2代 本間 千代吉(ほんま ちよきち、1888年〈明治21年… 2代 本間 千代吉(ほんま ちよきち、1888年〈明治21年〉6月25日 - 1959年〈昭和34年〉7月6日 / 7月16日)は、大正から昭和時代の政治家、実業家、武道家。貴族院多額納税者議員。幼名・仙八 / 千八、名は応義(まさよし)。 群馬県佐位郡市場村(赤堀村、赤堀町を経て現伊勢崎市)で、剣道範士本間三郎の二男として生まれる。1907年(明治40年)東京府の錦城中学校を卒業、中央大学を中退。 伯父の初代千代吉の養子となり、1917年(大正6年)家督を相続し2代千代吉を襲名した。1917年以降、上毛貯蓄銀行、群馬県農工銀行、伊勢崎銀行、群馬銀行、粕川水電などの重役を歴任したほか、赤堀村農会長、同村会議員などを務めた。
竹腰 健造(たけこし けんぞう、明治21年〈1888年〉6月… 竹腰 健造(たけこし けんぞう、明治21年〈1888年〉6月25日 - 昭和56年〈1981年〉7月28日)は、建築家。住友総本店出身で、日建設計の母体の長谷部竹腰建築事務所の長谷部鋭吉と共に創業者の1人である。 健造は明治21年(1888年)6月25日、石川県金沢市で生まれた。当時、父親の岩村高俊は石川県知事であった。健造が竹腰姓を名乗るようになったのは、福岡にいた10歳のとき、旧小倉藩出身の名家である竹腰家の養子になったからである。 学業においては優秀で、豊津中学校から一高、東京帝国大学工科大学へと順調に進む。建築を専攻したが、希望というわけではなく、選択肢が土木、機械、採鉱、建築しかなかった。
古屋 武助(ふるや たけすけ、1888年〈明治21年〉6月2… 古屋 武助(ふるや たけすけ、1888年〈明治21年〉6月25日 - 1942年〈昭和17年〉12月29日)は、大正から昭和時代前期の政治家。山口県萩市長。 山口県美祢郡伊佐町伊佐(現・美祢市伊佐町伊佐)出身。学歴は不明。1909年(明治42年)、普通文官試験に合格。1914年(大正3年)6月、山口県属に任じ、1923年(大正12年)8月、岡山県属に転じる。1924年(大正13年)3月、島根県鹿足郡長に就任し、同年7月に地方事務官となり、島根県総務部庶務課長などを経て、1937年(昭和12年)7月24日、萩市長に就任した。1942年(昭和17年)12月29日、心臓麻痺により急逝、享年55歳。
細萱 戊子郎(ほそがや ぼしろう、1888年(明治21年)6… 細萱 戊子郎(ほそがや ぼしろう、1888年(明治21年)6月24日 - 1964年(昭和39年)2月8日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。位階は従三位。 農業、細萱伊勢吉の四男として長野県南佐久郡桜井村(現佐久市)に生まれる。野沢中学を経て、1908年(明治41年)11月海軍兵学校(36期)を卒業し、1910年(明治43年)に少尉任官。1914年海軍水雷学校高等科を卒業後、駆逐艦「樺」乗組、第1特務艦隊参謀、佐世保鎮守府副官などを歴任。1920年(大正9年)、海軍大学校(甲種18期)を卒業。以後、第4戦隊参謀、軍令部第2班第4課参謀、「夕張」副長、「日向」副長、呉軍需部第1課長、「鳥海」艦長、軍需局第1課長、佐世保工廠造兵部長、「陸奥」艦長などを歴任し、1935年(昭和10年)海軍少将に進級。
関屋 延之助(せきや えんのすけ / のぶのすけ、1888年… 関屋 延之助(せきや えんのすけ / のぶのすけ、1888年(明治21年)6月22日 - 1975年(昭和50年)7月21日)は、日本の内務官僚。官選県知事、弁護士。 石川県鹿島郡崎山村三室(現在・七尾市)出身。関屋助右衛門の四男として生まれる。第四高等学校を経て、1914年(大正3年)、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。1913年(大正2年)11月、文官高等試験行政科試験に合格。大学卒業後、内務省に入り和歌山県地方課に勤務、その後、同県那賀郡長となる。 以後、和歌山県警視、滋賀県理事官、京都府理事官、岐阜県警察部長、北海道庁拓殖部長、1931年(昭和6年)12月に新潟県書記官・内務部長などを歴任。
膳 桂之助(ぜん けいのすけ、1887年〈明治20年〉7月2… 膳 桂之助(ぜん けいのすけ、1887年〈明治20年〉7月21日 - 1951年〈昭和26年〉11月25日)は、日本の農商務官僚、実業家、政治家。位階は従三位。勲等は勲三等。日本工業倶楽部理事、日本団体生命保険社長、経済安定本部総務長官(初代)、物価庁長官(初代)、貴族院議員を歴任した。 1887年(明治20年)、群馬県佐波郡伊勢崎町(現・伊勢崎市)で、薬商・膳浅次郎(好孝)の三男として生まれる。伊勢崎尋常小学校に学んだ。1896年(明治29年)に父が脳溢血で死去。1900年(明治33年)旧制前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)に入学するが、同盟休校(ストアイキ)の首謀者として退学となり、1903年(明治36年)に上京した。
