佐山 総平(さやま そうへい、1893年9月1日 - 197… 佐山 総平(さやま そうへい、1893年9月1日 - 1975年2月17日)は、大正時代から昭和時代の鉱山学者。専門は採鉱学。工学博士。位階は正三位。 北見工業大学初代学長。北海道大学および北見工業大学の名誉教授。栃木県下都賀郡部屋村(のち藤岡町、現在の栃木市)出身。門下生に石濱渉・木下重教・磯部俊郎など。 第一高等学校卒業。1919年東京帝国大学工科大学採鉱科卒業。1919年三菱鉱業に入社。1923年新設される北海道帝国大学工学部の教員就任を見込んで、三菱鉱業を退社。文部省留学生として、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランスで留学。1925年北海道帝國大學工学部教授。1957年北海道大学停年退官。
黒田 保久二(くろだ ほくじ、1893年〈明治26年〉9月 … 黒田 保久二(くろだ ほくじ、1893年〈明治26年〉9月 - 没年不詳)は、日本の警察官、政治活動家(右翼団体「七生義団」団員)、テロリスト、日雇い労働者。柿原尋常小学校卒。徳島県阿波郡柿島村(現在の阿波市の一部)出身。 黒田種三郎の二男。柿島村に生まれた。種三郎は村会議員であった。小学校での成績は優秀で、旧制中学への進学を勧められたが、家業が傾き進学は叶わなかった。そこで中川菊太郎校長の斡旋で村役場の給仕になったが、1909年(明治42年)、後任の校長になった大塚忠衛に勧められ、二人で朝鮮に渡った。大塚の紹介で雑貨店員となったが、まもなく退職し、各地を転々として人夫などをしていた。門司で運送業者「木村組」(暴力団の木村組とは無関係)の世話になったことで、後年木村組の組織する右翼団体「七生義団」に関わることになる。
20代 宮坂 伊兵衛(みやさか いへえ、1893年〈明治26… 20代 宮坂 伊兵衛(みやさか いへえ、1893年〈明治26年〉9月 - 1974年〈昭和49年〉)は、日本の実業家、政治家。長野県諏訪市長(初代)。旧名は宮坂登。 長野県諏訪郡上諏訪町(現諏訪市)に、酒造業「大布屋」第19代宮坂伊兵衛有紹の長男として生まれる。旧制諏訪中学(長野県諏訪清陵高等学校)を経て、早稲田実業学校卒業。家業・宮坂伊兵衛商店、高島銀行で勤務。1921年(大正10年)第20代伊兵衛を襲名し、高島銀行頭取に就任。翌年以降、合併先の第六十三国立銀行、八十二銀行の監査役を務めた。1933年(昭和8年)法人化した宮坂醸造の初代社長となる。その他、諏訪倉庫監査役、昭和倉庫監査役なども務めた。
秋山 範二 (あきやま はんじ、1893年9月 - 1980… 秋山 範二 (あきやま はんじ、1893年9月 - 1980年6月7日)は、日本の哲学者。専門は道元の禅の研究。元滋賀大学学長事務取扱。滋賀大学名誉教授。 1893年(明治26年)香川県豊田郡柞田村(現 観音寺市柞田町)に秋山清七(柞田村第6代村長・1906-1918年在任)の長男として生まれる。旧制香川県立三豊中学校、旧制第六高等学校を経て、1919年(大正8年)東京帝国大学哲学科卒業。1920年(大正9年)旧制滋賀県立八幡商業学校教諭。1923年(大正12年)彦根高等商業学校開校に合わせ着任、1924年(大正13年)教授就任。1928年(昭和3年)から1930年(昭和5年)までドイツに留学する。
平 敏孝(たいら としたか、1893年(明治26年)9月 -… 平 敏孝(たいら としたか、1893年(明治26年)9月 - 1969年(昭和44年)11月25日)は、大正後期から昭和前期の内務・警察官僚。官選県知事。 鹿児島県出身。平義光の三男として生まれた。鹿児島県立第二鹿児島中学校(現鹿児島県立甲南高等学校)を経て第一高等学校を卒業。1917年(大正6年)10月、文官高等試験行政科試験に合格。1918年(大正7年)東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。逓信省に入省し管船局属となる。その後、内務省に転じた。 1919年(大正8年)警視庁警視となる。以後、警視庁保安部保安課長、谷中警察署長、外神田警察署長、群馬県内務部地方課長、同学務課長、帝都復興院及び復興局経理部倉庫課長兼購買課長、岡山県学務部長、千葉県学務部長などを歴任。
永井 郁子(ながい いくこ、1893年(明治26年)8月30… 永井 郁子(ながい いくこ、1893年(明治26年)8月30日 - 1983年(昭和58年)1月28日)は日本のソプラノ歌手。大正から昭和にかけて活躍した。 1910年(明治43年)に東京音楽学校声楽科を卒業。柳兼子と同級。兼子と同じくハンカ・ペッツォルトに師事。同研究科修了。美しい容姿、清楚な趣のあるソプラノの高音が美しいといわれていたリリック・ソプラノで、柳兼子とともに若くして人気が高く、ことにビゼー『カルメン』のミカエラや、プッチーニ『ラ・ボエーム』のミミのアリアを得意とした。1915年(大正4年)「永井郁子独唱会」を開催しリヒャルト・シュトラウスを歌う。 岩崎小弥太の紹介により同年秋に山田耕筰と結婚したが、山田の女性問題などのため翌年に離婚した。
