次田 潤(つぎた うるう、1884年(明治17年)4月26日… 次田 潤(つぎた うるう、1884年(明治17年)4月26日 - 1966年(昭和41年)4月9日)は、日本文学者。岡山県出身。田村剛の兄。
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次田 潤(つぎた うるう、1884年(明治17年)4月26日… 次田 潤(つぎた うるう、1884年(明治17年)4月26日 - 1966年(昭和41年)4月9日)は、日本文学者。岡山県出身。田村剛の兄。
田村 俊子 (たむら としこ、1884年(明治17年)4月2… 田村 俊子 (たむら としこ、1884年(明治17年)4月25日 - 1945年(昭和20年)4月16日) は、日本の小説家。別名、佐藤露英、佐藤俊子、本名、佐藤とし。東京府東京市浅草区蔵前町(現在の東京都台東区蔵前)生れ。東京府立第一高等女学校卒業、日本女子大学校国文科中退。代表作は『木乃伊(みいら)の口紅』、『炮烙(ほうらく)の刑』など。官能的な退廃美の世界を描き、人気を得た。没後、田村俊子賞が創設された。
櫻澤千藏(さくらざわ せんぞう、1884年4月23日 - 1… 櫻澤千藏(さくらざわ せんぞう、1884年4月23日 - 1949年7月7日)は、日本の実業家。日東製粉(現・日東富士製粉)元社長。 埼玉県児玉郡東児玉村で生まれる。旧制埼玉県立熊谷中学校を経て、中央大学卒業。その後、北海タイムス記者となり活躍する。1908年、埼玉公論を主宰し埼玉公論社長となる。 1912年、松本米穀製粉会社に入社し支配人を経て、取締役となる。満州北支の治安回復とともに事業の大陸進出を進める中心人物となり日東製粉を、三大製粉会社といわれるまで成長させる。1948年、日東製粉社長となる。青柳製作所専務取締役。 郷里の埼玉県新井村に、農民武徳殿や農場を寄付し、熊谷市の小学校跡に児童公園をつくるなど篤行の紳士としても知られる。
牧野 信之助(まきの しんのすけ、1884年4月23日 – … 牧野 信之助(まきの しんのすけ、1884年4月23日 – 1939年9月25日 )は、日本の歴史家。専門は日本中世の社会経済史。 福井県に生れる。1903年、福井県立武生中学校を卒業する。尋常高等小学校の代用教員を務めたのち、1906年、広島高等師範学校雇となり図書館に勤務し、内田銀蔵に師事するようになる。内田が京都帝国大学に転じると、牧野も1908年4月に京都帝国大学文科大学雇として国史研究室勤務となり、同年9月には助手となる。 1909年に京都帝国大学史学科選科に入学し、1912年に修了。同年10月に石川県立師範学校教諭となり、1916年に福井県史編纂主任になる。以後、滋賀県史編纂主任、堺市史編纂長、北海道史編纂長、大津市史編纂監修、福井県今立郡岡本村の村史編纂顧問などを務め、また1933年から京都帝国大学文学部講師も務めた。
尾澤 虎雄(おざわ とらお、1884年4月22日 - ?)は… 尾澤 虎雄(おざわ とらお、1884年4月22日 - ?)は、日本の実業家。旧姓は倉澤(くらさわ)。姓の「澤」は「沢」の旧字体であるため、尾沢 虎雄(おざわ とらお)とも表記される。 株式会社尾澤組を経て片倉製糸紡績株式会社に勤務し、薩摩製糸株式会社専務取締役、松江片倉製糸株式会社監査役、尾澤組合名会社社員、長崎製糸株式会社専務取締役、佐賀県是蚕業株式会社専務取締役、株式会社富岡製糸所工場長、片倉製糸紡績株式会社片倉富岡製糸所工場長、朝鮮生糸株式会社取締役などを歴任した。 1884年4月22日、倉澤淸人の二男として長野県で生まれた。実業家である尾澤福太郞の長女と結婚することになり、それに伴い福太郞の養子となった。
