野辺地 慶三(のべち けいぞう、1890年(明治23年)5月… 野辺地 慶三(のべち けいぞう、1890年(明治23年)5月11日 - 1978年(昭和53年)6月25日)は、昭和時代の細菌学者、公衆衛生学者。 岩手県盛岡市新築地(現・大通三丁目)にて野辺地慶治・せんの三男として生まれる。盛岡中学校(現・岩手県立盛岡第一高等学校)、第一高等学校(現・東京大学教養学部)を経て、1919年(大正8年)東京帝国大学医学部を卒業した。卒業後、伝染病研究所に入り、血清学的にコレラ菌を3つに分類できることを提唱した。また、1923年(大正12年)から米国に留学し、ハーバード大学公衆衛生学部を首席で卒業し、公衆衛生学博士となり、1927年(昭和2年)に帰国した。帰国後は国立公衆衛生院の創設と運営に尽くし、日本の保健所制度の礎を築いた。
山中 喜一(やまなか きいち、1890年5月11日 - 没年… 山中 喜一(やまなか きいち、1890年5月11日 - 没年不詳)は、大正から昭和初期に活躍した日本の実業家。国策会社である東亜海運の代表取締役社長を始め、日清汽船常務取締役、副支配人など海運会社の経営に携わった。 茨城県豊田郡水海道町(現・常総市)出身。1913年(大正2年)立教大学卒業。その後、国策会社である日清汽船に入社。1925年(大正14年)には、同社副支配人を務めた。 日清汽船は上海航路を有し、現地に拠点を設けており、1924年(大正13年)12月から翌年1月まで母校である立教大学のバスケットボール部が上海遠征を行った際には、多大な支援を行った。 1939年(昭和14年)に、対中国海運強化を目的とする新たな国策会社として東亜海運が設立されると、同社の代表取締役社長に就任。
守分 十(もりわけ ひさし、1890年(明治23年)5月10… 守分 十(もりわけ ひさし、1890年(明治23年)5月10日 - 1977年(昭和52年)1月22日)は、日本の銀行家。元中国銀行頭取。中国銀行の“中興の祖”とされる。 元庄屋守分榮吉の長男として、岡山県浅口郡乙島村(現倉敷市)に生まれる。 北海道拓殖銀行勤務を経て、1922年(大正11年)6月、第一合同銀行倉敷支店長代理として入行する。翌年には、経営の行き詰まっていた山陽商業銀行に支配人として派遣され、第一合同銀行との合併をまとめ上げた。 さらにその後、姫路倉庫銀行にも派遣され、第一合同銀との合併の準備にあたった。 中國銀行の発足に際しては、初代高松支店長に就任。香川銀行との合併に手腕を発揮した。
杉山 茂(すぎやま しげる、1890年(明治23年)5月10… 杉山 茂(すぎやま しげる、1890年(明治23年)5月10日 - 1975年(昭和50年)3月29日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。 神奈川県大住郡須馬村須賀(中郡須馬町、平塚町を経て現平塚市)で、醤油味噌醸造業・杉山善平の長男として生まれる。1910年(明治43年)明治学院を卒業した。 家業に従事し、1923年(大正12年)コンクリート製のもろみタンクを考案。1924年(大正13年)家督を相続し、米善醸造を県下一の醸造会社に成長させた。 1923年、須賀郵便局長に就任。1925年(大正14年)須馬町会議員に選出され平塚町との合併に尽力し、学務委員も務めた。合併実現後、同町会議員、平塚市会議員を務めた。
宋 鎮禹(そう ちんう、ソン・ジヌ、1890年5月8日 - … 宋 鎮禹(そう ちんう、ソン・ジヌ、1890年5月8日 - 1945年12月30日)は、朝鮮の独立運動家、政治家。本貫は新平宋氏。号は「古下」(コハ、고하)。 全羅南道潭陽郡に生まれる。1907年に金性洙とともに日本に留学し、1915年に明治大学を卒業後、帰国して私立中央学校校長に就任する。1919年の三・一独立運動に参加した容疑で、1年間投獄される。1921年から1924年まで東亜日報第3代社長、1927年から1937年まで第6代社長を務め、民族主義右派の立場で論陣を張った。1945年12月1日に第8代社長に就任した。 日本の敗戦を控えた1945年8月11日に、朝鮮総督府は京畿道知事を通じて、朝鮮における資本家及び地主勢力を代弁することができる宋鎮禹と接触し、「行政委員会」を構成してくれる事を要請した。
水崎 格(みずさき いたる、1890年(明治23年)5月8日… 水崎 格(みずさき いたる、1890年(明治23年)5月8日 - 1969年(昭和44年)[要出典])は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚。新竹市長。旧姓は高木。 長野県松本市に生まれる。本籍は新潟県高田市。早稲田中学校を経て、1912年(明治45年)5月、陸軍経理学校を卒業する。同年7月、陸軍主計候補生となり、同12月、歩兵第55連隊に入隊、1912年(大正元年)12月、陸軍三等主計に任ぜられ、1915年(大正4年)予備役に編入した。 1920年(大正9年)4月、第9師団留守経理部勤務、浦塩派遣軍倉庫勤務を経て、1923年(大正12年)台湾総督府財務局主計課勤務に転じる。台北州郡属、府属を経て、1936年(昭和11年)12月、地方理事官に進み、高雄州恒春郡守に就任。
