スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
伊藤 一彦(いとう かずひこ、1943年9月12日 - )は… 伊藤 一彦(いとう かずひこ、1943年9月12日 - )は、日本の歌人。宮崎県立看護大学客員教授、宮崎県立図書館名誉館長。「心の花」所属。「現代短歌・南の会」代表。日本ペンクラブ会員。 宮崎県宮崎市生まれ、在住。宮崎県立宮崎大宮高等学校、早稲田大学第一文学部哲学科卒業。学生時代に同級の福島泰樹のすすめで短歌をはじめ、「早稲田大学短歌会」に入会。三枝昂之らと知り合う。 大学卒業後は帰郷し、教員のかたわら作歌活動を続ける。郷土の歌人若山牧水の研究者でもあり、若山牧水記念文学館長、「牧水研究会」会長を務める。同会が編集する『牧水研究』の第8号は2011年に第9回前川佐美雄賞を受賞した。宮崎県立図書館長、名誉館長。
佐藤 勇夫(さとう いさお、1941年(昭和16年)10月4… 佐藤 勇夫(さとう いさお、1941年(昭和16年)10月4日-)は日本の銀行家。宮崎銀行元頭取。 1941年(昭和16年)10月4日、宮崎県に生まれる。宮崎大宮高校、1964年(昭和39年)に法政大学経営学部を卒業し、宮崎銀行に入行する。 1991年(平成3年)6月に福岡支店長、1993年(平成5年)6月に延岡支店長、1995年(平成7年)6月に取締役東京支店長兼国際部長、1997年(平成9年)6月に取締役総合企画部長、1998年(平成10年)6月に常務取締役、2000年(平成12年)6月に代表取締役専務を経て、2001年(平成13年)6月代表取締役頭取に就任する。2008年(平成20年)6月に代表取締役会長に就任し、その後相談役に退いた。
佐伯 浩(さえき ひろし、1941年7月1日 - ) は、日… 佐伯 浩(さえき ひろし、1941年7月1日 - ) は、日本の工学者。専門は、海岸工学、湾岸工学、氷工学、寒地海洋工学。 1941年、満洲で生まれた。出身は宮崎県。1960年、宮崎県立宮崎大宮高等学校を卒業し、北海道大学工学部に進学。土木工学科で学び、1964年に卒業。同大学大学院工学研究科土木工学専攻に進み、1966年に修士課程を修了。 1966年、北海道大学工学部講師に就いた。1968年に同助教授に昇格。1983年、学位論文『海氷の強度特性と海岸・海洋構造物の耐氷設計法に関する研究』を北海道大学に提出して工学博士号を取得。翌1984年、北海道大学工学部教授に昇格。2007年、第17代北海道大学総長に就任した。
やまさき 十三(やまさき じゅうぞう、本名:山崎 充朗、19… やまさき 十三(やまさき じゅうぞう、本名:山崎 充朗、1941年6月19日 - )は、日本の漫画原作者。代表作は画:北見けんいちにより『ビッグコミックオリジナル』(小学館)にて連載されている『釣りバカ日誌』。 宮崎県都城市に7人きょうだいの3男として生まれる。実家は学校教材等を取り扱う大規模な文具店の山崎文科堂で、『釣りバカ日誌』にてハマちゃんの実家「浜崎文科堂」として登場したが、2013年12月18日に火災被害に遭い全焼している。 中学時代は野球部で投手を務めて宮崎県大会で優勝し、野球の才能を見込まれて宮崎県立宮崎大宮高等学校へ進学、1年生のときには補欠で甲子園に出場した。しかし、2年生で腰を痛めて野球を挫折し、加えて肺浸潤で2か月の入院生活をした後に映画を観るようになる。
武上 四郎(たけがみ しろう、1941年4月8日 - 200… 武上 四郎(たけがみ しろう、1941年4月8日 - 2002年8月23日)は、宮崎県宮崎市出身のプロ野球選手(内野手)・コーチ・監督、解説者・評論家。 中学時代から子分を40人も持つガキ大将で、進学校の宮崎大宮高校では100m走を10秒9で走る俊足であった。1年次の1957年に夏の甲子園に出場しているが、自身の出場はなかった。 高校卒業後は1961年に中央大学へ進学し、東都大学野球リーグでは3年次の1963年秋季リーグ、4年次の1964年秋季リーグと2度の優勝を経験。3年時のエースは三浦宏(北海道拓殖銀行)であった。1964年10月には東京五輪デモンストレーションゲームとして開催された日米大学野球選抜試合に二塁手として出場している。
