佐藤 友熊(さとう ともくま、1866年1月10日(慶応元年… 佐藤 友熊(さとう ともくま、1866年1月10日(慶応元年11月24日)- 1923年(大正12年)9月1日)は、明治から大正期の検察官、警察官僚。関東都督府警視総長、札幌区長。夏目漱石の友人。 薩摩国給黎郡喜入郷前之浜村(現鹿児島県鹿児島市喜入前之浜町)で、神官・佐藤彦松、比佐夫妻の長男として生まれる。1883年頃に上京し、東京大学予備門受験準備のため成立学舎に入り英語を学び、夏目漱石と交流。牛乳配達、新聞配達などをしながら学費を稼いだ。1884年9月、東京大学予備門予科に入学し、「成立学舎」の出身者らを中心に夏目漱石、中川小十郎、太田達人、中村是公、橋本左五郎らとともに「十人会」を組織した。
湯河 元臣(ゆかわ もとおみ、慶応元年11月24日(1866… 湯河 元臣(ゆかわ もとおみ、慶応元年11月24日(1866年1月10日) - 昭和7年(1932年)9月25日)は、日本の逓信官僚。 静岡県士族の後藤家に生まれ、湯河はまの養子となった。1884年(明治17年)に司法省法学校に入学し、1893年(明治26年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。逓信属となり、逓信事務官、高等海員審判所審判官、逓信書記官、逓信参事官、海事局長、高等海員審判所長、管船局長を歴任した。1914年(大正3年)、逓信次官に就任。 退任後は日本郵船株式会社取締役や近藤記念海事財団理事長などを務めた。
西山 安久作(西山 阿久作、にしやま あくさく、1866年1… 西山 安久作(西山 阿久作、にしやま あくさく、1866年1月10日〈慶應元年11月24日〉 - 没年不明)は、日本の政治家、地主・家主、会社役員。東京府北豊島郡西巣鴨町長。 東京市に西山家の長男として生まれる。1887年、家督を相続する。信用組合事務員、会社員になる。金融業を営む。 北豊島郡会議員、豊島信用組合長、氷川神社氏子総代、帝国種苗殖産監査役をつとめる。 また1915年4月23日に巣鴨村長に就職、1923年4月21日に西巣鴨町長を退職。 宗教は浄土宗。趣味は碁。住所は東京府北豊島郡西巣鴨町字池袋(のち東京都豊島区池袋1丁目)。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
森 正隆(もり まさたか、1866年1月9日(慶応元年11月… 森 正隆(もり まさたか、1866年1月9日(慶応元年11月23日) - 1921年(大正10年)10月28日)は、日本の内務官僚、政治家。政友会系県知事、貴族院議員。 米沢藩下士・遠藤庄右衛門の二男として生まれ、秋田県書記官・森長義の養子となる。第一高等学校を経て、1893年7月、帝国大学法科大学法律学科(仏法)を卒業。司法官試補となる。同年11月、内務属となり警保局に配属された。 1894年6月、香川県参事官・第一課長兼第三課長に就任。以後、新潟県参事官、長野県・香川県・千葉県・和歌山・三重県・熊本県の各書記官、熊本県第一部長、静岡県第一部長などを歴任。 1907年10月、茨城県知事に就任。
石渡 坦豊(いしわた やすとよ、1866年1月6日(慶応元年… 石渡 坦豊(いしわた やすとよ、1866年1月6日(慶応元年11月20日) - 1937年(昭和12年)2月)は、明治後期から昭和時代初期の政治家。教育者。神奈川県横須賀市長、三浦郡豊島町長。 石渡養泰の二男として相模国三浦郡公郷村(神奈川県三浦郡豊島村、豊島町を経て現横須賀市)に生まれる。1886年(明治19年)神奈川県師範学校を卒業し、三浦郡不入斗学校の教員となる。三浦郡教育会設立の先頭に立ち、1888年(明治21年)実現させた。1892年(明治25年)豊島町長となり、1906年(明治39年)まで務め、尋常高等豊島小学校(現横須賀市立豊島小学校)や横須賀・豊島両町組合立横須賀実業補習学校(現横須賀市立工業高等学校)の設立に尽くした。
福田 善三郎(ふくだ ぜんざぶろう、1866年1月1日(慶応… 福田 善三郎(ふくだ ぜんざぶろう、1866年1月1日(慶応元年11月16日) - 1924年(大正13年)10月26日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 岩手県出身。1890年、明治法律学校卒。農業と養蚕業を営む。紫波郡長岡村(現・紫波町)会議員、岩手県会議員となる。また、長岡村農会長、岩手県農会議員、大成信用組合長を務めた。 1908年の第10回衆議院議員総選挙において岩手県郡部から憲政本党公認で立候補したが次点で落選した。1912年の第11回衆議院議員総選挙では立憲国民党公認で立候補してトップ当選した。衆議院議員を1期務め、1915年の第12回衆議院議員総選挙では立憲同志会公認で立候補したが落選した。
