千家 啠麿(せんげ てつまろ、1907年〈明治40年〉8月1… 千家 啠麿(せんげ てつまろ、1907年〈明治40年〉8月19日 - 1995年〈平成7年〉10月24日)は、日本の国立公園事業に尽力した造園家、国立公園行政官、観光行政官。国立公園制定や自然保護のほか、観光政策審議会や日本観光協会、日本レクリエーション協会など、各種審議会委員や団体理事等歴任。アメリカ合衆国シエラクラブ名誉会員、日本造園学会名誉会員。島根県生まれ。千家忠の養子。 千家尊福(男爵、東京府知事として水源林の拡充整備など尽力)の6男に生まれ、のち千家忠の養子。旧制大社中学校(現・島根県立大社高等学校)、途中から旧制京都二中(現・京都府立鳥羽高等学校)、旧制松江高等学校を経て東京帝国大学農学部林学科に進学。
松丸 志摩三(まつまる しまぞう、1907年8月19日 - … 松丸 志摩三(まつまる しまぞう、1907年8月19日 - 1973年11月7日)は、日本の農民教育家・農業評論家・畜産学者。詩人・社会運動家・元共産党員のぬやま・ひろし(西沢隆二)は実兄。 西沢吉治・松丸みつの三男として神戸に生まれる。長兄・基一、次兄・隆二。 台町小学校から深川八丁堀の小学校に転校、麻布中学を経て旧制静岡高等学校理科を卒業。 1925年、父親の事業の破産に遭い、両親が八丈島に移住したのにつれて移住。 1932年、東京帝国大学農学部獣医学科を卒業。卒業と同時に松丸姓を継ぐ。すぐに朝鮮に渡り、全羅北道で農林学校の教諭を1年余り務めたのち、朝鮮総督府畜産技師となり、1940年、畜産課長となる。
遠藤 留吉(えんどう とめきち、1907年〈明治40年〉8月… 遠藤 留吉(えんどう とめきち、1907年〈明治40年〉8月19日 - 1997年〈平成9年〉6月17日)は、大阪市西成区玉出に本店を置く会津屋の創業者。1935年にたこ焼きを開発したことで知られる。 1907年(明治40年)8月、福島県河沼郡会津坂下町に農家の子として生まれる。家業を継いで農家になるが、どれだけ熱心に働いても収入が少なく、田畑も自分の物にならないジレンマを感じ、27歳の時に僅か11銭を持って東京へ出奔する。東京では「第二食堂」という店で3年間熱心に働いたことで、店主の紹介で同じ食堂で働いていた女性と結婚。妻の妹が大阪で所帯を持っていたことをきっかけに、大阪へ転居する。大阪では屋台寿司と関東煮を出す屋台を構えるも、昭和恐慌による不景気が尾を引いていたこともあり、振るわなかった。
白井新平(しらい しんぺい、1907年8月18日 - 198… 白井新平(しらい しんぺい、1907年8月18日 - 1988年9月28日)は、日本のアナキスト、社会運動家、競馬評論家、実業家。 啓衆社の創業者であり、戦前から戦後初期にかけての日本競馬において多くの先駆的な試みを行った。筆名として山本三郎、アキ・ヤマモト(山本秋)などがある。競馬評論家の白井透、白井牧場創業者の白井民平は実子。元馬術競技選手の白井岳は孫。 京都府舞鶴市余部にて、精密機械の仕上工であった喜代太郎とその妻らいの一人息子として生を受ける。父喜代太郎の生家・小津家は油問屋を家業としていたが、新平の祖父の代には遊び好きの道楽者が祟って準禁治産認定を受けている。喜代太郎は幼少期に豊中市で造り酒屋を営んでいた白井家へ養子に出されたのだがこちらもすぐに破産してしまい、小津家に引き取られたのちに手に職をつけるべく技術者となった。
松井 勇(まつい いさむ、1907年8月18日 - 1996… 松井 勇(まつい いさむ、1907年8月18日 - 1996年8月10日)は、日本の地理学者である。 1907年(明治40年)8月18日、本郷区駒込浅嘉町(現在の文京区本駒込)で誕生。旗本の家系であったという。東京府立第五中学校から第一高等学校を経て東京帝国大学理学部地理学科に進学、1931年(昭和6年)に卒業。理学部大学院に進み、辻村太郎に師事する。1946年(昭和21年)に「地理学に於ける分布論」で理学博士となる。 1947年(昭和22年)より東京女子高等師範学校の講師を務め、1949年(昭和24年)に常勤となる。同年、国立学校設置法に基づき、東京女子高等師範学校はお茶の水女子大学に改組される。
早川 忠篤(はやかわ ただあつ、1907年〈明治40年〉8月… 早川 忠篤(はやかわ ただあつ、1907年〈明治40年〉8月18日 - 1969年〈昭和44年〉4月27日)は、日本の地方政治家。鳥取県倉吉市の初代市長。戦後の地方自治体建設と都市文化形成に尽力し、モダニズム建築による市庁舎建設や将来志向の都市構想を推進したことで知られる。 鳥取県東伯郡上小鴨村(現・倉吉市)出身。1926年(大正15年)倉吉中学校(現・鳥取県立倉吉東高等学校)卒業。1933年(昭和8年)より倉吉町議会議員を務め、1947年(昭和22年)には鳥取県議会議員に選出。1951年(昭和26年)に倉吉町長に就任し、1953年(昭和28年)10月の市制施行により倉吉市の初代市長に選出された。
