棈松 熾(あべまつ さかん、1891年(明治24年)3月30… 棈松 熾(あべまつ さかん、1891年(明治24年)3月30日 - 没年不明)は、明治時代後期から昭和時代前期の台湾総督府官僚。 鹿児島県日置郡上伊集院村(現・鹿児島市)に生まれる。1909年(明治42年)2月、台湾総督府税関官吏に任ぜられ、府属、台北州属、総督官房秘書課勤務を経て、1928年(昭和3年)9月、地方理事官に進み、基隆市助役に就任した。1930年(昭和5年)4月、台北州羅東郡守、1931年(昭和6年)5月、高雄州潮州郡守を歴任し、1932年(昭和7年)4月に退官した。 退官後は、清水街長、台北市主事、台南商工会議所理事、花蓮港市会議員などを歴任した。
戸塚 九一郎(とつか くいちろう、1891年3月27日 - … 戸塚 九一郎(とつか くいちろう、1891年3月27日 - 1973年10月13日)は、日本の官僚、政治家。位階は正三位。 衆議院議員(3期)、徳島県知事、山口県知事、宮城県知事(第28代)、福岡県知事、北海道庁長官(第25代)、労働大臣(第8代)、建設大臣(第8代、第9代)、北海道開発庁長官(第5代、第6代)、衆議院議員(3期)を務めた。 静岡県出身。酒造業・町長、戸塚藤平の三男として生まれる。掛川中学(現在の静岡県立掛川西高等学校)、一高を経て、1917年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年11月、内務省に入り香川県属となり内務部地方課に配属。1918年10月、高等試験行政科試験に合格。
酒井 直次(さかい なおじ、1891年〈明治24年〉3月26… 酒井 直次(さかい なおじ、1891年〈明治24年〉3月26日 - 1942年〈昭和17年〉5月28日)は、日本の陸軍軍人。第15師団長、陸軍通信学校長、歩兵第19旅団長等を歴任し、階級は陸軍中将功二級に至る。暗号通信の権威として知られる。本籍は東京府。 1891年(明治24年)3月26日、出羽国庄内藩初代藩主酒井忠勝の6男酒井忠直(藩主家一門・酒井奥之助家)の後裔である酒井直興の次男として山形県西田川郡鶴岡五日町(現:鶴岡市)に生まれる。1902年(明治35年)、東京に移住し、1903年(明治36年)、成城中学校に入学。 1904年(明治37年)、陸軍中央幼年学校予科に入学し同本科を経て、1911年(明治44年)5月27日、陸軍士官学校を92番/740名で卒業する。
清水 善造(しみず ぜんぞう、1891年(明治24年)3月2… 清水 善造(しみず ぜんぞう、1891年(明治24年)3月25日 - 1977年(昭和52年)4月12日)は、群馬県西群馬郡箕輪村(現・高崎市箕郷町)出身の男子テニス選手。 日本人初のウィンブルドン出場者でありベスト4に進出した。全米選手権でもベスト8入りしている。 元俳優の清水善三、関西学院大学教育学部教授の藤木大三らは、清水の孫にあたる。 群馬県立高崎中学校(現:群馬県立高崎高等学校)に進学。東京高等商業学校(現:一橋大学)を卒業後、1912年に三井物産に入社、カルカッタ(インド)、ニューヨーク(アメリカ合衆国)へに駐在員として在任した。テニス選手として国際大会に出場したのはこの期間である。
中村 拓(なかむら ひろし、1891年(明治24年)3月25… 中村 拓(なかむら ひろし、1891年(明治24年)3月25日- 1974年(昭和49年)2月7日)は、日本の医学者、生化学者、古地図学者。本業である生化学者としての業績のほか、古地図研究でも多くの業績を残している。 1891年、福島県伊達郡梁川町に生まれる(現在の伊達市)。1916年第一高等学校を卒業。1920年(大正9年)東京帝国大学医学部を卒業。 1921年、伝染病研究所(長与又郎研究室)に入り、パリのパスツール研究所に留学。1924年ガブリエル・ベルトラン(英語版)教授に師事し、ソルボンヌ大学から理学博士号を授与される。1925年、東京帝国大学から医学博士号を授与される。1926年にポール・ジャクレーの母で18歳上の未亡人ジャンヌ (1874-1940)と結婚。
内藤 政光(ないとう まさみつ、1891年(明治24年)3月… 内藤 政光(ないとう まさみつ、1891年(明治24年)3月24日 - 1961年(昭和36年)3月28日)は、大正から昭和期の考古学者、政治家、華族。貴族院子爵議員。 愛知県西加茂郡挙母村(現豊田市)で子爵・内藤政共の長男として生まれる。父の死去に伴い、1902年(明治35年)12月23日、子爵を襲爵した。 1916年(大正5年)3月、学習院高等学科を卒業し、さらに、1922年(大正11年)東京帝国大学文学部国史学科を卒業した。 1924年(大正13年)実践女子専門学校講師に就任。以後、国士舘専門学校講師、同教授、東京帝室博物館歴史課事務嘱託、同館学芸委員、外務省調査局勤務などを務めた。 1946年(昭和21年)5月10日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