山下 紅畝(やました こうほ、1884年〈明治17年〉4月2… 山下 紅畝(やました こうほ、1884年〈明治17年〉4月20日 - 1977年〈昭和52年〉10月25日)は、女流日本画家。日本画会会員。多くの日本画を描き残すと共に、多くの弟子を育成することで、郷里の香川県の日本画壇に貢献した人物である。本名は山下くら、または山下久良子。旧姓は中田。 香川県那珂郡丸亀葭町(現・丸亀市葭町)で誕生した。高松高等女学校(現・香川県立高松高等学校)を卒業後、女子高等教育への進学率が0.1%という時代にあって、東京女子高等師範学校へ進学。1906年(明治39年)に同校を卒業後に、奈良女子高等師範学校で教員として勤めた。 1907年(明治40年)、東京女子高等師範学校の研究課程技芸科に入学した。
田嶋 栄次郎(たじま えいじろう、1883年〈明治16年〉5… 田嶋 栄次郎(たじま えいじろう、1883年〈明治16年〉5月20日 - 1952年〈昭和27年〉5月11日)は、日本の陸軍軍人。階級は陸軍中将。衆議院議員。 愛知県渥美郡高豊村(現在の豊橋市)出身。1905年(明治38年)、陸軍士官学校を卒業。その後、陸軍大学校を卒業し、第六高等学校勤務、歩兵第41連隊長、麻布連隊区司令官、第5師団司令部附、歩兵第33旅団長を歴任した。1938年(昭和13年)、陸軍中将に昇進し、下関要塞司令官を務めた。1939年(昭和14年)、予備役に編入。 1942年(昭和17年)、第21回衆議院議員総選挙に出馬し、翼賛政治体制協議会の推薦を受け当選を果たした。そのため、1946年(昭和21年)に公職追放となった。
三浦 虎雄(みうら とらお、1883年(明治16年)5月19… 三浦 虎雄(みうら とらお、1883年(明治16年)5月19日 - 1957年(昭和32年)1月14日)は、日本の政治家、厚生政務次官。衆議院議員(立憲民政党→国民同盟→東方会)、延岡市長を歴任した。 宮崎県東臼杵郡恒富村(現在の延岡市)出身の軍医監・衆議院議員三浦得一郎の長男として生まれる。1901年(明治34年)福岡県立中学修猷館を経て、1909年(明治42年)京都帝国大学法科大学政治学科を卒業し、外務省嘱託を経て、1910年(明治43年)に海軍主計中尉に任官した。1925年(大正14年)、主計中佐で予備役となる。その間、日独戦争、シベリア出兵に従軍した。 1928年(昭和3年)、第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
斎藤 直橘(さいとう なおきつ / なおき、1883年(明治… 斎藤 直橘(さいとう なおきつ / なおき、1883年(明治16年)5月18日 - 1953年(昭和28年)10月20日)は、日本の政治家、内務官僚。衆議院議員、福井県知事、福井市長。 宮城県出身。斎藤忠治郎の三男として生まれる。山口高等学校を経て、1909年、東京帝国大学法科大学を卒業。1911年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1912年、内務省に入り警視庁見習となる。以後、徳島県理事官、福井県理事官、大阪府理事官、茨城県警察部長、奈良県書記官・内務部長、富山県書記官・内務部長などを歴任。 1930年8月、福井県知事に就任。1931年12月18日まで在任して休職し、同月24日に依願免本官となり退官した。
堀川 美哉(ほりかわ よしや、1883年(明治16年)5月1… 堀川 美哉(ほりかわ よしや、1883年(明治16年)5月17日 - 1963年(昭和38年)6月22日)は、衆議院議員(立憲国民党→立憲民政党)。津市長。 三重県名賀郡比奈知村(現在の名張市)出身。旧制三重県立津中学(現・三重県立津高等学校)を経て、1908年(明治41年)、早稲田大学大学部政治経済科を卒業。『東京日日新聞』記者となり、また一年志願兵として陸軍三等主計に任じられ、さらにアメリカ合衆国のコロンビア大学、イギリスのロンドン大学に留学した。 1917年(大正6年)、第13回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 1922年(大正11年)から1927年(昭和2年)まで『中外商業新報』記者を務めた。
