麦倉 俊三郎(むぎくら しゅんざぶろう、1888年(明治21… 麦倉 俊三郎(むぎくら しゅんざぶろう、1888年(明治21年)11月1日 - 1969年(昭和44年)7月7日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 栃木県出身。麦倉奉蔵の四男として生れる。宇都宮中学校卒を経て、1912年(明治45年)5月、陸軍士官学校(24期)を卒業。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第65連隊付となる。1920年(大正9年)11月、陸軍大学校(32期)を卒業。 1921年(大正10年)5月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員、第19師団参謀、陸軍兵器本廠付(軍事調査部)などを経て、1927年(昭和2年)10月、歩兵少佐に昇進。1928年(昭和3年)12月、歩兵第61連隊大隊長となり、歩兵第27連隊付、第1師団参謀、陸軍歩兵学校教官などを歴任し、1936年(昭和11年)3月、歩兵大佐に昇進し独立歩兵第11連隊長に就任した。
渋沢 正雄(しぶさわ まさお、1888年〈明治21年〉11月… 渋沢 正雄(しぶさわ まさお、1888年〈明治21年〉11月1日 - 1942年〈昭和17年〉9月10日)は、日本の実業家。子爵・渋沢栄一の三男。日満鉄鋼販売、石川島自動車製作所、富士製鋼各社長。東京石川島造船所専務取締役。日本製鐵常務取締役兼八幡製鐵所長。族籍は東京府平民。 渋沢栄一の三男で、渋沢篤二、渋沢武之助の弟、渋沢秀雄の兄。渋沢敬三、渋沢信雄、渋沢智雄の叔父。渋沢雅英と渋沢裕の大叔父。1906年に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。第一高等学校を経て1915年、東京帝国大学法科大学経済学科卒業。同年分家する。第一銀行に入り1917年、これを辞する。 渋沢貿易、富士製鋼、汽車製造、石川島造船所、石川島自動車、石川島飛行機、秩父鉄道、富士鋼材商会、日本鋼製建具、日本煉瓦製造、日本鋼管各会社の重役だったが1932年末、総ての関係会社を辞任し製鉄業に専念する。
物集 和子(もずめ かずこ、1888年(明治21年)10月2… 物集 和子(もずめ かずこ、1888年(明治21年)10月26日 - 1979年(昭和54年)7月27日)は、日本の小説家、掃苔家。藤岡 一枝とも。本名は藤浪和。 国学者・物集高見の娘で、放射線医学者(慶應義塾大学教授)の藤浪剛一の妻。実兄の物集高量は国文学者、姉は同じく小説家の大倉燁子(本名は芳子)。義兄の藤浪鑑は病理学者(京都帝国大学教授)。また、親族に女優の早瀬久美がいる(姉妹の物集千代子の孫)。 東京府東京市本郷区駒込千駄木林町(現在の東京都文京区千駄木)出身、跡見高等女学校卒業。 文学を志して姉の芳子とともに二葉亭四迷に弟子入りしたが、1908年(明治41年)、二葉亭は朝日新聞社特派員としてロシアに赴任することになったので、同社の同僚であった夏目漱石に物集姉妹の世話を依頼した。
山本 惣治(やまもと そうじ、1888年(明治21年)10月… 山本 惣治(やまもと そうじ、1888年(明治21年)10月25日 - 1962年(昭和37年)4月21日)は、日本の実業家。富士自動車、メトロポリタンエージェンシーズ、大日本機械工業、山本発条分岐、富士不動産、富士倉庫の経営者や、京浜不動産、日新商事、大同メタル鉱業の役員を歴任した。 経団連理事、関東経営者協会委員、日本工業倶楽部、交詢社会員。長男の岳父に外務官僚で事業家の日高信六郎。 1888年、新潟県高田市呉服町で骨董商「山静堂」を営む山本家の養子仙介の二男として生まれた。兄弟姉妹は男6名、女3名。 1911年(明治45年)に東京外国語学校卒業して、久保田鐵工所に就職し、鮎川義介に恩顧を受ける。
徳永 恕(とくなが ゆき、1887年(明治20年)11月21… 徳永 恕(とくなが ゆき、1887年(明治20年)11月21日 - 1973年(昭和48年)1月11日、女性)は、日本の幼児教育者、社会事業家。 保育園の源流のひとつとされる二葉幼稚園(のちに二葉保育園と改称)の保母、園長、理事長として幼児教育・社会福祉に貢献し、女性初の名誉都民となった。 「二葉の大黒柱」(野口幽香による評)として幼児教育に携わる傍ら、小学部、少年少女クラブ、日曜学校、夜間診療部、廉売部、五銭食堂、母子寮等を通じて、底辺社会の人々のために尽力した。 恕は、東京府立第二高等女学校4年のとき、友人の看病で出席日数が足りなくなったために、落第している。このとき、新たに加わったクラスに山川菊栄がいた。
秋山 静太郎(あきやま しずたろう、1887年(明治20年)… 秋山 静太郎(あきやま しずたろう、1887年(明治20年)11月20日 - 1951年(昭和26年)6月20日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。位階勲等は従四位勲三等。 1887年(明治20年)に岡山県吉備郡神在村(現:総社市)で生まれた。陸軍士官学校第20期、陸軍大学校第29期卒業。フランス駐在を経て、1931年(昭和6年)8月1日に陸軍歩兵大佐進級と同時に陸軍技術本部附となった。1932年(昭和7年)4月11日に第12師団司令部附となり長崎医科大学に配属されたが、5月30日に配属を解かれて第12師団司令部附となった。同年8月8日に長崎要塞司令官に就任し、1936年(昭和11年)8月1日に陸軍少将に進級して待命となり、8月28日に予備役に編入された。
