山岡 亮一(やまおか りょういち、1909年2月10日 - … 山岡 亮一(やまおか りょういち、1909年2月10日 - 1991年9月21日)は、日本の経済学者。京都大学名誉教授、高知大学名誉教授。専門は農業経済学。経済学博士(京都大学・1962年)。京都府生まれ。 子に山岡亮平(動物生態学者、京都工芸繊維大学名誉教授)、山岡耕作(魚類学者、高知大学名誉教授)など
京都府立洛北高等学校・附属中学校:174人
山岡 亮一(やまおか りょういち、1909年2月10日 - … 山岡 亮一(やまおか りょういち、1909年2月10日 - 1991年9月21日)は、日本の経済学者。京都大学名誉教授、高知大学名誉教授。専門は農業経済学。経済学博士(京都大学・1962年)。京都府生まれ。 子に山岡亮平(動物生態学者、京都工芸繊維大学名誉教授)、山岡耕作(魚類学者、高知大学名誉教授)など
松田 道雄(まつだ みちお、1908年10月26日 - 19… 松田 道雄(まつだ みちお、1908年10月26日 - 1998年6月1日)は、日本の医師・育児評論家・歴史家。著述家・マジック研究家の松田道弘は息子。 茨城県水海道町(現・常総市)に代々医師の家に生まれ、生後すぐ京都に移る。松田家の初代は千姫の侍医と伝わり、祖父は江戸で修行した蘭学医だった。父は京都で小児科医を開業していた。 京都市立明倫小学校、京都一中、旧制第三高等学校、京都帝国大学医学部卒業。大学時代は「社会科学研究会」に所属してマルクス主義の研究・運動を行うが、共産党に入党する決心はできなかった。1929年には太田武夫が京都の被差別部落でひらいていた診療所に手伝いに行っていた。 1932年に京都帝大医学部副手となり、父親も師事していた平井毓太郎らの影響で小児結核を研究対象とする。
井嶋 勉(いじま つとむ、1908年6月5日 - 1978年… 井嶋 勉(いじま つとむ、1908年6月5日 - 1978年5月12日)は、日本の美学者、京都大学名誉教授。井島 勉とも表記。専門は西洋芸術哲学・芸術史。兄は元大阪高等検察庁検事長の井嶋磐根(wikidata)であり、兄・磐根の子である元最高裁判所判事の井嶋一友は甥にあたる。 京都市上京区出身。京都府師範学校附属小学校、京都府立第一中学校、第三高等学校を経て1932年京都帝国大学文学部哲学科卒。1947年「藝術の創造と歴史」で京都大学文学博士。1943年京都大学文学部美学美術史助教授、1947年同教授。 1951年に日本美術教育学会を設立し、没するまで会長を務めた。1968年 - 1969年、京都大学文学部長。
奥田 久司(おくだ ひさし、1908年(明治41年) - 1… 奥田 久司(おくだ ひさし、1908年(明治41年) - 1987年(昭和62年)9月10日)は日本の映画プロデューサー、映画史研究家。 1908年(大正15年)生まれ。旧制京都一中を卒業後、映画界か小説家か進路に迷った末に、早稲田大学ロシア文学科に入学。 1934年(昭和9年)、早大を病気で中退し、銀座にあった映画の通信社の「日本演芸通信社」に入社。デスクを務め、7年間在籍する。 1941年(昭和16年)、映画界への夢をあきらめられず、友人の紹介で北京の国策映画撮影所「華化映画」に入所。 1944年(昭和19年)、「大日本映画製作株式会社」に入社。監督志望だったが、企画部に配属となる。 1945年(昭和20年)、日本敗戦。
織田 武雄(おだ たけお、1907年6月29日 - 2006… 織田 武雄(おだ たけお、1907年6月29日 - 2006年10月18日)は、日本の地理学者(人文地理学)。京都大学名誉教授。 1907年、京都府京都市生まれ。京都府立一中、七高を経て、1929年に京都帝国大学文学部に進学。地理学を専攻し、1932年に同大学文学部を卒業。 卒業後は、龍谷大学予科、関西学院高等商業学校、立命館大学講師を務めた。1940年、関西学院高等商業学校教授に就任。 1946年4月、立命館大学文学部教授に就任。しかし、翌1947年3月に母校である京都大学文学部助教授に転じた。これは、戦中京都大学地理学教室は地政学研究に走ったため、戦後全ての教官が辞任することとなったためであった。
大塚 久雄(おおつか ひさお、1907年〈明治40年〉5月3… 大塚 久雄(おおつか ひさお、1907年〈明治40年〉5月3日 - 1996年〈平成8年〉7月9日)は、日本の経済史学者。東京大学名誉教授。専攻は英国経済史で、西洋諸国における近代資本主義、近代市民社会の研究で知られ、マックス・ウェーバーの社会学とカール・マルクスの唯物史観論の方法を用いて構築した大塚史学は国際的評価を受けた。 高柳暁と井手久登は娘婿。 1907年京都府生まれ。京都府立京都第一中学校(現・京都府立洛北高等学校・附属中学校)卒業後、旧制第三高等学校入学。このとき、片足を負傷し、後に切断することになる。1930年、東京帝国大学経済学部卒業。大学時代は本位田祥男や内村鑑三に師事した。法政大学非常勤講師(1933年)、同大助教授(1935年)、同大教授(1938年)、東京帝大経済学部助教授(1939年)を経て、1947年同大学教授、1968年から同大学名誉教授。