杉村 正三郎(すぎむら しょうざぶろう、1907年8月16日… 杉村 正三郎(すぎむら しょうざぶろう、1907年8月16日 - 2000年7月3日)は、日本の会社役員、サッカー選手。 父は杉村倉庫創業者の杉村正太郎、兄は上智大学教授などを務めた野村正二郎であり、大阪商工会議所初代会頭の五代友厚が母方の祖父に当たる。 旧制大阪府立天王寺中学校(現・大阪府立天王寺高等学校)を経て早稲田高等学院に進学。早稲田高等学院3年次の1927年に上海で開催された第7回極東選手権競技大会のサッカー日本代表に選出されたが出場機会は無かった。同年9月14日に平壌での崇実専門学校との親善試合で代表初出場を果たした。 早稲田高等学院卒業後は早稲田大学理工学部電気工学科に進学。ア式蹴球部に所属し、在学中の1930年5月開催の第9回極東選手権大会の日本代表に選出されるも第8回大会同様に出場機会は無かった。
平岡 養一(ひらおか よういち、1907年8月16日 - 1… 平岡 養一(ひらおか よういち、1907年8月16日 - 1981年7月13日)は、日本の木琴(シロフォン)奏者。兵庫県尼崎市出身。 妹はフィギュアスケート選手の平岡露子。ミュージシャンの平岡精二はいとこの子。 元来、東京の家系であるが、実業家の父・寅之助が赴任した尼崎市で生まれる。 父の兄が日本初の野球チーム創設者の平岡凞で、少年も野球の特訓を受け育つが、体格的に不向きであるとわかり野球の道は断念。小学校在学中に東京へ移住し、慶應義塾幼稚舎・慶應義塾普通部で学ぶ。この頃ピアノを始めるが、手が小さいためピアノにも不向きであるとわかる。それでもハーモニカなどを演奏し音楽を楽しむうちに、銀座の映画館「コンパル館」で無声映画の伴奏をしている木琴(シロフォン)に魅せられるようになり、映画館に通う日々が続いた。
津村 秀夫(つむら ひでお、1907年8月15日 - 198… 津村 秀夫(つむら ひでお、1907年8月15日 - 1985年8月12日)は、日本の映画評論家。弟は詩人の津村信夫、息子は俳優の津村鷹志。
上西 亮二(うえにし りょうじ、1907年8月15日 - 2… 上西 亮二(うえにし りょうじ、1907年8月15日 - 2002年2月27日)は、日本の経営者。島津製作所社長、会長を務めた。滋賀県大津市出身。 1931年に京都帝国大学工学部電気工学科を卒業し、同年に島津製作所に入社した。1954年に取締役に就任し、常務、副社長を経て、1971年から社長に就任し、1981年から会長に就任した。1986年から相談役を務めた。 1975年に創業100周年記念を機に島津創業記念資料館を開館し、1980年には島津科学技術振興財団を設立した。 1964年に藍綬褒章を受章し、1977年に勲二等瑞宝章を受章した。 2002年2月27日老衰のために死去。94歳没。
田中 亮(たなか りょう、1907年(明治40年)8月15日… 田中 亮(たなか りょう、1907年(明治40年)8月15日 - 1993年(平成5年)5月25日)は日本の哺乳類学者。ネズミの研究で広く知られる。 長野県上田市に生まれる。1930年(昭和5年)上田蚕糸専門学校を経て、1934年(昭和9年)台北帝国大学理農学部生物学科卒。同年4月から1946年(昭和21年)3月まで同大副手、助手を経て助教授となる。終戦後、国立台湾大学理学院副教授を経て帰国し、1947年(昭和22年)高知県立女子専門学校講師、のち教授。新制大学発足に伴い高知女子大学家政学部教授。1973年(昭和48年)3月定年退官を経て、同年5月7日に高知女子大学名誉教授となる。晩年は高知市に住んだ。
山口 森三(やまぐち しんぞう、1907年〈明治40年〉8月… 山口 森三(やまぐち しんぞう、1907年〈明治40年〉8月15日 - 2002年〈平成14年〉2月23日)は、昭和時代戦後の政治家、初代藤枝市長。藤枝市名誉市民。勲四等旭日小綬章受章。 1907年8月、静岡県志太郡大富村中新田の大畑貞吉の三男として生まれる。1920年(大正9年)大富小学校尋常科卒業。1925年(大正14年)静岡県立静岡中学校卒業。静岡高等学校 (旧制)を経て、東京帝国大学を卒業。1932年(昭和7年)代議士山口忠五郎の養子となる。同年、陸軍経理部幹部候補生として、名古屋歩兵第6連隊に入隊。年末除籍。1933年(昭和8年)大同電力に入社。1941年(昭和16)年召集、名古屋停車場司令部、名古屋地区鉄道司令部を経て、1945年(昭和20年)12月召集解除(陸軍主計大尉)。