大本 寅治郎(おおもと とらじろう、1887年7月21日 -… 大本 寅治郎(おおもと とらじろう、1887年7月21日 - 1961年9月25日)は、日本の発明家、実業家。妻・フサは樽井藤吉の長女。 機械式計算機である「タイガー計算器」を発明した。 広島県深安郡出身。岡山紡績株式会社鉄工部の見習工となり、備前紡績株式会社鉄工部、神戸湊川川上鉄工所、大阪府下稻畑染工場鉄工所、大阪府下毛斯綸紡織株式会社鉄工部、大阪砲兵工廠火砲第一工場などに勤務した。明治38年(1905年)に大阪府西成郡豊崎村本庄(現・大阪市北区)において共同経営において鉄工業を創設した。 大正元年(1912年)に鉄工業を合意解散し、西成郡豊崎村南濱に個人経営において大本鉄工業を創始し、機械の製作販売を行う。
石井 茂吉(いしい もきち、1887年(明治20年)7月21… 石井 茂吉(いしい もきち、1887年(明治20年)7月21日 - 1963年(昭和38年)4月5日)は、写真植字機の共同発明者。写研の設立者で、石井翁とも呼ばれた。東京都北区堀船町出身。 1887年、東京府北豊島郡王子村(現在の東京都北区王子)に生まれる。京北中学で井上円了の薫陶を受ける。第一高等学校を経て東京帝国大学工科大学へ入学し、1912年(明治45年)機械工学科卒業。同年神戸製鋼所に入社し技師として働いていたが、1923年(大正12年)秋、星製薬に高級技師として転職。そこで印刷部主任をしていた森澤信夫(のちにモリサワを創業)と出会い、ともに写真植字機の実現を目指すことを誓う。1924年7月に2人で装置の特許を出願。
江口 渙(えぐち かん、1887年7月20日 - 1975年… 江口 渙(えぐち かん、1887年7月20日 - 1975年1月18日)は、日本の小説家である。東京麹町生まれであるが、出身地は父の故郷である栃木県烏山町である。本名は同表記で「きよし」であるが、戦後は「かん」と改めた。父の江口襄は陸軍の軍医で、東大医学部で森鷗外と同期であった。 三重四中から第四高等学校に進学するも父と進路をめぐって対立し、四高を退学、第五高等学校に入り直す。この時期には俳句に没頭し、河東碧梧桐に認められる。1912年、東京帝国大学英文科に進学する。この年、雑誌『スバル』に短編『かかり船』(後に「赤い矢帆」と改題)を発表し、作家として認められる。このころから佐藤春夫・広津和郎・宇野浩二たちとの交友がはじまる。
東原 玉造(とうばら たまぞう 1887年7月20日 - 1… 東原 玉造(とうばら たまぞう 1887年7月20日 - 1955年11月11日)は、日本の元騎手、調教師。別名:東原玉蔵。 1887年7月20日、北海道静内郡静内町(現・日高郡新ひだか町)出身。 1901年に目黒競馬場所属の柴田安治厩舎に見習騎手として入門。5年後の1906年に横濱競馬場のレースにて騎手としてデビュー。騎手時代の1924年秋には横濱競馬場での帝室御賞典をナイトという馬で制覇した記録がある。 調教師となり中山競馬場に厩舎を構えてからは、東京優駿競走をワカタカ(第1回、1932年)、ミナミホマレ(第11回、1942年)で制覇、東京競馬場での帝室御賞典をワカタカ(1932年)で制覇、ミナミモアで天皇賞 (春)を1942年に制覇するなどして、戦中戦後にかけて日本競馬界の名門として名を高めた。
沼田 徳重(ぬまた とくしげ、1887年(明治20年)7月1… 沼田 徳重(ぬまた とくしげ、1887年(明治20年)7月17日 - 1939年(昭和14年)8月12日)は、日本の陸軍軍人。陸軍中将正四位勲一等功二級。茨城県那珂郡額田村(現在の那珂市)出身。 教育総監部高級課員として陸軍軍隊教育の改革を先導、特に戦闘綱要の改正編纂を行った。また、東京帝国大学の配属将校を務め、軍隊教育関係の著作を発表するなど、軍隊教育の発展に努めた。
鳥山 喜一(とりやま きいち、1887年7月17日 - 19… 鳥山 喜一(とりやま きいち、1887年7月17日 - 1959年2月19日)は、日本の歴史学者。 1887年、東京府本郷区に生まれた。東京帝国大学を卒業。東洋史を専攻した。 1928年から1945年まで京城帝国大学教授を務め、渤海国の遺跡を求めて満洲(中国東北部)を精力的に踏査した。 戦後、日本に引揚げてからは第四高等学校校長(第13代)、金沢大学教授、富山大学学長などを務めた。 専門は満鮮史で、渤海史研究では日本のパイオニアとされる。1926年に初版が出た中国通史『黄河の水』は少年少女のためと銘打って書かれたものだが、中国史の好個の入門書として版を重ね、現在まで読み継がれるロングセラーとなっている。
北村 清士(きたむら せいし、1887年〈明治20年〉7月1… 北村 清士(きたむら せいし、1887年〈明治20年〉7月17日 - 1980年〈昭和55年〉4月4日)は、大分県直入郡竹田町(現・竹田市)出身の教育者・郷土史家。竹田市立図書館館長、別府大学文学部講師。竹田市名誉市民。 1887年(明治20年)7月17日、大分県直入郡竹田町(現・竹田市)の旧士族の家に生まれ、1908年(明治41年)に大分師範学校(大分大学学芸学部の前身)を卒業した。1916年(大正5年)に文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験に合格し、鹿児島県、大分県、東京府で中等学校の教諭や校長を務めた。 第二次世界大戦後に竹田町に帰郷し、1953年(昭和28年)に竹田市立図書館の館長に就任した。
