岩崎 貢(いわさき みつぐ、1893年11月19日 - 19… 岩崎 貢(いわさき みつぐ、1893年11月19日 - 1975年5月25日)は、日本の政治家。大分県議会議長・自由民主党大分県支部連合会長などを歴任した。 1893年11月19日、大分県北海部郡青江村にて、岩崎宝十郎の次男として誕生する。臼杵中学校に通うも、病気のため中退する。その後、20歳で憲政会の青年会津久見分会長となる。大正期には箕浦勝人を支持し、普通選挙運動に加わった。1924年5月には、衆院選における羽田彦四郎の選挙結果を巡って乱闘事件を起こし、検挙される。しかし、この「大分三区事件」により、対立候補であり、羽田を制して当選した木下謙次郎の得票に無効票があることがわかり、選挙結果は覆った。
渋谷 紫郎(しぶや しろう、1893年〈明治26年〉11月1… 渋谷 紫郎(しぶや しろう、1893年〈明治26年〉11月18日 - 1945年〈昭和20年〉1月12日)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争初期に第十六駆逐隊司令として南方攻略戦に参加し、のち第百一戦隊司令官として戦死した海軍中将である。 長野県出身。海軍兵学校44期で、席次は95名中32番。1917年(大正6年)少尉任官。渋谷は海軍水雷学校高等科学生を修了した水雷専攻士官で、ほぼ一貫して海上勤務に終始した海上戦闘の猛者であった。4艦の水雷長、3艦の駆逐艦長、軽巡洋艦「神通」副長を経て、第一水雷隊及び第二十七駆逐隊の司令を務めた。この間1928年(昭和3年)少佐、1934年(昭和9年)中佐へ進級。1939年(昭和14年)11月大佐へ進級し、第一掃海隊司令、第七駆逐隊司令を経て第十六駆逐隊司令に就任。
山田 龍雄(やまだ たつお、1893年(明治26年)11月1… 山田 龍雄(やまだ たつお、1893年(明治26年)11月17日 - 1945年(昭和20年)4月2日)は、日本の大蔵官僚。逓信次官。 高知県出身。旧制高知県立第一中学校(現・高知県立高知追手前高校)、旧制第六高等学校を経て、1918年(大正7年)に高等文官試験に合格し、翌年に東京帝国大学法科大学法律科を卒業した。大蔵省では銀行局に配属した後、司税官、税務監督局事務官、同書記官、銀行検査官、預金部書記官・監理課長、大蔵書記官・主計局予算決算課長、主計局予算課長、内閣調査局調査官、大蔵省主税局長・醸造試験所長を歴任した。1937年(昭和12年)、大蔵省造幣局長に就任し、1940年(昭和15年)に逓信次官に転じた。
大黒 富治(おおぐろ とみじ、1893年11月15日 - 1… 大黒 富治(おおぐろ とみじ、1893年11月15日 - 1965年12月18日)は、秋田県出身の歌人、農業研究家。旧姓丹波。(昭和28年、仁別務沢、植物園にて撮影) 1893年(明治26年)11月15日、仙北郡大川西根村(現・大仙市)において丹波常吉とフミの間に六男三女の末っ子として生まれる。 秋田農業学校(現・秋田県立大曲農業高等学校)を卒業後、1909年(明治45年)に鹿角郡の曙尋常高等小学校の代用教員となり、1915年(大正4年)から仙北郡花館村(現・大仙市)の農商務省農事試験場陸羽支場にて農学博士の寺尾博の助手として作物育種事業に従事する。同僚の仁部富之助らとともに冷害に強い米の品種改良に取り組み、陸羽132号、秋田1号、秋田7号などの育種に尽力した。
小林 巳智次(こばやし みちじ、明治26年(1893年)11… 小林 巳智次(こばやし みちじ、明治26年(1893年)11月15日 - 1977年1月17日)は、日本の法学者。学位は農学博士。専門は民法・産業法・農業法。特に、入会権・永小作権・農林に関する法律を研究。末弘厳太郎門下。 この他、北海道労働審議会委員、北海道地方労働委員会委員、札幌地方裁判所家事調停委員、大政翼賛会参与などを務めた。 『北海学園大学法学研究 第7巻第1号』(北海学園大学法学会、1971年)
三好 輝彦(みよし てるひこ、1893年〈明治26年〉11月… 三好 輝彦(みよし てるひこ、1893年〈明治26年〉11月15日 - 1943年〈昭和18年〉6月8日)は、日本の海軍軍人。海兵43期。最終階級は海軍少将。兄は弘前第8師団長を務めた陸軍中将 三好一(陸士8期)である。 1893年(明治26年)11月15日、大分県竹田市に生まれる。旧制大分県立宇佐中学校から海軍兵学校第43期入校。入校時成績順位は100名中第99位、卒業時成績順位は96名中第41位。 海軍水雷学校高等科学生、海軍潜水学校甲種学生を修了した、水雷科(潜水艦)を専門とする士官である。 戦艦「陸奥」艦長に着任した3か月後の1943年(昭和18年)6月8日、柱島泊地における「陸奥」の爆沈事故により殉職し、同日付で海軍少将に進級した。