山口 薫(やまぐち かおる、1907年〈明治40年〉8月13… 山口 薫(やまぐち かおる、1907年〈明治40年〉8月13日 - 1968年〈昭和43年〉5月19日)は、群馬県出身の洋画家。元東京芸術大学教授。 1907年(明治40年)8月13日、群馬県群馬郡箕輪村金敷平(現・高崎市箕郷町金敷平)の大地主山口家で、父彦太郎、母佐登の間に11人きょうだいの末子として生まれる。 箕輪尋常小学校卒業後、旧制高崎中学校(現・群馬県立高崎高等学校)に進む。中学時代の絵日記が、のちに『山口薫中学時代絵日記』として出版されている。絵日記には油絵を描いたり、帝展を見に東京に出かける等の逸話が現れる。4年次に旧制水戸高校理科を受験するも失敗し、5年の冬に上京し当時藤島武二が洋画を指導していた川端画学校で学ぶ。
山内 壮夫(やまうち たけお、1907年(明治40年)8月1… 山内 壮夫(やまうち たけお、1907年(明治40年)8月12日 - 1975年(昭和50年)4月11日)は、日本の彫刻家。新制作協会彫刻部創立会員。郷里である北海道をはじめ、日本各地に多くの野外彫刻が設置されている。
小田切 新太郎(おだぎり しんたろう、1907年8月12日 … 小田切 新太郎(おだぎり しんたろう、1907年8月12日 - 1997年4月17日)は、日本の経営者。信越化学工業社長、会長を務めた。長野県上高井郡須坂町(現・須坂市)出身。 旧制長野中学(現・長野県長野高等学校)を経て、1932年に早稲田大学商学部を卒業し、同年に信越化学工業に入社。 1948年6月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1971年7月に副社長に就任し、1974年7月に業界不況の状況で社長に就任する。 経理・財務担当常務時代は、数字を綺麗に書くこと、判子は伝票に書かれている内容をよく見て、グッと力を入れてまっすぐ縦に押すこと、ソロバンで加減乗除の計算ができるようにすることを経理担当に厳命、管理部門の強い権限を変革して販売、製造、研究各部門に権限を振り分けた。
淡谷 のり子(あわや のりこ、1907年8月12日 - 19… 淡谷 のり子(あわや のりこ、1907年8月12日 - 1999年9月22日)は、青森県青森市出身の女性歌手。
青山ゆき路(あおやま ゆきじ 1907年8月11日 - 19… 青山ゆき路(あおやま ゆきじ 1907年8月11日 - 1993年2月27日)は、日本の小説家、歌人。石川県鵜川村(石川県鳳至郡に所在。町制施行し鵜川町となる。現:能登町。)に生まれ、1914(大正3)年に北海道小樽市に来る。父母の生業である理美容業を継ぐ。大正末期に並木凡平を知り、以来口語短歌一筋に70年の歌歴を積む。1927(昭和2)年並木凡平が「新短歌時代」を創刊するや編集同人として参画。主著に歌集「せせらぎ」「青空に描く」「海峡」など。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
安藤 一郎(あんどう いちろう、1907年〈明治40年〉8月… 安藤 一郎(あんどう いちろう、1907年〈明治40年〉8月10日 - 1972年〈昭和47年〉11月23日)は、日本の詩人、英文学者、翻訳家。 1928年東京外国語学校英語科卒業、東京府立第六中学校(現・東京都立新宿高等学校)教師、1938年米沢高等工業学校講師、1939年助教授、1941年母校助教授、のち東京外国語大学教授、1971年定年退官。詩人、翻訳家として著述多く、日本現代詩人会会長を務めた。没後の1973年、『摩滅』で無限賞受賞。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
田口 助太郎(たぐち すけたろう、1907年(明治40年)8… 田口 助太郎(たぐち すけたろう、1907年(明治40年)8月10日)- 1983年(昭和58年)12月11日)は、日本の実業家、映画プロデューサー、政治家。衆議院議員。 埼玉県北足立郡草加町(現:草加市)で生まれる。1932年、早稲田大学専門部法律科を卒業した。農林省馬政局属を経て、日満工業社員、大同産業取締役社長、国際映画プロダクション理事長を務めた。 1947年4月、第23回衆議院議員総選挙で埼玉県第一区から日本自由党所属で出馬して当選し、その後、民主自由党に移り衆議院議員を一期務めた。 1949年、読売映画社社長に就任。ニュース映画製作者連盟会長、教育映画製作連盟理事長、映像文化製作者連盟理事長、産経映画社社長などを務めた。
長谷川周重(はせがわ のりしげ、 1907年8月8日 - 1… 長谷川周重(はせがわ のりしげ、 1907年8月8日 - 1998年1月3日)は、日本の実業家。元住友化学会長・社長。
