工会議所会頭に就任した。日本温泉協会会長などの役職も務めた[要出典]。 佐藤栄作の秘書を経て1952年(昭和27年)自由党から第25回衆議院議員総選挙に旧新潟3区から出馬して初当選。
寒川 道夫(さがわ みちお、1910年2月25日 - 197… 寒川 道夫(さがわ みちお、1910年2月25日 - 1977年8月17日)は、日本の教育者、児童文学作家。 新潟県中蒲原郡新津町(現・新潟市秋葉区)に教育者の長男として生まれた。1921年三島郡大河津村(現・長岡市)五社小学校卒。1926年長岡中学校(現・新潟県立長岡高等学校)卒。1927年古志郡田井尋常高等小学校(現・見附市立田井小学校))の代用教員になる。1930年高田師範学校卒。同年古志郡一之貝小学校(栃尾市立一之貝小学校(廃校))、1932年同郡村立黒条尋常小学校(現・長岡市立黒条小学校)の教師となり、生活綴方運動に参加。詩集『山芋』の作者の大関松三郎を指導した。 1941年治安維持法違反(生活綴方事件)で2年間獄中生活を送り教職を追われた。
伊東 多三郎(いとう たさぶろう、1909年2月10日 - … 伊東 多三郎(いとう たさぶろう、1909年2月10日 - 1984年10月29日)は、日本史学者、東京大学名誉教授。専門は日本近世史。研究分野は、近世の文化史・社会史から政治史に、そして経済史にまで及ぶ広範囲なものであった。この他、自治体史編纂にも積極的に取り組み、『水戸市史』『小千谷市史』『新潟県史』の編纂に関わった。 新潟県古志郡富曽亀村亀貝(のち長岡市亀貝町)に伊東三次郎の長男として生まれた。1921年旧制長岡中学入学、1925年旧制新潟高等学校文科乙類入学、1928年卒業。1931年東京帝国大学文学部国史科卒業、大倉精神文化研究所の嘱託となる。翌1932年に卒業論文『国学の史的考察』(大岡山書店、1932年)を刊行し、東京帝国大学文学部史料編纂所嘱託。
星野 慎一(ほしの しんいち、1909年1月1日 - 199… 星野 慎一(ほしの しんいち、1909年1月1日 - 1998年12月17日)は、日本のドイツ文学者、翻訳家。 新潟県長岡市生まれ。旧制新潟県立長岡中学校、旧制新潟高等学校を経て、1932年東京帝国大学文学部独逸文学科卒業。旧制成城高等学校教授、埼玉大学文学部教授、東京教育大学教授。1961年「ライナー・マリア・リルケの伝記的研究」により東京大学文学博士。1971年頃教育大を定年後、南山大学教授を務め、1991年長岡市史編集委員長。1998年、89歳で没。1999年、星野の蔵書が長岡市立中央図書館に寄贈され、星野慎一文庫と名付けられた。 リルケなどドイツの詩を翻訳研究するほか、短歌、俳句にも関心が深かった。
小林 孝平(こばやし こうへい、1908年(明治41年)7月… 小林 孝平(こばやし こうへい、1908年(明治41年)7月15日 - 1991年(平成3年)4月13日)は、日本の政治家、官僚。参議院議員(2期)、長岡市長(5期18年)。 新潟県長岡市出身。新潟県立長岡中学校、旧制第四高等学校を経て、東京帝国大学農学部卒業。農林省官僚となるが、同省の先輩に当たる和田博雄の勧めにより辞職。1950年6月に行われた第2回参議院議員通常選挙に全国区から日本社会党公認で立候補し初当選を果たした。議員在職中は安保条約やベトナム賠償問題などで、政府の姿勢を厳しく質したことから「マムシの孝平」と渾名される。1956年、再選。 その後社会党を離党し、革新系無所属として1961年の新潟県知事選挙に挑み落選(当選は自民党推薦の塚田十一郎)。