柴田 紘一郎(しばた こういちろう、Koichiro SHI… 柴田 紘一郎(しばた こういちろう、Koichiro SHIBATA、1940年5月6日 - 2025年2月19日)は、日本の医師、医学者、随筆家。公益財団法人「風に立つライオン基金」 永久名誉顧問。さだまさしの歌および小説、またそれを原作とした映画『風に立つライオン』のモデルとなった人物。
克美 しげる(かつみ しげる、1937年12月25日 - 2… 克美 しげる(かつみ しげる、1937年12月25日 - 2013年2月27日)は、日本の歌手。本名は津村誠也(つむら せいや)。1975年から1976年にかけては芸名を『克美 茂』と表記していた。
克美 しげる(かつみ しげる、1937年〈昭和12年〉7月2… 克美 しげる(かつみ しげる、1937年〈昭和12年〉7月2日 - 2013年〈平成25年〉2月27日)は、日本の歌手。本名は津村 誠也(つむら せいや)。宮崎県宮崎市出身。1950年代に始まったロカビリー・ブームの中、1961年(昭和36年)に『霧の中のジョニー』の日本語カバーでレコードデビューし、漫画映画『エイトマン』の主題歌『エイトマン』や、歌謡曲路線に転向してのちの『さすらい』が大ヒット。1964年(昭和39年)と1965年(昭和40年)には、2年連続で「NHK紅白歌合戦」への出場も果たした。 しかし1976年(昭和51年)、自身の愛人である女性を殺害して死体を遺棄する事件を起こし(克美茂愛人殺害事件)、懲役10年の実刑判決を受ける。
友川 賢次(ともかわ けんじ、1935年12月9日 - )は… 友川 賢次(ともかわ けんじ、1935年12月9日 - )は、宮崎県出身の元プロ野球選手。ポジションは外野手。 宮崎大宮高校から1953年に洋松ロビンスへ入団。1955年は開幕直後から一軍に上がるが、40打席無安打と不振を極める。しかし8月16日に中日の杉下茂から初安打。その後は主に中堅手として起用され、同年は49試合に先発出場。その後も準レギュラーとして活躍するが、1958年オフに国鉄スワローズへ移籍。1959年限りで引退した。
田﨑 雅元(たざき まさもと、1935年(昭和10年)9月6… 田﨑 雅元(たざき まさもと、1935年(昭和10年)9月6日 - )は、日本の実業家。川崎重工業元社長。満洲国奉天市生まれ。ハルビン市、京城府、大連市を経て、日本の降伏後宮崎県高千穂町に引き揚げ、宮崎市出身。父は都城市生まれで満州医科大学出身の医師で京城帝国大学医学部助教授などを務めた。
杉谷 昭人(すぎたに あきと、1935年1月13日 - )は… 杉谷 昭人(すぎたに あきと、1935年1月13日 - )は、日本の詩人。 朝鮮半島鎮南浦府(現北朝鮮南浦特別市)生まれ。戦後宮崎市に引き揚げる。宮崎県立宮崎大宮高等学校、宮崎大学学芸学部卒。本多利通らと「白鯨」「赤道」に拠る。1991年『人間の生活』でH氏賞、2007年『霊山』で壺井繁治賞、2014年『農場』で小野十三郎賞受賞。『詩人会議』『詩と思想』に参加。日本詩人クラブ会員。鉱脈社勤務。
岩村 秀(いわむら ひいず、1934年12月17日 - )は… 岩村 秀(いわむら ひいず、1934年12月17日 - )は、日本の化学者。専門は、有機化学。有機磁性体の開発や、分子機械の先駆的な研究などで知られる。学位は、理学博士(東京大学・1962年)。分子科学研究所名誉教授、東京大学名誉教授、九州大学名誉教授、日本大学大学理工学部客員教授。紫綬褒章・瑞宝中綬章受章。
上村 次敏(うえむら つぐとし 1934年 - 1998年)… 上村 次敏(うえむら つぐとし 1934年 - 1998年)は、日本の画家。逆さ絵や錯視を利用した精密な作品が特徴とされる。 1934年、福岡県久留米市に生まれる。宮崎県立宮崎大宮高等学校を卒業後、1956年に上京。1957年、武蔵野美術学校に入学。1959年、同校在学中に第3回シェル美術賞を受賞する。1961年、丸善石油美術奨励賞選抜展出展。担当教授に卒業課題の卒業制作を有名作家のコピーと誤解されて卒業できず、同校を中退する[要出典]。1962年、第2回太平洋青年美術家展に入選[要出典]。1963年には第3回パリ青年ビエンナーレ展に日本代表として宮脇愛子、渡辺恂三、工藤哲巳らとともに出展。同年、現代日本美術展入選、二紀会同人努力賞受賞。