八代 五郎造(やしろ ごろうぞう / ごろぞう、1887年(… 八代 五郎造(やしろ ごろうぞう / ごろぞう、1887年(明治20年)11月17日 - 1949年(昭和24年)8月8日)は、大正から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。旧姓・石垣。 愛知県で石垣安次郎の五男として生まれ、海軍士官・八代六郎の養子となる。養父の死去に伴い、1930年8月1日、男爵を襲爵した。 1920年(大正9年)7月、東北帝国大学理学部を卒業。1912年(大正元年)海軍技手に就任。その後、東電電球取締役、東光電気重役、東西電球重役などを務めた。 1939年(昭和14年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、公正会に所属して1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで1期在任した。
島本 正一(しまもと まさいち、1887年(明治20年)11… 島本 正一(しまもと まさいち、1887年(明治20年)11月16日 - 1967年(昭和42年)4月7日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 高知県土佐郡初月村(現・高知市)出身。島本宗次郎・志賀の息子として生まれる。海南中学校(現高知県立高知小津高等学校)、広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1909年(明治42年)5月、陸軍士官学校(21期)を卒業。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第49連隊付となる。1918年(大正7年)11月、陸軍大学校(30期)を卒業した。 1919年(大正8年)7月、参謀本部付勤務となり、同年10月、浦塩派遣軍司令部付に発令されシベリア出兵に出征。同年11月から12月までイルクーツク特務機関に勤務。
芦田 均(あしだ ひとし、1887年〈明治20年〉11月15… 芦田 均(あしだ ひとし、1887年〈明治20年〉11月15日 - 1959年〈昭和34年〉6月20日)は、日本の外交官、政治家。位階は従二位。勲等は勲一等。同国47代内閣総理大臣。 衆議院議員(11期)、厚生大臣(第13代)、外務大臣(第67・68代)を歴任した。 外交官を経て政界入り。立憲政友会に所属して外務省とのパイプ役を務めた。軍国主義が広まる議会においてリベラリストとして活動した。戦後は自由党の結成に関与した後、離党して民主党を結党し、副総理を経て芦田内閣を首班した。 芦田は1887年11月15日、京都府天田郡宮村(後に中六人部村を経て現在の福知山市)に生まれた。生家は豪農であった。社会・民主・国民協同3党連立内閣のパートナーであり、大学時代の同級生でもあった片山哲は、芦田の死後まもなく衆議院本会議で行った追悼演説で、芦田が政界に入るまでをこのように述べている。
寺井久信(てらい ひさのぶ、1887年〈明治20年〉11月1… 寺井久信(てらい ひさのぶ、1887年〈明治20年〉11月15日 - 1958年〈昭和33年〉11月30日)は、昭和期の実業家。和歌山県日高郡志賀村(現・日高町)出身。 1909年(明治42年)第一高等学校英法科卒業。1913年(大正2年)、東京帝国大学法科大学経済科を卒業して日本郵船に入社。ロンドン支店副長、カルカッタ支店長、上海支店長、貨物課長などを務める。1935年(昭和10年)依願退職し、南洋海運の専務取締役に就任。1938年(昭和13年)日本郵船副社長に就任、1942年(昭和17年)社長に就任、1946年(昭和21年)まで務めた。 戦後、公職追放となり、1951年追放解除、同年日本郵船相談役。
草間 時光(くさま ときみつ、1887年(明治20年)11月… 草間 時光(くさま ときみつ、1887年(明治20年)11月12日 - 1959年(昭和34年)11月12日)は、大正から昭和時代前期の公吏。政治家。俳人。東京市京橋区長、日本橋区長、大森区長。神奈川県鎌倉市長。 草間時福の二男として東京に生まれる。1916年(大正5年)京都帝国大学法学部政治科を卒業し東京電気秘書となる。1920年(大正9年)から鎌倉町扇ガ谷寿福寺境内に住み、1930年(昭和5年)東京へ転出した。日東印刷支配人、協調会労働課長兼司法省刑事局事務嘱託などを経て、1932年(昭和7年)東京市に奉職し、社会局福利課長、秘書課長などを歴任。1937年(昭和12年)11月、京橋区長に就任し、1939年(昭和14年)6月、日本橋区長に転じた。
