太田 泰治(おおた たいじ、1887年1月25日 - 196… 太田 泰治(おおた たいじ、1887年1月25日 - 1960年2月12日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 岡山県出身。太田吉三郎の二男として生れる。岡山津山中学校を経て、1909年11月、海軍兵学校(37期)を卒業し、翌年12月、海軍少尉任官。1916年12月、海軍砲術学校高等科を卒業し、以後、「薩摩」「浅間」「扶桑」の各分隊長、「澤風」砲術長、東郷平八郎元帥付副官、「三日月」「初雪」の各駆逐艦長、横須賀鎮守府参謀、海軍省軍務局員などを経て、1926年6月から翌年1月にかけて欧米に出張した。 人事局員(第1課)、「加古」「榛名」の各副長、運送艦「洲埼」・「大井」・「浅間」の各艦長、軍務局第2課長などを歴任し、1936年12月、海軍少将に進級した。
鈴木 吉之助(すずき きちのすけ、1887年1月25日 - … 鈴木 吉之助(すずき きちのすけ、1887年1月25日 - 1951年12月7日)は、日本の政治家。衆議院議員(3期)。 京都府出身。1907年日本大学商科卒。京都市議、同参事会員、同副議長、京都府議、同副議長、同参事会員、同市部会議長、京都市教育会理事、同連合青年団評議会議長、京都土地興業(株)常務取締役、京都毎日新聞社長、京都市児童愛護連盟理事長となる。 1928年の第16回衆議院議員総選挙において京都1区(当時)から立憲政友会公認で立候補して初当選。以来連続3回当選した。1930年の第17回衆議院議員総選挙で再選。1932年の第18回衆議院議員総選挙で三選。1936年の第19回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。
宇野 茂兵衛(うの もへえ、1887年〈明治20年〉1月22… 宇野 茂兵衛(うの もへえ、1887年〈明治20年〉1月22日 - 没年不明)は、日本の実業家。宇野製粉所代表社員。関西製鋼監査役。族籍は大阪府平民。 大阪府平民・宇野庄壽計の長男。1900年3月、家督を相続する。鋳物、製粉業を営む。会社の重役である。住所は大阪府泉南郡貝塚町(現・貝塚市)。 貝塚市北町の宇野家はもともとは貝塚鋳物師(いもじ)である金屋長右衛門(かなやちょうえもん)家の分家で、代々「茂兵衛」を名乗り、製粉業を営んだ。1887年ごろに長右衛門家の鋳物業を引き継いだ。宇野家住宅は登録有形文化財である。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
梶島 二郎(かじしま じろう、1887年1月21日 - 19… 梶島 二郎(かじしま じろう、1887年1月21日 - 1974年)は、日本の数学者。旧制鹿児島県立工業専門学校初代校長、新制鹿児島県立大学初代工学部長・第2代学長・名誉教授。 東京都出身。1906年、第七高等学校造士館理科を卒業。1909年、東京帝国大学理科大学(現東京大学理学部)数学科を卒業。1912年、東京帝国大学文科大学(現東京大学文学部)哲学科を卒業。1913年、大学院修了。東京工業大学附属予備部教授、予備部長を歴任。鹿児島県に招かれて、1945年4月1日、鹿児島県立工業専門学校校長事務取扱に着任し、5月25日付で初代校長に就任。また、鹿児島県立鹿児島工業学校校長も兼務した。 学制改革により1949年には、旧制工専校長の梶島が、新制鹿児島県立大学(初期校名は県立鹿児島大学)の教授および初代工学部長に就任。
山田 毅一(やまだ きいち、1887年(明治20年)1月21… 山田 毅一(やまだ きいち、1887年(明治20年)1月21日 – 1953年(昭和28年)4月15日)は、衆議院議員(立憲民政党)、ジャーナリスト。 富山県東礪波郡福野町(現在の南砺市)出身。早稲田大学・東京外国語学校に学んだ後、『東京日日新聞』・『やまと新聞』・『國民新聞』の記者を務めた。その間、樺太・沿海州・南洋諸島・欧米諸国などを歴訪した。その後、復興通信社を創業し、社長に就任した。 1928年(昭和3年)、第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第17回衆議院議員総選挙でも再選を果たした。 その後、南進社、南方産業調査会を主宰し、南方政策を研究した。
長井 亜歴山(ながい あれきさん、1887年〈明治20年〉1… 長井 亜歴山(ながい あれきさん、1887年〈明治20年〉1月19日 - 1966年〈昭和41年〉6月12日)は、日本の外交官、弁護士、弁理士。東京帝国大学法学部卒業。 父はエフェドリンの発見者で日本薬学の父として知られる長井長義。祖父は徳島藩医の長井琳章。 1887年(明治20年)、近代薬学の開祖である長井長義とドイツ人女性のテレーゼ・シューマッハの長男として生まれる。第一高等学校仏法科を経て、東京帝国大学法学部を卒業後、逓信省勤務、久原本店勤務を経て、外交官となり、6ヶ国語に精通した。また勝海舟の孫で、目賀田種太郎の次女・多計代(たけよ)と結婚した。 駐ドイツ日本国大使館付商務官となり、第二次世界大戦のベルリン陥落後はアメリカ軍によりワシントンD.C.に連行された。