重久 吉弘(しげひさ よしひろ、1933年(昭和8年)11月… 重久 吉弘(しげひさ よしひろ、1933年(昭和8年)11月18日 - 2025年 )は、日本の実業家。日揮名誉顧問。日揮元代表取締役社長・会長・日揮グループ代表・相談役。旭日重光章受章。
青木 賢児(あおき けんじ、1932年12月19日 - 20… 青木 賢児(あおき けんじ、1932年12月19日 - 2023年8月1日)は、元日本放送協会 (NHK) 理事。 1957年(昭和32年)、NHKに入局。同局在籍時には、30年あまりにわたってドキュメンタリー番組のプロデューサーを務め、『現代の映像』『明治の群像』『NHK特集』などの制作に携わった。そして報道局次長、報道番組部長、放送総局長、NHK専務理事、1991年にはNHK交響楽団理事長を務めた。 NHKを退局後、1993年(平成5年)より宮崎県立芸術劇場館長を、2014年より名誉館長を務めた。1996年に宮崎国際音楽祭を初めて開催し、プロデューサー・徳永二男と共に総監督を2010年まで務めた。
渡辺 綱纜(渡邊 綱纜、わたなべ つなとも、1931年 - … 渡辺 綱纜(渡邊 綱纜、わたなべ つなとも、1931年 - 2024年10月14日)は、日本の実業家。元宮交シティ社長。元宮崎産業経営大学教授。 朝鮮半島に生まれる。宮崎県立宮崎大宮高等学校、中央大学法学部卒業。1953年、宮崎交通に入社。企画宣伝課長・観光副部長・総合センター部長・常務取締役などを歴任。1987年、株式会社宮交シティ社長に就任。 2024年10月14日、老衰のため宮崎市内の病院で死去。93歳没。
長友 貞藏(ながとも ていぞう、1930年(昭和5年)5月2… 長友 貞藏(ながとも ていぞう、1930年(昭和5年)5月28日 - 1994年(平成6年)5月3日)は、日本の政治家、官僚。宮崎市長。 宮崎県宮崎郡住吉村(現・宮崎市)出身。宮崎県立宮崎中学校、宮崎大学農学部農学科卒業。1953年農林省にキャリア技官として入省。農林経済局金融課課長補佐から1971年宮崎市に出向。経済部長、総務部長を経て、1976年から1978年まで助役を務めた。 1979年から宮崎県議会議員(自由民主党)を務めるも任期途中で辞職し、1982年宮崎市長選挙に出馬し当選。1994年3期目の途中で健康上の理由で引退し、長友の任期中一貫して助役であった坂本昭三が実質的な後継者として市長選に臨んだが、津村重光に敗れた。
頼 平 (より たいら、1929年 - ) は、日本の農学者… 頼 平 (より たいら、1929年 - ) は、日本の農学者。(京都大学)。専門は、農業経済学、農政学。宮崎県出身。
田尻 宗昭(たじり むねあき、1928年2月21日 - 19… 田尻 宗昭(たじり むねあき、1928年2月21日 - 1990年7月4日)は、日本の海上保安官。日本で初めて公害事件の刑事責任を追及し「公害Gメン」と呼ばれた。 福岡市生まれ。1944年、宮崎県立宮崎中学校(現宮崎県立宮崎大宮高等学校)卒業。1948年、官立高等商船学校(静岡県)航海科を卒業。 門司海員養成所教官を経て海上保安庁に入り、巡視船船長などを務め李承晩ライン警戒、北洋海難救助などに従事した。1968年、四日市海上保安部警備救難課長。在職中、石原産業四日市工場、日本アエロジル四日市工場による四日市港への工場排水垂れ流しを摘発。日本の公害事件で初めて刑事責任を追及、行政と産業界の癒着にメスを入れた。
日高 繁明(、1916年(大正5年)7月30日 -没年不明)… 日高 繁明(、1916年(大正5年)7月30日 -没年不明)は日本の映画監督、脚本家。宮崎県出身。通り名は「はんめい」。妻は元東宝専属女優の川合玉江。 主に時代劇やアクション映画などの監督を務めた。 宮崎中学校卒業後、衣笠貞之助に師事。 1936年(昭和11年)、松竹下加茂撮影所に入社。 1941年(昭和16年)、東宝に移籍。 1950年(昭和25年)、『淑女と風船』を中野潔と共同監督。 1954年(昭和29年)、『透明人間』(小田基義監督)以後、映画脚本家としても活躍。 1955年(昭和30年)、『姿なき目撃者』で正式に映画監督デビュー。 1959年(昭和34年)、東宝を退社。 1960年(昭和35年)、第二東映に入社。
