野津 謙(のづ ゆずる、1899年(明治32年)3月12日 … 野津 謙(のづ ゆずる、1899年(明治32年)3月12日 - 1983年(昭和58年)8月27日)は、広島県広島市出身の医師(医学博士・小児科医)、サッカー選手(日本代表)。 サッカー指導者でもあり、第4代日本サッカー協会会長、アジアサッカー連盟副会長、国際サッカー連盟理事を歴任した。柔和でおだやかな人柄で、回りから敬意と親しみをこめて「のづけん」さんと呼ばれた。元日本損害保険協会会長の河野俊二は甥に当たる。 1899年(明治32年)、広島県広島市生まれ。父親も開業医だった。虚弱児童であったが、1911年(明治44年)4月、広島県立広島第一中学校(現・広島県立広島国泰寺高校)に進学すると在学中に蹴球部(サッカー部)が創部されサッカーを始めた。
守随 憲治(しゅずい けんじ、1899年3月10日 - 19… 守随 憲治(しゅずい けんじ、1899年3月10日 - 1983年2月7日)は、近世日本文学研究者、東京大学教養学部・実践女子大学名誉教授。
篠原 昌三(しのはら しょうぞう、1899年3月9日 - 1… 篠原 昌三(しのはら しょうぞう、1899年3月9日 - 1986年)は、日本の通信技術者、実業家。 篠原多一郎の三男として福岡市に生まれる。1918年福岡県立中学修猷館を経て、1922年7月東京高等工業学校(現・東京工業大学)電気科を卒業。 卒業後、朝鮮総督府逓信局の技手となる。同局において放送用無線電話(ラジオ放送)の調査研究と知識普及のために、官営の実験用無線電話局を開設することが計画され、篠原にその任務が命ぜられる。1924年1月に東京に赴き、技術修得と共に、通信機器を調達、京城に戻り、通信設備工事と機器調整を行い、同年11月、朝鮮半島最初の放送電波を発射した。1926年11月京城放送局(コールサイン「JODK」)が設立され、篠原はその技術責任者として通信設備を構築し、1927年2月16日、1kw放送設備での本放送が開始された。
宮原 禎次(みやはら ていじ、1899年3月8日 - 197… 宮原 禎次(みやはら ていじ、1899年3月8日 - 1976年1月21日)は、日本の作曲家。岡山県出身。 岡山師範学校、東京音楽学校師範科卒業し、岡山師範学校に勤務。山田耕筰、エルウィン・クリストフ、アドルフ・シュルツに師事する。 1934年国立音楽学校作曲科教授、1937年より神戸女学院教授、1954年から1976年まで武庫川女子大学音楽学部教授を歴任。 実弟・宮原康郎と共に、「国民歌謡」(1936年 - 1941年)の作曲にも寄与した。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、音楽関係者(バンド等)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ:芸能人)。
石川 淳(いしかわ じゅん、1899年(明治32年)3月7日… 石川 淳(いしかわ じゅん、1899年(明治32年)3月7日 - 1987年(昭和62年)12月29日)は、日本の小説家・文芸評論家・翻訳家。東京府浅草区生まれ。無頼派、独自孤高の作家とも呼ばれ、エッセイでは夷斎と号し親しまれた。本名:淳(きよし)。日本芸術院会員。 祖父から論語の素読を受け、森鷗外に熱中して文学を志す。東京外国語学校仏語科卒。『普賢』(1936年)で芥川賞受賞。『マルスの歌』(1938年)は反軍国調の廉で発禁処分を受けた。 寓意的作品が多く、戦後は『焼跡のイエス』(1946年)を書き、太宰治・坂口安吾とともに新戯作派・無頼派として人気を集めたが、次第に東洋的境地で健筆を振るった。
宮澤 俊義(みやざわ としよし、1899年〈明治32年〉3月… 宮澤 俊義(みやざわ としよし、1899年〈明治32年〉3月6日 - 1976年〈昭和51年〉9月4日)は、日本の法学者。専攻は憲法。東京大学名誉教授。立教大学法学部元教授。貴族院議員。日本野球機構(プロ野球)コミッショナー。位階は従二位。日本国憲法の制定に寄与し、憲法学の権威と謳われた。美濃部達吉門下。弟子に佐藤功、高柳信一、小嶋和司、芦部信喜、深瀬忠一など。 1899年(明治32年)3月6日、長野県長野市に生まれる。旧制長野中学、東京府立四中、第一高等学校を卒業。 1923年、東京帝国大学法学部卒業後、美濃部達吉の助手(弟子)となり、1925年、同大学法学部助教授となる。1930年から1932年にかけて、フランス、ドイツ、アメリカへ留学。
宮澤 俊義(みやざわ としよし、1899年(明治32年)3月… 宮澤 俊義(みやざわ としよし、1899年(明治32年)3月6日 - 1976年(昭和51年)9月4日)は、日本の法学者。専攻は憲法。東京大学名誉教授。貴族院議員。長野県長野市出身。