別府 総太郎(べっぷ そうたろう、1883年(明治16年)5… 別府 総太郎(べっぷ そうたろう、1883年(明治16年)5月17日 - 1931年(昭和6年)5月16日)は、日本の内務官僚。官選県知事。 山口県豊浦郡滝部村(豊北町を経て現下関市豊北町大字滝部)出身。別府玄三の二男として生まれる。第一高等学校を経て、1909年(明治42年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1911年(明治44年)11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入り福岡県試補となる。 以後、福岡県理事官、群馬県理事官兼視学官、内閣書記官兼国勢院書記官、法制局参事官、拓殖事務局長などを歴任。 1924年6月、島根県知事に就任。1926年9月、奈良県知事に転じた。1927年5月、栃木県知事に就任。
小村 欣一(こむら きんいち、1883年〈明治16年〉5月1… 小村 欣一(こむら きんいち、1883年〈明治16年〉5月13日 - 1930年〈昭和5年〉12月29日)は、大正・昭和初期の外交官、貴族院議員、華族(侯爵)。 明治期の外交官、小村寿太郎の長男として生まれた。母は幕臣朝比奈孝一の娘、マチ(町子)である。欣一の生まれる少し前、祖父(寿太郎の父)の寛が宮崎県で経営していた飫肥商社が倒産し、小村一家は莫大な借金をかかえた。そのため、父寿太郎が外務省翻訳局長の職にありながらも、小村家の生活は逼迫しており、幼い欣一は栄養不足のため夜盲症に罹ったといわれる。 欣一は日本中学、一高を経て、1907年(明治40年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業した。
松尾 四郎(まつお しろう、1883年(明治16年)5月12… 松尾 四郎(まつお しろう、1883年(明治16年)5月12日 - 1958年(昭和33年)7月17日)は、明治末から昭和前期の政治家、実業家。衆議院議員(5期)、奈良県宇陀郡松山町長(3期)、同郡大宇陀町長(1期)。 奈良県宇陀郡松山上中町(松山町大字上中、大宇陀町を経て現宇陀市大宇陀上中)で、林業・松尾徳三郎の二男として生まれた。1903年(明治36年)大阪府立北野中学校(現大阪府立北野高等学校)を卒業し、大和銀行(現南都銀行)に入行した。1909年(明治42年)奈良水力電気の創立に参画した。1911年(明治44年)9月、家督を相続した。奈良県農会議員、宇陀郡農会長、同教育会長に就任。実業界では、大和銀行監査役、大和電気専務取締役、大正水力電気取締役、宇治川電気取締役、三芳索道取締役、信貴生駒電気鉄道(のち信貴生駒電鉄)取締役、奈良県農工銀行取締役、南都銀行取締役、大和貯蓄銀行取締役、吉野銀行監査役、奈良信託監査役、新日本工業取締役、松尾合名会社代表社員などを務めた。
長谷川 清(はせがわ きよし、1883年〈明治16年〉5月7… 長谷川 清(はせがわ きよし、1883年〈明治16年〉5月7日 - 1970年〈昭和45年〉9月2日)は、日本の海軍軍人。最終階級は正三位勲一等功一級海軍大将。第18代台湾総督。福井県足羽郡社村(現:福井市)出身。 医師・長谷川次仲の次男。海軍を志したのは福井中学校4年在学中のこと で、退学し正則英語学校に転校。この年海軍兵学校第31期に入校した。席次は入校時196名中7番、卒業時は173名中6番。福井中学以来の同級生に津田静枝海軍中将と東林岩次郎海軍少将がいる。両者とも長谷川が中国方面で活躍する前に既に第一線から引退していたが、津田は海軍士官としては珍しく中国在勤が長く、少将時代以降は第2遣外艦隊や駐満海軍部など駐留部隊の司令官を歴任した。