垂水 克己(たるみ かつみ、1893年〈明治26年〉11月1… 垂水 克己(たるみ かつみ、1893年〈明治26年〉11月15日 - 1972年〈昭和47年〉7月7日)は最高裁判所判事。大阪府出身。 旧制三高時代には弁論部に所属。1918年に東京帝国大学卒業。 東京地裁兼区裁予備判事、東京控訴院部長、大審院判事、東京刑事地方裁判所所長、宮城控訴院長(後の仙台高裁長官)、大阪高裁長官、東京高裁長官を歴任。裁判官時代は満鉄疑獄事件や原敬暗殺事件等を担当した。 1955年(昭和30年)5月に最高裁判事に就任。井上登裁判官の後任。人選に際には、最高裁側が井上が民事専門であったため、同系統の安部恕大阪高裁長官を推薦するほか、民主党筋からは当時の旧鳩山派の参議院議員であった石坂豊一の長男である石坂修一広島高裁長官、さらに下飯坂潤夫や検察関係者など、10人前後が銓衡の対象となった。
望月 春江(もちづき しゅんこう、1893年(明治26年)1… 望月 春江(もちづき しゅんこう、1893年(明治26年)11月13日 - 1979年(昭和54年)2月13日)は、日本の画家。本名は尚(ひさし)。 山梨県西山梨郡住吉村増坪(現在の甲府市増坪町)に父・宗正、母・もとの二男として生まれる。1908年(明治41年)に山城尋常高等小学校高等科(現在の甲府市立山城小学校)を卒業し、同年に山梨県立甲府中学校(現在の山梨県立甲府第一高等学校)に入学。卒業後、1914年(大正3年)に東京美術学校日本画科に入学。1919年(大正8年)に同科を首席で卒業する。卒業後は結城素明に師事するとともに、文部省大臣官房図書課の嘱託となり、1920年(大正9年)には東京女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)の講師(後に同校の教授)となった。
玉村 方久斗(たまむら ほくと、本名:善之助、1893年11… 玉村 方久斗(たまむら ほくと、本名:善之助、1893年11月13日 - 1951年11月8日)は、大正から昭和初期に、日本画における前衛を追求したことで知られる日本画家。別号に、連城、北斗がある。本名の玉村善之助、またタマムラ・ゼンノスキーと名乗っての活動もあった。 京都市(後の中京区)の下駄問屋の家に生まれる。京都市立美術工芸学校から京都市立絵画専門学校(京都市立芸術大学の前身)に進んで菊池芳文に師事し、1915年に卒業した。岡本神草、甲斐庄楠音、入江波光らと日本画研究団体「密栗会」を結成し、展覧会を開催するが、並行して院展にも出品し入選する。 1916年に東京へ移り、院展を中心に活動し、1918年には「樗牛賞」を受賞したが、1919年を最後に院展を離れた。
横山 四郎(横山 四朗、よこやま しろう、1893年〈明治2… 横山 四郎(横山 四朗、よこやま しろう、1893年〈明治26年〉11月13日 - 没年不明)は、日本の薬剤師、地主、政治家、神奈川県多額納税者、実業家。神奈川県議会議員、横浜市会議員。第85代神奈川県議会議長横山哲夫の父。 神奈川県橘樹郡旭村(現・横浜市)出身。横山秀民の長男。1916年、東大農科実科を卒業。1919年、薬剤師試験合格。日本大学法科卒業。農業を営む。横浜市方面委員、土地賃貸価格調査委員を経て1938年以来横浜市会議員に2回当選する。 横浜市功労者となり、同市学務委員、所得調査委員、家屋賃貸価格調査委員を歴任する。1955年4月以降3回神奈川県議会議員に当選する。1965年11月、勲五等を受く。
一志 茂樹(いっし しげき、 1893年11月12日 - 1… 一志 茂樹(いっし しげき、 1893年11月12日 - 1985年2月27日)は日本の郷土史家、教育者。
松平 康昌(まつだいら やすまさ、1893年(明治26年)1… 松平 康昌(まつだいら やすまさ、1893年(明治26年)11月12日 - 1957年(昭和32年)1月4日)は、昭和期の日本の華族、官僚。旧福井藩主家(越前松平家)第19代当主。従二位勲一等侯爵。明治大学政治経済学部教授や相模女子大学学長を務めた。夫人は徳川家達二女の綾子。
田路 舜哉(とうじ しゅんや、1893年11月12日 - 1… 田路 舜哉(とうじ しゅんや、1893年11月12日 - 1961年7月5日)は、日本の実業家。住友商事の創業者。「ケンカ田路」・「ムラマサ(名刀村正の意)」の異名をもち、住友商事の「建業の大宗」と称された。 1893年、明治26年11月12日、兵庫県宍粟郡一宮町(現宍粟市)安積において出生。父、本條竹五郎、母ユキの長男として生まれる。後に、田路家に養子に入り、母方の田路姓を名乗る。実弟の本條猛二は、山陽自動車運送の創業者。 戦争終結が目前にせまった昭和20年8月9日京都衣笠の住友別邸に第七代住友総理事古田俊之助(住友最後の総理事)以下、住友本社の課長以上の幹部が緊急集結し、戦後の具体策の検討がはじまった。