田島 正雄(たじま まさお、1890年(明治23年)5月8日… 田島 正雄(たじま まさお、1890年(明治23年)5月8日 - 1962年(昭和37年)8月17日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。大阪商船副社長、大阪商工会議所会頭、貴族院勅選議員。 奈良県添上郡奈良町角振新屋町11番地(現奈良市)で、田島基光の五男として生まれる。1913年(大正2年)7月、東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業した。 卒業後、宇治川電気に入社した。語学の才があり勧誘を受け、1916年(大正5)12月に大阪商船に転じた。あふりか丸事務員、ロンドン在勤員、ケープタウン在勤員、ニューヨーク支店長を務め、1937年(昭和12年)1月、本社遠洋課長に就任した。1939年(昭和14年)1月、取締役に昇進し、専務取締役を経て、1944年(昭和19年)11月、副社長に就任した。
名倉 喜作(なぐら きさく、1890年5月8日 - 1958… 名倉 喜作(なぐら きさく、1890年5月8日 - 1958年12月4日)は、日本の実業家。華南銀行総理、台湾銀行東京調査部調査部長・本店調査課長。立教学院財務理事。 1890年(明治23年)、静岡県出身。1914年(大正3年)、立教大学商科(後の商学部)卒業。 大学卒業後、台湾銀行に入行。同行本店調査課長を務める。 1944年(昭和19年)、華南銀行の親銀行である台湾銀行が財務強化のため資本金の増資を行い、華南銀行創設者の一人でこれまで総理を務めていた林熊徴(林本源の子孫)を会長とし、台湾銀行からきた名倉喜作が華南銀行の新たな総理に就任する。2人の常務も台湾銀行出身者となり、台湾銀行による経営の強化が図られた。
山本 実一(やまもと じついち、1890年5月6日 - 19… 山本 実一(やまもと じついち、1890年5月6日 - 1958年9月17日)は、日本の経営者。中国新聞社社長、ラジオ中国社長を務めた。 広島県安芸郡府中町出身。東京帝国大学農学部を卒業し、1916年に中国新聞社に入社。1918年に副社長を経て、1933年から1947年までに社長を務め、1951年11月には再び社長に就任。ラジオ中国(現在の中国放送)社長も務めた。 1958年9月17日、気管支肺炎のために在任中に死去。68歳没。
猪谷 六合雄(いがや くにお、1890年〈明治23年〉5月5… 猪谷 六合雄(いがや くにお、1890年〈明治23年〉5月5日 - 1986年〈昭和61年〉1月10日)は、日本のスキー指導者。国際オリンピック委員会(IOC)副会長・猪谷千春の父。日本スキー界の草分け的存在。日本職業スキー教師連盟(SIA)2代会長。3回の結婚で計9人の子をもうけた。3人目の妻の定子は日本初の女性ジャンパーでもあった[要出典]。 1890年(明治23年)5月5日、群馬県勢多郡富士見村大洞の赤城山大沼湖畔に生まれた。実際の出生日は5月23日だったが、戸籍上は5月5日生まれとなっている。父は赤城神社の神主をしていた。生家は猪谷旅館を営んでおり、1904年(明治37年)には高村光太郎、石井柏亭、与謝野鉄幹らが訪れている。
黒瀬 琢郎(くろせ たくろう、1890年〈明治23年〉5月5… 黒瀬 琢郎(くろせ たくろう、1890年〈明治23年〉5月5日 - 1941年〈昭和16年〉1月17日)は、香川県多額納税者、地主。 香川県丸亀市出身。黒瀬與重郎の長男。1913年、第六高等学校卒業。1917年、東京帝国大学法科大学経済学科卒業。1926年、父退隠の後を承け、家督を相続する。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。宗教は浄土宗。住所は丸亀市通町。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
鈴木 惣太郎(すずき そうたろう、1890年〈明治23年〉5… 鈴木 惣太郎(すずき そうたろう、1890年〈明治23年〉5月4日 - 1982年〈昭和57年〉5月11日)は、日本の野球評論家。日本プロ野球創成期に日米間の交流に尽力し、大日本東京野球倶楽部(現・読売ジャイアンツ)設立に貢献。戦後も日本野球連盟副会長として日本プロ野球の再興に努め、コミッショナー制やフランチャイズ制など現在の日本プロ野球制度の基礎となる部分に足跡を残した人物である。野球殿堂表彰者。 群馬県佐波郡伊勢崎町(現・伊勢崎市)に、鈴木卯三郎の長男として生まれる。母方の栗原家は伊勢崎藩の典医を勤める家柄だった。 旧制前橋中学校を卒業後、早稲田大学に進学。結核を患ったことで早稲田大学を中退し、大倉高等商業学校(現・東京経済大学)に転学して卒業した。