関口 林五郎(せきぐち りんごろう、1899年〈明治32年〉… 関口 林五郎(せきぐち りんごろう、1899年〈明治32年〉3月5日 - 1973年〈昭和48年〉6月26日)は、日本の医師(関口整形外科病院院長、群馬県医師会会長)、柔道家(講道館八段)。父は接骨師で柔道八段・関口孝五郎、弟は医師で柔道八段・関口恒五郎。群馬県体育協会会長、群馬県公安委員長、群馬県立前橋高等学校同窓会長。正五位、藍綬褒章、紺綬褒章、勲三等瑞宝章受章。 1899年(明治32年)3月5日、柔道家・関口孝五郎の長男として、群馬県群馬郡白郷井村(北群馬郡子持村を経て現在渋川市)に生まれる。2歳の時父が柔道場「弘道館」を開いたため前橋市に移住。旧制・群馬県立前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)卒業後、旧制・日本医学専門学校(現・日本医科大学)に進み1923年(大正12年)卒業。
酒井 協(さかい きょう、1899年3月4日 - 1982年… 酒井 協(さかい きょう、1899年3月4日 - 1982年2月24日)は、日本の作曲家。宝塚歌劇団名誉理事。福井県出身。 1899年(明治32年)、福井市で理髪店を営む家庭に生まれる。少年時代より音楽を志望するも自宅が火災に遭って全焼する不運に見舞われ、家計を助けるため京都市電に就職した。後に病気の母を看護するため帰郷して越前電気鉄道に移り、夜間にヴァイオリンのレッスンへ通う生活を送った。ヴァイオリンの師に薦められて兵庫県川辺郡小浜村(現在の宝塚市)で阪急電鉄が発足させた宝塚歌劇団の管弦楽部へ入部する。 宝塚ではエマヌエル・メッテルから演奏と指揮を学び、劇団の専属作曲家として劇伴曲の作曲や編曲に当たった。
北川 桃雄(きたがわ ももお、1899年3月3日-1969年… 北川 桃雄(きたがわ ももお、1899年3月3日-1969年5月19日)は、日本の美術史家。 1899年、東京都港区で生まれた。旧制芝中学を経て、旧制第二高等学校で学んだ。1921年に卒業し、京都帝国大学経済学部に進学。1924年に卒業。 卒業後は、奈良県立五條中学校(現奈良県立五條高等学校)の英語科教諭として勤務。同年8月に笠井ふぢと結婚。その後京都市立第一工業学校教師に転じた。同校での同僚には下村寅太郎、田中忠雄らがいた。 1937年8月13日、北川の参加する文芸雑誌『リアル』がコミンテルンと通じているとの嫌疑で、工業学校の同僚・田中忠雄らとともに治安維持法違反で検挙された。 翌1938年東京に転居し、志賀直哉の勧めで東京帝国大学文学部美学美術史学科に入学。
丹下 郁太郎(たんげ いくたろう、1899年〈明治32年〉3… 丹下 郁太郎(たんげ いくたろう、1899年〈明治32年〉3月2日 - 没年不明)は、昭和時代前期の朝鮮総督府官僚。咸鏡南道知事、京畿道知事。朝鮮総督府警務局長。建築家の丹下健三は弟(異母)。 丹下辰世の長男として愛媛県越智郡今治町(現今治市)に生まれる。1921年(大正10年)11月、高等試験行政科に合格。1922年(大正11年)東京帝国大学経済学部を卒業し、旭石油を経て、朝鮮総督府に奉職。京畿道、忠清北道各勤務、全羅北道警務課長、咸鏡南道、平安北道各警察部長、朝鮮総督府警務局保安課長、総督官房資源課長、企画部第一課長兼総督官房資源課長を経て、1941年(昭和16年)6月、咸鏡南道知事に就任した。
新田 義美(にった よしとみ、1899年3月2日 - 196… 新田 義美(にった よしとみ、1899年3月2日 - 1969年11月20日)は、昭和時代の華族、男爵。 岩松新田氏・新田忠純の子。兄弟は俊子(今村繁三室)、てい(桂与一室)、幸子(四女、松平慶民室)、義郎(北畠克通養子)、義之(岩松純行養子)ら。妻は高浜虚子の娘宵子。男子はなく、娘に武子、恭子、汪子(山田栄作妻)、公子(宇佐美承妻)、容子(国井文扶妻)、矩子(小谷野晃一妻)。 1926年(大正15年)に明治大学政治経済学部を卒業し、第一生命保険相互会社に勤務する。1966年(昭和41年)、自身が所蔵していた古文書や絵画など約9,000点を群馬大学に寄贈し、現在新田文庫として公開されている。婿の山田栄作と娘汪子の間の陽子(孫娘)が跡を継いだ。
林 興一郎(はやし こういちろう、1899年3月1日 - 1… 林 興一郎(はやし こういちろう、1899年3月1日 - 1965年1月4日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 広島県出身。1919年広島県立忠海中学校(現・広島県立忠海高等学校)卒。漁業を営み、広島県水産会長、同漁業組合連合会長、瀬戸内海水産連合会理事長、中央水産業会理事、中国五県水産連合理事長、倉橋島漁業会長を務め、広島県会議員、同県議会議員、同議長を務めた。 1946年の第22回衆議院議員総選挙で広島県から諸派で立候補したが次点で落選する。しかし、6月に同じ選挙区から当選した田中貢の辞職により、繰り上げ当選となった。当選後は協同民主党に入った。翌1947年3月には国民協同党と変わり、国民協同党代議士会副会長となった。