竹上 藤次郎(たけがみ とうじろう、1887年(明治20年)… 竹上 藤次郎(たけがみ とうじろう、1887年(明治20年)1月17日)- 1961年(昭和36年)8月13日)は、大正から昭和期の日本の実業家、政治家。衆議院議員、京都府会議長、京都商工会議所会頭。 京都府 京都市上京区五辻通大宮五辻町で、生糸問屋「八文字屋」通称「八藤」当主・竹上藤造の二男として生まれる。桃薗校を経て京都市立第一商業学校(現京都市立西京高等学校・附属中学校)に入学。1902年(明治35年)弁護士を目指して京都法政学校(現立命館大学)に転じたが、同年末、父の意思で第一商業に復帰し、1907年(明治40年)3月に卒業。その後、日本大学法律学科に進んだが、家業の継承のため中退し帰郷した。
坂口 静夫(さかぐち しずお、1887年1月17日 - 19… 坂口 静夫(さかぐち しずお、1887年1月17日 - 1947年3月23日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 熊本藩士・坂口騏十郎の三男として生まれる。中学済々黌を経て、1910年5月、陸軍士官学校(22期)を卒業し、同年12月、陸軍少尉に任官。 1920年8月、歩兵第48連隊中隊長に就任し、陸軍兵器本廠員、陸士予科中隊長などを経て、1925年4月、近衛歩兵第3連隊付(東京府立第二中学校配属将校)となる。歩兵第27連隊付、第1師団司令部付、第7師団副官、歩兵第24連隊付、独立守備歩兵第9大隊長などを歴任し、1937年8月、陸軍大佐に昇進。 1937年11月、第16師団司令部付(第三高等学校配属将校)となり、歩兵第109連隊長を経て、1939年9月、陸軍少将に進級。
松田 竹太郎(まつだ たけたろう、1887年(明治20年)1… 松田 竹太郎(まつだ たけたろう、1887年(明治20年)1月16日 - 1944年(昭和19年)5月8日)は、日本の工学者・海軍軍人。最終階級は、海軍少将。 東京府立工業奨励館・東京商工奨励館館長などを歴任。
葛西 善蔵(かさい ぜんぞう、1887年(明治20年)1月1… 葛西 善蔵(かさい ぜんぞう、1887年(明治20年)1月16日 - 1928年(昭和3年)7月23日)は、日本の小説家である。自身の貧困や病気といった人生の辛苦や酒と女、人間関係の不調和を描き、「私小説の神様」と呼ばれた。 青森県中津軽郡弘前松森町(現・弘前市)で当時米の仲買業をしていた父・卯一郎、母・ひさの長男として生まれた。姉二人(長女・いそ、次女・ちよ)と祖母・かよがいた。また、同年に弟の勇蔵が生まれている。 1889年(明治22年)、家業不振により一家で北海道に移住。1891年(明治24年)、一家で青森に戻り、青森町を経て五所川原村に移住。1893年(明治26年)、青森県五所川原小学校に入学するが、母の故郷である碇ヶ関村への一家の転居にともない、碇ヶ関小学校に転校する。
大麻 勇次(おおあさ ゆうじ、1887年(明治20年)1月1… 大麻 勇次(おおあさ ゆうじ、1887年(明治20年)1月16日 - 1974年(昭和49年)2月22日)は、日本の剣道家。段位は範士十段。熊本の新陰流(上野新陰流)の和田傳の弟子。 1887年(明治20年)、熊本県玉名市安楽寺に生まれる。弟は後に衆議院議員、国家公安委員会委員長を務める大麻唯男。 1909年(明治42年)から1910年(明治43年)まで、大日本武徳会本部講習生として剣道を修行する。 その後、熊本に帰り、大日本武徳会熊本支部、熊本陸軍幼年学校で剣道を指導する。 1915年(大正4年)、精錬証を授与される。 1921年(大正10年)12月から1945年(昭和20年)まで、大日本武徳会佐賀支部、佐賀県警察部、佐賀高校などの剣道師範を歴任。
品川 主計(しながわ かずえ、1887年1月15日 - 19… 品川 主計(しながわ かずえ、1887年1月15日 - 1986年2月14日)は、日本の内務官僚、実業家、読売ジャイアンツ球団社長。「球界の頑固親父」との異名も持つ[要出典]。従五位。 福井県福井中学校卒業後、1904年9月 旧制第四高等学校に入学した。同期には正力松太郎や河合良成がいた。第四高等学校卒業後は東京帝国大学に入学、同期に正力、河合の他、重光葵、芦田均、石坂泰三など。 東京帝国大学卒業後、内務省に入省して警視庁警視、京都府書記官・内務部長、宮城県書記官・内務部長などを務めた。1932年の満州国成立後、監察院長、監察院審計部長などを務める。黒竜江省長の韓雲階による汚職を摘発、一時彼を要職から遠ざけた。