松岡 文七郎(まつおか ぶんしちろう、1890年(明治23年… 松岡 文七郎(まつおか ぶんしちろう、1890年(明治23年)5月4日 - 1957年(昭和32年)1月23日)は、日本の医師、政治家。松本市長(公選第2代)。位階は正六位。勲五等瑞宝章。 長野県東筑摩郡松本町(現:松本市)生まれ。1915年(大正4年)京都帝国大学医学部を卒業し、同大内科教室助手として勤務した後、1918年(大正7年)7月、内科医を開業。松本精神病院管理院長に就任した。1929年(昭和4年)から松本市会議員に4回当選、昭和22年から26年まで議長も務める。その後、長野県会議員に2回当選。日本医師会代議員、長野県医師会長も歴任した。 1951年(昭和26年)4月から松本市長を2期務める。
呉 文炳(くれ ふみあき、1890年(明治23年)5月3日 … 呉 文炳(くれ ふみあき、1890年(明治23年)5月3日 - 1981年(昭和56年)11月18日)は、日本の経済学者、経済学博士(慶應義塾大学)。日本大学第4代総長、日本大学理事長、貴族院議員。広島県呉市名誉市民。 東京府東京市麹町区で、統計学者の呉文聰・やす夫妻の四男として生まれる。麹町尋常高等小学校(現・千代田区立麹町小学校)を卒業。1913年(大正2年)に慶應義塾大学部法律科を卒業すると母校の予科講師・三菱銀行勤務を経て、渡米してシカゴ大学とコロンビア大学へ留学。 帰国した後、立教大学商学部(現・経済学部、経営学部)教授に就任し、信託業や信託法を講義したが、これは未だ信託業が日本において重要視されていない時代に先駆けて開設された講座であった。
岸 良一(きし りょういち、1890年(明治23年)5月2日… 岸 良一(きし りょういち、1890年(明治23年)5月2日 - 1962年(昭和37年)1月21日)は、日本の農林官僚。参議院議員(緑風会)。 東京府出身。1915年(大正4年)、東京帝国大学農科大学を卒業し、一年志願兵として軍務についた。1917年(大正6年)に農商務省に入り、畜産試験場技手・農商務技手となり、1918年(大正7年)から緬羊研究のためにイギリス・アメリカ合衆国に留学した。帰国後、農商務技師、農林技師となり、畜産局で鶏卵増産奨励運動の事務にあたった。1932年(昭和7年)、関東軍特務部員となり、1934年(昭和9年)には満洲国実業部林務司長に就任した。その後、農林省で林野局長、畜産局長、農務局長を歴任し、1942年(昭和17年)に馬政局長官となった。
上塚 司(うえつか つかさ、1890年(明治23年)5月1日… 上塚 司(うえつか つかさ、1890年(明治23年)5月1日 - 1978年10月22日)は、日本の政治家。衆議院議員(7期)。
板谷 信一郎 (いたや のぶいちろう 1890年〈明治23年… 板谷 信一郎 (いたや のぶいちろう 1890年〈明治23年〉5月1日 - 1961年〈昭和36年〉12月28日)は、東京都立川市長(1期)。勲六等瑞宝章。 1890年、神奈川県北多摩郡立川村(立川町を経て、現在の東京都立川市)生まれ。1951年立川市長に就任。 市長就任後は、市内に市営競輪場を開設、市営塵芥焼却場の建設、浄水場の完成、市営野球場の開場、立川音頭の制定などがあった。 1955年に退任するまで市長を4年間務めた。 1961年に死去。71歳。死没日付をもって勲六等瑞宝章を追贈された。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
湯浅 八郎(ゆあさ はちろう、1890年(明治23年)4月2… 湯浅 八郎(ゆあさ はちろう、1890年(明治23年)4月29日 - 1981年(昭和56年)8月15日)は、日本の昆虫学者・教育者・キリスト者。第10・12・13代同志社総長および初代国際基督教大学学長を歴任した。湯浅治郎の五男。 1890年(明治23年)、東京市赤坂に生まれた。父は同志社理事・群馬県会議長・衆議院議員を務めた実業家・政治家である湯浅治郎、母は徳富蘇峰・徳富蘆花兄弟の姉である初子である。湯浅家は当時の日本ではまだ珍しい、クリスチャン・ホームであった(父方の叔父に聖書学者として知られる湯浅吉郎がいる)。少年期は主として京都で過ごした。 1902年(明治35年)に同志社普通学校に入学、1908年(明治41年)に卒業し、米国に渡った。
龍 粛(りょう すすむ、1890年4月29日 - 1964年… 龍 粛(りょう すすむ、1890年4月29日 - 1964年2月25日)は、大正・昭和期の歴史学者。専攻は中世史。元東京大学史料編纂所長。萩野由之は舅に当たる。