星野 喜代治(ほしの きよじ、1893年(明治26年)11月… 星野 喜代治(ほしの きよじ、1893年(明治26年)11月11日 - 1979年(昭和54年)10月14日)は、日本の大蔵官僚、銀行家。銀行局検査課長を最後に退官し、朝鮮銀行副総裁を務める。第二次世界大戦終結後は同行の特殊清算人に選ばれ、第二会社として日本債券信用銀行の前身となる日本不動産銀行を設立し、頭取、会長を歴任。日債銀相談役。 福島県出身。父は酒造業を営み、その次男であった。会津中学、一高を経て1918年(大正7年)7月東京帝大を卒業。水野敏雄は中学以来の同級生である。在学中に文官高等試験に合格し、大蔵省に入省した。臨時調査局属。総務部総務課、外国為替管理部総務課、大臣官房秘書課のほか、銀行局の普通銀行課、銀行課、検査課で課長を務め、1938年(昭和13年)7月辞職。
竹岡 勝也(たけおか かつや、1893年11月10日 - 1… 竹岡 勝也(たけおか かつや、1893年11月10日 - 1958年9月30日)は、国学研究を中心に、日本思想史を専門とする日本の歴史学者で、九州帝国大学教授などを歴任した。 阿部 勝也として、山形県飽海郡上郷村山寺(後の松山町→酒田市)に生まれる。阿部一郎(阿部襄の父)、阿部次郎、堀三也、阿部余四男は兄、阿部六郎は弟である。 地元の山寺尋常高等小学校から、1907年に山形県立山形中学校(山形県立山形東高等学校の前身)に進み、さらに1912年には仙台の旧制・第二高等学校第一部乙類に入学した。二高では、土井晩翠、登張竹風らの薫陶を受けた。 1915年7月には東京帝国大学に進み、1918年に文科大学史学科を卒業した。
内藤 隆(ないとう たかし、1893年(明治26年)11月1… 内藤 隆(ないとう たかし、1893年(明治26年)11月10日 - 1979年(昭和54年)7月22日)は、日本の実業家、政治家。位階は従三位。衆議院議員(6期)。 富山県出身。早稲田大学政治経済科、日本大学法学部で学ぶ。北陸タイムス編集局長兼主筆、日本電力嘱託、大同電力嘱託、庄川電力嘱託などを務めた。 日本自由党富山県支部幹事長を経て、1949年1月、第24回衆議院議員総選挙に富山県第1区から民主自由党所属で出馬し当選。その後、第25回、第28回から第31回総選挙で5回当選し、衆議院議員を通算六期務めた。この間、自由党人事部長、自由民主党富山県連政調会長、同党議員総会副会長、富山県緑化推進委員会委員長、衆議院行政監察特別委員長、同逓信委員長、同運輸委員長、吉田内閣国務大臣・緒方竹虎秘書官、第2次岸内閣・厚生政務次官などを歴任した。
小池 新太郎(こいけ しんたろう、1893年11月10日 -… 小池 新太郎(こいけ しんたろう、1893年11月10日 - 1949年7月2日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 兵庫県宍粟郡染河内村(現・宍粟市)生まれ。1923年5月、家督相続。兵庫県立農学校で学んだ後、普通文官試験に合格して、1930年まで税務署属であった。染河内村農業会長、同森林組合長、同農地委員会長、宍粟郡畜産組合長(1939年3月22日から)、同家畜保険組合長、同輓馬組合長、兵庫県農業会宍粟支部長、中国食品工業(株)取締役社長、日東工業(株)取締役となる。 1936年2月11日から1940年2月9日までと、同月11日から1946年3月5日まで第17・18代染河内村長を務めた。
服部 譲次(はっとり じょうじ、1893年〈明治26年〉11… 服部 譲次(はっとり じょうじ、1893年〈明治26年〉11月8日 - 没年不詳)は、日本の航空技術者。三菱重工業株式会社名古屋航空機製作所技術部部長、新三菱重工業専務取締役などを歴任した。 愛知県名古屋市にて育った。旧制愛知県立熱田中学校(現・愛知県立瑞陵高等学校)、旧制第八高等学校を経て、1918年、東京帝国大学工科大学を卒業する。大学卒業後は三菱造船に入社し、神戸造船所に配属される。 1920年に三菱造船の名古屋航空機製作所に入る。1921年にドイツに出張し、1924年に帰国。1923年より、名古屋航空機製作所にて設計課と研究課の課長に就任する。その後、三菱造船は三菱重工業に衣替えする。三菱重工業の名古屋航空機製作所にて技術部の部長などを歴任した。
加来 止男(かく とめお、1893年(明治26年)11月8日… 加来 止男(かく とめお、1893年(明治26年)11月8日 - 1942年(昭和17年)6月6日)は、日本の海軍軍人。空母「飛龍」艦長としてミッドウェー海戦で戦死し、一階級特進で最終階級は海軍少将。 1893年11月8日、熊本県八代郡松高村に生まれた。外交官・加来美知雄は兄。熊本県立八代中学校2年に在学中、有明海に練習艦隊が入港したのを見て感激したのが契機となり、中学校卒業後、1911年9月に海軍兵学校42期に入学する。同期生には加賀艦長として加来と共にミッドウェー海戦で戦死する岡田次作がいた。18歳での入学はやや遅く受験では苦労したようで入学席次も入校時120名中98番である。しかし、卒業時には席次も117名中43番まで上がった。
