尾関 義一(おぜき ぎいち、1889年(明治22年)7月11… 尾関 義一(おぜき ぎいち、1889年(明治22年)7月11日 - 1966年(昭和41年)2月14日)は、明治末から昭和期の弁護士、政治家。衆議院議員(3期)。 広島県三上郡、のちの比婆郡本田村(現庄原市)出身。1907年(明治40年)中央大学法律科を卒業。弁護士の業務に従事。 犬養内閣嘱託、衆議院嘱託、立憲政友会幹事、吉田内閣内閣総理大臣秘書官を務めた。立憲政友会幹事長森恪の側近として活躍し、森の没後は林譲治と共に活動した。 1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙に栃木県第1区から日本自由党公認で出馬して落選。落選後の1948年(昭和23年)、政治資金に関する問題で衆議院不当財産取引調査特別委員会に証人喚問された。
篠原 新三(しのはら しんぞう、1889年〈明治22年〉7月… 篠原 新三(しのはら しんぞう、1889年〈明治22年〉7月9日 - 1966年〈昭和41年〉4月13日)は日本の画家・水彩画家である。水彩画の普及と信州での美術の発展に多大に貢献した。 長野県上水内郡芹田村(現・長野市中御所)に資産家である篠原勝之助の三男として生まれる。長野商業学校(現・長野商業高等学校)在学中、長野師範学校で開催された水彩画研究会に参加。河野通勢、草川信を知り、共に絵画グループを結成する。 卒業後上京し、日本水彩画会研究所に入り、日本水彩画の父・大下藤次郎の指導を受ける。大正元年(1911年)太平洋画会会員となり、大正2年(1913年)丸山晩霞ら総勢37名と日本水彩画会を創立。
足立 源一郎(あだち げんいちろう、1889年〈明治22年〉… 足立 源一郎(あだち げんいちろう、1889年〈明治22年〉7月8日 - 1973年〈昭和48年〉3月31日)は、日本の画家、作家、登山家。山岳作家として国内外に足跡を残し、『滝谷ドームの北壁』『北穂高岳南峰』など、数々の名作を世に送り出した。 大阪府大阪市南船場生まれ。1905年に京都市立美術工芸学校(現:京都市立芸術大学)に入学し、翌年からは京都岡崎に新設された関西美術院にも通って浅井忠や鹿子木孟郎の指導を受けた。 1907年に上京して太平洋画会研究所に入る。さらに柚木久太の勧めで1914年から渡欧。1914年〜1918年、1923年〜1926年の7年のパリへの渡欧を経て画家としての基礎を学ぶ。
稲田 直道(稻田 直道、いなだ なおみち、1889年(明治2… 稲田 直道(稻田 直道、いなだ なおみち、1889年(明治22年)7月7日 - 1979年(昭和54年)4月29日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(4期)。 鳥取県邑美郡古市村(岩美郡美保村古市を経て現鳥取市古市)で、稲田益造、ちせ夫妻の長男として生まれる。1908年(明治41年)鳥取県第一中学校(現鳥取県立鳥取西高等学校)を卒業。在学中、日露戦争後の満韓の視察を行った。1908年、第六高等学校に入学したが中退し、1909年(明治42年)早稲田大学に転じた。在学中、雄弁会幹事を務め、南極探検事業、理想選挙、憲政擁護運動の遊説を全国各地で行った。1915年(大正4年)同大政治経済科を卒業。
河瀬 四郎(かわせ しろう、1889年(明治22年)7月7日… 河瀬 四郎(かわせ しろう、1889年(明治22年)7月7日 - 1946年(昭和21年)7月20日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 鳥取藩士・小学校長、河瀬聰の四男として生れる。鳥取第一中学校を経て、1910年7月、海軍兵学校(38期)を卒業し、翌年12月に海軍少尉任官。海軍水雷学校高等科を卒業し、「天津風」水雷長、臨時海軍防備隊付などを経て、1922年11月、海軍大学校(甲種20期)を卒業した。 横須賀防備隊水雷長、「萩」「桑」の各駆逐艦長、連合艦隊参謀、水雷学校教官、艦政本部員、水雷学校教官、イギリス出張(造兵監督官)、「霧島」副長、第3駆逐隊司令、第6駆逐隊司令、艦政本部員などを経て、1937年12月、海軍少将に進級。
山崎 元幹(やまざき もとき、1889年(明治22年)7月7… 山崎 元幹(やまざき もとき、1889年(明治22年)7月7日 - 1971年(昭和46年)1月24日)は昭和期の実業家。南満洲鉄道株式会社(満鉄)最後の総裁としてその終戦処理をおこなった。 福岡県糸島郡福吉村(現・糸島市二丈地域)出身。名前の読みは「もとき」であるが「げんかん」と音読みするものが多かったという。唐津中学、第一高等学校英法科、東京帝国大学法科大学政治学科を首席卒業。 1916年(大正5年)5月、満鉄に入社し、総務部に勤務。1921年(大正10年)8月から1923年(大正12年)9月にかけて、欧米に留学する。帰国後は社長室文書課勤務となる。1925年(大正14年)6月、撫順炭鉱参事に移り、翌年8月には撫順炭鉱庶務課長を務めた。