谷口 源十郎(たにぐち げんじゅうろう、1883年〈明治16… 谷口 源十郎(たにぐち げんじゅうろう、1883年〈明治16年〉5月7日 - 1979年〈昭和54年〉11月21日)は、日本の実業家、政治家、鳥取県多額納税者。衆議院議員(当選2回)。鳥取銀行取締・相談役。 鳥取県岩美郡大路村(のち岩美郡米里村東大路、現・鳥取市東大路)の豪農の家に生まれた。谷口竫晃の長男。1902年、鳥取県立鳥取中学校(現・鳥取県立鳥取西高等学校)卒業。農業を営む。 鳥取税務署管内所得調査委員、広島税務署監督局管内所得審査委員、鳥取県議、米里村議、岩美郡農会長、鳥取県農会議員となる。因伯産業社長、大正鳥取銀行取締役、鳥取新報社監査役、鳥取県米穀会副会長、鳥取銀行頭取、鳥取大丸取締役となる。
清水 茂松(しみず しげまつ、1883年(明治16年)5月6… 清水 茂松(しみず しげまつ、1883年(明治16年)5月6日 - 1971年(昭和46年)8月31日)は、日本の小児科医師。1910年(明治43年)東京帝国大学医科大学を卒業し、1920年(大正9年)、医学博士となった。1952年(昭和27年)には東京医科大学学長となる。1966年(昭和41年)に勲三等旭日中綬章を受章した。 石川県金沢市出身。旧加賀前田藩家老村井家典医家に生まれる。明治44年、母校の小児科学教室に入る。小児の栄養に関する研究が学会で注目された。大正4年、日本医学専門学校(現日本医科大学)教授となる。後の東京医科大学ならびに東京医学専門学校の前身である東京医学講習所開設以来、小児科学を講義、東京医学専門学校の創立に貢献した。
中井 連(なかい れん、旧姓・大町、1883年〈明治16年〉… 中井 連(なかい れん、旧姓・大町、1883年〈明治16年〉5月6日 - 没年不明)は、日本の政治家(神戸市会議員、西灘村会議員)、内外科医師、実業家。摩耶山社長。 岡山県勝田郡勝田村(のち勝田町、現美作市)出身。大町助太郎の四男。1905年、大阪慈恵病院医学校卒業。任陸軍三等軍医。1907年、中井淳の養子となり、1922年、家督を相続した。 東京帝国大学医学部選科を修業あるいは卒業、開業した。医師であり、中井病院を経営した。兵庫県衛生防疫官、摩耶山社長などを務めた。 大政翼賛会市支部協力会議員である。宗教は真宗。趣味は謡曲。兵庫県在籍で、住所は神戸市灘区稗田町、同区灘北。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
黒田 泰造(くろだ たいぞう、1883年5月5日 - 196… 黒田 泰造(くろだ たいぞう、1883年5月5日 - 1961年10月7日)は、日本の化学者、発明家。 大阪府出身。1906年(明治39年)に東京帝国大学工科応用化学科を卒業した。その後、製鉄所に入所した。1909年(明治42年)に技師となった。1923年(大正12年)に副産部長となった。1928年(昭和3年)に九州帝国大学の教授を兼任した。1934年(昭和9年)に日本製鐵の取締役に就任した。 1933年に帝国発明協会の全国発明表彰により、大賞が授与されている。 1940年には工業化学会の会長を務めた。大日本窯業協会の会長も務めた。