平林 盛人(ひらばやし もりと、1887年11月10日 - … 平林 盛人(ひらばやし もりと、1887年11月10日 - 1969年5月21日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。
安藤 忠一郎(あんどう ちゅういちろう、1887年〈明治20… 安藤 忠一郎(あんどう ちゅういちろう、1887年〈明治20年〉11月9日 - 1954年〈昭和29年〉1月11日)は大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は陸軍少将。 秋田県出身。秋田中学校を経て、1909年(明治42年)5月、陸軍士官学校卒業(士候21期)。同年12月、陸軍歩兵少尉任官。 歩兵第32連隊留守隊長などを経て、1939年(昭和14年)10月、第106師団隷下の歩兵第147連隊長に着任し、日中戦争に出征した。その後、熊本連隊区司令官等を歴任し、1941年(昭和16年)3月、陸軍少将に昇進。1942年(昭和17年)3月、第9独立守備隊長に補せられ、1944年(昭和19年)7月、独立混成第60旅団長に転じた。
敷嶌 猪之助(しきしま いのすけ、1887年11月9日 - … 敷嶌 猪之助(しきしま いのすけ、1887年11月9日 - 1957年1月29日)は、現在の富山県富山市出身で友綱部屋に所属した力士。本名は持田 猪之助。9代熊ヶ谷を襲名し、熊ヶ谷部屋を経営した。身長170cm、体重96kg。最高位は東前頭4枚目。 1907年5月新序、1912年1月十両昇進。1916年5月入幕し7勝3敗の成績。右四つからの寄りや櫓投げを得意とし、1917年5月最高位の前頭4枚目、新大関栃木山戦で土俵際でうっちゃりを見せ、40分の協議ののち預かりとなる相撲を取り3勝6敗1預。その後は後援会の幹事の頼みで会員の寡婦と握手をさせられた事が刑事問題となり、不振となった。1921年1月幕下に陥落して引退し熊ヶ谷を襲名、長く理事、監事を歴任した。
鈴木 理一郎(すずき りいちろう、1887年(明治20年)1… 鈴木 理一郎(すずき りいちろう、1887年(明治20年)11月7日 - 1980年(昭和55年)11月15日)は、日本の政治家。初代掛川市長。 1887年(明治20年)、佐野郡伊達方村(現在の掛川市)で、江戸時代初期から大庄屋として掛川藩御用達を務めた旧家・鈴木家に生まれる。1907年(明治40年)、静岡県立静岡中学校卒業。京都帝国大学法科大学政治学科を卒業し、実業界に入る。1923年(大正12年)、35歳で掛川町長になり5期、さらに1954年(昭和29年)、初代掛川市長となり2期、25年間在職した。 掛川信用組合発足とともに理事に就任。昭和初期の金融恐慌に手腕を発揮し、1946年(昭和21年)、同組合長となる。
栗山 英資(くりやま えいすけ、1887年(明治20年)11… 栗山 英資(くりやま えいすけ、1887年(明治20年)11月6日 - 1961年(昭和36年)2月11日)は、大正から昭和時代前期の政治家。新潟県三条市長。 栗山虎吉の長男。土地家屋貸付業を営む。1904年(明治37年)3月、長岡中学校を卒業する。1915年(大正4年)4月、南蒲原郡裏館村長に就任。同村が三条町に編入すると、1921年(大正10年)3月より同町会議員に3選し、1931年(昭和6年)3月、三条町長に就任した。市制施行すると三条市会議員、同議長を経て、1938年(昭和13年)2月7日、三条市長に当選した。
星島 二郎(ほししま にろう、1887年(明治20年)11月… 星島 二郎(ほししま にろう、1887年(明治20年)11月6日 - 1980年(昭和55年)1月3日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員。元衆議院議長。従二位勲一等旭日桐花大綬章。 岡山県児島郡藤戸町(現・倉敷市藤戸町)出身。岡山中学校、第六高等学校、東京帝国大学卒業。政界入りする前は弁護士であり、東京・日比谷に片山哲らと中央法律事務所を開設し、森戸事件等を担当した。 戦前は普通選挙運動、婦人参政権、公娼廃止に熱心な自由主義的・進歩的な立場を貫き、母性保護連盟の委員として母子保護法の成立(1937年)にも尽力した。 戦時中も議会政治擁護の立場を変えなかった。戦後は山崎首班工作に関与したこともあった。
児玉 魯一(こだま ろいち、1887年(明治20年)11月6… 児玉 魯一(こだま ろいち、1887年(明治20年)11月6日 - 1969年(昭和44年)1月24日[要出典])は、日本の官僚。陸軍司政長官。 福岡県出身。1914年(大正3年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、高等文官試験に合格した。一年志願兵として入営した後、1916年(大正5年)に千葉県工場監督官補となり、同警視を経て、朝鮮総督府警察官講習所教授、同事務官、忠清南道警察部長、江原道警察部長を歴任した。その後、台湾総督府に転じ、台湾総督高等商業学校教授となった。さらに同事務官、台中州警務部長、澎湖庁長、台東庁長を務めた。1933年(昭和8年)、南洋庁書記官となり、1936年(昭和11年)に退官した。