石井 頼三(いしい らいぞう、1899年(明治32年)3月1… 石井 頼三(いしい らいぞう、1899年(明治32年)3月1日 - 1974年(昭和49年)5月12日)は日本の商品学者。理化学研究所所員、一橋大学小平分校教授を経て、千葉商科大学学長(第3代)。京都大学理学博士。商品学の研究者として著名である。 弟子に中野紘一(日本大学商学部元教授)等がいる。 1899年(明治32年)3月1日、鳥取県八頭郡若桜村(現・若桜町)に生まれた。 鳥取県師範学校卒業後、地元の鳥取県八頭郡若桜小学校訓導に就任。 その後東京高等師範学校理科を卒業し和歌山県立海南中学校教諭に就任。 1932年(昭和7年)に東京文理科大学化学科を第一回卒業生として卒業し理化学研究所入所。 1944年京都大学で理学博士の学位を取得した。
上田 精一(うえだ せいいち、1899年3月1日 - 没年不… 上田 精一(うえだ せいいち、1899年3月1日 - 没年不明)は、日本の陸上競技選手。 現在の島根県出雲市出身。島根師範学校から東京高等師範学校に進む。 東京高等師範学校在学中、1922年・1923年の日本陸上競技選手権大会のやり投種目を連覇。1923年には第6回極東選手権競技大会(大阪)に五種競技で出場して優勝した。 東京高等師範学校在学中に、1924年パリオリンピックで男子五種競技に出場した。 1925年には第7回極東選手権競技大会(マニラ)に五種競技で出場した。 この項目は、陸上選手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:陸上競技/PJ陸上競技)。
藤原 啓(ふじわら けい、1899年2月28日 - 1983… 藤原 啓(ふじわら けい、1899年2月28日 - 1983年11月12日)は、日本の陶芸家。本名は敬二。同じく陶芸家の藤原雄は長男、藤原敬介は次男。岡山県名誉県民。1970年に人間国宝に認定。 岡山県備前市穂浪(当時の和気郡伊里村穂浪)出身。農業藤原伊三郎、世為の三男として生まれる。 少年期から俳句や小説の才能を発揮しており、1915年に博文館が手がける『文章世界』に応募した短編が1等を獲得する。これを機に1919年に上京し博文館編集部に勤務、『文章世界』の編集を担当する。同郷の正宗白鳥、徳富蘆花の影響を強く受け詩の執筆も始める。そのかたわら早稲田大学英文科の聴講生となり、ロシア・ドイツ文学やシェイクスピアを学ぶが1年あまりで中退。
石濱 金作(いしはま きんさく、1899年(明治32年)2月… 石濱 金作(いしはま きんさく、1899年(明治32年)2月28日 - 1968年(昭和43年)11月21日)は、日本の小説家、推理作家。 東京市京橋木挽町出身。父は時事新報記者の石浜鉄郎、兄は経済学者の石浜知行。子ども時代は大阪府で育ち、第一高等学校を経て、1924年に東京帝国大学英文学科を卒業。 1921年、22歳のとき川端康成らと第6次『新思潮』を創刊。その後『文藝春秋』の編集同人となる。1924年に『文藝時代』の創刊に携わり、新感覚派の新人作家として活躍。戦後の作品に、旧友である川端康成との交友について書いた「青春修業記―無常迅速」(『文芸読物』1950年5月号)などがある。多くの作品を文芸誌に発表したが、単行本化されておらず、現在多くの作品は初出誌にあたる他ない。
森 岩雄(、1899年〈明治32年〉2月27日 - 1979… 森 岩雄(、1899年〈明治32年〉2月27日 - 1979年〈昭和54年〉5月14日)は、日本の映画プロデューサー、脚本家、映画評論家。神奈川県横浜市出身。 40年以上に渡り東宝の役員を務め、同社映画の近代的な方向性を確立し、日本映画界に大きく貢献した。 1917年(大正6年)、京華商業高等学校卒業後、成蹊実業専門学校に学ぶ(一期生)。在学中、結核を患ったことをきっかけに、活動写真に興味を持つ。 1919年(大正8年)東京日日新聞が募集した乙種活動写真シナリオに二等第一席(一等なし)で入選。1921年(大正10年)、『活動倶楽部』に日本初の映画論文となる「活動写真芸術の過去・現在・未来」を発表。
嶋田 清次郎(しまだ せいじろう、1899年(明治32年)2… 嶋田 清次郎(しまだ せいじろう、1899年(明治32年)2月26日 - 1930年(昭和5年)4月29日)は、日本の小説家。文壇で有名であった時代には「島清」という略称でも呼ばれた。