柳生 六郎(やぎゅう ろくろう、1893年8月28日 - 1… 柳生 六郎(やぎゅう ろくろう、1893年8月28日 - 1983年5月26日)は、日本の鉱床探査技術者。愛知県名古屋市生まれ。 第八高等学校を経て、1919年東京帝国大学理科大学地質学科を卒業。日本鉱業(現JX金属)の前身である久原鉱業に入社、調査課に勤務。1929年日本鉱業の創立から同社の鉱山部勤務となり、調査部門の業務を担当。この間、長年にわたって傘下の諸鉱山の地質調査・探査・探鉱・開発などを行った。特に福島県高玉鉱山の金鉱床については、鉱床の生成と母岩の変質に関する多くの事実を明らかにし、鉱化初期の珪化作用と後期のアルカリ化(氷長石化作用)の関係を論じた。これらの研究により、東京大学より理学博士の学位を取得。
石黒 芳雄(いしぐろ よしお、1893年〈明治26年〉8月2… 石黒 芳雄(いしぐろ よしお、1893年〈明治26年〉8月26日 - 1969年〈昭和44年〉8月5日)は、日本の生理学者、内科学者、内科医。医学博士。海軍軍医。最終階級は海軍軍医中将。 新潟県新潟市田中町(現 新潟市中央区田中町)出身。1912年(明治45年)3月新潟中学校卒業、同年(大正元年)9月新潟医学専門学校入学、1913年(大正2年)12月海軍軍医学生受命、1916年(大正5年)5月新潟医学専門学校卒業。 1916年(大正5年)7月海軍少軍医、1917年(大正6年)12月海軍中軍医、1919年(大正8年)9月海軍軍医中尉、1920年(大正9年)12月海軍軍医大尉、給油艦「知床」軍医長、1923年(大正12年)2月装甲巡洋艦「出雲」軍医長心得・分隊長心得、同年4月霞ヶ浦海軍航空隊分隊長、1925年(大正14年)12月海軍軍医少佐、1928年(昭和3年)4月新潟医科大学研究科学生(内科学・生理学)、1929年(昭和4年)11月海軍軍医中佐、1930年(昭和5年)12月横須賀海軍航空隊軍医長・分隊長、1931年(昭和6年)4月医学博士(新潟医科大学)、1933年(昭和8年)10月海軍航空廠医務部長、1934年(昭和9年)11月海軍軍医大佐、1938年(昭和13年)11月海軍軍医学校教官、1939年(昭和14年)4月海軍航空技術廠医務部長、1940年(昭和15年)11月海軍軍医少将、1943年(昭和18年)4月海軍航空技術廠航空医学部長、1944年(昭和19年)5月海軍軍医中将、同年11月佐世保鎮守府軍医長・佐世保海軍病院長、1945年(昭和20年)10月予備役。
高倉 定助(たかくら さだすけ、1893年(明治26年)8月… 高倉 定助(たかくら さだすけ、1893年(明治26年)8月26日 - 1965年(昭和40年)1月20日)は、大正・昭和期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員。 滋賀県甲賀郡土山村(土山町を経て現甲賀市土山町)で、高倉重助の四男として生まれる。滋賀県立水口農林学校(現滋賀県立水口高等学校)を卒業し農牧業を営む。 音更村会議員、帯広市会議員、北海道会議員、同参事会員を務めた。また、帯広市農会長、同農業会長、北海道農会議員、同農業会理事を歴任。十勝拓殖取締役社長、北海種苗公社取締役、北海道木炭取締役なども務めた。 1947年(昭和22年)4月、第23回衆議院議員総選挙で北海道第5区から出馬して当選し、その後、第25回総選挙まで再選され、衆議院議員に連続3期在任した。
今野 賢三(いまの けんぞう、1893年8月26日 - 19… 今野 賢三(いまの けんぞう、1893年8月26日 - 1969年10月18日)は、プロレタリア文学の作家。秋田県南秋田郡土崎港町(現・秋田市)生まれ。本名・賢蔵。 土崎小学校卒業後、店員、職工、弁士などの職を転々とし、1921年に同級生の小牧近江、金子洋文らと秋田でプロレタリア文学の文芸雑誌『種蒔く人』を創刊。のち『文藝戦線』同人となり、1927年労農芸術家連盟に参加。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
杜 聡明(と そうめい、1893年8月25日 - 1986年… 杜 聡明(と そうめい、1893年8月25日 - 1986年2月25日)は、台湾人として初めて医学博士号を取得した医学者。字は思牧。従四位勲三等。 1893年、清朝統治下の台湾・淡水(現在の新北市淡水区)生まれ。9歳の時から淡水北新庄の車埕書房で学ぶ。11歳で滬尾公学校に入学し、滬永吉街での寄宿生活を送りながら17歳の時に首席で卒業する。1909年、台湾総督府医学校に首席で合格。しかし体格検査(丙下)で本来は不合格となるところであったが、当時の医学校校長・長野純蔵の計らいで入校が許された。在学中も勉学は一番であり、併せて体操、水泳、登山で体を鍛えた。1910年、清朝腐敗に対する革命の動きが高まると、同級生の翁俊明(中国語版)と共に中国同盟会に加入した。