大麻 唯男(おおあさ ただお、1889年(明治22年)7月7… 大麻 唯男(おおあさ ただお、1889年(明治22年)7月7日 – 1957年(昭和32年)2月20日)は、日本の内務官僚、政治家。 熊本県玉名郡梅林村(現玉名市)出身(出生地は東京府)。兄は後に剣道十段となった大麻勇次。 熊本中学、第五高等学校、1914年(大正3年)東京帝国大学法科を卒業後、内務省に入省。山梨県属。警察畑を歩み、山形・山梨・神奈川各県の警察署長を務めた。 1924年(大正13年)、同郷の小橋一太(元文部大臣)の推挙により、清浦奎吾首相秘書官を務める。徳川家広によると、細川護立の宴会に出席した大麻のスピーチの巧さが清浦の目に止まったのが秘書官になったきっかけという。同年政友本党から第15回衆議院議員総選挙に立候補し当選。
佐々木 嘉平(ささき かへい、1889年(明治22年)7月7… 佐々木 嘉平(ささき かへい、1889年(明治22年)7月7日 - 1983年(昭和58年)5月2日)は社寺大工。富山県東礪波郡福野町(現在の南砺市福野)で代々宮大工であった佐々木家に生まれた。 父であった三代目佐々木嘉平に師事し、独学で技術・知識を身に付け、全国各地で数々の国宝や重要文化財の修復・保存に携わった。昭和46年黄綬褒章を受章。この四代目佐々木嘉平は、棟梁としては佐々木棟慶とも名乗った。戒名は平等院釈棟慶居士。 日本建築文様宝典 2003年 文芸社刊 清水稔次 佐々木健 編
飯塚 茂(いいづか しげる、1889年(明治22年)7月4日… 飯塚 茂(いいづか しげる、1889年(明治22年)7月4日 - 1945年(昭和20年)1月12日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 栃木県下都賀郡三鴨村大字都賀(現:栃木市藤岡町都賀)で、飯塚茂十郎の長男として生まれる。叔父・飯塚国三郎(講道館幹部、慶應義塾柔道師範)の導きで講道館・嘉納塾に入塾し、最終的に段位は講道館柔道七段となる。 1915年、慶應義塾大学部法律学科を卒業し、同年4月、英国領シンガポールに渡り、英国領マレー半島ジョホール州でゴム栽培事業を経営。1918年、南進公司を設立して社長となり、南和公司常務、大倉スマトラ農場常務なども務めた。1927年12月、財団法人暹羅協会(現:日本タイ協会)の設立時に創立委員、その後、1935年3月まで理事を務めた。
大溝 勇(おおみぞ いさむ、1889年(明治22年)7月4日… 大溝 勇(おおみぞ いさむ、1889年(明治22年)7月4日 - 1928年(昭和3年)6月17日)は、日本の造園家。明治神宮内苑の造営にかかわり、関東大震災復興小公園の設計にも関与した。 静岡県君沢郡中郷村(現・三島市)に生まれる。1899年に中郷尋常小学校を卒業して上京し、富士見尋常高等小学校に入学した[要出典]。1907年に旧制第一高等学校理農科に進学。1911年7月に卒業(卒業時点では「農科」)、同年9月に東京帝国大学農科大学林学科に入学した(入学宣誓式は10月14日に挙行)。大学では本多静六に学ぶ。 1914年7月に大学を卒業すると、翌年4月30日に内務大臣所管の明治神宮造営局(内苑造営工事専門の国による部局)林苑課に就職した。
明石 順三(あかし じゅんぞう、1889年7月1日 - 19… 明石 順三(あかし じゅんぞう、1889年7月1日 - 1965年11月14日)は、日本の宗教家。1927年にワッチタワー(エホバの証人)の日本支部として灯台社を創立した。聖書に基づく信仰から戦争に反対し、1939年に検挙され、治安維持法違反で懲役刑を受けた。第二次世界大戦後の1945年10月に釈放されたが、1947年にエホバの証人のアメリカ合衆国本部を批判してエホバの証人から除名された。 1889年7月1日に滋賀県坂田郡息長村(現・米原市)岩脇(いよぎ)で生まれた。順三の生まれた家は彦根藩で代々藩医を務めていて、父の道貞は外科医あるいは漢方医だった。 順三は滋賀県立彦根中学校(後の滋賀県立彦根東高等学校)を2年で中退し、1907年に東京に行きプロテスタント系の神田教会の牧師である島貫兵太夫(しまぬき へいだゆう・ひょうだゆう)が主宰する力行会に入った。
穂積 真六郎(ほづみ しんろくろう、1889年(明治22年)… 穂積 真六郎(ほづみ しんろくろう、1889年(明治22年)6月30日 - 1970年(昭和45年)5月23日)は、朝鮮総督府官僚、参議院議員。
土田 國太郎(つちだ くにたろう、1889年〈明治22年〉6… 土田 國太郎(つちだ くにたろう、1889年〈明治22年〉6月28日 - 1960年〈昭和35年〉3月26日)は、日本の醸造家、政治家。参議院議員(1期)。 群馬県利根郡川場村立岩に生まれる。父・茂八は新潟県の生まれで川場村に移住し貸蔵で酒造業を営んでいた。 國太郎は群馬県立前橋中学校利根分校(のち旧制群馬県立沼田中学校、現群馬県立沼田高等学校)を卒業したのち、1912年(大正元年)より沼田町(現・沼田市)下之町で酒造りを始める。1923年(大正12年)、同町の酒蔵を買い入れて土田酒造を創業、「譽之國光」の銘板の日本酒の醸造を開始。これが地酒の銘酒として県内外から称賛を浴びるようになる(のちに現名の「譽國光」(ほまれこっこう)に改名)。
