富久 力松(とみひさ りきまつ、1898年 <明治31年> … 富久 力松(とみひさ りきまつ、1898年 <明治31年> 3月23日 - 1988年 <昭和63年> 12月28日)は、日本の経営者、工学博士。東洋ゴム工業社長、会長を務めた。位階は従四位。 岡山県生まれ。第六高等学校 (旧制)を経て、1923年に京都帝国大学工学部工業化学科を卒業し、同大学で助手を務めた。師は喜多源逸。在学中に喜多とともにベークライトの製法特許を取得している。1929年学位論文「ヴィスコースの研究」により京都帝国大学より工学博士号を取得。昭和レーヨン、東洋紡での勤務を経て、1945年8月に東洋ゴム工業社長に就任。1965年5月に会長に就任し、1971年5月に取締役相談役、1975年5月に相談役を経て、1978年6月には名誉顧問に就任。
戸田 帯刀(とだ たてわき、1898年3月23日 - 194… 戸田 帯刀(とだ たてわき、1898年3月23日 - 1945年8月18日)は、日本のカトリック聖職者。洗礼名はラウレンチオ。カトリック札幌使徒座代理および横浜教区長を務め、終戦直後の8月18日に射殺された。 1898年(明治31年)3月23日、山梨県東山梨郡西保村に生まれる。1923年(大正12年)11月にローマ・ウルバノ大学へ留学し、1927年(昭和2年)12月17日に司祭に叙階された。 1940年(昭和15年)10月11日に札幌使徒座代理に任命され、太平洋戦争中の1942年(昭和17年)3月、「米英を相手に戦争したらどうなるか分からない」と同僚神父に話したとして旧陸軍刑法違反で逮捕された。
君野 秀三(きみの ひでぞう、1898年〈明治31年〉3月2… 君野 秀三(きみの ひでぞう、1898年〈明治31年〉3月23日 - 1970年〈昭和45年〉6月9日)は、日本の政治家、醸造家。元鳥取県八頭郡若桜町長、若桜町会議員。 鳥取県八頭郡若桜村(現・若桜町)に生まれる。君野良平の三男。1916年(大正5年)、東京市私立郁文館中学校を卒業。1917年(大正6年)に明治大学法科予科に入学したが、1919年(大正8年)に中途退学して帰郷、若桜郵便局長に就任。 1922年(大正11年)に醤油醸造業を創始する。若桜町町長、町会議員、鳥取県公安委員などをつとめた。戦後、公職追放となった。 宗教は浄土宗。趣味は尺八、写真、囲碁、読書。住所は鳥取県八頭郡若桜町大字若桜。
中村 大三郎(なかむら だいざぶろう、1898年3月21日 … 中村 大三郎(なかむら だいざぶろう、1898年3月21日 - 1947年9月14日)は、京都市生れの日本画家。京都市立絵画専門学校(現京都市立芸術大学)教授。
9代式守与太夫(きゅうだい しきもりよだゆう、1898年3月… 9代式守与太夫(きゅうだい しきもりよだゆう、1898年3月21日-1969年11月16日)は元行司である。本名は櫻井福太郎。 房錦勝比古は実子。29代木村庄之助の養父。 高砂部屋から若松部屋に所属してた。 1910年春場所、式守福太郎という名前で初土俵。 1915年に木村福太郎に改名するが、1年で式守福太郎に戻す。 1922年に式守真之助、1936年に7代目式守錦太夫に改名し、1940年頃に幕内格。 この頃、房錦の父となり、房錦を育てた。 1956年夏場所で三役行司昇進。三役格筆頭までいった。 1961年名古屋場所、9代目式守与太夫を名乗るが、病気で休場が続き同年秋場所、廃業した。63歳だった。
小川 豊明(おがわ ほうめい、1898年3月20日 - 19… 小川 豊明(おがわ ほうめい、1898年3月20日 - 1962年11月17日)は、日本の政治家。衆議院議員(5期、日本社会党)。多古町長。 千葉県香取郡多古町喜多の農家の長男として生まれる。日本社会党の衆議院議員となった小川三男は弟。 1915年多古町立多古農学校(現千葉県立多古高等学校)卒業。家業の農業に従事していたが、1920年に日本社会主義同盟に参加。『潮流』などを発刊して普選運動をする。 1930年に多古町会議員となるが、この間に立憲民政党の政治活動に参加した。その後、鉄道省による民営バスの買収反対運動などに参加した。友人が経営する石橋計器製作所の経営にもあたった。 1947年日本社会党入党。
土肥 米之(どひ よねゆき、1898年(明治31年)3月20… 土肥 米之(どひ よねゆき、1898年(明治31年)3月20日 - 1990年(平成2年)7月24日)は、日本の内務・警察官僚、弁護士。官選県知事。 広島県出身。第六高等学校を卒業。1921年11月、高等試験行政科試験に合格。1922年、東京帝国大学法学部法律学科を卒業。内務省に入省し三重県属となる。 以後、島根県書記官・警察部長、新潟県書記官・警察部長、北海道庁部長・警察部長、宮城県総務部長、兵庫県書記官・総務部長、大阪府書記官・総務部長、四国地方行政協議会参事官などを歴任。 1942年1月、鳥取県知事に就任。統制経済の円滑な実施、翼賛体制の確立に尽力し、1943年7月に辞職した。1945年4月に愛媛県知事に就任し、戦後の復興に尽力。