東三条 実敏(東三條、ひがしさんじょう さねとし、1883年… 東三条 実敏(東三條、ひがしさんじょう さねとし、1883年5月5日 - 1935年3月13日)は、明治から昭和期にかけての華族。正四位、男爵。 太政大臣などを務めた三条実美の養嗣子三条公恭の長男として生まれた。1886年、浪費癖などにより公恭が廃嫡処分となったため、実美の実子で分家の東三条家を興していた公美が三条家の嗣子となった。このため、実敏は公美の養嗣子になって東三条家を継ぎ、幼いながらも襲爵した。実父公恭は東三条家の厄介となったが、後に平民籍に編入されている。1908年、明治大学法律科卒業。
阿部 美樹志(あべ みきし、1883年5月4日 - 1965… 阿部 美樹志(あべ みきし、1883年5月4日 - 1965年2月20日)は、日本の建築家および土木技術者。旧姓は菅原。大正から昭和時代にかけて活躍した。日本最初の鉄筋コンクリート高架鉄道の設計者。通称コンクリート博士。日本の鉄筋コンクリート工学の開祖。また、阪急阪神東宝グループの建物、RC造の多くの構造物、建築物をつくり続けた。アメリカで鉄筋コンクリート構造学を修めた後も研究を続け、鉄道省での仕事、旧日比谷映画などの娯楽施設、工場建築などの設計に活かす。戦後は戦災復興院総裁として、住宅供給の甚本施策を提示した。勲二等瑞宝章受章。 岩手県一関市生まれ。岩手県一関尋常中学校(一回生)時代には、一関尋常高小学校から岩手県一関尋常中学校二年に編入を許され、三段跳びで三年生に進んだ浅利三朗と首席を争う。
川村 多実二(かわむら たみじ、1883年5月4日 - 19… 川村 多実二(かわむら たみじ、1883年5月4日 - 1964年12月16日)は、日本の動物学者。岡山県津山市出身。河川・湖沼を含む淡水域の生物学を創始。動物生態学や動物心理学などが研究の中心で、多くの研究者を育成したが、一般には鳥類の研究でより知られている。日本野鳥の会京都支部初代支部長でもあり、京都大学総合博物館や大阪市立自然史博物館には、川村が収集した日本周辺産と北米産の鳥類コレクションなどが所蔵されている。実兄は植物学者(キノコが中心)の川村清一。実弟は生理学者の福田邦三。 日本陸水学会の第2代会長も務め、名誉会員にもなっている。なお「陸水」という言葉は、海水を除く湖水や河水、地下水などの総称として川村が提唱した造語である。
佐々木 邦(ささき くに、1883年(明治16年)5月4日 … 佐々木 邦(ささき くに、1883年(明治16年)5月4日 - 1964年(昭和39年)9月22日) は日本の作家、英文学者。弟・順三は立教大学総長。
須藤 素(すどう もと、1883年(明治16年)5月1日- … 須藤 素(すどう もと、1883年(明治16年)5月1日- 1962年(昭和37年)12月16日)は、朝鮮総督府官僚。福島県若松(現在の会津若松市)市長。 福島県出身。1907年(明治40年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、高等文官試験に合格した。統監府属・大蔵属、統監府書記官、朝鮮総督府事務官、総督官房土木課長、参事官、営林庁長などを歴任した。1926年(大正15年)、慶尚北道知事に任命され、1929年(昭和4年)に慶尚南道知事に転じた。 退官後の1933年(昭和8年)に若松市長に就任。 市長退任後は朝鮮無煙炭株式会社監査役を務めた。
岡田 伊平(おかだ いへい、1883年〈明治16年〉5月1日… 岡田 伊平(おかだ いへい、1883年〈明治16年〉5月1日 - 没年不明)は、日本の商人(綿布商)、実業家。泉州瓦斯社長。岸和田呉服、岸和田タオル商会、寺田銀行、和泉織物、東洋製鋼各取締役。マンジ堂製菓監査役。岸和田本町郵便局長。旧姓は北野。族籍は大阪府平民。 大阪府泉南郡麻生郷村大字海塚(現・貝塚市)出身。北野弥之助の弟。岡田伊平の養子となる。1905年、家督を相続し、旧名泰一を改める。父業を継ぎ綿布商を営む。傍ら会社の重役である。 住所は岸和田市本町。 岡田家は古くより泉州岸和田に定住し、代々八百屋を渡世としていたが、先代伊平に至り綿布商に転じた。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