中山 タマ(なかやま タマ、1889年(明治22年)6月28… 中山 タマ(なかやま タマ、1889年(明治22年)6月28日 – 1971年(昭和46年)10月5日)は日本の医師。政治家、衆議院議員(1期)。 1889年兵庫県津名郡仮屋町(現淡路市)に生まれる。日本医学校(現日本医科大学)を卒業後、1911年に医師免許を取得し、翌年神戸市で開業する。その後鈴蘭台病院院長になり、戦後の1946年の第22回衆議院議員総選挙に兵庫県1区(大選挙区制)から無所属で立候補して3位で当選した。翌年の第23回衆議院議員総選挙では兵庫2区から民主党公認で立候補したが落選した。落選後は論文「人體に於けるBCG皮内接種の局所反應とツベルクリン反應との關連に就て」により1949年に大阪大学から医学博士の学位を取得し、自民党に入党して兵庫県連顧問になった。
桜井 省三(さくらい しょうぞう、1889年(明治22年)6… 桜井 省三(さくらい しょうぞう、1889年(明治22年)6月27日 - 1985年(昭和60年)7月7日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 判事や弁護士を務めた桜井祥造の二男として名古屋で生れる。本籍は山口県萩市。 愛知第四中学校、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1911年5月、陸軍士官学校(第23期)を卒業し、同年12月、歩兵少尉に任官し奈良の歩兵第53連隊付となる。参謀本部付勤務などを経て、1919年11月、陸軍大学校(第31期)を優等で卒業。 その後、参謀本部員(船舶班)、フランス駐在、参謀本部員、歩兵第41連隊大隊長、参謀本部員(船舶班)、兼陸大教官、歩兵第77連隊長、内閣調査局調査官、企画庁調査官、第14碇泊場司令官、企画院調査官、第1船舶輸送司令部付などを歴任し、1938年3月1日、陸軍少将に進級。
片多 徳郎(かたた とくろう、明治22年(1889年)6月2… 片多 徳郎(かたた とくろう、明治22年(1889年)6月24日 - 昭和9年(1934年)4月27日)は、大分県出身の洋画家である。 大分県西国東郡高田町(現・豊後高田市)生まれ。 明治45年(1912年)、東京美術学校卒業。文展第3回に『夜の自画像』、第4回に『黄菊白菊』、第5回に『或る人の母』を出品した。第10回出品の『婦女沐浴』と第11回出品の『伎女舞踏図』は、当時では珍しい伝統的な題材と復古的な重厚な色彩とが異色で、以後、帝展における日本化された洋画の代表者と目され、大正7年(1918年)『花下美人』、大正8年(1919年)『霹靂』、昭和4年(1929年)『秋果図』、昭和7年(1932年)『秋果一枝』を帝展に出品した。
三木 露風(みき ろふう、1889年6月23日 - 1964… 三木 露風(みき ろふう、1889年6月23日 - 1964年12月29日)は、日本の詩人、童謡作家、歌人、随筆家。本名は三木 操(みき みさお)。異父弟に映画カメラマンの碧川道夫がいる。国木田独歩の曾祖母が三木家出身。その縁もあり1912年『独歩詩集』を刊行した。早稲田詩社結成に加わり、『廃園』(1909年)を刊行。ほかに詩集『寂しき曙』(1910年)、『白き手の猟人』(1913年)など。 近代日本を代表する詩人・作詞家として、北原白秋と並んで「白露時代」を築いた。若き日は日本における象徴派詩人でもあった。 1889年(明治22年)6月23日、兵庫県揖西郡龍野町(現・たつの市)に父・三木節次郎、母・かたの長男として生まれた。
塩入 亮忠(しおいり りょうちゅう、1889年6月23日 -… 塩入 亮忠(しおいり りょうちゅう、1889年6月23日 - 1971年12月23日)は、天台宗の僧侶、仏教学者。第13代大正大学学長。雅号・一乗子、別名・汲海。 1889年、長野県小県郡神川村(現上田市)に生まれる。1901年、東京浅草寺で得度。天台宗大学(現・大正大学)で学び、1915年に卒業。大谷大学研究科で華厳、唯識、天台宗学を学びつつ、奈良の華厳宗本山東大寺勧学院でも修めた。 1918年より天台宗大中学講師、1927年より大正大学講師となる。研究雑誌「伝教大師研究」を創刊。第2代駒込中学校長・理事長を務めた。1931年より大正大学教授。1951年、同大学学長に就任。1959年に定年退職し名誉教授。