湯川 秀樹(ゆかわ ひでき、1907年〈明治40年〉1月23… 湯川 秀樹(ゆかわ ひでき、1907年〈明治40年〉1月23日 - 1981年〈昭和56年〉9月8日)は、日本の理論物理学者。京都大学・大阪大学名誉教授。学位は理学博士(大阪帝国大学・1938年)。位階は従二位。勲等は勲一等旭日大綬章。 京都府京都市出身。京都帝国大学理学部物理学科卒。大阪帝国大学にて学位取得。原子核内部において、陽子や中性子を互いに結合させる強い相互作用の媒介となる中間子の存在を1935年に理論的に予言した。1947年、イギリスの物理学者セシル・パウエルが宇宙線の中からパイ中間子を発見したことにより、湯川の理論の正しさが証明され、これにより1949年(昭和24年)、日本人として初めてノーベル賞を受賞した。
真下 信一(ました しんいち、1906年10月24日 - 1… 真下 信一(ました しんいち、1906年10月24日 - 1985年2月9日)は、日本の哲学者。名古屋大学名誉教授。 京都府福知山市生まれ。京都府立一中、第三高等学校から京都帝国大学文学部哲学科に学ぶ。中学の同期には湯川秀樹がいた。三高時代には武田麟太郎と親交を結んだ。大学の同窓には戸坂潤がいた。大学院に進学、1933年の滝川事件のときには院生代表として活動する。院修了後は同志社大学勤務、のち教授。1935年中井正一らと雑誌『世界文化』を創刊、反ファシズムの立場で活動したが、1937年11月、新村猛らとともに治安維持法違反の容疑で検挙された。 戦後は、民主主義科学者協会に所属しながら唯物論哲学の立場で発言、名古屋大学助教授、教授。
谷口 知平(たにぐち ともへい、1906年4月19日 - 1… 谷口 知平(たにぐち ともへい、1906年4月19日 - 1989年11月8日)は、日本の法学者(民法)。大阪市立大学名誉教授。法学博士(京都大学・論文博士・1949年)(博士論文「不当利得の研究」)。日本学士院会員。京都府出身。末川博門下。 京都市下京区木屋町仏光寺で誕生、山紫水明処の隣の屋敷で育つ。幼少時、祇園祭の長刀鉾の稚児を3年間務めた。民事訴訟法学者である谷口安平は知平の次男、裁判官の谷口安史は孫に当たる。 京都府立京都第一中学(現:京都府立洛北高等学校・附属中学校)を4年間を通して首席で卒業、三高へ進学。京都帝国大学においても当時は18課目を履修すれば卒業できるところ40課目を履修し、さらに平均点首位で卒業した。
工藤 信一良(くどう しんいちろう、1906年4月17日 -… 工藤 信一良(くどう しんいちろう、1906年4月17日 - 1981年7月23日)は、日本の実業家、パシフィック・リーグ元会長。京都府京都市出身。 1939年に京都帝国大学英文学科を卒業し、毎日新聞社に入社した。取締役、東京本社編集局長、副社長を歴任した後に、1968年1月には、相談役を務めた。1949年の大リーグのサンフランシスコ・シールズの招聘と毎日オリオンズの創設に尽力した。 1974年から1978年までにNHK経営委員会委員長を務め、1978年10月1日からパシフィック・リーグ会長に就任し、エキサイティング・リーグ「パ」のキャンペーンを繰り広げるなど、パ・リーグの観客動員の増加に力を入れた。
朝永 振一郎(ともなが しんいちろう、1906年(明治39年… 朝永 振一郎(ともなが しんいちろう、1906年(明治39年)3月31日 - 1979年(昭和54年)7月8日)は、日本の理論物理学者。東京教育大学名誉教授。学位は理学博士(東京帝国大学・1939年)。位階は従二位。 京都帝国大学理学部物理学科卒。東京帝国大学にて博士号取得。相対論的に共変でなかった場の量子論を超多時間論で共変な形にして場の演算子を形成し、場の量子論を一新した。超多時間論を基に繰り込み理論の手法を発明、量子電磁力学の発展に寄与した功績によりノーベル物理学賞を受賞した。東京生まれで、少年時代以降は京都育ち。なお、朝永家自体は長崎県の出身。武蔵野市名誉市民。 1906年、東京市小石川区小日向三軒町(現:文京区小日向)に、父・朝永三十郎(祖父は肥前大村藩の重臣であった朝長氏)と母(埼玉県出身)の第二子(2男2女)で出生。
柴田 實(しばた みのる、1906年1月11日 - 1997… 柴田 實(しばた みのる、1906年1月11日 - 1997年3月16日)は、日本の歴史学者。京都大学名誉教授。 1906年、京都市下京区で生まれた。京都府立第一中学校を経て、第三高等学校に進学。1925年に卒業し、京都帝国大学文学部史学科に入学。三浦周行、西田直二郎の指導を受け、1930年に卒業。 1930年、京都帝国大学文学部副手に採用された。1932年に助手昇格。 1946年に助教授昇格。1950年、京都大学分校(後の教養部)教授に昇格。1963年から1965年まで京都大学教養部長をつとめた。1969年3月に京都大学を定年退官し、名誉教授となった。同1969年4月より関西大学文学部教授。1970年からは財団法人元興寺仏教民俗資料研究所人文科学室長をつとめた。
