2代 浜口 吉兵衛(はまぐち きちべえ、1892年4月22日… 2代 浜口 吉兵衛(はまぐち きちべえ、1892年4月22日 - 1975年6月26日)は、日本の経営者。第一生命保険社長を務めた。和歌山県出身。幼名・麟蔵。 1914年に早稲田大学商学科を卒業し、1944年6月に第一生命保険に入社し、監査役に就任。1950年7月に取締役、1954年5月に副社長を経て、1959年5月には社長に就任。1964年5月に取締役に就任し、1969年5月に顧問に退いた。その他、銚子醤油(現ヒゲタ醤油)社長を務めた。 1975年6月26日腸間膜血栓症のために死去。83歳没。
原 善一郎(はら ぜんいちろう、1892年4月21日 - 1… 原 善一郎(はら ぜんいちろう、1892年4月21日 - 1937年8月6日)は大正、昭和の実業家。 横浜の大生糸商の原富太郎(原三渓)の長男として生まれた。東京府立第三中学校を経て早稲田大学卒業。1921年アメリカ留学。 祖父の原善三郎の養子となり、原合名会社の副社長となる。横浜興信銀行、帝国蚕糸の重役を務める。 芥川龍之介とは東京府立第三中学校(現在の東京都立両国高等学校)における同級生で友人であった。他にも美術、文学の後援者として知られ、岸田劉生、阿部次郎、矢代幸雄、和辻哲郎、安倍能成との親交が知られる。
羽鳥 又男(はとり またお、1892年(明治25年)4月20… 羽鳥 又男(はとり またお、1892年(明治25年)4月20日 - 1975年(昭和50年)9月30日)は、日本統治時代の台湾の官吏。群馬県勢多郡富士見村大字石井(現・前橋市富士見町石井)出身。台湾総督府中央研究所職員を経て、日本人最後の台南市長を務めた。台南市長在任中、第二次世界大戦中という時勢の中、赤崁楼の修復作業を進めたことで知られる。 羽鳥又男は1892年(明治25年)4月20日に富士見村の村長・羽鳥多三の四男として生まれた。1906年(明治39年)4月に石井尋常高等小学校(現・前橋市立石井小学校)を卒業、同年12月、東京私立正則予備学校(現・正則高等学校)にて中学校第二学年の修了証を得る。
羽生 操(はぶ みさお、男性、1891年5月20日 - 19… 羽生 操(はぶ みさお、男性、1891年5月20日 - 1976年8月21日)は、日本の作家、翻訳家。 鹿児島県種子島の西之表松畠出身。1905年3月榕城尋常高等小学校高等科3年修了。1910年3月第一鹿児島中学校卒業。同年5月から翌年7月まで国上小学校や榕城小学校の代用教員を務める。1911年9月には第七高等学校造士館に入るが、病気で中退し、郷里に戻って静養。 1918年上京し、同年博文館に入社して雑誌編集者を務め、1921年5月退社。1922年4月から1924年3月まで日本女子高等学院教授(国文学担当)。1928年10月から1933年7月まで萬朝報特派員として西欧を、1935年12月以降商工省貿易局編纂図書資料調査のため香港・東南アジア・ハワイ・北米を回る。
安住 悦太郎(あずみ えつたろう、1891年〈明治24年〉5… 安住 悦太郎(あずみ えつたろう、1891年〈明治24年〉5月20日 - 没年不明)は、日本の商人(薬種貿易商)、実業家。族籍は大阪府平民。 鳥取県八頭郡那岐村大字奥本(現・智頭町)出身。安住瀧蔵の二男。叔父・安住伊三郎の養子となる。1913年、第三高等学校卒業。1916年、京都帝国大学法科大学卒業。 薬種貿易商で、殺虫剤製造業及び輸出業を営む。安住大薬房社長・同常務取締役・同専務取締役、安住産業会長・同取締役、タイ国名誉副領事などをつとめる。 宗教は真言宗。趣味は釣魚、長唄。大阪市在籍で、住所は大阪府豊能郡箕面半町(現・箕面市)。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
柿沼 太郎(かきぬま たろう、1891年(明治24年)5月2… 柿沼 太郎(かきぬま たろう、1891年(明治24年)5月20日 - 1967年(昭和42年)12月22日)は、日本の音楽評論家。 東京出身。本名・柿沼市太郎。早稲田大学文学部英文科卒、中央音楽院に学び、天谷秀に師事。1924年、雑誌『音楽新潮』主幹になり、1942年まで勤めた。その後音楽評論家としてクラシック音楽についての著作や翻訳を多くなした。
平野 信助(ひらの しんすけ、1891年〈明治24年〉5月1… 平野 信助(ひらの しんすけ、1891年〈明治24年〉5月19日 - 1965年〈昭和40年〉12月12日)は、将棋棋士。贈七段。大崎熊雄門下。青森県出身。日本将棋連盟の創設時(創設当時は東京将棋連盟)の参加棋士20人のうちの一人。 1891年(明治24年)青森市大町生まれ。青森中学卒業後、第一高等学校の三部を受験し不合格となり、第二高等学校に進学、医学を志すも18歳の時に初期の肺結核となり進学を断念し高校中退。 青森帰郷後に杉野岩太郎(当時二段)と知り合い、杉野を目標に棋力を付ける。平野の棋力を認めた杉野の勧めで上京し、1918年(大正7年)4月に井上義雄の内弟子となり、付け出し四段となる。同じころ、将棋同盟社に入会。
