佐藤 信古(さとう しんこ、1873年(明治6年)2月10日… 佐藤 信古(さとう しんこ、1873年(明治6年)2月10日 - 1942年(昭和17年)9月7日)は、明治時代後期から昭和時代前期の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。衆議院議員(1期)。 佐藤祐太郎の子として山形県田川郡宮曽根村(東田川郡栄村、余目町を経て現庄内町)に生まれる。二松學舍を経て哲学館を修了する。1905年(明治38年)以降、北洋漁業取締役、共益倉庫社長などのほか、栄村会議員、東田川郡会議員、栄村長、東田川郡育英会理事長、同教育会理事長などを歴任した。この間、1912年(明治45年)5月の第11回衆議院議員総選挙では山形県郡部から立憲政友会所属で出馬し当選し、衆議院議員を1期務めた。
根岸 由太郎(ねぎし よしたろう、1873年2月10日 - … 根岸 由太郎(ねぎし よしたろう、1873年2月10日 - 1960年3月2日)は、日本の英文学者、教育者、翻訳家。立教大学文学部英文学科元教授、一般教養部元教授。 群馬県出身で、赤城山下の片田舎で育つ。 1883年から1990年頃に、憧れの地であった東京に出て、学ぶ場所を探す。当時、金持ちの友人は慶應義塾へ行き、タイトルを欲する者は東京大学に趣き、いわゆる書生たちは神田の私立学校や下宿にごろつき歩く世の中であった。由太郎は、英語が達者になりたいという一念で築地居留地をぶらついて、見つけたのが立教大学だった。 地元の群馬で、英語の素養として、辛うじてウィリアム・スウィントンの『万国史』の訳読が出来る程度であり、これまで外国人を見たことがなく、ましてや会話をする機会など全くなかったが、この頃、森有礼の方針で英語の研究が大いに高まった時代であった。
山口 恒太郎(やまぐち つねたろう、1873年(明治6年)2… 山口 恒太郎(やまぐち つねたろう、1873年(明治6年)2月10日 - 1941年(昭和16年)4月6日)は、明治末期から昭和初期にかけて活動した日本の実業家、政治家。和歌山県出身。 元は新聞記者。福岡市の福岡日日新聞主筆となった縁で福岡にて実業界に転身し、九州電灯鉄道常務や博多商業会議所(現・福岡商工会議所)会頭などを務める。政治家としては福岡市会議員を経て立憲政友会所属の衆議院議員となった。 山口の経歴は、九州電灯鉄道常務時代にともに同社常務を務めた松永安左エ門の著書『勇気ある自由』(要書房より1953年刊、うち214-231頁の「山口恒太郎君の憶い出」)に詳しい。以下、特記なき場合記述の出典は同書である。
国府 犀東(こくぶ さいとう、明治6年(1873年)2月5日… 国府 犀東(こくぶ さいとう、明治6年(1873年)2月5日 - 昭和25年(1950年)2月27日)は、戦前日本の記者、官僚、漢詩人。本名は種徳。石川県金沢市出身。新潟、台湾、東京で新聞記者を務めた後、内閣、宮内省、文部省等で地方改良運動、近代社格制度、詔勅起草、文化財行政等に関わった。また慶應義塾大学予科、旧制東京高等学校で漢文を講義した。 号は金沢西部を流れる犀川の東畔に生まれたことに由来する。対岸で生まれた室生犀星はこれを受けて犀西の意で犀星と名乗った。また、美術編集者坂井犀水の号も犀川による。 明治6年(1873年)、石川県石川郡金沢城下(金沢市竪町)の左官職鹿島家に生まれた。初名は長松。
太田 信治郎(おおた しんじろう、1873年(明治6年)2月… 太田 信治郎(おおた しんじろう、1873年(明治6年)2月5日 - 1957年(昭和32年)5月17日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。 東京府葛飾郡、のちの東京市深川区で、材木商・太田重吉の長男として生まれる。家業を継承し材木商を営む。 万信材木店社長、大日本林業社長、東京材木問屋組合役員、東京製材組合組長などを務めた。 政界では、深川区会議員、同議長、同学務委員、東京市会議員、内閣国有財産調査委員、同特別都市計画委員などに在任した。 1920年(大正9年)5月の第14回衆議院議員総選挙に東京府第4区から出馬して当選し、以後、第17回総選挙まで連続して再選された。1936年(昭和11年)2月の第19回総選挙でも再選され、立憲民政党に所属して衆議院議員に通算5期在任した。
大沼 保吉(おおぬま やすきち、1873年〈明治6年〉2月3… 大沼 保吉(おおぬま やすきち、1873年〈明治6年〉2月3日 - 1962年〈昭和37年〉10月22日)は、日本の造り酒屋経営者。政治家。寿虎屋酒造経営者(第8代)。千代寿虎屋酒造経営者(初代)。山形市長(第10代・3期)。山形県会議員(1期)。山形市会議員(4期)。山形市名誉市民(第1号)。山形商工会議所会頭(第6代)。山形県酒造組合連合会会長。山形市東南村山郡酒造組合組合長(初代)。 『いつも嘘は言わぬ』・『言った事には責任を持って実行する』が格言であった。