二代目 三遊亭 円歌(さんゆうてい えんか、1890年〈明治… 二代目 三遊亭 円歌(さんゆうてい えんか、1890年〈明治23年〉4月28日 - 1964年〈昭和39年〉8月25日)は、日本の落語家。本名∶田中 利助。出囃子は『踊り地』。新潟県新潟市出身。 新潟県立新潟中学校卒業。当時の落語家には珍しく旧制中学校卒業の高学歴で、家は洋館三階建ての裕福な両替屋であったが、祖母が米相場で失敗して破産し、神奈川県横浜市で貿易商館員として働くも、女性問題を起こしたことがきっかけで北海道札幌市に移り、京染屋を始める。花柳界相手の商売を通じて、元噺家の松廼家右喬と出会ったことで、落語に興味を抱き、素人演芸の集団に加わる。 北海道に移り住んだ後は旅回りの一座に入り、勝手に「東京落語の重鎮・三遊亭柳喬」と名乗っていたが、小樽市で巡業中の二代目三遊亭小圓朝に見つかり、それがきっかけとなり落語家の道に入る。
久保田 豊(くぼた ゆたか、1890年4月27日 - 198… 久保田 豊(くぼた ゆたか、1890年4月27日 - 1986年9月9日)は、日本の実業家。位階は正三位。日窒コンツェルンの野口遵と共に、当時世界最大級の水豊ダムをはじめ、朝鮮北部に大規模なダムを建設した。戦後は建設コンサルタント会社日本工営社長を務めた。 日窒コンツェルンの長津江水電、朝鮮送電の取締役を経て、朝鮮電業社長に就任。当時世界的な生産規模を有していた朝鮮窒素肥料興南工場などへ電力を供給する体制を整えた。また世界でも最大級のダムである鴨緑江の水豊ダムの建設を実現した。戦後、ビルマ(現ミャンマー)のバルーチャン発電計画を受注し、これは結果的にODAの原点となる戦後賠償の第1号案件につながった。
内海 安吉(うつみ やすきち、1890年4月27日 - 19… 内海 安吉(うつみ やすきち、1890年4月27日 - 1976年4月11日)は、日本の政治家。自由民主党衆議院議員。宮城県桃生郡小野村(現在の東松島市)出身。自民党衆議院議員で建設大臣、国土庁長官を務めた内海英男は長男。 1890年(明治23年)桃生郡小野村の農家に生まれる。1910年(明治43年)日本大学法律科を卒業し、日本電報通信社に入社し政治記者となる。同社の京城支局員、大連支局長を経て、奉天公報社長、帝国新報社長を務めた他、内閣嘱託として、興亜院に入り、上海で勤務する。この間、帰国中に執筆した「産業立国策」が犬養毅に評価され、1930年(昭和5年)立憲政友会から第17回衆議院議員総選挙に立候補するが落選する。
堀田 くに(ほった くに、1890年4月26日 - 1985… 堀田 くに(ほった くに、1890年4月26日 - 1985年8月10日)は、日本の女性運動家。富山県高岡市出身。石川県立金沢第一高等女学校卒業。 廻船問屋堀田善右衛門の娘として生まれる。堀田家は、南北朝時代に後醍醐天皇第8皇子宗良親王を奉じて越中に落ち延びた朝臣の子孫で、親王を守り立てるために廻船問屋業を始めたという。 この廻船問屋は、くにの代で廃業となる。大正14年(1925年)、船荷を運ぶ女性労働者の子どもたちが浜辺に放置されるままであるのを見かねて、くには富山県初の託児所である伏木託児所(現在の伏木保育園)を開設した。1942年に厚生大臣表彰、1954年に藍綬褒章、1964年に勲五等宝冠章を受けた。
崔南善(チェ・ナムソン、1890年4月26日 - 1957年… 崔南善(チェ・ナムソン、1890年4月26日 - 1957年10月10日)は朝鮮の詩人、ジャーナリスト、歴史家である。号は六堂(ユクタン)。本貫は東州崔氏。
西村 弥三郎(にしむら やさぶろう、1890年(明治23年)… 西村 弥三郎(にしむら やさぶろう、1890年(明治23年)4月26日 - 1981年(昭和56年)4月23日)は、大正から昭和時代の政治家、実業家。愛媛県八幡浜市長。愛媛県多額納税者。旧姓は本多、幼名は恭礼。 愛媛県東宇和郡宇和町久枝(現・西予市宇和町久枝)で本多好礼の三男として生まれ、1908年(明治41年)宇和島中学校(現・愛媛県立宇和島東高等学校)卒業とともに八幡浜の素封家・西村家(泉屋)の西村ヒサ方に養子入籍し、当主となる。第五高等学校(現・熊本大学)を経て、1918年(大正7年)東京帝国大学法学部を卒業し、2年間銀行に勤めたのちに郷里に戻り、家業を継ぎ、名を弥三郎と改める。 第二十九銀行(伊予銀行の前身)取締役、八幡浜信用金庫理事長、西宇和郡社会事業協会理事長、壮年団長などを歴任したのち、1936年(昭和11年)3月に前八幡浜市長の酒井宗太郎が病没すると、第2代八幡浜市長に就任。
武田 正憲(たけだ まさのり、1890年4月25日 - 19… 武田 正憲(たけだ まさのり、1890年4月25日 - 1962年3月3日)は、日本の俳優である。本名同じ。 1890年(明治23年)4月25日、東京府東京市芝区(現在の東京都港区芝)に、和歌山県出身の海軍中尉だった武田武守の息子として生まれる。 1979年(昭和54年)10月23日に発行された『日本映画俳優全集 男優編』(キネマ旬報社)によれば、暁星中学校を経て早稲田大学専門部英文科に入学し、1909年(明治42年)5月、坪内逍遥らの文芸協会演劇研究所に1期生として入る。『讀賣新聞』によれば、1914年(大正3年)に早稲田大学英文科を卒業し、文芸協会演劇研究所に加入したという旨が記されている。