杉生 糺 (すぎう ただす、1887年1月15日 – 196… 杉生 糺 (すぎう ただす、1887年1月15日 – 1968年)は、日本の弁護士。初代名古屋高等裁判所長官。 明治20年(1887年)福井県三方郡三方町に生まれる。昭和37年3月 – 旧制小浜中学校卒業、第一高等学校入学。 大正2年 6月 – 東京大学法学部卒業。大正3年3月 – 弁護士開業。大正11年 – 東京市浅草区会議員当選。昭和14年 – 弁理士。 昭和22年9月26日 – 名古屋高等裁判所長官。昭和27年1月14日 – 定年退官。昭和27年2月 – 弁護士復帰。
笹部 新太郎(ささべ しんたろう、1887年1月15日 - … 笹部 新太郎(ささべ しんたろう、1887年1月15日 - 1978年12月19日)は、日本の植物学者。東京帝国大学在学中から桜の研究を始め、特にサトザクラ、ヤマザクラなどの日本古来種の保護育成に尽力し、「桜博士」といわれた。 1887年1月15日、大阪市北区堂島船大工町に生まれる。西天満小学校、盈進高等小学校、堂島中学校(現北野高校)、第七高等学校造士館を経て、東京帝国大学法科大学政治学科に入学。在学中より独学で桜の研究に打ち込む。卒業後は犬養毅の秘書をした後、兵庫県宝塚市切畑長尾山の麓(現在のJR西日本福知山線武田尾駅近辺)に桜の研修を行う演習林「亦楽山荘」を造園。品種保存などを研究した。没後は荒れて雑木林となったが、親族より跡地を寄贈された宝塚市が1999年に里山公園「桜の園」として再整備。
本村 善太郎(もとむら ぜんたろう、1887年〈明治20年〉… 本村 善太郎(もとむら ぜんたろう、1887年〈明治20年〉1月15日 - 1970年〈昭和45年〉6月24日)は、日本の弁護士。最高裁判所判事。佐賀県出身。 1915年(大正4年)に京都帝国大学独法科を卒業し、すぐに弁護士になった。第一東京弁護士会に所属し、弁護活動をする一方で日本発送電会社の顧問や調停委員などを務めた。 1951年(昭和26年)4月に第一東京弁護士会の司法制度調査委員会委員長、次いで同5月に日弁連人権擁護委員会委員長となり、弱者の救済に尽くした。 1952年(昭和27年)1月に最高裁判所判事に就任。就任の際には「裁判以外に何事も関心なし。裁判を通じで法治国の体面、内容を充実したい。
武政 太郎(たけまさ たろう、1887年1月13日 - 19… 武政 太郎(たけまさ たろう、1887年1月13日 - 1965年1月7日)は、日本の心理学者。 岡山県出身。1921年東京高等師範学校卒、27年東京帝国大学文学部心理学科卒。大学院在籍、29年東京文理科大学助教授、教授。31-33年ドイツ・ロストック大学に学ぶ。1942年「学習心理の研究」で東京文理科大学より文学博士の学位を取得。神奈川大学教授、大妻女子大学教授、講談社児童相談所長。
大島 堅造(おおしま けんぞう、1887年〈明治20年〉1月… 大島 堅造(おおしま けんぞう、1887年〈明治20年〉1月11日 - 1971年〈昭和46年〉11月24日)は、日本の実業家。住友銀行専務、住友本社取締役、経済評論家。 群馬県太田市大島町出身。東京府立一中に学ぶ。1909年(明治42年)東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。 同年住友銀行に入行。1917年(大正6年)ニューヨーク支店長代理となる。1923年(大正12年)本店外国課長。1925年(大正14年)本店支配人。1932年(昭和7年)常務取締役。1943年(昭和18年)専務取締役。1944年(昭和19年)まで同取締役、1945年(昭和20年)まで同監査役を務めた。1943年(昭和18年)から1947年(昭和22年)まで住友本社監事を務めた。
望月 桂(もちづき かつら、1887年(明治20)1月11日… 望月 桂(もちづき かつら、1887年(明治20)1月11日 - 1975年(昭和50)12月13日)は、アナキストの画家、デザイナー、漫画家である。漫画家としては筆名を犀川 凡太郎(さいかわ ぼんたろう)とする。
佐藤忠次郎(さとう ちゅうじろう、1887年1月11日 - … 佐藤忠次郎(さとう ちゅうじろう、1887年1月11日 - 1944年)は、佐藤造機(後の三菱農機 → 三菱マヒンドラ農機)の創設者。島根県出雲郷村(現・松江市)出身。
金野 岩治(こんの いわじ、1887年(明治20年)1月10… 金野 岩治(こんの いわじ、1887年(明治20年)1月10日 - 1969年(昭和44年)5月29日)は、日本の政治家、旧鶴岡市第2代市長。 1888年(明治21年)3月1日山形県西田川郡加茂村(現・鶴岡市加茂)に飛塚元次郎の次男として生れる。その後、東田川郡広瀬村(現・鶴岡市羽黒町)の酒造業経営・今野岩治の婿養子となり、「岩治」を襲名する。 1905年(明治38年)、荘内中学校(山形県立鶴岡南高等学校)を卒業し(同窓生に小林鉄太郎がいた。)、 大阪工業高等学校で学ぶ。その後は、 会社員を経て、鶴岡市会議員となる。 1927年(昭和2年)5月 鶴岡市長選挙に立候補して初当選。同年10月、 同職を辞任し山形県会議員選挙に立候補するが落選。