松本 芳夫(まつもと よしお、1893年8月25日 - 19… 松本 芳夫(まつもと よしお、1893年8月25日 - 1982年12月8日)は、日本の歴史学者。慶應義塾大学名誉教授。別名南国天[要出典]。 和歌山県東牟婁郡下里村(現・那智勝浦町)出身。1914年郁文館中学校卒業。1919年慶應義塾大学文学部史学科卒業、1950年「古代日本人の政治思想」で慶大文学博士。1919年慶應義塾商工学校教員、1923年慶應義塾大学予科教員兼高等部教員、1927年に文学部講師、1931年助教授を経て、1933年教授。1953年文学部長。1959年、義塾賞受賞。1960年斯道文庫長、1961年名誉教授。
滝澤 脩作(たきさわ しゅうさく、1893年(明治26年)8… 滝澤 脩作(たきさわ しゅうさく、1893年(明治26年)8月25日 - 1958年(昭和33年)7月1日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 岡山県浅口郡乙島村(玉島町乙島、玉島市乙島を経て現倉敷市玉島乙島)で、滝澤嘉三郎の長男として生まれた。玉島尋常高等小学校を卒業後、神戸市立工業学校で学んだ。 川崎造船所、住友伸銅所での勤務を経て、1922年(大正11年)大阪市東成区猪飼野でボール盤製造を始めていた弟・七三郎に合流して滝澤鉄工所(現:TAKISAWA)を設立した。満州事変以後の工作機械需要の増大を受けて会社は発展し、1933年(昭和8年)郷里の玉島に、1935年(昭和10年)と1938年(昭和13年)には大阪の二箇所に工場を新設した。
中山 巍(なかやま たかし、1893年(明治26年)8月24… 中山 巍(なかやま たかし、1893年(明治26年)8月24日 - 1978年(昭和53年)5月19日)は、岡山県出身の日本の洋画家。 1893年(明治26年)8月24日、第8代岡山市長中山寛の四男として岡山県岡山市に生まれる。 1900年(明治33年)4月、岡山師範学校附属小学校入学。在学中、中堀愛作に啓発されて水彩画を描くようになる。 1900年(明治33年)、附属小学校を卒業し岡山県立津山中学校(旧制中学校)に進学。同級生に金田廉、矢野峰人、片岡鉄兵が居た。中学在学中に水彩画から油絵に移行。 1907年(明治40年)、奈良県で開かれた大下藤次郎の水彩画夏期講習会に最年少参加者として参加。翌1908年(明治41年)にも鎌倉で開かれた大下藤次郎水彩画夏期講習会へ参加している。
喜多 市松(きた いちまつ、1893年8月23日 - 198… 喜多 市松(きた いちまつ、1893年8月23日 - 1986年9月25日)は、日本の経営者。大阪府出身。 1914年に旅順工科学堂電気工学科を卒業し、1917年に京阪電気鉄道に入社。1942年に取締役に就任し、同年から1年間社長を務めた。 1986年9月25日老衰のために死去。93歳没。
塩川 正三(しおかわ しょうぞう、1893年〈明治26年〉8… 塩川 正三(しおかわ しょうぞう、1893年〈明治26年〉8月22日 - 1958年〈昭和33年〉3月6日)は、日本の政治家。大阪府布施市(現・東大阪市)長(初代、5代、6代、3期)。財務大臣、衆議院議員を務めた塩川正十郎は長男。 大阪府渋川郡布施村(のち中河内郡布施町→布施市、現・東大阪市)出身。大阪府立八尾中学校(現・大阪府立八尾高等学校)卒。1915年(大正4年)、共栄組社長となり、1929年(昭和4年)、布施町会議員となる。同年3月から1932年(昭和7年)7月まで布施町助役を務めた。同月、布施町長となる。1937年(昭和12年)3月に町長を退任した。同年4月1日、布施市が発足した。同年7月10日、市長に就任した。
北 謙治(きた けんじ、1893年8月22日 - 1956年… 北 謙治(きた けんじ、1893年8月22日 - 1956年7月25日)は、日本の経営者。広島県広島市出身。 1916年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年に日本興業銀行に入行。1945年8月に退職し、山陽パルプ常任監査役を経て、1953年6月に富士重工業社長に就任。 1956年7月25日在職中に脳出血のために死去。62歳没。
木村 荘八(きむら しょうはち、1893年〈明治26年〉8月… 木村 荘八(きむら しょうはち、1893年〈明治26年〉8月21日 - 1958年〈昭和33年〉11月18日)は、日本の洋画家、随筆家、版画家。 牛鍋チェーン店のいろは牛肉店を創立経営した木村荘平の妾腹の八男として、東京市日本橋区吉川町両国広小路(現在の東京都中央区東日本橋)のいろは第8支店に生まれる。父の死後、浅草のいろは第10支店と京橋のいろは第3支店に移り、帳場を担当しながら兄・荘太の影響により文学や洋書に興味を持ち、小説の執筆などをして過ごす。著書『東京の風俗』所収の自伝的文章「私のこと」によると、旧制京華中学校4年生の頃から学校へはほとんど行かず、芝居見物と放蕩に熱中したという。1910年に同校を卒業した。