瑛九(えいきゅう、1911年4月28日 - 1960年3月1… 瑛九(えいきゅう、1911年4月28日 - 1960年3月10日)は、日本の画家、版画家、写真家。前衛的な作品、抽象的な作品(抽象絵画)が多い。本名、杉田 秀夫。QEiとも自署した。浦和画家として有名。 宮崎県宮崎市に生まれる。瑛九の生家は宮崎市内で眼科医院を営んでいるが、極度の近視のため家業を継ぐことはできなかった。1925年、宮崎中学校(現宮崎県立宮崎大宮高等学校)を中退して上京。日本美術学校卒業。 1934年に生涯の友人となる画家の山田光春(当時は教員)と出会う。1935年に中央美術展に初入選した。山田らと芸術家クラブふるさと社を結成した。この頃より美術評論家の外山卯三郎や、画家の長谷川三郎と親交を深める。
中村 地平(なかむら ちへい、1908年(明治41年)2月7… 中村 地平(なかむら ちへい、1908年(明治41年)2月7日 - 1963年(昭和38年)2月26日)は、宮崎県出身の小説家、銀行家。宮崎県立図書館長、宮崎相互銀行(現宮崎太陽銀行)社長。自らが憧れた南方の風土で培われた南方文学を提唱した。筆名であり、本名は中村治兵衛。 1908年(明治41年)、現宮崎市淀川町に中村常三郎の次男として裕福な商家に生まれた。旧制宮崎中学校(現宮崎大宮高校)時代、佐藤春夫の台湾小説を読んで南方に憧れ、1930年(昭和5年)3月、台湾総督府立台北高等学校を卒業。同年4月、東京帝国大学文学部美術史科に入学。入学試験の会場で太宰治と知り合った。学生時代の1932年(昭和7年)「熱帯柳の種子」を文芸誌『作品』に発表。
村社 講平(むらこそ こうへい、1905年8月29日 - 1… 村社 講平(むらこそ こうへい、1905年8月29日 - 1998年7月8日)は、日本の陸上競技選手、指導者、毎日新聞記者。ベルリン五輪代表。 宮崎県宮崎市出身。小柄ながらも力強い走法で選手として活躍、引退後も毎日マラソンの設立や後進の育成など陸上界の発展に尽力した。 旧制宮崎中学校テニス部時代にロードレース大会で優勝したことをきっかけに長距離走を本格的に始めた。 1925年(大正14年)中学卒業後、都城歩兵第23連隊に入隊。1927年(昭和2年)に除隊し宮崎県立図書館に勤務。仕事のかたわら陸上競技を続けているうちに素質を認められ、1932年、27歳のときに中央大学法学部法律学科に進学。 中央大学在学中の1936年ベルリンオリンピックに日本代表として出場。
中馬 馨(ちゅうま かおる、1904年(明治37年)11月2… 中馬 馨(ちゅうま かおる、1904年(明治37年)11月20日 - 1971年(昭和46年)11月8日)は、日本の政治家。大阪市長(1963年 - 1971年)。元衆議院議員の中馬弘毅は長男。 1904年11月20日宮崎県児湯郡三納村(現:西都市)に中馬重顕の長男として出生。1916年宮崎県立宮崎中学校(現:宮崎県立宮崎大宮高等学校)入学。1920年攻玉社中学校(現:攻玉社中学校・高等学校)に編入し、1922年卒業。 1926年第一早稲田大学高等学院卒業。1929年早稲田大学政治経済学部政治学科を卒業。大阪市役所に奉職。若い頃から關一ら歴代市長の側近にあって市政の枢要に触れる。市民局長、総務局長を経て、1948年に助役となり、大阪市立大学の開設、ジェーン台風被災者の救援活動に尽力した。
是枝 恭二(これえだ きょうじ、1904年10月16日 - … 是枝 恭二(これえだ きょうじ、1904年10月16日 - 1934年6月10日)は、日本の戦前の政治運動家。 鹿児島県鹿児島郡谷山村(現鹿児島市)生まれ。父は鉄道管理局建設事務所に勤める官吏であった。鹿児島県立第一鹿児島中学校から宮崎県立宮崎中学校に転校、4年修了で第七高等学校へ進学。 七高在学中の1922年に村尾薩男、喜入虎太郎らと社会科学研究会を創設し、また学生や鹿児島県下の青年に対する啓蒙活動を行なった。1923年東京帝国大学文学部社会学科に進学、新人会、学生連合会、学生社会科学連合会の中心的指導者の一人であった。 1925年10月、共産主義者グループに参加し、志賀義雄、村尾薩男と3人で学生運動に対するフラクションを構成した。