高木 金次(たかぎ かねつぐ、1898年3月20日 - 19… 高木 金次(たかぎ かねつぐ、1898年3月20日 - 1967年6月21日)は、日本の経営者。明治生命保険社長を務めた。 岡山県出身。1923年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に明治生命保険に入社。1946年に常務に就任し、1958年5月に副社長を経て、1964年5月に社長に就任した。 1967年6月21日、心臓疾患のために在職中に死去。69歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
千葉 益子(ちば ますこ、1898年〈明治31年〉3月19日… 千葉 益子(ちば ますこ、1898年〈明治31年〉3月19日 - 1971年〈昭和46年〉6月16日)は、日本の美容家。兵庫県出身。本名は「相原ます」、出生名は「千葉ます」。 「近代美容の母」とされるマリールイズの養女(養子の妻)。着付けにおいては昭和期の優れた指導者であり、美容界の発展と美容師の地位向上に尽力した。マリールイズの養子である相原松三郎の妻だが、結婚した時には「千葉益子」の名で美容家として通用していたため、生涯を「千葉益子」の名で通した。 兵庫県で誕生した。1913年(大正2年)に、兵庫県立豊岡高等女学校(後の兵庫県立豊岡高等学校)を首席で卒業した。しかし父の事業の失敗で家が没落し、進学は叶わなかった。
白石 古京(しらいし こきょう、1898年(明治31年)3月… 白石 古京(しらいし こきょう、1898年(明治31年)3月18日 - 1991年(平成3年)1月17日)は、日本の実業家。京都新聞社元社長。京都放送元社長。位階は従三位。1946年に社長就任後から始まり、死後は白石一族が京都新聞の経営者に関与・支配している。 奈良県五條市出身。白石村治の三男。1922年に東京帝国大学経済学部卒業。翌年に京都新聞社の前身である京都日日新聞社に入社した。 1946年3月から1981年までに社長を務め、京都新聞を日本を代表する地方紙に育て上げた。京都新聞の「実力社主」として権勢をふるう。 その一方で、共同通信社理事会副会長、京都放送社長、日本国際連合協会京都本部長、京都商工会議所副会頭、京都市観光協会会長、国際新聞編集者協会理事、日本観光協会副会長などを歴任した。
宮田 重文(みやた しげふみ、1898年(明治31年)3月1… 宮田 重文(みやた しげふみ、1898年(明治31年)3月17日 - 1973年(昭和48年)12月6日)は、昭和期の実業家、政治家。参議院議員(2期)、茨城県久慈郡太田町長、常陸太田市長、同名誉市民。旧姓は立川。 茨城県久慈郡太田町(現常陸太田市)で、立川義之の三男として生まれる。茨城県立太田中学校(現茨城県立太田第一高等学校・附属中学校)を経て、1921年(大正10年)早稲田大学政治経済科を卒業した。 1921年、明治屋に入社し、1926年(大正15年)に丸の内支店次長で退職して帰郷した。書籍・学用品販売業の宮田家の養子となった。茨城新聞社に入社し、営業局外交部長に就任。1928年(昭和3年)2月の第16回衆議院議員総選挙に大学の恩師五来欣造が茨城県第2区から立候補した際に、選挙事務長を務めたが五来は落選した。
堀木 鎌三(ほりき けんぞう、1898年3月17日 - 19… 堀木 鎌三(ほりき けんぞう、1898年3月17日 - 1974年4月13日)は、日本の鉄道官僚、政治家。参議院議員(2期)、厚生大臣。 三重県松阪市出身。堀木利右衛門の三男として生まれる。目白中学、第八高等学校を経て、1922年(大正11年)3月、東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業。1921年(大正10年)11月、高等試験行政科試験に合格。1922年4月に鉄道省に入り、鉄道局書記となり東京鉄道局庶務課文書掛に勤務。鉄道局副参事・新橋運輸事務所営業主任、東京鉄道局運輸課旅客掛長などを歴任。1929年(昭和4年)7月に在外研究員に発令され、1931年(昭和6年)8月まで欧州に出張した。 帰国後、新橋運輸事務所長、大阪鉄道局運輸課長、運輸局旅客課長などを経て、1938年(昭和13年)4月、鉄道大臣秘書官兼大臣官房文書課長に就任し、中島知久平に仕えた。
横光 利一(よこみつ りいち、1898年〈明治31年〉3月1… 横光 利一(よこみつ りいち、1898年〈明治31年〉3月17日 - 1947年〈昭和22年〉12月30日)は、日本の小説家・俳人・評論家。本名は漢字表記同じで「よこみつ としかず」。 菊池寛に師事し、川端康成と共に新感覚派として大正から昭和にかけて活躍した。『日輪』と『蠅』で鮮烈なデビューを果たし、『機械』は日本のモダニズム文学の頂点とも絶賛され、また形式主義(英語版)文学論争を展開し『純粋小説論』を発表するなど評論活動も行い、長編『旅愁』では西洋と東洋の文明の対立について書くなど多彩な表現を行った。1935年(昭和10年)前後には「文学の神様」と呼ばれ、志賀直哉以来の「小説の神様」とも称された。