本間 国生(ほんま くにお、本名:本間 国雄、明治24年(1… 本間 国生(ほんま くにお、本名:本間 国雄、明治24年(1891年)3月24日 - 昭和48年(1973年)12月30日)は、米沢市出身の日本画家。文学博士の本間久雄の実弟。号は逸老庵。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
立松 ふさ(たてまつ ふさ、1891年(明治24年)3月23… 立松 ふさ(たてまつ ふさ、1891年(明治24年)3月23日 - 1992年(平成4年)11月16日)は、日本の声楽家。声種はソプラノ。音楽教育者。作曲家。武蔵野音楽大学名誉教授。旧姓は薗部。名は房子と表記されることが多い。フサと表記されることもある。 東京府亀戸出身。警察官、薗部久五郎の長女として生まれる。東京府立第一高等女学校卒。東京音楽学校にてハンカ・シェルデルップ・ペツォルト、宮廷歌手ヘルマン・ヴーハープフェニッヒに師事。1913年(大正2年)に同校本科声楽部を卒業。1915年(大正4年)から同校声楽講師。1925年(大正14年)私立東京女子体操音楽学校(現:東京女子体育大学)講師。1927年(昭和2年)函館で演奏会を開催。
川並 密(かわなみ ひそか / みつ、1891年〈明治24年… 川並 密(かわなみ ひそか / みつ、1891年〈明治24年〉3月22日 - 1978年〈昭和53年〉11月4日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 茨城県出身。土浦中学校を経て、1912年(明治45年)5月、陸軍士官学校(24期)を卒業。同年12月、陸軍歩兵少尉任官。1923年(大正12年)11月、陸軍大学校(35期)を卒業。陸軍歩兵学校勤務となる。 1936年(昭和11年)8月、歩兵大佐に昇進し歩兵学校教官に就任した。1937年(昭和12年)3月、陸軍通信学校教育部長に異動。同年9月、歩兵第6連隊長に戦死した前任者の後任として着任し日中戦争に出征。南京攻略戦、徐州会戦、武漢作戦に参加した。
柴田 知常(しばた ともつね、1891年(明治24年)3月2… 柴田 知常(しばた ともつね、1891年(明治24年)3月22日 - 1980年(昭和55年)1月20日)は、日本の音楽教育者、作曲家。東京市出身。東洋音楽短期大学初代学長、前東京音楽大学理事長。 1891年(明治24年)東京市生まれ。麹町小学校、東京府立第四中学校を経て、1916年(大正5年)東京音楽学校 (旧制)卒業。1927年(昭和2年)、東京市の視学制度により視学官としてアメリカ合衆国の教育事情を視察するために渡米。1951年(昭和26年)から東洋音楽学校校長を務めた。その後、東洋音楽短期大学発足に伴い、同大学の初代学長に就任。東京音楽大学に改組されてからは理事長を務めた。この間、日本音楽文化協会理事や上野学園大学教授、早稲田大学講師、東京芸術大学同声会会長などを歴任。
古賀 米吉(こが よねきち、1891年(明治24年)3月22… 古賀 米吉(こが よねきち、1891年(明治24年)3月22日 - 1983年(昭和58年)6月7日)は日本の教育者。千葉県市川市の学校法人市川学園の創立者として知られる。 1891年、古賀米吉は福岡県三井郡(現在の小郡市)で生まれた。9歳のときに父が亡くなり、貧乏な母子家庭で育ったという。1915年に[要出典]福岡師範学校二部を卒業したが、経済的理由で上級学校に進めなかったという[要出典]。卒業後は小学校教諭となり、教師として働く傍らで学資を貯めていたという[要出典]。 27歳のときに上京し、1922年に[要出典]旧制東京外国語学校英語科(現在の東京外国語大学英文科)を卒業した。その後[いつ?]、府立四中(現在の都立戸山高校)の英語教師、主任として働きながら自身も進学し、1930年に39歳で東京帝国大学文学部社会学科を卒業したが、その後府立四中を退職した。
岩井 盛次(いわい もりつぐ、1891年3月21日 - 19… 岩井 盛次(いわい もりつぐ、1891年3月21日 - 1974年3月20日)は、日本の実業家で、エコナックホールディングスの創業者でもある。 京都府京都市出身。1908年に京都市立第一商業学校を卒業した。1926年に日本レースを設立し、1942年に同社の社長に就任した。 近畿放送、京都銀行の各取締役などを歴任し、1965年4月に京都商工会議所会頭に就任した。1965年11月に勲三等旭日中綬章を受章した。 1974年3月20日に腹部腫瘍のために死去。82歳没。