五世 浜村 蔵六(ごせい はまむら ぞうろく、男性、慶応2年… 五世 浜村 蔵六(ごせい はまむら ぞうろく、男性、慶応2年(1866年) - 明治42年(1909年)11月25日)は、明治期の日本の篆刻家である。 名は裕、字は有孚、蔵六を号し、別号に無咎道人・彫虫窟主人。通称立平。陸奥国弘前出身。 三谷大足の次男として生まれ、東奥義塾で洋学を修めた。23歳のとき上京。金子蓑香に篆刻を学び、その後四世浜村蔵六の門下となる。四世蔵六に継嗣がいなかった為請われてその養子となり、明治27年(1894年)5月浜村蔵六を嗣ぎ、永らく向島に住む。各地を遊歴後、二度にわたって清国を訪問。康有為ら政治家と親交した。また呉昌碩や徐三庚と交わり、その奥義を伝えられる。このため浜村家に代々伝えられた印法が変容したとされるが、四世蔵六のとき代々伝えられた印籍類が火災で焼失したことが原因とも考えられる。
アリス・ペティ・アダムス(Alice Betty Adams… アリス・ペティ・アダムス(Alice Betty Adams、1866年?-1937年)は、アメリカのアメリカン・ボード宣教師。ニューハンプシャー州出身。医療・社会福祉に従事し、石井十次、留岡幸助、山室軍平とともに「岡山四聖人」と称される。
太田 達人(おおた たつと、1866年 - 1945年)は、… 太田 達人(おおた たつと、1866年 - 1945年)は、陸奥国岩手郡東中野村(現盛岡市)出身の教育者。父は盛岡藩の武士。夏目漱石とは大学予備門時代からの親友で、晩年の自伝的作品「硝子戸の中」で友達「O」として登場している。
結城 林蔵(ゆうき りんぞう、1866年-1945年)は、明… 結城 林蔵(ゆうき りんぞう、1866年-1945年)は、明治・大正・昭和期にかけての日本の写真技術家(製版術・写真工芸)。 『幕末明治の写真師 総覧』によれば、新潟県六日町(現在の南魚沼市)の出身である。昭和9年版(1934年)の『日本人事名鑑』記載の「結城林蔵」の項によれば、慶応2年2月(西暦1866年3月下旬または4月上旬)新潟県の久保田勘治の二男として出生し、明治19年(1886年)同県農業学校を卒業。結城義節の養子となり養父義節の二女とめと結婚して(養子・結婚の時期は不明)結城家の家督を明治28年(1895年)に相続している。 結城の卒業した新潟県農業学校がいかなるものかは不明。因みに、旧制新潟県立農林学校は1903年の創立とされていて該当しない。
蘆野 敬三郎(あしの けいざぶろう、1866年(慶応2年) … 蘆野 敬三郎(あしの けいざぶろう、1866年(慶応2年) - 1941年(昭和16年)2月17日)は、数学天文学者、海軍大学教授、理学士、気象関係従事者。従三位勲二等。 慶應義塾幼稚舎を経て東京帝国大学理学部卒業。学生のとき1887年(明治20年)8月の皆既日食を白河にて、アメリカの天文学者トッド博士の通訳兼協力者として菊池大麓と共に観測に参加。 1900年(明治33年)文部省が行ったローマ字表記調査委員となり、上田萬年、磯田良、大西祝、神田乃武、金子銓太郎、小西信八、藤岡勝二、高楠順次郎、湯川寛吉、渡部董之介の11名で報告。 日本数学物理学会会員。長く海軍大学教授を務め、退官後、理化学研究所の図書の係を務めた。
留岡 夏子(とめおか なつこ、旧姓:森峰(もりみね)、186… 留岡 夏子(とめおか なつこ、旧姓:森峰(もりみね)、1866年(慶応2年) - 1900年(明治33年)4月30日)は留岡幸助の前妻。社会福祉活動家。現在の岡山県出身。 1866年(慶應2年)、備中国川上郡下切村(のち、倉敷県川上郡下切村→深津県川上郡下切村→小田県川上郡下切村→岡山県川上郡玉川村、現・高梁市玉川町下切大成)の森峰定五郎と妻・むめの11番目の末っ子として誕生した。1879年(明治12年)養子・留岡幸助の嫁になるため、夏子が13歳のとき留岡金助の養女として引き取られた。同年、幸助が座敷牢に入れられているのを助け出し、幸助は四国の今治へ逃れた。その後、留岡家を出て夏子の実家に帰るが、再び高梁の須藤英江医師のもとへ奉公に出た。
滋賀 重列(しが しげつら、1866年 - 1936年)は日… 滋賀 重列(しが しげつら、1866年 - 1936年)は日本の建築家。
香村 小録(こうむら ころく、1866年 - 1938年)は… 香村 小録(こうむら ころく、1866年 - 1938年)は、石川県出身の技師であり工学博士。黎明期の日本製鉄界を牽引し、日本鉄鋼協会会長も務めた。 旧加賀藩で与力を務めた香村金六の長男として1866年12月5日(慶応2年10月29日)金沢の柿木町で出生。1871年(明治4年)に幼くして父を亡くし同年9月に家督を相続。同地で中学まで過ごす。身体は弱いが勉強を得意とした小録は1884年(明治17年)9月に東京大学予備門へ入学。第一高等学校に移った後、1889年(明治22年)9月に東京帝国大学工科大学へ進学。1892年(明治25年)7月に同大学採鉱冶金科を卒業して農商務省に入省すると、技師試補として製鉄事業調査会の事業であった耐火煉瓦の調査研究に従事した。