奥田 東(おくだ あずま、1905年(明治38年)8月19日… 奥田 東(おくだ あずま、1905年(明治38年)8月19日 - 1999年(平成11年)4月28日)は日本の農学者。京都大学総長、日本WHO協会理事長、ユネスコ国内委員などを務めた。位階は正三位。 1905年8月19日に奈良県畝傍で教師・奥田清の長男として生まれる。なお、戸籍は京都府熊野郡久美浜町(現:京丹後市)。父親の転勤に伴い広島県福山市に移り、福山南小学校に入学。その後さらに転勤のため京都市上京区の京極小学校に転校した。1918年に旧制京都府立京都第一中学校(現:洛北高校)に入学。同窓生には朝永振一郎、桑原武夫、湯川秀樹らがおり、全員が旧制高校と大学も一緒で、かつ後に京都大学の教授となっている。
新村 猛(しんむら たけし、1905年(明治38年)8月2日… 新村 猛(しんむら たけし、1905年(明治38年)8月2日 - 1992年(平成4年)10月31日)は、日本のフランス文学者・言語学者・国語辞書編纂者。名古屋大学名誉教授。元橘女子大学学長。 新村出の次男。息子新村徹は中国文学者(妻は中井正一の三女)。他に学術編集者の新村恭がいる。 東京府で生まれた。京都第一中学校、第三高等学校を経て、京都帝国大学文学部史学科に入学。すぐに仏文科へ転攻し卒業する。 1935年2月、中井正一や真下信一や武谷三男たちと共に同人誌『世界文化』を創刊、また週刊紙『土曜日』の常連執筆者として反ファシズム運動に関わった。このため、同志社大学予科教授であった1937年11月に真下信一らとともに治安維持法違反で逮捕され、2年間の獄中生活を送る。
柳田 秀一(やなぎた ひでかず、1905年5月10日 - 1… 柳田 秀一(やなぎた ひでかず、1905年5月10日 - 1978年4月4日)は、日本の医師、政治家。位階は従三位。日本社会党衆議院議員(8期)、舞鶴市長。 京都府舞鶴市出身。京都一中・旧制六高を経て岡山医科大学を卒業し、京都帝国大学大学院医学部で学ぶ。その後医師を開業。1947年に舞鶴市長に当選し1950年まで務める。 1952年の総選挙に左派社会党公認で京都2区から立候補し、初当選。1955年に再統一した日本社会党にも引き続き所属し、この間1966年1月に佐々木更三・勝間田清一両委員長の下で、国会対策委員長を務める。また日本体育協会でも理事を務め、東京オリンピックでも組織委員となった。 1972年の総選挙で地盤を京都府副知事だった山田芳治に譲り引退する。
桑原 武夫(くわばら たけお、1904年〈明治37年〉5月1… 桑原 武夫(くわばら たけお、1904年〈明治37年〉5月10日 - 1988年〈昭和63年〉4月10日)は、日本のフランス文学・文化研究者、評論家。京都大学名誉教授。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。位階・勲等は従三位・勲一等。人文科学における共同研究の先駆的指導者でもあった。芸術・思想・社会・教育など文化全般に通じ、共同研究を推進。その成果は『ルソー研究』(1951年)などの著作に結実した。『第二芸術ー現代俳句について』(1946年)での俳句批判は物議を醸した。 1904年、福井県敦賀郡敦賀町蓬莱(現・敦賀市)で生まれた。父は京都帝国大学教授で東洋史専攻の桑原隲蔵(じつぞう)。敦賀は里帰り出産(両親とも同地の出身)の地であり、このような場合は京都生まれと称するのが通例だが、本人は敦賀に愛着を持っており、出身地として記載を続けた。
貝塚 茂樹(かいづか しげき、1904年〈明治37年〉5月1… 貝塚 茂樹(かいづか しげき、1904年〈明治37年〉5月1日 - 1987年〈昭和62年〉2月9日)は、日本の東洋学者、中国史学者、中国考古学者。京都大学名誉教授。勲二等瑞宝章叙勲、文化功労者顕彰、文化勲章受章。 1904年(明治37年)、東京で地質学者・小川琢治の次男として生まれた。旧制京都府立京都第一中学校(現・京都府立洛北高等学校)、旧制第三高等学校を経て、京都帝国大学文学部史学科に進学。1928年3月に卒業。同年4月、同大学院文学研究科に進学。1930年3月に修士課程を修了。1932年5月に博士後期課程を退学。 同1932年5月、東方文化学院京都研究所研究員に採用された。1938年4月、研究所の改組に伴い、以降東方文化研究所研究員。
桜田 一郎(さくらだ いちろう、戸籍上は「櫻田」。1904年… 桜田 一郎(さくらだ いちろう、戸籍上は「櫻田」。1904年(明治37年)1月1日 - 1986年(昭和61年)6月23日)は、日本の化学者。京都大学名誉教授。日本学士院会員。紫綬褒章・文化勲章受章。 1939年(昭和14年)に日本初の合成繊維であるポリビニルアルコール系合成繊維(ビニロン)を李升基、川上博(大日本紡績)らと共同開発した。このほか、桜田の粘度式をはじめとして高分子に関する様々な研究を展開し、日本の高分子化学の基礎を築いた。高分子という日本語を定着させたのも彼である。 エスペランティストでもあった。 京都府生まれ。京都一中を卒業。三高時代にエスペラントを学ぶ。三高を卒業。 1924年ルドヴィコ・ザメンホフの演説集をエスペラントから日本語訳して、カニヤ書店から『夜の空の星の如くに』として出版した。