戸塚 道太郎(とづか みちたろう、1890年〈明治23年〉4… 戸塚 道太郎(とづか みちたろう、1890年〈明治23年〉4月21日 - 1966年〈昭和41年〉3月6日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 1890年(明治23年)4月21日東京府南豊島郡千駄ヶ谷村(現在の東京都渋谷区)に生まれる。旧制東京府立第4中学校を経て、1907年(明治40年)9月21日海軍兵学校38期に150名中12番の成績で入校、1910年(明治43年)7月18日149名中33番の成績で卒業、少尉候補生、装甲巡洋艦「浅間」乗組。10月16日- 練習艦隊遠洋航海出発(ホノルル-サンフランシスコ-サンピドロ-マサニーリョ-アカプルコ-パナマ-アカプルコ-ホノルル方面巡航)。1911年(明治44年)3月6日帰着。
田辺 孝次(たなべ たかつぐ、1890年4月21日 - 19… 田辺 孝次(たなべ たかつぐ、1890年4月21日 - 1945年4月16日)は、日本の美術史家。 石川県金沢市生まれ。息子は美術史家の田辺徹。室生犀星とは幼馴染。1913年東京美術学校彫刻科を卒業、18年同校美術史研究室の助手、19年教授となり、工芸史を講じた。1924年から25年工芸史研究のため欧米諸国に学び、1927年東京高等工芸学校講師を兼ねた。1937年再び欧洲各国に出張して38年帰国、1939年には石川県立工業学校長となり42年退職した。
尾崎 義春(おざき よしはる、1890年〈明治23年〉4月2… 尾崎 義春(おざき よしはる、1890年〈明治23年〉4月20日 - 1973年〈昭和48年〉9月19日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。北海道旭川市出身。 農家の尾崎次郎の二男として生まれる。北海道庁立旭川中学校を卒業したのち、日本軍に入隊。 陸軍士官学校23期・ 陸軍大学校31期。関東軍に出仕。1928年の張作霖爆殺事件の際には河本大作大佐の部下として実行部隊を指揮する。その後、日中戦争(支那事変)では独立混成第13旅団長として出動し、淮南で新四軍と激戦を繰り広げた。 日米開戦後は第19師団長に親補され、北朝鮮からフィリピンへと転戦。リンガエン湾・プロム山の戦闘では圧倒的兵力を誇る米軍相手に善戦敢闘した。
森本 甚兵衛(もりもと じんべい、旧姓・細井、前名・悦蔵、1… 森本 甚兵衛(もりもと じんべい、旧姓・細井、前名・悦蔵、1890年〈明治23年〉4月20日 - 1983年〈昭和58年〉9月12日)は、日本の地主、実業家。西宮酒造(現・日本盛)代表取締役。12代森本甚兵衛。 大阪府豊能郡北豊島村(現・池田市)に細井重右衛門の四男として生まれた。1914年(大正3年)に兵庫県人・森本甚兵衛の養子となり家督を相続、1915年(大正4年)1月に前名・悦蔵を改め、甚兵衛を襲名した。戊辰土地、南大阪田園都市各監査役をつとめた。 西宮銀行に入行し、取締役に就任、同行が1936年(昭和11年)に神戸銀行に合併のため退任した。1930年(昭和5年)2月に西宮酒造入社、取締役に就任、1943年(昭和18年)4月に監査役に就任した。
雨宮 治郎(あめのみや じろう、1889年〈明治22年〉5月… 雨宮 治郎(あめのみや じろう、1889年〈明治22年〉5月17日 - 1970年〈昭和45年〉5月13日)は、彫刻家、日本芸術院会員。茨城県水戸市出身。 1920年東京美術学校彫刻科卒業、1923年同研究科卒業、帝展、文展、日展に出品し、1950年日展審査員、日展運営会参事、1951年東京学芸大学教授、1957年日本芸術院賞受賞、1958年日展評議員、1962年日本彫塑会委員長、1964年日本芸術院会員、日展理事、1966年勲三等瑞宝章受章、1969年日展顧問。 晩年は東京都杉並区永福に自宅を構えた。1970年5月13日、脳梗塞のため杉並区の東京大塚病院にて死去。告別式は同月22日、青山葬儀所で行われた。
澤崎 定之(または、沢崎 定之、さわざき さだゆき、1889… 澤崎 定之(または、沢崎 定之、さわざき さだゆき、1889年(明治22年)5月17日 - 1949年(昭和24年)4月15日)は日本の声楽家、音楽教育者、合唱指揮者、作曲家。日本の洋楽界のパイオニアとして重要な役割を果たした。 和歌山県有田市出身。1912年(明治45年)東京音楽学校声楽科卒。アウグスト・ユンケル、ハンカ・ペツォルトに師事。同年の卒業生には、声楽:中島かね・梁田貞、ピアノ:中山晋平・服部駟郎次、ヴァイオリン:多基永などがいる。 テノール歌手として、日本で最初の四重唱団「澤崎クヮルテット」名義の演奏記録もある(ソプラノ:武岡鶴代、アルト:柳兼子、テノール:澤崎、バス:矢田部勁吉)。