間宮 八重(まみや やえ、1866年(慶応2年) - 195… 間宮 八重(まみや やえ、1866年(慶応2年) - 1958年(昭和33年)1月12日)は、日本の医師、農場経営者。 陸奥国石川郡(現在の福島県棚倉町)生まれ。東京女子師範学校(現お茶の水女子大学)卒業後、済生学舎(日本医科大学)にて医学を学び、1887年(明治20年)医師前期試験に合格、1890年(明治23年)医術開業試験に合格。1891年(明治24年)内務省医籍登録。1892年(明治25年)本郷に医院を開業した。荻野吟子や吉岡彌生とならぶ明治時代初期の女性医師の一人である。 1899年(明治32年)、兄の北海道庁在職中の部下であった林田成一と結婚。1908年(明治41年)、夫が入植していた北海道十勝郡生剛村(現在の北海道十勝郡浦幌町字幾千世)へ移り、以後農場経営の一翼を担いながら、家屋の一部を診療所とし、無医村だった生剛村で病人の治療にあたった。
三鬼 鑑太郎(みき かんたろう、1866年 - 1943年)… 三鬼 鑑太郎(みき かんたろう、1866年 - 1943年)は福島県出身の士族。岩手軽便鉄道の社長及び衆議院議員を務めた。 幕末の半田銀山役人であった三鬼莞の息子として、1866年6月9日(慶応2年4月26日)後の福島県伊達郡桑折町で出生。旧二本松藩の儒学者である堀退蔵の私塾にて漢学を修めた後、上京して明治法律学校で学ぶ。1888年(明治21年)12月に優秀な成績で卒業。岩手県で官職に就き会計課長、また同県下閉伊郡や和賀郡の郡長などを務めた。その後、花巻と仙人峠を結ぶ花巻軽便鉄道の建設を目指すが、実現には至らず。1914年(大正3年)6月に官職を辞すと、岩手軽便鉄道に常務取締役として招かれ 、後に社長就任。
星野 甚右衛門(甚右衞門、ほしの じんうえもん、1866年(… 星野 甚右衛門(甚右衞門、ほしの じんうえもん、1866年(慶応元年12月) - 1919年(大正8年)2月12日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 出雲国神門郡鵜鷺村(のち島根県簸川郡大社町、現・出雲市)生まれ。漢学と数学を修め、上京し、1883年、東京英学校に入り、のち、東京専門学校に入り、1890年に政治学科を卒業する。農業を営む。鵜鷺村会議員、簸川郡会議員、島根県会議員、徴兵参事員となる。また、星野(合)業務担当人、松江米穀株式取引所理事長、簸川銀行、山陰生命保険、松江造船各取締役、出雲商業銀行頭取を務めた。 1898年8月の第6回衆議院議員総選挙において島根1区から無所属で立候補して当選する。
伊藤 啓一郎(いとう けいいちろう、1866年(慶応2年4月… 伊藤 啓一郎(いとう けいいちろう、1866年(慶応2年4月) - 1965年(昭和40年)11月21日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 出雲国神門郡神西村(のち島根県簸川郡神西村、現・出雲市)生まれ。1889年、島根尋常師範学校(のち島根師範学校)卒。農業の傍ら、南画を田能村直入と塩田鉄香に学び、書画を作成する。1939年に神武天皇聖徳奉体会を提唱し、橿原神宮聖域画讃を頒布する。 1898年3月の第5回衆議院議員総選挙において島根3区から無所属で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、同年8月の第6回衆議院議員総選挙では憲政党から立候補して落選した。1965年に死去した。
平田 吉胤(ひらた よしたね、1866年(慶応2年7月)- … 平田 吉胤(ひらた よしたね、1866年(慶応2年7月)- 1937年(昭和12年)2月25日)は、明治から昭和前期の地主、実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。旧姓・北。 豊前国宇佐郡、のちの大分県宇佐郡駅館村(駅川村、駅川町を経て現宇佐市)で北鉄十郎の二男として生まれた。国東郡草地村(現豊後高田市)の涵養舎で漢学を修め、同志社英学校、札幌農学校を経て東京専門学校で学んだ。1891年(明治24年)下毛郡城井村(耶馬溪村、中耶馬溪村、耶馬溪村、耶馬溪町を経て現中津市耶馬溪町)の素封家・平田カス(故猛郎の妻)の養子となり、1899年(明治32年)家督を相続した。 家業の農業を営む。道路・橋梁の整備に寄付を行い、水田の開墾、耶馬溪の観光開発を行うなど地域の発展に尽力した。
角替 九郞平(つのがえ くろへい、1866年〈旧暦慶応2年1… 角替 九郞平(つのがえ くろへい、1866年〈旧暦慶応2年1月〉 - )は、日本の農家、政治家、銀行家。名の「郞」はJIS X 0208では「郎」と同一の区点が割り当てられているため、角替 九郎平とも表記される。 静岡県小笠郡土方村会議員、静岡県小笠郡土方村長、株式会社内田銀行頭取などを歴任した。 静岡県小笠郡土方村で農業を営んでいたが、政治家に転身し土方村会の議員に就任した。さらに土方村の村長に就任するなど、公職を歴任した。その後、内田銀行の頭取に就任するなど、銀行家としても活動した。 1866年(旧暦慶応2年1月)に角替九郞次の長男として生まれた。静岡県小笠郡土方村で農業を手広く手掛けており、角替家は豪農として知られていた。