八木 芳信(やぎ よしのぶ、1903年(明治36年)11月1… 八木 芳信(やぎ よしのぶ、1903年(明治36年)11月14日- 1993年(平成5年)6月5日)は、日本の内務・警察官僚、実業家。最後の官選三重県知事。 京都府出身。京都府立京都第一中学校、第三高等学校を卒業。1926年12月、高等試験行政科試験に合格。1927年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省に入省し、千葉県属となる。 以後、長野県経済部長、神奈川県警察部長、神奈川県内務部長などを歴任。戦時中は海軍司政官に転出した。 1947年3月、前任の佐伯敏男が知事選に出馬のため辞任したことに伴い三重県知事に発令された。知事選挙などを執行して同年4月に退任。 その後、経済安定本部高松地方安定局長、帝国産業株式会社(現テザック)社長、同会長を歴任。
西堀 栄三郎(にしぼり えいざぶろう、1903年(明治36年… 西堀 栄三郎(にしぼり えいざぶろう、1903年(明治36年)1月28日 - 1989年(平成元年)4月13日)は、日本の登山家、無機化学者、技術者。従四位。 京都府出身。京都一中、三高を経て、京都帝国大学理学部化学科卒業。京大講師、助教授を歴任した後、東京電気(東芝)に移る。 1936年、京都大学より理学博士。論文の題は「分子線による化學的研究」。 東芝技術本部長時代には海軍の要請を受けて真空管「ソラ」を開発し、技術院賞を受賞した。材料不足の状態でも大量生産できるように、微細な部分に至るまで製造マニュアルを完備し、"新橋の芸者を集めてでも製造可能"とされた。 戦後は独立の技術コンサルタントとして統計的品質管理手法を日本の産業界に持ち込み、デミング賞や電電公社総裁賞を受賞。
下村 寅太郎(しもむら とらたろう、1902年(明治35年)… 下村 寅太郎(しもむら とらたろう、1902年(明治35年)8月17日 - 1995年(平成7年)1月22日)は、日本の哲学者・科学史家。 1902年、京都市下京で生まれた。旧制京都一中、旧制三高で学び、京都帝国大学文学部に入学。哲学科で西田幾多郎、田辺元に師事し、ライプニッツ研究や、数学の哲学であったり、科学哲学の分野に関心を持って研究を開始した。1926年に京都帝国大学文学部を卒業。 卒業後から15年を経て、1941年に東京文理科大学助教授に就いた。1945年に教授昇格。 1945年、学位論文『無限論の形成と構造』を京都帝国大学に提出して文学博士号を取得。学制改革によって1949年5月に東京文理科大学が新制大学として東京教育大学に包摂されて以降は、同大学教授。
柚木 馨(ゆのき かおる、1902年4月9日 - 1965年… 柚木 馨(ゆのき かおる、1902年4月9日 - 1965年11月19日)は、日本の法学者。専門は民法。学位は、法学博士(立命館大学・論文博士・1950年)(学位論文「ローマ法における売主瑕疵担保責任研究」)。第4代神戸大学学長。叙正三位、旭日重光章追贈。京都府加佐郡舞鶴町(現・舞鶴市)生まれ(本籍は鹿児島県)。弟子に、高木多喜男らがいる。 1919年(大正8年)、京都府立京都第一中学校(現・京都府立洛北高等学校・附属中学校)を卒業して第三高等学校に進み、1922年(大正11年)に文科甲類を卒業後、京都帝国大学に進学。1925年(大正14年)京都帝国大学法学部法律科を卒業するとともに同大学助手に就任した。
今西 錦司(いまにし きんじ、1902年(明治35年)1月6… 今西 錦司(いまにし きんじ、1902年(明治35年)1月6日 - 1992年(平成4年)6月15日)は、日本の生態学者、文化人類学者、登山家。京都大学名誉教授、岐阜大学名誉教授。位階は従三位。日本の霊長類研究の創始者として知られる。理学博士(京都帝国大学・1939年)。京都府出身。 今西の活動は登山家、探検隊としてのものと、生態学者としてのものがあり、彼の中では両者が不可分に結びついている。探検家としては国内で多くの初登頂をなし、京都大学白頭山遠征隊の隊長などを務めた。生態学者としては初期のものとしては日本アルプスにおける森林帯の垂直分布、渓流の水生昆虫の生態の研究が有名である。後者は住み分け理論の直接の基礎となった。
山口 誓子(やまぐち せいし、1901年(明治34年)11月… 山口 誓子(やまぐち せいし、1901年(明治34年)11月3日 - 1994年(平成6年)3月26日)は、日本の俳人。京都府京都市出身。本名は山口新比古(やまぐち ちかひこ)。 高浜虚子に師事。昭和初期に水原秋桜子、高野素十、阿波野青畝とともに「ホトトギスの四S」とされたが、のちに同誌を離反した秋桜子に従い「ホトトギス」を離脱。従来の俳句にはなかった都会的な素材、知的・即物的な句風、映画理論に基づく連作俳句の試みなどにより、秋桜子とともに新興俳句運動の指導的存在となる。戦後は「天狼」を主宰し現代俳句を牽引した。大正11年、初めて虚子に会い、俳号を「誓子(ちかひこ)」から「誓子(せいし)」と改めた。