後藤 清一(ごとう せいいち、1893年8月19日 - 19… 後藤 清一(ごとう せいいち、1893年8月19日 - 1984年4月11日)は、大正 - 昭和時代の彫刻家。長男の後藤道雄は仏教美術史家。 1893年8月19日茨城県水戸市に生まれる。富岡周正に牙彫を学ぶ。 東京美術学校(現東京芸術大学)入学後は高村光雲に師事し木彫を始める。 仏教を厚く信仰し、仏像などを生涯作品のテーマにした。清一の彫る仏像は如来よりも菩薩や明王を題材にしたものが多い。 1930年構造社会員となる。 1958年日本美術展覧会評議員になり、1960年同展で「双樹」が文部大臣賞を受賞する。 余暇は専ら骨董品収集と読書を趣味としていた。1984年4月11日に死去。90歳だった。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
黒田 清(くろだ きよし、1893年〈明治26年〉8月18日… 黒田 清(くろだ きよし、1893年〈明治26年〉8月18日 - 1951年〈昭和26年〉1月22日)は、日本の華族。貴族院議員・財団法人国際文化振興会専務理事。爵位は伯爵。 東京府出身。清は黒木為楨陸軍大将伯爵の三男で、黒田清仲伯爵(内閣総理大臣黒田清隆陸軍中将伯爵の子)に子が無かった為、養子となり爵位を継いだ。 1919年(大正8年)、東京帝国大学法科大学を卒業し、さらに同文科大学を修了。1924年(大正13年)、フランスに音楽研究のため留学した。1934年(昭和9年)、国際文化振興会常務理事となり、さらに専務理事となる。 1944年(昭和19年)11月、貴族院伯爵議員に就任し、研究会に属し華族制度廃止までその職に在った。
石田 善佐(いしだ ぜんさ、1893年(明治26年)8月17… 石田 善佐(いしだ ぜんさ、1893年(明治26年)8月17日 - 1947年(昭和22年)9月8日)は、日本の衆議院議員。ジャーナリスト。 新潟県東頸城郡顕聖寺村(現在の上越市浦川原区)出身。1917年(大正6年)、早稲田大学政治経済科を卒業。高田日報社主筆、高田時事新報社社長、高田毎日新聞社社長、上越新聞社顧問を歴任。高田市会議員、新潟県会議員に選ばれた。 1942年(昭和17年)、第21回衆議院議員総選挙に翼賛政治体制協議会の推薦を受け出馬し、当選を果たした。戦後は日本進歩党の結成に参加するが、公職追放を受ける。追放中の1947年(昭和22年)、死去。
岡田 次作(おかだ じさく、1893年(明治26年)8月13… 岡田 次作(おかだ じさく、1893年(明治26年)8月13日 - 1942年(昭和17年)6月5日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。栄典は正五位勲三等功四級。 石川県金沢市千日町出身。金沢第一中学校(現:石川県立金沢泉丘高等学校。中第18回生、鈴木貫太郎内閣の大蔵大臣・広瀬豊作と同級生)を経て、1914年(大正3年)12月、海軍兵学校(第42期)を63番/117名で卒業。 1915年(大正4年)12月、海軍少尉に任官し防護巡洋艦「須磨」乗組。海軍砲術学校高等科で学ぶ。1921年(大正10年)12月、駆逐艦「桂」乗組となる。 1922年(大正11年)1月、臨時航空術講習部部員兼横須賀海軍航空隊付となり航空畑に転じた。
梅原 末治(うめはら すえじ、1893年〈明治26年〉8月1… 梅原 末治(うめはら すえじ、1893年〈明治26年〉8月13日 - 1983年〈昭和58年〉2月19日)は、日本の東洋考古学者。京都大学名誉教授。東洋考古学の基礎を築いた。文学博士(京都帝国大学・1939年)(学位論文「支那青銅器時代の研究」)。 大阪府南河内郡古市村(現:羽曳野市)に生まれる。1913年同志社普通学校(現:同志社中学校・高等学校)卒業。1914年(大正3年)京都帝国大学文科大学陳列館助手。1921年(大正10年)朝鮮総督府古跡調査委員[要出典]。1929年(昭和4年)、東方文化学院京都研究所(現:京都大学人文科学研究所)所員、京都帝国大学文学部講師。1933年(昭和8年)6月、同助教授(考古学講座)。
一力 次郎(いちりき じろう、1893年(明治26年)8月1… 一力 次郎(いちりき じろう、1893年(明治26年)8月12日 - 1970年(昭和45年)7月7日)は、日本の実業家。河北新報社元社長、会長、社主。 河北新報社創業者である一力健治郎の次男として宮城県仙台市に生まれる。 1917年京都帝国大学法学部卒業後、コロンビア大学、オックスフォード大学に留学し法律学、新聞学を専攻。帰国後、東京にて弁護士を開業する。 1924年(大正13年)1月1日河北新報社入社。副社長として、父を補佐する。 1929年(昭和4年)には父が逝去したことに伴い社長に昇格する。また、弟である五郎が実質的な副社長として兄を補佐した。 社長、会長時代は東北の振興に力を注ぎ、東北開発三法(北海道東北開発公庫法、東北開発株式会社法、東北開発促進法)の制定に傾注した上、政府の東北開発審議会委員となり、計画の策定や実施に貢献した。