高木 寿一(たかぎ としかず、1899年2月26日 - 19… 高木 寿一(たかぎ としかず、1899年2月26日 - 1976年6月30日)は、日本の経済学者・財政学者。慶應義塾大学名誉教授。 東京府東京市浅草区(現台東区)浅草生まれ。1921年慶應義塾大学部理財科卒、大学院に進む。1924年慶應義塾高等部教員、1927年よりヨーロッパに学ぶ。1949年慶應義塾大学経済学部教授となり、1953年「近代資本主義国家財政の経済的機能の発展」で経済学博士の学位を取得。1969年定年となり、名誉教授、流通経済大学教授を務めた。
薄井 己亥(うすい きがい、1899年(明治32年)2月25… 薄井 己亥(うすい きがい、1899年(明治32年)2月25日(旧暦) - 没年不明)は、昭和時代後期にかけて活動した郷土史家、歴史研究家、水戸史学会顧問。 茨城県那珂郡木崎村(のち那珂町、現那珂市)に生まれる。高等小学校卒業後、寺子屋で学ぶ。1918年(大正7年)頃上京し、正則英語学校で学ぶ。1919年(大正8年)仙台第一中学校(現宮城県仙台第一高等学校)の検定試験に合格する。合格後は開校したばかりの水戸高等学校に入学し、1年留年するが、1924年(大正13年)に卒業する。同年東京帝国大学法学部に入学。東大では上杉慎吉と美濃部達吉から憲法学を学ぶ。1927年(昭和2年)に卒業する。卒業後は大阪商船の内定を受けるが辞退する。
熱海 景良(あつみ けいりょう、1899年(明治32年)2月… 熱海 景良(あつみ けいりょう、1899年(明治32年)2月23日 - 1944年(昭和19年)2月27日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中佐。日本のジオイドを初めて計算した人物として知られる。 1899年(明治32年)、宮城県桃生郡野蒜村(現東松島市)に熱海安吉、ひさよの長男として出生。大阪陸軍地方幼年学校を経て、1919年(大正8年)5月28日に陸軍士官学校(31期)を卒業し、同年12月25日に工兵少尉に任官、工兵第19大隊付となる。陸軍砲工学校(28期)普通科を卒業後、1922年(大正11年)12月15日に工兵中尉に昇進し、1923年(大正12年)12月28日、陸地測量部班員に補される。
山田 勇助(やまだ ゆうすけ、1899年(明治32年)2月2… 山田 勇助(やまだ ゆうすけ、1899年(明治32年)2月22日 - 1942年(昭和17年)11月13日)は、日本の海軍軍人。水雷艇「千鳥」艇長として友鶴事件に際会。太平洋戦争において第六駆逐隊司令として第三次ソロモン海戦で戦死した。最終階級は海軍少将。 現在の山形県米沢市出身。米沢中学を経て、海軍兵学校および陸軍士官学校(第32期)を受験し、双方に合格している。また、第一師団重砲兵第二連隊への配属も予定されていた。海軍兵学校へ進む。山田は海兵48期で、同期生171名中、中位の成績で卒業した。近野信雄は中学、海兵の同期生で、ともに米沢海軍武官会会員である。 1921年(大正10年)6月少尉任官。
佐治 孝徳(さじ たかのり、1899年(明治32年)2月20… 佐治 孝徳(さじ たかのり、1899年(明治32年)2月20日 - 1953年(昭和28年)4月1日)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚。台東庁長。 高知県安芸郡奈半利町に生まれる。第四高等学校を経て、1920年(大正9年)東京帝国大学法学部政治科に入学。1923年(大正12年)同大を卒業。在学中の1922年(大正11年)11月に高等試験に合格し、台湾総督府に奉職し台北州属となった。 高雄州警務課長、台北州七星郡守、新竹州内務部地方課長、台湾総督官房審議室勤務、台湾総督府事務官、台湾総督府営林所庶務課長、台北州内務部長、台中州内務部長、台東庁長、台湾総督府専売局参事・専売局庶務課長兼樟脳課長を経て、1942年(昭和17年)7月、台湾総督府専売局長に就任した。
山沢 栄子(やまざわ えいこ、1899年2月19日 - 19… 山沢 栄子(やまざわ えいこ、1899年2月19日 - 1995年7月16日)は、大阪市出身の写真家。 女性写真家のパイオニアであり、関西を拠点にポートレートや広告写真の分野で活躍した。1960年以降は抽象的な形態のモティーフを組み合わせた「What I'm doing」のシリーズを制作した。「What I'm doing」のシリーズは大阪市中之島美術館に収蔵されている。 14歳から写真を始め、1918年女子美術学校(現・女子美術大学)日本画科選科卒業。1926年カリフォルニア・スクール・オブ・ファイン・アーツ(後のサンフランシスコ芸術大学(英語版))に留学し油絵を学ぶ。その間、写真家コンソエロ・カネガの助手として、本格的に写真を学ぶ。