海野 数馬(うんの かずま、1889年(明治22年)6月22… 海野 数馬(うんの かずま、1889年(明治22年)6月22日 - 1971年(昭和46年)1月4日)は、明治時代後期から昭和時代の政治家、実業家。衆議院議員(3期)。 静岡市に生まれる。大井善吉の三男として生まれ、のち先代平作の養子となり1916年(大正5年)家督を相続し前名勇吉を改める。静岡県立静岡中学校退学。1911年(明治44年)日本大学法律科を卒業する。請負業を営む傍ら、静岡県農会議員、静岡県会議員を務めた。ほか財界では、昭和工業、昭和木材各社長を歴任した。 1928年(昭和3年)2月の第16回衆議院議員総選挙では静岡県第1区から立憲民政党所属で出馬し当選。つづく第17回、第18回総選挙でも当選し衆議院議員を3期務めた。
島村 民蔵(しまむら たみぞう、1888年7月22日 - 1… 島村 民蔵(しまむら たみぞう、1888年7月22日 - 1970年11月15日)は、日本の劇作家、演劇研究家。 東京神田生まれ。号を甲鳥、柳水。開成中学校をへて1909年早稲田大学英文科卒。東京帝国大学独文科中退。坪内逍遥、大塚保治に師事。劇作、演劇研究をおこない、早稲田大学、日本大学で教える。戦後は静岡女子短期大学教授。
宮田文子(みやた ふみこ、1888年7月21日 - 1966… 宮田文子(みやた ふみこ、1888年7月21日 - 1966年6月25日)は日本の新聞記者、随筆家、ファッションデザイナー、俳優、実業家。旧姓名は、中平文子(なかひら ふみこ)、武林文子(たけばやし ふみこ)。新聞記者時代の筆名は「なでし子」。 「化け込み」の新聞記者として注目を集めた後、モンテカルロで愛人に顔を銃撃され国内外でスキャンダラスに取り上げられるなど、異色のエピソードの持ち主として知られる。複数の結婚歴と離婚歴があり、三番目の夫は小説家の武林無想庵、四番目の夫は貿易商の宮田耕三。 愛媛県松山市唐人町(現三番町)にて、伊予松山の鉄道局に勤務する中平盛太郎(寿太郎の説もあり)の一女として生まれる。
樺島 勝一(かばしま かついち、本名:椛島 勝一、1888年… 樺島 勝一(かばしま かついち、本名:椛島 勝一、1888年7月21日 - 1965年5月31日)は、日本の挿絵画家、漫画家。 長崎県諫早市出身。代表作に『正チャンの冒険』『敵中横断三百里』『亜細亜の曙』『吼える密林』など。精緻な画風から「ペン画の神様」と呼ばれた。 長崎県北高来郡諫早村(現:諫早市)に生まれる。4歳で鹿児島市へ転居し、鹿児島商業学校へ進学するも、生来の吃音のため商人には向かないと考え中退。上京して画業に入るが、貧しいため美術学校に通う事はかなわなかった。しかし、洋書の『ジオグラフィック・マガジン』のペン画を見て、独学で細密描写の技法を確立し、博文館の雑誌などで挿絵を描くようになる。
近藤 兵太郎(こんどう ひょうたろう/へいたろう、1888年… 近藤 兵太郎(こんどう ひょうたろう/へいたろう、1888年7月17日- 1966年5月19日)は、日本人の野球指導者。愛媛・松山商や、台湾台南州立嘉義農林学校(現在の国立嘉義大学)野球部などで監督を務めた。松山商野球部を初の全国出場に導くなど戦前の黄金時代の礎を築いた監督として、また日本統治下の台湾の嘉義農林学校を率いて甲子園に出場し、準優勝に導いたことで台湾野球史にもその名を残した。
原 龍三郎(はら りゅうざぶろう、1888年7月15日 - … 原 龍三郎(はら りゅうざぶろう、1888年7月15日 - 1968年12月30日)は、日本の応用化学者。工学博士。東北帝国大学工学部名誉教授。文化功労者、日本学士院会員。日本化学会名誉会員。 先祖は金沢の士族、父が飯田の中学校長在任中に生れた。一高を経て1913年東京帝国大学応用化学科卒。九州帝国大学講師、1914年助教授、1917年新設の東北帝国大学工学部に転じ、1922年教授。1925年東北大学工学博士 「青化水素及其ノ「ナトリウム」塩ニ関スル研究」 。 1947年健康上の理由から定年に2年先立って退官。 初期における研究の中心は窒素固定に関連する。青化物に関するもの、とくに青化水素の物理化学的性質についての精緻を極めた研究は特筆に値する。
里見 弴(さとみ とん、1888年(明治21年)7月14日 … 里見 弴(さとみ とん、1888年(明治21年)7月14日 - 1983年(昭和58年)1月21日)は、日本の小説家。本名:山内 英夫(やまのうち ひでお)。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 兄有島武郎・生馬の友人志賀直哉の強い影響を受け、『白樺』創刊に参加。人情の機微を描く心理描写と会話の巧妙を発揮して、高い評価を受け、晩年まで長く活躍した。 1888年(明治21年)、有島武と妻幸子の四男として神奈川県横浜市に生まれる。生まれる直前に母方の叔父の山内英郎が死去したため、出生直後にその養子となり山内英夫となったが、有島家の実父母の元で他の兄弟と同様に育てられた。 1900年(明治33年)に学習院中等科 (旧制) へと進み、この頃から泉鏡花の作品に慣れ親しむ。