島崎 こま子(しまざき こまこ、1893年11月7日 - 1… 島崎 こま子(しまざき こまこ、1893年11月7日 - 1979年6月29日)は、島崎藤村の次兄広助の次女。藤村の小説『新生』の「節子」のモデル。結婚後の氏名は長谷川こま子。 長野県吾妻村の高等小学校4年後上京。三輪田高等女学校の3年に編入、根岸の親類(藤村の長兄の家族)の家から通っていた。卒業後に妻を亡くした藤村の家に住み込んだ。最初は姉ひさと一緒だったが、姉は結婚して家を出た。 19歳の1912年半ば、藤村と関係を結び、藤村との子を妊娠する。 藤村は1913年4月にパリに留学。同年8月に藤村との子を出産するも養子に出された。この養子は10歳時に1923年の関東大震災で行方不明となる。 藤村は1916年に帰国し、関係が再燃。
粟屋 仙吉(あわや せんきち、1893年〈明治26年〉11月… 粟屋 仙吉(あわや せんきち、1893年〈明治26年〉11月7日 - 1945年〈昭和20年〉8月6日)は、日本の内務官僚、政治家。ゴーストップ事件時の大阪府警察部長、広島市への原子爆弾投下時の広島市長として知られる。東京府士族。 鉄道官吏・粟屋頴祐(えいすけ)の二男として生まれる。父の転勤先の仙台で生まれたため「仙吉」と命名される。父は山口県出身だが、鉄道に勤務していたために転勤をくりかえし、その任地の一つとして1902年鳥取の米子に来た。 1906年鳥取県立第二中学校(現在の米子東高校)に入学し、野球と柔道に熱中した。 1911年12月林重浩校長が鳥取中学校へ転任することになった際、仙吉は生徒の先頭に立って留任運動のリーダーになった。
古田 良一(ふるた りょういち、1893年11月7日 - 1… 古田 良一(ふるた りょういち、1893年11月7日 - 1967年7月12日)は、日本の日本史学者。 愛知県愛知郡熱田町(現・名古屋市熱田区)出身。京都帝国大学文科大学史学科で、内田銀蔵に師事した。1918年卒業。卒業論文は「徳川時代に於ける史学の発達」。神戸市史編纂員を経て、東北帝国大学法文学部助教授となり、1929年教授。東北大学教授となり1957年定年退官、名誉教授、宮城学院女子大学教授。1947年「東廻海運及び西廻海運の研究」で文学博士。東北史学会を創立し、「宮城県史」「仙台市史」などを編集した。
永井 英修(ながい えいしゅう、1893年(明治26年)11… 永井 英修(ながい えいしゅう、1893年(明治26年)11月7日 - 1967年(昭和42年)2月19日)は、大正から昭和期の鉱山技術者、実業家、政治家。衆議院議員。戦後の炭鉱開発を担った。 佐賀県小城郡多久村(現多久市多久町西ノ原)で永井英迅の長男として生れる。1920年(大正9年)東京帝国大学工学部採鉱学科を卒業した。 1920年、高取鉱業(佐賀県)に入社し、杵島炭鉱長、大鶴炭鉱長、鉱業部長、常務取締役を歴任。その他、湘南製作所取締役、住ノ江造船取締役、西日本坑木取締役、大日鉱業常務取締役、杵島炭礦専務取締役、大日鉱業社長、佐賀相互銀行社長、花菱商事社長、自由文化出版社代表者などを務めた。
犀川 長作(さいかわ ちょうさく、1893年11月5日 - … 犀川 長作(さいかわ ちょうさく、1893年11月5日 - 1931年9月3日)は、大正から昭和期の日本の弁護士、法学者、教育者、立教大学教授。 富山県東礪波郡出身。早稲田大学卒業。大正から昭和にかけて弁護士を務めた。 1925年(大正14年)には衆議院議員選挙法(普通選挙法)改正によって男子普通選挙が実現されたが、この際、犀川は同改正法のほか、改正貴族院令及び同時に制定された治安維持法の解説書を出版するなど、法律学に関する執筆活動も行った。 大正期には立教大学経済学部教授を兼務し、細野三千雄とともに民法と刑法を講じた。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
4代 瀬川 弥右衛門(せがわ やえもん、1893年〈明治26… 4代 瀬川 弥右衛門(せがわ やえもん、1893年〈明治26年〉11月4日 - 1967年〈昭和42年〉11月21日)は、日本の資産家、実業家、政治家(貴族院多額納税者議員)。「弥右衛門」の名前は代々襲名されており、本記事に記載するのは4代目である。 岩手県稗貫郡花巻町出身。出生名は周蔵。花巻町でも有数の豪農である瀬川家に、3代弥右衛門の子として生まれ、父の死去に伴い1922年(大正11年)1月に家督を相続し弥右衛門を襲名した。 慶應義塾大学経済学部を卒業。父が没した1922年の時点では瀬川家は県下一の多額納税者であった。この時期には農家から貸金業に中心は移っていたとみられている。豊富な資金を岩手軽便鉄道・花巻電気などに投資し、その役員となった。
加藤 千一(かとう せんいち、1893年(明治26年)11月… 加藤 千一(かとう せんいち、1893年(明治26年)11月4日 - 1981年(昭和56年)8月20日)は、日本の政治家。愛知県守山市長。 現在の愛知県瀬戸市生まれ。瀬戸窯業専門学校、名古屋高等工業学校卒。大倉孫兵衛・和親父子が設立した日本陶器合名会社大倉製陶研究所に所属していたが、同研究所が九州に移転する際、加藤は愛知に残った。陶磁器絵付師の杉村作太郎に招かれ、1916年、愛知県瀬戸市に設立された合資会社杉村組で工場長を務める。その後採算が取れなくなり、東京紙器社長の松井氏より紹介された、東京財界有力者の星野錫とともに、1917年、名古屋市北区に移転し設立された中央窯業株式会社で工場長を務める。