菊井 維大(きくい つなひろ、旧姓田中、1899年(明治32… 菊井 維大(きくい つなひろ、旧姓田中、1899年(明治32年)2月19日 - 1991年(平成3年)11月15日)は、日本の法学者。専門は民事訴訟法。東京大学名誉教授。日本学士院会員。長崎県長崎市出身。学習院大学教授の水野謙は長女の子(外孫)。加藤正治門下。弟子に三ケ月章、斎藤秀夫、大須賀虔、木澤克之など。 1923年(大正12年)東京帝国大学法学部卒業。 その後、東京帝国大学法学部助教授を経て、1932年(昭和7年)東京帝国大学法学部教授。1947年(昭和22年)東京大学法学部教授。 1959年(昭和34年)4月、立教大学法学部法学科教授に就任。1967年(昭和42年)立教大学総長事務取扱。
小川 豊明(おがわ ほうめい、1898年3月20日 - 19… 小川 豊明(おがわ ほうめい、1898年3月20日 - 1962年11月17日)は、日本の政治家。衆議院議員(5期、日本社会党)。多古町長。 千葉県香取郡多古町喜多の農家の長男として生まれる。日本社会党の衆議院議員となった小川三男は弟。 1915年多古町立多古農学校(現千葉県立多古高等学校)卒業。家業の農業に従事していたが、1920年に日本社会主義同盟に参加。『潮流』などを発刊して普選運動をする。 1930年に多古町会議員となるが、この間に立憲民政党の政治活動に参加した。その後、鉄道省による民営バスの買収反対運動などに参加した。友人が経営する石橋計器製作所の経営にもあたった。 1947年日本社会党入党。
土肥 米之(どひ よねゆき、1898年(明治31年)3月20… 土肥 米之(どひ よねゆき、1898年(明治31年)3月20日 - 1990年(平成2年)7月24日)は、日本の内務・警察官僚、弁護士。官選県知事。 広島県出身。第六高等学校を卒業。1921年11月、高等試験行政科試験に合格。1922年、東京帝国大学法学部法律学科を卒業。内務省に入省し三重県属となる。 以後、島根県書記官・警察部長、新潟県書記官・警察部長、北海道庁部長・警察部長、宮城県総務部長、兵庫県書記官・総務部長、大阪府書記官・総務部長、四国地方行政協議会参事官などを歴任。 1942年1月、鳥取県知事に就任。統制経済の円滑な実施、翼賛体制の確立に尽力し、1943年7月に辞職した。1945年4月に愛媛県知事に就任し、戦後の復興に尽力。
高木 金次(たかぎ かねつぐ、1898年3月20日 - 19… 高木 金次(たかぎ かねつぐ、1898年3月20日 - 1967年6月21日)は、日本の経営者。明治生命保険社長を務めた。 岡山県出身。1923年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に明治生命保険に入社。1946年に常務に就任し、1958年5月に副社長を経て、1964年5月に社長に就任した。 1967年6月21日、心臓疾患のために在職中に死去。69歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
千葉 益子(ちば ますこ、1898年〈明治31年〉3月19日… 千葉 益子(ちば ますこ、1898年〈明治31年〉3月19日 - 1971年〈昭和46年〉6月16日)は、日本の美容家。兵庫県出身。本名は「相原ます」、出生名は「千葉ます」。 「近代美容の母」とされるマリールイズの養女(養子の妻)。着付けにおいては昭和期の優れた指導者であり、美容界の発展と美容師の地位向上に尽力した。マリールイズの養子である相原松三郎の妻だが、結婚した時には「千葉益子」の名で美容家として通用していたため、生涯を「千葉益子」の名で通した。 兵庫県で誕生した。1913年(大正2年)に、兵庫県立豊岡高等女学校(後の兵庫県立豊岡高等学校)を首席で卒業した。しかし父の事業の失敗で家が没落し、進学は叶わなかった。
白石 古京(しらいし こきょう、1898年(明治31年)3月… 白石 古京(しらいし こきょう、1898年(明治31年)3月18日 - 1991年(平成3年)1月17日)は、日本の実業家。京都新聞社元社長。京都放送元社長。位階は従三位。1946年に社長就任後から始まり、死後は白石一族が京都新聞の経営者に関与・支配している。 奈良県五條市出身。白石村治の三男。1922年に東京帝国大学経済学部卒業。翌年に京都新聞社の前身である京都日日新聞社に入社した。 1946年3月から1981年までに社長を務め、京都新聞を日本を代表する地方紙に育て上げた。京都新聞の「実力社主」として権勢をふるう。 その一方で、共同通信社理事会副会長、京都放送社長、日本国際連合協会京都本部長、京都商工会議所副会頭、京都市観光協会会長、国際新聞編集者協会理事、日本観光協会副会長などを歴任した。