武内 大造(たけうち たいぞう、だいぞう、1873年2月3日… 武内 大造(たけうち たいぞう、だいぞう、1873年2月3日 – 1946年3月23日)は、日本のドイツ学者、ドイツ語教育者。東京外国語学校(旧制、現在の東京外国語大学)の教授として長年にわたり教鞭を執り、20世紀前半の日本におけるドイツ語教育の発展に寄与した人物である。 1873年(明治6年)2月3日、埼玉県草加町(現在の草加市)に、薬種商を営む武内作蔵と妻なみの次男として生まれる。東京帝国大学文科大学独逸文学科を1900年に卒業した。 同年、東京外国語学校の教授に任命された。1907年には第七高等学校造士館教授に転じ、1914年、再び東京外国語学校教授に就任した。1932年に同校を退官し名誉教授の称号を受けた後も、講師として1939年まで教壇に立った。
上田 寧(うえだ やすし、1873年2月2日 - 1949年… 上田 寧(うえだ やすし、1873年2月2日 - 1949年3月16日)は、日本の経営者。阪神電気鉄道の開業時に技術者として鉄道の敷設を行い、のちに阪神急行電鉄(現在の阪急電鉄)社長を務めた。 大分県下毛郡中津町(現・中津市)出身。大分中学校卒業後、山陽鉄道に就職し、豊州鉄道に転職。同社は九州鉄道と合併し、そのまま建設部主任として留まる。1903年(明治36年)、阪神電気鉄道に移り三崎省三の部下として阪神間に電気鉄道を敷設。翌1904年(明治37年)に阪神電鉄が開通すると阪鶴鉄道に技師長として招かれ、福知山事務所で路線延長に従事する。同線の国有化によって国有鉄道たる鉄道作業局の技師となり、引き続き福知山建設事務所で線路の測量や設計に携わった。
米田 庄太郎(よねだ しょうたろう、1873年〈明治6年〉2… 米田 庄太郎(よねだ しょうたろう、1873年〈明治6年〉2月1日 - 1945年〈昭和20年〉12月18日)は、日本の社会学者。京都帝国大学教授。文学博士。日本聖公会の信徒。 奈良県添上郡杏村(のち添上郡辰市村、現・奈良市杏町)で農業を営む八十平の長男として生まれた。生地は被差別部落であった。1878年、村立辰市小学校に入学。 1886年、大阪府立郡山中学校(現・奈良県立郡山高等学校)に入学。1887年、奈良英和学校(立教大学の姉妹校)に転校。キリスト教聖公会に属する宣教師アイザック・ドーマンのもとで洗礼を受けた。1891年に同校を卒業。 1891年、恩師アイザック・ドーマンが東京の聖三一神学校(現・聖公会神学院の前身の一つ)の比較宗教学講師を嘱託されるにあたり、助手として上京。
窪谷 逸次郎(くぼたに いつじろう、1873年(明治6年)1… 窪谷 逸次郎(くぼたに いつじろう、1873年(明治6年)1月27日 - 1937年(昭和12年)7月26日)は、内務官僚、岡山市長。 岡山県浅口郡船穂町(現在の倉敷市)出身。坪井良一郎の二男として生まれ、窪谷勝蔵の養子となった。1896年(明治29年)、東京法学院(現在の中央大学)を卒業。1900年(明治33年)、判事検事登用試験に合格し、さらに高等文官試験にも合格した。1902年(明治35年)に検事となり、東京区裁判所・東京地方裁判所に勤務した。翌年、辞職して弁護士を開業した。 その後内務属として内務省に入り、大阪府警視、関東州民政署警視、関東都督府事務官兼参事官、統監府書記官、佐賀県事務官・警察部長、熊本県事務官・警察部長、高知県内務部長、群馬県内務部長を歴任した。
4代 吉村 伊助(よしむら いすけ、1873年1月23日 -… 4代 吉村 伊助(よしむら いすけ、1873年1月23日 - 1928年3月15日)は、兵庫県城崎郡日高村(現・豊岡市)出身の実業家・政治家。株式会社吉村商店を設立して縮緬(丹後ちりめん)製造業を営み、峰山町長や衆議院議員(2期)を務めた。 1873年(明治6年)1月、兵庫県城崎郡日高村(現・豊岡市)の太田治右衛門の二男として生まれた。幼名は新太郎。1880年(明治15年)2月13日生まれとされることもあり、京都府出身とされることもある。長兄の太田寿之助は江原銀行株式会社専務取締役などを務めている。 小学校卒業後に京都市の西本願寺経営学校で学んだ。高等商業学校(後の旧制東京商科大学、現・一橋大学)を卒業したとされることもある。
田中 銀之助(たなか ぎんのすけ、1873年〈明治6年〉1月… 田中 銀之助(たなか ぎんのすけ、1873年〈明治6年〉1月20日 - 1935年〈昭和10年〉8月27日)は「天下の糸平」と呼ばれた相場師・田中平八の孫。英国ケンブリッジ大学に留学し、帰国後ラグビーを日本に伝えた。 生糸や洋銀の相場で巨額の富を得た田中平八。その長女・登羅(とら)と、婿であり糸平不動産や田中鉱山を興した田中菊次郎(北村菊次郎)の間に長男として生まれた。 当時の進学予備校であった神田淡路町の共立学校(現・開成中学)に一時在籍し、学習院尋常中等科(現・学習院中等科)へ入学。1887年(明治20年)に留学準備のため横浜のヴィクトリア・パブリックスクールに入学。ここで後に共にラグビーを日本に伝えるエドワード・B・クラークと出会う。