川添 修平(かわぞえ しゅうへい、1897年(明治30年)8… 川添 修平(かわぞえ しゅうへい、1897年(明治30年)8月2日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の朝鮮総督府官僚、台湾総督府官僚、陸軍司政官。嘉義市尹、基隆市尹。 宮崎県南那珂郡吾田村に生まれる。1917年(大正6年)宮崎県立宮崎中学校、1921年(大正10年)旧制第五高等学校を経て、1924年(大正13年)東京帝国大学法学部法律学科英法を卒業し、朝鮮総督府に奉職。翌年の1925年(大正14年)11月、一時退官し、東京日日新聞に入社。 同月、高等試験行政科に合格し、1929年(昭和4年)3月、台湾総督府に出仕。財務局税務課勤務、同年12月に警部を経て、1930年(昭和5年)1月に地方理事官に進み、澎湖庁庶務課長、同年12月に台南市助役、1931年(昭和6年)5月に台南州新営郡守、1932年(昭和7年)4月に台北市助役を経て、1933年(昭和8年)10月、嘉義市尹に就任した。
黒木勇吉(くろぎ ゆうきち、1896年 - 1992年1月2… 黒木勇吉(くろぎ ゆうきち、1896年 - 1992年1月26日)は、日本の新聞記者、文筆家。黒木晩石(くろぎばんせき)の筆名で知られる。 宮崎県美々津(現日向市)に生まれる。1916年宮崎中学校卒業。1922年早稲田大学専門部政治経済科卒業。報知新聞に入社、統一部長、論説委員。「日向社」を創立、月刊郷友誌『日向』を発行、誌名は『新みやざき』『広場』と改めたが50年間主宰。1939年軍事報道のため大陸に渡る。1942年報知・読売両新聞社合併により読売新聞記者、論説委員。1951年読売新聞を退社、帰郷し名前を晩石と号して著述に専念した。
黒木剛一(くろき ごういち、1894年〈明治27年〉2月16… 黒木剛一(くろき ごういち、1894年〈明治27年〉2月16日 - 1972年〈昭和47年〉5月21日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 1892年10月8日、宮崎県宮崎郡宮崎町(現在の宮崎市)に生まれる。旧制宮崎県立宮崎中学校を経て、海軍兵学校第43期に成績順位100名中第6位で入学。1915年12月16日、成績順位96名中第40位で卒業。 1938年12月15日、京城在勤海軍駐在武官兼朝鮮総督府御用掛嘱託。1940年8月1日、兼京城監理長。1941年12月、太平洋戦争開始。 1942年6月25日、海軍軍令部出仕。7月15日、海南警備府附。7月20日、第16警備隊司令。1943年(昭和18年)9月10日、横須賀鎮守府附。
岩切 章太郎(いわきり しょうたろう、1893年5月8日 -… 岩切 章太郎(いわきり しょうたろう、1893年5月8日 - 1985年7月16日)は、日本の実業家。宮崎交通グループの創業者。宮崎県宮崎市出身。 宮崎を観光地として整備した立役者として「宮崎観光の父」と呼ばれる。日南海岸に現在宮崎の風物詩になっているフェニックスの植林を行い、こどもの国の開園、えびの高原の観光開発、橘公園の造園など「大地に絵を描く」という理念で大型の観光開発を行った。 住友時代の同期には、田路舜哉(住友商事会長)、土井正治(住友化学会長)などがいた。また大学の同窓生である岸信介元首相と懇意であり、佐藤栄作元首相に全日空の社長就任を要請されるなど中央政界にも太いパイプを持った人物だった。
森 由己雄(もり ゆきお、1892年(明治25年)9月24日… 森 由己雄(もり ゆきお、1892年(明治25年)9月24日 ‐ 1955年(昭和30年)8月6日) は、大正から昭和期の弁護士、政治家。衆議院議員、宮崎県西諸県郡小林町長。由巳雄と表記される場合がある。 宮崎県西諸県郡小林村(小林町を経て現小林市)で、森長興の長男として生まれた。旧制宮崎中学校(現:宮崎県立宮崎大宮高等学校)、第七高等学校造士館を経て、1918年(大正7年)東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。 司法官試補に任官し東京地方裁判所で勤務。1921年(大正10年)弁護士を開業した。宮崎市会議員、宮崎県会議員、小林町長に在任。その他、小林町農会長、同農業会長なども務めた。 1936(昭和11年)2月の第19回衆議院議員総選挙で宮崎県全県区から立憲政友会公認で立候補したが落選。