田代 保之(たしろ やすゆき、1866年(慶応2年2月) -… 田代 保之(たしろ やすゆき、1866年(慶応2年2月) - 1941年(昭和16年)7月12日)は、明治から昭和時代戦前の政治家。貴族院多額納税者議員。 肥後国玉名郡横島村(熊本県玉名郡横島村、横島町を経て現玉名市)出身。田代岩彦の長男として生まれ、1886年(明治19年)家督を相続する。 農業を営み、1896年(明治29年)以降、玉名郡会議員、熊本県会議員、同参事会員を歴任した。ほか玉名銀行、肥後米券社重役を務めた。 1904年(明治37年)熊本県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1907年(明治40年)9月13日まで務めた。
稲田 清淳(いなだ きよあつ/せいじゅん、1866年 - 1… 稲田 清淳(いなだ きよあつ/せいじゅん、1866年 - 1905年2月12日)は、日本陸軍の軍人、政治家。最終階級は陸軍三等軍医(少尉相当官)。郡会議員(副議長)。正七位勲六等。 稲田正純(陸軍中将)、坂西一良(陸軍中将)の父。 鳥取県日野郡黒坂村(現在の日野町)出身。 明治20年(1887年)医学を志し、大阪に出て内外の諸科を修めた。明治22年(1889年)医術開業試験に及第。明治27年(1894年)郷里に戻って開業する。明治29年(1896年)台湾に赴き公医に挙げられた。後郷里に戻って業に復す。 事務に精通していたため、郡会議員に選ばれ、其の副議長となった。 明治37年(1904年)日露戦争の際、官医員の募集に応じ第10師団に属して見習医官となる。
辰沢 延次郎(たつざわ えんじろう、慶応元年11月14日(1… 辰沢 延次郎(たつざわ えんじろう、慶応元年11月14日(1865年12月31日) - 1931年(昭和6年)10月16日)は日本の実業家、政治家。東京市会議員。 静岡藩士、石渡栄次郎の二男として江戸(後の東京市京橋区新船松町(霊岸島)、現東京都中央区新川)に生まれる。辰沢豊三郎の養子となった後、1877年(明治10年)1月家督相続。攻玉社中学を経て、1885年(明治18年)東京商船学校航海科卒業、海運業界に入る。当初は運転士として海上勤務だったが入社先が日本郵船に改称すると陸上勤務に転じる。同社は艀船部を廃止して京浜艀船受負事務所を新設、辰沢は同社を退職して1897年(明治30年)に事務所と同じ所在地に辰沢回漕店を開業、自ら海運業を営み、日本郵船から事業を受け継いで京浜間の貨物輸送を嘱託されていた。
秋 乕太郎(あき とらたろう、1865年12月31日(慶応元… 秋 乕太郎(あき とらたろう、1865年12月31日(慶応元年11月14日) – 1922年(大正11年)12月15日)は、衆議院議員(憲政会)。秋虎太郎とも書く。 下総国葛飾郡関宿町(千葉県東葛飾郡関宿町を経て現野田市)で関宿藩士秋汲平の子として生まれる。明倫学舎と紫溟学舎で学んだ。小学校教員や新聞記者を経て、1890年(明治23年)、本郷区会議員に当選。以後、連続当選を重ね、議長にも就任した。1891年(明治24年)には東京府会議員に当選し、1896年(明治29年)には東京市会議員に、当選した。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。 その他、禅徒生命保険株式会社取締役、東京医学講習所(現在の東京医科大学)主幹などを務めた。
瀧川 資言(たきがわ すけのぶ、慶応元年11月12日(186… 瀧川 資言(たきがわ すけのぶ、慶応元年11月12日(1865年12月29日) - 1946年(昭和21年)2月23日)は、日本の漢学者。戸籍名は龜太郎(かめたろう)、字は資言、号は君山。『史記会注考証』(『史記』の注釈書)を編纂したことで知られる。 1865年(慶応元年)11月12日に出雲国島根郡(現・松江市中原町)にて士族であった杢之丞の長男として生を受けた。1882年(明治15年)旧制松江中学を中退し上京。島田篁村の双桂精舎で学んだ後、1887年(明治20年)、東京帝国大学古典講習科漢書課卒業。 1897年(明治30年)に第二高等学校教授、1926年(大正15年)に大東文化学院教授となる。
小塩 八郎右衛門(こしお はちろうえもん、1865年12月2… 小塩 八郎右衛門(こしお はちろうえもん、1865年12月27日(慶応元年11月10日) - 1947年(昭和22年)1月17日)は、明治時代から昭和時代初期の政治家、銀行家。貴族院多額納税者議員、衆議院議員。前名は堅作。 小塩八郎右衛門寛蔵利殖の長男として、相模国大住郡戸田村(神奈川県中郡相川村を経て現・厚木市)に生まれる。1883年(明治16年)10月、家督を相続し前名を改め八郎右衛門を襲名した。小笠原東洋に漢学を学ぶ。農業を営み、相川村収入役、同村長、神奈川県会議員、地方森林会議員、県農会副会長、徴兵参事員、所得調査委員を歴任する。ほか、神奈川県農工銀行頭取、産業組合中央会支部長を務めた。