早淵 四郎(はやぶち しろう、1887年(明治20年)11月… 早淵 四郎(はやぶち しろう、1887年(明治20年)11月6日 - 1957年(昭和32年)5月31日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 鹿児島県桑原郡、のちの姶良郡横川村(横川町を経て現霧島市)で生まれた。陸軍士官学校第21期卒業。1936年(昭和11年)8月に歩兵第3連隊留守隊長に就任し、1937年(昭和12年)3月1日に陸軍歩兵大佐に進級し、6月8日に独立守備歩兵第14大隊長に着任。1938年(昭和13年)3月9日に関東軍歩兵第1下士官候補者隊長に転じ、1939年(昭和14年)3月9日に第4国境守備隊長に就任した。 同年8月1日に陸軍少将に進級、1941年(昭和16年)3月に歩兵第26旅団長(第11軍)に就任し、日中戦争に出動。
後藤 英次(ごとう えいじ、1887年(明治20年)11月5… 後藤 英次(ごとう えいじ、1887年(明治20年)11月5日 - 1967年(昭和42年)11月24日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 秋田県仙北郡高梨村(現・大仙市)出身 。後藤英之助の長男として生まれる。秋田中学校を経て、1909年11月、海軍兵学校(37期)を卒業し、翌年12月に海軍少尉任官。海軍砲術学校普通科、海軍水雷学校普通科で学ぶ。 以後、「安芸」分隊長、「常磐」分隊長、水雷学校教官、「弥生」「吹雪」「樅」の各駆逐艦長、砲艦「隅田」「鳥羽」「堅田」の各艦長、「龍田」水雷長、「第5号駆逐艦」(春風 [II])・「第41号駆逐艦」(薄雲 [II])の各駆逐艦長、「浅間」副長などを歴任。
大手 拓次(おおて たくじ、1887年〈明治20年〉11月3… 大手 拓次(おおて たくじ、1887年〈明治20年〉11月3日〔ただし戸籍では12月3日〕 - 1934年〈昭和9年〉4月18日)は、日本の詩人。 群馬県碓氷郡西上磯部村(現・安中市西上磯部)、磯部温泉の温泉旅館・鳳来館に父・宇佐吉、母・のぶの次男として生まれる。祖父・万平は磯部温泉を開発した有力者で、生家は裕福な上流家庭であった。幼少期に両親を亡くしたため祖父母に溺愛され育つ。 磯部小学校、安中中学校と進むが、1904年(明治37年)に中耳炎で休学、以降左の耳が難聴となる。この中耳炎が完全に治癒しなかったのか、以後生涯を通じて頭痛に悩まされ続けることとなった。復学後安中分校の本校である旧制高崎中学校(現・群馬県立高崎高等学校)で学び、詩人となることを志し1906年(明治39年)に早稲田大学第三高等予科に入学。
和田 恒輔(わだ つねすけ、1887年11月3日 - 197… 和田 恒輔(わだ つねすけ、1887年11月3日 - 1979年12月2日)は、日本の実業家。山口県出身。富士電機製造(現在の富士電機)社長、富士通信機製造(現在の富士通)社長、日本原子力研究所顧問、原子力委員会参与等を務めた。正四位勲二等瑞宝章。ドイツ連邦共和国功労勲章大十字章、藍綬褒章受章。 神戸高等商業学校(現神戸大学)卒業。同期の高畑誠一、永井幸太郎、出光佐三と親しかった。古河鉱業入社後、1923年富士電機製造に転籍。1931年富士電機製造取締役。1945年から富士電機製造社長を務め、シーメンスとの提携や、多角経営を進めた。1953年日本ポリドール取締役。1954年富士通信機製造社長。1958年藍綬褒章受章。
5代 桜井 伊兵衛(さくらい いへえ、1887年〈明治20年… 5代 桜井 伊兵衛(さくらい いへえ、1887年〈明治20年〉11月2日 - 1966年〈昭和41年〉11月7日)は、明治時代後期から昭和時代の地主、政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。幼名は徳太郎。 4代桜井伊兵衛の長男として群馬県西群馬郡高崎本町(高崎町を経て現高崎市)に生まれ、伊兵衛を襲名する。1905年(明治38年)東京府開成中学校を卒業する。1910年(明治43年)高崎銀行監査役に就任したほか、上毛貯蓄銀行相談役、高崎板紙、高崎製飴、群馬紡績各取締役などを歴任した。1917年(大正6年)には高崎政友倶楽部を組織し会長となった。 1918年(大正7年)、群馬県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1925年(大正14年)9月28日まで在任。
角南 隆(すなみ たかし、1887年11月1日 - 1980… 角南 隆(すなみ たかし、1887年11月1日 - 1980年7月9日)は、日本の建築家。内務技師として大正後期から昭和期にかけて多くの神社建築に関与した。神祇院造営課長。 1887年(明治20年)岡山県生まれ。第六高等学校卒業、1915年(大正4年)7月、東京帝国大学工科大学建築学科卒業、卒業制作作品は「日本美術博物館」。 翌年9月に明治神宮造営局嘱託、1917年(大正6年)9月、明治神宮造営局技師に就任、外苑課勤務となり佐野利器の指導のもと、競技場などの設計にあたる。 1919年(大正8年)より内務省技師として神社局に勤務。1919年11月から翌年3月まで休職し、富士屋ホテルの山口正造に随行してアメリカへホテル視察に出かけた。