宮田 重文(みやた しげふみ、1898年(明治31年)3月1… 宮田 重文(みやた しげふみ、1898年(明治31年)3月17日 - 1973年(昭和48年)12月6日)は、昭和期の実業家、政治家。参議院議員(2期)、茨城県久慈郡太田町長、常陸太田市長、同名誉市民。旧姓は立川。 茨城県久慈郡太田町(現常陸太田市)で、立川義之の三男として生まれる。茨城県立太田中学校(現茨城県立太田第一高等学校・附属中学校)を経て、1921年(大正10年)早稲田大学政治経済科を卒業した。 1921年、明治屋に入社し、1926年(大正15年)に丸の内支店次長で退職して帰郷した。書籍・学用品販売業の宮田家の養子となった。茨城新聞社に入社し、営業局外交部長に就任。1928年(昭和3年)2月の第16回衆議院議員総選挙に大学の恩師五来欣造が茨城県第2区から立候補した際に、選挙事務長を務めたが五来は落選した。
堀木 鎌三(ほりき けんぞう、1898年3月17日 - 19… 堀木 鎌三(ほりき けんぞう、1898年3月17日 - 1974年4月13日)は、日本の鉄道官僚、政治家。参議院議員(2期)、厚生大臣。 三重県松阪市出身。堀木利右衛門の三男として生まれる。目白中学、第八高等学校を経て、1922年(大正11年)3月、東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業。1921年(大正10年)11月、高等試験行政科試験に合格。1922年4月に鉄道省に入り、鉄道局書記となり東京鉄道局庶務課文書掛に勤務。鉄道局副参事・新橋運輸事務所営業主任、東京鉄道局運輸課旅客掛長などを歴任。1929年(昭和4年)7月に在外研究員に発令され、1931年(昭和6年)8月まで欧州に出張した。 帰国後、新橋運輸事務所長、大阪鉄道局運輸課長、運輸局旅客課長などを経て、1938年(昭和13年)4月、鉄道大臣秘書官兼大臣官房文書課長に就任し、中島知久平に仕えた。
横光 利一(よこみつ りいち、1898年〈明治31年〉3月1… 横光 利一(よこみつ りいち、1898年〈明治31年〉3月17日 - 1947年〈昭和22年〉12月30日)は、日本の小説家・俳人・評論家。本名は漢字表記同じで「よこみつ としかず」。 菊池寛に師事し、川端康成と共に新感覚派として大正から昭和にかけて活躍した。『日輪』と『蠅』で鮮烈なデビューを果たし、『機械』は日本のモダニズム文学の頂点とも絶賛され、また形式主義(英語版)文学論争を展開し『純粋小説論』を発表するなど評論活動も行い、長編『旅愁』では西洋と東洋の文明の対立について書くなど多彩な表現を行った。1935年(昭和10年)前後には「文学の神様」と呼ばれ、志賀直哉以来の「小説の神様」とも称された。
岡田 希雄(おかだ きゆう、1898年(明治31年)3月15… 岡田 希雄(おかだ きゆう、1898年(明治31年)3月15日 - 1943年(昭和18年)1月31日)は、日本の国語学者、国文学者、辞書学者。 京都府葛野郡七条村(現在の京都市下京区)に農家の服部家の次男として生まれる。名は市治郎。3歳で父の浅吉を亡くし、5歳で母のヤヱを亡くした後、乙訓郡久世村(現在の京都市南区)にある曹洞宗の鷲尾寺の住職である岡田希僊に引き取られる。1904年(明治37年)に養子として入籍し、1910年(明治43年)に得度を受けて「希雄」と名前を改め、翌1911年(明治44年)3月に僧籍に登録された。 1915年(大正4年)に京都府立京都第二中学校を卒業後、第三高等学校に入学する。
森 周六(もり しゅうろく、1898年(明治31年)3月14… 森 周六(もり しゅうろく、1898年(明治31年)3月14日-1961年(昭和36年)2月4日)は、日本の農学者、農業工学者。専門は農業機械学。農学博士。九州大学教授。九州大学農学部長や日本学術会議会員を歴任。 鹿児島県大島郡瀬戸内町阿木名出身。医師の父の六男として生まれる。阿木名尋常小学校、鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)を経て、1919年(大正8年)第七高等学校造士館 (旧制)卒業。1922年(大正11年)東京帝国大学農学部農学科卒業。東大の恩師のすすめで同年より東京帝国大学農学部講師。1924年(大正13年)7月28日、九州帝国大学農学部助教授となる。1933年(昭和8年)4月19日、論文「本邦在来犂ニ関スル研究」で北海道帝国大学より農学博士号授与(農業機械関係では日本初)。
田中 繁松(たなか しげまつ、1898年〈明治31年〉3月1… 田中 繁松(たなか しげまつ、1898年〈明治31年〉3月13日 - 1976年〈昭和51年〉2月26日)は、日本の経営者。三井造船社長を務めた。位階は正四位。 大阪府岸和田市出身。1918年に大阪高等工業学校造船学科を卒業し、同年に三井物産に入社。1942年1月に三井造船に転じ、1946年5月に取締役、同年11月に常務、1947年5月に専務を経て、1958年5月に副社長に就任し、1960年5月には社長に昇格。1970年5月に取締役相談役を経て、1972年5月には相談役に就任。 1968年4月に勲二等瑞宝章を受章。 1976年2月26日脳血栓のために死去。77歳没。死没日付をもって正四位に叙された。