矢島 悦太郎(やじま えつたろう、1906年3月6日 - 2… 矢島 悦太郎(やじま えつたろう、1906年3月6日 - 2001年2月22日)は、日本の社会政策学者。中央大学名誉教授。中央大学経済学部長や、社会政策学会代表幹事を務めた。 新潟県長岡市出身。新潟県立長岡中学校(現新潟県立長岡高等学校)を経て、1931年東京商科大学(現一橋大学)学部卒業。井藤半彌ゼミ出身。1958年から1960年まで第5期社会政策学会代表幹事。1963年から1967年まで中央大学経済学部長。1970年から1972年まで第11期社会政策学会代表幹事。中央大学バドミントン部部長なども務めた。中央大学定年後、1986年まで亜細亜大学教授。2001年2月22日、急性肺炎のため死去。
熊谷 洋(くまがい ひろし、1904年10月17日 - 19… 熊谷 洋(くまがい ひろし、1904年10月17日 - 1992年11月11日)は、昭和・平成期の医師、薬理学者。 東京大学医学部教授。東京大学医学部長。日本医師会副会長。日本医学界会長。東京大学薬学科薬品作用学教室の初代教授。医学界や薬理学界の多くの人材を育てた。旧姓 瀬水。 新潟県長岡市出身。旧制新潟県立長岡中学校卒。旧制新潟高校卒業。1930年(昭和5年)東京帝国大学医学部医学科卒業。1943年(昭和18年)薬理学教室講師のままジャカルタに赴任し、日本占領下のオランダ領東インド・ジャカルタの医科大学(ジャワ高等医学校)で医学の教授にあたる。1946年(昭和21年)復員、同年から1957年(昭和32年)まで東京大学医学部薬学科薬品作用学教室の初代教授を兼任。
駒形 作次(こまがた さくじ、1904年2月6日 - 197… 駒形 作次(こまがた さくじ、1904年2月6日 - 1970年7月11日)は、昭和の電気工学研究者、半導体研究者。原子力研究者。 逓信省電気試験所所長。通商産業省工業技術院長。日本原子力研究所理事長。原子力委員。三菱原子力工業顧問。 界面動電現象や東北帝国大学渡辺寧とともに日本で最初に半導体(トランジスタ)の研究を行いその後、原子力開発に携わった。 新潟県長岡市出身。新潟県立長岡中学校卒業(旧制)。旧制新潟高校卒業。東京帝国大学電気工学科卒。1937年(昭和12年)工学博士。 1927年(昭和2年)逓信省電気試験所に入所。1952年(昭和27年)通商産業省工業技術院長となる。1948年アメリカのベル研究所でショックレー、ブラッタン、バーディーンによって半導体であるゲルマニウムを用いたトランジスタが発明され、GHQからもたらされたトランジスタの論文を翻訳し「トランジスタ勉強会」を発足させる。
三浦 岱栄(みうら たいえい、1901年12月3日 - 19… 三浦 岱栄(みうら たいえい、1901年12月3日 - 1995年3月14日)は、日本の精神科医師。慶應義塾大学医学部教授。杏林大学医学部教授。 フランス精神医学の研究、多くの精神科医師を育成した。小此木啓吾の慶應義塾大学医学部の指導教官。 杏林大学が創立される時に、精神科病院を母体として建学されたことから、初代の精神神経科教室の主任教授に招聘された。 新潟県長岡市に生まれる。旧制新潟県立長岡中学校(現・新潟県立長岡高等学校)卒業。 1925年(大正14年)、慶應義塾大学医学部を卒業。学生時代にはカトリックに入信。敬虔な信者であり、その後もカトリック医師会をはじめ、この領域で指導的役割を果たした。
駒形 十吉(こまがた じゅうきち、1901年(明治34年)2… 駒形 十吉(こまがた じゅうきち、1901年(明治34年)2月4日 - 1999年(平成11年)2月7日)は、日本の実業家。大光相互銀行社長、新潟総合テレビ(現・NST新潟総合テレビ)社長、新潟日報社監査役。新潟県長岡市出身。 長岡の米穀・味噌醤油醸造を営んでいた駒形宇多七の三男(11人兄弟の10番目)として生まれる。新潟県立長岡中学校卒業後、旧制新潟高等学校に進むが中退。大阪の株式取引商で実務経験を積んだ。 1922年(大正11年)父の死去に伴い、帰郷し家業に従事する。1928年(昭和3年)に北陸産業無尽の設立に参画し支配人、1941年(昭和16年)に社長となる。翌1942年(昭和17年)3月には国民無尽商会と合併し、大光無尽に商号を変更し、1951年(昭和26年)に大光相互銀行に改組した。