植松 練磨(うえまつ とうま、1883年4月30日 - 19… 植松 練磨(うえまつ とうま、1883年4月30日 - 1948年8月22日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍少将。衆議院議員。 福島県相馬郡鹿島町(現・福島県南相馬市)出身。安積中学を経て1905年11月、海軍兵学校(33期)を卒業し、1906年12月、海軍少尉任官。海軍大学校乙種、海軍水雷学校高等科を卒業。 第11艇隊・第9艇隊・第2艇隊の各艇長、水雷学校教官を経て、第2特務艦隊司令部付、「樫」駆逐艦長として第一次世界大戦に従軍。地中海で連合国艦船の護衛任務に従事した。帰国後横須賀鎮守府付、水雷学校特修科学生、「矢風」「駒橋」の各艦長、「浅間」副長、海兵教官などを歴任し、1925年12月、海軍大佐に進級した。
河内 源一郎(かわち げんいちろう、1883年4月30日 -… 河内 源一郎(かわち げんいちろう、1883年4月30日 - 1948年3月31日)は、日本の官僚、科学者、実業家。 「河内菌」の発見により焼酎の品質を飛躍的に向上させた近代焼酎の父。広島県深津郡吉津村(現・福山市吉津町)生まれ。 河内は、代々続く醤油屋の家に生まれた。幼少期から麹や醪に馴染み、広島県立福山中学(現・福山誠之館高校)を経て大阪高等工業醸造科(現・大阪大学工学部発酵工学科)を卒業。家業が不振となったため、1909年に大蔵省入りし、熊本税務監査局鹿児島工業試験場へ技師・酒の鑑定官として赴任した。同年秋、造り酒屋の技術指導員として訪れた巡視先で、鹿児島焼酎と出会う。当時の焼酎はとても不味く、また暑い時期はすぐに腐っていた。
三浦 実生(みうら じつお、1883年(明治16年)4月30… 三浦 実生(みうら じつお、1883年(明治16年)4月30日 - 1957年〈昭和32年〉11月8日)は、日本の農商務・内務官僚。官選県知事。 広島県西地方町(現・広島市中区)出身。三浦新平の二男として生まれる。山口高等学校を卒業。1905年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業後、大学院に進んだ。1907年11月、文官高等試験行政科試験に合格。農商務に入省し保険事務官補となる。 以後、山林事務官兼農商務書記官、林務官、山林局書記官兼農商務書記官、秋田大林区署長、農商務書記官兼同参事官、製鐵所理事、特許局次長、農商務省山林局長などを歴任。 1924年(大正13年)12月17日、山形県知事に就任。
清水 留三郎(しみず とめさぶろう、1883年〈明治16年〉… 清水 留三郎(しみず とめさぶろう、1883年〈明治16年〉4月28日 - 1963年〈昭和38年〉4月18日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党)、外務政務次官。 現在の群馬県前橋市大手町に生まれる。群馬県立前橋中学校を経て、1902年(明治35年)に早稲田大学法科を卒業した。その後渡米し、ワシントン大学とミネソタ大学で学び、法学修士の称号を得た。帰国後は関東産業新聞社長、上野新聞社専務、上毛機械合資会社代表社員、合資会社桜組支配人などを務めた。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に憲政会から出馬し、当選。第16回より立憲民政党に所属し、第21回に至るまで7回当選を果たす。