蒲原 重雄(かんばら しげお、1898年3月12日 - 19… 蒲原 重雄(かんばら しげお、1898年3月12日 - 1932年10月16日)は日本の建築家。司法省技師。日本における表現主義建築の傑作とされる小菅刑務所(現東京拘置所)と、建畠大夢が建設した北軽井沢大学村に現存する洋小屋組が特徴の南紀倶楽部(元紀州出身の美術家グループのアトリエである南紀美術倶楽部)が代表作。 明治31年(1898年)、岡山市で旧佐賀藩の漢学者の次男[要検証 – ノート]として生まれる。岡山県立第一中学校、第六高等学校(岡山)を経て、東京帝国大学に進学。大正11年(1922年)3月、東京帝国大学工学部建築学科を卒業。卒業制作は「住宅」。同期には岸田日出刀、土浦亀城、田辺平学、長谷川輝雄などがいる。
中川 潤治(なかがわ じゅんじ、1898年〈明治31年〉3月… 中川 潤治(なかがわ じゅんじ、1898年〈明治31年〉3月12日 - 1959年〈昭和34年〉4月3日)は、昭和時代の政治家。新潟県高田市長。新潟県議会議員(1期)。 1923年(大正12年)3月、東京帝国大学農学部を卒業し、同年12月に帝国農会に出仕する。1931年(昭和6年)11月、同会を辞職。その間、1927年(昭和2年)2月に陸軍歩兵少尉に任官し、1931年(昭和6年)後備役に編入した。 1935年(昭和10年)12月に高田市会議員に当選し、翌年の1936年(昭和11年)11月、再選と同時に同市助役に就任。ついで1938年(昭和13年)10月、高田市長に就任した。1942年(昭和17年)に再選。
遠藤 武勝(えんどう たけかつ、1898年(明治31年)3月… 遠藤 武勝(えんどう たけかつ、1898年(明治31年)3月12日 - 1988年(昭和63年)11月13日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍主計少将。 鳥取県出身。鳥取中学校(鳥取県立鳥取西高等学校)を卒業し、1920年(大正9年)5月、陸軍経理学校(14期)を卒業。同年12月、三等主計に任官し歩兵第8連隊付となる。1922年(大正11年)10月、第19師団経理部員に就任し、歩兵第47連隊付を経て、1929年(昭和4年)5月、経理学校高等科(甲種1期)を優等で卒業し、さらに員外学生として東京帝国大学経済学部に派遣され1929年4月から1932年(昭和7年)3月まで聴講した。この間、1930年(昭和5年)3月、一等主計に昇進。
安西 冬衛(あんざい ふゆえ、1898年〈明治31年〉3月9… 安西 冬衛(あんざい ふゆえ、1898年〈明治31年〉3月9日 - 1965年〈昭和40年〉8月24日)は、日本の詩人である。本名は勝(まさる)。奈良県奈良市出身。 大連で北川冬彦らと詩誌「亞」を創刊。その後、「詩と詩論」の創刊に参加、新しい散文詩運動を推進した。詩集に『軍艦茉莉』(1929年)、『亜細亜の鹹湖』(1933年)、『韃靼海峡と蝶』(1947年)などがある。 旧岸和田藩士の子として生まれる。麹町小学校、堺中学校(現・大阪府立三国丘高等学校)卒業。1920年、父の赴任先であり当時日本の租借地であった大連に渡る。翌1921年、関節炎を患い右脚を切断、文学に興味を示し、1924年11月、北川冬彦らと詩誌「亞」を大連で創刊。
松木 侠(まつき たもつ、1898年〈明治31年〉3月9日 … 松木 侠(まつき たもつ、1898年〈明治31年〉3月9日 - 1962年〈昭和37年〉7月10日)は、日本の政治家、弁護士、旧鶴岡市第8代市長。栄典は正五位・勲三等・旭日中綬章。哲学者・木田元の伯父。
三好 重夫(みよし しげお、1898年(明治31年)3月9日… 三好 重夫(みよし しげお、1898年(明治31年)3月9日 - 1982年(昭和57年)1月19日)は、日本の内務官僚。官選府県知事。
橋本 忠司(はしもと ちゅうじ、1898年3月9日 - 19… 橋本 忠司(はしもと ちゅうじ、1898年3月9日 - 1985年9月12日)は、日本の経営者。蝶理社長、会長を務めた。大阪府出身。位階は従四位。 1919年に神戸高等商業学校を卒業。三井物産、東洋曹達工業での勤務を経て、1951年に互洋貿易社長に就任し、1960年1月には蝶理社長に就任。1970年5月に会長に就任し、1978年6月に相談役を経て、1980年6月には顧問に就任。 1970年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 1985年9月12日心不全のために死去。87歳没。死没日付をもって従四位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