長谷川 万吉(はせがわ まんきち、1893年(明治26年)1… 長谷川 万吉(はせがわ まんきち、1893年(明治26年)11月3日 - 1970年(昭和45年)7月14日)は、日本の地球物理学者。京都大学名誉教授。 新潟県西蒲原郡漆山村(現・新潟市西蒲区)出身。1916年(大正5年)広島高等師範学校卒業後、熊本県立済々黌中学の理科教師となるが1年で退職し、1917年(大正6年)広島高等師範学校研究科に入るが4カ月で中退。1921年(大正10年)京都帝国大学(現京都大学)理学部卒業。1924年(大正13年)同大学助教授。1928年(昭和3年)にドイツに留学し、ポツダムの地球物理学研究所で研究に当たる。1930年(昭和5年)8月にストックホルムで開催された国際測地学・地球物理学連合総会に参加した後、11月に帰国。
富塚 清(とみつか きよし、1893年11月3日 - 198… 富塚 清(とみつか きよし、1893年11月3日 - 1988年3月9日)は、日本の機械工学者。内燃機関技術の研究改良における先駆的人物として知られる。 千葉県山武郡生まれ。5歳で小学校に入学し、1903年、大網高等小学校、1906年、旧制千葉中学校に入学する。1911年、第一高等学校に無試験入学。1917年、東京帝国大学工学部機械工学科卒業。1918年4月、東京帝国大学航空学調査委員会(のち航空研究所)の嘱託、同年11月、東京帝国大学助教授。1932年、教授。日本におけるガソリンエンジン国産化の初期から研究に携わり、日本の航空エンジン研究の先駆者の役割を果たすと共に、多くの技術者および研究者を育てた。
沖 蔵(藏、おき おさむ、1893年(明治26年)11月2日… 沖 蔵(藏、おき おさむ、1893年(明治26年)11月2日 - 1978年(昭和53年)10月29日)は、大正末から昭和期の弁護士・農民運動家・政治家。衆議院議員。 福岡県山門郡水上村大字小田(東山村、瀬高町を経て現みやま市瀬高町小田)で、沖健雄の二男として生まれる。福岡県立中学伝習館(現福岡県立伝習館高等学校)を経て、1918年(大正7年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し、さらに1922年(大正11年)同大法学部法律学科(独法)を卒業した。 弁護士を開業し、法政大学教授、上智大学講師も務めた。1923年(大正12年)から2年間、自費でドイツを中心としたヨーロッパ各国の政治経済の状況を視察して帰国し、郷里に戻った。
原田 敏明(はらだ としあき、1893年11月1日 - 19… 原田 敏明(はらだ としあき、1893年11月1日 - 1983年1月17日)は、日本の民俗学者、宗教学者。東海大学名誉教授。熊本県出身。 1893年、熊本県山本郡吉松村(現在の熊本市北区(鹿本郡植木町))に原田官太の二男として生れる。吉松尋常高等小学校、熊本県立鹿本中学校(現在の熊本県立鹿本高等学校)を卒業の後、1919年、神宮皇學館本科を卒業。東京帝國大學文学部宗教学宗教史学科選科に入学。姉崎正治の指導のもと、「ヘブライの宗教意識の発達」を研究テーマとする。1922年に選科、1927年に本科を卒業。東大在学中には宗教学研究調査を委嘱され、雑誌『宗教研究』の編集などにも携わっている。 青山学院、東洋大学、大谷大学、龍谷大学、九州帝國大學、日本大学、東京帝國大學、京都帝國大學、東京文理科大学、大正大学などに出講、また帝国学士院からの研究費補助、「本邦農耕儀礼の宗教民族学的研究」のテーマで有栖川宮記念奨学金を受けるなどして、研究生活に従事。
皆見 省吾(みなみ せいご、1893年11月1日 - 197… 皆見 省吾(みなみ せいご、1893年11月1日 - 1975年9月6日)は、日本の皮膚科医。九州大学名誉教授。 岡山医科大学、九州帝国大学皮膚科教授を務め、皮膚科学を研究。若い皮膚科研究者を育てる為に皆見賞を創設。ドイツ留学中に世界大戦後の戦傷後の腎不全を研究。挫滅症候群(クラッシュ・シンドローム)を世界で初めて報告した。 広島市生まれ。1918年、東京帝国大学(現東京大学)医学部卒業。1922年、文部省在外研究員として渡欧(2年間)。1924年、岡山医科大学(岡山大学医学部の前身)皮膚科教授。1929年、第29回日本皮膚科学会を岡山で主催。1931年、九州帝国大学(九州大学の前身)皮膚科教授。
清瀬川 敬之助(きよせがわ けいのすけ、1893年11月1日… 清瀬川 敬之助(きよせがわ けいのすけ、1893年11月1日 - 1967年7月1日)は、秋田県平鹿郡大森町(現:秋田県横手市)出身で楯山部屋に所属した大相撲力士。本名は三輪 敬之助(みわ けいのすけ)(旧姓:守屋)。5代伊勢ヶ濱。最高位は東関脇。 1893年11月1日に秋田県平鹿郡大森町(現:秋田県横手市)で生まれる。地元の尋常高等小学校では柔道の猛者として活躍していたが、土地相撲の世話人だった花瀬川の世話によって、熊ヶ谷部屋へ入門、1911年1月場所において新序から初土俵を踏んだ。入門後も柔道道場には通い続け、力士としては史上初となる講道館段位(三段)を取得した。 1917年5月場所で新入幕を果たすと、右四つに組んでから上手投げ・下手投げなどの投げ技や、外掛けなどの足技を始めとした多彩な技を繰り出す取り口で、出足を使う相撲では無かった。