小島 智善(こじま ともよし、1887年(明治20年)1月1… 小島 智善(こじま ともよし、1887年(明治20年)1月10日 - 1950年(昭和25年)3月7日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。弁護士。 福島県田村郡飯豊村(現在の小野町)出身。第二高等学校を経て、1914年(大正3年)に東京帝国大学法科大学英法科を卒業した。大場茂馬の弁護士事務所に勤務した後、1917年(大正6年)に東京市麹町区に事務所を開いた。 1932年(昭和7年)、第18回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その他に日米信託株式会社顧問を務めた。
白石 喜太郎(しらいし きたろう、1887年(明治20年)1… 白石 喜太郎(しらいし きたろう、1887年(明治20年)1月7日 - 1945年(昭和20年)7月28日)は、高知県出身の日本の実業家、計理士、渋沢栄一、敬三に仕え、渋沢同族株式会社の専務取締役になどを歴任した。 1887年(明治20年)、先代喜太郎と丑の長男として高知県安芸郡田野村(現・田野町)に生まれる。1896年(明治29年)先代喜太郎が病没、家督相続し又喜を改め襲名。1905年(明治38年)、高知県立中学海南学校を卒業後、官立東京高等商業学校(高等商業学校を改称、東京高商、現・一橋大学)に入学。渋沢事務所の八十島親徳に保証人を依頼。在学中は、休暇の前後に八十島を訪問し、種々教えを受ける。
森 俊成(もり としなり、1887年(明治20年)1月4日 … 森 俊成(もり としなり、1887年(明治20年)1月4日 – 1956年(昭和31年)9月16日)は、日本の華族、政治家。貴族院子爵議員、中野町長。旧三日月藩主森家第11代当主。旧名は訥郎。 子爵関博直の四男として生まれ、1900年(明治33年)に子爵森長祥の養子となり家督を相続した。1915年(大正4年)、京都帝国大学法科大学を卒業した。 1925年(大正14年)7月10日、貴族院子爵議員に選出された。1928年(昭和3年)には東京府豊多摩郡中野町(現在の東京都中野区南部)の町長に選出され、1932年(昭和7年)に中野町が東京市に編入され消滅するまで在任した。中野町消滅後に東京市会議員選挙に出馬し、当選。
岡田 壽吉(おかだ ひさきち / じゅきち、1887年1月4… 岡田 壽吉(おかだ ひさきち / じゅきち、1887年1月4日 - 1949年3月6日以降)は、長崎市長(2期)。1945年8月9日の長崎原爆投下時の市長でもあった。名前は寿吉とも表記される。 兵庫県出身。1921年東京帝国大学法学部を卒業。三菱重工長崎造船所に入り、総務部長、副長などを務め、その一方、長崎市会議員を2期務めた。1941年10月22日長崎市長に就任した。民間出身としては初の市長となった。就任直後に太平洋戦争が勃発、戦時体制が強化されるなか困難な市政運営であった。 1945年8月9日、長崎市への原子爆弾投下により市内に甚大な被害が生じた。岡田は市庁舎に居て被爆したものの助かったが、爆心地から約200ⅿの位置にあった自宅の妻と長女、旧制瓊浦中学に通学していた長男の家族3名を失った。
内海 勝二(うつみ かつじ、1887年(明治20年)1月3日… 内海 勝二(うつみ かつじ、1887年(明治20年)1月3日 - 1967年(昭和42年)12月16日)は、大正から昭和期の実業家、華族。貴族院男爵議員、従三位。孫の貴子は朝香誠彦の妻。 男爵・内海忠勝の二男として東京都に生まれる。1912年(明治45年)に慶應義塾大学部政治科卒業後に渡米した。1905年(明治38年)2月22日、父の死去に伴い男爵を襲爵。 1919年(大正8年)内海化学研究所を設立して所長に就任。その他、発明協会評議員、国民工業学院評議員、慶應義塾評議員等を歴任し、東京民事地方裁判所調停委員となる。 1946年(昭和21年)5月11日、貴族院男爵議員に補欠選挙で当選し、公正会に所属し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
豊島 長吉(とよしま ちょうきち、1887年(明治20年)1… 豊島 長吉(とよしま ちょうきち、1887年(明治20年)1月2日 - 1949年(昭和24年))は、日本の内務官僚。官選栃木県知事。 愛媛県大内郡黒羽村(香川県大川郡相生村大字黒羽、引田町を経て現東かがわ市黒羽)で、豊島九平、清の二男として生まれる。第一高等学校を卒業。1913年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し京都府属となる。 以後、長崎県理事官、地方視学官、福井県警察部長、愛媛県書記官・警察部長、長崎県書記官・警察部長、新潟県書記官・警察部長、神奈川県書記官・警察部長などを歴任。 1931年12月、栃木県知事に就任。阿久津村小作争議事件の解決に尽力。