日比 忠彦(ひび ただひこ、1873年(明治6年)1月20日… 日比 忠彦(ひび ただひこ、1873年(明治6年)1月20日 - 1921年(大正10年)6月1日)は、日本の構造家、建築系構造工学者、京都帝国大学工学部教授。 専門は建築材料学・構造建築学・材料強弱学などで、鉄筋コンクリート建築の権威と呼ばれた。 福井県士族日比登の二男として生まれる。磯部尚は実弟である。明治18年、長岡学校(現在の新潟県立長岡高等学校)に入学。明治30年、帝国大学工科大学土木科を卒業し工学士となり、京都帝国大学理工科大学助教授となる。 明治35年土木工学硏究のためドイツに留学、明治37年帰国し工学博士の学位を取得。大正3年7月京都帝国大学工学部工科大学教授。 京都大学旧工学部建築学教室本館(総合研究15号館)等の構造設計を手がける。
佐伯 恵眼(さえき えげん)、1873年(明治6年)1月20… 佐伯 恵眼(さえき えげん)、1873年(明治6年)1月20日 - 1951年(昭和26年)1月25日)は、日本の宗教家、真言宗の僧侶。真言宗総本山醍醐寺第九十六世座主、真言宗醍醐派管長、三宝院門跡、京都専門学校校長(現・種智院大学学長)。 (西院流(にしのいんりゅう) * 保寿院流・仁和御流・西院流を仁和三流と称す 《前座主大僧正惠眼大和尚嘆德文》 [昭和二十六年二月十四日、眞言宗醍醐派管長佐伯恵眼大僧正の本葬儀に讀まれたもの。(漢文) ] 夫れ以るに、佛教は實相の門なり、固より寂滅の樂あり。人間は爲の境なり、豈に常住の想を作さむや。 伏して惟れば、故の醍醐派管長・醍醐寺座主・三寶院門跡・大僧正惠眼大和尚は、早く二親の撫育を辭して、西國の密室に入る。
岩野 泡鳴(いわの ほうめい、1873年(明治6年)1月20… 岩野 泡鳴(いわの ほうめい、1873年(明治6年)1月20日 - 1920年(大正9年)5月9日)は、明治・大正期の日本の小説家・詩人。本名は岩野美衛(よしえ)。新体詩人から自然主義作家に転身し、「神秘的半獣主義」を主張。代表作に『耽溺』など。他の筆名は白滴子、阿波寺鳴門左衛門。乱脈な女性関係でも知られる。 名東県津名郡洲本馬場町(現・兵庫県洲本市海岸通2丁目)出身。明治学院、仙台神学校(現在の東北学院)、専修学校(現在の専修大学)に学ぶ。当時、神田神保町の専修学校では法律学と経済学を修め、1891年(明治24年)に卒業した。彼が満足に学校を終えたのは専修学校だけであり、卒業後、彼は志を転じ文学に向かう。
光行 次郎(みつゆき じろう、明治6年(1873年)1月20… 光行 次郎(みつゆき じろう、明治6年(1873年)1月20日 - 昭和20年(1945年)8月6日)は、日本の検察官、政治家。検事総長、貴族院議員。 佐賀県出身。1902年、東京帝国大学法学部英法科を卒業し司法省に入る。司法省人事局長、大阪控訴院検事長、東京控訴院検事長等を歴任し、1935年検事総長となる。1936年に(佐賀人が複数関与した)二・二六事件が起こった日に登庁せずに待合「梅乃井」に身を潜めたことについて東京区検・地検検事が検事総長弾劾に立ち上がり、少壮検事約50人が総長辞職を求める連判状が取りまとめられた。この影響もあり同年12月に退官した。 1939年貴族院議員。 1945年死去。
木田川 奎彦(きたがわ ふみひこ / けいひこ、1873年(… 木田川 奎彦(きたがわ ふみひこ / けいひこ、1873年(明治6年)1月19日 - 1951年(昭和26年)3月30日)は、日本の会計検査院・内務官僚。官選奈良県知事、小樽市長。旧姓:桑名。 福井県坂井郡で桑名金五郎の三男として生まれ、木田川梅吉の養子となる。福井中学校を卒業。1900年11月、文官高等試験行政科試験に合格。同年12月、農商務省に入省し農商務属となり鉱山局に配属された。 1901年1月、会計検査院に転じ検査官補に発令され第一部第二課勤務となる。以後、同院書記官兼検査官補などを務めた。1909年8月、内務省に転じ内務大臣秘書官兼内務省参事官に就任。以後、内務事務官、神奈川県港務部長、同内務部長などを歴任。
関戸 寅松(せきと とらまつ、1873年(明治6年)1月17… 関戸 寅松(せきと とらまつ、1873年(明治6年)1月17日 - 1945年(昭和20年)1月14日)は、日本の衆議院議員(立憲同志会→憲政会)。弁護士。 石川県能美郡金野村(現在の小松市)出身。1895年(明治28年)、東京専門学校行政科(現在の早稲田大学)を卒業。1897年(明治30年)、弁護士試験に合格。東京で弁護士を開業するが、後に静岡県に移り、1912年(大正元年)には小笠郡会議員に選ばれた。1914年(大正3年)、金沢市に事務所を開き、石川県会議員に選出された。 1915年(大正4年)、第12回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 1927年(昭和2年)より再び石川県会議員を務めた。