五坪 茂雄(ごつぼ しげお、1889年5月17日 - 196… 五坪 茂雄(ごつぼ しげお、1889年5月17日 - 1961年9月1日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 滋賀県東浅井郡朝日村(のち湖北町、現・長浜市)出身。1912年滋賀県師範学校(現・滋賀大学教育学部)卒。石川県立羽咋中学校(現・石川県立羽咋高等学校)、同松任農学校(のち石川県立松任農業高等学校、現・石川県立翠星高等学校)、同津幡農学校(現・石川県立津幡高等学校)、石川県立青年師範学校(現・金沢大学教育学部、1944年4月 - 1946年)各校長、松任実業補習学校教員養成所長などを歴任する。ほか芦田内閣逓信政務次官、西武鉄道(株)常任監査役、近江鉄道(株)取締役となる。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
鳥居 菊造(とりい きくぞう、1889年5月15日 - 19… 鳥居 菊造(とりい きくぞう、1889年5月15日 - 1975年10月31日)は、日本の経営者。相模鉄道社長を務めた。 千葉県君津市出身。1915年に鉄道院に入省し、1917年に中央大学法科を卒業。 1934年に退官し、東京高速鉄道での勤務を経て、1942年6月に相模鉄道専務に就任し、1948年12月に副社長を経て、1959年11月に社長に就任。1965年11月から1970年7月までに会長を務めた。 1961年に運輸大臣表彰を受け、1962年に藍綬褒章を受章し、1965年に勲四等瑞宝章を受章。 1975年10月31日、心不全のために死去。86歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
阪谷 希一(さかたに きいち、1889年(明治22年)5月1… 阪谷 希一(さかたに きいち、1889年(明治22年)5月15日 - 1957年(昭和32年)11月6日)は、日本の華族、政治家。貴族院子爵議員、満洲国総務庁次長。父親は元大蔵大臣で子爵の阪谷芳郎。母方の祖父は渋沢栄一。 大蔵官僚阪谷芳郎と妻の阪谷琴子の長男として生まれる。母方の祖父に渋沢栄一。 第二高等学校を経て、東京帝国大学法科大学政治科に入学。在学中に高等文官試験に合格し、1914年(大正3年)に卒業した。卒業後は日本銀行に勤務し、本店、名古屋支店を経て、1920年(大正9年)からはロンドン支店に赴任した。1924年(大正13年)日銀を退職し、関東庁に転じ、事務官・財務部財務課長として旅順に赴任。
花川 環(はながわ たまき、1889年5月15日 - 没年不… 花川 環(はながわ たまき、1889年5月15日 - 没年不詳)は、日本の元女優。三重県南牟婁郡木本町(現:熊野市)出身。本名は勝見 みね子(旧姓・島田 みね子)。夫は俳優の勝見庸太郎である。 旅劇団一座の女優であったが、大正10年(1921年)に松竹蒲田にスカウトされ入社。同年『黒き潮(死刑囚の娘)』で映画デビューする。代表作は『母いづこ』『マイフレンド』など。当時は母親役や年配の婦人の役が多かった。 大正12年(1923年)頃に同所属俳優の勝見庸太郎と結婚し、女優業を引退。その後は勝見とともに勝見庸太郎プロダクションを設立し、彼の映画制作・監督業を支えた。 没年月日は伝わっていないが、夫の勝見庸太郎の死去(1962年)以前には既に亡くなっているという。
釋迦ヶ嶽 庄太郎(しゃかがたけ しょうたろう、1889年5月… 釋迦ヶ嶽 庄太郎(しゃかがたけ しょうたろう、1889年5月15日 - 1966年7月18日)は、山形県山形市釈迦堂出身で山科部屋、出羽海部屋に所属した力士。本名は川鰭 庄太郎(旧姓富塚)。8代山響。174cm、90kg。最高位は西前頭3枚目。 1906年1月初土俵。当初は最上山を名乗ったが、出身地の釈迦堂から釋迦ヶ嶽と改名した。目立つ力士ではなかったが力が強かった。1913年1月十両昇進。1914年5月入幕し、平幕を上下した。1917年1月場所千秋楽に鳳から小手投げで金星を獲得。現役時代に元十両・嶽ノ越の山響の未亡人と結婚。1922年1月十両に陥落し、ここで負け越したのを最後に引退し、山響を襲名。
西尾 実(にしお みのる、1889年5月14日 - 1979… 西尾 実(にしお みのる、1889年5月14日 - 1979年4月16日)は、日本の国文学者・国語教育学者・国語学者。 1889年、長野県下伊那郡豊村和合(現・阿南町)に生まれた。1910年に長野師範学校(現・信州大学教育学部)を卒業後、長野県内の尋常高等小学校で教師を務めた。その後東京帝国大学国文科選科を修了。 修了後は、東京女子大学教授、法政大学教授を務めた。戦後は文部官僚の釘本久春と協力して国語改革の主導者となり、1949年に国立国語研究所の初代所長に就任した。1960年、学位論文『日本文芸史における中世的なものとその展開』を法政大学に提出して文学博士号を取得。 専門は日本の中世文学で、世阿弥の能楽のほか、『徒然草』や『正法眼蔵』などに多くの業績を残した。