一萬田 尚登(いちまだ ひさと、1893年(明治26年)8月… 一萬田 尚登(いちまだ ひさと、1893年(明治26年)8月12日 - 1984年(昭和59年)1月22日)は、日本の銀行家、政治家。位階は正三位、勲等は勲一等。姓は新字体で一万田とも表記される。 日本銀行総裁(第18代)、大蔵大臣(第58・59・60・63代)、衆議院議員(5期)。 日本銀行総裁としての在任期間3115日間は黒田東彦に次ぐ歴代2位である。一萬田自身の鋭い眼光の目つきと彫りの深い容貌もあいまって「法王」の異名を取り、戦後の金融界、経済界に重きを成した。 太平洋戦争後、連合国軍最高司令官総司令部占領下のインフレと資金不足の困窮経済のなか、大蔵省ではなく金融政策を掌る日本銀行が実質的に金融行政を掌握していたことが一萬田の力の背景にあった。
岩田 正巳(いわた まさみ、1893年〈明治28年〉8月11… 岩田 正巳(いわた まさみ、1893年〈明治28年〉8月11日 - 1988年〈昭和63年〉3月9日)は、日本画家、日本芸術院会員。位階は従四位。 新潟県三条市出身。1918年(大正7年)東京美術学校日本画科卒業、東京美術学校日本画研究科入学。松岡映丘に師事する。1921年(大正10年)新興大和絵会を結成し、新興大和絵運動に参加する。1924年(大正13年)第5回帝展に「手向の花」が初入選、1930年(昭和5年)第11回帝展で「高野創世」が特選。1937年(昭和12年)国画院に参加し、新文展にも複数回出品する。1939年(昭和14年)川﨑小虎らと日本画院を設立する。1952年(昭和27年)第8回日展運営会参事、1958年(昭和33年)同評議員を務める。
須田 正継(すだ まさつぐ、1893年8月10日 - 196… 須田 正継(すだ まさつぐ、1893年8月10日 - 1964年9月16日)は、日本のイスラム教研究者。日中戦争期には、外交官として内蒙古に派遣されて諜報活動をおこなった。 「国士的人物」であり、「とにかく独立独歩、他からの制肘を好まず」、晩年に至っても「意気軒昂たる」ものがあったとされる。 山梨県東八代郡一桜村小城(後の一宮村→一宮町→笛吹市の一部)に生まれる。 旧制の日川中学校(山梨県立日川高等学校の前身)から東京府豊島師範学校に進んだが、さらに東京外国語学校に学び、ロシア語部選科を修了した。 1918年のシベリア出兵の際には、通訳として従軍し、沿海州からザバイカル州までを転戦した。この3年に及ぶシベリアでの活動の間に、白軍の一翼を担っていたアタマン・セミヨノフをリーダーとする中央アジア系ムスリム兵の部隊と接触し、イスラム教に帰依したといわれる。
高木 惣吉(たかぎ そうきち、1893年(明治26年)8月9… 高木 惣吉(たかぎ そうきち、1893年(明治26年)8月9日 - 1979年(昭和54年)7月27日)は、日本の海軍軍人。 海兵43期、海大25期首席。最終階級は海軍少将。東久邇宮内閣の内閣副書記官長を務めた。 旧制中学校への進学が叶わない貧しい家に生まれ、働きながら独学で海軍兵学校への入校を果たし、海軍大学校を首席で卒業する。 健康に恵まれず、海上勤務は少なかったが、軍政方面で活躍。海軍部外に幅広い人脈を有し、ブレーントラストを組織した。太平洋戦争の戦局悪化に伴い首相・東條英機の暗殺計画を立案したが決行直前に東條内閣が瓦解し未遂に終わる。その後は米内光政、井上成美の密命により終戦工作に従事。
原田 謙次(はらだ けんじ、1893年8月8日 - 1971… 原田 謙次(はらだ けんじ、1893年8月8日 - 1971年2月3日)は、日本の歌人、小説家。 長崎県生まれ、大村中学校卒業、第一高等学校中退、東京外国語学校イタリア語専修を経て、1920年早稲田大学英文科卒。吉江喬松、島崎藤村に師事し、歌人、詩人となる。近代琵琶作詞、小説一編のほかイタリア文学の翻訳もある。
東 前豊(ひがし まえとよ、1893年(明治26年)8月6日… 東 前豊(ひがし まえとよ、1893年(明治26年)8月6日 - 1974年(昭和49年)5月6日)は、日本の政治家。岐阜市長。 戦後の地方自治法による公選で選ばれた、最初の岐阜市長である。 鹿児島県大島郡知名村(現在の知名町)出身。鹿児島県師範学校(現鹿児島大学)を経て1918年(大正7年)広島高等師範学校(現広島大学)地歴科を卒業し、岐阜県師範学校教諭・訓導となった。1923年(大正12年)京都帝国大学(現京都大学)経済学部選科修了。その後、高知県師範学校教諭、熊本県立人吉高等女学校教諭を歴任した。1930年(昭和5年)に岐阜市視学・学務兵事課長に就任した。 1932年(昭和7年)から1946年(昭和21年)1月まで岐阜市助役を務めた後、辞職。
高田 眞治(たかた しんじ、1893年8月6日 - 1975… 高田 眞治(たかた しんじ、1893年8月6日 - 1975年11月24日)は、日本の漢学者。文学博士。東京帝国大学教授、大東文化大学教授。漢学会設立者。号は陶軒。西洋由来の支那学(シノロジー)ではなく日本伝統の漢学を重視した。 中国文学者、学習院大学名誉教授の高田淳は長男。 1893年、大分県宇佐郡宇佐町(現・宇佐市)生まれ。高田豊市の三男。1917年、東京帝国大学文科大学支那哲学科卒業。 卒業後は水戸高等学校教授、1924年より京城帝国大学予科教授。1928年から1930年までドイツ留学。1930年より東京帝国大学助教授。アメリカ合衆国、中華民国に留学し、帰国後の1934年より教授。1936年、文学博士が授与される。