平島 敏夫(ひらしま としお、1891年(明治24年)11月… 平島 敏夫(ひらしま としお、1891年(明治24年)11月4日 - 1982年(昭和57年)2月14日)は、日本の政治家、弁護士、教育者。衆議院議員(1期)、参議院議員(3期、自由民主党)、南満洲鉄道副総裁、2代目大東文化大学学長。 宮崎県児湯郡高鍋村(現高鍋町)出身。平島重綱の長男。幼少時より秀才の誉れが高く、高鍋学校(現宮崎県立高鍋高等学校)、宮崎中学校(現宮崎県立宮崎大宮高等学校)から学校推薦で第一高等学校に進学。1918年(大正7年)東京帝国大学法科大学法律学科(英法)卒。内務属、長崎県理事官、南満洲鉄道秘書役、同参事、台湾総督府秘書官兼事務官などを務め、弁護士を経て司法大臣秘書官となる。
田中 長茂(たなか ながしげ、1891年6月11日 - 19… 田中 長茂(たなか ながしげ、1891年6月11日 - 1969年9月14日)は、日本の農林官僚、政治家。宮崎県知事を1期務めた。 宮崎県南那珂郡福島町(現・串間市)出身。宮崎県立宮崎中学校、第五高等学校、東京帝国大学法学部・農学部卒。1921年(大正10年)農商務省に入省。戦前は革新官僚として、産業組合の創立や農地改革(当時は実現せず)などに携わり、水産局長、山林局長を経て退官。 1951年(昭和26年)4月1日、第2回宮崎県知事選挙に出馬。吉見房見共に法廷得票数に達せず、決選投票。同年5月18日、宮崎県知事選決選投票で当選、宮崎県知事となる。 1953年(昭和28年)に郵政省は宮崎県に新しい民放局の周波数を割り当てたがものの、当初地元では民放設立の動きが全くなく、鹿児島県の南日本放送がこの機会を利用し宮崎市に中継局をつくろうと運動を始めていた。
熊谷 一弥(くまがい いちや、1890年(明治23年)9月1… 熊谷 一弥(くまがい いちや、1890年(明治23年)9月10日 - 1968年(昭和43年)8月16日)は、福岡県大牟田市出身の男子テニス選手。旧漢字表記では 熊谷 一彌 と書く。 熊谷は日本テニス界の黎明期を築き、清水善造と共に日本人テニス選手の世界挑戦への道を開拓した選手のひとりである。1918年(大正7年)の全米選手権において日本人テニス選手として史上初のグランドスラムベスト4に進出した。 1920年(大正9年)のアントワープ五輪で男子シングルス、ダブルスともに銀メダルを獲得し、日本人初のオリンピックメダリストとなった。 英語文献では“Ichiya Kumagae”(イチヤ・クマガエ)と表記されることが多い。
二見 甚郷(ふたみ じんごう、1888年10月16日 - 1… 二見 甚郷(ふたみ じんごう、1888年10月16日 - 1968年11月17日)は、日本の政治家、外交官。宮崎県知事(公選第3代)。宮崎市長(第9代)。衆議院議員(1期)。参議院議員(1期)。 宮崎県東諸県郡高岡町(現宮崎市)出身。宮崎県立宮崎中学校、第七高等学校造士館(現在の鹿児島大学)を経て、1915年東京帝国大学法学部政治学科卒。同年外交官及領事官試験に合格し外務省に入省、1923年退官。1928年に衆議院議員に当選。1933年には在郷軍人の国家主義団体である明倫会を結成し宣伝部長に就任。1941年駐タイ公使を経て、1945年宮崎市長となる。1947年の公選制となっての最初の県知事選では、得票数1位となるも法定得票数に届かず、安中忠雄との決選投票となるが、投票直前に公職追放された。
竹下 豊次(たけした とよじ、1887年(明治20年)2月2… 竹下 豊次(たけした とよじ、1887年(明治20年)2月2日 – 1978年(昭和53年)4月25日)は、大正から昭和期の官僚、政治家。貴族院多額納税者議員、参議院議員(緑風会)。 宮崎県南那珂郡西方村(福島村大字西方、福島町を経て現串間市)出身。1904年(明治37年)旧制宮崎県立宮崎中学校(現 宮崎県立宮崎大宮高等学校)卒業。1907年(明治40年)旧制第七高等学校造士館卒業。1911年(明治44年)東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、大学院に学んだ。1912年(大正元年)高等試験行政科に合格し、翌年に福岡県属警部となった。以後、同県警視、製鉄所副参事、同参事、農商務省工場監督官、同書記官・工場課長を歴任した。