欧陽 予倩(おうよう よせん、1889年5月12日—1962… 欧陽 予倩(おうよう よせん、1889年5月12日—1962年9月21日)は、中華民国·中華人民共和国の劇作家、俳優。湖南省瀏陽県出身。 1889年5月12日、湖南省瀏陽県に生まれた。東京振武学校·明治大学·早稲田大学卒業。1907年日本滞在中に春柳社に加わる。辛亥革命後帰国し、引き続き春柳社に参加。春柳社解散後は、広東戯劇研究所(広州)、広西芸術館(桂林)などで演劇(話劇)活動を続ける。また京劇俳優としても活躍する。1920年代後半からは映画監督、脚本家としても活動した。 中華人民共和国建国後1950年4月、中央戯劇学院院長(逝去まで)。中国文学芸術界連合会副主席。中国戯劇家協会副主席。中国舞踏家協会主席。
石川 栄一(榮一、いしかわ えいいち、1889年(明治22年… 石川 栄一(榮一、いしかわ えいいち、1889年(明治22年)5月10日 - 1976年(昭和51年)5月30日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。参議院議員。 埼玉県榛沢郡新会村(大里郡豊里村を経て現深谷市)で、石川浅次郎の息子として生まれる。1905年(明治38年)群馬県立伊勢崎染織学校(現群馬県立伊勢崎工業高等学校)を卒業した。さらに神田正則英語学校(現正則学園高等学校)で学んだ。 1918年(大正7年)新会村会議員に選出され5期在任。1938年(昭和13年)埼玉県会議員に当選し3期在任して、同副議長も務めた。その他、民主党埼玉県支部幹事長、自由党埼玉県支部副支部長などを務めた。 1950年(昭和25年)6月の第2回参議院議員通常選挙で全国区から自由党公認で立候補して当選し、参議院議員に1期在任した。
松前 勝広(まつまえ よしひろ、1889年〈明治22年〉5月… 松前 勝広(まつまえ よしひろ、1889年〈明治22年〉5月10日 - 1940年〈昭和15年〉8月2日)は、明治時代から昭和時代前期の子爵。旧松前藩(館藩)松前氏の第20代当主。父は松前修広。妻は大藪房次郎(実業家、衆議院議員)の三女・スカ。子に松前正広(長男)、松前之広(次男)がいる。 明治38年(1905年)4月、父・修広が亡くなったため家督を継承する。明治44年(1911年)3月、学習院高等学科を卒業。大正10年(1921年)8月創立の帝国土地開拓(虚業企業として知られる)の取締役に就任。その後、養老信託(九条道孝の三男で男爵の九条良致が社長を務める会社で詐欺事件で知られる)監査役、東洋土地開拓取締役を務める。
太田 哲三(おおた てつぞう、1889年(明治22年)5月8… 太田 哲三(おおた てつぞう、1889年(明治22年)5月8日 - 1970年(昭和45年)7月4日)は日本の会計学者、公認会計士。一橋大学名誉教授、元・中央大学教授。商学博士(一橋大学)。監査法人太田哲三事務所(EY新日本有限責任監査法人の前身)の創設者で、日本公認会計士協会の初代会長。実業界では長浜ゴム工業(のちの三菱樹脂)社長を2年間務め、その後は三菱化成(三菱ケミカルホールディングスの前身)監査役を最晩年まで務めた。従三位・勲二等瑞宝章。 弟子に番場嘉一郎(一橋大学名誉教授)・黒澤清(横浜国立大学名誉教授)・岩田巌(元一橋大学教授)・不破貞春(元明治大学教授)・飯野利夫(一橋大名誉教授)・山邊六郎(元横浜国立大学教授)・井上達雄(中央大学名誉教授)・新井益太郎(成蹊学園名誉理事、成蹊大学名誉教授)・関口重之(元青山学院大学教授)等がいる。
横山 昊太(よこやま こうた、1889年(明治22年)5月8… 横山 昊太(よこやま こうた、1889年(明治22年)5月8日 - 1974年(昭和49年)7月20日)は、岡山県岡山市旭町出身のジャーナリスト、政治家。岡山新聞社長。旧姓・佐藤。位階は正五位。 1889年5月8日、岡山市旭町に生まれる。佐藤武一郎の二男。1916年、横山家の養子となる。1919年、早稲田大学専門部政治経済科を卒業、同年、中国民報(現・山陽新聞)へ入社。記者として働く。岡山毎夕新聞、岡山新聞各社長をつとめた。 1921年、岡山市会議員となる。1925年、憲政会岡山支部を創設。その後、市会議長、岡山県会議員を務める。 1951年、岡山市長に当選。1955年まで1期務める。 退任後は、岡山市政顧問、三恵工業会長を歴任した。