鄭 島栄(チョン・ドヨン、朝鮮語: 정도영/鄭島榮、1901… 鄭 島栄(チョン・ドヨン、朝鮮語: 정도영/鄭島榮、1901年9月16日または1902年 - 1979年8月12日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、大韓民国の政治家、教育者。制憲韓国国会議員。 本貫は迎日鄭氏(朝鮮語版)。初名は鄭寿容、字は華一、号は白坡。仏教徒。 慶尚北道永川郡出身。京城中東中学校を経て大邱啓聖学校中退、京都第一府立中学校卒。三・一運動参加後、新幹会の設立に参加し、永川青年会会長、全国青年総連盟メンバーを経て、日中戦争中に治安維持法違反で投獄されたが、3年間の起訴猶予により釈放された。その後は仏教に入信し、禅房で7年間修行した。光復後は米軍政庁永川郡守顧問、韓国民主党慶北道党常務委員、独促国民会永川郡支部長・中央常務委員・慶北道党部常務委員、国民会支会長を務めた。
尾形 昭二(おがた しょうじ、1901年2月28日 - 19… 尾形 昭二(おがた しょうじ、1901年2月28日 - 1967年3月14日)は、日本の外交官、外交評論家。 熊本県生まれ。京都府立京都第一中学校卒。1924年東京帝国大学法学部政治学科を卒業後、外務省に入り、パリ、モスクワ、新京大使館、ペトロパヴロフスク領事館などで勤務。その後、本省調査局ソビエト課長、調査局長などを歴任。退官後、外交評論家となり、日ソ協会常任理事を務めた。
古海 忠之(ふるみ ただゆき、1900年5月5日 - 198… 古海 忠之(ふるみ ただゆき、1900年5月5日 - 1983年8月23日)は、日本の大蔵官僚、満洲国官僚、実業家。東京府出身。義兄に小金義照。長男は古海建一(国際善隣協会理事長、元東京銀行常務、元ユアサ商事会長)。勲二等瑞宝章(1971年)。 京都一中、三高を経て、東京帝国大学法学部政治学科に進む。学生時代を通じて野球部に在籍し、主にキャッチャーをしていた(帝大時代にはラグビーも兼部)。中学時代には第3回全国中等学校優勝野球大会に出場した。 1924年大学卒業し、大蔵省入省。入省同期に、青木実(満洲国経済部次長、戦後はシベリア抑留を経て合同証券会長、水戸常陽銀行社長)、難波経一(のち満州国専売公署副署長、軍需省燃料局長官・同整備局長官などを経て、戦後山陽パルプ社長・会長)など。
吉江 勝保(よしえ かつやす、1900年(明治33年)4月8… 吉江 勝保(よしえ かつやす、1900年(明治33年)4月8日 - 1970年(昭和45年)9月17日)は、日本の内務官僚、政治家。山梨県知事(官選第42代、公選初代)。参議院議員(3期)、衆議院議員(1期)。号は知山。 京都府愛宕郡八瀬村(現京都市左京区)に吉江四郎の長男として生まれる。京都府立第一中学校(現京都府立洛北高等学校)のとき、教師から「スッポン」の漢字を知っているかと聞かれ、教室で自分だけが手を挙げて黒板に「すっぽん」と平仮名で書いてみなを唖然とさせ、それ以来、あだ名が「すっぽん」になった。 第三高等学校文科時代は柔道部で主将だった。1927年(昭和2年)に東京帝国大学法学部英法科を卒業。
中原 義一郎(なかはら ぎいちろう、1900年(明治33年)… 中原 義一郎(なかはら ぎいちろう、1900年(明治33年)3月29日 - 1944年(昭和19年)8月7日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 高知県出身。教員・中原寿弥太の長男として生まれる。京都一中を経て、1920年(大正9年)7月、海軍兵学校(48期)を卒業。翌年6月に海軍少尉任官。1923年(大正12年)12月、海軍水雷学校普通科を卒業し夕暮乗組となる。1927年(昭和2年)2月、膠州分隊長となり、第32号駆逐艦(三日月 [II])航海長、鶴見分隊長、疾風航海長などを経て、1931年(昭和6年)12月から一年間、水雷学校特修科学生として学んだ。1932年(昭和7年)12月、栗駆逐艦長に就任し、翌年11月、海軍少佐に昇進した。
加納 一郎(かのう いちろう、1898年(明治31年)7月1… 加納 一郎(かのう いちろう、1898年(明治31年)7月19日 - 1977年(昭和52年)7月12日)は、日本の作家、翻訳家、登山家、極地研究家。 大阪の道頓堀に生れる。5、6歳の頃、父の仕事の都合で京都へ転居、少年時代を過ごす。1911年(明治44年)、京都府立第一中学校に入学した。1915年(大正4年)夏、加納に終生の山心を植え付けた恩師の金井千仭に連れられて、級友ら数名と御嶽山、槍ヶ岳に登る。同年、全国の中学に先駆けて山岳部を創設する。 1916年(大正5年)、北海道帝国大学農学部(入学当時は「東北帝国大学農科大学」。在学中の1918年に北海道帝国大学となる)に入学。スキー部に在籍し、板倉勝宣、松川五郎らと登山とスキーに打ち込み、1920年(大正9年)に積雪期の十勝岳、1922年(大正11年)冬季の旭岳などの初登頂を果たす。
周東 英雄(すとう ひでお、1898年1月27日 - 198… 周東 英雄(すとう ひでお、1898年1月27日 - 1981年8月8日)は、日本の政治家・官僚。農林大臣や自治大臣などを歴任した。正三位勲一等旭日大綬章。 山口県大津郡三隅村(現・長門市)生まれ。少年時代より京都で過ごし、京都一中(現・京都府立洛北高等学校・附属中学校)、第三高等学校を経て、1921年、東京帝国大学法学部独法科を卒業。農商務省に入省する。後に農林大臣を務めた井野碩哉の懐刀として、農林省米穀局長、農務局長、総務局長の要職を務める。その後企画院第四部長、商工省物価局長官を経て、1942年、帝国油糧統制会社初代社長となる。 戦後の1946年、第1次吉田内閣にて内閣副書記官長に就任し、書記官長林譲治のお株を奪う八面六臂の活躍ぶりを見せ、吉田茂に引き立てられた。