岡田 希雄(おかだ きゆう、1898年(明治31年)3月15… 岡田 希雄(おかだ きゆう、1898年(明治31年)3月15日 - 1943年(昭和18年)1月31日)は、日本の国語学者、国文学者、辞書学者。 京都府葛野郡七条村(現在の京都市下京区)に農家の服部家の次男として生まれる。名は市治郎。3歳で父の浅吉を亡くし、5歳で母のヤヱを亡くした後、乙訓郡久世村(現在の京都市南区)にある曹洞宗の鷲尾寺の住職である岡田希僊に引き取られる。1904年(明治37年)に養子として入籍し、1910年(明治43年)に得度を受けて「希雄」と名前を改め、翌1911年(明治44年)3月に僧籍に登録された。 1915年(大正4年)に京都府立京都第二中学校を卒業後、第三高等学校に入学する。
森 周六(もり しゅうろく、1898年(明治31年)3月14… 森 周六(もり しゅうろく、1898年(明治31年)3月14日-1961年(昭和36年)2月4日)は、日本の農学者、農業工学者。専門は農業機械学。農学博士。九州大学教授。九州大学農学部長や日本学術会議会員を歴任。 鹿児島県大島郡瀬戸内町阿木名出身。医師の父の六男として生まれる。阿木名尋常小学校、鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)を経て、1919年(大正8年)第七高等学校造士館 (旧制)卒業。1922年(大正11年)東京帝国大学農学部農学科卒業。東大の恩師のすすめで同年より東京帝国大学農学部講師。1924年(大正13年)7月28日、九州帝国大学農学部助教授となる。1933年(昭和8年)4月19日、論文「本邦在来犂ニ関スル研究」で北海道帝国大学より農学博士号授与(農業機械関係では日本初)。
田中 繁松(たなか しげまつ、1898年〈明治31年〉3月1… 田中 繁松(たなか しげまつ、1898年〈明治31年〉3月13日 - 1976年〈昭和51年〉2月26日)は、日本の経営者。三井造船社長を務めた。位階は正四位。 大阪府岸和田市出身。1918年に大阪高等工業学校造船学科を卒業し、同年に三井物産に入社。1942年1月に三井造船に転じ、1946年5月に取締役、同年11月に常務、1947年5月に専務を経て、1958年5月に副社長に就任し、1960年5月には社長に昇格。1970年5月に取締役相談役を経て、1972年5月には相談役に就任。 1968年4月に勲二等瑞宝章を受章。 1976年2月26日脳血栓のために死去。77歳没。死没日付をもって正四位に叙された。
蒲原 重雄(かんばら しげお、1898年3月12日 - 19… 蒲原 重雄(かんばら しげお、1898年3月12日 - 1932年10月16日)は日本の建築家。司法省技師。日本における表現主義建築の傑作とされる小菅刑務所(現東京拘置所)と、建畠大夢が建設した北軽井沢大学村に現存する洋小屋組が特徴の南紀倶楽部(元紀州出身の美術家グループのアトリエである南紀美術倶楽部)が代表作。 明治31年(1898年)、岡山市で旧佐賀藩の漢学者の次男[要検証 – ノート]として生まれる。岡山県立第一中学校、第六高等学校(岡山)を経て、東京帝国大学に進学。大正11年(1922年)3月、東京帝国大学工学部建築学科を卒業。卒業制作は「住宅」。同期には岸田日出刀、土浦亀城、田辺平学、長谷川輝雄などがいる。
中川 潤治(なかがわ じゅんじ、1898年〈明治31年〉3月… 中川 潤治(なかがわ じゅんじ、1898年〈明治31年〉3月12日 - 1959年〈昭和34年〉4月3日)は、昭和時代の政治家。新潟県高田市長。新潟県議会議員(1期)。 1923年(大正12年)3月、東京帝国大学農学部を卒業し、同年12月に帝国農会に出仕する。1931年(昭和6年)11月、同会を辞職。その間、1927年(昭和2年)2月に陸軍歩兵少尉に任官し、1931年(昭和6年)後備役に編入した。 1935年(昭和10年)12月に高田市会議員に当選し、翌年の1936年(昭和11年)11月、再選と同時に同市助役に就任。ついで1938年(昭和13年)10月、高田市長に就任した。1942年(昭和17年)に再選。
遠藤 武勝(えんどう たけかつ、1898年(明治31年)3月… 遠藤 武勝(えんどう たけかつ、1898年(明治31年)3月12日 - 1988年(昭和63年)11月13日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍主計少将。 鳥取県出身。鳥取中学校(鳥取県立鳥取西高等学校)を卒業し、1920年(大正9年)5月、陸軍経理学校(14期)を卒業。同年12月、三等主計に任官し歩兵第8連隊付となる。1922年(大正11年)10月、第19師団経理部員に就任し、歩兵第47連隊付を経て、1929年(昭和4年)5月、経理学校高等科(甲種1期)を優等で卒業し、さらに員外学生として東京帝国大学経済学部に派遣され1929年4月から1932年(昭和7年)3月まで聴講した。この間、1930年(昭和5年)3月、一等主計に昇進。