清水 登之(しみず とし、1887年(明治20年)1月1日 … 清水 登之(しみず とし、1887年(明治20年)1月1日 - 1945年(昭和20年)12月7日)は、栃木県出身の画家。 栃木県下都賀郡国府村大字大塚(現・栃木市大塚町)で、清水藤十郎・ムラ夫妻の長男として生まれる。弟は東亜同文書院教授や外交官となった清水董三。(旧制)栃木県立栃木中学校から陸軍士官学校への進学を志し成城学校に転校。1906年に同校を卒業するも陸軍士官学校への受験に失敗し、翌年には単身アメリカ合衆国へ渡航する。暫くはシアトルで肉体労働に従事するが、1912年にオランダ人画家フォッコ・タダマが同地で開いていた画塾に入門した(同時期、洋画家の田中保や石垣栄太郎もここで学んでいる)。
國東 照太(くにとう てるた、1887年(明治20年)1月1… 國東 照太(くにとう てるた、1887年(明治20年)1月1日 - 1972年(昭和47年)6月11日)は、日本の政治家、実業家。1938年に高松市会議員を経て、1946年から1967年までの官選1期公選5期の21年にわたり高松市長を務めた政治家であると同時に、グローバルに展開する零細企業集団「国東財閥グループ」の創始者たる実業家でもある。高松市名誉市民。 1887年(明治20年)1月1日、香川県香川郡中ノ村(後に栗林村大字中村、現・高松市中野町)に父長太郎、母ツネの長男として生まれる。両親は家の東側を流れる川で紙の手漉き製造を生業としていた。 栗林尋常小学校(現・高松市立栗林小学校)を卒業後、10歳で紫山高等小学校(高松市天神前、現・アイパル香川)へ進学。
國東照太(くにとう てるた、1887年1月1日 - 1972… 國東照太(くにとう てるた、1887年1月1日 - 1972年6月11日)は、日本の政治家、実業家。1938年に高松市市議会議員を経て、1946年から1967年までの官選1期公選5期の21年にわたり高松市長を務めた政治家であると同時に、高松市を中心とする企業集団「常磐グループ」の創始者たる実業家でもある。高松市名誉市民。
嶋居 哲(島居、しますえ てつ、1887年1月1日 - 19… 嶋居 哲(島居、しますえ てつ、1887年1月1日 - 1979年3月29日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 広島県出身。1909年、大阪高等商業学校卒。のち京都帝国大学独法科で学ぶ。その後、尾道市会議員、同議長、鉄道大臣秘書官となる。また、尾道電燈、尾道鉄道、広島農産各(株)取締役、尾道自動車(株)社長、備南銀行頭取、島居商店、島居電機(株)取締役社長、嶋居薬品、嶋居薬局各社長、中国薬品卸連合会会長を務めた。 1924年の第15回衆議院議員総選挙において広島3区(尾道市)から立憲政友会公認で立候補して当選。1928年の第16回衆議院議員総選挙では広島3区(中選挙区)から立候補して再選した。
安原 舜一(やすはら しゅんいち、1887年(明治20年)1… 安原 舜一(やすはら しゅんいち、1887年(明治20年)1月 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。産業設備営団参事。 岡山県出身。1915年(大正4年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、高等文官試験に合格した。広島県警視、同理事官、大阪府理事官、鳥取県書記官・警察部長、香川県書記官・警察部長、高知県書記官・学務部長、埼玉県書記官・学務部長、愛媛県書記官・警察部長、長崎県書記官・警察部長、兵庫県書記官・学務部長、東京府書記官・学務部長、栃木県書記官・内務部長、新潟県書記官・総務部長を歴任し、1937年(昭和12年)に退官した。 その後、熊本市助役や産業設備営団参事を務めた。
亀山 恭平(かめやま きょうへい、1887年(明治20年)1… 亀山 恭平(かめやま きょうへい、1887年(明治20年)1月 - 没年不明)は、日本の銀行家。日本勧業銀行地方顧問。族籍は岐阜県士族。 岐阜県士族・亀山顕造の二男。1908年、家督を相続した。1910年、東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。濃飛農工銀行支配人、取締頭取等を歴職。宗教は神道。住所は岐阜県岐阜市神田町二丁目、同市八ッ寺町。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