安部 正義(あべ せいぎ、1891年5月18日 - 1974… 安部 正義(あべ せいぎ、1891年5月18日 - 1974年6月4日)は、日本の作曲家、教会音楽家である。 宮城県仙台市に生まれる、東北学院中学部卒業後に渡米し、ニューイングランド音楽院で、声楽、ピアノ、作曲を学び、1927年(昭和2年)に帰国する。 ニューイングランド音楽院(1926年卒業)ではピアノ及び作曲学をStuart C. Mason, F.S. Converse, George W. Chadwickに師事、三年連続で同学院作曲科エンドカット賞コンクール入選 優等賞を受賞した。 米国滞在中の主要作品として、小オーケストラ組曲「小川のほとりに」、「橋の上にて」 (1924)、オーケストラのための序曲「あけぼの」 (1925)、交響詩「ボストン生活の思い出」 (1926)などが挙げられる。
北条 雋八(北條 雋八、ほうじょう しゅんぱち、1891年〈… 北条 雋八(北條 雋八、ほうじょう しゅんぱち、1891年〈明治24年〉5月18日 - 1974年〈昭和49年〉5月30日)は、日本の政治家。貴族院議員。参議院議員(2期)。子爵。 1891年(明治24年)5月18日に元河内狭山藩主北条氏恭の四男として生まれる。1913年(大正2年)、学習院高等科を卒業。1916年(大正5年)、東京帝国大学農科大学林学科を卒業。帝室林野管理局技手となり、後に技師に昇進する。上松出張所長や東京支局業務課などに勤務した。 1925年(大正14年)、養父謙吉(実兄)の死去により家督を相続する。1939年(昭和14年)4月22日、補欠選挙で貴族院子爵議員に当選し、研究会に所属して1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
古谷 幸一(ふるたに こういち、1891年5月18日 - 1… 古谷 幸一(ふるたに こういち、1891年5月18日 - 1951年)は、日本の作曲家。宝塚歌劇団理事。 1891年(明治24年)、山口県厚狭郡須恵村(現在の山陽小野田市)に生まれる。旧制山口国学院中学校へ進学したが中退、1907年(明治40年)より2年にわたり地元の尋常小学校訓導を務めた後、1909年(明治42年)に東京音楽学校器楽科へ入学し山田源一郎、パウル・ショルツらの師事を仰いだ。 1917年(大正6年)に東京音楽学校を卒業後、宝塚歌劇団に作曲家として加入を打診されたが辞退し第六高等女学校および浅草区柳北尋常小学校の教員を務める。1922年(大正11年)に5年越しの要請を受諾して宝塚歌劇団へ加入、宝塚音楽学校講師および劇伴の作曲家として昭和前期まで活動し、理事に至った。
松尾 長造(まつお ちょうぞう、1891年(明治24年)5月… 松尾 長造(まつお ちょうぞう、1891年(明治24年)5月16日 - 1963年(昭和38年)5月21日)は、日本の文部官僚。広島女子高等師範学校校長。 長崎県出身。1917年(大正6年)、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業。1920年(大正9年)、第八高等学校教授となる。ついで文部事務官、督学官・書記官、宗教局宗教課長・保存課長、社会教育局成人教育課長・庶務課長などを歴任し、1937年(昭和12年)に宗教局長となり、1940年(昭和15年)には図書局長に転じた。同年日語文化協会内に日本語教育振興会が設置され、同協会理事長の阪谷芳郎の依嘱により、松尾が委員長に就任。 戦争末期の1945年(昭和20年)、新設された広島女子高等師範学校校長に就任した。
新城 和一(しんじょう わいち、1891年(明治24年)5月… 新城 和一(しんじょう わいち、1891年(明治24年)5月15日 - 1952年(昭和27年)4月7日)は、日本の文学者。未来社に参加した詩人で、『白樺』同人でもあった。ドストエフスキー、バルザック、ロマン・ロランなどロシア文学、フランス文学の諸作品を翻訳した翻訳家でもあり、『真理の光』を著すなど評論家としても活動した。法政大学教授。真城倭一はペンネーム。 福島県出身で、会津中学、一高 第一部丁類を経て1915年(大正4年)に東京帝国大学仏文科を卒業。豊島与志雄は、高校、大学とも専攻を同じくした同級生であった。一高時代から創作活動を始め、三木露風の未来社に詩「狂気」などを発表。露風系詩人として知られるようになる。