岩崎 孫八(いわさき まごはち、1887年(明治20年)10… 岩崎 孫八(いわさき まごはち、1887年(明治20年)10月31日 - 没年不詳)は、陸軍中佐。昭和時代前期の政治家。宮城県石巻市長。 仙台市で岩崎亨平の4男として生まれた。1904年(明治37年)宮城県立第一中学校(現宮城県仙台第一高等学校)を卒業。1907年(明治40年)5月、陸軍士官学校(19期)を卒業し、同年12月、陸軍歩兵少尉任官。シベリア出兵に出征した。1930年(昭和5年)陸軍中佐に進む。予備役となり、石巻市会議員、県方面委員、石巻市協和会会長、郷軍石巻連合分会長などを歴任する。 1938年(昭和13年)12月26日に石巻市長に就任。在任中は石巻市立実業女学校の開校。東北振興パルプ石巻工場の操業、保健所の開設、市民病院の開院があった。
加藤 藤太郎(かとう ふじたろう、1887年10月28日 -… 加藤 藤太郎(かとう ふじたろう、1887年10月28日 - 1987年10月5日)は、日本の実業家。神崎製紙創始者。元王子製紙副社長。 香川県三野郡桑山村(現 三豊市豊中町)出身。旧制香川県立三豊中学校、東京高等商業学校(現 一橋大学)卒業。 1910年(明治43年)東京高等商業学校卒業後、王子製紙に入社。藤原銀次郎社長等の知遇を受けて、1938年(昭和13年)常務就任の後、在職37年にして、1946年(昭和21年)2月、副社長に昇任。戦後、進駐軍の指示で財閥解体になり、同年12月、副社長を10ヶ月で退任。退職金も支払われなかった。 1948年(昭和23年)藤原銀次郎から同社神崎工場の再建を託され、神崎製紙を創設、初代社長に就任。
長谷部 栄二郎(はせべ えいじろう、1887年〈明治20年〉… 長谷部 栄二郎(はせべ えいじろう、1887年〈明治20年〉10月28日 - 1972年〈昭和47年〉12月26日)は、日本の神官。 虎杖子と号する俳人としても知られる。北海道俳壇の重鎮と呼ばれ、門弟の数は700人以上におよんだ。 1887年(明治20年)10月28日、宮城県亘理郡亘理村の尾形家に生まれる。 幼少時に自家が火災で焼失したため、両親とともに1890年(明治23年)、北海道有珠郡伊達村に移住する。これは、本家の尾形弥平が伊達邦成の家臣で、1873年(明治6年)に伊達へ入植していたのを頼ったものであった。 やがて成長した栄二郎は、札幌の帝国製麻琴似製線工場に就職。そして当別町の神官・長谷部多八の3女である亀菊と結婚し、長谷部家の婿養子となった。
桑原 虎雄(くわばら とらお、1887年(明治20年)10月… 桑原 虎雄(くわばら とらお、1887年(明治20年)10月26日 - 1975年(昭和50年)6月5日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍中将。
緒方 章(おがた あきら、1887年10月26日 - 197… 緒方 章(おがた あきら、1887年10月26日 - 1978年8月22日)は、日本の薬学者、東京大学名誉教授。薬学博士。日本の内分泌科学の創始者で、国内の薬学、薬業の発展に貢献した。幕末の蘭方医・緒方洪庵の孫。 中央薬事審議会会長、日本薬学会会頭、日本薬剤師会会長、内分泌学会会長などを歴任した。 甲状腺ホルモンの研究を行い、特に兄の緒方知三郎と共にウシの耳下腺から唾液腺ホルモン、パロチンを単離・製品化することに寄与した。 1919年にはメタンフェタミン(ヒロポン)の結晶化に成功している。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
黒田 重徳(くろだ しげのり、1887年(明治20年)10月… 黒田 重徳(くろだ しげのり、1887年(明治20年)10月25日 - 1954年(昭和29年)4月30日)は、大日本帝国陸軍の軍人。陸軍中将。功三級。 太平洋戦争時の第14方面軍司令官。戦後A級戦犯容疑者として逮捕された。 福岡県柳川市の福岡県立中学伝習館を卒業し、1909年、陸軍士官学校卒(21期)。同年12月歩兵少尉、1913年、歩兵中尉となる。1916年、陸軍大学校を卒業(28期)し歩兵第47連隊中隊長となる。1917年から1918年にかけてシベリア出兵に従軍し、大尉となる。1922年、イギリス駐在、1923年、歩兵少佐となり、翌年帰国。 1928年3月、歩兵第57連隊大隊長となり、歩兵中佐となる。
藤村 朗(ふじむら あきら、1887年(明治20年)10月2… 藤村 朗(ふじむら あきら、1887年(明治20年)10月25日 - 1963年(昭和38年)7月17日)は、日本の建築家・実業家。 北海道出身。その後東京府(現・東京都)に移住。第二高等学校を経て、1911年(明治44年)東京帝国大学工科大学建築学科を卒業。三菱に入社し、地所課技師長を務めた。三菱銀行本店、丸ノ内ビルヂング(丸ビル)、丸ノ内八重洲ビルヂング(八重洲ビル)、学士会館増築、法曹会館など、大正・昭和期のオフィスビル建設に従事し、1937年(昭和12年)三菱地所取締役、1946年(昭和21年)12月から1948年(昭和23年)6月まで三菱地所取締役社長。その後、藤村建築研究所を主宰。1953年(昭和28年)より死去まで三菱地所取締役を務めた。