小沢 治三郎(旧字体: 小澤 治三郞、おざわ じさぶろう、1… 小沢 治三郎(旧字体: 小澤 治三郞、おざわ じさぶろう、1886年(明治19年)10月2日 - 1966年(昭和41年)11月9日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。海兵37期。第31代となる最後の連合艦隊司令長官を務めた。 1886年(明治19年)10月2日、宮崎県児湯郡高鍋町24で元高鍋藩士の小沢寅太郎とヤツの次男として生まれる。宮崎中学(現・県立宮崎大宮高校)に在学中、不良青年と争いになり柔道の投げ技で撃退したが、暴力沙汰として退学処分となる。陸軍軍人だった兄・宇一郎の上官・牛島貞雄から日露戦争の戦場満州より「過ちを改むるに憚ること勿れ」(論語 学而第一 8からの引用)の手紙を送られた事をきっかけに上京し、1905年に成城中学校へ転入した。
泥谷 帯刀(ひじや たてわき、1886年(明治19年)5月2… 泥谷 帯刀(ひじや たてわき、1886年(明治19年)5月23日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚。 泥谷嘉之吉の長男として、宮崎県児湯郡高鍋町に生まれる。宮崎中学校を卒業後、1907年(明治40年)拓殖大学を卒業。同年渡台し、台湾総督府内務局に奉職する。1914年(大正3年)台南庁属を拝命し、翌年法務課勤務に転じ、1922年(大正11年)台中州竹山郡守に任じた。のち台北州文山郡守に就任した。
日高 重孝(ひだか しげたか/じゅうこう、1884年10月3… 日高 重孝(ひだか しげたか/じゅうこう、1884年10月3日 - 1980年3月5日)は、日本の歴史学者、郷土史家、教育者、宮崎県立博物館初代館長。その他、旧制中学校の校長、宮崎県立宮崎図書館長、上代日向研究所長を歴任。 宮崎県宮崎市中村町生まれ、同市福島町出身。田村弥太郎、きさの二男奈太郎として生まれ、6歳の時に伯父日高健助の養嗣子となる。高等小学校を終えて、1897年(明治30年)に旧制宮崎県立宮崎中学校(現 宮崎県立宮崎大宮高等学校)へ入学し、1902年(明治35年)卒業。1905年(明治38年)旧制第七高等学校造士館卒業。1910年(明治43年)東京帝国大学文科大学史学科国史学専修卒業。
川越 茂(かわごえ しげる、1881年〈明治14年〉1月14… 川越 茂(かわごえ しげる、1881年〈明治14年〉1月14日 - 1969年〈昭和44年〉12月10日)は、日本の外交官。 宮崎県北那珂郡赤江村(現宮崎市)で、衆議院議員を務めた川越進の長男として生まれる。宮崎県立宮崎中学校、第七高等学校、東京帝国大学法学部を卒業後外務省に入省。亜細亜局第3課長、吉林総領事を経て、青島総領事(1929年)、満洲国参事官(1932年)、広東総領事(1933年)、天津総領事(1934年)を歴任。 1936年(昭和11年)5月、駐華大使に就任。同年9月から12月まで国民政府との国交調整のため、南京総領事須磨弥吉郎と共に国民政府の外交部長張群、政務次長徐謨、亜州司長高宗武らと交渉を重ねたが、日本陸軍諜報機関の妨害工作により決裂した。
長峰 与一(ながみね よいち、1874年1月8日 - 193… 長峰 与一(ながみね よいち、1874年1月8日 - 1931年4月17日)は、日本の政治家。衆議院議員(3期)。 現在の宮崎県宮崎市で生まれた。1894年(明治27年)宮崎県尋常中学校(現 宮崎県立宮崎大宮高等学校)を第1回生として卒業。旧制第五高等学校を経て、東京帝国大学法学部政治学科を中退し、アメリカのテキサスに留学し農業を学ぶ。その後、中国に渡り、天津に在留し、肥料製造及び販売業に従事し、その傍ら倉庫業を経営し、天津商工銀行取締役となる。また、天津居留民団行政委員会議員、同議長、天津日本人商業会議所評議員を歴任する。 1917年(大正6年)第13回衆議院議員総選挙において宮崎県区から立憲政友会公認で立候補して初当選した。