蔵田蔵(くらた おさむ、1907年8月8日 - 1974年1… 蔵田蔵(くらた おさむ、1907年8月8日 - 1974年10月13日)は、日本の美術史学者。 福岡県企救郡西紫村(現・北九州市小倉北区)出身。1932年に東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業して引き続き大学院に進み、1934年に同大学院を修了する。 東京帝室博物館の研究員となり、仏教考古学、金工史を専攻した。1938年に鑑査官補となり、列品課に勤務した。 1945年高松宮家御用掛となるが、1946年博物館(その後国立化に伴い東京国立博物館になる)に戻り、1955年には工芸課長、1964年には学芸部長を歴任した。1965年奈良国立博物館館長に就任、死去まで勤務した。[要出典] この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
鄭 商熙(チョン・サンヒ、朝鮮語: 정상희、1907年8月7… 鄭 商熙(チョン・サンヒ、朝鮮語: 정상희、1907年8月7日 - 1981年3月7日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の実業家、政治家。サムスングループ重役、第4・5代韓国国会議員。 本貫は温陽鄭氏(朝鮮語版)。新世界グループの実業家の鄭在恩(朝鮮語版)は息子、李秉喆の末娘の李明熙(朝鮮語版)はその妻。実業家の鄭溶鎮(女優コ・ヒョンジョンの元夫)は孫、鄭有慶(朝鮮語版)は孫娘。 忠清北道中原郡(現・忠州市)出身。ソウル養正高等普通学校(現・養正高等学校(朝鮮語版))を経て、1930年に上海交通大学1年修了、1935年に明治大学法学部卒。明治大学名誉博士(1974年)。1939年より協信産業商社代表を務め、解放後は1948年に大韓体育会理事長、大韓陸上競技連盟理事長、大韓オリンピック委員会常任委員、1949年に三護紡績・三護貿易副社長、1954年に第2回アジア競技大会韓国選手団総監督、1956年に同和通信副社長、1956年メルボルンオリンピック韓国選手団総監督、1957年に第一火災海上保険株式会社社長、大韓体育会理事長、1958年に第3回アジア競技大会韓国選手団総監督、自由党中原郡党委員長を務めた。
瀧口 丈夫(たきぐち たけお、1907年8月6日 - 200… 瀧口 丈夫(たきぐち たけお、1907年8月6日 - 2002年9月21日)は、日本の経営者。東京都出身。 1931年に慶應義塾大学経済学部経済学科を卒業し、同年に日本石油に入社。1960年に取締役に就任し、1961年5月に常務を経て、1968年5月に副社長に就任し、1970年5月には社長に昇格。1978年6月に会長に就任し、1980年6月から相談役を務めた。 石油連盟会長、日本経営者団体連盟・経済団体連合会各常任理事なども務めた。 1970年10月に藍綬褒章を受章。 2002年9月21日肺炎のために死去。95歳没。
武藤 誠(むとう まこと、1907年8月5日 - 1995年… 武藤 誠(むとう まこと、1907年8月5日 - 1995年4月7日)は、日本の考古学者。関西学院大学教授、文学部長を歴任した。 1907年、東京都生まれ。兵庫県立第一神戸中学校、松山高等学校を経て、1930年、京都帝国大学文学部史学科(国史専攻)を卒業。1932年、関西学院大学予科教授(日本史・東洋史)。関西学院専門学校政経科、高等商業学部、短期大学の教授を歴任し、1957年、文学部教授(史学科)。1969年3月、大学紛争の激化する中で院長事務取扱に就任した。1949年、兵庫県文化賞受賞。1967年、第7回西宮市市民文化賞受賞。
福島 要一(ふくしま よういち、1907年8月5日 - 19… 福島 要一(ふくしま よういち、1907年8月5日 - 1989年9月1日)は、日本の農学者・評論家、農林官僚。元日本学術会議会員。
荒川 秀俊(あらかわ ひでとし、1907年8月4日 - 19… 荒川 秀俊(あらかわ ひでとし、1907年8月4日 - 1984年12月23日)は、日本の昭和期の気象学者。理学博士(東京大学・論文博士・1939年)。 福島県白河市に生まれる。県立安積中学校から第二高等学校を経て、1931年東京帝国大学理学部物理学科卒業後、中央気象台に入る。1939年、理学博士(東京大学)の学位を取得1941年東京大学講師を兼任。1943年軍の依頼により偏西風を利用した風船爆弾の気象調査を行う。1964年福岡管区気象台台長、1966年気象研究所所長、1968年東海大学教授を歴任。1972年藤原賞受賞。勲二等瑞宝章を受章。1984年の年末心不全のため死去。 予報技術の発展に貢献したほか、古文書により気象・災害と歴史的事件の関係を研究し、理論気象、気候学、災害史、気象学史などの分野で業績を残した。