蜷川 新(にながわ あらた、1873年(明治6年)1月14日… 蜷川 新(にながわ あらた、1873年(明治6年)1月14日 - 1959年(昭和34年)8月17日)は日本の法学者、外交官、大学教授。専門は国際法。先祖は室町幕府に政所代を世襲した蜷川氏で、後に江戸幕府の旗本となった。格闘家の武蔵、TOMO兄弟は曾孫にあたる。 父は旗本蜷川親賢、母は林田藩主建部政醇の娘はつ子。旗本小栗忠順の義理の甥に当る。静岡県袖師(現在の静岡市清水区)で生まれる。生後すぐに父が死去したため、母の縁を頼って東京に移り住む。 1889年(明治22年)第一高等学校に入学。学友に渡辺千冬や鈴木梅太郎がいた。卒業後東京帝国大学の法科大学に進学し、有賀長雄のもとで国際法を専攻した。卒業後、同大学大学院に進学。
岩井 敬太郎(いわい けいたろう、1873年〈明治6年〉1月… 岩井 敬太郎(いわい けいたろう、1873年〈明治6年〉1月14日 - 1963年〈昭和38年〉12月)は、日本の内務官僚。福岡県大牟田市長。 長崎県に貞方定衛の三男として生まれ、岩井範一の養子となった。1900年(明治33年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、翌年に高等文官試験に合格した。警視庁警部となり、1902年(明治35年)には同警視・小石川警察署長に昇進した。1905年(明治38年)からは韓国に渡り、韓国政府警務顧問補佐官、統監府書記官、韓国政府内部書記官などを務めた。 1910年(明治43年)より、宮崎県事務官・警察部長、静岡県事務官・警察部長、青森県内務部長、長崎県内務部長、神奈川県内務部長を歴任し、1918年(大正7年)に退官した。
桃澤 如水(ももざわ にょすい、1873年(明治6年)1月1… 桃澤 如水(ももざわ にょすい、1873年(明治6年)1月14日 - 1906年(明治39年)8月29日)は、歌人で日本画家。本名は桃澤 重治(ももざわ しげはる)、画名は如水(にょすい)または桃画史(とうがし)、歌名を茂春(もしゅん)といい、筆名を三六、三六軒、子脩(ししゅう)などと称した。その祖に江戸時代中期の歌人である桃澤夢宅がいる。 長野県伊那郡本郷村で、桃澤匡尊の次男として生まれる。桃澤家は古くから代々庄屋(名主)を務めており、何人も歌人を産んだ名家であった。1888年(明治21年)15歳で飯田の岡庭塾で、英語や漢籍、数学などを学んだ。ここで菱田春草と出会い、自分も画家になろうとするも、経済的な理由で上京の許しが出なかった。
河崎 助太郎(かわさき すけたろう、1873年(明治6年)1… 河崎 助太郎(かわさき すけたろう、1873年(明治6年)1月13日 - 1943年(昭和18年)2月21日)は、明治から昭和前期の実業家・政治家。衆議院議員。 岐阜県厚見郡富茂登村(岐阜市富茂登釜屋町を経て現:岐阜市大仏町)で、御寿司元(鮎寿司)・河崎喜久夫の長男として生まれ、1904年(明治37年)11月に家督を相続した。1889年(明治22年)神戸私立英学校を卒業した。 大阪に出て、毛織物類、羊毛、毛糸類の貿易及羊毛紡績業に従事。また、大阪地方裁判所商事調停委員、大阪織物同業組合長、日本輸出綿織物連合会大阪支部長、岐阜商工会議所会頭、大阪商業会議所議員、京都土地建物社長、日宝石油社長、日本毛糸紡績取締役社長、朝日毛糸紡績取締役社長、東洋毛織工業取締役社長、東洋毛糸紡績取締役社長、共同毛織取締役社長、日本整毛工業取締役社長、新興人絹取締役社長、河崎商事取締役社長、東華紡績取締役、島津製作所監査役などを務めた。
緒方 武(おがた たけし、1873年〈明治6年〉1月12日 … 緒方 武(おがた たけし、1873年〈明治6年〉1月12日 - 1940年〈昭和15年〉6月4日)は、熊本県出身の日本の剣道家(教士)、大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は、陸軍歩兵中尉(従七位勲六等)、元熊本県議会議員。 明治6年(1873年)1月12日、父清彦、母千伊の長男として熊本県西合志村梅屋敷(現合志市)に生まれる。 心通学舎(現・合志小学校)から済々黌で学び、東京師範学校に入る。剣道は新陰流(戸波派)宮川末五郎の相伝を受け、第十九代当主となる。 明治30年(1897年)から明治33年まで第五高等学校に奉職。同僚に夏目漱石がいる。 明治33年(1900年)三宅多留次と武徳祭にて柔道試合。 明治36年(1903年)より紫溟会から熊本県議会議員選挙に出馬、当選。
馬上 孝太郎(もうえ こうたろう、1873年(明治6年)1月… 馬上 孝太郎(もうえ こうたろう、1873年(明治6年)1月12日 - 1945年(昭和20年)5月25日)は、日本の教育者。 福島県出身。1899年(明治32年)、東京高等師範学校文科を卒業。秋田県師範学校教諭、東京高等師範学校舎監・教授、学習院教授、女子学習院教授・学生監を歴任。1924年(大正13年)より東京高等師範学校教授・附属中学校主事を務め、1941年(昭和16年)に退官した。 その他、茗渓会理事長、帝国教育会理事を務めた。 1945年(昭和20年)5月25日の空襲で戦災死した。墓所は多磨霊園。