大林 千萬樹(おおばやし ちまき、1887年(明治20年)1… 大林 千萬樹(おおばやし ちまき、1887年(明治20年)1月‐1959年(昭和34年)4月26日)は、大正時代から昭和時代の日本画家で、主に再興院展にて活動し、江戸期の歴史風俗に取材した温和な美人画を多く描いた。娘の大林蘇乃(1910‐1971)は元日本工芸会正会員の桐塑人形作家。 1887年(明治20年) 1月5日、岡山県岡山市平野町(現在の岡山市北区天瀬南町)に生まれる。名は頼憲。若い時に東京へ出てまず富岡永洗、川合玉堂に師事した後、20歳頃に鏑木清方に入門。清方門下の郷土会展では1915年(大正4年) の第2回展《通い廊》と1916年(大正5年) の第3回展に出品している。 自身の初の出品作としては、1906年(明治39年) 日本美術院 絵画展覧会に《のべの土産》を、また1907年(明治40年) 東京勧業博覧会にも《歌舞》を出品している。
池田 良介(いけだ りょうすけ、1887年 - 没年不詳)は… 池田 良介(いけだ りょうすけ、1887年 - 没年不詳)は水戸出身の技術者。その生涯を通じて離島での燐鉱石開発に力を注ぎ、ラサ島をはじめ数多くの採鉱現場を指揮した。従四位、勲五等。 茨城県士族、池田哲太郎の長男として1887年(明治20年)3月、水戸に生まれる。代々水戸藩士の家柄であったが維新後父は農業を営み、良介は1904年(明治37年)に水戸農学校を卒業。1907年には家督を相続し、1909年(明治42年)に盛岡高等農林学校を卒業。徴兵検査を受けたところ、身体は大きかったが第二乙種と判定された。翌1910年、助教授を務めていた盛岡高農で農学博士の恒藤規隆と出会い、ラサ島での燐鉱採掘事業の話などに強い興味を持ち、同年11月設立の日本産業商会に入社を決める。
二宮 丁三(にのみや ていぞう、1887年 - 1951年)… 二宮 丁三(にのみや ていぞう、1887年 - 1951年)は、日本の商学者。第3代兵庫県立神戸高等商業学校校長や、同校が大学に昇格して設立された兵庫県立神戸商科大学の学長事務取扱を経て、初代共立女子大学学長を務めた。 群馬県出身。群馬県立前橋中学校(現群馬県立前橋高等学校)を経て、1911年東京高等商業学校(現一橋大学)本科卒業。1914年同校専攻部商工経営科卒業。1926年から2年間文部省在外研究員としてイギリスに留学し、山口高等商業学校教授兼山口市参事会員を経て、1941年兵庫県立神戸高等商業学校校長。同年叙正四位。令名高く、1948年には兵庫県立神戸商科大学学長事務取扱を兼務した。同年に退官後は、共立女子専門学校校長を経て、共立女子大学学長を務め、1951年に病気のため退任した。
林 初治(はやし はつ、1887年(明治20年) - ?)は… 林 初治(はやし はつ、1887年(明治20年) - ?)は、日本の第33代内閣総理大臣である林銑十郎の妻(内閣総理大臣夫人)。石川県金沢市出身。 1887年(明治20年)、加賀藩士である林孝儀の三女として生まれる。金沢第一高等女学校(現在の石川県立金沢二水高等学校)を卒業後、林銑十郎と結婚。四男四女を儲ける。 長男の練策は陸軍の山浦弘三の娘・道子と結婚し、次男の謙輔は初治の実家を継ぎ、三男の砺三は陸軍の小泉恭次の娘・展子と結婚。長女の純子は中田薬品の中田清兵衛の子・勇吉と、次女の倫子は加藤豪と、四女の禌子は官僚である斎藤樹の子の吉彦とそれぞれ結婚している。
稲本 白鵞(いなもと はくが、1887年(明治20年) - … 稲本 白鵞(いなもと はくが、1887年(明治20年) - 1920年(大正9年))は、教育者、書道家。現在の岡山県井原市出身。 1887年(明治20年)、稲本陽州の長女として岡山県後月郡山野上村(現在の井原市野上町)に生まれる。精徳尋常小学校を卒業後、父を頼って高梁へ行き、尋常小学校を出ただけであったが、順正高等女学校の編入試験に合格し、1909年(明治42年)21歳のときに女学校を卒業する。 1918年(大正7年)、31歳のとき福岡県の朝倉実科高等女学校に教諭として赴任し、1920年(大正9年)には山口県女子師範学校教諭となる。父と同じく書道に優れ、この時代の日本女流三筆とまで謳われた。和歌においても歌集を発刊するなど、文才をもって父・陽洲の志を継ぐものとして知られていたが、病に倒れ、満33歳、数え34歳で死去した。
三河 義行(みかわ よしゆき、旧姓:小崎、1887年(明治2… 三河 義行(みかわ よしゆき、旧姓:小崎、1887年(明治20年) - 1969年(昭和44年))は、日本の医師。医学博士。三河家住宅初代当主。 徳島県神山町出身。九州帝国大学医学部卒業。養父は三河定次郎。 徳島県名西郡上分上山村(現在の神山町)の小崎家に生まれ、後に三河定次郎の養子となる。また実弟は医師の小崎綏攝である。 1913年(大正2年)に九州帝国大学医学部(現在の九州大学医学部)を卒業し、1922年(大正11年)から1924年(大正13年)にかけてドイツのベルリン大学で2年間の留学をしていた。 ドイツへ留学中に日本で起こった関東大震災のニュースを知り、震災にも耐えることが出来るコンクリート造りの家を建設すべく、三河家住宅を地元徳島県出身の木内豊次郎に設計させ、1929年(昭和4年)に完成した。