矢野 猪之八(やの いのはち、慶応元年11月9日(1865年… 矢野 猪之八(やの いのはち、慶応元年11月9日(1865年12月26日) - 昭和3年(1928年)3月31日)は、日本の政治家。元徳島市長。弁護士。 阿波国名東郡富田浦町(現在の徳島県徳島市)出身。1887年(明治20年)、東京帝国大学別科法学部を卒業。1895年(明治28年)、検事となり、大垣区裁判所検事、岐阜地方裁判所検事、台湾総督府法院判官、台湾覆審法院判官、台南地方法院判官、台湾覆審法院部長を歴任した。1910年(明治43年)に退職した後は、台北市で弁護士を開業した。 1915年(大正4年)の第12回衆議院議員総選挙に出馬するが落選。 1926年(大正15年)に武市彰一に代わって徳島市長に就任、翌1927年(昭和2年)まで市長を務めた。
廣田 理太郎(ひろた りたろう、1865年12月23日(慶應… 廣田 理太郎(ひろた りたろう、1865年12月23日(慶應元年11月6日) - 1935年(昭和10年)9月2日)は、日本の工学者、実業家、教育者。 広島県福山市出身。廣田家は代々備後福山藩の勘定役を勤めた家系であった。県立広島中学(現・広島県立国泰寺高校)を経て東京帝国大学機械科卒業。帝大の技術者の第一期の卒業生で技術者のはしり。当時は機械そのものが外国から輸入され、参考書や説明書も全て外国から取り寄せるため英語は不可欠だった。帝大在学中の1886年、学友と東京理科大学の生徒計4人で自転車会を設立。これは日本で最初の自転車クラブともいわれ、金を出し合って購入したオーディナリー型自転車を廣田らが日本人で初めて乗ったともいわれる。
小田柿 捨次郎(おだがき すてじろう、慶応元年11月6日(1… 小田柿 捨次郎(おだがき すてじろう、慶応元年11月6日(1865年12月23日) - 昭和3年(1928年)3月5日)は、日本の実業家。三井物産で大正海上火災保険の設立にあたった。 近江国彦根藩出身。3歳のとき父が死去したため、遠縁の相馬永胤のもとに寄宿し、1891年高等商業学校(現・一橋大学)卒業。同年三井物産に入社し、上海支店詰となった。 サンフランシスコ出張員を務めていた1900年には、親友の正田貞一郎の依頼を受け製粉機械の輸入を行い、館林製粉の設立に協力した。 三井物産シンガポール支店詰、三池炭鉱詰、口ノ津支店支配人等を経て、1908年参事長。1909年営業部長。1911年木材部長兼小樽支店長。
亀岡 末吉(かめおかすえきち、慶応元年11月4日〈1865年… 亀岡 末吉(かめおかすえきち、慶応元年11月4日〈1865年12月21日〉- 1922年〈大正11年〉11月26日)は、日本近代の建築家。従五位。作品は独特の意匠で知られ「亀岡式」と呼ばれる。 慶応元年(1865年)に前橋藩士の子として生まれる。明治維新後は画家を志し、東京美術学校絵画科に入学して日本画の技術を習得。1894年(明治27年)に同校を卒業。1901年(明治34年)からは内務省の古社寺調査に携わり、寺社の修理に従事。1907年(明治40年)には京都府技師となり、平等院鳳凰堂の修理を行った。京都では東福寺の方丈や東本願寺、仁和寺の門など幕末の動乱の中で焼失した建物を再建。1913年(大正2年)には京都府左京区神楽岡(吉田山 (京都市))に自邸を建築。
松浦 有志太郎(まつうら うしたろう、1865年12月19日… 松浦 有志太郎(まつうら うしたろう、1865年12月19日(慶応元年11月2日) - 1937年(昭和12年)8月28日)は、京都帝国大学皮膚科教授を務め、正円形粃糠疹という疾患を命名した。定年前に大学を辞し、禁酒、廃娼運動に没頭した。 熊本県宇土郡松合村(現・宇城市)で、松浦鉄次の3男として生まれた。命名の理由は慶応元年が丑年であったからである。1875年より1880年まで福田元澤、守田文毅の門に学ぶ。 同年1月まで東京本郷のドイツ学校に学び、同年11月東京帝国大学医学部予科入学1888年7月卒業、直ちに東京帝国大学医科大学に入学、1892年11月首席で卒業した。1893年2月同学助手。1895年5月、県立熊本病院外科部長。
増子 喜一郎(ますこ きいちろう、1865年12月19日(慶… 増子 喜一郎(ますこ きいちろう、1865年12月19日(慶応元年11月2日)- 1924年(大正13年)2月11日)は、日本の教育家である。 越後に生まれ、帰郷して苦学を重ねた後に上京する。後に当時大日本帝国海軍少将だった世良田亮からの援助を受け、1887年(明治20年)に世良田が清朝へ派遣されたことによりその従者として彼と共に天津で同朝の研究に携わった。1890年(明治23年)に帰国し、その後は東京専門学校(現在の早稲田大学)政治科に入学する。 1893年(明治26年)に卒業後は同校の舎監を務め、後に早稲田尋常中学校(現在の早稲田中学校・高等学校)の創立時の際にその事務として活動する。その後は同校の幹事に就任し、その経営の傍らで1924年(大正13年)に死去するまで日中提携の信条に基づいて同校に通学する中国人留学生の庇護にもあたった。