森 寿五郎(もり ひさごろう、1891年(明治24年)3月2… 森 寿五郎(もり ひさごろう、1891年(明治24年)3月20日 - 1983年(昭和58年)1月8日)は、日本の経営者。工学博士。岡山県高梁市出身。 1891年(明治24年)岡山県川上郡落合村福地(現:高梁市落合町)に信原忠吉の四男として生まれる。この後、川上郡成羽町中村にある森家の養子となる。地元の旧制高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)を経て、第三高等学校を1914年(大正3年)に卒業し、1919年(大正8年)に東京帝国大学工学部電気工学科を卒業した。 卒業と同時に、宇治川電気へ入社。翌年、日本電力に移り、試験係長、大阪変電所長、発電・送電各課長、送電総務理事などを歴任し順調に出世した。1950年(昭和25年)10月、59歳で日本発送電副総裁に就任し、翌年、1951年(昭和26年)5月に関西電力が発足すると同時に、関西電力副社長に就任した。
瀬藤 象二(せとう しょうじ、1891年3月18日 - 19… 瀬藤 象二(せとう しょうじ、1891年3月18日 - 1977年10月20日)は、電気工学者。和歌山県出身。
出羽 重芳(でわ しげよし、1891年(明治24年)3月16… 出羽 重芳(でわ しげよし、1891年(明治24年)3月16日 - 1946年(昭和21年)6月7日)は、大正から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。 海軍士官・出羽重遠の四男として生まれる。父の死去に伴い、1930年(昭和5年)3月15日、男爵を襲爵した。 1916年(大正5年)早稲田大学商学部を卒業した。同年、日本郵船に入社。その後、国際汽船に移り、横浜出張所長、調度課長を務め、さらに大阪商船で勤務。その他、鶴見化学工業取締役、東京測機監査役、船舶運営会副参事などを務めた。 1946年(昭和21年)5月11日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属したが、翌月に死去した。
古市 春彦(ふるいち はるひこ、1891年3月15日 - 1… 古市 春彦(ふるいち はるひこ、1891年3月15日 - 1943年1月9日)は、日本の学者・労働運動家。 鹿児島県熊毛郡南種子村(現・南種子町) 出身。農業に従事していたが、20歳で志をたてて上京し錦城中学に入る。在学中友愛会の賛助会員となる。第五高等学校を経て京都帝国大学に入るが友愛会運動を続ける。京大では1918年9月に結成された河上肇を顧問とする労学会に所属し、同年10月には同年12月に赤松克麿らが東大で新人会をつくるきっかけにもなる東西両大学連合演説会(岡崎公会堂で東京帝国大学と京都帝国大学の学生が行った)で東京帝大の赤松らと論戦する。卒業後の大正10年に上京し出版社隆文館に勤務するが、13年福岡の西南学院商科長となる。
小笠原 長丕(おがさわら ながまさ、明治24年(1891年)… 小笠原 長丕(おがさわら ながまさ、明治24年(1891年)3月15日 - 昭和43年(1968年)4月7日)は、日本の華族。子爵。旧安志藩忠脩系小笠原家第13代当主。旧小倉藩小笠原家当主小笠原忠忱の二男。 兄に小笠原長幹、弟に小笠原豊、妹に津軽英麿夫人、百子(尚昌夫人)。養子に小笠原忠幸。 明治38年(1905年)、安志小笠原家12代の子爵小笠原貞孚が後嗣なく没したため、貞孚の甥にあたる長丕が養子として跡を継いだ。明治44年(1911年)3月、学習院中等科を卒業。その後、早稲田大学専門部に進学、卒業。東京府立第一中学校、法政大学商業学校などの講師となる。昭和5年(1930年)に隠居し、養子忠幸(兄小笠原長幹の子)に家督を譲った。
清水谷 恭順(しみずだに きょうじゅん、1891年〈明治24… 清水谷 恭順(しみずだに きょうじゅん、1891年〈明治24年〉3月14日 - 1979年〈昭和54年〉8月8日)は、天台宗の僧、仏教学者、浅草寺貫首。 1891年(明治24年)、群馬県新田郡笠懸村西鹿田(現・みどり市笠懸町西鹿田)の長昌寺住職・林恵順の子として生まれる。幼名・光司。笠懸尋常小学校を経て、県立太田中学校へ進学。1906年(明治39年)清水谷慶順につき得度し、清水谷姓となる。 1915年(大正4年)天台宗大学を卒業。1919年(大正8年)天台宗大学教授となり、1926年(大正15年)の大正大学創設に伴い教授に就任し、1945年(昭和20年)に退任。この間、宮内省職員養成所講師や、比叡山中学校校長も務める。
寺岡 謹平(てらおか きんぺい、1891年3月13日 - 1… 寺岡 謹平(てらおか きんぺい、1891年3月13日 - 1984年5月2日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 1891年(明治24年)3月13日、山形県東田川郡羽黒町手向(現・鶴岡市)で小学校長・寺岡義秀の二男として生れる。新庄中学校を経て、1912年(明治45年)7月に海軍兵学校(40期)を卒業、少尉候補生となる。 1913年(大正2年)12月、海軍少尉任官。1915年(大正4年)12月、中尉に昇進。1918年12月、大尉に昇進。1919年(大正8年)12月、海軍水雷学校高等科を卒業し、第二艇隊艇長に就任。1920年(大正9年)8月、檜 (桃型駆逐艦)に乗組。1921年(大正10年)6月、菱 (樅型駆逐艦)に乗組。