大賀 一郎(おおが いちろう、1883年〈明治16年〉4月2… 大賀 一郎(おおが いちろう、1883年〈明治16年〉4月28日 - 1965年〈昭和40年〉6月15日)は、日本の植物学者。勲等は勲三等瑞宝章。学位は理学博士。位階は正五位。 1883年(明治16年)岡山県賀陽郡庭瀬村(現・岡山市)に生まれる。 1901年(明治34年)岡山中学校を卒業するが、チフスにより進学を断念。1902年(明治35年)9月に第一高等学校二部に入学。第一高等学校卒業後は東京帝国大学理学部に入学。1909年(明治42年)に大学を卒業し大学院へ入学。大学院では植物細胞学を専攻し、そこでハスについての研究も始めた。学生時代に内村鑑三の影響により無教会主義のキリスト教に入信する。 1910年(明治43年)第八高等学校の講師となり、翌年に同校の生物学教授となる。
吉田 苞(よしだ しげる、1883年〈明治16年〉4月25日… 吉田 苞(よしだ しげる、1883年〈明治16年〉4月25日 - 1953年〈昭和28年〉4月27日)は、日本の洋画家。岡山県上道郡八幡村(後の上道郡宇野村大字八幡、現在の岡山市中区)生まれ。
鳥潟 右一(とりかた ういち、1883年4月25日 - 19… 鳥潟 右一(とりかた ういち、1883年4月25日 - 1923年6月6日)は、日本の工学者。明治から大正期の通信工学の権威である。無線電話機の発明に成功し、逓信省電気試験所長をつとめた。工学博士。 秋田県北秋田郡花岡村(現大館市)で酒造業を営む鳥潟平治の長男として生まれる。旧制第一高等学校を経て、1906年東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業。逓信省電気試験所に入所し、通信工学(特に無線通信)の研究に従事。当時、無線通信で主流であったコヒーラ検波器は通信距離が短いうえに安定しない問題があったが、1908年にタンタラム検波器を、1909年に鉱石検波器を発明し、飛躍的に無線通信機の性能を向上させた。
伊藤 勘助(いとう かんすけ、1883年(明治16年)4月2… 伊藤 勘助(いとう かんすけ、1883年(明治16年)4月23日 - 1966年(昭和41年)2月12日)は、明治から昭和時代前期の官僚、政治家、実業家。仙台鉄道局長、宇部市長、山陽急行バス社長、山口県公安委員長。 山口県大島郡久賀町(現・周防大島町久賀)出身。伊藤祥助の弟として生まれ、1921年(大正10年)分家する。1909年(明治42年)東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、鉄道院に出仕。1911年(明治44年)同院副参事、ついで参事書記官を経て、1927年(昭和2年)仙台鉄道局長に就任。 1931年(昭和6年)7月に官界を去り、民間に転じ、精養軒社長、宮城電燈顧問などを歴任する。1938年(昭和13年)7月30日、推挙され、第7代山口県宇部市長に就任し、続いて第8代市長を1946年(昭和21年)1月21日まで務めた。
安宅 安五郎(あたか やすごろう、1883年〈明治16年〉4… 安宅 安五郎(あたか やすごろう、1883年〈明治16年〉4月23日 - 1960年〈昭和35年〉9月1日)は、日本の洋画家。東京美術学校で藤島武二に師事。在学中に文部省美術展に入選し作品「靴屋」文部省買上。また大正8年に改組した第一回帝展で特選、続いて第二回帝展で特選となる。その後帝展、文展の審査員を度々務める。洋画だけでなく日本画も描く。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