村野 藤吾(むらの とうご、1891年(明治25年)5月15… 村野 藤吾(むらの とうご、1891年(明治25年)5月15日 - 1984年(昭和59年)11月26日)は、日本の建築家。日本建築家協会会長、イギリス王立建築学会名誉会員、アメリカ建築家協会名誉会員。 佐賀県東松浦郡満島村(現・唐津市)で代々船問屋を営む家の一男第三子として生まれた。生後すぐから12歳頃まで乳母の元に預けられ、その後両親の住む福岡県遠賀郡八幡村(北九州市八幡東区 )で育った。 1910年、小倉工業学校(現小倉工業高校)機械科を卒業後、八幡製鐵所に入社。1911年から2年間にわたる従軍中、学問に興味を持ち、東京京橋の石材屋に弟と下宿する。1913年、早稲田大学大学部理工科電気工学科に入学。
古宇田 武郎(こうだ たけろう、1891年(明治24年)5月… 古宇田 武郎(こうだ たけろう、1891年(明治24年)5月15日 - 1982年(昭和57年)3月23日)は、日本の海軍軍人。最終階級は少将。太平洋戦争において第一潜水戦隊司令官として、キスカ島撤退作戦などを戦った。 古宇田は大分県出身で海兵41期生である。海軍兵学校および陸軍士官学校(第25期)を受験し、双方に合格している。1913年(大正2年)12月、118名中53番で海軍兵学校を卒業した。初級士官時代に第一次世界大戦に出征し、遣米枝隊(森山慶三郎司令官)に属して北米の通商保護に従事した。 大尉進級とともに海軍水雷学校高等科へ入校。海兵同期からはともに潜水艦部隊の司令官として太平洋戦争を戦う山崎重暉、原田覚(前掲写真古宇田の後ろ)も入校し、首席はルンガ沖夜戦を戦った田中頼三であった。
保田 龍門(やすだ りゅうもん、1891年(明治24年)5月… 保田 龍門(やすだ りゅうもん、1891年(明治24年)5月13日 - 1965年(昭和40年)2月14日)は、日本の画家、彫刻家である。和歌山県竜門村(現:紀の川市)出身。彫刻家の保田春彦は息子、西村浩幸は孫婿である。 1891年(明治24年)、那賀郡竜門村(現:紀の川市)に生まれる。 名は重右衛門、龍門と号した。旧制粉河中学校(現・和歌山県立粉河高等学校)を卒業後、一時は医師を志望するが、東京の上野で開かれていた文部省美術展覧会(略称:文展)で菱田春草の《落葉》と出会い、一度はあきらめた美術の道を再び目指そうと決める。太平洋画会研究所で絵画の指導を受け、1912年(明治45年)東京美術学校西洋画科に入学する。
松井 春生(まつい はるお、1891年(明治24年)5月12… 松井 春生(まつい はるお、1891年(明治24年)5月12日 - 1966年(昭和41年)10月1日)は、貴族院議員などを務めた内務官僚。
常光 浩然(つねみつ こうねん、1891年5月12日 - 1… 常光 浩然(つねみつ こうねん、1891年5月12日 - 1973年11月29日)は、仏教ジャーナリスト、浄土真宗本願寺派の僧。 広島県出身。1914年東洋大学理学教育学科卒。1923年から26年東洋大学社会事業科幹事を務め、26年から1930年にかけて中山文化研究所理事。この間、1928-29年欧米の宗教教育事情を視察。1930年東京中野に日米ホームを創立、1941年まで在米日系人の子供を教育した。1946年広島県で「仏教タイムス」を創刊。1952年第2回世界仏教徒会議事務局長。55年仏教タイムス社を創設、61年社長。1968年仏教伝道文化賞受賞。
鳴沢 寡愆(なるさわ かけん、1891年〈明治24年〉5月1… 鳴沢 寡愆(なるさわ かけん、1891年〈明治24年〉5月10日 - 1977年〈昭和52年〉9月4日)は、日本の英文学者、俳人。広島大学名誉教授。俳号は花軒。高浜虚子に師事。 新潟県中蒲原郡鷲巻村大字西笠巻(現 新潟市南区西笠巻)の浄土真宗大谷派・長福寺の鳴沢木誓の次男として出生。 1910年(明治43年)3月に新潟中学校を卒業、1913年(大正2年)7月に第四高等学校を卒業、1916年(大正5年)7月に東京帝国大学文科大学文学科(英文学専修)を卒業、東京帝国大学附属図書館に勤務。 1920年(大正9年)から京北中学校に勤務、大谷大学を経て1921年(大正10年)3月に松江高等学校教授に就任、1925年(大正14年)3月に広島高等学校教授に就任、12月から1年半、英語の研究のためイギリスやアメリカに留学。
米内山 震作(よないやま しんさく、1891年(明治24年)… 米内山 震作(よないやま しんさく、1891年(明治24年)5月10日 - 没年不詳)は、関東州官僚。 青森県上北郡七戸町出身。1915年(大正4年)、東洋協会専門学校(現在の拓殖大学)を卒業。朝鮮総督府中枢院属、農商務省属を務め、高等文官試験に合格した。朝鮮総督府忠清北道勤務、関東庁理事官・大連民政署財務課長、関東庁財務部財務課勤務、旅順民政署庶務課長、旅順民政署長、関東庁事務官・長官官房調査課長、内務局地方課長、関東局事務官・関東州庁内務部長、旅順博物館長、旅順図書館長、関東体育研究所長、大連民政署長・関東専売局長、関東州庁財務部長などを歴任した。 退官後、大連取引所長、東亜生果株式会社社長を務めた。