西山 弥太郎(にしやま やたろう、1893年8月5日 - 1… 西山 弥太郎(にしやま やたろう、1893年8月5日 - 1966年8月10日)は、日本の経営者。川崎製鉄社長、会長を務めた。陸軍中将・西山福太郎は実兄。 神奈川県淘綾郡吾妻村(令和現在の中郡二宮町)の出身。実家は井筒屋の屋号で宝永年間より街道沿いの旅宿を営んでいたが、明治維新後は交通機関の発達などもあり父の代で廃業。以後は養蚕業及び網元を生業とした。弥太郎は父・豊八、母・ヒロのもと十二人兄弟の十男として1893年(明治26年)8月に生まれる。兄弟が多かった為、弥太郎を含む4人以外は他家に養子入りし、実家は後に二男(長男は夭折)の斧三郎が継いだ。1908年(明治41年)春に満14歳で高等小学校を卒業すると、母方の親戚がやっていた横浜の金物店に手伝いとして入る。
矢野 志加三(やの しかぞう、1893年(明治26年)8月5… 矢野 志加三(やの しかぞう、1893年(明治26年)8月5日 - 1966年(昭和41年)1月24日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。
児玉 九一(こだま きゅういち / くいち、1893年8月3… 児玉 九一(こだま きゅういち / くいち、1893年8月3日 - 1960年5月23日)は、日本の内務官僚。県知事、厚生次官、中国地方総監。 山口県出身。陸軍大将・児玉源太郎の七男として生まれる。 1912年に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。第一高等学校を経て、1919年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。1918年10月、高等試験行政科試験に合格。1919年、内務省に入り地方局属となる。 以後、静岡県志太郡長、静岡県警視、内務事務官、復興局事務官、内閣総理大臣秘書官、鉄道省事務官、内務書記官、神社局総務課長、兼造神宮使庁主事、大臣官房会計課長などを歴任。
武居 高四郎(たけい たかしろう、1893年8月2日 - 1… 武居 高四郎(たけい たかしろう、1893年8月2日 - 1972年8月9日)は、日本の都市計画家、土木工学者。専門は都市計画学。工学博士(京都帝国大学)。京都大学名誉教授。本邦の都市計画学の草分けとして知られる。実業家武居綾蔵の養子で、妻妙子は湯川秀樹の次姉。 岡山県津高郡一宮村(現・岡山市北区)に生まれる(旧姓小野)。旧制岡山県立岡山中学校、第六高等学校を経て1917年京都帝国大学工科大学土木工学科を卒業。 大阪市役所に入り市区改正部などで技師として奉職。次いで内務省技師、国の都市計画の実務に従事する。この間米国ハーバード大学、英国リヴァプール大学に留学、都市計画学を学ぶ。1922年京都帝国大学工学部が日本最初の都市計画の講座(土木工学第六講座)を開設。
土屋 正三(つちや しょうぞう、1893年〈明治26年〉8月… 土屋 正三(つちや しょうぞう、1893年〈明治26年〉8月2日 - 1989年〈平成元年〉2月6日)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事、警察大学校名誉教授。 静岡県下田市で土屋元平の長男として生まれた。1906年、静岡県立静岡中学校入学。静岡中学を経て、第一高等学校を卒業。1916年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1917年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。内務省に入省し兵庫県属となる。 以後、兵庫県警視、内務事務官、茨城県書記官・学務部長、内務書記官・警保局図書課長、同警務課長、警察講習所教授、岡山県書記官・内務部長などを歴任。 1935年(昭和10年)1月15日、山梨県知事に就任。
清水 董三(しみず とうぞう、1893年〈明治26年〉8月1… 清水 董三(しみず とうぞう、1893年〈明治26年〉8月1日 - 1970年〈昭和45年〉12月8日)は、日本の外交官、書家、教育者。書画家として号を東翠。兄は画家の清水登之。 栃木県下都賀郡国府村大字大塚(現・栃木市大塚町)出身。1915年東亜同文書院政治科卒。1919年東亜同文書院教授(中国語担当)。1929年外務省嘱託、1933年外務省翻訳官、1943年中華民国大使館一等書記官。1946年同大使館参事官、1955年中華民国台北大使館公使、1956年外務審議官。1959年外務省退官、その後は外務省、日本クラブなどで書画を教えた。
松島 瀧三(まつしま たきぞう、1893年〈明治26年〉8月… 松島 瀧三(まつしま たきぞう、1893年〈明治26年〉8月 - 没年不明)は、日本の実業家。日本毛皮革代表。 福島県西白河郡白河町(現白河市)出身。製革業・肥料毛皮貿易商などを営む松島瀧右衛門の六男。白河商業卒業。分家した。 1917年、上京し上原松島合名会社を設立し、その後上原商事株式会社に改組する。日本毛皮組合理事、日本毛皮輸入組合理事をつとめる。日本毛皮代表、上原商事常務を経て日本毛皮革代表。 宗教は禅宗。住所は東京世田谷区代田、本郷区本郷。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