渡辺 俊雄(渡邊 俊雄、わたなべ としお、1899年(明治3… 渡辺 俊雄(渡邊 俊雄、わたなべ としお、1899年(明治32年)9月9日 - 没年不明)は、日本の実業家。渡邊工業社長。名古屋螺子製作所(現:メイラ株式会社)創業者。息子は作曲家の渡辺宙明。孫は、映画・ドラマ・アニメ等の音楽やさだまさしのアレンジャーとして知られる渡辺俊幸。曽孫(俊幸の娘)は芸術家アイドルとして活動するマコ・プリンシパル(渡辺真子)。 新潟県長岡市出身。旧家・渡邊毅夫の長男として生まれる。父・毅夫は教育界で活躍し、女学校校長や渡邊工業取締役を務めた。 長岡中学を卒業後、九州の明治専門学校機械科に入学。1923年(大正12年)首席で同校を卒業後、豊国セメント株式会社に入社し、名古屋工場に勤務する。
桜井 督三(さくらい とくぞう、別表記 : 櫻井 督三、18… 桜井 督三(さくらい とくぞう、別表記 : 櫻井 督三、1898年 〈明治31年〉11月14日 - 1978年〈昭和53年〉5月15日)は、日本の経営者。北越製紙、新潟総合テレビ社長などを務めた。位階は従四位。 新潟県広神村(現・魚沼市)の庄屋に生まれる。 長岡中学(現・新潟県立長岡高等学校)を経て慶應義塾理財科を卒業。1922年に九州水力電気に入社。1942年に九州配電理事に就任。理事になるまで、経理、営業、企画、技術を担当。九州の主なところでは大牟田、大分、福岡に移り住んだ。 1944年に日本発送電理事に転じ、1949年7月から1950年9月までに副総裁を歴任。1954年9月から1956年9月までに電源開発理事を務めた。
樋口 助弘(ひぐち すけひろ、1896年4月7日 - 195… 樋口 助弘(ひぐち すけひろ、1896年4月7日 - 1958年8月9日)は、放射線科医師。九州大学医学部講師。東京慈恵会医科大学教授。 日本で放射線が医療に利用されたはじめから、主としてエックス線の利用による診断、治療に関する研究に従事、その成果を数多くの論文に発表し、特に放射線障害の研究、放射線保護物質の研究を行い、1956年(昭和31年)文部省科学研究費による総合研究、特に「放射能の人体最大許容量の決定」については、研究班長としての取りまとめにあたるなど、多方面に大きな足跡を残した。 新潟県南魚沼郡湯沢町出身。新潟県立長岡中学校、第六高等学校卒業。1922年(大正11年)九州帝国大学医学部卒業。
田中 菊松(たなか きくまつ、1895年(明治28年)1月2… 田中 菊松(たなか きくまつ、1895年(明治28年)1月27日 - 1964年(昭和39年)10月7日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 新潟県出身。1915年(大正4年)12月、海軍兵学校43期を卒業。席次は95名中42位。1916年(大正5年)12月、海軍少尉に任官。砲術学校高等科で学んだ。1922年(大正11年)12月、駆逐艦「浦風」砲術長。1925年(大正14年)12月、砲術学校教官兼副官を経て、1929年(昭和4年)11月、海軍大学校(甲種27期)を卒業。 1930年(昭和5年)12月、砲術学校教官、兼水雷学校教官、兼装甲巡洋艦「春日」教官、兼通信学校教官となり、重巡洋艦「青葉」砲術長を経て、1933年(昭和8年)11月、海軍中佐に進級し、連合艦隊参謀、兼第一艦隊参謀に就任。