鹿島 鳴秋(かしま めいしゅう、1891年(明治24年)5月… 鹿島 鳴秋(かしま めいしゅう、1891年(明治24年)5月9日 - 1954年(昭和29年)6月7日)は、日本の詩人。東京都江東区白河出身。本名は佐太郎。 俳人であった内藤鳴雪の門人で鳴秋と号していた。小学校卒業後に商家で奉公し、その後、貿易会社に勤務し、20歳の頃に童話募集に応募し、入選した。清水かつらと共に雑誌(少年号・少女号)を刊行した。その中で『お山のお猿』『浜千鳥』などを発表した。のちに「日本の歌百選」に選定された『浜千鳥』は、1920年(大正8年)6月、鳴秋が友人であった桑山太市朗を訪問し、新潟の柏崎海岸から番神岬を散策した折に制作した。その後、出版社を起業したものの失敗に終わり、満州へ渡り彼の地で新聞社学芸部長となったが、敗戦後日本に引き揚げた。
斎藤 静(さいとう しずか、1891年5月8日 – 197… 斎藤 静(さいとう しずか、1891年5月8日 – 1970年7月5日 )は、日本の英語学者。福井大学名誉教授。旧姓:菅原 宮城県生まれ。京都帝国大学選科卒業。 愛知県一宮中学校、福井県大野中学校、福井中学校各教諭、小浜中学校長、大野中学校長を経て昭和12年福井高等工業学校講師。24〜34年福井大学教授、同名誉教授。 晩年、東北学院大学教授を務めた。 7〜17年個人雑誌「英語学研究」を発刊、海外の論文を紹介した。 著書「Living English Readers」、「近代英語後期」「双解英和辞典」「米語辞典」「日本語に及ぼしたオランダ語の影響」などがある。福井市名誉市民。
津守 英五郎(つもり えいごろう、1891年5月8日 - 1… 津守 英五郎(つもり えいごろう、1891年5月8日 - 1979年5月1日)は、日本の技術者。 和歌山県出身。1912年(明治45年)に東京高等工業学校電気科を卒業し、吉村商会、東洋無線電信電話社長、吉村木工所監査役を務めた。 日本で初めて真空管式無線機の実験に成功した。 妻の八重は、共立電機常務取締役を務めた石黒慶三郎の長女。長女は佐治守夫に嫁いだ。
村山 智順(むらやま ちじゅん、1891年5月7日 - 19… 村山 智順(むらやま ちじゅん、1891年5月7日 - 1968年9月17日)は、日本統治時代の朝鮮で朝鮮総督府が作成した朝鮮の社会や民俗文化に関する数多くの報告書の執筆、編纂に関わった日本の宗教学、民俗学研究者。後に出家して日蓮宗の僧侶となり、新潟県刈羽郡北条町(後の柏崎市旧広田)の妙広寺で住職を務めたが、晩年は東京都に移り住んだ。 新潟県刈羽郡北条(後の柏崎市)に生まれるが、幼くして母を亡くし、地元の日蓮宗法布山妙広寺に預けられる。 住職であった村山智全(1867年 - 1943年)が寺の中に設けていた私塾である四恩報学舎に学び、その後、一時期、東京の中学校に在籍した後、帰郷して小千谷中学校を卒業し、第一高等学校を経て、1916年に東京帝国大学文学部哲学科社会学専修に入学し、1919年7月に卒業した。
高橋 禎二(たかはし ていじ、1891年5月6日 - 195… 高橋 禎二(たかはし ていじ、1891年5月6日 - 1953年3月17日)は、日本の哲学研究者、翻訳家。 千葉県出身。東京帝国大学哲学科卒。第四高等学校教授。ドイツ文学ではシュテファン・ツヴァイクの作品などを多く翻訳した。
鮎川 武雄(あゆかわ たけお、1891年5月6日 - 197… 鮎川 武雄(あゆかわ たけお、1891年5月6日 - 1979年10月9日)は、日本の技術者、実業家。東陶機器(現TOTO)社長や、北九州商工会議所会頭を務めた。正四位勲二等瑞宝章。藍綬褒章受章。 1917年6月東京高等工業学校(現東京科学大学)窯業科卒業、8月東洋陶器入社。茅ヶ崎工場長や、取締役等を経て、1959年代表取締役副社長。1963年代表取締役社長。1965年藍綬褒章。1967年、杉原周一に社長を禅譲し取締役会長。同年勲三等旭日中綬章受章。北九州商工会議所会頭等も務め、1968年には初代北九州貿易協会会長に就任。1972年伊奈長三郎、田所芳秋、山内俊吉、森本貫一らとともに日本セラミックス協会名誉会員の称号を受けた。
佗美 浩(たくみ ひろし、1891年5月2日 - 1970年… 佗美 浩(たくみ ひろし、1891年5月2日 - 1970年12月25日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。太平洋戦争開戦直後のコタバル上陸作戦を指揮した。