鼓 常良(つづみ つねよし、1887年 - 1981年)は、… 鼓 常良(つづみ つねよし、1887年 - 1981年)は、日本の独文学者。 1987年、広島県で生まれた。東京帝国大学独文科で学び、1912年に卒業。 卒業後は教員となり、第八高等学校教授。戦後は大阪市立大学教授、後に大阪電気通信大学教授をつとめた。1962年、京都・桂に幼児教育研究所を設立し、その付属「月見が丘子どもの家」(横浜梶山モンテッソーリスクールの前身)で敗戦後最初のモンテッソーリ教育実践を始めた。 専門はドイツ文学で、美学、文芸学を研究。戦前はナチス文学の影響を受け、日本での宣伝に組した。晩年はモンテッソーリの教育学の翻訳をてがけ、自らも生活教育法(モンテッソーリ教育実践の秘訣)を著した。
福田 重義(ふくだ しげよし、1887年(明治20年) - … 福田 重義(ふくだ しげよし、1887年(明治20年) - 1971年(昭和46年)は、日本の建築家。大正期に長く東京市の建築家、建築行政家として、また都市計画の方面でも活躍した。 長崎県生まれ。1908年(明治41年)、東京帝国大学工科大学建築学部を卒業。同年の卒業生に出浦高介、田中実、渡辺節、徳大寺彬麿らがいる。 住友総本店臨時建築部(現日建設計)、三菱合資会社地所部(現三菱地所設計)を経て、1910年、東京市技師になる。在職中の1913年(大正2年)には横浜港開港50周年記念事業の公募設計(建築設計競技)で福田案が1等当選。設計原案ならびに基本構造設計を手がけた。その後、建築課長ののち、東京市都市計画試案を立案し調査課長、市場建設課長、営繕課長などを歴任。
藤田 勇(ふじた いさむ、1887年 - 1955年)は日本… 藤田 勇(ふじた いさむ、1887年 - 1955年)は日本の新聞記者、実業家、阿片ブローカー、フィクサー。『東京毎日新聞』や『報知新聞』の記者を経て1919年に東京毎日新聞社社長となり、「厳正非中立」を掲げて組合運動や社会主義者、アナキストを支援。1923年にはヨッフェ訪日を実現させた。他方で貴族院の「研究会」の黒幕となり、日中戦争期には上海への麻薬の密輸に携わった。 1887(明治20)年、福岡県行橋市の生まれ。 中学卒業後、大陸へ密航し、馬賊になろうとした。 日本に帰国後、新聞『日本』の記者となり、東京毎日新聞や報知新聞の記者を経る。 1919(大正8)年から東京毎日新聞社社長。就任当時、「いさぎよく、正義と弱者と善に味方する」という意味の「厳正非中立」という標語を新聞の一面に掲げ、また銀座の社屋の屋上から垂れ幕を下げていた[要検証 – ノート]。
杉野繁一(すぎの しげいち、1887年 - 1973年)は、… 杉野繁一(すぎの しげいち、1887年 - 1973年)は、日本の建築家、教育者、実業家である。
村岡 儆三(むらおか けいぞう、1887年〈明治20年〉 -… 村岡 儆三(むらおか けいぞう、1887年〈明治20年〉 - 1963年〈昭和38年〉2月6日)は、日本の出版業者・印刷業者。神奈川県横浜市出身。父は聖書印刷で知られる村岡平吉、妻は翻訳家の村岡花子(後妻、後述)。母方の従姉妹に社会運動家の賀川ハルがいる。 横浜商業学校(後の横浜市立横浜商業高等学校)卒業後、1907年(明治40年)に父の営む福音印刷合資会社(後の福音印刷株式会社)に入社し、父の事業を助けた。1914年(大正3年)に同社の東京市(後の東京都)銀座進出後、銀座支店の責任者となった。1915年(大正4年)に結婚して長男をもうけたが、妻が結核を発病し、別居を余儀なくされた。 後に村岡花子(当時は安中姓)の翻訳原稿を読んで興味を抱き、花子の翻訳による『モーセが修学せし國』の印刷人を務めた縁で1919年(大正8年)4月8日に花子と出逢い、やがて恋に落ちた。
熊岡 譲(くまおか ゆずる、1887年(明治20年) - 1… 熊岡 譲(くまおか ゆずる、1887年(明治20年) - 1945年(昭和20年)6月16日)は、日本の海軍軍人。海軍潜水学校校長。潜水戦隊司令官を歴任。最終階級は海軍中将。 静岡県出身。静岡中学校を経て、1908年(明治41年)11月、海軍兵学校(36期)卒業。1910年1月、海軍少尉任官。1911年(明治44年)12月、海軍中尉、1913年(大正2年)12月、海軍大学校乙種学生、1914年(大正3年)12月、海軍大尉、1917年(大正6年)12月、海軍大学校入学(甲種学生)、1919年(大正8年)12月、海軍大学校甲種17期卒業・呂号第十三潜水艦艦長。1920年(大正9年)12月、海軍少佐、1924年(大正13年)12月、海軍中佐・第十四潜水隊司令、1929年(昭和4年)11月、海軍大佐、1935年(昭和10年)11月、海軍少将・海軍艦政本部第六部長、1936年(昭和11年)8月、第3潜水戦隊司令官、1937年(昭和12年)12月、第1潜水戦隊司令官、1938年(昭和13年)11月、海軍潜水学校校長。