玉手山 七郎(たまてやま しちろう、1887年7月14日 -… 玉手山 七郎(たまてやま しちろう、1887年7月14日 - 1941年9月13日)は、福井県大野郡(現大野市)出身で大嶽部屋から雷部屋を経て中村部屋に所属した大相撲力士。本名は縁本 七郎。身長171cm、体重90kg。最高位は関脇。 大嶽部屋に入門し、初め狼を名乗って1904年1月序ノ口となったが翌年脱走。その後小嵐の名で大坂相撲の雷部屋に加入し、1908年1月場所まで大坂相撲を務めて十両まで進む。その後東京相撲に戻ったが、同名力士がいたため改名を考え、イギリス製のラージ自転車にちなんで羅亜地山と改名届を出したが、広告的な四股名は受け入れられないとして協会から却下され、やむを得ず龍田川という四股名を付けた。
小絲 源太郎(こいと げんたろう、新字体:小糸 源太郎、18… 小絲 源太郎(こいと げんたろう、新字体:小糸 源太郎、1887年〈明治20年〉7月13日 - 1978年〈昭和53年〉2月6日)は、洋画家、版画家。東京府東京市下谷区(現在の東京都台東区)生まれ。 小絲源四郎、はなの長男として生まれる。生家は東京市下谷区上野元黒門町20番地(現在の東京都台東区)にあった料理屋で、「揚出し」の名で知られた。1904年(明治37年)に東京の神田中学校を卒業、白馬会の展覧会で藤島武二の「蝶」を見て感動、画家を志す。翌春、藤島の指導する白馬会駒込研究所に入り、デッサンを学ぶ。 1911年(明治42年)に東京美術学校金工科卒業、同年西洋画科に転入するが中退。在学中の1910年(明治43年)、文展に入選。
井口 鹿象(いぐち しかぞう、1887年7月8日 - 195… 井口 鹿象(いぐち しかぞう、1887年7月8日 - 1956年3月13日)は日本の工学者、官僚。工学博士(東京帝国大学)。室蘭工業大学初代学長。北海道大学・室蘭工業大学名誉教授。専門は、水工学・河川工学。 静岡県出身。1915年東京帝國大學工学部土木工学科を卒業し、内務省に入省。同内務部土木課長。1930年北海道帝國大學工学部教授(水工学・河川工学講座を担当)。1931年より2年間独・伊・米に留学。1942年同工学部長。1948年北海道大学退官。同名誉教授。室蘭工業専門学校校長に就任。1949年室蘭工業大学初代学長に就任。1956年に同学長在職中に逝去。同名誉教授。 性格は几帳面で責任感が強かったといい、それがもとで亡くなったという。
野田 清(のだ きよし、1887年(明治20年)7月6日 -… 野田 清(のだ きよし、1887年(明治20年)7月6日 - 1974年(昭和49年)3月29日)は、日本の海軍軍人。大本営海軍報道部長。階級は海軍中将。北海道出身。 北海道出身。旧制函館中学校卒業。海軍兵学校35期。席次は172人中40番。同期生に近藤信竹、高須四郎、野村直邦がいる。「浅間」分隊長として第一次世界大戦に出征した。野田は海軍大学校乙種、砲術学校高等科を修了した砲術専攻士官で、のちに戦艦「鹿島」砲術長を務めている。皇太子裕仁親王の欧州訪問の供奉艦「鹿島」の分隊長として渡欧した際は、海軍士官に芸術の素養が必要であるとの報告書を提出した。帰国後海大甲種17期を卒業。 佐官時代は艦隊では第三艦隊、第二艦隊の各参謀や軽巡洋艦「鬼怒」副長、軍政では軍務局局員兼教育本部員、海軍省副官兼大臣秘書官、臨時調査課長、軍令では海大戦略教官、軍令部第二課長(後任は南雲忠一)などを歴任した。
田尻 生五(たじり せいご、1887年(明治20年)7月5日… 田尻 生五(たじり せいご、1887年(明治20年)7月5日 - 1944年(昭和19年)7月21日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、鉄道政務次官。商工官僚。 福岡県山門郡大和村(現在の柳川市)出身。旧制一高を経て、1914年(大正3年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、同年に高等文官試験に合格した。1916年(大正5年)、朝鮮総督府試補となり、事務官、全羅北道財務部長を歴任した。1921年(大正10年)、官営八幡製鉄所に転じ、参事、労務部長、理事を歴任した。 1932年(昭和7年)、第18回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第19回、第20回でも再選を果たした。その間、第1次近衛内閣で鉄道政務次官を務めた。