仲井間 宗一(なかいま そういち、1891年(明治24年)3… 仲井間 宗一(なかいま そういち、1891年(明治24年)3月13日 - 1965年(昭和40年)12月2日)は、沖縄県出身の日本の弁護士、政治家。衆議院議員。 名護間切名護(現名護市)で、仲井間宗宣の長男として生まれる。1911年、沖縄県立第一中学校5年に在学中に上京。苦学して日本大学専門部法律科に入学。1922年、弁護士試験に合格。 1923年に帰郷して那覇に弁護士事務所を開業した。その後、那覇弁護士会会長に就任。 1930年2月の第17回衆議院議員総選挙で沖縄県選挙区から立憲民政党所属で出馬して当選。その後、第19回 から第21回総選挙まで連続三回の当選を果たし、衆議院議員を通算四期務めた。
川崎 備寛(かわさき よしひろ、かわさき びかん、1891年… 川崎 備寛(かわさき よしひろ、かわさき びかん、1891年3月13日 - 1963年3月26日)は、日本の翻訳家、麻雀研究家。 大阪府貝塚市生まれ。関西学院大学政治部中退後、文筆活動に入り1923年(大正12年)『文藝春秋』の同人となる。1924年から麻雀を始め、1929年(昭和4年)日本麻雀連盟創立に際し中央委員。1930年(昭和5年)最高段位7段となる。1932年(昭和7年)麻雀団体が合併して大日本麻雀連盟が結成され、機関誌『麻雀日本』の編集長に就任。 1934年(昭和9年)、警視庁による麻雀賭博の摘発が続く中で、川崎も同年2月に死去した直木三十五の追善麻雀大会に参加したことを追及され、同年3月に福田蘭童、多賀谷信乃、淵川銀次らとともに一斉検挙された。
河鰭 実英(かわばた さねひで、1891年(明治24年)3月… 河鰭 実英(かわばた さねひで、1891年(明治24年)3月12日 - 1983年(昭和58年)2月23日)は、日本の服飾史学者。日本服飾史が専門。 三条実美の四男として東京に生まれる。河鰭家当主・河鰭公篤の養子となる。養父の死去に伴い、1922年4月29日、子爵を襲爵した。東京帝国大学文学部卒業。大正天皇の侍従。1949年昭和女子大学教授、1969年学長。1960年に日本風俗史学会の設立に参加。1961年「近世に於ける公家服飾の史的研究」で東京教育大学より文学博士の学位を取得。墓所は多磨霊園。
安井 誠一郎(やすい せいいちろう、1891年(明治24年)… 安井 誠一郎(やすい せいいちろう、1891年(明治24年)3月11日 - 1962年(昭和37年)1月19日)は、日本の政治家。内務・厚生官僚、東京都長官(6・8代)、東京都知事(初・2・3代)、新潟県知事(34代)、衆議院議員(1期)を歴任した。位階は正三位。 参議院議長を務めた安井謙と、雪印食品副社長を務めた安井三郎は弟。 岡山県御津郡伊島村(現:岡山市北区津島)生まれ。岡山県立岡山中学校、旧制一高、東京帝国大学独法科を卒業後、内務省に入省。 1920年から茨城県庶務課長、稲敷郡長を務めた。休職後にドイツ視察留学を経て、東京市社会局長として関東大震災の復興にあたる。その間茨城県・神奈川県で警視を務めた。
大内 一郎(おおうち いちろう、1891年(明治24年)3月… 大内 一郎(おおうち いちろう、1891年(明治24年)3月11日 - 1962年(昭和37年)3月18日)は、日本のジャーナリスト、実業家、政治家。衆議院議員。号・逸堂。 福島県安達郡針道村(東和村、東和町針道を経て現二本松市針道)で、大内丈右衛門の息子として生まれる。早稲田大学大学専門部政経科を中退した。 立憲政友会に入党し、1919年(大正8年)10月、安達郡会議員に当選し(2期在任)、公立福島病院組合議員(5期)を務め、1927年(昭和2年)9月、福島県会議員に選出され4期在任した。 また、福島新聞主筆、福島民報主筆、読売新聞福島支局長を務め、1937年(昭和12年)から1941年(昭和16年)まで岩盤中央新聞を経営した。
飯野 哲二(いいの てつじ、1891年3月9日 - 1971… 飯野 哲二(いいの てつじ、1891年3月9日 - 1971年1月3日)は、昭和期の日本の国文学者。松尾芭蕉の研究で知られる。 栃木県芳賀郡二宮町(現・真岡市)出身。第二高等学校を経て、1921年に東京帝国大学文学部国文学科を卒業。 卒業後は鉄道省勤務、東京府立第一商業学校(現・東京都立第一商業高等学校)教諭といった職に就く。1925年に東京帝大大学院に入ったが、修了を待たずに1926年より再度教職に戻り、熊本県女子師範学校と、熊本県立第二高等女学校(熊本県立第一高等学校の前身の一つ)を兼任した。 1928年、宮城県女子専門学校(戦後、新制東北大学に統合)教授に就任する。松尾芭蕉の研究は、この時期に『奥の細道』の講義を仙台放送局の依頼でおこなったことに始まった。