安西 冬衛(あんざい ふゆえ、1898年〈明治31年〉3月9… 安西 冬衛(あんざい ふゆえ、1898年〈明治31年〉3月9日 - 1965年〈昭和40年〉8月24日)は、日本の詩人である。本名は勝(まさる)。奈良県奈良市出身。 大連で北川冬彦らと詩誌「亞」を創刊。その後、「詩と詩論」の創刊に参加、新しい散文詩運動を推進した。詩集に『軍艦茉莉』(1929年)、『亜細亜の鹹湖』(1933年)、『韃靼海峡と蝶』(1947年)などがある。 旧岸和田藩士の子として生まれる。麹町小学校、堺中学校(現・大阪府立三国丘高等学校)卒業。1920年、父の赴任先であり当時日本の租借地であった大連に渡る。翌1921年、関節炎を患い右脚を切断、文学に興味を示し、1924年11月、北川冬彦らと詩誌「亞」を大連で創刊。
松木 侠(まつき たもつ、1898年〈明治31年〉3月9日 … 松木 侠(まつき たもつ、1898年〈明治31年〉3月9日 - 1962年〈昭和37年〉7月10日)は、日本の政治家、弁護士、旧鶴岡市第8代市長。栄典は正五位・勲三等・旭日中綬章。哲学者・木田元の伯父。
三好 重夫(みよし しげお、1898年(明治31年)3月9日… 三好 重夫(みよし しげお、1898年(明治31年)3月9日 - 1982年(昭和57年)1月19日)は、日本の内務官僚。官選府県知事。
橋本 忠司(はしもと ちゅうじ、1898年3月9日 - 19… 橋本 忠司(はしもと ちゅうじ、1898年3月9日 - 1985年9月12日)は、日本の経営者。蝶理社長、会長を務めた。大阪府出身。位階は従四位。 1919年に神戸高等商業学校を卒業。三井物産、東洋曹達工業での勤務を経て、1951年に互洋貿易社長に就任し、1960年1月には蝶理社長に就任。1970年5月に会長に就任し、1978年6月に相談役を経て、1980年6月には顧問に就任。 1970年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 1985年9月12日心不全のために死去。87歳没。死没日付をもって従四位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
稲村 隆一(稻村隆一、いなむら りゅういち、1898年3月7… 稲村 隆一(稻村隆一、いなむら りゅういち、1898年3月7日 - 1990年11月20日)は、日本の農民運動家、政治家、衆議院議員(4期)。政治家の稲村順三は弟、稲村稔夫は甥。 北海道虻田郡喜茂別町出身。 1918年北海中学校(旧制)、1923年早稲田大学政治経済学部卒業。 早稲田大学在学中から建設者同盟に参加、その後農民運動に入った。その間日本共産党に入党し、1926年に労働農民党に入党。 1928年の三・一五事件で検挙された後、社会大衆党に移った。 1937年に新潟県日本農民連盟を結成し、皇国農民連盟と連携を図った。 1940年に東方会、石原莞爾の東亜連盟運動にも参加。戦後、日本社会党に入ったが、公職追放を受けた。
松岡 秀夫(まつおか ひでお、1898年〈明治31年〉3月7… 松岡 秀夫(まつおか ひでお、1898年〈明治31年〉3月7日 - 1944年〈昭和19年〉9月4日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、星河村長、忍町長。 埼玉県北埼玉郡星河村(現行田市)で、醤油醸造業・松岡三五郎の長男として生まれる。1915年、埼玉県立熊谷中学校(現在の埼玉県立熊谷高等学校)。1920年、東京帝国大学農学部農学実科を卒業した。1923年から1931年まで忍高等女学校で理科・実業科嘱託教師を務めた。 また、星河村農会長、蚕業組合長、忍貯蓄銀行取締役頭取、忍商業銀行(現・りそな銀行・埼玉りそな銀行)取締役頭取、星河村会議員、同村長、忍町会議員、同議長、同町長、埼玉県会議員、帝国在郷軍人会北埼玉郡連合分会長などを歴任。
妹尾 芳太郎(せのお よしたろう、1898年(明治31年)3… 妹尾 芳太郎(せのお よしたろう、1898年(明治31年)3月7日 - 1969年(昭和44年)1月19日)は、日本の政治家。徳島県吉野川市出身。 麻植郡山瀬町山崎(現在の吉野川市)生まれ。1917年(大正6年)、徳島県師範学校(現在の徳島大学)を卒業。 師範学校卒業後、麻植郡山崎尋常高等小学校訓導、師範学校付属小学校訓導、三好郡加茂尋常高等小学校長、徳島県視学、徳島県学務部学務課長、美馬高等女学校長を歴任。 1939年(昭和14年)に徳島市助役に就任。1947年(昭和22年)には公選により選ばれた初めての徳島市長に就任、1948年(昭和23年)まで務めた。 市長退任後は長崎県に行き、高田水産副社長などを務めた。