中村 彝(なかむら つね、1887年〈明治20年〉7月3日 … 中村 彝(なかむら つね、1887年〈明治20年〉7月3日 - 1924年〈大正13年〉12月24日)は、明治の終わりから大正期の洋画家。 1988年、茨城県近代美術館敷地内に下落合にあった中村のアトリエを新築復元した「中村彝アトリエ」が創設された。 なお、1968年(昭和43年)にザ・ヒロサワ・シティ会館(水戸市千波町)入口に有志らで組織する中村彝会が「中村彝君像」(堀進二作)を建立したが、2025年(令和7年)1月6日に県近代美術館敷地内の「中村彝アトリエ」近くに移設されることとなった。 2013年(平成25年)新宿区下落合に残るアトリエ跡が復元され、「新宿区立中村彝アトリエ記念館」としてオープンした。
馬岡 次郎(うまおか/まおか じろう、1887年〈明治20年… 馬岡 次郎(うまおか/まおか じろう、1887年〈明治20年〉7月3日 - 1966年〈昭和41年〉1月19日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 三重県山田郡、のちの阿山郡布引村(大山田村を経て現伊賀市)出身。農林業を営む。布引村長、三重県会議員、同参事会員、同副議長、農林省委員、大山田村長となる。三重県山林会評議員、伊山銀行監査役、伊賀農商銀行、伊賀窯業各(株)取締役、馬野川水電(株)取締役社長、三重県信用購買販売組合連合会会長、全国購買組合連合会監事、全国購買販売組合連合会常務理事となる。 1937年(昭和12年)第20回衆議院議員総選挙において三重1区(当時)から立憲政友会公認で立候補して初当選。
松本 忠雄(まつもと ただお、1887年(明治20年)7月2… 松本 忠雄(まつもと ただお、1887年(明治20年)7月2日 - 1947年(昭和22年)7月4日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党)、ジャーナリスト。 長野県上水内郡瀬戸川村(現在の小川村)に、松本八重作の長男として生まれる。1909年(明治42年)、東亜同文書院を卒業。卒業後はやまと新聞の記者となるが、加藤高明憲政会総裁に見出され、その秘書となった。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、7回連続当選を果たした。加藤高明内閣では内閣総理大臣秘書官を務め、第1次若槻内閣では東京市助役を務めた。さらに齋藤内閣・岡田内閣で外務参与官を務め、第1次近衛内閣では外務政務次官を務めた。
友部 泉蔵(ともべ せんぞう、1887年(明治20年)7月1… 友部 泉蔵(ともべ せんぞう、1887年(明治20年)7月1日 - 1941年(昭和16年)4月1日)は、日本の内務・警察官僚。官選和歌山県知事。 宮城県出身。1907年7月、第二高等学校を卒業。1912年7月、東京帝国大学法科大学経済学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。同年12月、内務省に入省し北海道庁属、内務部・長官官房勤務となる。 以後、兼北海道庁警察部巡査教習所教官、北海道庁警視・警察部勤務、北海道庁理事官、秋田県理事官、埼玉県警察部長、神奈川県警察部長、神奈川県書記官・警察部長、福井県書記官・内務部長、栃木県書記官・警察部長などを経て、1928年2月、内務書記官・警保局保安課長、同年7月、内務事務官・警保局保安課長に就任。
井口 良香(いぐち よしか、1887年(明治20年)7月1日… 井口 良香(いぐち よしか、1887年(明治20年)7月1日 - 没年不明)は、日本の実業家。蛟河商工公会理事。満州国協和会蛟河県(旧・額穆県)本部委員。 族籍は佐賀県士族。弟は日東製粉元社長の井口良二。衆議院議員で第27代自由民主党総裁かつ第100代内閣総理大臣岸田文雄の母方の大伯父。 佐賀県唐津市大字唐津出身。佐賀県士族・井口兆之助の長男として生まれる。 1906年(明治39年)下関商業学校を卒業後、特産貿易商・岩城商会に入社。その後、唐津・上海・芝罘・青島・大連各支店を歴任。1919年(大正8年)(または1920年(大正9年)とも)、同商会の合資会社への改組とともに代表社員に就任。 1934年(昭和9年)独立創業。
増田 胤次(ますだ たねじ、1887年6月29日 - 196… 増田 胤次(ますだ たねじ、1887年6月29日 - 1964年6月5日)は、日本の医学者。東京帝国大学医学部耳鼻咽喉科の教授。埼玉県出身。 1887年(明治20年)6月29日生まれ。東京帝国大学医科大学卒業。スイスに留学し、陸軍軍医学校教官を経て、1924年(大正13年)母校である東京帝国大学の教授となる。同年、医学博士を取得。1942年(昭和17年)、東京帝国大学附属病院長に就任。1952年(昭和27年)東京大学名誉教授。 1964年(昭和39年)6月5日死去。76歳。墓地は奥多摩にある。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