坂本 真琴(さかもと まこと、1889年5月7日 - 195… 坂本 真琴(さかもと まこと、1889年5月7日 - 1954年7月15日)は、大正から昭和初年にかけて婦人参政権運動を推し進めた婦人運動家。旧姓は高田。高田常三郎と妻みよのクリスチャンの家庭の長女として生れる。本名は「まこ」(正式には変体仮名を用いて「ま」と表記する)。妹の高田敏子は日本の女子・英語教育のパイオニア。 静岡県田方郡三島町(現在の三島市)出身。一家が神奈川県横浜に移住したため、共立女学校(現在の横浜共立学園)に学び、英文速記者になる。1911年(明治44年)頃、坂本勇吉(染料輸入販売業)と出会い同棲生活を開始、やがて長女出生。この年に発刊した雑誌『青鞜』(せいとう)創刊号の平塚らいてうの巻頭言「元始、女性は太陽であつた――青鞜発刊に際して」に感銘を受けた真琴は、1913年(大正2年)に青鞜社へ入社。
柳田 宗一郎(やなぎだ そういちろう、1889年(明治22年… 柳田 宗一郎(やなぎだ そういちろう、1889年(明治22年)5月7日 - 1933年(昭和8年)6月18日)は、衆議院議員(立憲民政党)、弁護士、検事。 茨城県筑波郡葛城村(のち谷田部町を経て、現在のつくば市)出身。1912年に中央大学を卒業し、同年、判事検事弁護士試験に合格。翌年から弁護士業務に従事した。1923年に検事に任命され、1926年に退官するまでの間に、青森区裁判所兼青森地方裁判所検事、大館区裁判所兼秋田地方裁判所検事、仙台地方裁判所検事を歴任した。 退官後は再び弁護士業務を行っていたが、1929年に東京市会議員に立候補し、当選した。さらに1932年の第18回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
鍋島 直縄(なべしま なおただ、1889年5月6日 - 19… 鍋島 直縄(なべしま なおただ、1889年5月6日 - 1939年4月29日)は日本の政治家、実業家、華族。
佐藤 哲三郎(さとう てつさぶろう、1889年〈明治22年〉… 佐藤 哲三郎(さとう てつさぶろう、1889年〈明治22年〉5月5日 - 1958年〈昭和33年〉12月31日)は、日本の洋画家。 新潟県新潟市寄居町(現 新潟市中央区寄居町)の教育者・佐藤荘松の三男として出生。 1907年(明治40年)3月に新潟中学校を卒業、1912年(明治45年)3月に東京美術学校西洋画科を卒業。 1912年(大正元年)10月の第6回文展で『化粧』により三等賞を受賞、1913年(大正2年)4月の第3回東京勧業展覧会で『紅き燈』により二等賞を受賞。 二科会の創立会員となるが、文展、帝展にも出品し続けた。 1920年(大正9年)3月に東京美術学校の同期の萬鉄五郎、神津港人、熊岡美彦、片多徳郎、斎藤素巌らと14人で美術団体の四十年社を結成、1929年(昭和4年)2月に青山熊治らと第一美術協会を創立。
島田 退蔵(しまだ たいぞう、1889年〈明治22年〉5月4… 島田 退蔵(しまだ たいぞう、1889年〈明治22年〉5月4日 - 1970年〈昭和45年〉2月22日)は、日本の国文学者。第三高等学校の最後の校長。 新潟県新潟市一番堀通町(現 新潟市中央区一番堀通町)の弁護士・島田脩三の次男として出生。 1907年(明治40年)3月に新潟中学校を卒業、1910年(明治43年)7月に第三高等学校を卒業、1913年(大正2年)7月に京都帝国大学文科大学文学科(国文学専攻)を卒業。 1914年(大正3年)4月に島根県立浜田中学校教諭に就任、1917年(大正6年)7月に公立中学校教諭に任官(高等官)、引き続き島根県立浜田中学校に勤務、1920年(大正9年)10月に第三高等学校教授に任官。
楠目橙黄子(くすめ とうこうし、1889年(明治22年)5月… 楠目橙黄子(くすめ とうこうし、1889年(明治22年)5月4日 - 1940年(昭和15年)5月8日)は俳人。 高知県高知市生まれ。本名は省介。間組に勤め、1936年朝鮮支店長。1909年ごろより句作。「ホトトギス」に投句。句集に『橙圃』(とうほ)。高浜虚子の朝鮮旅行、熊野旅行に同道した。「京城日報」俳壇の選者も務めた。墓所は多磨霊園(15-1-6-1) 代表句「焚火人面罵に耐えてゐたりけり」。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
野坂 寛治(のさか かんじ、1889年(明治22年)5月2日… 野坂 寛治(のさか かんじ、1889年(明治22年)5月2日 - 1965年(昭和40年)4月1日)は、日本の政治家。米子市長、境町長、鳥取県会議員。米子市名誉市民。位階は従五位。 衆議院議員を務めた野坂茂三郎の長男。米子市長野坂康夫、康夫の祖父野坂康久とは姻戚関係にある。 米子・法勝寺町の商家(呉服商)野坂家の長男として生まれた。父は茂三郎、母はたみの。 幼い頃は乳母の手で育てられ“野坂のぼんち”で大きくなった。 野坂家が繁栄したのは父・茂三郎の代で、およそ明治20年代から大正の半ば頃に及んでいる。 1902年(明治35年)、角盤高等小学校から米子中学(現在の米子東高校)に進んだ。 1907年(明治40年)に米子中学を卒業。