岡 治道(おか はるみち 1891年5月2日 - 1978年… 岡 治道(おか はるみち 1891年5月2日 - 1978年2月18日)は、日本の病理学者。日本の結核研究の第一人者。 1891年、東京府芝区に生まれる(広島県で出生し海軍軍医であった父とともに群馬県太田町で育ったとする資料もある)。1917年から東京帝国大学病理学教室に勤務、1927年からは東京市療養所医員となり結核症の医療に従事、1941年からは結核予防会研究所部長、所長を務めた。1946年9月には東京大学教授となり医学部病理学第1講座を担当。同年には療養中の日本病医学会の三田村篤志郎会長の職務を代行して戦後初めての学会を開催、1947年に学会幹事に就任して学会の再興に尽力した。1952年に退官後は国鉄健康管理局、結核研究所各顧問を務めた。
伊東 延吉(いとう えんきち、1891年(明治24年)5月1… 伊東 延吉(いとう えんきち、1891年(明治24年)5月1日 – 1944年(昭和19年)2月7日)は、日本の文部官僚。
石山 曻之助(いしやま しょうのすけ、1891年5月1日 -… 石山 曻之助(いしやま しょうのすけ、1891年5月1日 - 1943年7月12日)は、現在の東京都千代田区出身で雷部屋に所属した力士。本名は石濱 曻之助(いしはま しょうのすけ)。168cm、81kg。最高位は西前頭筆頭。得意手は左四つ、寄り、上手投げ。俳優の石濱朗は甥にあたる。 1906年5月場所に初土俵。横綱梅ヶ谷の薫陶を受け、1910年6月場所に19歳で十両昇進。1911年6月場所に20歳で入幕した。小兵で非力ながら前さばきがうまく、出足早の速攻と左四つからの上手投げを武器とした。1915年6月場所には東張出前頭17枚目で8勝2敗の成績を収めるなど、前頭筆頭まで躍進した。1918年5月場所に27歳で廃業し、相場師に転じた。
岸 福治(きし ふくじ、1891年〈明治24年〉4月30日 … 岸 福治(きし ふくじ、1891年〈明治24年〉4月30日 - 1949年〈昭和24年〉7月10日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 群馬県群馬郡金古町足門(群馬町を経て現・高崎市足門町)出身。岸保五郎の三男として生れる。旧制高崎中学校を経て、1912年7月、海軍兵学校(40期)を卒業し、翌年12月、海軍少尉任官。「満州」分隊長などを経て、海軍大学校航海学生となる。「野島」「長良」の各航海長などを歴任し、1925年11月、海軍大学校(甲種23期)を卒業した。 「鬼怒」航海長、軍令部第1班第1課参謀、「春日」教官、「八雲」副長、「室戸」「名取」の各艦長、海軍航海学校教頭、「扶桑」艦長などを経て、1939年11月、海軍少将に進級。
石川 謙(いしかわ けん、1891年4月29日 - 1969… 石川 謙(いしかわ けん、1891年4月29日 - 1969年7月12日)は、日本の教育史学者、お茶の水女子大学名誉教授。岡崎女子短期大学初代学長。教育学者の石川松太郎は息子である。日本近世教育史、特に石門心学を研究した。 愛知県西加茂郡挙母町(現・豊田市花園町屋敷)に中川仙太郎の次男として生まれる。1895年、4歳のときに父が死去し、碧海郡依佐美村(現・刈谷市小垣江町)で農業を営む石川松吉の養嗣子となる。1903年、小垣江高等小学校を卒業。1912年、文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験教育科に合格し、1916年(大正15年)には東京高等師範学校の研究科に入学。1920年に渡米し、翌年スタンフォード大学に入学し、カバリー教授の指導を受ける。
大城戸 三治(おおきど さんじ、1891年(明治24年)4月… 大城戸 三治(おおきど さんじ、1891年(明治24年)4月28日 - 1962年(昭和37年)3月22日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 兵庫県出身。農業・大城戸卯市の三男として生まれる。柏原中学校(現兵庫県立柏原高等学校)卒業を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第40連隊付となる。1924年(大正13年)11月、陸軍大学校(36期)を優等で卒業。 1925年(大正14年)1月、歩兵第40連隊中隊長となり、参謀本部付勤務(支那班)、参謀本部員、参謀本部付(支那研究員)を務め、1930年(昭和5年)12月から1931(昭和6年)11月まで陸大で専攻学生として学んだ。