名和 仁一(なわ にいち、1887年(明治20年)6月28日… 名和 仁一(なわ にいち、1887年(明治20年)6月28日 - 1934年(昭和9年)2月10日)は、台湾総督府官僚。台中市尹。 山形県北村山郡東郷村(現在の東根市)出身。山形県師範学校を経て、1911年(明治44年)に広島高等師範学校本科地理歴史科を卒業した。山形県立高等女学校教諭、宮内省臨時編修局書記、臨時帝室編修官を務めた。1920年(大正9年)10月、高等試験行政科に合格。台湾総督府に入り、編修官、高雄州教育課長、高雄高等女学校校長事務取扱、台北州地方課長、同勧業課長を経て、1930年(昭和5年)、台中市尹に就任した。その後、総督官房会計課長に転じた。
三宅 正太郎(みやけ まさたろう/しょうたろう、1887年6… 三宅 正太郎(みやけ まさたろう/しょうたろう、1887年6月27日 - 1949年3月4日)は、日本の法曹。元判事・弁護士。
安武 直夫(やすたけ ただお、1887年(明治20年)6月2… 安武 直夫(やすたけ ただお、1887年(明治20年)6月24日 - 1959年(昭和34年)3月21日)は、日本の内務官僚、台湾総督府官僚、朝鮮総督府官僚。 福岡県の田崎家に生まれ、長じて後に安武一(はじめ)の婿養子となった。1913年(大正2年)、高等文官試験に合格し、翌年に東京帝国大学法科大学独法科を卒業。内務省に入省し、山形県理事官、警保局事務官、朝鮮総督府事務官を歴任。さらに社会局書記官・庶務課長となり、臨時震災救護事務局書記官、資源局事務官を兼ねた。1932年(昭和7年)、台湾総督府文教局長に就任し、1935年(昭和10年)には平安南道知事に転じた。台湾総督府文教局長時代には、伝習館中学(現在の福岡県柳川市にある伝習館高等学校)の先輩でもあり親交のあった北原白秋を台湾に招聘している。
安岡 正臣(やすおか まさおみ、1886年(明治19年)7月… 安岡 正臣(やすおか まさおみ、1886年(明治19年)7月21日 - 1948年(昭和23年)4月12日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 鹿児島県、後の川内市(現・薩摩川内市御陵下町)で、安岡正陸軍大尉の息子として生れる。川内中学校、熊本陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1905年(明治38年)11月、陸軍士官学校(第18期)を卒業。翌年6月、歩兵少尉に任官し歩兵第43連隊付となる。陸軍戸山学校で学び、1914年(大正3年)11月、陸軍大学校(第26期)を卒業した。 陸軍省軍務局課員、歩兵第51連隊大隊長、第9師団参謀、歩兵第29連隊付、第16師団参謀、歩兵第49連隊長、第5師団参謀長などを歴任し、1935年(昭和10年)3月、陸軍少将に進級。
藤村 操(ふじむら みさお、1886年(明治19年)7月20… 藤村 操(ふじむら みさお、1886年(明治19年)7月20日 - 1903年(明治36年)5月22日)は、北海道出身の旧制一高の学生。華厳滝で投身自殺した。自殺現場に残した遺書「巌頭之感()」によって当時の学生・マスコミ・知識人に波紋を広げた。 祖父の藤村政徳は盛岡藩士であった。父の胖(ゆたか、政徳の長子)は明治維新後、北海道に渡り、事業家として成功する。 操は、1886年(明治19年)に北海道で胖の長男として生まれ、12歳の札幌中学入学直後まで北海道札幌で過ごした。単身、東京へ移り、開成中学から一年飛び級での京北中学に編入。この間の1899年(明治32年)に父・胖が死亡し、母や弟妹も東京に移り、同居するようになる。
今川 淵(いまがわ ふかし、1886年(明治19年)7月18… 今川 淵(いまがわ ふかし、1886年(明治19年)7月18日 - 1955年〈昭和30年〉)は、台湾総督府官僚。 福井県福井市出身。1912年(明治45年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、翌年に高等文官試験に合格。台湾総督府属、同事務官、台北庁庶務課長、内務局地方課長、殖産局糖務課長、専売局参事・庶務課長などを歴任。一時退官したが、1932年(昭和7年)に台南州知事となり、1936年(昭和11年)に台北州知事に転じた。同年、専売局長に就任し、1939年(昭和14年)に退官した。 退官後は、南方協会常務理事を経て、台湾石炭株式会社社長を務めた。
美土路 昌一(みどろ ますいち、1886年(明治19年)7月… 美土路 昌一(みどろ ますいち、1886年(明治19年)7月16日 - 1973年(昭和48年)5月11日)は、日本のジャーナリスト、実業家。全日本空輸初代社長、朝日新聞社社長を歴任した。号は春泥。 岡山県苫田郡一宮村(現・津山市)に所在する中山神社の社家の長男として生まれる。 津山中学校(現岡山県立津山高等学校)を卒業し、早稲田大学英文科に進むが、家計が苦しくなったため、早稲田を中退。つてをたどって、1908年1月東京朝日新聞社に入社。社会部員となる。1910年、飛行機の日本初飛行を取材したことで、空への関心が芽生える。 1914年8月に日本が第一次世界大戦に参戦すると、従軍記者として青島攻囲軍に参加。