神田 喜一郎(かんだ きいちろう、1897年(明治30年)1… 神田 喜一郎(かんだ きいちろう、1897年(明治30年)10月16日 - 1984年(昭和59年)4月10日)は、日本の東洋学者、書誌学者。号を鬯盦、書室を佞古書屋と称した。
林 達夫(はやし たつお、1896年〈明治29年〉11月20… 林 達夫(はやし たつお、1896年〈明治29年〉11月20日 - 1984年〈昭和59年〉4月25日)は、日本の思想家、評論家。 西洋精神史、文化史、文明史にわたる著作が多い。 1896年、東京生まれ。父曾登吉は外交官で、アメリカ・シアトル領事館赴任に伴い2歳から6歳までシアトルで過ごした。1902年に帰国。1904年、父のインド・ボンベイ領事館赴任に伴い福井市の親戚に預けられる。 1908年、両親が帰国、同年福井県立師範学校附属小学校に転入学したときは、当時は稀な帰国子女で外人姿の変な子供と見られ、相当ないじめを受けた。やがて京都市立錦林小学校に転校、1911年、京都府立第一中学校(現:京都府立洛北高等学校・附属中学校)に進んだが、芝居や音楽に熱中して1916年に入学した第一高等学校第一部丙類を中退。
村山 槐多(むらやま かいた、1896年〈明治29年〉9月1… 村山 槐多(むらやま かいた、1896年〈明治29年〉9月15日 - 1919年〈大正8年〉2月20日)は、明治・大正時代の日本の洋画家で、詩人、作家でもある。愛知県額田郡岡崎町(現在の岡崎市生まれ、京都市上京区育ち。母方の従兄に山本鼎(画家)と嶺田丘造(官僚)、はとこに黒柳朝(随筆家)がいる。 みなぎる生命力を退廃的・破滅的雰囲気を纏わせながら絵画に表した。ガランス(深い茜色、やや沈んだ赤色)を好んで使ったことでも知られる。 槐多は、愛知県額田郡岡崎町にて小学校教諭・村山谷助とその妻・たまの長男として生まれた。岡崎町はかつての岡崎城の城下町で、現在の岡崎市。従来の出生地の定説は、父親が教員を務めていたという神奈川県橘樹郡神奈川町(現在の横浜市神奈川区)であったが、岡崎市美術博物館の学芸員が親族への聞き取りと岡崎市役所に残された槐多の出生届資料を確認したうえで、2011年(平成23年)12月に正しい情報を公表した。
新納 克己(にいろ かつみ、1895年〈明治28年〉7月4日… 新納 克己(にいろ かつみ、1895年〈明治28年〉7月4日 - 1971年〈昭和46年〉3月14日)は、昭和時代の日本の外交官、弁理士。第二次世界大戦中に、マニラ総領事や外務省通商局長を務めた。新納 克巳とも。 鹿児島県鹿児島市出身。谷村敏成の三男に生まれ、新納家の養子になる。旧制京都一中(現京都府立洛北高等学校)を経て、1916年(大正5年)第三高等学校二甲卒業。1919年(大正8年)に東京帝国大学工学部土木工学科卒業。1921年(大正10年)4月、鉄道省雇となり、同年11月、高等試験行政科試験に合格。同年12月、外務省嘱託となり臨時平和条約事務局に勤務。1922年(大正11年)東京帝国大学法学部政治学科卒業、外務事務官に任官。
勝本 正晃(かつもと まさあきら、1895年5月5日 - 1… 勝本 正晃(かつもと まさあきら、1895年5月5日 - 1993年4月17日)は、大正時代から平成時代の法学者。学位は、法学博士(東京帝国大学・論文博士・1928年)。 東京出身。1912年京都府立第一中学校卒業。1915年第三高等学校卒業。1918年東京帝国大学法科大学独逸法律学科卒業。 1918年東京帝国大学法科大学助手(指導教員:鳩山秀夫)。1921年独・仏・米に研究留学(1923年まで)。1923年東北帝国大学法文学部助教授。1924年東北帝国大学法文学部教授となり、1928年3月3日に東京帝国大学から法学博士を受ける。1949年から京都大学法学部教授。 1951年京都大学を退官して弁護士・弁理士を開業。
四手井 綱正(しでい つなまさ、1895年1月27日 - 1… 四手井 綱正(しでい つなまさ、1895年1月27日 - 1945年8月18日)は、日本の陸軍軍人、戦史研究者。最終階級は陸軍中将。 京都府山科(現京都市)の旧家(郷士)出身。教員・四手井彦四郎の長男として生まれる。京都一中、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、陸軍騎兵少尉に任官し騎兵第23連隊付となる。1922年(大正11年)11月、陸軍大学校(34期)を優等で卒業した。 陸軍騎兵学校教官、ドイツ駐在、陸大教官、兼参謀本部員などを経て、1935年(昭和10年)8月から1939年(昭和14年)3月まで侍従武官を務めた。この間、1936年(昭和11年)には、飛行第五連隊で発生した飛行機墜落事故発生の状況実視に遣わせられた。