森谷 延雄(もりや のぶお、1893年(明治26年)10月2… 森谷 延雄(もりや のぶお、1893年(明治26年)10月28日 - 1927年(昭和2年)4月5日)は、日本の家具デザイナー、インテリアデザイナー、東京高等工芸学校(現在の千葉大学工学部)教授。 旧制千葉県立佐倉中学校(現在の千葉県立佐倉高等学校)を経て、東京高等工業学校(現在の東京工業大学)工業図案科を卒業。清水組に入社し、1920~22年に海外派遣。ロンドン王立美術学校と中央美術工芸学校で家具デザインを学ぶ。「誠之堂」(東京都世田谷区から埼玉県深谷市に移築、1916年築、国の重要文化財)や「晩香廬」(東京都北区、1918年築、国の重要文化財)等の室内装飾を手掛けた。
岩田 千虎(いわた かずとら、1893年10月28日 - 1… 岩田 千虎(いわた かずとら、1893年10月28日 - 1966年10月6日)は、日本の彫刻家、獣医師。獣医師となったのちに37歳から彫刻の修得を始め、牛をはじめとする動物の彫刻で知られる。 1893年(明治26年)、熊本県飽託郡芳野村中河内(現・熊本市西区)に六人兄弟の末子として生まれた。千虎(かずとら)は父のつけた本名で、加藤清正から連想したものだろうと本人が語っている。子どもの頃から絵が好きで、河内小学校のときにかいた絵馬が地元の大明神に残るという。小学校卒業後、熊本農学校養蚕別科を経て、大阪府立農学校(現在の大阪府立大学)畜産学科に進み、1912年(大正元年)、獣医師免許を取得した。 1915年(大正4年)に大阪府立農学校を卒業。
吉原 矩(よしはら かね、1893年(明治26年)10月27… 吉原 矩(よしはら かね、1893年(明治26年)10月27日 - 1984年(昭和59年)8月8日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 茨城県出身。吉原文平の二男として生まれる。栃木県立真岡中学校(現栃木県立真岡高等学校)、仙台陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、工兵少尉に任官し鉄道連隊付となる。1918年(大正7年)11月、陸軍砲工学校高等科(24期)を卒業。1923年(大正12年)11月、陸軍大学校(35期)を卒業し鉄道第1連隊中隊長に就任。 1925年(大正14年)1月、陸軍省軍務局付勤務となり、軍務局課員、工兵監部員、陸大教官、陸軍省整備局課員、軍務局課員(兵務課)などを務め、1934年(昭和9年)8月、工兵中佐に昇進。
御木本 隆三(みきもと りゅうぞう、1893年(明治26年)… 御木本 隆三(みきもと りゅうぞう、1893年(明治26年)10月27日 - 1971年(昭和46年)6月6日)は、日本の著述家、ジョン・ラスキン研究者。 三重県志摩郡鳥羽町(現鳥羽市)に生まれる。御木本幸吉の長男。第一高等学校を経て東京帝国大学文科に学ぶ。1914年に京都帝国大学に進み、河上肇のもと、イギリスの思想家、美術評論家のジョン・ラスキンを学ぶ。同校中退後、父親の会社で働きはじめるも、ラスキンは「海の底で真珠を探してドレスを飾るために100人のダイバーを雇うべきではない」(原文は「袖に縫い付けるビーズを見つけるために100人のダイバーを雇ってはいけない」)と述べているとして家業に批判的であった。
大津 敏男(おおつ としお、1893年(明治26年)10月2… 大津 敏男(おおつ としお、1893年(明治26年)10月26日 - 1958年(昭和33年)12月27日)は、第15代にして最後の樺太庁長官。現在の福岡県柳川市生まれ。 福岡県立中学伝習館、第五高等学校 (旧制)を経て、1918年(大正7年)、東京帝国大学法学部を卒業した。1916年軍務に服し少尉の位で陸軍主計少尉となった。1919年(大正8年)大阪府林務部に入り部長まで務めた。1928年(昭和3年)から1930年(昭和5年)まで内務省に入省、警視庁刑務部長、1931年(昭和6年)から1935年(昭和10年)まで長崎県内務部長、1935年(昭和10年)から1936年(昭和11年)は神奈川県経済部長、1936年(昭和11年)には満州国新京市の民生部総務部長。
佐喜眞 興英(さきま こうえい、1893年(明治26年)10… 佐喜眞 興英(さきま こうえい、1893年(明治26年)10月26日 - 1925年(大正14年)6月13日)は、沖縄県宜野湾市出身で、民俗学者。 1912年、沖縄県立第一中学校(現沖縄県立首里高等学校)を首席で卒業し。その後上京して1915年に第一高等学校独法科を卒業し、東京帝国大学独法科に入学。在学中から柳田國男に目をかけられた。1921年に帝大を卒業すると、裁判官になり福岡市・東京市・大阪市・岡山県津山市など各地に赴任。1925年、津山にて、肺結核のため31歳で死去。死後、穂積陳重の教えを受けて行った古代母権制研究が『女人政治考』として出版された。 16歳で新城ウタと結婚し一女(貞子)をもうけるが28歳の時に離婚。