大橋 熊雄(おおはし くまお、1894年(明治27年)11月… 大橋 熊雄(おおはし くまお、1894年(明治27年)11月20日 - 1944年(昭和19年)4月14日)は、大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。駐蒙軍政治参謀。愛知大学の森久男は、蒙古連合自治政府の成立にあたって大橋が、「陸軍省との渉外事項を担当して、蒙疆地域の政治的統合に決定的役割を果たした」と指摘している。 1914年(大正3年)、新潟県立長岡中学校(第19回卒業)を経て、1917年(大正6年)、陸軍士官学校(第29期)を卒業した。1927年(昭和2年)、陸軍大学校を卒業(第39期)する。 1936年(昭和11年)二・二六事件の軍事裁判官を務める。関東軍参謀に就任。1938年(昭和13年)に駐蒙兵団参謀に転任となる。
中島 慶次(なかじま けいじ、1894年9月20日 - 19… 中島 慶次(なかじま けいじ、1894年9月20日 - 1973年10月16日)は、王子製紙(現・王子ホールディングス)元社長、紙の博物館初代理事長。 新潟県長岡市出身。旧制新潟県立長岡中学校を経て東京高等商業学校(のちの一橋大学)卒業後、初代王子製紙へ入社。1946年、足立正の後任として社長に就任。1949年の初代王子製紙の解体後は、後継会社の苫小牧製紙(現・王子ホールディングス)の社長に就任。1967年に会長に異動するまで社長職に就いた。出身校の一橋大学の組織に当る如水会第14・15代会長も務めた(1961年 - 1966年)。 1973年10月16日、栗山町の王子製紙の林木育種研究所の訪問中に倒れ死去。
高野 素十(たかの すじゅう、1893年(明治26年)3月3… 高野 素十(たかの すじゅう、1893年(明治26年)3月3日 - 1976年(昭和51年)10月4日)は、茨城県出身の日本の俳人・医師。学位は、医学博士。高浜虚子に師事。虚子の唱えた「客観写生」を忠実に実践、簡潔で即物的な写生句で頭角を現し、山口誓子、阿波野青畝、水原秋桜子とともに「ホトトギスの四S」と称された。「芹」主宰。本名:高野与巳(よしみ)。 1893年、茨城県北相馬郡山王村(現・取手市神住)に生まれる。農家の長男で、小学校卒業まで利根川とその支流小貝川に囲まれた美しい田園地帯で育った。1905年、新潟県長岡市に住む叔父のもとに寄宿し新潟県立長岡中学校に入学。第一高等学校を経て、1913年に東京帝国大学医学部に入学。
堀口 大學(ほりぐち だいがく、新字体:堀口 大学、1892… 堀口 大學(ほりぐち だいがく、新字体:堀口 大学、1892年〈明治25年〉1月8日 - 1981年〈昭和56年〉3月15日)は、明治から昭和にかけての日本の詩人・歌人・フランス文学者。訳詩書は300点を超え、日本の近代詩に多大な影響を与えた。雅号は十三日月。葉山町名誉町民。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 欧米生活を経て、フランス近代詩の訳詩集『月下の一群』(1925年)を発表し反響を呼んだ。象徴派の詩に知性と官能美を加えた優雅な創作詩でも後進に影響を与えた。作品に『月光とピエロ』(1919年)、『砂の枕』(1926年)など。 1892年(明治25年)、帝国大学法科大学在学中であった堀口九萬一(のち外交官)の長男として、東京市本郷区森川町(現:東京都文京区本郷或いは西片辺り)に生まれる。
松岡 譲(まつおか ゆずる、1891年9月28日 - 196… 松岡 譲(まつおか ゆずる、1891年9月28日 - 1969年7月22日)は、日本の小説家。旧名は松岡 善譲(ぜんじょう)。 新潟県古志郡石坂村大字鷺巣(現長岡市鷺巣町)出身。父親は真宗大谷派松岡山本覚寺の僧侶。旧制長岡中学では、同級生に詩人・フランス文学者となる堀口大學がいた。 本来なら父を継いで僧侶になるべき立場だったが、幼い頃から仏門の腐敗を目の当たりにして育ち、生家に強く反撥した。第一高等学校を経て東京帝国大学文学部哲学科に在学中、夏目漱石の門人となる。久米正雄、山本有三、菊池寛、佐野文夫ら学友と1914年に第3次『新思潮』、1916年に第4次『新思潮』を創刊した。寺院を継ぐことを拒否し、かねてから筆名として用いた譲を戸籍名とした。