杉本 キクイ(すぎもと キクイ、1898年〈明治31年〉3月… 杉本 キクイ(すぎもと キクイ、1898年〈明治31年〉3月5日 - 1983年〈昭和58年〉3月30日)は、日本の瞽女。晩年は「高田瞽女最後の親方」と呼ばれた。8歳で巡業に出て以降、1973年(昭和48年)に廃業するまで、主に新潟県の頸城三郡と長野県の上田地方を巡った。名前はキクエ、キクヱともされる。 1898年(明治31年)3月5日、新潟県中頸城郡諏訪村東中島(現在の上越市東中島)に青木久治・ウミの長女として生まれた。6歳の時にはしかを患い、医師の誤診のため失明した。 1904年(明治37年)3月9日、7歳のキクイは杉本マセに正式に弟子入りし、瞽女となった。1か月後の4月2日には西頸城への旅に連れていかれた。
前田 精(まえだ ただし、1898年3月3日 - 1977年… 前田 精(まえだ ただし、1898年3月3日 - 1977年12月13日)は、大日本帝国海軍の軍人。最終階級は海軍少将。海兵46期。1945年8月17日のインドネシア独立の平穏無事な実現に重要な貢献をした。栄典はインドネシア共和国建国功労章。兄は大本営海軍報道部長、第10航空艦隊司令長官前田稔海軍中将(41期)。弟は資生堂のデザイナー前田貢。 鹿児島県姶良郡加治木村小山田(現姶良市加治木町)出身。鹿児島県立加治木中学校(旧制)卒業後、海軍兵学校に入学(第46期)。同期生に山階宮武彦王、猪口敏平らがいる。 1918年(大正7年)11月21日卒業。翌年8月、少尉に任官。オランダ公使館付武官、大本営海軍参謀、バタビア在勤武官を歴任し、1945年(昭和20年)に海軍少将およびジャカルタ在勤武官。
田崎 秀夫(たざき ひでお、1898年3月3日 - 1989… 田崎 秀夫(たざき ひでお、1898年3月3日 - 1989年12月19日)は広島文理科大学(現広島大学)の理学研究者。 福島県出身。X線および電子線による結晶解析の研究においてで、メタ硼酸の結晶構造の解析にフーリエ解析法を用いる方法を提案した。 広島大学退官後は、大阪電気通信大学学長に就任し、持ち前の温厚な性格と冷静な発言で、学生紛争を平和裏に終結に導いた。1970年、勲三等瑞宝章受章。1989年、腎不全のため死去。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
宮里 栄輝(みやさと えいき 、1898年(明治31年)3月… 宮里 栄輝(みやさと えいき 、1898年(明治31年)3月2日 - 1984年(昭和59年)1月10日)は、日本の政治家。沖縄県真和志市(現・那覇市)長。立法院議員。 沖縄県真和志間切(のち島尻郡真和志村→真和志市、現・那覇市)与儀に生まれる。沖縄県立第一中学校(現・沖縄県立首里高等学校)を経て、熊本の第五高等学校に入るが、1年で中退する。東京の私立大学(大学名不明)に入るが、ここも中退した。その後は沖縄県立図書館に勤務する。以後は沖縄文化の研究に没頭する。1940年に図書館を退職。翌年開南中学校講師となる。1942年、小学校教師の石川初子と結婚する。1945年、熊本に疎開し、終戦を迎える。終戦後は沖縄県の疎開者の生活を守る活動をし、沖縄人連盟の九州本部の会長に選ばれ、1946年に沖縄に戻った。
喜志 邦三(きし くにぞう 1898年3月1日 - 1983… 喜志 邦三(きし くにぞう 1898年3月1日 - 1983年5月2日)は日本の詩人、作詞家。 長男は京都大学文学部名誉教授の喜志哲雄。 1898年(明治31年)大阪府堺市に生まれる。1915年(大正4年)大阪府立堺中学校を卒業後、早稲田大学高等予科入学。翌年英文学科第二部に入学。1917年(大正6年)在学中に三木露風が主宰する第三次「未来」「リズム」の同人となる。1919年(大正8年)早稲田大学卒業、同年に大阪時事新報社に入社。1925年(大正14年)大阪時事新報社を退社し、神戸女学院大学部専任講師に就任。以降、中断期間も挟みながら1963年(昭和38年)定年まで教授を務める。1966年(昭和41年)園田学園女子大学文学部教授に就任。
安田 義達(やすだ よしたつ、1898年(明治31年)3月1… 安田 義達(やすだ よしたつ、1898年(明治31年)3月1日 - 1943年(昭和18年)1月2日)は、日本の海軍軍人。大田実と共に海軍を代表する陸戦の権威として知られた人物で、太平洋戦争において戦死後2階級特別進級した海軍中将である。 広島県府中市出身、広島高等師範附属中学を経て1918年(大正7年)海軍兵学校第46期を卒業。席次は124名中66番。同期生の山本親雄は安田の人柄を「剛毅闊達、稚気愛すべき好漢」としている。 砲術学校高等科学生を修了し、「比叡」・「陸奥」の各分隊長を歴任。次いで砲術学校専攻科学生となり、陸軍歩兵学校に派遣された。砲術学校専攻科学生は数年に一人という存在で、この課程を経た陸戦専門家は1942年(昭和17年)で7名のみである。