長尾 巧(ながお たくみ、1891年3月9日 - 1943年… 長尾 巧(ながお たくみ、1891年3月9日 - 1943年8月28日)は、日本の地質学者・古生物学者。ニッポノサウルスの化石研究者として知られる。 現在の福岡県田川市出身。東京高等師範学校を卒業後、山口県岩国中学校や鹿児島師範学校で教員を務める。東京高等師範では博物学科に所属し、佐藤伝蔵の講義から地質学への興味を抱いたとされる。 その後東北帝国大学に入学し、理学部で矢部長克の指導を受ける。1921年に東北帝大理学部を卒業後、同大学講師となる。長尾が取り組んだのは、出身地でもある北九州地方の炭田の地質構造研究だった。 1927年から渡仏して2年間パリで研究に従事した。この留学は、教授候補者に対する当時の慣例だったとされる。
保科 善四郎(ほしな ぜんしろう、1891年(明治24年)3… 保科 善四郎(ほしな ぜんしろう、1891年(明治24年)3月8日 - 1991年(平成3年)12月24日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍中将。衆議院議員を4期務めた後、財団法人日本国防協会会長。 宮城県伊具郡北郷村(現・角田市)出身。旧制宮城県角田中学校より、海軍兵学校および陸軍士官学校(第25期)を受験し、双方に合格している。海軍兵学校第41期入校。席次は入校時120名中40番、卒業時118名中28番。海軍大学校卒業。 1930年(昭和5年)5月から1932年(昭和7年)11月までアメリカ駐在であったが、海軍きってのアメリカ通として鳴らしアメリカ海軍の人物を調査するのが先決という持論を持っていた。
川村 芳次(かわむら よしじ、1891年〈明治24年〉3月8… 川村 芳次(かわむら よしじ、1891年〈明治24年〉3月8日 - 1988年〈昭和63年〉12月27日)は、日本の政治家。鳥取県八頭郡大御門村(現・八頭町)出身。千葉県銚子市長(1933年-1945年)、北海道岩見沢市長(1945年-1946年、1954年-1970年)。岩見沢名誉市民。位階は正五位。 明治大学法学部卒。内務省から千葉県地方課長に出向し、その後1933年、銚子市の市制施行から終戦直前まで3期12年、官制初代銚子市長を務める。 1945年5月13日任期満了で退任後、同年5月30日公選第2代岩見沢市長となり、翌年11月17日公職追放により退任。 追放解除後の1954年10月29日、山本市英前市長の辞任による選挙で再び岩見沢市長(公選第5代)に就任、1970年10月まで4期16年務め、任期満了で退任。
牧野 伸通(まきの のぶみち、1891年〈明治24年〉3月6… 牧野 伸通(まきの のぶみち、1891年〈明治24年〉3月6日 - 1956年〈昭和31年〉2月7日)は宮内庁式部官、旧華族(伯爵)。 牧野伯爵家の長男として生まれる。学習院から東京帝国大学政治科に進み、卒業後は外務省情報部、宮内庁式部官兼主猟官を務めた。学習院時代の同級生だった近衛文麿は、「伸通はできが良く、いつも首席であった」と評価している。墓所は青山霊園。 外務大臣、文部大臣、内大臣などを務めた牧野伸顕の長男。大久保利通の孫。妻は上皇后美智子(皇太子妃時代)の女官長を務めた牧野純子(鍋島直明の長女)。長男は日東化学工業の元副社長牧野伸和。長女は松濤幼稚園創設者の林貞子。次女は杉山淑子(豊年製油の元社長杉山元太郎の妻)。
豊田 栄(とよだ さかえ、1891年3月3日 - 1966年… 豊田 栄(とよだ さかえ、1891年3月3日 - 1966年4月19日)は、医師、英語講師、キリスト教無教会主義の新約聖書研究家。内村鑑三、塚本虎二に師事した。 1891年3月3日、医師である父・豊田貫一と母・豊田琴の5人兄弟の四男として出生した。志波尋常小学校に入学したのち転校し、吉井尋常高等小学校を卒業。明善中学校を卒業、熊本県の第五高等学校を卒業したのち上京、東京帝国大学医科大学を1917年7月に卒業した。その後約1年間を海軍軍医として勤務後、軍艦比叡に乗艦。1920年に和泉橋慈善病院の小児科医局員となる。 1923年1月、古田孝子と結婚。同年より、東京帝国大学薬理学教室で2年間研究に従事。
高橋 清吾(たかはし せいご、1891年〈明治24年〉3月3… 高橋 清吾(たかはし せいご、1891年〈明治24年〉3月3日 - 1939年〈昭和14年〉1月17日)は、日本の大正から昭和前期の政治学者。早稲田大学教授を務め、ビアード、グッドナウ、ベントリーらのアメリカ政治学を日本に紹介した。 1891年(明治24年)、宮城県宮城郡利府村(現・利府町)に生まれる。1911年(明治44年)9月、早稲田大学専門部政治経済科第二学年に入学。1913年(大正2年)7月、同科卒業。1914年8月、コロンビア大学に留学、チャールズ・ビアードの指導を受ける。1916年2月、同大学でM.A.を取得。1917年7月、同大学でPh.D.を取得。その後帰国まで、ニューヨーク市政調査会で調査研究にあたる。