中原 重樹(なかはら しげき、1893年(明治26年)7月3… 中原 重樹(なかはら しげき、1893年(明治26年)7月30日 - 1999年(平成11年))は、日本の農林官僚であり教育者でもある。農林省に勤めた後、戦後、茨城大学教授を経て明治大学教授となった。初代日本食肉科学会会長。子の中原逸郎は陸軍大尉。岡山県倉敷市出身。 1893年(明治26年)に岡山県に生まれる。その後、1914年(大正3年)、20歳で旧制岡山県立高梁中学校(現:岡山県立高梁高等学校)卒業を経て、同年、名古屋市にある第八高等学校へ入学し、1917年(大正6年)同校を卒業。同年に東京帝国大学農学部へ入学、1920年(大正9年)7月、27歳で同大学を卒業し、東京毛織会社へ技師農学士として就職した。
肝付 兼英(きもつき かねふさ、1893年(明治26年)7月… 肝付 兼英(きもつき かねふさ、1893年(明治26年)7月29日 - 1974年(昭和49年)11月22日)は、大正から昭和期の農林技師、政治家、華族。貴族院男爵議員。 海軍士官・肝付兼行の長男として生まれる。父の死去に伴い、1922年(大正11年)2月10日、男爵を襲爵した。 1923年(大正12年)早稲田大学理工学部を卒業した。同年、農商務技手に就任。以後、商工技手、資源局技師などを務めた。 1929年(昭和4年)4月27日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで3期在任した。同年の第1回参議院議員通常選挙に全国区から立候補したが落選した。
舟木 重信(ふなき しげのぶ、1893年〈明治26年〉7月2… 舟木 重信(ふなき しげのぶ、1893年〈明治26年〉7月27日 - 1975年〈昭和50年〉4月29日)は、日本の小説家、ドイツ文学者、翻訳家。早稲田大学名誉教授。 ハイネやゲーテの研究をおこない、多くの作品の邦訳を手掛けた。 1893年、広島県江田島にて海軍少将舟木錬太郎の次男として生まれる。東京帝国大学を卒業し、早稲田大学教授を務めた。 1919年、短編集『楽園の外』を刊行。同年学芸自由同盟を結成し、書記長をつとめた。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
佐佐木 行忠(ささき ゆきただ、1893年〈明治26年〉7月… 佐佐木 行忠(ささき ゆきただ、1893年〈明治26年〉7月26日 - 1975年〈昭和50年〉8月10日)は、日本の華族。侯爵、貴族院議員。神社本庁統理や神宮の大宮司、國學院大學理事長・学長を務めるなど神職界で中心的な働きをした。 1893年(明治26年)、東京府(現:東京都)に生まれる。祖父佐佐木高行の死去に伴い、1910年(明治43年)3月12日、侯爵を襲爵。1914年(大正3年)、学習院高等科を卒業して京都帝国大学法科大学政経科に進み、1917年(大正6年)、東京帝国大学文科大学に転入学。在学中の1918年(大正7年)7月25日に貴族院侯爵議員となり、以後は国政に専念、1937年(昭和12年)から1944年(昭和19年)まで貴族院副議長も務めた。
山本 粂吉(やまもと くめきち、1893年(明治26年)7月… 山本 粂吉(やまもと くめきち、1893年(明治26年)7月25日 - 1974年(昭和49年)2月17日)は、日本の政治家、弁護士。旧姓は瀬尾。 茨城県新治郡小幡村(現石岡市)に茨城県士族瀬尾由三郎の息子として生まれた。絶家となっていた山本家の家督を継ぎ、台湾公学校教諭を務めた後に明治大学法科専門部を卒業。弁護士となって東京弁護士会副会長や司法省委員を歴任する傍ら、台湾の板橋林家の法律顧問にもなっている。 1936年の第19回衆議院議員総選挙に旧茨城3区から立憲民政党公認で立候補し当選。政党解消後の翼賛選挙では翼賛政治体制協議会の推薦候補として当選。翼賛議会においては戦時刑事特別法改正法律案委員会の理事を務めた。
14代千 宗室(せん そうしつ、1893年〈明治26年〉7月… 14代千 宗室(せん そうしつ、1893年〈明治26年〉7月24日 - 1964年〈昭和39年〉9月7日)は、日本の茶人。茶道裏千家14代家元。 東京都出身。13代千宗室の長男。弟に井口海仙。同志社普通部卒。号は碩叟、淡々斎。 1940年(昭和15年)、全国組織の淡交会を設立、裏千家発展の基礎を築く。また国際茶道文化協会を設立、茶道の海外普及にも努めた。 妻は、伊藤かよ。子に長女の塩月弥栄子(宗芯)、次女の櫻井良子(宗養、子爵・桜井忠胤長男・忠養の妻)、長男の千玄室(15代千宗室)、次男の納屋嘉治(淡交社社長)、三男・大谷巳津彦(デザイナー)。巳津彦の妻は戦後最大級のフィクサーと呼ばれた大谷貴義の娘大谷享子。