猪子 一到(いのこ かずゆき、1891年4月26日 - 19… 猪子 一到(いのこ かずゆき、1891年4月26日 - 1956年12月18日)は、日本京都府京都市出身の実業家。 京都帝国大学医学部名誉教授猪子止戈之助の長男として生まれる。一中、三高、京都帝大と進み南満州鉄道(満鉄)に入社。満鉄野球部に情熱をささげるとともに仕事においても理事に就任。 戦後松竹ロビンス球団代表を務め満鉄時代の後輩である小西得郎を監督に迎え入れ優勝。1952年6月より、近鉄パールス社長に就任する。1956年11月パ・リーグ総裁就任も65歳で死去。球団葬が営まれた。後任のパ・リーグ総裁はオーナーの佐伯勇が務めた。 出典は『人事興信録』の4巻、8巻より[要ページ番号]。 「ウィニングベースボール」(アーサー・マン著、三宅大輔とともに翻訳) - 1958年、ベースボール・マガジン社発行。
荒木 忍(あらき しのぶ、1891年4月26日 - 1969… 荒木 忍(あらき しのぶ、1891年4月26日 - 1969年1月8日)は、日本の俳優である。本名は荒木 武雄(あらき たけお)。サイレント映画初期の時代である日活向島撮影所から、戦後の大映京都撮影所まで、長期にわたる芸歴をもつベテラン俳優として知られる。 1891年(明治24年)4月26日、新潟県刈羽郡田尻村(現在の同県柏崎市田尻地区)に生まれる。『日本映画俳優全集・男優編』(キネマ旬報社)の荒木の項を執筆した奥田久司によれば、父は明治維新までは、長岡藩士であったという。 中頸城郡立高田農学校(現在の新潟県立高田農業高等学校)に進学するが、1906年(明治39年)ころに中途退学して東京に移る。
新木 栄吉(あらき えいきち、1891年〈明治24年〉4月2… 新木 栄吉(あらき えいきち、1891年〈明治24年〉4月24日 - 1959年〈昭和34年〉2月1日)は、大正から戦後昭和に活躍した日本の銀行家。日本銀行総裁を2度にわたって務めたほか、戦後初の駐米大使も務めた。 石川県小松町(現 小松市)出身。石川四中から第四高等学校 (旧制)首席を経て、1916年(大正5年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年日本銀行に入行。 日本銀行では国庫局、大阪支店、ニューヨーク駐在(1922年-1926年および1935年-1937年の二度)などを経たのち、外国為替局長、営業局長、理事、副総裁を歴任。1945年(昭和20年)10月に渋沢敬三総裁が幣原内閣の大蔵大臣を拝命して入閣すると、その後任の日銀総裁に就任した。
綾川 武治(あやかわ たけじ、1891年(明治24年)4月2… 綾川 武治(あやかわ たけじ、1891年(明治24年)4月23日 - 1966年(昭和41年)12月7日)は、日本の国家主義者、弁護士、政治家。衆議院議員。 埼玉県幡羅郡長井村字善ヶ島(のち大里郡長井村、現:熊谷市)で、小作農・綾川幸太郎、せん夫妻の長男として生まれる。江波学校(長井尋常小学校)、幡羅高等小学校を経て、1904年4月、埼玉県立熊谷中学校に入学。実家の家計悪化のため、1907年3月、中学を休学して、父の職場であった磐城炭鉱 (株) 越賀炭鉱(福島県石城郡内郷村)で一年余り働き、熊谷中四年に復学し1910年3月に卒業した。 無試験検定で合格し、1910年9月、第七高等学校造士館第一部甲(英法科)に入学。
野田 謙吾(のだ けんご、1891年(明治24年)4月22日… 野田 謙吾(のだ けんご、1891年(明治24年)4月22日 - 1961年(昭和36年)11月28日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 熊本県出身。農業・野田市九郎の四男として生れる。熊本中学校、熊本陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1912年(明治45年)5月、陸軍士官学校(24期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第55連隊付となる。1914年(大正3年)8月から12月まで青島の戦いに出征。1920年(大正9年)11月、陸軍大学校(第32期)を卒業した。 1921年(大正10年)7月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員、陸軍歩兵学校教官、朝鮮軍参謀、歩兵第14連隊大隊長、参謀本部員などを経て、1931年(昭和6年)11月から翌年4月まで、陸大専攻学生として学んだ。