宇佐美 一宝(一寶、うさみ いっぽう / かずとみ、1865… 宇佐美 一宝(一寶、うさみ いっぽう / かずとみ、1865年12月18日(慶応元年11月1日)- 1953年(昭和28年)12月5日)は、明治期から昭和前期の農業経営者、政治家。衆議院議員、山梨県東八代郡境川村長。 甲斐国八代郡小黒坂村(山梨県東八代郡五成村、境川村を経て現笛吹市境川町小黒坂)で、宇佐美太兵衛の長男として生まれる。漢学、英学を学んだ。1879年(明治12年)家督を相続し農業を営む。 1891年(明治24年)郡制施行後の初代東八代郡会議員に選出された。1899年(明治32年)山梨県会議員に当選し2期在任。その他、境川村長(5期)、境川村会議員、所得税調査委員、地方森林会議員、山梨県農会代表員、山梨山林会副会長、大日本山林会評議員、日本赤十字社特別社員などを務めた。
4代 大家 七平(おおや / おおいえしちへい、1865年1… 4代 大家 七平(おおや / おおいえしちへい、1865年12月15日(慶応元年10月28日)- 1929年(昭和4年)1月29日)は、明治・大正期の海事実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。旧姓・広海。 船持商人・4代広海二三郎の息子として加賀国江沼郡瀬越村(石川県江沼郡大聖寺町瀬越を経て、加賀市大聖寺瀬越町)で生まれた。同じ瀬越の有力船持商人・3代大家七平が1886年(明治19年)に死去し、その死跡を継いで4代大家七平を襲名した。 拠点を大阪に移し、持船の汽船への転換を進めた。1896年(明治29年)逓信省より新潟とウラジオストク間、函館とコルサコフ間の航路(命令航路)を開設。1902年(明治35年)には汽船2隻、西洋型帆船5隻を所有していた。
神津 邦太郎(こうづ くにたろう、1865年12月11日(慶… 神津 邦太郎(こうづ くにたろう、1865年12月11日(慶応元年10月24日) - 1930年(昭和5年)12月2日)は、日本の酪農家、銀行家、政治家。日本で最初の西洋式牧場の開設者。長野県平民。牧畜業。神津宗家20代。子孫には東京税理士会会長の神津信一税理士がいる。 信濃国佐久郡志賀村(現在の長野県佐久市志賀)の豪農の家に生まれた。信州で指折りの豪農であった神津家は、代々九郎兵衛を名乗る「黒壁家」と、17世紀後半に分かれた「赤壁家」がある。邦太郎は「黒壁家」の出身である。神津家は先代九郎兵衛より家道大に振るう。 邦太郎は村の小学校である志仁学校を卒業すると、1881年東京へ出て慶應義塾に入った。
大島 久満次(おおしま くまじ、1865年12月10日〈慶応… 大島 久満次(おおしま くまじ、1865年12月10日〈慶応元年10月23日〉- 1918年〈大正7年〉4月27日)は、日本の台湾総督府・内務官僚、政治家。台湾総督府民政長官、神奈川県知事、衆議院議員。 豪農・永井匡威の五男として尾張国に生まれ、一等警視・大島正人の養子となる。1888年(明治21年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業し衆議院書記官となる。1889年(明治22年)5月、高等試験に合格し法制局参事官試補となり、法制局参事官を務めた。1894年(明治27年)3月、大島に改姓した。 1896年(明治29年)、台湾総督府に転じ、民政局参事官、兼製薬所長、警視総長、総務局長などを歴任。同総督府の文官ナンバーツーで、同じ法制局官僚出身の石塚英蔵に次ぐ反後藤新平民政長官派の高官であり、石塚の関東州民政署民政長官転出後は、反後藤派官僚の筆頭となった。
尾野 實信(おの みのぶ、1865年12月2日(慶応元年10… 尾野 實信(おの みのぶ、1865年12月2日(慶応元年10月15日) - 1946年(昭和21年)4月19日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。A級戦犯として絞首刑となった武藤章(陸軍中将)は娘婿。 筑前国(朝倉郡甘木。現・福岡県朝倉市)出身。黒田藩士尾野実治の長男として生れる。1888年(明治21年)7月、陸軍士官学校(旧10期)を卒業し、歩兵少尉に任官、歩兵第14連隊小隊長に就任した。1896年(明治29年)3月、陸軍大学校(10期)を首席で卒業した。日清戦争出征のため、陸大を一時中退し戦後に復校している。参謀本部員、ドイツ駐在、中部都督部参謀、大本営参謀などを歴任。 日露戦争では、満州軍参謀兼大山巌元帥副官として出征し、さらに満州軍総兵站監部参謀となった。