稲村 隆一(稻村隆一、いなむら りゅういち、1898年3月7… 稲村 隆一(稻村隆一、いなむら りゅういち、1898年3月7日 - 1990年11月20日)は、日本の農民運動家、政治家、衆議院議員(4期)。政治家の稲村順三は弟、稲村稔夫は甥。 北海道虻田郡喜茂別町出身。 1918年北海中学校(旧制)、1923年早稲田大学政治経済学部卒業。 早稲田大学在学中から建設者同盟に参加、その後農民運動に入った。その間日本共産党に入党し、1926年に労働農民党に入党。 1928年の三・一五事件で検挙された後、社会大衆党に移った。 1937年に新潟県日本農民連盟を結成し、皇国農民連盟と連携を図った。 1940年に東方会、石原莞爾の東亜連盟運動にも参加。戦後、日本社会党に入ったが、公職追放を受けた。
松岡 秀夫(まつおか ひでお、1898年〈明治31年〉3月7… 松岡 秀夫(まつおか ひでお、1898年〈明治31年〉3月7日 - 1944年〈昭和19年〉9月4日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、星河村長、忍町長。 埼玉県北埼玉郡星河村(現行田市)で、醤油醸造業・松岡三五郎の長男として生まれる。1915年、埼玉県立熊谷中学校(現在の埼玉県立熊谷高等学校)。1920年、東京帝国大学農学部農学実科を卒業した。1923年から1931年まで忍高等女学校で理科・実業科嘱託教師を務めた。 また、星河村農会長、蚕業組合長、忍貯蓄銀行取締役頭取、忍商業銀行(現・りそな銀行・埼玉りそな銀行)取締役頭取、星河村会議員、同村長、忍町会議員、同議長、同町長、埼玉県会議員、帝国在郷軍人会北埼玉郡連合分会長などを歴任。
妹尾 芳太郎(せのお よしたろう、1898年(明治31年)3… 妹尾 芳太郎(せのお よしたろう、1898年(明治31年)3月7日 - 1969年(昭和44年)1月19日)は、日本の政治家。徳島県吉野川市出身。 麻植郡山瀬町山崎(現在の吉野川市)生まれ。1917年(大正6年)、徳島県師範学校(現在の徳島大学)を卒業。 師範学校卒業後、麻植郡山崎尋常高等小学校訓導、師範学校付属小学校訓導、三好郡加茂尋常高等小学校長、徳島県視学、徳島県学務部学務課長、美馬高等女学校長を歴任。 1939年(昭和14年)に徳島市助役に就任。1947年(昭和22年)には公選により選ばれた初めての徳島市長に就任、1948年(昭和23年)まで務めた。 市長退任後は長崎県に行き、高田水産副社長などを務めた。
杉本 キクイ(すぎもと キクイ、1898年〈明治31年〉3月… 杉本 キクイ(すぎもと キクイ、1898年〈明治31年〉3月5日 - 1983年〈昭和58年〉3月30日)は、日本の瞽女。晩年は「高田瞽女最後の親方」と呼ばれた。8歳で巡業に出て以降、1973年(昭和48年)に廃業するまで、主に新潟県の頸城三郡と長野県の上田地方を巡った。名前はキクエ、キクヱともされる。 1898年(明治31年)3月5日、新潟県中頸城郡諏訪村東中島(現在の上越市東中島)に青木久治・ウミの長女として生まれた。6歳の時にはしかを患い、医師の誤診のため失明した。 1904年(明治37年)3月9日、7歳のキクイは杉本マセに正式に弟子入りし、瞽女となった。1か月後の4月2日には西頸城への旅に連れていかれた。
前田 精(まえだ ただし、1898年3月3日 - 1977年… 前田 精(まえだ ただし、1898年3月3日 - 1977年12月13日)は、大日本帝国海軍の軍人。最終階級は海軍少将。海兵46期。1945年8月17日のインドネシア独立の平穏無事な実現に重要な貢献をした。栄典はインドネシア共和国建国功労章。兄は大本営海軍報道部長、第10航空艦隊司令長官前田稔海軍中将(41期)。弟は資生堂のデザイナー前田貢。 鹿児島県姶良郡加治木村小山田(現姶良市加治木町)出身。鹿児島県立加治木中学校(旧制)卒業後、海軍兵学校に入学(第46期)。同期生に山階宮武彦王、猪口敏平らがいる。 1918年(大正7年)11月21日卒業。翌年8月、少尉に任官。オランダ公使館付武官、大本営海軍参謀、バタビア在勤武官を歴任し、1945年(昭和20年)に海軍少将およびジャカルタ在勤武官。
田崎 秀夫(たざき ひでお、1898年3月3日 - 1989… 田崎 秀夫(たざき ひでお、1898年3月3日 - 1989年12月19日)は広島文理科大学(現広島大学)の理学研究者。 福島県出身。X線および電子線による結晶解析の研究においてで、メタ硼酸の結晶構造の解析にフーリエ解析法を用いる方法を提案した。 広島大学退官後は、大阪電気通信大学学長に就任し、持ち前の温厚な性格と冷静な発言で、学生紛争を平和裏に終結に導いた。1970年、勲三等瑞宝章受章。1989年、腎不全のため死去。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。