倉永 辰治(くらなが ときはる、1888年(明治21年)7月… 倉永 辰治(くらなが ときはる、1888年(明治21年)7月13日 - 1937年(昭和12年)8月29日)は、大正・昭和初期の軍人。佐賀郡東与賀町(現佐賀市東与賀町)出身。最終階級は陸軍少将(戦死特進)。 1888年、東与賀村立野で、元佐賀藩士の袋武辰の次男として生まれる。兄は戦後酪農の振興や旧佐賀競馬場の開設に尽力した袋正美。与賀高等小学校から佐賀中学校、さらに陸軍士官学校(陸士23期)、陸軍大学校(陸大34期)に進んだ。なお陸軍中尉時代に父の実家である藩の元馬術指南倉永勝太郎の跡を継いで倉永姓となっている。 陸大卒業後、第59連隊中隊長、第20師団、第11師団参謀、陸軍歩兵学校教官を経て、1935年(昭和10年)歩兵大佐に昇任。
川本 宇之介(かわもと うのすけ、1888年(明治21年)7… 川本 宇之介(かわもと うのすけ、1888年(明治21年)7月13日 - 1960年(昭和35年)3月15日)は大正時代から昭和時代にかけての日本の教育者。 東京市および文部省の職員を経て東京聾唖学校(筑波大学附属聴覚特別支援学校の前身)、東京盲学校(筑波大学附属視覚特別支援学校の前身)両校の教諭となり、のち東京聾唖学校長、国立ろう教育学校長兼附属ろう学校長、東京教育大学国府台分校主事を歴任した。昭和初期のろう教育において、手話を否定し純粋口話法による教育を推進した人物のひとりである(同じ時期に口話法を推進した人物として、西川吉之助、橋村徳一らがいる)。また、近代日本での教育として、「教育の社会化と社会の教育化」論を展開した。
松坂 義正(まつざか よしまさ、1888年〈明治21年〉7月… 松坂 義正(まつざか よしまさ、1888年〈明治21年〉7月12日 - 1979年〈昭和54年〉11月13日)は、日本の皮膚科・泌尿器科医師、政治家。広島県医師会会長。日本赤十字社理事。医学博士。広島市名誉市民。広島市会議長(21代、22代)。広島市会副議長(28代)。 宮城県仙台市出身。松坂佐兵衛の長男。1908年(明治41年)、日本医学校(現・日本医科大学)卒業。同年11月より1912年(明治45年)3月まで東大医学部専攻生。1929年(昭和4年)11月より1934年(昭和9年)3月まで東大医学部研究生。 1912年(明治45年)3月、広島県警察医。1915年(大正4年)、開業する。1921年(大正10年)、広島市会議員に当選する。
津田 喜次郎(つだ きじろう、1888年7月11日 - 19… 津田 喜次郎(つだ きじろう、1888年7月11日 - 1959年)は、株式会社津田式ポンプ製作所の創業者であり、同社元社長、広島県立広島観音高等学校元PTA会長。紫綬褒章と紺綬褒章を受章。 明治21年(1888年)7月11日に広島県佐伯郡鹿川村に生まれる。その後、養子として親戚の津田氏に入籍した。 大正9年(1920年)10月、広島市広瀬町において、従来の手押しポンプを改良・考案し、合資会社・津田式ポンプ製作所を設立し「津田式ポンプ大臣號」と名付けたポンプの製造販売を行った。「菱形の中に大臣」の商標を使用した。 専売特許などを自身が持つ約30種以上の各種ポンプ製造に従事した。また地下水に含まれる塩分を薬品を用いずに完全に除去する機能を持つ浄水ポンプを発明、特許を取得した。
今 和次郎(こん わじろう、1888年〈明治21年〉7月10… 今 和次郎(こん わじろう、1888年〈明治21年〉7月10日 - 1973年〈昭和48年〉10月27日)は、日本の建築学者、民俗学研究者。考現学の第一人者。 医学者今裕の甥。銅版画家今純三の兄。息子の今保太郎は東映の美術監督。 早稲田大学理工学部建築学科で長く教壇に立ち、日本建築士会会長他、団体の要職も多く務める。民家、服装研究などで業績があり、考古学に対し現在の通常の人々の日常生活や行動を考察する「考現学」を提唱し、建築学、住居生活や意匠研究などでも活躍した。文化女子大学短期大学部・現文化学園大学短期大学部との関わりもあり家政学を教えていたこともあるが、旧来の家政学や社会政策学への批判認識から生活学を提唱した。
賀川 豊彦(かがわ とよひこ、旧字体:豐彥、1888年〈明治… 賀川 豊彦(かがわ とよひこ、旧字体:豐彥、1888年〈明治21年〉7月10日 - 1960年(昭和35年)4月23日)は、大正・昭和期のキリスト教社会運動家・社会改良家。戦前日本の労働運動、農民運動、無産政党運動、生活協同組合運動、協同組合保険(共済)運動において、重要な役割を担った人物。日本農民組合創設者。「イエス団」創始者。キリスト教における博愛の精神を実践した「貧民街の聖者」として日本以上に世界的な知名度が高く、戦前は現代の「三大聖人」として「カガワ、ガンジー、シュヴァイツァー」と称された。 茅ヶ崎の平和学園の創始者である。墓は東京都の多磨霊園にある。 妻の賀川ハルも社会運動家。息子の賀川純基は教会音楽家で東京の賀川豊彦記念松沢資料館の初代館長。