石原 和三郎(いしはら わさぶろう、慶応元年10月12日〈1… 石原 和三郎(いしはら わさぶろう、慶応元年10月12日〈1865年11月29日〉 - 大正11年〈1922年〉1月4日)は日本の作詞家。号に、翠江、万岳。「兎と亀」「花咲爺」「金太郎」などの童謡の作詞で知られる。 上野国勢多郡東村花輪(現・群馬県みどり市東町花輪)に、父・伝六、母・さだの長男として生まれる。花輪小学校に学び、1881年(明治14年)に高等小学校を卒業。日本鋼管の創立者・今泉嘉一郎は同郷の友人。 1885年(明治18年)に花輪小学校教員となり、1887年(明治20年)群馬県師範学校入学。1891年(明治24年)に卒業し、花輪小学校校長に任命された。 1894年(明治27年)に『小学校歌集註解』を出版。
平井 毓太郎(ひらい いくたろう、1865年11月28日(慶… 平井 毓太郎(ひらい いくたろう、1865年11月28日(慶応元年10月11日) - 1945年(昭和20年)1月12日)は、日本の医学者、小児科医。京都帝国大学教授。旧姓木場。三重県出身。 娘・照子の婿・平井金三郎は岩村高俊の三男。
杉野 文彌(すぎの ぶんや、慶應元年10月10日〈1865年… 杉野 文彌(すぎの ぶんや、慶應元年10月10日〈1865年11月27日〉-1932年〈昭和7年〉6月24日)は、日本の弁護士。江北図書館創設者。 慶應元年10月10日(1865年11月27日)、滋賀県伊香郡に中山新右衛門の二男として生まれた。1884年(明治17年)に滋賀師範学校(現・滋賀大学教育学部)を卒業し、大阪府で教員となったものの、法律家を志して上京し、東京法学院(現・中央大学)に学んだ。 1891年(明治24年)に代言人試験に合格して代言人となり、1893年(明治26年)の東京弁護士会の創立時に会員となった。居住していた東京市下谷区では、1913年(大正2年)から1917年(大正6年)まで区議会議員を務めた。
中野 有光(なかの ありみつ、1865年11月23日〈慶応元… 中野 有光(なかの ありみつ、1865年11月23日〈慶応元年10月6日〉 - 1939年〈昭和14年〉4月11日)は、明治時代後期から昭和時代前期の政治家、警察官僚。統監府・朝鮮総督府官僚。関東都督府官僚。広島県福山市長。幼名は輝松。旧姓は広川。 安芸広島藩領御調郡、のちの美ノ郷村(現広島県尾道市)出身。広川忠蔵の長男として生まれ、のち中野半兵衛の養子となる。1894年(明治27年)和仏法律学校を卒業し、1902年(明治35年)高等文官試験に合格。翌年2月、山梨県属兼警部となり、警視庁属兼警部、大阪府警視を経て、1907年(明治40年)7月、富山県事務官に任じ警察署長となる。1909年(明治42年)2月、渡韓し警視となり、内務書記官を兼任したのち、統監府事務官兼警視、朝鮮総督府事務官を歴任し、1917年(大正6年)10月、青島守備軍民政部事務官に転じ、青島民政署長を任ぜられた。
福田 英子(ふくだ ひでこ、慶応元年10月5日(1865年1… 福田 英子(ふくだ ひでこ、慶応元年10月5日(1865年11月22日) - 昭和2年(1927年)5月2日)は、江戸時代末期(幕末)から昭和初期にかけての社会運動家。婦人解放運動のさきがけとして知られ、「東洋のジャンヌ・ダルク」と称された。旧姓は景山。
竹越 與三郎(たけこし よさぶろう、慶応元年10月5日(18… 竹越 與三郎(たけこし よさぶろう、慶応元年10月5日(1865年11月22日) - 昭和25年(1950年)1月12日)は、日本の明治から戦前昭和にかけての歴史家・思想史家・殖民学者・政治家。衆議院議員・枢密顧問官・貴族院勅選議員・宮内省臨時帝室編修局御用掛、同編修官長などを歴任し、戦後に公職追放指定を受け、一切の職を辞任。位階は正三位、勲等は勲一等。号は三叉(さんさ)。 明治・大正・戦前昭和の3つの時代に渡り言論界をリード。日刊雑誌『世界之日本』主筆を皮切りに、「世界の日本乎、亞細亞の日本乎」 を以て自由帝国主義に根差した独自の文明史観で多くの著述を行った。またイギリスのホイッグ史観の代表的歴史家のトーマス・マコーリーに影響を受け「新日本史」と「二千五百年史」を著述した竹越は「日本のマコウレー」と言われた。
不破 彦麿(ふわ ひこまろ、1865年11月21日(慶応元年… 不破 彦麿(ふわ ひこまろ、1865年11月21日(慶応元年10月4日) - 1919年(大正8年)9月2日)は、日本の農商務・内務官僚。官選佐賀県知事、山口県下関市長。族籍は福岡県士族。 筑前国福岡(現在の福岡県福岡市)荒戸町で、福岡藩士・不破国雄の長男として生まれる。1892年7月、帝国大学法科大学を卒業。同月、農商務試補に任官し参事官室に配属された。 以後、農商務参事官兼農商務大臣秘書官、同省特許局審判官、佐賀県事務官、兵庫県事務官・第一部長兼第三部長、東京府事務官・内務部長などを歴任。 1911年10月、佐賀県知事に就任。1914年6月9日、知事を休職。1917年10月、下関市長に就任。