香山 蕃(かやま しげる、1894年2月9日 - 1969年… 香山 蕃(かやま しげる、1894年2月9日 - 1969年5月3日)は、日本ラグビーフットボール協会(以下、日本ラグビー協会)第3代会長、ラグビー日本代表初代監督。 京都府出身。京都府立一中卒業後4浪の末、第三高等学校(旧制高校、略称:三高)に入学。その3年後の1920年、東京帝国大学政治学科に入学した。当初は陸上部に所属していたが、1921年11月、31人の同志とともに、学士ラガー倶楽部(現在の東京大学運動会ラグビー部)を創設。同月、YCACと部として初の試合を行い、さらに翌1922年1月、三高グランドに遠征し、京都帝国大学ラグビー部(現在の京都大学ラグビー部、以下 京都帝大)と初の対抗戦を行なった。
吉川 観方(よしかわ かんぽう、1894年〈明治27年〉 -… 吉川 観方(よしかわ かんぽう、1894年〈明治27年〉 - 1979年〈昭和54年〉4月16日)は、大正時代から昭和時代にかけての京都の日本画家・版画家。 京都市に生れる。本名は賢次郎。1900年(明治33年)、まず書を岡阪鉄山に学んだ後、1901年(明治34年)、西堀刀水、竹内栖鳳に師事して日本画を学んでいる。1905年(明治38年)、京都市立一ツ橋小学校を卒業する。1907年(明治40年)、藤原重浪に和歌の添削を受け、1909年(明治42年)から浮世絵の研究を始めた。1913年(大正2年)に京都府立第一中学校を卒業、翌1914年(大正3年)に京都市立絵画専門学校予科に入学した。この頃、江馬務が主宰していた風俗研究会に参加、1916年(大正5年)に江馬が『風俗研究』を創刊してからは、同誌のために古画の模写や挿絵を担当していた。
三国 直福(三國、みくに なおとみ、1893年(明治26年)… 三国 直福(三國、みくに なおとみ、1893年(明治26年)7月12日 - 1990年(平成2年)6月2日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 福井県出身。中学校教員・三国芳次郎の息子として生まれる。京都第一中学校(現京都府立洛北高等学校・附属中学校)、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し野砲兵第22連隊付となる。1916年(大正5年)11月、陸軍砲工学校高等科(22期)を卒業。1921年(大正10年)11月、陸軍大学校(33期)卒業した。 1922年(大正11年)8月、野砲兵第22連隊中隊長に就任し、参謀本部付勤務、第18師団参謀、陸軍兵器本廠付(陸軍省新聞班)、第6師団司令部付を務め、1928年(昭和3年)8月、砲兵少佐に昇進し第3師団司令部付となる。
森 友一(もり ともかつ、1893年〈明治26年〉2月28日… 森 友一(もり ともかつ、1893年〈明治26年〉2月28日 - 1959年〈昭和34年〉1月23日)は、日本海軍の軍人。操艦の名手といわれ、太平洋戦争において重巡洋艦・「羽黒」艦長として歴戦。のち第一水雷戦隊司令官を務めた海軍少将である。 石川県出身。父は第三高等学校や京都一中の校長を務めた森外三郎である。草鹿龍之介は石川師範学校附属小学校の同級生であった。京都一中を経て海軍兵学校42期を117名中62番で卒業した。森は水雷学校高等科学生を修了した水雷科専攻士官である。大尉で「有明」駆逐艦長、「葦」駆逐艦長に就任して以来、6艦の艦長、2隊の駆逐隊司令などを経て、「羽黒」艦長として太平洋戦争を迎えた。
前田 正実(まえだ まさみ、1892年11月10日 - 19… 前田 正実(まえだ まさみ、1892年11月10日 - 1953年7月8日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 前田正隆・陸軍大尉の長男として岐阜で生まれる[要検証 – ノート]。京都一中、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)を卒業。同年12月、工兵少尉に任官し工兵第15大隊付となる。1916年(大正5年)5月、陸軍砲工学校高等科(25期)を優等で卒業。陸地測量部員などを経て、1922年(大正11年)11月、陸軍大学校(34期)を卒業。 1922年12月、工兵第15大隊中隊長となり、参謀本部付勤務、参謀本部員などを歴任し、1925年(大正14年)5月から1928年(昭和3年)12月までフィリピンに潜入。
井口 竹次郎(いぐち たけじろう、1892年2月1日 - 1… 井口 竹次郎(いぐち たけじろう、1892年2月1日 - 1971年3月22日)は日本の実業家。大阪ガス元社長・会長。 京都府愛宕郡修学院村(現・京都市左京区)出身。京都府立第一中学校、三高を経て、1916年 京都帝国大学工学部卒業後、三井物産へ入社。1930年に大阪瓦斯へ中途入社。その後は専務取締役を経て、1949年3月24日より片岡直方の逝去に伴い、代表取締役社長に就任。1960年より代表取締役会長に就任。 その他には日本ガス協会会長、大阪工業会会長、朝日放送取締役などを歴任し、大阪高等技術研修所設立の推進も行った。1958年に藍綬褒章、1965年に勲二等旭日重光章を受章。1971年3月22日、79歳で死去。