麻生 路郎(あそう じろう、1888年7月10日 - 196… 麻生 路郎(あそう じろう、1888年7月10日 - 1965年7月7日)は、大正・昭和初期の川柳家。川柳六大家の一人。本名・幸二郎。 広島県尾道市十四日元町生まれ。10歳の時大坂船場へ移り住み大坂高商(現大阪市立大学)在学中に川柳を始める。卒業後、大阪電信局、毎日新聞記者、病院事務長など色々な職に就いた。1924年、大阪で『川柳雑誌』を創刊。1936年“職業川柳人”を宣言した。川柳誌経営が職業として成り立つ時代だった。[要出典]麻生は、川柳を「川柳とは人間及び、自然の性情を素材とし、その素材の組み合わせによる内容を平原俗語で表現し、人の肺腑を衝く十七音字中心の人間陶冶の詩である」と定義付け、川上三太郎、岸本水府、前田雀郎、村田周魚、椙本紋太とともに「川柳六大家」と呼ばれた。
小笠原 登(おがさわら のぼる、1888年(明治21年)7月… 小笠原 登(おがさわら のぼる、1888年(明治21年)7月10日 - 1970年(昭和45年)12月12日)は日本の医学者(専攻は皮膚科学)でハンセン病(らい病)の研究者。元京都帝国大学医学部助教授。僧侶。 愛知県出身。京都帝国大学医学部卒業後、同大学医学部の皮膚科特別研究室助教授となり、1948年まで在職した。彼はハンセン病の発病は体質を重視すべきことや不治ではないことを主張し、当時行われていた患者の強制隔離・断種に反対したが、学会から葬り去られる結果となった。 愛知県海部郡甚目寺村(現:あま市)にある真宗大谷派円周寺の小笠原篤実の二男(戸籍では三男)として生まれる。祖父小笠原啓実は住職であり、尾張藩医浅井家の漢方医術を学んだ漢方医で、らい病、淋病、梅毒などを得意としていた。
平川 仲五郎(ひらかわ なかごろう、1888年(明治21年)… 平川 仲五郎(ひらかわ なかごろう、1888年(明治21年)7月10日 - 1987年(昭和62年)5月30日)は、教育者。東京物理学校(現在の東京理科大学)の第5代校長。東京理科大学第2代理事長。 静岡県出身。1908年(明治41年)、東京物理学校(のちの東京理科大学)全科卒業。1913年(大正2年)東北帝国大学理科大学特待学生選定。1915年(大正4年)東北帝国大学理科大学数学科卒業、東北学院勤務。1919年(大正8年)日本大学中学校講師。1921年(大正10年)東京慈恵会医科大学予科教授。1945年(昭和20年)東京物理学校第5代校長就任。1951年(昭和26年)理窓会理事長就任。1953年(昭和28年)東京理科大学2代理事長就任。
川路 柳虹(かわじ りゅうこう、明治21年(1888年)7月… 川路 柳虹(かわじ りゅうこう、明治21年(1888年)7月9日 - 昭和34年(1959年)4月17日)は明治・大正・昭和期の詩人、評論家。本名は誠。 曾祖父は幕末の旗本・外国奉行、川路聖謨。父は川路寛堂、母はハナ子(浅野長祚の五女、母方の祖父は岩城隆喜)。 東京府芝区三田生まれ。幼少期は福山市や淡路島の洲本で過ごした。洲本中学時代から文学に関心を持ち、『中学世界』『ハガキ文学』『小国民』などに投稿を始めた。 1903年(明治36年)中学校を中退し、京都の美術工芸学校に入学した。1906年(明治39年)から口語自由詩の詩作を始める。同年、美術工芸学校卒業後は関西美術院の夜学に通い、浅井忠に油絵を学ぶ。
竹内 健郎(たけうち たけろう、1888年(明治21年)7月… 竹内 健郎(たけうち たけろう、1888年(明治21年)7月9日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。 宮城県仙台市出身。1914年(大正3年)、東京帝国大学法科大学法律科を卒業し、翌年に高等文官試験に合格。宮城県警部、京都府警視・中立売警察署長、警視庁警視・深川警察署(のち西平野警察署)長、同監察官を務めた。1918年(大正7年)、朝鮮総督府に移り、黄海道警察部長、平安北道警察部長、朝鮮総督府山林部林務課長、慶尚南道内務部長、京畿道内務部長、同警察部長、咸鏡北道知事を歴任した。 1936年(昭和11年)に退官した後は、富寧水力電気株式会社社長、朝鮮水産開発株式会社社長、朝鮮造船鉄工所株式会社社長を務めた。
石原 善三郎(いしはら ぜんさぶろう、1888年〈明治21年… 石原 善三郎(いしはら ぜんさぶろう、1888年〈明治21年〉7月9日 - 1989年〈平成元年〉9月6日)は、日本の実業家、政治家。石原興業社長。衆議院議員(大阪府第一区選出、当選1回)。広島県尾道市長(16代、17代)。 大阪府出身。広島県・石原善平の息子。1910年、早稲田大学専門部法律科卒業。1911年、分家する。洋銑鉄業、鉄商を営む。 大阪朝日新聞社政治部記者となる。大阪市会議員、大阪府会議員、衆議院議員、奈良市長を歴任。立憲民政党に所属する。早稲田大学商議員、日の丸電線専務取締役、奈良市街自動車、大阪電線各社長などをつとめる。奈良県多額納税者に列する。 1931年2月、第59回帝国議会において全11条及び附則からなる「大日本帝国国旗法案」を提出し、同年3月26日衆議院本会議において可決された。