岡田 栄(おかだ さかえ、1873年〈明治6年〉1月10日 … 岡田 栄(おかだ さかえ、1873年〈明治6年〉1月10日 - 1940年〈昭和15年〉7月19日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員(立憲政友会)。位階は正七位。勲等は勲四等。 高知県高岡郡松葉川村(窪川町を経て現四万十町)生まれ。東京法学院(現在の中央大学)を卒業。判事検事登用試験・弁護士試験に合格。神戸地方裁判所判事、大阪地方裁判所判事を経て、関東総督府審理官、関東都督府法院判官を歴任し、韓国政府法務補佐官を務めた。その後、官を辞して弁護士を開業した。 1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。1918年(大正7年)の衆議院補欠選挙で再選された。 その他、北海道と朝鮮で農場を経営した。
福田 令寿(ふくだ れいじゅ、1873年1月10日 - 19… 福田 令寿(ふくだ れいじゅ、1873年1月10日 - 1973年8月7日)は、日本の医師。教育者。社会事業家。熊本市名誉市民。 ハンナ・リデルが創立したハンセン病病院回春病院はエダ・ハンナ・ライトの時代であったが、国の方針ですべての外国人はスパイだという目でみていた。経済的にも経営は困難であると評議員の福田令寿は閉鎖しようと発議した。福田は清算人代表となり、神戸に出かけシー・ビー・ケネス、上田穣、福田令寿で清算人会議を開いた。患者は九州療養所に引き取ってもらい、当座必要だろうというので九州療養所に6万円寄付、その外に土地建物は日本ライ予防協会(土地7,135.9坪、価格約7万円)を寄付した。後日細川家から土地を返してくれといわれたが、どうしようもなかった。
芦田 惠之助(あしだ えのすけ、1873年1月8日 - 19… 芦田 惠之助(あしだ えのすけ、1873年1月8日 - 1951年12月9日)は、明治から昭和を生きた教育者。兵庫県出身。 16歳で、故郷の竹田村の竹田簡易小学校の授業生という呼び名の教員になって、教職のスタートを切る。その後1898年、上京して、東京高等師範学校附属小学校(現:筑波大学附属小学校)訓導、樋口勘次郎に学び、綴り方教育を提唱。1902年、郷里に戻り、兵庫県姫路中学校(現・兵庫県立姫路西高等学校)の助教諭となり、ここで国語教育の実践を展開していく。 彼の立場は、今の言い方でいえば「自由作文」、当時は「随意選題」といった。これは同時代、ドイツのハンブルクを中心に展開された芸術教育運動の中の作文教育で提唱されたものとほとんど時を同じくしたものである。
上畠 益三郎(うえはた ますさぶろう、1873年(明治6年)… 上畠 益三郎(うえはた ますさぶろう、1873年(明治6年)1月7日 - 1938年(昭和13年)1月25日)は、日本の政治家、法律家、実業家。衆議院議員、弁護士、大阪株式取引所理事長、日本信託銀行取締役、法政大学監事を務めた。 大阪市生まれ。上畠又兵衛の二男として生まれた。 1891年(明治24年)に和仏法律学校(現法政大学)邦語法律科を卒業。その後、判事検事登用試験に合格し、徳島地方裁判所検事、大阪地方裁判所検事を経て弁護士になる。1920年(大正9年)に第14回衆議院議員総選挙に大阪府第2区から無所属で出馬し当選。当選後は庚申倶楽部に所属した。その後、大阪株式取引所理事長、日本信託銀行取締役に就任。
佐藤 熊治郎(さとう くまじろう、1873年(明治6年)1月… 佐藤 熊治郎(さとう くまじろう、1873年(明治6年)1月7日 - 1948年(昭和23年)9月7日)は、日本の教育者。 宮城県出身。1901年(明治34年)、東京高等師範学校文科教育学部を卒業し、北海道師範学校教諭・附属小学校主事となった。1906年(明治39年)、東京高等師範学校研究科を修了し、長野県師範学校教諭・主事に転じた。 1911年(明治44年)、広島高等師範学校教授・附属小学校主事に就任。1922年(大正11年)、教育学研究のためドイツ・イギリス・フランスに留学した。1936年(昭和11年)、退官。
石坂 友太郎(いしざか ともたろう、1873年(明治6年)1… 石坂 友太郎(いしざか ともたろう、1873年(明治6年)1月6日 - 1963年(昭和38年)4月29日)は、日本の医学者、九州帝国大学医学部教授。九州帝国大学名誉教授。ヘビ毒の研究で知られ、特にハブ毒の薬理学的研究については、1963年の時点で石坂以外には研究例がなかったと報告されている。 教育者であり政治家だった石坂専之介の長男として加賀国(現・石川県)で生まれる。 1891年9月、第四高等中学校予科に入学し、1894年7月に卒業すると、第一高等学校独逸専修科に進む。1897年7月に一高を卒業して東京帝国大学医科大学に入学した。 1901年12月に東京帝国大学医科大学を卒業した。卒業直後の1902年1月、薬物学教室の高橋順太郎教授のもとで助手として採用され、同2月に大学院に進んだ。