大坪 喜久太郎(おおつぼ きくたろう、1898年(明治31年… 大坪 喜久太郎(おおつぼ きくたろう、1898年(明治31年)3月1日 - 1967年(昭和42年)11月23日)は、日本の工学者、官僚。工学博士。室蘭工業大学元学長。北海道大学・室蘭工業大学名誉教授。専門は、水理工学・河川工学。富山県黒部市出身。河川水理学の権威で北海道開発における技術的指導者であった。 1922年(大正11年)九州帝國大學工学部土木工学科を卒業し、東洋アルミナムや、日本電力に勤務。1925年(大正14年)5月に北海道帝國大學工学部講師。1925年7月に同助教授。1942年(昭和17年)に論題「段落個所に於ける流体運動」で北海道帝国大学より工学博士号受く。1942年北海道帝國大學工学部教授(水理工学・河川工学講座を担当)。
小林 良正(こばやし よしまさ、1898年3月1日 - 19… 小林 良正(こばやし よしまさ、1898年3月1日 - 1975年12月29日)は、日本の経済学者。経済学博士。専修大学名誉教授(第一号)。いわゆる『講座派』に属し、マルクス経済学の立場から日本資本主義の分析をおこなった。 東京に生まれる。東京帝国大学卒業後、1923年(大正12年)に専修大学講師、1929年(昭和4年)には同学教授になった。1930年(昭和5年)、山田盛太郎、平野義太郎とともに治安維持法違反の名目で検挙、不起訴となるが教授を辞任して社会評論家として活動する。1932年(昭和7年)から岩波書店で刊行された『日本資本主義発達史講座』に論文を執筆、『講座派』の有力なメンバーとして労農派との論争を行う。
小金 義照(こがね よしてる、1898年2月28日 – 19… 小金 義照(こがね よしてる、1898年2月28日 – 1984年2月11日)は、日本の政治家・官僚。郵政大臣。 神奈川県足柄上郡酒田村(現・開成町)に、酒造業・小金仁左衛門の四男として生まれる。神奈川県立小田原中学校(現:神奈川県立小田原高等学校)、一高を経て、1922年東京帝国大学法学部を卒業、農商務省に入省する。特許局属。商工省鉱山局長、鉄鋼局長、燃料局長官を歴任した。 戦後の1949年第24回衆議院議員総選挙に旧神奈川3区から無所属で立候補し当選する(当選同期に佐藤栄作・前尾繁三郎・橋本龍伍・麻生太賀吉・小渕光平・西村英一・橋本登美三郎・福永健司・塚原俊郎・木村俊夫・藤枝泉介・稲葉修・河本敏夫・森山欽司・有田喜一など)。
石井 政一(いしい まさかず / せいいち、1898年(明治… 石井 政一(いしい まさかず / せいいち、1898年(明治31年)2月28日 - 1997年(平成9年)2月24日)は、日本の内務官僚、弁護士。官選福島県知事。 奈良県出身。石井庄太郎の長男として生まれる。第一高等学校を卒業。1922年11月、高等試験行政科試験に合格。1923年、東京帝国大学法学部法律学科を卒業。内務省に入省し京都府属となる。 以後、大阪府監察官、岡山県書記官・警察部長、内務事務官兼内務書記官、内務省土木局港湾課長、同道路課長、大臣官房文書課長、神社局総務課長などを歴任。 1944年4月、福島県知事に就任し終戦を迎えた。1945年10月27日、知事を依願免本官となり退官。1946年1月に公職追放となった。
河原田 巌(巖、かわらだ いわお、1898年(明治31年)2… 河原田 巌(巖、かわらだ いわお、1898年(明治31年)2月28日 - 1951年(昭和26年)2月28日)は、大正から昭和期の実業家、漁業家、政治家。衆議院議員。 茨城県東茨城郡吉田村吉沢(現水戸市堀町 )で、河原田太三郎の三男として生まれる。東京世田谷自動車学校を卒業した。 福島自動車学校教授を経て、東洋自動車学校を設立して校長兼教員となる。1940年(昭和15年)自動車学校を廃校し貨物自動車運送業を営む。1944年(昭和19年)茨城県北部貨物自動車運送、茨城県南部自動車運送の各取締役社長に就任。1945年(昭和20年)平潟町定置網漁業の網元となる。1946年(昭和21年)茨城水産工業取締役社長に就任。
武藤 完雄(むとう まさお、1898年2月27日 - 197… 武藤 完雄(むとう まさお、1898年2月27日 - 1972年6月20日)は、日本の外科医。専門は、消化器外科学。医学博士。東北大学名誉教授。 茨城県北相馬郡井野村大字青柳(現在の取手市青柳)生まれ。茨城県立龍ヶ崎中学校(現在の茨城県立竜ヶ崎第一高等学校)を経て、東北帝国大学医学部を卒業した。同医学部第一外科学教室教授として多くの門下生を育て、日本外科学会の重鎮として長く活躍した。終生のテーマは「胃癌の外科療法」であり、同大学医学部第三内科(黒川利雄教授)との公私とも綿密な連携により生涯で2000例の手術を行った。定年退官後は、福島県立医科大学学長及び宮城県成人病センター(現在の宮城県立がんセンター)院長を務めた。