国分 敬治 (こくぶ けいじ、1907年8月4日 - 199… 国分 敬治 (こくぶ けいじ、1907年8月4日 - 1997年10月26日)は、日本の古代ギリシャ思想研究者・哲学者、南山大学名誉教授。ギリシャ哲学とヨーロッパ中世哲学を専門とし、仏教にも造詣が深い。 大阪市出身。龍谷大学に学び、京都大学で山内得立に師事。旧制大学の制度のもと立命館大学予科教授等を経て、南山大学でその黎明期から教授として哲学・思想教育、大学運営に大きな功績を残す。1978年4月、名誉教授となる。「1981年には、日本人として初のオリンピア名誉市民の称号を受けた」。 2002年、ギリシャ・オリンピア市に「フィロソファー・コクブ」("The Philosopher Kokubu")としてその功績をたたえる大理石胸像が建立された(後出)。
三鬼 陽之助(みき ようのすけ、1907年8月3日 - 20… 三鬼 陽之助(みき ようのすけ、1907年8月3日 - 2002年10月5日)は、日本の経済評論家。
小川 清四郎(おがわ せいしろう、1907年8月3日 - 1… 小川 清四郎(おがわ せいしろう、1907年8月3日 - 1981年8月3日)は、日本の外交官。公正取引委員会事務局長、法務省入国管理局長、駐ビルマ特命全権大使などを歴任した。 広島県尾道市出身。第一高等学校文科丙類を経て、1931年東京帝国大学法学部政治学科卒業。1932年外務省入省。外務省条約局事務官、情報局総裁秘書官、戦争調査会事務局事務官、横須賀捕獲審検所評定官等を経て、1952年調達庁総務部調停官。1953年公正取引委員会事務局長。1957年在ヴィエトナム日本国大使館参事官。 1959年外務大臣官房審議官。1960年駐ハンガリー特命全権公使。1962年法務省入国管理局長。1964年駐ヴァチカン特命全権大使。
小西 新兵衛 (七代目)(こにし しんべえ、1907年8月3… 小西 新兵衛 (七代目)(こにし しんべえ、1907年8月3日 - 1995年1月18日)は、日本の経営者。武田薬品工業社長、会長を務めた。 東京都出身。1930年に東京帝国大学医学部薬学科を卒業し、翌年に小西薬品に入社した。1943年に社長に就任し、翌年には武田薬品工業との合併により、武田薬品工業常務に就任した。専務、副社長を経て、1974年に社長に就任した。1981年6月に会長に就任し、1991年に取締役名誉会長に就任した。 1995年1月18日がん性腹膜炎のために死去。
本島 百合子(本嶋 百合子、もとじま / もとしま ゆりこ、… 本島 百合子(本嶋 百合子、もとじま / もとしま ゆりこ、1907年(明治40年)8月3日 - 1972年(昭和47年)5月21日)は、日本の婦人運動家、政治家。衆議院議員(4期)、東京都議会議員(3期)を歴任。 福岡県遠賀郡八幡町(八幡市を経て現北九州市)で、本島礼三郎の四女として生まれる。 1929年、日本大学高等師範部地歴科を卒業した。在学中から無産運動に加わった。卒業後、萬朝報記者、婦人毎日新聞記者を務め、婦人解放運動を行った。 1945年、日本社会党の結党に加わり、1946年、同党婦人部に勤務し同副部長を務めた。1947年5月、東京都議会議員に当選。以後、都議を3期務めた。 1958年5月の第28回衆議院議員総選挙に日本社会党公認で旧東京3区(定数3)から立候補して初当選。
五十五世梅若六郎(うめわか ろくろう、1907年〈明治44年… 五十五世梅若六郎(うめわか ろくろう、1907年〈明治44年〉8月3日 - 1979年〈昭和54年〉2月8日)は、観世流シテ方能楽師、日本芸術院会員。本名は梅若 亀之(うめわか たかし)、別名として梅若景英、梅若六之丞。三代梅若実を追贈。 五十四世梅若六郎(後の二代梅若実)の子として東京浅草厩橋に生まれる。祖父は明治三名人の一人、初代梅若実。弟に梅若雅俊、梅若恭行。次男に五十六世梅若六郎。 1911年「忠信」の法師で初舞台。1915年「菊慈童」で初シテ。1918年浅草精美高等小学校卒。1925年「道成寺」を披く。1928年「翁」を披く。1944年、55世を襲名。1949年、厩橋の能楽堂が戦災で焼失したため、後援会長の支援で東京・東中野に移転。
河野 一之(こうの かずゆき、1907年〈明治40年〉8月2… 河野 一之(こうの かずゆき、1907年〈明治40年〉8月2日 - 2006年〈平成18年〉6月20日)は、日本の大蔵官僚、実業家。元大蔵事務次官。元太陽銀行頭取、太陽神戸銀行会長、三井住友銀行名誉顧問。 広島県豊田郡忠海町(現・竹原市)生まれ。陸軍軍人だった父親が退官し東京で事業を始めたため、9歳から東京で育つ。東京府立四中を卒業。当時入試科目に英語のあった東高師附属には落ちてしまった。その後、第一高等学校を経て、1930年3月、東京帝国大学法学部法律学科卒業。1929年、高等文官試験行政科・司法科合格。1930年、大蔵省入省(大臣官房文書課)。1940年、主計局法規課長、1941年、決算課長、1943年、山住克己陸軍司政長官の下、陸軍司政官・南方軍軍政総監部付けとなり昭南(シンガポール)に1年余勤務。