梛野 巌(なぎの いつき、1891年〈明治24年〉1月1日 … 梛野 巌(なぎの いつき、1891年〈明治24年〉1月1日 - 1982年〈昭和年57年〉)は、明治期から昭和期にかけての大日本帝国陸軍の軍医、医学博士。最終階級は陸軍軍医中将。 長岡藩医・梛野直(なぎの ただし)の長男として生まれる。旧制新潟県立長岡中学校(1908年(明治41年)卒業)、旧制第四高等学校を経て、1916年(大正5年)に東京帝国大学医学部を卒業する。1917年(大正6年)に陸軍二等軍医に任官した。 軍籍のまま大学院で学んだ後、外国駐在軍医官としてアメリカ合衆国とドイツに赴任する。海外赴任中にはスイスのチューリヒに留学し、悩解剖研究所モナコフ教授に師事した。1927年(昭和2年)10月13日、東京帝国大学から医学博士号を授与された。
清沢 俊英(清澤、きよさわ としえい、1890年(明治23年… 清沢 俊英(清澤、きよさわ としえい、1890年(明治23年)8月7日 - 1980年(昭和55年)10月16日)は、昭和期の労働運動家、政治家。衆議院議員(2期)、参議院議員(2期)。 新潟県古志郡長岡町渡里町(現長岡市)で浄土真宗大谷派妙宗寺に生まれた。1908年(明治41年)長岡中学校(現新潟県立長岡高等学校)を卒業した。 1928年(昭和3年)長岡労働向上会を組織し日本労農党新潟県連合会常任執行委員に就任。日本労農党、日本大衆党、社会大衆党、全国農民組合、日本農民組合などの中央委員を務めた。1936年(昭和11年)三宅正一に次いで無産政党員として長岡市会議員に当選。その他、全国労働組合新潟県委員長、日本漁民組合中央委員も務めた。
黒田 亮(くろだ りょう、1890年1月30日 - 1947… 黒田 亮(くろだ りょう、1890年1月30日 - 1947年1月5日)は、大正-昭和前半の日本の心理学者。動物心理学のほか、勘、禅、中国思想などの幅広い研究がある。 1890年(明治23年)1月30日新潟県南魚沼郡石打村(現南魚沼市)生まれ。旧制長岡中学、旧制第一高等学校を経て1815年(大正4年)東京帝国大学文科大学哲学科(心理学専修)卒業。旧制新潟高等学校教授などを経て1926年(昭和元年)京城帝国大学助教授、1928年(昭和3年)教授となり1942年(昭和17年)まで務める。退官後は著述活動に専念。1947年(昭和22年)岐阜県にて死去。 京城帝大時代には、『勘の研究』(1933(昭和8)年、『続・勘の研究』1938(昭和13)年)、『心理学概論』(1935(昭和10)年)、『動物心理学』(1936(昭和11)年)などの著作や論文を書くかたわら、随想なども著した。
川上 四郎(かわかみ しろう、1889年(明治22年)11月… 川上 四郎(かわかみ しろう、1889年(明治22年)11月16日 - 1983年(昭和58年)12月30日)は、大正から昭和にかけて活動した日本の童画画家、挿絵画家。牧歌的な農村風景を得意とし、素朴な画風で親しまれた。大正期の童話・童謡運動(雑誌『赤い鳥』を中心に巻き起こった童話や童謡を巡る児童文学運動。童心主義も参照)の影響を受けて、児童向けの絵画の芸術的地位を高めるため、「童画」という言葉を作り、振興に努めた。このことから、「童画の父」「日本童画の父」とも呼ばれる。 1889年(明治22年)11月16日、新潟県古志郡上組村大字摂田屋(現・長岡市摂田屋)の豪農であった父・川上半四郎(屋号「川半」、井上円了の従兄弟)と母ヨシの四男として生まれる。