小池 卯一郎(こいけ ういちろう、1891年(明治24年)3… 小池 卯一郎(こいけ ういちろう、1891年(明治24年)3月 - 1972年(昭和47年)4月2日)は、日本の実業家。官選和歌山県知事。 福井県大野郡大野町(現大野市)出身。小池末五郎の長男として生まれる。実家の小池家は代々機業を営み、父の代に葉煙草製造を業としていた。神戸高等商業学校を経て、1914年、東京高等商業学校(現一橋大学)専攻科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。大阪商船に入社した。以後、神戸支店南洋課長、本店船客課長、秘書役などを務め、1922年に退職。 以後、中橋徳五郎の秘書となり、1927年4月、中橋が田中義一内閣の商工大臣に就任すると、その秘書官を務めた。1929年7月に退官し、同年11月、宇治川電気 (株) に入社。
菅 晴次(かん はるじ、1891年(明治24年)2月28日 … 菅 晴次(かん はるじ、1891年(明治24年)2月28日 - 1985年(昭和60年)4月20日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。旧姓は石塚。評論家の菅孝行は息子。 滋賀県の没落農家に生まれる。滋賀県立膳所中学校を経て、1913年(大正2年)5月26日、陸軍士官学校(25期)を卒業。士官学校の教官だった菅孝の養子となり石塚姓から改姓する。同年12月25日、陸軍砲兵少尉に任官。1916年(大正5年)11月30日、陸軍砲工学校高等科を首席で卒業し、東京帝国大学工学部造兵学科に派遣された。1920年代後半からフランスの軍需工場に5年派遣されてフランス語を習得する。 1936年(昭和11年)8月1日陸軍砲兵大佐に昇格すると共に陸軍造兵廠東京砲兵工廠精機製造所長に就任、同年12月1日陸軍省兵器局鉄砲課長となり、1939年(昭和14年)3月9日陸軍少将・陸軍省兵器局長兼大本営野戦兵器長官に就任した。
奥瀬 英三(おくせ えいぞう、1891年2月28日 - 19… 奥瀬 英三(おくせ えいぞう、1891年2月28日 - 1975年11月23日)は、三重県出身の洋画家。浦和画家の一人。示現会代表。瑞宝章受章者。 三重県上野村(現:伊賀市)に生まれ、画家を目指して上京。太平洋美術学校の教授になった。帝展にて連続して特選を受賞し、1929年には審査員となった。1931年には埼玉県浦和市に移住し、終生居住したことから浦和画家として知られている。戦後は山岳風景画を多く残している。新光洋画会や槐樹社、示現会の結成者の一人。蕨画塾講師。勲四等瑞宝章のほか埼玉新聞社から埼玉文化賞が贈られている。
森山 武市郎(もりやま たけいちろう、1891年(明治24年… 森山 武市郎(もりやま たけいちろう、1891年(明治24年)2月28日 - 1948年(昭和23年)2月29日)は、日本の検察官。 福岡県三潴郡大善寺村(現・久留米市)出身。1912年、明治大学法学部卒業。1916年、判事検事登用試験に合格して司法官試補となり、1918年に東京地方裁判所判事となる。1920年に退職してヨーロッパに留学し、スイスのベルン大学、ドイツのハイデルベルク大学で民法、商法、労働法を研究し、1923年帰国。検事に任じられ、司法省刑事局・行刑局に勤務。1932年法学博士の学位を取得。また、明治大学政経学部教授に就任。 検察官時代は、東京控訴院検事、宮城控訴院検事局検事長、大審院判事などを歴任。
瀧川 幸辰(滝川 幸辰、たきかわ ゆきとき、1891年(明治… 瀧川 幸辰(滝川 幸辰、たきかわ ゆきとき、1891年(明治24年)2月24日 - 1962年(昭和37年)11月16日)は、日本の法学者。法学博士。専門は刑法。岡山県出身。京都帝国大学教授。京都大学総長。日本学士院会員。正三位勲一等瑞宝章。音読みで「たきがわ こうしん」と呼ばれることもあった。 東京学派の小野清一郎とほぼ同時期にドイツ刑法学における構成要件の理論を日本に初めて紹介し、犯罪を構成要件に該当する違法有責な行為であるとする現在の日本の刑法学の基礎を築いた。 瀧川は違法性の実質について、当初M・E・マイヤーに倣って国家的条理違反としていたが、その後生活利益の侵害であると改説し、前期旧派・古典学派の立場を明らかにした。
瀧川 幸辰(たきがわ ゆきとき、1891年(明治24年)2月… 瀧川 幸辰(たきがわ ゆきとき、1891年(明治24年)2月24日 - 1962年(昭和37年)11月16日)は、日本の法学者。法学博士。専門は刑法。岡山県出身。京都帝国大学教授。京都大学総長。日本学士院会員。正三位勲一等瑞宝章。
倉田 百三(くらた ひゃくぞう / ももぞう)、1891年(… 倉田 百三(くらた ひゃくぞう / ももぞう)、1891年(明治24年)2月23日 - 1943年(昭和18年)2月12日)は、日本の劇作家、評論家で大正、昭和初期に活躍した。故郷の広島県庄原市には、倉田百三文学館がある。 広島県比婆郡庄原村107番屋敷(現庄原市本町)出身。