須田 國太郎(すだ くにたろう、1891年〈明治24年〉6月… 須田 國太郎(すだ くにたろう、1891年〈明治24年〉6月6日 - 1961年〈昭和36年〉12月16日)は洋画家。京都市立美術大学名誉教授。重厚な作風と東西技法の融合に特色。
猪子 一到(いのこ かずゆき、1891年4月26日 - 19… 猪子 一到(いのこ かずゆき、1891年4月26日 - 1956年12月18日)は、日本京都府京都市出身の実業家。 京都帝国大学医学部名誉教授猪子止戈之助の長男として生まれる。一中、三高、京都帝大と進み南満州鉄道(満鉄)に入社。満鉄野球部に情熱をささげるとともに仕事においても理事に就任。 戦後松竹ロビンス球団代表を務め満鉄時代の後輩である小西得郎を監督に迎え入れ優勝。1952年6月より、近鉄パールス社長に就任する。1956年11月パ・リーグ総裁就任も65歳で死去。球団葬が営まれた。後任のパ・リーグ総裁はオーナーの佐伯勇が務めた。 出典は『人事興信録』の4巻、8巻より[要ページ番号]。 「ウィニングベースボール」(アーサー・マン著、三宅大輔とともに翻訳) - 1958年、ベースボール・マガジン社発行。
戸野 琢磨(との たくま、1891年 - 1985年5月10… 戸野 琢磨(との たくま、1891年 - 1985年5月10日)は、日本の造園家、作庭家、ランドスケープアーキテクト。造園分野では日本人で初めてアメリカの大学で学位を取得し、帰国後日本ではじめての造園設計事務所・ランドスケープコンサルタントを設立して設計活動した。 戦後はアメリカで日本庭園の作庭活動や講演などをとおして日米間のランドスケープアーキテクチェア分野での国際交流にも貢献した。 1959年に造園家アメリカ協会 (ASLA) メンバー・名誉会員に推挙され、米国の庭園デザイン界でも広く名を知られていた。米国大使館などの外国大使館庭園の作品も多く、日本とアメリカ両国でかなりの数の作品を残している。
大橋 理一郎(おおはし りいちろう、1889年 <明治22年… 大橋 理一郎(おおはし りいちろう、1889年 <明治22年> 10月5日 - 1981年 <昭和56年> 2月27日)は、日本の経営者。蝶理社長を務めた。位階は正五位。京都府京都市出身。 1909年に京都府立第一中学校を卒業し、同年に大橋商店に入社。1948年に蝶理社長に就任し、1958年5月には会長に就任。1959年9月から1960年5月までに再び社長を務めた。家政学園理事長も務めた。 1944年に紺綬褒章を受章し、1966年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1981年2月27日、老衰のために死去。81歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
夏 粛初(か しゅくしょ、1889年〈光緖15年〉 - 没年… 夏 粛初(か しゅくしょ、1889年〈光緖15年〉 - 没年不明)は、中華民国の官僚・実業家。別号は旭初。中華民国臨時政府、南京国民政府(汪兆銘政権)華北政務委員会の要人。呉甌・李元暉と共に、王揖唐側近の部下と目された。 日本に留学し、京都府立第一中学、第一高等学校を卒業した。その後、ドイツにも留学し、ベルリン大学で学んでいる。帰国後の1929年(民国18年)10月21日、北平特別市政府秘書処秘書に任命された。後に黄郛配下となり、行政院駐平政務委員会で科長をつとめる。1935年(民国24年)12月に冀察政務委員会が成立すると、ここでも科長となった。 1937年(民国26年)12月に中華民国臨時政府が成立すると、夏粛初はこれに参加している。
秋山 光夫(あきやま てるお、1888年4月3日 - 197… 秋山 光夫(あきやま てるお、1888年4月3日 - 1977年1月16日)は、日本の美術史学者。金沢美術工芸大学名誉教授。専門は日本近世絵画史。 1888年、静岡県田方郡で三島大社宮司・秋山光條の子として生まれた。京都府立第一中学校、第六高等学校を経て、京都帝国大学法科大学に入学。しかし芸術への関心を断つことができず、同文科大学哲学科に転じ、美学美術史学を専攻した。1913年に卒業し、同大学大学院に進んだ。 大学院在学中より京都絵画専門学校などで美術史を講じた。1918年、図書頭兼帝室博物館総長・森鴎外の推挙により宮内省図書寮に奉職。1924年に宮内省御物管理委員、1926年に帝室博物館監査官となった。
木村 健児(きむら けんじ、1887年12月18日 - 19… 木村 健児(きむら けんじ、1887年12月18日 - 1936年10月24日)は、日本の俳優である。木村 健兒と表記されることもある。本名は木村 米太郎(きむら よねたろう)。木村 健二、木村 健次、木村 建治と表記に揺れがある。新派を経て映画界に転向、昭和初期まで大きな体格を生かして松竹蒲田撮影所、不二映画社などに出演した名脇役として知られる。 1887年(明治20年)12月18日、京都府京都市に生まれる。旧制京都府第一中學校(現在の京都府立洛北高等学校)卒業。 天然色活動写真の連鎖劇を経て、1919年(大正8年)2月、本郷座に拠点を持つ岡本五郎、石川新水、栗島狭衣、梅島昇らの新生劇団に加入し、新派悲劇『浅草物語』で初舞台を踏む。