五十嵐 恵(いがらし めぐみ、1889年(明治22年)5月2… 五十嵐 恵(いがらし めぐみ、1889年(明治22年)5月24日 - 1927年(昭和2年)8月24日)は、日本の海軍軍人。美保関事件で殉職した「蕨」駆逐艦長である。最終階級は海軍中佐。 新潟県中頸城郡旭村(現・新潟県上越市)の豪農で郡議会議員を務めた五十嵐正綱の次男。高田中学、長岡中学を経て、1908年(明治41年)に海軍兵学校へ進んだ。五十嵐は海兵39期で、伊藤整一、角田覚治、和田操らが同期生である。席次は入校時150名中40番、卒業時148中92番。1912年(大正元年)12月少尉任官。駆逐艦乗組み、「矢矧」水雷長、「白露」駆逐艦長などを経て海軍大学校入校。甲種24期で、学生長は原忠一。山口多聞、福留繁、草鹿龍之介ら総勢20名であった。
猪俣 津南雄(いのまた つなお、明治22年(1889年)4月… 猪俣 津南雄(いのまた つなお、明治22年(1889年)4月23日 - 昭和17年(1942年)1月19日) 戦間期日本の社会主義者。日本共産党創設(1922年)に参加。その後、『労農』同人に加わり、(第二次)共産党との論争で中心的役割を果たすが29年9月に脱退し、独自の立場から戦略論・組織論を展開。日本資本主義論争には参加せず。人民戦線事件(1937年)で逮捕されるまで政治・経済の現状分析や農村踏査に心血を注いだ。 ・1889年4月、新潟市の芸者・広木チヨの子として生まれる。父は長岡で油問屋を営む猪俣津平。小学校入学と同時に長岡の猪俣家に引き取られ、しばらくして猪俣姓を名乗る。 ・1902年に入学した県立長岡中学校は俳句が盛んなところで、猪俣も「鹿語」(ろくご)の俳号で句作に熱中する。
谷口 腆二(たにぐち てんじ、1889年〈明治22年〉2月1… 谷口 腆二(たにぐち てんじ、1889年〈明治22年〉2月15日 ‐ 1961年〈昭和36年〉2月12日)は、日本の医師、細菌学者。 新潟県長岡市出身。旧姓、藤田。医学博士(1923年) 大阪大学微生物研究所の設立に尽力し、第3代所長となった。設立においては、関西を代表する実業家、山口玄洞(やまぐち げんどう)の支援を受けた。「喧嘩谷口」というあだ名で呼ばれた大阪大学医学部の昭和初期の「名物」研究者で、微生物病研究所の設立など大阪大学の研究機関としての地位向上に貢献した。山村雄一元大阪大学総長もその免疫学の授業について「体が震えるくらい興奮した」「斬新で魅力的であった」と記している。 1906年に新潟県立長岡中学校(旧制)を卒業。
栗山 英資(くりやま えいすけ、1887年(明治20年)11… 栗山 英資(くりやま えいすけ、1887年(明治20年)11月6日 - 1961年(昭和36年)2月11日)は、大正から昭和時代前期の政治家。新潟県三条市長。 栗山虎吉の長男。土地家屋貸付業を営む。1904年(明治37年)3月、長岡中学校を卒業する。1915年(大正4年)4月、南蒲原郡裏館村長に就任。同村が三条町に編入すると、1921年(大正10年)3月より同町会議員に3選し、1931年(昭和6年)3月、三条町長に就任した。市制施行すると三条市会議員、同議長を経て、1938年(昭和13年)2月7日、三条市長に当選した。
佐藤 正四郎(さとう せいしろう、1886年(明治19年)1… 佐藤 正四郎(さとう せいしろう、1886年(明治19年)10月25日 - 1958年(昭和33年)7月7日)は、日本の海軍軍人。二・二六事件において、東京に出動した海軍陸戦隊の指揮官を務めた。最終階級は海軍少将である。 新潟県出身。長岡中学から海軍兵学校に進む。病気のため留年し、37期生として卒業した。席次は179人中172番。同期生に井上成美、草鹿任一、小澤治三郎らがいる。 尉官時代は「三笠」、「日進」、「春風」、「明石」、「朝日」、「榛名」乗組。大尉進級後「生駒」分隊長、「伊勢」艤装員、「陸奥」副砲長、「大井」砲術長の艦船勤務の他、海軍砲術学校及び海軍水雷学校普通科学生を修了した。 少佐に昇進後、「長良」、「日向」及び「長門」の各砲術長、「榛名」及び「赤城」の各副長。