京極 高修(きょうごく たかおさ、1891年〈明治24年〉4… 京極 高修(きょうごく たかおさ、1891年〈明治24年〉4月21日 - 1967年〈昭和42年〉10月2日)は、大正から昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。旧名・秀雄。位階は従三位。勲等は勲二等。 子爵・京極高徳の五男として生まれる。父の死去に伴い、1928年(昭和3年)6月15日、子爵を襲爵した。 1922年(大正11年)3月、京都帝国大学法学部政治学科を卒業した。 1935年(昭和10年)6月22日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで2期在任した。
杉浦 武雄(すぎうら たけお、1890年(明治23年)5月2… 杉浦 武雄(すぎうら たけお、1890年(明治23年)5月20日 - 1963年(昭和38年)9月12日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員(6期)、参議院議員(1期)。位階は正四位、勲等は勲二等。
堤 隆(つつみ のぼる、1890年(明治23年)5月20日 … 堤 隆(つつみ のぼる、1890年(明治23年)5月20日 - 1947年(昭和22年)2月22日)は、大正から昭和前期の教育者、政治家。衆議院議員。旧姓・黒川。 滋賀県神崎郡、のちの永源寺町甲津畑(現・東近江市甲津畑町)で、浄土真宗大谷派浄源寺住職・黒川霊瑞、マサノの三男(兄2人妹2人)として生まれた。甲津畑尋常高等小学校、滋賀師範学校を経て、1914年(大正3年)広島高等師範学校を卒業し、さらに1917年(大正6年)京都帝国大学文科大学哲学科を卒業した。京大入学の際に、滋賀県長浜の医師・堤泰造、コトの末娘(兄2人姉2人)千代と結婚し婿養子となる。養母コトは父方の伯母で、千代は従姉妹である。 小学校訓導を務めた後、1918年(大正7年)2月、新洋丸でハワイに渡航し在ヒロ市日本人ハイスクール校長に就任した。
2代 瀧井 治三郎(滝井、たきい じさぶろう、1890年(明… 2代 瀧井 治三郎(滝井、たきい じさぶろう、1890年(明治23年)5月19日 - 1973年(昭和48年)12月11日)は、明治から昭和期の実業家、政治家。位階は正五位。 参議院議員(1期)。幼名は虎三。タキイ種苗社長。(同社の会社概要では3代目瀧井治三郎) 京都府京都市下京区猪熊通梅小路上ル南夷町で、農業、種苗業「大森屋」を営む先代・瀧井治三郎の三男として生まれる。梅逕尋常小学校を経て、1908年(明治41年)京都府商業学校予科1年在学中に父が死去し、種苗業を廃業することを決めたが取引先の懇請により営業継続となり、商業学校を中退して2代・治三郎を襲名した(タキイ種苗の会社概要では1906年に3代目治三郎を襲名、『人事興信録』でも家督相続と襲名は1906年としている)。
亀山 直人(かめやま なおと、1890年5月19日 - 19… 亀山 直人(かめやま なおと、1890年5月19日 - 1963年3月28日)は、日本の応用化学者。写真の色素増減や二次電池理論の研究等、日本の電気化学工業の発展に尽力した。
向井 山雄(むかい やまお、1890年(明治23年)5月19… 向井 山雄(むかい やまお、1890年(明治23年)5月19日 - 1961年(昭和36年)2月24日)は、アイヌ民族出身で正式の聖公会の司祭になった人物である。バチェラー八重子の弟である。長く聖職者として奉仕するとともに、アイヌの地位と教育の向上に尽力し、北海道アイヌ協会初代理事長を務めた。伊達町(現・伊達市)会議員も務め、地域の発展に大きく貢献した。 1890年(明治23年)に北海道の有珠(現・伊達市)に生まれた。姉のバチェラー八重子の養父となる英国聖公会宣教協会(CMS)の宣教師ジョン・バチェラーから感化を受けてキリスト教に入信する。 1905年(明治38年)函館区谷地頭のアイヌ小学校から創成高等小学校に編入して2年間で修了し、1906年(明治39年)4月には東京へ出て、築地の旧制立教中学校に入学する。
坂田 昌亮(さかた まさあき、1890年5月17日 - 19… 坂田 昌亮(さかた まさあき、1890年5月17日 - 1960年12月24日)は、日本の技術者、政治家。内務省技師、満州国交通部技監などを務めて土木行政に携わったのち、八代市長、荒尾市長を歴任、2つの地方工業都市の首長を務め、戦後の復興に尽力した。 熊本県八代郡八代町(現在の八代市)出身。1913年(大正2年)、東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業。 大学卒業後、内務省土木局の技師となり、1917年(大正6年)、最上川改修、酒田築港の任に当たった。 1937年(昭和12年)より、満州国へ赴任、道路司長、技監として哈大道路の建設など、道路行政に携わった。1943年(昭和18年)に本土に引き上げ、神戸市技監兼港湾局長を務めた。