武者 金吉(むしゃ きんきち、1891年(明治24年)2月2… 武者 金吉(むしゃ きんきち、1891年(明治24年)2月22日 - 1962年(昭和37年)11月7日)は日本の地震学者、地理学者、英語教師。本業である英語教師としての業務のかたわら、独学で地震学を学んだ。ほとんど独力で膨大な量の歴史地震に関する史料を収集し、『増訂大日本地震史料』としてまとめた。 1891年(明治24年)2月22日(戸籍上は3月1日)、東京市本所区向島須崎町(現在の墨田区)に生まれる。浅田家の第4子であったが、間もなく武者家の養子となる。 府立三中を経て、1910年(明治43年)9月、早稲田大学文学部英文学科に入学。1911年7月と1912年7月の2回、首席となり早稲田大学特待生となって授業料を免除される。
秋山 徳三郎(あきやま とくさぶろう、1891年(明治24年… 秋山 徳三郎(あきやま とくさぶろう、1891年(明治24年)2月22日 - 1968年(昭和43年)2月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 兵庫県青垣町(現:丹波市)おいて[要出典]、秋山宝右衛門の二男として生まれる。柏原中学校卒を経て、1912年(明治45年)5月、陸軍士官学校(24期)を卒業。同年12月、工兵少尉に任官し工兵第10大隊付となる。1915年(大正4年)12月、陸軍砲工学校高等科を卒業。さらに陸軍派遣学生として東京帝国大学工科大学土木科で学び1919年(大正8年)7月に卒業した。その際、南清博士奨励記念賞を受賞している。 1920年(大正9年)4月、陸軍築城本部員となり、英仏駐在を経て、1924年(大正13年)10月、イギリス工兵校を卒業。
井上 孚麿(いのうえ たかまろ、1891年(明治24年)2月… 井上 孚麿(いのうえ たかまろ、1891年(明治24年)2月22日 - 1978年(昭和53年)3月27日)は、日本の歌人・法学者。台北帝国大学教授、法政大学教授、亜細亜大学教授。 長崎県平戸出身。父は井上寅之助、母はテイ(千浦庄七守本の長女)。 専門は憲法学。GHQ占領直後に日本国憲法無効論を唱えた。次男の井上實は東京銀行元頭取。 この項目は、法学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
甘蔗 義邦(かんじゃ よしくに、1891年〈明治24年〉2月… 甘蔗 義邦(かんじゃ よしくに、1891年〈明治24年〉2月21日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。 岐阜県に川上貞蔵の四男として生まれ、甘蔗義尭の養子となった。東京帝国大学法科大学政治科に学び、在学中の1917年(大正6年)に高等文官試験に合格し、翌年卒業した。朝鮮総統府試補、道事務官、平安南道財務部長、江原道警察部長、朝鮮総督秘書官を歴任し、1929年(昭和4年)に欧米各国に出張した。帰国後、警務局衛生課長、咸鏡南道内務部長、江原道内務部長を経て、1934年(昭和9年)に平壌税務監督局長に就任した。1936年(昭和11年)より京城府尹に、1937年(昭和12年)より京畿道知事となった。 1940年(昭和15年)に退官した後は、朝鮮放送協会会長を務めた。
室崎 琴月(むろざき きんげつ、1891年(明治24年)2月… 室崎 琴月(むろざき きんげつ、1891年(明治24年)2月20日 - 1977年(昭和52年)3月21日)は、日本の作曲家。本名は清太郎(せいたろう)。童謡「夕日」の作曲者。
美座 流石(みざ さすが、1891年(明治24年)2月18日… 美座 流石(みざ さすが、1891年(明治24年)2月18日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。 鹿児島県鹿児島市出身。東京帝国大学法科大学政治科に学び、在学中の1916年(大正5年)に高等文官試験に合格し、翌年卒業した。道事務官、税関監視官、税関事務官、専売局事務官、咸鏡北道警察部長、慶尚北道警察部長、慶尚南道警察部長を歴任し、1931年(昭和6年)に欧米各国に出張した。帰国後、平安南道内務部長を経て、1932年(昭和7年)に京畿道内務部長となり、さらに京城税務監督局長に転じた。1936年(昭和11年)より平安北道知事となった。 1939年(昭和14年)に退官した後は、朝鮮マグネサイト開発社長、咸南鉄道会長を経て、戦後は三幸建設工業に入り、副社長、顧問を歴任した。