崔 栄哲(チェ・ヨンチョル、朝鮮語: 최영철/崔榮哲、190… 崔 栄哲(チェ・ヨンチョル、朝鮮語: 최영철/崔榮哲、1907年8月2日 - 1991年8月5日)は、大韓民国の校長、政治家。初代全羅南道議会(朝鮮語版)議員、第3代韓国国会議員を歴任した。 全南羅州出身。広島県立呉中学校、千葉高等園芸学校卒。羅州金川中学校校長、湖南園芸高等学校(朝鮮語版)校長、国民会全南道支部宣伝部次長・羅州郡支部長、初代全羅南道議会議員などを歴任した。1954年の第3代総選挙では無所属で羅州郡甲選挙区から出馬し当選し、すぐに民主国民党に入党したが、その後自由党に移籍したことで民主国民党と選挙区民から背信の非難を受けた。 1991年8月5日、ソウル市の江南聖母病院で持病により死去。
小島 貞介(こじま ていすけ、1907年(明治40年)8月2… 小島 貞介(こじま ていすけ、1907年(明治40年)8月2日 – 1946年(昭和21年)2月25日)は、戦前日本のドイツ文学者。成蹊高等学校教授。シベリア抑留中に病死した。 1907年(明治40年)8月2日熊本県鹿本郡三玉村(現・山鹿市)大字久原478番地に淵上鶴亀の五男として生まれた。三玉村尋常小学校・鹿本中学校を経て、1927年(昭和2年)熊本市第五高等学校乙類を卒業した。 上京して武蔵野町吉祥寺650番地(東京都武蔵野市吉祥寺北町2ノ1ノ8番地)に住み、1930年(昭和5年)東京帝国大学独逸文学科を卒業、4月1日成蹊高等学校教諭となり、ドイツ語を教えた。後に教授に進み、1942年(昭和17年)6月生徒課長、1943年(昭和18年)4月教授部文化課長を歴任した。
柳沢 義男(柳澤、やなぎさわ よしお、1907年(明治40年… 柳沢 義男(柳澤、やなぎさわ よしお、1907年(明治40年)8月1日 – 1990年(平成2年)12月2日)は、昭和期の法学者、弁護士、計理士、実業家、政治家。衆議院議員、法学博士。 千葉県流山市出身出身。専修大学経済学部卒を経て、1931年(昭和6年)中央大学法学部を卒業し、さらに同大学院を修了。1938年(昭和13年)パリ大学を卒業した。 その後、弁護士、計理士の業務に従事しながら中央大学教授に就任。1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙で千葉県全県区に無所属で出馬して落選。1947年(昭和22年)4月の第23回総選挙で千葉県第1区に日本自由党所属で出馬して次点で落選。1949年(昭和24年)1月、第24回総選挙で民主自由党公認で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
宮本 常一(みやもと つねいち、1907年8月1日 - 19… 宮本 常一(みやもと つねいち、1907年8月1日 - 1981年1月30日)は、日本の民俗学者・農村指導者・社会教育家。 山口県屋代島(周防大島)生まれ。大阪府立天王寺師範学校(現在は大阪教育大学)専攻科地理学専攻卒業 。 柳田國男を読み、民俗学徒として立つ決心をする。その後渋沢敬三に誘われてアチック・ミューゼアムに入り、本格的に民俗学の研究を行うようになった。 1930年代から病没する直前まで、生涯に渡り日本各地をフィールドワーク(1200軒以上の民家に宿泊したと言われる)を行い、膨大な記録を残した。宮本が残した調査記録の相当部分は別集も含め、長年にわたり刊行した『宮本常一著作集』(未來社)で把握できるが、未収録の記録も少なくない[要出典]。
鈴木 明治(すずき めいじ / あきはる、1907年8月 -… 鈴木 明治(すずき めいじ / あきはる、1907年8月 - 2005年10月27日)は、日本酒を中心に酒類を対象とした研究をおこなった、日本の醸造学、発酵化学研究者。醸造試験所所長、東京農業大学教授などを歴任した。 長野県松本市生まれ。長野県松本中学校(長野県松本深志高等学校の前身)に学び、その後、東京大学農学部を卒業した。 醸造試験所(酒類総合研究所の前身)に入所して、日本酒をはじめ各種の酒類の研究にあたり、所長も務めた。この間、東京局所属の技官であった時には、山梨県の笹一酒造と関わりが深かった。また、1961年には、「清酒原料用米麹の老若に関する考察」により12月7日付で東京大学から農学博士を授与された。