金生 喜造(かのう きぞう、1887年 - 1982年)は、… 金生 喜造(かのう きぞう、1887年 - 1982年)は、日本の地政学者、地理学者。 福岡県立中学修猷館を経て、東京高等師範学校英語科を卒業した後、ベルリン大学外国人語学科に学ぶ。 中学修猷館の英語教諭などを務めた後、福岡日日新聞に入社し、主筆を務めるが、その傍ら、地政学に関する数多くのドイツ語文献を翻訳し、自らも地政学に関する著作を著す。1941年、設立された日本地政学協会の参与に就任。1943年、新聞統制により福岡日日新聞が九州日報と統合され西日本新聞となるとその調査部長に就任する。 戦後、公職追放を受けるが、解除後、西日本新聞副主筆、福岡市立拓殖専門学校講師などを務めている。
木村 尚一(きむら しょういち、1887年〈明治20年〉- … 木村 尚一(きむら しょういち、1887年〈明治20年〉- 1972年〈昭和47年〉2月14日)は、日本の実業家・大蔵官僚。 1887年、和歌山県出身。1908年、明治大学法科卒業。高等文官試験行政科に合格し、大蔵省に入省。 大蔵省専売局参事、村井銀行理事、極東鉱業常務、中島工業監査役、大阪府理事、京都市電気局長等を歴任。 1934年、桜麦酒社長に就任。着任後1年足らずで経営を再建。1943年の大日本麦酒との合併に伴い、常務に就任。1948年の日本麦酒酒造組合設立時には副会長に就任。その他、日本工業倶楽部役員、日本青年連盟理事、サッポロビール監査役、文化放送理事などを務めた。晩年は漢詩に傾倒した。
高松 孝治(たかまつ たかはる、1887年 - 1946年2… 高松 孝治(たかまつ たかはる、1887年 - 1946年2月13日)は、日本の神学者、教育者、聖職者。立教大学教授、大学チャプレン(牧師)、立教学院理事。ギリシア語の権威で語学の天才と呼ばれた。 立教大学文科(現在の文学部)を1回生として1911年(明治44年)に卒業した。小島茂雄(立教大学元文学部長、立教中学校元校長)や久保田正次(立教大学元教授、立教大学野球部元部長、商学部卒)と同級であった。 その後、聖公会神学院を経て渡米し、ケンブリッジ神学院、ハーバード大学神学部で学び神学博士(DD)を取得した。ギリシア語も修学する。 帰国後、京都聖マリア教会の牧師を務める。高松は立教学院のミッションでは1909年に伝道部主任、1910年には日曜学校部を担当する。
小田嶋 十黄(おだじま じゅっこう、1887年 - 1978… 小田嶋 十黄(おだじま じゅっこう、1887年 - 1978年2月5日)は、東京市本郷区出身の日本の男性俳人、俳画家、洋画家。本名は小田嶋 義(おだじま よし)。別号に得魚洞。元社団法人現代俳画協会顧問。元パイロット万年筆顧問。 小学校卒業後、12歳で高尾山薬王院に入って僧となり、同寺の僧で俳誌「俳諧草紙」の主要俳人であった南南浪の勧めにより渡辺水巴に師事し俳句を学んだ。のち還俗し、洋画家を経て、俳句・俳画に専心するに至る。とりわけ俳画に独自の境地を拓いたことで知られ、現代俳画協会顧問、俳誌「南柯」顧問を務めるなど、斯界の発展に貢献した。著書に『俳画入門』『俳画への道』、句集に『ほそ道』などがある。
マティ・マツダ (Matty Matsuda、1887年 -… マティ・マツダ (Matty Matsuda、1887年 - 1929年10月15日) は、アメリカ合衆国で活躍した、20世紀初頭の著名な日本人プロレスラー、柔道家で本名は松田萬治郎(まつだ まんじろう、松田万次郎の表記もみられる)。 日本人プロレスラー初の世界王者になった人物。スポーツ記者から、熟練したレスラーであり紳士と評され、アメリカ合衆国での故郷となるテキサスエルパソの人々からは故郷からやってきた英雄として迎えられ、そして非常にクリーンで上品、そして賢いレスラーという印象だったという。現役時代の身長は170センチメートル、体重は85キログラム。得意技はフライング・メア(アームスピン投げ)。
園田 湖城(そのだ こじょう、男性、1886年〈明治19年〉… 園田 湖城(そのだ こじょう、男性、1886年〈明治19年〉12月31日 - 1968年〈昭和43年〉8月25日)は、近代日本の篆刻家である。 本名は耕作(後に穆に改名)、字は清卿、号は湖城の他に平盦がある。 滋賀県大津市出身。京都の藤井有鄰館の主事となる。書画の鑑定に精しく中国文物の収集を任されている。富岡鉄斎・内藤湖南らと交流し、森琴石らと平安印会を興した。門弟に加藤慈雨楼、水野恵らがいる。園田は古官印の研究をする時、官印には役人のさまざまな人生が投影されていることに思いを馳せ、香を焚きながら印譜作成に臨んだことが伝えられ記されている。