藤田 謙一(ふじた けんいち、1873年〈明治6年〉1月5日… 藤田 謙一(ふじた けんいち、1873年〈明治6年〉1月5日 - 1946年〈昭和21年〉3月12日)は、日本の実業家、政治家。日本商工会議所初代会頭、貴族院議員。 青森県弘前市に、武将明石全登の末裔で津軽藩士だった父明石永吉、母ともの次男として生まれる。5歳のときに、親戚の藤田正三郎の養子となり、藤田姓を名乗る。 東奥義塾を中退、1891年(明治24年)に上京し、東京・神田駿河台の明治法律学校(現在の明治大学)に入学する。法学博士・熊野敏三の書生になる。同学を卒業し、大蔵省(現在の財務省)に入省する。 1901年(明治34年)に大蔵省を辞し、翌1902年(明治35年)、「天狗煙草」で知られる岩谷松平の岩谷商会の支配人となる。
杉 栄三郎(すぎ えいざぶろう、1873年(明治6年)1月4… 杉 栄三郎(すぎ えいざぶろう、1873年(明治6年)1月4日 - 1965年(昭和40年)6月7日)は、日本の宮内官僚。帝室博物館総長。法学博士。 岡山県哲多郡矢神村(現在の新見市)出身。1900年(明治33年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業。会計検査院に入ったが、1902年(明治35年)より清国の招聘で京師大学堂(北京大学の前身)教授となった。10年間在職したが、辛亥革命により帰国した。帰国後は会計検査院に戻り、検査官、第一部第三課長を務めた。その後、宮内省に移り、書記官、参事官、帝室林野局主事、図書頭、諸陵頭を歴任した。1932年(昭和7年)より帝室博物館総長を務めた。1938年(昭和13年)6月16日、大正天皇実録及び明治以前の天皇皇族実録編集関係者への行賞が行われる中、前図書頭であった渡部に賜金、賜品が授けられた。
小林 一三(こばやし いちぞう、1873年(明治6年)1月3… 小林 一三(こばやし いちぞう、1873年(明治6年)1月3日 - 1957年(昭和32年)1月25日)は、日本の実業家、政治家。阪急電鉄をはじめとする阪急東宝グループ(現・阪急阪神東宝グループ)の創業者。 鉄道を中心とした都市開発(不動産事業)、流通事業(百貨店・スーパーなど)、観光事業などを一体的に進め相乗効果を上げる私鉄経営モデルの原型を独自に作り上げ、後に全国の大手私鉄や民営化したJRがこの小林一三モデルを採用し、日本の鉄道会社の経営手法に大きな影響を与えた。これらの事業は後に阪急百貨店、宝塚歌劇団、東宝として阪急東宝グループを形成する。その過程で阪急沿線での六甲山麓の高級住宅地の開発、学校法人関西学院等の高等教育機関の誘致や温泉、遊園地、野球場など娯楽施設の整備を行い、日本最初の田園都市構想を実現した。
八代 國治(やしろ くにじ、1873年(明治6年)1月2日 … 八代 國治(やしろ くにじ、1873年(明治6年)1月2日 - 1924年(大正13年)4月2日)は、日本の明治・大正期の歴史学者。文学博士(1922年)。國學院大学教授等を歴任。長慶天皇在位の結論を出したことで知られる。帝国学士院恩賜賞受賞。勲六等瑞宝章追賜。東洋史学者・白鳥清は甥に当たる。 1873年、木更津県市原郡上高根村(現在の千葉県市原市上高根)の農家の鈴木吉蔵の次男に生まれる。 1895年、上京し國學院に入学。1897年に國學院を卒業後、東京帝国大学文科大学史料編纂掛に入り、鎌倉時代史料の研究にあたる。 1901年2月、八代房吉の婿養子に入り八代姓を名乗った。 1908年には最初の日本史辞典である『国史大辞典』の編纂を行った。
平石 弁蔵(ひらいし べんぞう、1873年(明治6年) - … 平石 弁蔵(ひらいし べんぞう、1873年(明治6年) - 1942年(昭和17年))は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍歩兵少佐。『会津戊辰戦争』の著者として知られる。 父は旧会津藩士・平石甚五郎。平石は再建された会津中学の1回生で、松江春次は同級生である。中途退学し1893年(明治26年)陸軍教導団歩兵科生徒隊に入団。翌年、歩兵第17連隊附二等軍曹となる。日清戦争を迎え、橋頭集、楊家屯、羊亭集と歴戦し、一等軍曹へ昇進した。戦役中は台湾へも渡っている。帰国後歩兵第32連隊附等を務め、曹長として陸軍士官学校に勤務し、陸軍経理学校軍吏学生に採用された。のち日露戦争に出征し、少佐まで昇進している。
前川 貫一(まえかわ かんいち、1873年(明治6年) - … 前川 貫一(まえかわ かんいち、1873年(明治6年) - 1955年(昭和30年))は、日本の河川技術者。建築家前川國男と、日本銀行総裁を務めた前川春雄の父。 滋賀県士族・前川勇夫の長男。1897年(明治30年)、東京帝国大学工科大学土木工学科卒業。内務省土木局に入り、大阪の第五区土木監督署勤務。1898年、新潟の第三区に転じ、信濃川改修の調査と府県の土木の監督係に従事する。1909年、内務省東京土木出張所に転じ、利根川第三期改修の計画にあたる。1911年、欧米各国へ視察出張。1914年に江戸川、1919年に中川の各改修事務所主任などをつとめる。 1919年、当時の技監である神野忠雄の勧めで内務省を休職、日本水力に入り、建設課長として真名川水力工事にあたったが、翌年、経済不況により会社が解散となる。