小倉 末(おぐら すえ、1891年2月18日 - 1944年… 小倉 末(おぐら すえ、1891年2月18日 - 1944年9月25日)は岐阜県大垣市出身の日本のピアニスト。東京音楽学校(現東京芸術大学)教授。戦前日本を代表する女流ピアニストである。 小倉末は、1891年に小倉周一(元大垣藩士小寺専助五男)、紫登の三女として生まれた。幼い頃からドイツ人の義姉マリアよりピアノの手ほどきを受け、1910年3月に神戸女学院を卒業 (4期) した。その前後ですでに演奏活動を行っており、1905年から1911年までに東京音楽学校に学び、その間学内外で演奏を行った記録が残っている。 また、末は「日本最初の婦人ゴルファー」ともいわれている。15歳の時にゴルフ場を作ったアーサー・ヘスケス・グルームの持つ山荘で休憩する姿の写真が、神戸の六甲ゴルフ倶楽部のアルバムに「Miss sueko ogura」の書き込みと共に残されている。
田上 八郎(たのうえ はちろう、1891年(明治24年)2月… 田上 八郎(たのうえ はちろう、1891年(明治24年)2月17日 - 1948年(昭和23年)10月6日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 鹿児島県(現在の薩摩川内市上川内町)出身。士族・農業、田上亭二の二男として生まれる。川内中学校(現鹿児島県立川内高等学校)を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第13連隊付となる。1926年(大正15年)12月、陸軍大学校(38期)を卒業。 1927年(昭和2年)3月、歩兵第45連隊中隊長となり、陸士教官、歩兵第17連隊大隊長、陸軍歩兵学校教官、第16師団参謀、第1師団参謀、歩兵学校教官などを務め、1937年(昭和12年)8月、陸軍大佐に進級し歩兵第34連隊長に発令され日中戦争(上海派遣軍/松井石根大将)に出征し上海戦、南京戦などに参戦した。
高木 徳子(たかぎ とくこ、旧姓永井、1891年2月15日 … 高木 徳子(たかぎ とくこ、旧姓永井、1891年2月15日 - 1919年3月30日)は、日本のダンサーである。大正年間の一大ムーヴメントである「浅草オペラ」にアメリカ流のダンスで火をつけたことで知られる。トウシューズで踊った日本初のダンサーである。のちに離婚して「永井 徳子」(ながい とくこ)に戻る。 1891年(明治24年)、東京市神田区今川小路(現在の神田神保町)に生まれる。永井胆一の先妻の子であり、父親の永井は旧幕臣で、印刷局の技師をしていた。神田高等女学校を中退し、継母らの勧めで1906年に15歳で高木陳平と結婚し渡米、11月末ニューヨークに到着。 陳平は料理人、徳子はメイドとしてアメリカ人宅で働く。
山県 正郷(やまがた まさくに/せいごう、旧字体: 山縣 正… 山県 正郷(やまがた まさくに/せいごう、旧字体: 山縣 正鄕、1891年(明治24年)2月15日 ‐ 1945年(昭和20年)3月17日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。 山口県出身。山口県立徳山高等学校を経て1911年(明治44年)7月、海軍兵学校39期を席次5番で卒業。伊藤整一、遠藤喜一、高木武雄、そして山県本人も含めたこの期の4大将は全員中将で戦死し、死後に大将に特進している。 遠洋航海を終えて1912年(明治45年)3月より香取乗組に任じられ、砲術・水雷学校生徒を挟んで宗谷・扶桑・子日・平戸・浜風に相次いで乗組んだ。この間は主に水雷担当が多く、のちに航空に転じても戦闘機・偵察機より爆撃機・雷撃機を重視したことの下地になっている。
尾形 輝太郎(おがた てるたろう、1891年2月15日 - … 尾形 輝太郎(おがた てるたろう、1891年2月15日 - 1955年8月26日) は、日本の化学者。理化学研究所名誉研究員。帝国学士院賞受賞。 山形県上山町(現上山市)出身。1911年に山形師範学校を経て、1914年、広島高等師範学校卒業。1919年、東北帝国大学理学部物理学科入学。松生義勝と同時に同化学科に転じ、1922年に化学科を卒業し、理化学研究所へ入所。1927年理学博士。1941年帝国学士院賞受賞。1942年理化学研究所主任研究員。1955年定年退職、理化学研究所名誉研究員、星薬科大学教授。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
小林 政一(こばやし まさいち、1891年2月14日 - 1… 小林 政一(こばやし まさいち、1891年2月14日 - 1973年12月25日)は、日本の建築家、教育者。明治神宮外苑の建設に関わり、日本建築学会会長、千葉大学学長などを務めた。 1891年(明治24年)、茨城県稲敷郡の豪農の家に生まれる。竜ヶ崎中学校、第二高等学校を経て、1916年(大正5年)、東京帝国大学工学部建築学科卒業(高橋貞太郎、伊部貞吉、小倉強らと同年)。卒業後、大蔵省臨時建築局嘱託。 1919年、恩師佐野利器の推薦で明治神宮造営局技師(高橋貞太郎の後任)に就任、神宮外苑の施設建設(絵画館、競技場、水泳場、日本青年館など)に従事。関東大震災を乗り越え、外苑の整備に尽力する。 1926年に東京高等工業学校教授。