市村 貞造(いちむら ていぞう、1886年(明治19年)7月… 市村 貞造(いちむら ていぞう、1886年(明治19年)7月16日 - 1925年(大正14年)12月26日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→政友本党)。ジャーナリスト。号は紫堂。 茨城県新治郡柿岡町(現在の石岡市)出身。1911年(明治44年)、早稲田大学政治経済科を卒業した。卒業後は郷里に帰り、柿岡郵便局長を務めた。その後『常総新聞』主筆となり、茨城県会議員にも選出された。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
松平 信子(まつだいら のぶこ、明治19年(1886年)7月… 松平 信子(まつだいら のぶこ、明治19年(1886年)7月15日 - 昭和44年(1969年)5月8日)は、会津藩9代藩主松平容保六男松平恒雄の夫人である。侯爵鍋島直大の四女で、姉に梨本宮妃伊都子がいる。 娘に長女秩父宮妃勢津子、松平容保の兄徳川慶勝の曾孫尾張徳川家第20代当主徳川義知に嫁いだ次女徳川正子がいる(正仁親王妃華子の父津軽義孝は、尾張徳川家分家男爵徳川義恕の次男である)。長男松平一郎の息子恒孝は徳川宗家に養子に入り18代目を継いだ。 妹松平俊子は高松松平家第12代当主伯爵松平賴壽の弟・海軍大佐松平胖と結婚し日本女子高等学院及び附属昭和高等女学校の第2代院長・校長を勤めた。俊子の長女誠子は公族李鍵公妃であった。
佐々 紅華(さっさ こうか、1886年7月15日 - 196… 佐々 紅華(さっさ こうか、1886年7月15日 - 1961年1月18日)は、日本の作曲家である。本名は佐々 一郎(さっさ いちろう)。作詞も行なった作品があり、歌劇の台本も書き、グラフィックデザイナーでもあった。 1886年(明治19年)7月15日、東京府東京市下谷区根岸(現在の東京都台東区根岸)に生まれた。祖父は富山藩士、父の佐々高信は分家し、三井物産の社員となり1900年頃から周旋屋となった。紅華が4歳の時、一家で横浜市に転居、旧制・横浜小学校(1946年統合廃校)、旧制・神奈川第一中学校(現在の神奈川県立希望ヶ丘高等学校)を経て、浅草区蔵前にあった旧制・東京高等工業学校(現在の東京工業大学)工業図案科に進学した。
米倉 昌達(よねくら まさよし / まさたつ、1886年(明… 米倉 昌達(よねくら まさよし / まさたつ、1886年(明治19年)7月15日 - 1937年(昭和12年)2月17日)は、大正から昭和期の薬学者、政治家、華族。貴族院子爵議員。旧姓・山口、旧名・重士。 子爵・山口弘達の三男として生まれ、1913年(大正2年)子爵・米倉昌臧の養子となり、同年3月、昌達と改名。養父の死去に伴い、1916年(大正5年)12月20日、子爵を襲爵した。 1911年(明治44年)東京帝国大学医科大学薬学科を卒業。さらに1916年、同大学医学科を卒業した。 1917年(大正6年)東京帝国大学伝染病研究所技手に就任。以後、同大学医科大学化学教室副手、同附属医院分院薬局長、日本医学専門学校教授兼学生監、千葉医科大学講師、京都薬学専門学校校長、昭和女子薬学専門学校校長、日本医科大学教授、同校学生監兼予科主任などを務めた。
塚田 攻(つかだ おさむ、1886年7月14日 - 1942… 塚田 攻(つかだ おさむ、1886年7月14日 - 1942年12月18日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。
田村 徳治(たむら とくじ、1886年7月14日 - 195… 田村 徳治(たむら とくじ、1886年7月14日 - 1958年11月25日)は、日本の行政学者・政治学者。蠟山政道と並ぶ日本の行政学創始者の一人。博士(法学)(京都帝国大学)。 秋田県鹿角郡花輪町(現在の鹿角市)生まれ。秋田師範学校では土田誠一・菊地寅七とともにクラスの三羽烏に数えられた。4年間級長を務め、1907年卒業。1913年、東京高等師範学校英語科卒業。1916年、京都帝国大学法科大学卒業、京都帝国大学大学院(旧制)特別研究生。 のちに、京都帝国大学法学部助手。1920年、京都帝国大学法学部助教授に就任。1922年、ドイツ・イギリス・フランス・アメリカに2年間留学。1924年、京都帝国大学法学部教授に就任。
内藤 智秀(ないとう ちしゅう、1886年(明治19年)7月… 内藤 智秀(ないとう ちしゅう、1886年(明治19年)7月13日 - 1984年(昭和59年)7月24日)は、日本の西洋史学者。文学博士。庄内町名誉町民。パキスタン協会副会長。 1886年(明治19年)7月13日、山形県東田川郡余目町古関(現・庄内町)の寺院・玄通寺に生まれる。荘内中学校(現・山形県立鶴岡南高等学校)卒業、第七高等学校造士館(現・鹿児島大学)を経て、1912年(明治45年)7月10日、東京帝国大学文学部西洋史学科を卒業。 卒業後は、鹿児島県の中学校教員、東京大学図書館司書、山形高等学校(現・山形大学)教授を経て、外務省に入省。トルコ、イラン、アラビアなどで勤務しつつ、中東文化を研究した。