三浦 義一(みうら ぎいち、1898年〈明治31年〉2月27… 三浦 義一(みうら ぎいち、1898年〈明治31年〉2月27日 - 1971年〈昭和46年〉4月10日)は、日本の右翼。フィクサー。 日本銀行総裁だった一万田尚登の親戚筋の立場を利用して、戦時中に日本金銀運営会に入り込み、その組織と利権を掌握した。 大分県出身。父の三浦数平(大分県士族)は大分市長、衆議院議員を務めた。 旧制大分中学から早大予科に進む。文学を志し、北原白秋の門下生として住み込むようになる。だが、肺結核に罹患し帰郷。父が法律顧問をする九州水力電気(後の九州電力)に入社。酒とドストエフスキーに浸る日々をすごす。 再上京すると同郷の後輩の波津久剣が経営する「やまと新聞」の編集長矢部周と知り合い、国家主義運動に参加するようになる。
植竹 春彦(うえたけ はるひこ、1898年〈明治31年〉2月… 植竹 春彦(うえたけ はるひこ、1898年〈明治31年〉2月27日 - 1988年〈昭和63年〉5月20日)は、日本の実業家、政治家。参議院議員。帝国造林社長。位階は正三位。 東京都出身。藤井鼎・貞子の七男に生まれ、植竹三右衛門の養子となる。1924年、東京商科大学(現・一橋大学)卒業。 日本大学講師、東邦電力勤務を経て1935年に東野鉄道(現・東野交通)支配人となり、以来専務社長を歴任して1948年に会長となる。1947年以来5回参議院議員に当選。民主党自由党各総務、党政調会副会長、副幹事長、党紀委員長を歴任。 1951年、参議院運輸委員長として運輸事情調査のため渡米。1959年6月、第2次岸内閣改造内閣の郵政大臣に任命され、同年9月万国電気通信会議政府首席全権として渡欧。
岡崎 源一(おかざき げんいち、1898年〈明治31年〉2月… 岡崎 源一(おかざき げんいち、1898年〈明治31年〉2月26日 - 没年不明)は、日本の弁護士、検察官。東京弁護士会理事。 三重県河芸郡一身田村字上津部田(現・津市)出身。岡崎和吉の長男。1918年、第二高等学校を卒業。1921年、東京帝国大学法学部独法科を卒業し、司法省に入り司法官試補となり、同年12月に判事に任官する。 裁判所に勤務する。1926年1月に官を辞し、弁護士となる。日本橋区本銀町四丁目に事務所を開く。高木益太郎の長女と結婚する。 1929年12月11日に高木益太郎が亡くなると、その法律事務を岡崎法律事務所が引き継ぐ。また法律新聞社長となる。1952年5月から1954年4月まで司法研修所教官をつとめた。
高垣 善一(たかがき ぜんいち、1898年〈明治31年〉2月… 高垣 善一(たかがき ぜんいち、1898年〈明治31年〉2月25日 - 1966年〈昭和41年〉5月31日)は、日本の政治家。長男は元和歌山市議会議員の高垣弼。曾孫はテレビ朝日アナウンサーの島本真衣[要出典]。 1898年(明治31年)2月25日、和歌山県有田郡田殿村(現在の有田川町)で高垣紋之助の長男として生まれる。父が事業に失敗したため、1912年(明治45年)から地元の郵便局に勤務し、新宮郵便局、和歌山郵便局を経て、大阪中央電話局に転任した。1916年(大正5年)、退職して南海鉄道に入社したが、1918年(大正7年)には鉄道院に転職した。 1925年(大正14年)からは和歌山市三番丁の中村愛三郎法律事務所に勤め、関西大学で法律学や政治学について学んだ。
宮田 又三郎(みやた またさぶろう、1898年2月25日 -… 宮田 又三郎(みやた またさぶろう、1898年2月25日 - 1985年8月9日)は、日本の実業家で、西日本鉄道社長を務めた。 佐賀県佐賀市出身。1920年に長崎高等商業学校(現・長崎大学経済学部)を卒業し、東邦電力(現・九州電力)での勤務を経て、西日本鉄道の前身である福博電車に入社した。 旧帝国大学出身者が学閥を組んで経営の中心となっていた西鉄の中で、高商卒の宮田はまさに「叩き上げ」で出世していく。常任監査役、常務、専務を経て、1960年から1963年11月までに社長を務めた。在任中に西鉄ライオンズのオーナーも務めた。 西鉄不動産、筑豊電気鉄道、大分交通、テレビ西日本、福岡スポーツセンターなどの各取締役を歴任した。
今井 武夫(いまい たけお、1898年〈明治31年〉2月23… 今井 武夫(いまい たけお、1898年〈明治31年〉2月23日 - 1982年〈昭和57年〉6月12日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は少将。 長野県上水内郡朝陽村(現長野市)の自作農今井熊太郎の六子のうち末子・四男として生まれた。1915年(大正4年)、(旧制)長野中学校を卒業(15回生)。六年制になったばかりの尋常小学校初の卒業生で、早生まれのため、高等小学校卒業生の多かった長野中学卒業生の中で今井は2番目に若かった。1918年(大正7年)、陸軍士官学校(30期、兵科は歩兵)を、1928年(昭和3年)、陸軍大学校(40期)をそれぞれ卒業。 陸大卒業以降、フィリピンに出征した約1年間を除き、日中戦争期間中、和平工作に従事した。