鈴木 馬左也(すずき まさや、文久元年2月24日(1861年… 鈴木 馬左也(すずき まさや、文久元年2月24日(1861年4月3日) - 大正11年(1922年)12月25日)は、第三代住友総理事である。 文久元年(1861年)2月24日、高鍋藩家老の父秋月種節(たねよ)と久子の四男として、日向国高鍋(現・宮崎県児湯郡高鍋町)で生まれた。明治元年、母方の大叔父鈴木翔房(たかふさ)が七五歳で没し、その養子鈴木衞房(もりふさ)も戊辰戦争に加わり、27歳で戦死した。翌2年、馬左也は鈴木家再興のため、戦死した衞房の養子となり同家を継いだ。 明治9年に旧制宮崎中学校(現、宮崎県立宮崎大宮高等学校)を卒業し、同年金沢の啓明学校(現、金沢大学)へ入学したが翌年退学して、11年から東京帝国大学予備門に入学し明治20年、27歳で東京帝国大学を卒業すると内務省に入り、22年愛媛県書記官として赴任した。
清水 玲(しみず れい、9月13日 - )は、宮崎放送のアナ… 清水 玲(しみず れい、9月13日 - )は、宮崎放送のアナウンサー。 宮崎県宮崎市出身。宮崎県立宮崎大宮高等学校文科情報科、東京女子大学現代教養学部人文学科(英語文学文化専攻)卒業。 大学を卒業後、2018年4月に宮崎放送に入社。アナウンス部に配属され、同期の宮本佳奈とともに同局のアナウンサーになる。 外種子田結産休中の代理で出演していたラジオ番組『私たちの作文』とは入社前から縁があり、小学生の頃に番組で自分の作文が読まれたことがあると Instagram で発言している。
黒木 あすか(くろき あすか)は、ソプラノ歌手、ラジオパーソ… 黒木 あすか(くろき あすか)は、ソプラノ歌手、ラジオパーソナリティ、作曲家である。 宮崎県宮崎市出身。宮崎県立宮崎大宮高等学校文科情報科、東京藝術大学音楽学部卒業、王立ウェールズ音楽院大学院修了。 英語検定1級。イタリア人のクォーターである。[要出典] プードルを飼っていて、溺愛しており、散歩が趣味である。[要出典]
石崎 誠也(いしざき せいや)は、日本の法学者・弁護士。専門… 石崎 誠也(いしざき せいや)は、日本の法学者・弁護士。専門は行政法。新潟大学名誉教授。高岡法科大学第6代学長。 宮崎県生まれ。宮崎県立宮崎大宮高等学校卒業。1971年に東京都立大学法学部入学。1983年東京都立大学大学院社会科学研究科博士課程(基礎法学専攻)単位取得退学。 1983年新潟大学教養部講師、1986年教養部助教授、1994年法学部教授。2010年大学院実務法学研究科(法科大学院)研究科長。 新潟大学退職後、2018年弁護士に登録。新潟大学名誉教授。2019年より高岡法科大学教授、2020年4月より副学長兼法学部長、同年9月より学長に就任。2024年4月同大学募集停止を前に退任。
河野 傳(河野 伝)(こうの つとう、1896年(明治29年… 河野 傳(河野 伝)(こうの つとう、1896年(明治29年) - 1963年(昭和38年)10月24日)は、日本の建築家、技術者、経営者。宮崎県出身。旧国立駅舎の設計者と考えられている。 1896年(明治29年)に、宮崎県児湯郡美々津村(現:宮崎県日向市)の廻船問屋・河内屋の河野勢蔵、リサの長男として出生。美々津村立美々津尋常小学校(現:日向市立美々津小学校)、宮崎県立宮崎中学校(現:宮崎県立宮崎大宮高等学校)を経て、京都高等工芸学校図案科(現:京都工芸繊維大学)にて本野精吾の下で建築を学ぶ。卒業後、建築家となり、フランク・ロイド・ライトに師事し、帝国ホテル新館(ライト館)の建設に携わる。1923年(大正12年)には上野陽一邸の設計を手掛けている。
平川 らいあん(ひらかわ らいあん)、本名:平川 優樹(ひら… 平川 らいあん(ひらかわ らいあん)、本名:平川 優樹(ひらかわ ゆうき)は、日本のゲームクリエイター。元タイトー所属。株式会社Megg(ミグ)代表取締役社長。宮崎県宮崎市出身。 宮崎県立宮崎大宮高等学校卒業。高校の文化祭にて劇団モナリ座というコンビを組んで漫才、コントを披露していた。 2001年にハドソン、2002年にタイトーへ入社。オンラインゲームや携帯コンテンツの企画、ディレクションを多数手掛ける。2007年からゲームレコードGPに出演。出演の際には、平川らいあんという名前を使っている。番組内でタイトーから独立したことを公表した。2009年にオープンしたゲームセンターCXの携帯サイトを担当。
松田 弘 は、日本のドラマー、シンガーソングライター。ロック… 松田 弘 は、日本のドラマー、シンガーソングライター。ロックバンドサザンオールスターズでドラムを担当。愛称は、ヒロシ、弘くん。