宮崎 一(みやざき はじめ、1886年〈明治19年〉11月2… 宮崎 一(みやざき はじめ、1886年〈明治19年〉11月21日 – 1951年〈昭和26年〉10月10日)は、衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 埼玉県北足立郡浦和町(現在のさいたま市)に衆議院議員宮崎鏋三郎の長男として生まれる。浦和中学校、第一高等学校を経て、1912年(明治45年)に東京帝国大学法科大学を卒業した。卒業後は浦和で弁護士事務所を開業した。1919年(大正8年)に埼玉県会議員に当選し、後には議長も務めた。また浦和弁護士会長にも選ばれた。 1932年(昭和7年)、第18回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。4回連続当選を果たした。その間、米内内閣で陸軍参与官に、幣原内閣で陸軍政務次官・第一復員政務次官に就任した。
松本 学(まつもと がく / まなぶ、1886年(明治19年… 松本 学(まつもと がく / まなぶ、1886年(明治19年)11月20日(ただし、戸籍上は同年12月28日) - 1974年(昭和49年)3月27日)は、日本の内務官僚、政治家。旧姓は片岡(断絶した外祖父の松本家を再興した際に改姓した)。 岡山県出身。片岡房太の長男として生まれる。1910年、祖父松本礼造の跡を承け家督を相続した。 関西中学校、第六高等学校、東京帝国大学法科大学を経て、1911年に文官高等試験に合格して同年の大学卒業とともに内務省に入省する。愛媛県属。神社局長を経て1926年に静岡県知事に任ぜられる。1927年、立憲民政党系とみなされて、立憲政友会政権が行った地方官人事で鹿児島県知事に転任。
2代 小林 米三郎(こばやし よねさぶろう、1886年(明治… 2代 小林 米三郎(こばやし よねさぶろう、1886年(明治19年)11月20日 - 1968年(昭和43年)6月25日)は、大正・昭和期の実業家、政治家。位階は正五位。 参議院議員(1期)、小林酒造社長、栗山町名誉町民。旧姓は田中、旧名は栄。 1886年(明治19年)11月20日、新潟県刈羽郡(のちの刈羽郡二田村、現・柏崎市)に田中九平太の二男として生まれた。生家は造り酒屋の素封家であり、6人兄弟姉妹の5番目だった。出生名は田中栄であり、当地出身の田中角栄の遠縁にあたる。 1903年(明治36年)に新潟県立柏崎中学校(現・新潟県立柏崎高等学校)を卒業。 17歳の時に北海道夕張郡角田村(現・栗山町)の初代小林米三郎の養子となり、2代米三郎を襲名して酒造業を継承した。
小林 鐡太郎(こばやし てつたろう、1886年(明治19年)… 小林 鐡太郎(こばやし てつたろう、1886年(明治19年)11月18日 - 1962年(昭和37年)4月13日)は、日本の政治家、衆議院議員、翼賛政治体制協議会所属、旧鶴岡市第5代市長。栄典は正五位・勲四等・瑞宝章。
今里 準太郎(凖太郎、いまざと じゅんたろう、1886年(明… 今里 準太郎(凖太郎、いまざと じゅんたろう、1886年(明治19年)11月15日 - 1976年(昭和51年)12月28日)は、明治末から昭和期の右翼活動家、実業家、政治家。衆議院議員。 長崎県東彼杵郡萱瀬村(現大村市)で、今里和平の三男として生まれ、1907年(明治40年)6月、家督を相続した。大村中学校(現長崎県立大村高等学校)を経て、1907年、早稲田大学大学部政治経済学科を卒業した。兵役に就き陸軍三等主計となる。 北海道に渡り小樽新聞の記者となる。養狐業、鉄工機械商・今里商会の経営などを行い、その後、樺太で木材売買業を営み成功した。 1924年(大正13年)5月、第15回衆議院議員総選挙に長崎県第3区から無所属で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
蘆谷蘆村(あしや ろそん、1886年11月14日 - 194… 蘆谷蘆村(あしや ろそん、1886年11月14日 - 1946年10月15日)は日本の口演童話の研究家、児童文学の作家である。キリスト教精神と欧米の童話を基盤に、伝承童話の研究の基礎を築いた。また近代詩の詩人として、北原白秋、三木露風の同時代に活躍した詩人でもある。 蘆谷ろそんとも表記される。本名は重常 1886年(明治19年)島根県松江市に生まれ、栃木県で育つ。国民英学会で中等教育を受ける。 1904年頃、17歳頃栃木県宇都宮市の栃木県立宇都宮農学校(現、栃木県立宇都宮白楊高等学校)の学生時代に、東洋宣教会の宣教師アーネスト・キルボルンの宇都宮の福音伝道館で求道を始める。同級生の森五郎を福音伝道館に誘う。