牧 彦七(まき ひこしち、1873年 - 1950年)は、日… 牧 彦七(まき ひこしち、1873年 - 1950年)は、日本の道路技術者。都市計画家。 1873年、大分県に生まれる。1898年、東京帝国大学工科大学土木工学科卒業。卒業後台湾の台北県、台南県の技師として赴任。総督府民政長官後藤新平の下で土木課長として淡水渓の改皐、道路建設、都市改良、河川改修など工事を1901年までの3年間担当したが、廃県とともに退官する。 1902年、埼玉県技師となり土木課長就任。その後秋田県に異動。この時期耕地整理に関して用水路の設計に新しい方法を求めるため、東北大学農学部に通って研究、これを解決して県在職中に学位論文を起草。 道路技術者などとして著名だが、この時期までは水理、河川関係の仕事に従事し、埼玉県沈床や秋田県の法枠の改良などに力を尽くしている。
湯浅 廉孫(ゆあさ おさひこ、1873年 - 1942年)は… 湯浅 廉孫(ゆあさ おさひこ、1873年 - 1942年)は、日本の漢学者。本名:孫三郎、空斎と号す。夏目漱石の門下生としても知られる。 1873年(明治6年)、岡山県上道郡冨山村海吉(現・岡山市中区海吉)に生まれる。第一高等中学校予科三級に入学するも、在学中、四国の松山で遊んだ時、友人から「五高が面白い」と言われ、1895年(明治28年)に熊本の第五高等学校へ転学。翌年、五高に赴任してきた夏目漱石と出会う。湯浅は生活に困っていたため、漱石の勧めで1899年(明治32年)より漱石宅に書生として住み込んだ。漱石宅に寄宿した書生としては他に俣野義郎(実業家、『吾輩は猫である』の多々良三平のモデルとされる)・土屋忠治(裁判官)がおり、前の年に卒業している。
鈴木 空如(すずき くうにょ、1873年 - 1946年)は… 鈴木 空如(すずき くうにょ、1873年 - 1946年)は、日本の仏画師、日本画家。世界文化遺産である法隆寺の金堂壁画を模写したことで世に知られる。 明治6年(1873年)、鈴木虎之助・フミの三男として、秋田県仙北郡小神成村13番地(現・大仙市太田町小神成)に生まれる。 明治25年(1892年)に上京して、画工・長山蘭林に師事し日本画を習う。日清戦争に従軍後の明治31年(1898年)、東京美術学校(現・東京芸術大学美術学部)に入学。山名貫義に師事した。 卒業後、画壇には属さず、法隆寺金堂壁画の模写と仏教美術の研究に打ち込んだ。 大正7年(1918年)ナヲと結婚。2年後に長女豊子をもうける。 大正14年(1925年)豊子が喘息を悪化させ、死去。
大石 鍈吉(おおいし えいきち、1873年(明治6年) - … 大石 鍈吉(おおいし えいきち、1873年(明治6年) - 1947年(昭和22年))は、日本の技術者、大日本帝国海軍技師。初代海軍省海軍艦政本部海軍技術研究所研究部長。 1893年東京工業学校(のちの東京科学大学)機械工芸部機械科卒業。1896年大日本帝国海軍横須賀鎮守府兵器工場海軍技手に着任。1900年からイギリスに出張し、1904年に帰国すると海軍技師に就任。1916年海軍経理学校教官兼任。1917年造兵廠製造部長。1923年に海軍艦政本部に海軍技術研究所が設立されると、同研究所の初代研究部長に就任し、海軍艦政本部技術会議会員も兼務した。1924年依願退官、従四位、日本光学工業取締役。1933年退任。
増田 明六(ますだ めいろく、1873年〈明治6年〉- 19… 増田 明六(ますだ めいろく、1873年〈明治6年〉- 1929年〈昭和4年〉)は、日本の実業家。 明治6年1月生まれ。明治26年、東京高等商業学校を卒業した。 渋沢栄一の秘書役として、白石喜太郎と共に、渋沢関係の各会社で活躍。1909(明治42)年、渋沢栄一が団長を務める渡米実業団に渋沢栄一の随行員として参加。
等々力 いく(とどりき いく、1873年 - 1951年)は… 等々力 いく(とどりき いく、1873年 - 1951年)は、日本の看護師。長野県南安曇郡東穂高村(現安曇野市)生まれ。フローレンス・ナイチンゲール記章受章。
公文 菊仙(くもん きくせん、1873年 - 1945年)は… 公文 菊仙(くもん きくせん、1873年 - 1945年)は明治時代の口絵画家、日本画家。 久保田米僊の門人。明治6年、高知市に生まれる。本名は時衛。明治25年(1892年)に東京へ上京し、日本画家の米僊に師事している。明治35年(1902年)頃から『やまと新聞』に挿絵を描いたほか、明治36年(1903年)から明治45年(1912年)まで村上浪六の小説の口絵を描いている。明治40年(1907年)には『国民新聞』に雇われていたようである。また、坂本龍馬や中岡慎太郎らの肖像画を描いている。昭和4年(1929年)に描いた龍馬の肖像画が大流行し、2000部が頒布販売された。昭和20年、太平洋戦争により千葉県へ疎開、同地で72歳で没した。