三松 正夫(みまつ まさお、1888年(明治21年)7月9日… 三松 正夫(みまつ まさお、1888年(明治21年)7月9日 - 1977年(昭和52年)12月8日)は昭和新山の成長を記録したアマチュア火山研究家。郵便局長。 北海道伊達町(現・伊達市)に生まれる。北海中学を中退後、有珠郡壮瞥町の壮瞥郵便局に勤め、郵便局長になる。 1910年(明治43年)の有珠山噴火により、8月1日以降山麓に側火山となる明治新山(1910年(明治43年)に隆起したことから四十三山と命名された)が誕生する。群発地震が多発し、住民に避難が指示されたが、当時は壮瞥郵便局の局長代理を務めていた三松には通信確保のため退避の許可が下りず、地面に畳を敷いて徹夜で勤務していた。当時、凶兆などと騒がれていたハレー彗星が地球に接近していたが、彼は空に尾を引く彗星を眺め「やはりこの彗星は不吉なのだ」と思ったという。
前田 利功(まえだ としこと、1888年(明治21年)7月7… 前田 利功(まえだ としこと、1888年(明治21年)7月7日 - 1962年(昭和37年)2月21日)は、明治から昭和期の華族(男爵)。旧名・芳明。 富山前田家第12代当主前田利聲の子として生まれる。1890年5月22日、加賀前田家分家当主前田利武の臨終に際してその養子となり、利功と改名し男爵を襲爵した。 学習院高等科を卒業。中央生命保険(第一生命保険の前身の一つ)社長、国際製菓監査役などを務めた。
藤井 達也(ふじい たつや、1888年(明治21年)7月7日… 藤井 達也(ふじい たつや、1888年(明治21年)7月7日 - 1934年(昭和9年)12月16日)は、日本の政治家で立憲政友会所属の衆議院議員。 青森県三戸郡八戸町(現在の八戸市)出身。東京帝国大学法科大学を卒業後、シカゴのノースウェスタン大学に留学し、法学博士の称号を得た。帰国後政友会の院外団に入る。 1928年(昭和3年)の第16回衆議院議員総選挙で初当選。その後、第17回・第18回の総選挙でも当選した。その間、犬養内閣で内務参与官を務めた。
松尾 高一(まつお たかいち、1888年 <明治21年> 7… 松尾 高一(まつお たかいち、1888年 <明治21年> 7月5日 - 1973年 <昭和48年> 5月19日)は、日本の実業家。尼崎信用金庫理事長を務めた。位階は正五位。 岡山県英田郡作東町(現在の美作市)出身。1912年に関西大学専門部経済科を卒業した。 大阪市役所、日本木管での勤務を経て、1921年1月に尼崎信用組合(現在の尼崎信用金庫)を創立し、理事に就任した。1944年5月には組合長(1951年の尼崎信用金庫への改組後は、理事長)に就任した。1954年1月には尼崎商工会議所会頭にも就任した。 1952年に緑綬褒章を受章し、1959年に紺綬褒章を受章し、1965年11月に勲四等旭日小綬章を受章し、1968年には尼崎市名誉市民の表彰を受けた。
山崎 佐(やまざき たすく、1888年〈明治21年〉7月5日… 山崎 佐(やまざき たすく、1888年〈明治21年〉7月5日 - 1967年〈昭和42年〉7月30日)は、日本の弁護士、法学博士、医学博士、医史学者、医事法制学創始者。日本弁護士連合会会長、日本医史学会理事長、公安審査委員会委員長などを歴任した。 1888年(明治21年)、千葉県君津郡木更津町の医家に生まれる。1909年(明治42年)に旧制第七高等学校造士館を卒業後、1913年(大正2年)、東京帝国大学法科大学法律学科(独法兼修)を卒業した。 1913年(大正2年)7月に医事法制の志を立て、東京地方裁判所予審判事として法曹実務に携わる傍ら、翌1914年(大正3年)春から医学者及び医学史家の富士川游に師事して医史学や医事法制等の研究を開始し、両分野にまたがる独特の地歩を築いた。
稲垣 平太郎(いながき へいたろう、1888年7月4日 – … 稲垣 平太郎(いながき へいたろう、1888年7月4日 – 1976年4月23日)は、日本の実業家・政治家。前参議院議員。
村上 華岳(むらかみ かがく、1888年〈明治21年〉7月3… 村上 華岳(むらかみ かがく、1888年〈明治21年〉7月3日 - 1939年〈昭和14年〉11月11日)は、大正~昭和期の日本画家。 1888年(明治21年)、大阪(北区松ケ枝町)に生まれる。本名は武田震一(のち村上震一)。甲州武田氏の末裔。家庭の事情により幼い頃に実父母のもとを離れ、叔母の嫁ぎ先である神戸の村上家に預けられて、神戸の小学校に通った。1901年(明治34年)、震一13歳の時には実父が死に、実母は再婚して行方知れずとなり、少年であった震一が武田家の家督を継ぐこととなった。3年後の1904年(明治37年)、武田家の廃家が許可され、震一は養父母の姓である「村上」を名乗ることとなる。父方の祖母は、日本初の感化院とされる「池上感化院」を自宅に設立した池上雪枝。