太田 正孝(おおた まさたか、1886年〈明治19年〉11月… 太田 正孝(おおた まさたか、1886年〈明治19年〉11月13日 - 1982年〈昭和57年〉7月10日)は、日本の大蔵官僚、政治家。衆議院議員(7期)、参議院議員(1期)。 静岡県出身。静岡商業学校、七高を経て、1912年に東京帝国大学法科大学経済学科(現・東京大学経済学部)を卒業し、大蔵省に入省(東京税務監督局兼主税局)。後に主計官となる。 1919年退官。政界入りするまでに報知新聞社副社長、中央大学教授等を務める。1924年には経済学博士号を取得。 1930年の第17回衆議院議員総選挙に立憲政友会公認で立候補し初当選。その後大蔵参与官、大蔵政務次官などを歴任。1939年の政友会分裂に際し金光庸夫、犬養健らとともに中立派に属す。
窪田 治輔(くぼた じすけ、1886年〈明治19年〉11月1… 窪田 治輔(くぼた じすけ、1886年〈明治19年〉11月11日 - 没年不詳)は、日本の内務・文部官僚。官選県知事。 山口県出身。窪田幾蔵の二男として生まれる。第五高等学校を首席で卒業。1912年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1913年、東京帝国大学法科大学を卒業。内務省に入省し静岡県属となる。 以後、静岡県賀茂郡長、同小笠郡長、文部省督学官兼同参事官、同書記官、同大臣官房文書課長、同実業学務局長などを歴任。 1929年10月9日、山形県知事に就任。小作争議の対策に尽力。また、1931年に小田島村地主襲撃事件(小田島事件)が発生し臨時県会で不況対策を検討した。同年10月24日、昭和天皇行幸が予定されていた鹿児島県の山口安憲知事が腸チフスとなり急遽知事を交代。
大島 文彦(おおしま ふみひこ、1886年〈明治19年〉11… 大島 文彦(おおしま ふみひこ、1886年〈明治19年〉11月10日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の政治家。宮崎県延岡市長。 大分県大分郡竹中村(現・大分市竹中)出身。1909年(明治42年)10月、裁判所書記試験及第。1911年(明治44年)3月、大分県属となる。 1920年(大正9年)7月に宮崎県属に転じ、1923年(大正12年)3月に同県宮崎郡長、1924年(大正13年)8月に同県児湯郡長を経て、1926年(大正15年)7月、地方事務官に任官する。同年10月より大分市助役を3期務め、1937年(昭和12年)4月、延岡市助役に転じ、同年9月に同市市長に就任した。
上月 良夫(こうづき よしお、1886年11月7日 - 19… 上月 良夫(こうづき よしお、1886年11月7日 - 1971年4月3日)は、日本の陸軍軍人、陸軍中将。熊本県出身。陸士21期、陸大29期。
小田 観螢(おだ かんけい、1886年〈明治19年〉11月7… 小田 観螢(おだ かんけい、1886年〈明治19年〉11月7日 - 1973年〈昭和48年〉1月1日)は、日本の歌人。本名は小田哲弥。北海道歌壇の草分け、北海道歌壇の功労者とされる。二度にわたって妻を喪いながらも歌を詠み続けたことから、「逆境の歌人」とも呼ばれる。 岩手県九戸郡宇部村(後の久慈市)で誕生した。伯父である小田為綱の教育の賜物で、13歳のとき中国の歴史書『一八史略』を読み、周囲を驚かせた。 1900年(明治33年)、家が破産したために学業を断念、母方の叔母を頼って一家で北海道小樽にわたり、観螢は奥沢小学校の代用教員として勤めた。その後も北海道各地に転任し、開拓民の子供たちに教えつつ、自らも農業に携わる、半農半教の生活を送った。
木下 敏(きのした はやし、1886年(明治19年)11月5… 木下 敏(きのした はやし、1886年(明治19年)11月5日 - 1969年(昭和44年)10月26日)は、日本陸軍の軍人。陸士20期、陸大29期(優等)。栄典は従三位勲一等。最終階級は陸軍中将。 旧和歌山藩士・木下文次郎の長男として生まれる。和歌山中学、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1908年(明治41年)5月、陸軍士官学校(20期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第8連隊附となる。1917年(大正6年)11月、陸軍大学校(29期)を優等で卒業した。 1918年(大正7年)7月、陸士附となり、陸士教官、フランス駐在、陸軍歩兵学校教官を歴任。1923年(大正12年)8月、歩兵少佐に昇進。
井上 貞衛(いのうえ さだえ、1886年(明治19年)11月… 井上 貞衛(いのうえ さだえ、1886年(明治19年)11月5日 - 1961年(昭和36年)10月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 熊本県出身、本籍は高知県。熊本県警部・井上作郎の三男として生れる。中学済々黌を中退、熊本陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1908年5月、陸軍士官学校(20期)を卒業、同年12月、歩兵少尉に任官し、歩兵第53連隊付となった。 歩兵第44連隊中隊長としてシベリア出兵に参加。同連隊大隊副官、第11師団司令部付、同師団副官、歩兵第12連隊大隊長、歩兵第10旅団副官、横浜高等工業学校配属将校、独立守備歩兵第3大隊長、歩兵第5連隊長などを経て、1939年3月、陸軍少将に進級。