押川 定秋(おしかわ さだあき、1890年(明治23年)5月… 押川 定秋(おしかわ さだあき、1890年(明治23年)5月17日 – 1951年(昭和26年)5月10日)は、日本の弁護士、衆議院議員(民主党)。 宮崎県児湯郡高鍋町出身。定澄の三男。独習にて普通学を修め、1914年、郷里高鍋を出て上京して苦学力行しつつ1917年(大正6年)、明治大学法科を卒業、同年弁護士を開業した。 東京府会議員、同市部会議長に選出された。また神奈川県農機具工業組合理事長、同農機具工業統制組合理事長、同農機具工業協同組合理事長を務めた。 1947年(昭和22年)の第23回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。その他、細王舎工場合資会社代表社員を務めた。 宗教は神道。趣味は政治。 宮崎県児湯郡高鍋町、東京市小石川区同心町
佐竹 哲雄(さたけ てつお、1890年5月16日 - 198… 佐竹 哲雄(さたけ てつお、1890年5月16日 - 1981年3月26日)は、広島県出身の哲学者。主な専門は現象学。勲四等瑞宝章受賞。 広島県出身。第四仏教中学卒業後。1916年、東京帝国大学文学部哲学学科卒業。1919年、第八高等学校教授に就任。1945年、同職を退職。1949年、熊本大学教授に就任。1951年、東京都立大学教授に就任。1957年、東洋大学教授に就任。 1981年3月26日、逝去。享年90歳。墓所は青山霊園。
竹内 克巳(たけうち かつみ、1890年(明治23年)5月1… 竹内 克巳(たけうち かつみ、1890年(明治23年)5月16日 - 1973年(昭和48年)2月22日)は、大正から昭和期のジャーナリスト、出版業者、政治家。衆議院議員。号・夏積。鳥居素川の愛弟子として知られた。「克己」と表記される場合がある。 福井県福井市出身。京都で成長した。京都帝国大学文科大学文学科で学んだ。 大阪朝日新聞社に入社し、記者として務め、その後、海外特派員となった。鳥居に抜擢され1919年(大正8年)大正日日新聞社販売部長となるが、販売不振のため退職。その後、満州日報社取締役主筆を務めた。戦時下、外務省の外郭団体(文化団体)「聞人会」を主宰し理事長となり銀座のビルに事務所を置いていた。
石井 平雄(いしい ひらお、1890年5月15日 - 没年不… 石井 平雄(いしい ひらお、1890年5月15日 - 没年不詳)は、日本の裁判官、弁護士。 白石儀七の四男として大阪府に生まれる。1909年福岡県立中学修猷館を経て、1917年東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。1923年石井家の養子となる。 1917年司法官試補となり、大阪地方裁判所、和歌山地方裁判所、高知地方裁判所、再び大阪地方裁判所の判事を経て、大阪控訴院(現・大阪高等裁判所)判事に就任。その後、1934年12月大阪地方裁判所部長判事、再び大阪控訴院判事を経て、1940年12月京都地方裁判所部長判事となる。退官後に弁護士となった。
野村 嘉久馬(のむら かくま、1890年(明治23年)5月1… 野村 嘉久馬(のむら かくま、1890年(明治23年)5月15日 - 1959年(昭和34年)3月4日)は、大正から昭和期の農業経営者、政治家。衆議院議員、宮崎県会議長、宮崎県西諸県郡高原町長。 宮崎県西諸県郡高原村大字西麓(現高原町西麓)で、野村嘉太郎の二男として生まれる。1912年(明治45年)東京農業大学高等科を卒業した。帰郷して農業を営む。1928年(昭和3年)家督を相続した。 高原村会議員、高原町長、宮崎県会議員、同参事会員、宮崎県養蚕組合連合会長などを務め、1939年(昭和14年)県会議長に就任した。 1942年(昭和17年)4月の第21回衆議院議員総選挙で宮崎県全県区から翼賛政治体制協議会の推薦を受け出馬して当選。
下出 義雄(しもいで よしお、1890年(明治23年)5月1… 下出 義雄(しもいで よしお、1890年(明治23年)5月12日 - 1958年(昭和33年)1月20日)は、大正から昭和にかけて活動した日本の実業家・教育者・政治家。実業家で貴族院議員も務めた下出民義の長男。父の事業を継ぎ名古屋財界にて活動し、大同製鋼(現・大同特殊鋼)社長や名古屋証券取引所理事長などを務める。事業界での活動の傍ら学校経営にも携わったほか、1942年(昭和17年)から1期のみ衆議院議員も務めた。 下出義雄は1890年(明治23年)5月12日、下出民義の長男として大阪市に生まれた。母あいは、父民義とともに大阪市の石炭商社に参加していた大阪安治川の石炭商西井直次郎の妹である。父民義は1889年に大阪から愛知県へと移り、名古屋市近郊の熱田町にて石炭商として開業していたが、母は郷里の大阪へと帰って義雄を出産した。