高垣 勝次郎(たかがき かつじろう、1893年10月26日 … 高垣 勝次郎(たかがき かつじろう、1893年10月26日 - 1967年4月30日)は、日本の実業家。 旧三菱商事最後の社長で、戦後財閥解体された三菱商事を再興し初代社長も務めた。広島県尾道市出身。東京銀行の最後の頭取及び東京三菱銀行の初代頭取を務めた高垣佑は息子。 第一高等学校から1918年、東京帝国大学法学部を卒業後、新設された三菱商事に入社。ロンドン支店他、上海支店長、新京支店長、ハルビン支店長など、大半を大陸で過ごし三井物産に引けを取らない業績を上げた。1944年取締役、満州で終戦を迎え1946年帰国。同年常務取締役、翌1947年同社代表取締役社長就任。しかしGHQによる解散命令(財閥解体)を受け同社清算人となる。
矢田部達郎(やたべ たつろう、1893年10月24日-195… 矢田部達郎(やたべ たつろう、1893年10月24日-1958年3月24日)は、心理学者、京都大学名誉教授。
日比野 民平(ひびの みんぺい、1892年11月21日 - … 日比野 民平(ひびの みんぺい、1892年11月21日 - 1964年9月3日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 岐阜県加茂郡古井村(古井町を経て現美濃加茂市)出身。古井町長、岐阜県会議員、同第41代副議長(1934年11月21日から1935年10月16日)、同第51代議長(1943年11月24日から1944年11月22日)、所得税調査委員、加茂郡町村会長となる。 1936年の第19回衆議院議員総選挙において岐阜3区(当時)から立憲民政党公認で立候補して初当選。翌1937年の第20回衆議院議員総選挙で落選。1942年の第21回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。戦後は1946年の第22回衆議院議員総選挙において岐阜県(大選挙区制)から日本進歩党公認で立候補して当選。
松本 真一(眞一、まつもと しんいち、1892年(明治25年… 松本 真一(眞一、まつもと しんいち、1892年(明治25年)11月20日 – 1977年(昭和52年)8月8日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 静岡県で松本鋭市郎の長男として生まれる。4歳となり父の郷里和歌山県日高郡龍神村(現田辺市)に転居した。苦学し錦城中学校(現錦城学園高等学校)、第七高等学校造士館を経て、1920年(大正9年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業した。 1920年7月、台湾銀行に入行した。1926年(大正15年)7月、和歌山商工会議所書記長に転じ、1931年(昭和6年)5月まで在任した。その後、紀南新聞社長、熊野太陽社長に就任した。 1932年(昭和7年)8月、補欠選挙で和歌山県会議員に当選し、1935年(昭和10年)10月に再選され1939年(昭和14年)10月に任期満了となった。
末川 博(すえかわ ひろし、1892年(明治25年)11月2… 末川 博(すえかわ ひろし、1892年(明治25年)11月20日 - 1977年(昭和52年)2月16日)は、日本の法学者(民法)。法学博士(京都帝国大学・論文博士・1931年)。日本学士院会員。立命館大学名誉総長。京都帝国大学教授、戦後に立命館大学学長・学校法人立命館総長を歴任。立命館では末川を名誉総長として顕彰している。長男は立命館大学名誉教授で歴史学者の末川清。清の妻は日本画家・橋本関雪の孫娘。勲四等瑞宝章(1942年)、従四位(1945年)。岡松参太郎に師事。弟子に谷口知平、亀井秀夫、石本雅夫、浅井清信、草鹿浅之介、吉田五郎など。筆名に欽風生。 末川は滝川事件後、大阪商科大学で教鞭を執る傍ら、滝川事件により辞職した助教授・副手の復帰に向けて活動していた。
桃原 茂太(とうばる / ももはら しげた、1892年(明治… 桃原 茂太(とうばる / ももはら しげた、1892年(明治25年)11月18日 - 1955年(昭和30年)2月28日)は、沖縄県出身の弁護士、実業家、政治家。衆議院議員。 宜野湾間切大謝名(現宜野湾市)で、桃原正裕の長男として生まれる。沖縄県第一中学校、第五高等学校を経て、1918年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。その後、東洋拓殖 (株) に入社。同参事、同監事、同太田及び釜山支店支配人、日蘇石油販売 (株) 専務取締役などを務めた。 1934年、帰郷して那覇市松山町で弁護士を開業。1942年4月の第21回衆議院議員総選挙で沖縄県選挙区から出馬し、翼賛政治体制協議会の非推薦候補であったが当選し衆議院議員を一期務めた。