柏田 忠一(かしわだ ただかず、1886年(明治19年)11… 柏田 忠一(かしわだ ただかず、1886年(明治19年)11月5日 - 1958年(昭和33年)10月3日)は、日本の衆議院議員(政友本党→立憲民政党)、弁護士。 岩手県二戸郡金田一村(現在の二戸市)出身。1914年(大正3年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、オックスフォード大学に留学した。その後、上海日日新聞社主筆を経て、1916年(大正5年)に弁護士を開業。また財団法人東亜攻究会理事を務めた。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その後は、拓殖大学教授やハルビン市公署顧問を務めた。 またその他に、東北桐材株式会社取締役、アマゾン興業株式会社監査役、馬淵電気株式会社顧問などを務めている。
山本 冬郷(やまもと とうごう、1886年11月4日 - 1… 山本 冬郷(やまもと とうごう、1886年11月4日 - 1952年3月24日)は、日本の元俳優である。本名:山本 鎌藏(やまもと けんぞう)。ハリウッド映画からスタートした日本人俳優で、帰国後は松竹蒲田撮影所、日活太秦撮影所、新興キネマ東京撮影所などで活躍した名脇役として知られる。 1886年(明治19年)11月4日、神奈川県横浜市根岸(現在の同県同市中区根岸町)に生まれる。旧制錦城中学校(現在の錦城学園高等学校)を卒業後、早稲田大学政治経済科に進学する。 1904年(明治37年)2月、早稲田大学を中退して渡米。種々の職業に従事していたが、日本から来た在留邦人相手の新派劇団に急遽加入し、各地を巡業する。
前田 利男(まえだ としお、1886年〈明治19年〉11月4… 前田 利男(まえだ としお、1886年〈明治19年〉11月4日 - 1966年〈昭和41年〉12月29日)は、大正・昭和期の宮内官、政治家、華族。貴族院伯爵議員。旧名・溝口 正男。 旧新発田藩主家当主・溝口直正の五男として生まれ、1911年(明治44年)4月、伯爵・前田利同の養子となる。養父の死去に伴い利男と改名し、1922年(大正11年)1月20日に伯爵を襲爵した。 学習院を経て、1913年(大正2年)6月、東京帝国大学農科大学を卒業。1915年(大正4年)以降、内閣総理大臣秘書官、皇子傅育官(秩父宮附)、宮内事務官兼式部官などを務めた。 1946年(昭和21年)5月9日、貴族院伯爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
関 亀治(せき かめはる、1886年(明治19年)11月3日… 関 亀治(せき かめはる、1886年(明治19年)11月3日 - 1969年(昭和44年)4月5日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 兵庫県出身。柏原中学校を経て、1907年(明治40年)5月、陸軍士官学校(19期)を卒業。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第20連隊付となる。陸士生徒隊付などを経て、1918年(大正7年)11月、陸軍大学校(30期)を卒業した。 参謀本部付勤務、参謀本部員(兵站班)、陸軍兵器本廠付、アメリカ駐在、兵器本廠付、陸軍省整備局課員などを歴任し、1927年(昭和2年)7月、歩兵中佐に進級。1929年(昭和4年)12月、兵器本廠付に発令され陸大専攻学生となった。
鳴門洋 利之助(なるとなだ としのすけ、1886年11月2日… 鳴門洋 利之助(なるとなだ としのすけ、1886年11月2日 - 1922年10月4日)は、徳島県吉野川市鴨島町出身で中川部屋に所属した力士。本名は藤井 利助。171cm、100kg。最高位は西前頭5枚目。 同郷の7代中川(元幕内鬼鹿毛)のもとに入門、1905年1月初土俵。初め鬼見嵜と名乗ったが、幕下時代の1910年6月に鳴門洋と改名している。1913年1月新十両昇進。1915年1月新入幕を果たした。左四つからの寄り・押しを得意としていた。幕内での勝ち越しは1915年6月の4勝2敗1預3休のみであったが、東西制の恩恵を受け、最高位は前頭5枚目で、幕内に10場所在位した。1918年1月から師匠の四股名の鬼鹿毛を襲名したが、その頃から病気に罹り振るわず、1920年1月十両に転落してその場所限りで廃業、2年後に没した。
萩原 朔太郎(はぎわら さくたろう、1886年(明治19年)… 萩原 朔太郎(はぎわら さくたろう、1886年(明治19年)11月1日 - 1942年(昭和17年)5月11日)は、日本の詩人、評論家。大正時代に近代詩の新しい地平を拓き「日本近代詩の父」と称される。 群馬県東群馬郡北曲輪町(のちの前橋市北曲輪町(現・千代田町一丁目))に、開業医の父・密蔵と母・ケイの長子として生まれた。名前の朔太郎は、長男で朔日(ついたち)生まれであることから、命名された。1893年(明治26年)に群馬県師範学校附属小学校に入学。この頃から神経質かつ病弱であり、「学校では一人だけ除け者にされて、いつも周囲から冷たい敵意で憎まれている。」 と孤独を好み、一人でハーモニカや手風琴などを楽しんだ。