宮崎 彦一郎(みやざき ひこいちろう、1888年7月2日 -… 宮崎 彦一郎(みやざき ひこいちろう、1888年7月2日 - 1967年10月10日)は、日本の実業家。 滋賀県犬上郡東甲良村(現:甲良町)に生まれる。東亜同文書院卒業後に、伊藤忠商事に入社。 1955年から丸紅飯田取締役会長社長を務めた。その一方で、神戸商工会議所会頭、日本商工会議所副会頭、ラジオ関西会長、神戸高速鉄道社長なども歴任した。 1964年には勲三等旭日中綬章を受章した。 1967年10月10日、尿毒症のために神戸市の病院で死去。79歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
土屋 源市(つちや げんいち、1888年〈明治21年〉7月1… 土屋 源市(つちや げんいち、1888年〈明治21年〉7月1日 - 1968年〈昭和43年〉7月8日)は、明治末から昭和期の獣医師、政治家、実業家。衆議院議員、岡山県新見市長、同市名誉市民。旧姓・佐々木。和牛の改良に心血を注ぎ岡山県の「和牛の父」と称された。 岡山県阿賀郡実村(千屋村、阿哲郡千屋村を経て現新見市千屋実)で、農業・佐々木久太郎の三男として生まれる。1908年(明治41年)岡山県農学校(現岡山県立高松農業高等学校)獣医科を卒業した。1913年(大正2年)阿哲郡美穀村唐松の土屋和吉の養子となる。 阿哲郡吏員、同農業技手、阿哲郡産牛馬組合技師を務め、千屋牛の改良に尽力した。1920年(大正9年)阿哲畜産 (株) が設立されると支配人に就任し、その後、同社長を務めた。
小坂 狷二(おさか けんじ、1888年6月28日 - 196… 小坂 狷二(おさか けんじ、1888年6月28日 - 1969年8月1日)は、日本の鉄道車両工学の専門家、エスペランティスト。日本のエスペラント運動の父とも称される。エスペラント著作ではKenĵi OSSAKAと自署した。 東京市生まれ。1901年に陸軍幼年学校に入学、士官するものの除隊し、第一高等学校を経て1916年に東京帝国大学工科大学機械工学科を卒業し、鉄道院(後の鉄道省)に就職。客車、貨車の技術者となった。 1906年、二葉亭四迷の『世界語』によりエスペラントを知り、日本エスペラント協会に入会。1907年に横須賀エスペラント会を再建。1911~1916年に謄写版刷りの"Orienta Stelo"を独力で刊行。
小原甚八(おはら じんぱち、1888年6月28日 - 196… 小原甚八(おはら じんぱち、1888年6月28日 - 1968年)は、日本における光学ガラス製造のパイオニア。光学ガラスメーカーのオハラを創業した。藍綬褒章受章。 1888年(明治21年)福井県生まれ。1911年(明治44年)東京高等工業学校(現東京工業大学)窯業科を卒業した後、1915年(大正4年)海軍造兵廠に勤務した。柴田理八の元で光学ガラス試作に従事し、1922年(大正11年)には光学ガラス工場の主任になった。海軍が光学ガラス製造を日本光学工業(現ニコン)に譲渡したことに伴い日本光学工業に移籍し、日本光学光学硝子研究所主任となった。 1935年(昭和10年)日本光学工業を退社し、同年10月東京蒲田にて小原光学硝子製造所(現オハラ)を創業した。
斎藤 樹(さいとう いつき、1888年〈明治21年〉6月26… 斎藤 樹(さいとう いつき、1888年〈明治21年〉6月26日 - 1951年〈昭和26年〉6月2日)は、日本の内務官僚。警視総監、台湾総督府総務長官等歴任。貴族院議員。 斎藤宗吉の長男として長崎県に生まれ、斎藤倉吉の養子となる。本籍は千葉県。 旧制千葉中学を経て、1912年(明治45年)7月、第一高等学校を卒業。同年8月、千葉県大多喜中学教諭に就任するが、1914年(大正3年)8月に休職。同年9月、東京帝国大学法科大学に入学し、在学中の1916年(大正5年)10月に文官高等試験に合格。 1917年(大正6年)7月、東京帝大法科大学法律学科(英法)を優等で卒業し銀時計を授与された。任書記官兼警察講習所教授。
湧上 聾人(わくがみ ろうじん、1888年(明治21年)6月… 湧上 聾人(わくがみ ろうじん、1888年(明治21年)6月26日 - 1966年(昭和41年)5月24日)は、日本の政治家、社会運動家。戦前の沖縄県議会議員(3期)、衆議院議員(1期)。 沖縄県玉城間切冨名越(現・南城市玉城船越)に生まれる。幼名平二。幼少期に水遊び中の耳のケガが原因で聴力を失ったといわれ、35歳の時に「聾人」と改名する。長じて上京し、攻玉社中学校を経て早稲田大学高等師範部に入学。在学中は安部磯雄に私淑するも中退し、帰郷後玉城村村議(1921年)を経て、1925年沖縄県議に当選。 沖縄県議時代は、関西の県出身出稼ぎ紡績女工の待遇改善に尽力。また自身の医療公営論を実践するため、1931年那覇市に「沖縄同仁病院」を設立するなど、庶民の立場に立った活動を行う。