藤村 謙(ふじむら ゆずる、1892年(明治25年)11月1… 藤村 謙(ふじむら ゆずる、1892年(明治25年)11月16日 - 1977年(昭和52年)3月29日)は、大日本帝国陸軍軍人。陸軍士官学校第26期、陸軍大学校第38期卒業。最終階級は陸軍中将。 1892年(明治25年)に石川県石川郡野々市村本町で生まれた。村長・石川県議藤村理平の子。先祖は平氏か源氏か藤原氏かは定かでないが富樫氏に家老として仕えていた古い武士で、加賀一向一揆で滅びた後は帰農し、江戸時代には野々市郷の名主庄屋だったという。前田藩の参勤交代の際は小休所で、名字帯刀を許されていた。苗字は「小藤屋」であったが、明治維新を機に「藤村」と改めた。 生母の多美は生後間もなく亡くなり、圭に育てられる。
郭 沫若(クオ・モールオ、かく まつじゃく、1892年11月… 郭 沫若(クオ・モールオ、かく まつじゃく、1892年11月16日 - 1978年6月12日)は、中華民国・中華人民共和国の政治家・文学者・考古学者・歴史学者。中国の近代文学・歴史学の開拓者の一人。 原名は郭開貞で、開貞は諱、沫若は号にあたる。字は「鼎堂」。執筆時に用いた筆名は多く、高汝鴻・麦克昂・易坎人・杜頑庶・杜衎などである。 1892年11月16日、当時は嘉定(路)と呼ばれていた大肚河沿いの沙湾という小さな町で生まれた。この町は現在、四川省楽山市の中心市街地となっている。郭が生まれた当時、沙湾は約180世帯が住む町であった。地主である郭家の8番目の子として四川省嘉定府楽山県に生まれる。郭沫若には出生にまつわる一つの逸話があり、母親が彼を身篭った際に不思議な豹の夢を見た経験から、「豹の生まれ変わり」として「文豹」と名付けられた。
大野 龍太(おおの りゅうた、1892年11月15日 - 1… 大野 龍太(おおの りゅうた、1892年11月15日 - 1957年2月6日)は、日本の大蔵官僚。大蔵次官。 神戸一中、第一高等学校、1917年7月東京帝国大学法科大学政治学科卒業。同年、大蔵省入省。 1927年2月に大蔵省特別銀行課長兼蔵相秘書官に。のち蔵相秘書官兼首相秘書官を挟んで、特銀課長在任中の事柄を問われ訴追された(帝人事件)。そのため1934年5月から1937年12月まで休職。 帝人事件が検察側の控訴断念により終息したことで、1938年6月に理財局長に。翌年1939年1月から1940年7月まで次官を務めた。1942年4月から戦時金融金庫副総裁、1944年3月から1945年10月まで同・総裁に。
武藤 完一(むとう かんいち、1892年11月15日 - 1… 武藤 完一(むとう かんいち、1892年11月15日 - 1982年9月28日)は、日本の版画家。 岐阜県岐阜市出身。川端画学校で藤島武二に師事。大分師範学校教諭、大分大学教授として大分県の美術の発展に尽力すると共に、日本版画協会展、文展、日展、新日展に出品。1960年(昭和35年)には棟方志功、永瀬義郎、武田由平らと「日版会」を創立した。1964年、光風会会員となる。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
田村 新蔵(たむら しんぞう、前名・章四郎、1892年〈明治… 田村 新蔵(たむら しんぞう、前名・章四郎、1892年〈明治25年〉11月13日 - ?)は、日本の政治家、資産家、実業家、埼玉県多額納税者。粕壁町会議員(立憲政友会)。東武商事代表取締役。粕壁町学務委員。粕壁町体育会会長。 埼玉県南埼玉郡粕壁町(現・春日部市)出身。先代・田村新蔵の四男。1910年、粕壁中学校(現・春日部高等学校)を卒業。1914年、早稲田大学大学部商科を卒業。同年麻布入隊、従七位陸軍二等主計。 粕壁銀行専務取締役、同行取締役を務め、一切の行務を統宰する。1936年、父・退隠の後を承け家督を相続し、前名・章四郎を改め襲名した。 農業並びに洋紙、砂糖、小麦粉販売業を営む傍ら、東武商事代表取締役および公職を務めた。
杉溪 由言(杉渓、すぎたに よしとき、1892年(明治25年… 杉溪 由言(杉渓、すぎたに よしとき、1892年(明治25年)11月13日 - 1965年(昭和40年)5月3日)は、大正・昭和期の政治家、奈良華族。貴族院男爵議員。旧名・冷泉為由。 華族・冷泉為勇の長男として生まれ、男爵・杉溪言長の養子となる。1915年(大正4年)6月16日、由言と改名。養父の隠居に伴い、1929年(昭和4年)10月1日、男爵を襲爵した。 1919年(大正8年)7月、東京帝国大学文学部史学科(国史学)を卒業し、さらに1922年(大正11年)同法学部政治学科を卒業した。同年、東京電燈に入社した。また、歌会始講師、同奉行、御歌所参候などを務めた。 1932年(昭和7年)7月10月、貴族院男爵議員に選出され、公正会に所属して活動し、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで二期在任した。