竹岡 信幸(たけおか のぶゆき、1907年(明治40年)7月… 竹岡 信幸(たけおか のぶゆき、1907年(明治40年)7月31日 - 1985年(昭和60年)9月9日)は、昭和期の日本の作曲家。 神奈川県横浜市出身。 古賀政男の後輩にあたり、明治大学マンドリン倶楽部を経て作曲家になった。1934年(昭和9年)、「赤城の子守唄」の大ヒットで一躍人気作家となった。コロムビアレコードを中心に活躍し、数々の曲を作曲した。 夫人は1932年のロサンゼルス五輪水泳代表選手で、のちに宝塚歌劇団(23期生、芸名「水尾みさを」)を経て映画界入りした女優の横田みさを。 1985年9月9日没、墓所は静岡県駿東郡小山町の冨士霊園。 この項目は、音楽家(演奏者・作詞家・作曲家・編曲家・バンドなど)に関連した書きかけの項目です。
新 規矩男(あたらし きくお、1907年7月30日 - 19… 新 規矩男(あたらし きくお、1907年7月30日 - 1977年9月17日)は、日本の西洋美術史家。 1907年(明治40年)三重県名賀郡生まれ。三重県立上野中学校から広島陸軍幼年学校卒、陸軍士官学校中退、1929年(昭和4年)第一高等学校卒業、1932年(昭和7年)東京帝国大学文学部美学美術史学科卒業、東京美術学校講師。1934年(昭和9年)ニューヨーク市メトロポリタン美術館東洋部助手。1937年(昭和12年)ヨーロッパ諸国を歴遊して帰国、東京美術学校に復帰、1938年(昭和13年)講師嘱託、1946年(昭和21年)東京美術学校教授、1952年(昭和27年)東京芸術大学美術学部教授。 1956年(昭和21年)、東京大学イラク・イラン遺跡調査団(団長:江上波夫)に加わる。
鳴坂 健二(なるさか けんじ、1907年7月30日 - 19… 鳴坂 健二(なるさか けんじ、1907年7月30日 - 1993年6月13日)は、日本の経営者。山陽電気鉄道社長を務めた。 岡山県出身。旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)を経て、1933年に同志社大学法学部を卒業し、同年に神明自動車に入社。1943年に山陽電気鉄道に転じ、1957年11月に取締役に就任し、1959年9月に常務、1966年6月に専務、1969年11月に副社長を経て、1973年5月に社長に就任。1977年6月に取締役相談役を経て、1981年6月に相談役に就任。 1970年11月に藍綬褒章を受章し、1977年11月に勲四等旭日小綬章を受章。 1993年6月13日、心不全のために死去。
厨川 文夫(くりやがわ ふみお、1907年7月30日 - 1… 厨川 文夫(くりやがわ ふみお、1907年7月30日 - 1978年1月16日)は、日本の英語・英文学者。文学博士(論文博士・1950年)(学位論文『古英詩研究』)。慶應義塾大学名誉教授。従四位勲三等旭日中綬章。 英文学者・厨川白村(辰夫)の長男で、父が第五高等学校教師で赴任していた熊本県で生まれた。母・蝶子は、ジャーナリスト・福地源一郎の次女(源一郎によると姪の娘)である。1923年(大正12年)9月の関東大震災で父を亡くした。その後は京都府立第三中学校から東京に移住し芝中学校を経て、慶應義塾大学に進学し、詩人・西脇順三郎の薫陶を受け、1931年(昭和6年)に卒業、同大学の助手となった。在学中には、叙事詩『ベーオウルフ』を翻訳し、1932年(昭和7年)に大学紀要に掲載されて岡倉賞を受賞した。
舩山 信一(ふなやま しんいち、1907年7月29日 - 1… 舩山 信一(ふなやま しんいち、1907年7月29日 - 1994年3月16日)は、日本の哲学者・マルクス主義者。立命館大学名誉教授。マルクス、ヘーゲル、フォイエルバッハの研究を通じて人間学的唯物論を確立した。船山信一とも書かれる。 山形県東置賜郡吉島村(現:川西町)生まれ。米沢中学校(現:山形県立米沢興譲館高等学校)、山形高等学校を経て、1930年、京都帝国大学文学部哲学科卒業。西田幾多郎の下で哲学を学ぶ。マルクス主義者であることから、学派的には三木清、戸坂潤らとともにいわゆる西田左派に属する。1932年、戦前の著名なマルクス主義団体である唯物論研究会を戸坂潤らと結成。1933年、日本プロレタリア科学同盟に参加。
小尾 乕雄(おび とらお、1907年(明治40年)7月29日… 小尾 乕雄(おび とらお、1907年(明治40年)7月29日 - 2003年(平成15年)2月23日)は、主に昭和時代に活動した教育者である。山梨県北巨摩郡長坂町(現北杜市)出身。 東京都教育委員会教育長、学校法人文教大学学園名誉学園長・学園長・理事長、文教大学(立正女子大学)・文教大学女子短期大学部(立正女子大学短期大学部)学長、財団法人日本青年館理事長、日本私立短期大学協会会長などを歴任する。。長男の小尾圭之介は元日本放送協会解説委員で晩年は乕雄の後を継いで文教大学理事長を務めた。孫の小尾一介は元Google日本法人執行役員などを務めた実業家。 旧制長野県立諏訪中学校(現:長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)、東京高等師範学校、東京文理科大学を卒業。