相田 長平(あいだ ちょうへい、1898年2月22日 - 1… 相田 長平(あいだ ちょうへい、1898年2月22日 - 1983年8月8日)は、日本の経営者。富士電機製造社長、会長を務めた。 栃木県出身。1919年に神戸高等商業学校を卒業し、同年に富士電機製造(現在の富士電機)に入社。1946年に取締役に就任し、1953年12月に常務を経て、1964年11月に副社長に就任し、1965年に社長に昇格。1968年11月に会長を就任。 1968年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1983年8月8日心不全のために死去。85歳没。
東家 楽浦(あずまや らくうら、1898年(明治31年)2月… 東家 楽浦(あずまや らくうら、1898年(明治31年)2月22日 - 1978年(昭和53年)4月4日)は、東京都生まれの浪曲師。本名は野口 金蔵。10年以上途絶えていた浪曲の寄席定席を木馬亭で復活させた貢献者。 東京市日本橋区生まれ。1919年(大正8年)、二代目東家楽遊門下の東家小楽遊に入門。1923年(大正12年)に真打。 情感たっぷりの節回しと、タンカのうまさで(劇場を満杯にするような大看板ではないが)「寄席打ちの名人」の名をほしいままにする。正岡容によれば「東家一門においては東家楽鴈以来の」芸達者で「諧謔」味や「憂愁」味の節回しを自在にこなし、長谷川伸が『芸がうま過ぎるのが処世では却って不利みたいな』と評したという。
柳澤 蔵之助(やなぎさわ くらのすけ、1898年(明治31年… 柳澤 蔵之助(やなぎさわ くらのすけ、1898年(明治31年)2月20日 - 1944年(昭和19年)3月31日)は、日本の海軍軍人。海兵46期、海大29期(首席)。最終階級は海軍少将。長野県佐久市出身。 旧制長野県野沢中学校より、海軍兵学校および陸軍士官学校(第30期)を受験し、双方に合格している。海軍兵学校第46期入校。入校時成績順位は131名中第6位、卒業時成績順位は124名中第16位。 柳澤は、海軍通信学校高等科課程を修了しているが、当時の日本海軍で通信関係に進むものに、成績優秀かつ健康に恵まれた者は比較的少なく、このことが海軍の情報軽視の背景の一つであったとされる。柳澤は首席で卒業している。
永野 芳辰(ながの よしたつ、1898年(明治31年)2月2… 永野 芳辰(ながの よしたつ、1898年(明治31年)2月20日 - 1984年(昭和59年))は、日本の内務官僚・実業家。高知県知事。1953年(昭和28年)12月25日の奄美群島本土復帰立役者のひとり。 鹿児島県大島郡笠利村の佐仁(奄美大島、現奄美市)で、永野孫七の長男として誕生。1918年(大正七年)旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校卒業、1922年(大正11年)旧制第七高等学校造士館卒業、1925年(大正14年)京都帝国大学法学部政治学科卒業。 愛知県属を振り出しに沖縄県、福島県、北海道、東京府各課長、北海道拓殖部長を経て1941年(昭和15年)大政翼賛会地方部長に就任。その後秋田県総務部長兼学務部長、広島県部長・経済部長、同内政部長を経て、1945年(昭和20年)10月、高知県知事に就任。
田中 藤作(たなか とうさく、1898年(明治31年)2月2… 田中 藤作(たなか とうさく、1898年(明治31年)2月20日 - 1979年(昭和54年)11月21日)は、大正末から昭和期の弁護士、政治家。衆議院議員。 大阪府河内郡で、田中秀吉の長男として生まれる。1921年(大正10年)関西大学専門部法律科を卒業した。 1922年(大正11年)弁護士を開業。1931年(昭和6年)大阪府会議員に選出され3期在任し、同副議長も務めた。1937年(昭和12年)大阪市会議員に当選。その他、南方経済協会理事長、高津町会連合会長、高津警防団長、三和信用組合理事長なども務めた。 1942年(昭和17年)4月の第21回衆議院議員総選挙で大阪府第2区から翼賛政治体制協議会の推薦を受け出馬して当選。
浜田 観(はまだ かん、旧字体: 濱田 觀、1898年(明治… 浜田 観(はまだ かん、旧字体: 濱田 觀、1898年(明治31年)2月20日 - 1985年(昭和60年)10月6日)は、日本画家、日本芸術院会員。本名は浜田 仙太郎(はまだ せんたろう)。位階は正五位。 兵庫県(現在の姫路市手柄)生まれ。京都絵画専門学校卒。金島桂華の紹介で竹内栖鳳に師事。在学中に帝展入選。戦後は日展に出品。1965年(昭和41年)日本芸術院賞受賞。1984年(昭和59年)芸術院会員。勲四等旭日小綬章、紺綬褒章受章。日展顧問。1985年死去。死没日付をもって正五位に叙された。花鳥画を得意とした。日本画家浜田昇児は子。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。