三代目 市川 壽海(いちかわ じゅかい、新字体:寿海、188… 三代目 市川 壽海(いちかわ じゅかい、新字体:寿海、1886年(明治19年)7月12日 - 1971年(昭和46年)4月3日)は、大正から昭和にかけて活躍した歌舞伎役者。屋号は成田屋。定紋は壽海老、替紋は蝙蝠。位階は従四位。勲三等旭日中綬章。本名は太田 照造(おおた しょうぞう)。 「三代目」とはいいながら、この「市川壽海」の名跡を襲名したのはこの太田照造ただ一人なので、かれのことを単に市川壽海(いちかわ じゅかい)と呼ぶことが多かった。 主に関西歌舞伎を中心に舞台を務め、初代中村鴈治郎・中村魁車・三代目中村梅玉らの死後は、三代目阪東壽三郎と並んで「双壽時代」と呼ばれる一時代を築く。 東京府東京市日本橋区日本橋蛎殻町の仕立職・中村力蔵の子として生まれる。
井上 知治(いのうえ ともはる、1886年(明治19年)7月… 井上 知治(いのうえ ともはる、1886年(明治19年)7月9日 - 1962年(昭和37年)9月19日)は、日本の政治家。位階は従三位、勲等は勲一等。国務大臣。 鹿児島県頴娃郡郡村(揖宿郡頴娃村、頴娃町を経て現南九州市)に生まれる。旧制宮崎県立都城中学校(現:宮崎県立都城泉ヶ丘高等学校)、第七高等学校造士館を経て、1917年(大正6年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業。鈴木商店社員、読売新聞記者を経て、1930年(昭和5年)第17回衆議院議員総選挙に立憲政友会所属で鹿児島県第1区から立候補し初当選。以後通算当選7回。政友会では床次竹二郎派、中島知久平派に所属した。 戦後は日本進歩党、民主党、同志クラブ、民主自由党、自由党、自由民主党と渡り歩き、1946年(昭和21年)第22回総選挙では進歩党公認で、翌1947年(昭和22年)第23回総選挙では民主党公認で、1949年(昭和24年)第24回総選挙では民自党公認で当選している。
亀高 文子(かめたか ふみこ、1886年〈明治19年〉7月9… 亀高 文子(かめたか ふみこ、1886年〈明治19年〉7月9日 - 1977年〈昭和52年〉9月16日)は、明治 - 昭和時代の洋画家。 1886年(明治19年)に横浜で生まれた。 1902年(明治35年)女子美術学校洋画科に入学。 1907年(明治40年)女子美術大学卒業後、東京勧業博覧会に行き、満谷国四郎の作品に感銘を受け、師事する。その後太平洋画研究会にて、中村不折からデッサンを学ぶ。 1909年(明治42年)に第3回文展に初出品。その際に出品した「白かすり」が入選した。 1911年(明治44年)に第5回文展に「読書」を出品。こちらも入選した。 1913年(大正2年)に第7回文展に「離れゆく心」を出品。
斉藤 惣一(さいとう そういち、1886年7月9日 - 19… 斉藤 惣一(さいとう そういち、1886年7月9日 - 1960年7月5日)は、日本キリスト教青年会(YMCA)同盟総主事である。日本のJ・R・モットと言われた。 1886年(明治19年)福岡県企救郡大里村に生まれる。第五高等学校を卒業し、東京帝国大学文学部で学ぶ。1911年(明治44年)東京帝国大学を卒業後に、第五高等学校で英文学の教授になる。ジョン・モット、G・M・フィッシャーの影響を受けて、1917年(大正6年)に教師を辞職して、YMCA同盟主事に就任する。1921年(大正10年)には総主事になる。 1924年(大正13年)から10年間、東京キリスト教青年会総主事に就任して、関東大震災後の復興のために尽力する。
中田 章(なかだ あきら、1886年(明治19年)7月8日 … 中田 章(なかだ あきら、1886年(明治19年)7月8日 - 1931年(昭和6年)11月27日)は日本の作曲家、オルガニスト 、教育者。代表曲は「早春賦」であり、「日本の歌百選」に選ばれている。東京音楽学校(現在の東京芸術大学)教授。 東京都出身で高嶺秀夫の奨めによって東京音楽学校に進み、甲種師範科および研究科卒業。東京音楽学校教授として音楽理論、オルガンを教えた。 また、大韓帝国皇太子に唱歌を教授する。1929年、大礼記念章を受章。父は旧会津藩士。妻は奥村土牛の従姉で、作曲家の中田一次は次男、中田喜直は三男。会津会会員。
小栗 一雄(おぐり かずお、1886年7月8日 - 1973… 小栗 一雄(おぐり かずお、1886年7月8日 - 1973年1月20日)は、日本の内務官僚。県知事、警視総監。 静岡県出身。小栗平七郎の四男として生まれる。静岡中学、第一高等学校を経て、1911年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業し、農商務省に入り東京大林区署に配属される。同年10月、文官高等試験行政科試験に合格。その後、山林事務官補となる。 1914年4月、同郷出身の一木喜徳郎文部大臣の秘書官に就任し文部省参事官を兼務。1915年8月、一木大臣の内務大臣へ異動に伴い内務大臣秘書官に就任。1916年10月、京都府視学官となり、東京府視学官、奈良県警察部長、長崎県警察部長、警視庁衛生部長、警視庁保安部長、大阪府書記官・警察部長、兵庫県書記官・内務部長、大阪府書記官・内務部長などを歴任。