青木 楠男(あおき くすお、1893年(明治26年)7月23… 青木 楠男(あおき くすお、1893年(明治26年)7月23日 - 1987年(昭和62年)3月18日)は、大正から昭和時代の土木工学者、内務官僚。青木定謙の子。青木戒三 、青木得三の弟。 内務官僚青木定謙の七男として高知県に生まれる。1918年(大正7年)東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業し、内務省土木局に入る。1926年(大正15年)内務省土木試験所に転じ、1942年(昭和17年)同試験所長となる。この間、欧米出張を経て1930年(昭和5年)東京帝国大学講師を兼任した。 1946年(昭和21年)官職を辞し、創設間もない早稲田大学理工学部土木工学科教授となり、1954年(昭和29年)理工学部長、1956年(昭和31年)大学院工学研究科委員長を歴任し、1964年(昭和39年)退職した。
松本 潤一郎(まつもと じゅんいちろう、1893年7月22日… 松本 潤一郎(まつもと じゅんいちろう、1893年7月22日 - 1947年6月12日)は、日本の社会学者。理論社会学を専門とした。 千葉県銚子市出身。裕福な地主の旧家に生まれる。旧制銚子中学校に入学するが、肋膜炎にかかり旧制佐原中学校に転校。第一高等学校、東京帝国大学文科大学哲学科社会学専攻卒。建部遯吾に師事。大学院を中退後、大阪毎日新聞の外国通信部記者として、英文和訳や海外事情調査などに従事。1年ほどで退社し、外遊を経て日本大学講師、法政大学教授、東京女子大学講師、東京帝国大学講師を歴任。1938年、東京高等師範学校教授。1942年、日本文学報国会理事。戦災により蔵書1万冊を焼失してからは諦観の人となり、戦後間もなく糖尿病で死去した。
小野 行守(おの ゆきもり、1893年7月21日 - 194… 小野 行守(おの ゆきもり、1893年7月21日 - 1947年8月3日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 高知県幡多郡中村(現:四万十市)で生まれる。県立第三中学卒業を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、工兵少尉に任官。1916年(大正5年)、陸軍砲工学校卒業、翌年、同高等科卒業。その後、陸軍派遣学生として京都帝国大学工科大学機械工学科で学び、1922年(大正11年)3月に卒業する。 1923年(大正12年)、陸軍工兵学校の教官になる。1929年(昭和4年)、英国駐在武官、1932年(昭和7年)、陸軍技術本部付などを歴任。1936年(昭和11年)8月、砲工学校教官に就任し、1938年(昭和13年)3月、工兵大佐に昇進。
鶴ヶ濱 増太郎(つるがはま ますたろう、1893年7月19日… 鶴ヶ濱 増太郎(つるがはま ますたろう、1893年7月19日 - 1939年1月16日)は、奈良県北葛城郡當麻町(現在の葛城市)出身で荒磯部屋(当初は中立部屋)に所属した大相撲力士。本名は西本 増太郎。身長178cm、体重105kg。最高位は西小結。得意手は右四つ、吊り、泉川、突っ張り。 1911年(明治44年)2月場所に「大鶴」の四股名で初土俵を踏んだが病に罹り帰郷、間もなくして「若ノ川」の四股名で大坂相撲に出ていた。1912年(明治45年)5月場所で東京相撲に復帰し三段目から再出発、一旦序二段に陥落した場所もあったが、三段目に復帰し、幕下へと番付を上げていき、1918年(大正7年)1月場所で新十両。
山中 謙二(やまなか けんじ、1893年7月18日 - 19… 山中 謙二(やまなか けんじ、1893年7月18日 - 1974年2月15日)は、日本の西洋史学者。専門はドイツ中世史。 長野県諏訪郡上諏訪町(現諏訪市)出身。長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を経て、1918年(大正7年)東京帝国大学西洋史学科卒業。日本大学予科講師、東京府立第一高等女学校(現東京都立白鷗高等学校・附属中学校)講師、第一高等学校講師を経て、1925年(大正14年)東京帝国大学文学部講師、助教授。1938年(昭和13年)同大学教授。退官後、東京大学名誉教授。日本大学文理学部講師。 1950年(昭和25年)6月から7月にかけて、昭和天皇は歴史関係の科学委員による合同進講を催し、山中は委員の1人となった。
小山 知一(こやま ちいち、1893年(明治26年)7月17… 小山 知一(こやま ちいち、1893年(明治26年)7月17日 - 没年不明)は、日本の官僚。佐賀県知事、高知県知事、文部省普通学務局長を歴任した。 現在の福島県喜多方市出身。会津中学、四高を経て、東京帝国大学在学中に文官高等試験に合格し、1919年(大正8年)卒業。 官歴前半は警視庁警部、同保安部保安課長、愛知県警察部特高課長などの警察関係。その後福岡県内務部社会課長、高知県学務部長、 岩手県経済部長などを歴任。岩手県在任中には、国民健康保険課長の石原幹市郎を説得し、国民健康保険制度では全国でも他に例を見ない、農林水産省所管の産業組合代行による、国保事業の運営を奨励する。[要出典]1937年 、第32代佐賀県知事に就任。