中松 盛雄(なかまつ もりお、1865年11月20日〈慶応元… 中松 盛雄(なかまつ もりお、1865年11月20日〈慶応元年10月3日〉 - 1952年〈昭和27年〉7月21日)は、日本の官僚、弁護士、弁理士。第9代特許局長。日本基督教会理事長。化学工業協会会長。族籍は和歌山県士族。 中松克正の二男。1891年(明治24年)帝国大学法科大学英法科(現東京大学法学部)を卒業。農商務省に入る。1907年(明治40年)12月25日から1913年(大正2年)6月13日まで第9代特許局長を務めた。退官後、1914年(大正3年)に弁護士・弁理士登録し、同年7月1日に現在の中村合同特許法律事務所の前身にあたる中松特許法律事務所を開設した。日本共立火災保険取締役を兼ねる。
三並 良(みなみ はじめ、1865年11月20日(慶応元年1… 三並 良(みなみ はじめ、1865年11月20日(慶応元年10月3日) - 1940年(昭和15年)10月27日)は、日本のドイツ哲学者、牧師である。 1865年(慶応元年)、伊予国松山(現・愛媛県松山市)で漢学者・歌原邁の子として生まれた。長じて母方の三並家を継いだ。同郷の正岡子規の母の従弟であり、実家も近所であり、松山中学時代の子規が「五友」の一人に数えるなど共に育った。1880年、松山中学に入学。しかし半年で退学し、県立医学校に入学。1882年夏に東京に出て、9月に本郷原要義塾に入学してドイツ語を学んだ。1983年に獨逸学協会学校に入学。ドイツ普及福音教会のウィルフリード・スピンナーに感化され、影響を受けた。
謝花 昇(じゃはな のぼる、旧暦尚泰18年9月28日〈186… 謝花 昇(じゃはな のぼる、旧暦尚泰18年9月28日〈1865年11月16日〉 - 明治41年〈1908年〉10月29日)は、沖縄の社会運動家、自由民権運動家。帝国大学農科大学(現在の東京大学農学部)卒業。沖縄県初の農学士。東風平村(現:八重瀬町)出身。 東風平間切(現在の八重瀬町)の農家の出身。1882年(明治15年)に第1回県費留学生として上京し、学習院中等科に入学。中江兆民の教えを受ける。1885年(明治18年)から東京山林学校で学び、1891年(明治24年)に帝国大学農科大学を卒業。沖縄初の農学士となった。 卒業後、鹿児島県等の県外出身者が多数を占めていた沖縄県庁に技師として入り、沖縄の農政改革に務める。
木下 宇三郎(きのした うさぶろう、1865年11月15日〈… 木下 宇三郎(きのした うさぶろう、1865年11月15日〈慶応元年9月27日〉- 1946年〈昭和21年〉1月27日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功三級。 肥後国菊池郡、現在の熊本県菊池市で木下居中の長男として生まれ、1903年(明治36年)1月に家督を相続した。 1887年(明治20年)7月、陸軍士官学校旧9期を卒業し、陸軍砲兵少尉に任官。1892年(明治25年)12月、陸軍大学校(11期)に入学したが、日清戦争勃発のため退学し出征。1896年(明治29年)2月に復学し、1897年(明治30年)12月に卒業し参謀本部に配属された。日露戦争では第1軍作戦参謀として出征し、満洲軍が創設されると帰国し大本営陸軍部参謀を務めた。
清水 市太郎(しみず いちたろう、1865年11月14日〈慶… 清水 市太郎(しみず いちたろう、1865年11月14日〈慶応元年9月26日〉- 1934年〈昭和9年〉12月19日)は日本の衆議院議員(立憲政友会→政友本党)、弁護士。 尾張国知多郡鬼崎村(後の愛知県常滑市)出身。1889年(明治22年)に東京帝国大学法科大学を卒業し、イギリスのミドル・テンプルに留学した。帰国後に判事試補、海軍大学校教官、東京帝国大学法科大学講師を歴任し、日清戦争の際には捕獲審検所評定官を務めた。その後は法制局参事官を兼ね、退官後は弁護士を開業。 1899年(明治32年)には小栗富治郎の欧米視察に随伴した。1908年の第10回衆議院議員総選挙に出馬し当選。以後合わせて6期の当選を数えた。
上泉 徳弥(かみいずみ とくや、1865年11月13日(慶応… 上泉 徳弥(かみいずみ とくや、1865年11月13日(慶応元年9月25日) - 1946年(昭和21年)11月27日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 米沢藩士(興譲館教頭)・上泉清次郎の長男として生まれる。私立米沢中学校、攻玉社を経て、1886年12月、海軍兵学校(12期)を卒業し、1888年1月に海軍少尉任官。海軍大学校で丙号学生として学び、「日進」「葛城」「高千穂」の各分隊長、佐世保海兵団分隊長、呉鎮守府参謀、大連湾要港部副官、「龍田」分隊長、「済遠」砲術長などを経て、1897年12月、海大将校科(1期)を卒業し、さらに水雷術練習所で学んだ。 「鎮遠」水雷長、「八重山」副長、「敷島」回航委員・水雷長、「秋津洲」「千代田」の各副長、佐世保海兵団副長、竹敷要港部第2水雷敷設隊司令、「高砂」副長、軍令部副官、兼同第1局員などを歴任。