熊谷 敬一(くまがい けいいち、1886年7月8日 - 19… 熊谷 敬一(くまがい けいいち、1886年7月8日 - 1962年1月17日)は、日本の陸軍軍人。第15師団長、留守第4師団長を歴任する。階級は陸軍中将。勲一等。 静岡県出身。静岡県立静岡中学校を経、1907年(明治40年)5月31日、陸軍士官学校を卒業。同年12月26日、陸軍歩兵少尉に任官 。1917年(大正6年)、陸軍大学校(29期)卒業。1922年(大正11年)12月12日、大尉の時、アメリカ大使館付武官補佐官に就任し、1924年(大正13年)10月14日までこの職に在る。以後歩兵将校として累進し、1931年(昭和6年)8月1日、陸軍大佐・陸軍歩兵学校教官を命ぜられる。翌年8月8日鳥取連隊区司令官に移る。
花井 又太郎(はない またたろう、1886年7月6日 - 1… 花井 又太郎(はない またたろう、1886年7月6日 - 1974年12月7日)は、日本の都市計画家。土木技術者。愛知県宝飯郡赤坂村生まれ。 1913年(大正2年)東京帝国大学工科大学土木工学科卒業。朝鮮総督府勤務の後、1920年から大阪市に転じ、都市計画部技術課長や大阪市地下鉄の初代建設事務所長を務める。 1931年(昭和6年)から懇願されて名古屋市土木部長に迎えられる。1939年には土木局長。1942年から終戦までは市助役を務めている(後任は田淵寿郎)。その間に名古屋駅前土地区画整理事業や東山公園開設、中川運河開削事業といった都市計画事業を推進するかたわら、都市計画地方委員会愛知委員会各種委員をつとめる。
平野 復男(ひらの またお、1886年(明治18年)7月5日… 平野 復男(ひらの またお、1886年(明治18年)7月5日 - 没年不明)は、日本の実業家。平野大豆工業元社長。大日本紡績(現:ユニチカ)元取締役。日本製粉(現:ニップン)元取締役。 石川県金沢市出身。大聖寺藩士であった上杉寛二の四男(または三男)として生まれる。兄は憲法学者で東京帝国大学教授の上杉慎吉。 1909年(明治42年)東京帝国大学法科大学英法科を優等の成績で卒業し、同年高等文官試験に合格。神奈川県に奉職し、理事官を務める。1910年(明治43年)辞職。 その頃、たまたま縁戚にあたるユアサコーポレーション創業者の湯浅七左衛門(早川千吉郎の弟)の紹介で、摂津紡績(現:ユニチカ)取締役を務めた平野平兵衛(金沢仁作の弟)の長女・いちと結婚。
奥村 栄同(おくむら てるあつ、1886年(明治19年)7月… 奥村 栄同(おくむら てるあつ、1886年(明治19年)7月5日 - 1944年(昭和19年)12月30日)は、大正から昭和期の華族(男爵)。 加賀藩重臣奥村宗家第14代当主奥村栄滋の子として生まれる。1923年5月10日、父の死去に伴い男爵を襲爵した。 早稲田大学を卒業し金沢市役所に勤務した。 永福 - 栄明 - 栄政 - 栄清 - 時成 - 有輝 - 有定 - 修古 - 栄輇 - 尚寛 - 栄実 - 栄親 - 栄通 - 栄滋 - 栄同 - 純松 - 栄純 易英 - 庸礼 - 悳輝 - 明敬 - 温良 - 保命 - 易直 - 煕殷 - 成象 - 隆振 - 質直 - 惇叙 - 直温 - 篤輝 - 則友 - 則英 - 内膳 - 弘 - 隆弘
橋本 忠太郎(はしもと ちゅうたろう、明治19年(1886年… 橋本 忠太郎(はしもと ちゅうたろう、明治19年(1886年)7月3日 - 昭和35年(1960年)2月5日)は、明治から昭和にかけての植物学者、教師。滋賀県女子師範学校等で教鞭をとりつつ滋賀県下の植物調査を行った。 明治19年(1886年)7月3日に滋賀県蒲生郡北比都佐村大字十禅師(現滋賀県蒲生郡日野町十禅師)にて誕生。 明治39年(1906年)滋賀県立彦根中学(現滋賀県立彦根東高等学校)、明治44年(1910年)滋賀県師範学校(現滋賀大学教育学部)二部を卒業した。その後、郷里の北比都佐小学校(現日野町立必佐小学校)の教員となり、大正10年(1921年)中学校教員試験検定に合格し翌11年(1922年)より滋賀県女子師範学校、県立大津高等女学校の教諭となった。
上代 たの(上代 タノ、じょうだい-、1886年7月3日 -… 上代 たの(上代 タノ、じょうだい-、1886年7月3日 - 1982年4月8日)は、日本の英文学者、平和運動家。第6代日本女子大学長。 島根県大原郡春殖村出身。上代家は庄屋の家系で、父親の上代豊三郎は村長も務めた。大東下分尋常小学校から大東高等小学校へ進み、松江市立高等女学校を卒業後、地元に戻って大東尋常小学校の準訓導になったが、両親の勧めで日本女子大学校に進み、英文科を卒業。東京帝国大学への進学を望んだが女子の入学が認められず、同大教授だった新渡戸稲造に留学希望の手紙を書き、新渡戸の斡旋により1913年から4年間米国ウェルズ・カレッジで学ぶ。帰国した1917年に日本女子大学校教授となり、日本で最初のアメリカ文学とアメリカ史の科目を導入した。