吉町 太郎一(よしまち たろういち、1873年-1961年)… 吉町 太郎一(よしまち たろういち、1873年-1961年)は、日本の橋梁工学者。材料工学者・研究者。代表作に旭橋など。 九州帝国大学工学部長、北海道帝国大学工学部長、室蘭工業専門学校(現・室蘭工業大学)学長を歴任した。 青森県に生まれ、弘前市新寺町出身、藩士吉町官助の子。幼にして父に随い上京。苦学力行して第一高等学校から東京帝国大学工学部に入学。金属学を専攻して、1898年に卒業。同時に同学部助教授になり、1901年に欧州へ留学。1904年に帰朝して、名古屋高等工業学校教授、転じて九州帝国大学工学部教授となった。1924年に北海道帝国大学に工学部設立のさい迎えられて同学部教授。ついで同学部長となり、1936年退官して北海道大学名誉教授の称号をうけた。
八田 三喜(はった みき、1873年 - 1962年)は、日… 八田 三喜(はった みき、1873年 - 1962年)は、日本の教育者。 息子は演出家の八田元夫と教育者の八田亭二。
三根 円次郎(みね えんじろう、1873年 - 1935年3… 三根 円次郎(みね えんじろう、1873年 - 1935年3月18日)は長崎県旧西彼杵郡瀬戸町(現在の西海町)出身の日本の教育者である。歌手ディック・ミネの父親で、ギタリスト三根信宏の祖父。 長崎県(江戸時代の大村藩)の大庄屋に生まれる。族籍は士族。旧制私立大村中学(現・長崎県立大村高等学校)、熊本県の旧制第五高等学校、旧制第一高等学校を経て、明治27年(1894年)に東京帝国大学文学部哲学科に入学し、お雇い外国人だったラファエル・フォン・ケーベルらの教えを受ける。明治30年(1897年)に帝国大学を卒業し、謹厳な教育者として、山形県の山形中学で修身(道徳)、福岡県の東筑中学で英語の授業を、それぞれ教諭として歴任し、29歳の時に、佐賀県の佐賀県立第三中学校(現・唐津東高等学校)の校長に就任する。
奥田 助七郎(おくだ すけしちろう、1873年(明治6年) … 奥田 助七郎(おくだ すけしちろう、1873年(明治6年) - 1954年(昭和29年)9月8日)は、日本の土木技術者。1874年(明治7年)生まれの記述もみられる。名古屋港開港の功労者として評価される。 1900年7月京都帝国大学理工科大学土木工学科卒業後、愛知県庁に入庁し、1900年(明治33年)8月(1904年(明治37年)とする記述もみられる)に愛知県土木技師となった。奥田は1906年(明治39年)9月28日、開港前だった名古屋港に報知新聞社主催による博覧会「ろせった丸」を入港させた。これは工事反対者を納得させる目的で、本来四日市港に寄港する予定の同船を呼び込んだものである。1920年(大正9年)には初代名古屋港務所長に就任し、名古屋港の発展に貢献した。
弘中 又一(ひろなか またいち、1873年 - 1938年8… 弘中 又一(ひろなか またいち、1873年 - 1938年8月6日)は、山口県出身の教育家である。 都濃郡湯野村(現在の周南市)出身。勉強ができて、優秀だったため、独学だけでなく、山口市の私塾で漢文・英語・数学を学んだ[要出典]。 1890年(明治23年)同志社普通学校(現在の同志社大学)に入学。在学中の1893年(明治26年)に17歳のタカと結婚、同年、出身地の柳井小学校高等科の英語代用教員になる。1894年同志社大学を卒業。翌1895年(明治28年)に数学教師として、愛媛県の松山中学校(現在の愛媛県立松山東高等学校)に赴任する。そこで当時英語教師を務めていた夏目漱石と出会い、1年間同僚として過ごす。
張 一鵬(ちょう いちほう、1873年〈同治12年〉 - 1… 張 一鵬(ちょう いちほう、1873年〈同治12年〉 - 1944年〈民国33年〉7月14日)は、清末民初の政治家・法学者・司法官・官僚・弁護士・ジャーナリスト。字は雲搏(あるいは雲博)。北京政府、南京国民政府(汪兆銘政権)で要人となった。兄の張一麐も政治家である。 南洋公学で学んだが卒業せず、兄の張一麐が創始した蘇学社に加入した。1893年(光緒19年)、癸巳科挙人となる。その後、日本に留学し、1906年(光緒32年・明治39年)6月に法政大学法政速成科第二班を卒業した。なお、同期には汪兆銘(汪精衛)や李文範、胡漢民、古応芬、孫潤宇らがいる。帰国後、法部主事、京師地方検察庁庁長、呉江地方検察庁庁長、雲南高等検察庁検察長を歴任した。
岡田撫琴(おかだ ぶきん、1873年 - 1940年5月10… 岡田撫琴(おかだ ぶきん、1873年 - 1940年5月10日)は、日本の新聞事業者、文人、政客。1915年(大正4年)開催の「家康忠勝両公三百年祭」を実行面で取りしきった。近代岡崎市の文化発展に寄与した人物の一人。 千賀伝左衛門の孫として生まれる。本名は岡田太良次郎。生まれるとすぐに岡崎投町(現・岡崎市若宮町)の醤油業岡田壮太郞のもとへ養子にやられる。養父壮太郎は梅園町の誓願寺境内の茶室「不蔵庵」の維持に尽くしていたので、撫琴は「不蔵庵の息子」と呼ばれた。 岡崎連尺町(現・岡崎市連尺通)の大賀屋の植田石芝から俳句の手ほどきを受け、16、17歳の頃から俳人として頭角を現した。正岡子規の俳句運動の影響を受け俳句雑誌『甲矢』(はや)を発行。