高野 巽(たかの たつみ、1907年7月29日 - 没年不明… 高野 巽(たかの たつみ、1907年7月29日 - 没年不明)は昭和期の日本の文学者。ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの研究で知られる。 熊本県に生まれる。熊本県立玉名中学校(1925年卒業)、第五高等学校を経て、東京帝国大学文学部を卒業した。 東大卒業後、熊本高等工業学校講師、教授、第五高等学校教授を経て熊本大学教授となる。1961年から熊本大学法文学部長に就任した。定年退官まで母校である第五高等学校の後身の熊本大学の教壇に立ち続けた。 また、学生運動が盛んな頃は学生部長も務めた。退官後は名誉教授となり、熊本工業大学の教授も務めた。
中山 清(なかやま きよし、1907年(明治40年)7月28… 中山 清(なかやま きよし、1907年(明治40年)7月28日 - 1994年(平成6年)11月25日)は、日本の武道家、伝統医。日本武道医学会の設立者で、日本武道医学の創始者である。 日本武道医学会会長、大日本武徳会本部理事、同東京支部理事長、拓殖大学旧特設理療科教師(現・東洋鍼灸専門学校)、呉竹学園理事・教師、千代田学園教師を務めた。大日本武徳会柔道範士九段、水泳範士九段。 1907年(明治40年)7月28日、長崎県に生まれる。幼少の頃より水泳・柔・剣の訓練を受ける。 1932年(昭和7年)日本大学を卒業。かたわら町道場師範代をつとめ整骨術鍼灸按術を研修した。揚心流系柔術とりわけ天神真楊流柔術と真之神道流柔術を深く修行し、この系統である活殺自在の技法に生涯をかけた。
井沼 清七(いぬま せいしち、1907年7月27日 - 19… 井沼 清七(いぬま せいしち、1907年7月27日 - 1973年10月1日)は、日本の男子陸上競技(短距離走)選手。青森県出身。早稲田大学在学中、1928年アムステルダムオリンピックに4×100メートル (m)リレーで出場した。青森県初のオリンピック選手である。 1907年、青森県北津軽郡中里村(現・中泊町)において、井沼覚五郎の四男として生まれる。井沼家は大地主で、覚五郎は村政にたずさわり、郡会議員も務めた人物である。兄の井沼豊助は実業家(津軽鉄道取締役、津軽酒造会社社長など)として活動し、第2代中里町長を務めるとともに、青年相撲の振興にあたり、県相撲連盟幹部を務めた。 中里尋常小学校高等科(現・中泊町立中里小学校)卒業後、青森県立弘前中学校(現・青森県立弘前高等学校)に進む。
岡村 弘(おかむら ひろし、1907年7月27日 - 199… 岡村 弘(おかむら ひろし、1907年7月27日 - 1993年7月17日)は、日本のドイツ文学者、小説家。 倉本兵衛の筆名で戦時中に私小説を書いた。 高知市出身。1931年東京帝国大学文学部独文科卒。同大学院をへて、松江高等学校教授。1949年島根大学助教授、1952年神戸大学教養部助教授、教授、教養部長。1971年名誉教授。関西学院大学教授。1976年梅花女子大学教授。勲三等旭日中綬章受勲。 英語学者の岡村弘(ひろむ、1912-?)は別人。
白川 渥(しらかわ あつし、1907年(明治40年)7月27… 白川 渥(しらかわ あつし、1907年(明治40年)7月27日 - 1986年(昭和61年)2月9日)は、小説家。明石短期大学名誉教授。 愛媛県新居浜市出身。本名は正美。東京高等師範学校卒。横光利一に師事、『日暦』『文芸首都』などに参加。1940年「崖」が芥川賞候補。戦後は中間小説を書き、54年「野猿の言葉」が直木賞候補。兵庫師範学校教師、神戸市教育委員長、明石短期大学教授。神戸在住。しばしば映画化された。
赤沢 正道(赤澤 正道、あかざわ まさみち、1907年(明治… 赤沢 正道(赤澤 正道、あかざわ まさみち、1907年(明治40年)7月26日 - 1982年(昭和57年)1月20日)は、日本の実業家、政治家。赤沢組会長。自治大臣兼国家公安委員長。 山陰労災病院の誘致、国道9号の拡幅、美保基地周辺の民生安定事業など、郷土に残した足跡は多い。衆議院議員で、経済産業大臣などを務める赤沢亮正は孫。 鳥取県米子市西倉吉町に生まれた。父・康平は、徳島県出身の土木建築業。旧徳島藩士である。明治30年代から始まった山陰本線の建設に参加するため米子に進出、業界のリーダーとして業績を積み上げた。 また康平は、邸内に造った弓道場で毎朝弓を引いたといわれ、赤沢家は市民から一目置かれる家庭だった。