河田 嗣郎(かわた しろう、1883年〈明治16年〉4月22… 河田 嗣郎(かわた しろう、1883年〈明治16年〉4月22日 - 1942年〈昭和17年〉5月21日)は、日本の経済学者。京都帝国大学経済学部教授を経て、大阪商科大学(現:大阪市立大学)初代学長。 山口県玖珂郡に地主・河田正輔の長男として生まれる。旧制山口中学・旧制山口高校(旧旧山高)を経て京都帝国大学法科大学を卒業、「恩賜の銀時計」を授与される。 卒業後国民新聞に入社するがすぐに京都帝大に戻って講師・助教授となり、欧米への留学後教授に昇進した。京大での経済学部独立に際しては同学部教授となり、社会政策学・農政学などを担当、学部長も務めた。同郷の出身で中学・高校でともに学び、京大法科・経済学部では同僚となった河上肇とは家族ぐるみの親交を結んだ。
久保 良英(くぼ よしひで、1883年4月22日 - 194… 久保 良英(くぼ よしひで、1883年4月22日 - 1942年11月12日)は、日本の心理学者。佐賀県出身。東京帝国大学心理学科卒。米国クラーク大学留学。1929年、広島文理科大学教授。精神分析やゲシュタルト心理学を紹介、ビネー式知能検査の標準化に貢献。 1916年 クラーク大学で Ph.D. 論文: "Some Aspects of Recent Child Study"、1923年 東京帝国大学で文学博士 主論文: "Psychology and Pedagogy of reading" 副論文:「幼児ノ言語ノ発達」。
三船 久蔵(みふね きゅうぞう、1883年〈明治16年〉4月… 三船 久蔵(みふね きゅうぞう、1883年〈明治16年〉4月21日 - 1965年〈昭和40年〉1月27日)は、日本の柔道家。段位は講道館柔道十段。大日本武徳会柔道範士。 身長159 cm、体重55 kg。小柄な体型ながら空気投げなどの新技をあみ出し、1945年(昭和20年)最高位の十段を授けられ名人の称を受ける。「理論の嘉納、実践の三船」といわれ、柔道創始者である嘉納治五郎の理論を実践することに力をいれたことから柔道の神様とあがめられた。出身地の岩手県久慈市に三船十段記念館が建てられた。 1883年(明治16年)岩手県九戸郡久慈町(のちの久慈市)に生まれる。久慈尋常高等小学校卒業後、郡役所に勤めるも数日で退職。
百済 文輔(くだら ぶんすけ / ふみすけ、1883年〈明治… 百済 文輔(くだら ぶんすけ / ふみすけ、1883年〈明治16年〉4月21日 - 1952年〈昭和27年〉8月4日)は、日本の内務・警察官僚、政治家。官選県知事、川崎市長、小倉市長。 山口県厚狭郡高千帆村(現山陽小野田市)出身。神職百済忠敬の息子として生まれる。山口高等学校を卒業。1908年、京都帝国大学法科大学政経学科を卒業。内務省に入省し山梨県属となる。1910年11月、文官高等試験行政科試験に合格した。 1911年3月、山梨県東山梨郡長に就任。1913年、関東都督府参事官となる。以後、大阪府事務官、三重県警察部長、群馬県内務部長、愛媛県内務部長、東京府産業部長、同書記官・内務部長、北海道庁内務部長など歴任。
今中 楓渓(いまなか ふうけい、1883年〈明治16年〉4月… 今中 楓渓(いまなか ふうけい、1883年〈明治16年〉4月20日 - 1963年〈昭和38年〉年8月17日)は、大正から昭和期の歌人。本名は今中 保次郎(旧姓は岩崎)。1935年(昭和10年)に東海林太郎の歌で大ヒットした「野崎小唄」の作詞者で知られる。 大阪府北河内郡生まれ。広島高等師範学校(現・広島大学)卒業。大阪府立八尾中学校(現・大阪府立八尾高等学校)在学時から作歌し、歌誌『詩歌』に参加。前田夕暮に師事した。 1907年(明治40年)に北河内郡樟葉村大字楠葉(現・枚方市南楠葉)の今中家を継いだ。 のちに『覇王樹』『林間』の同人となり、1931年(昭和6年)女性短歌誌『若葉』を主宰。大阪府立寝屋川高等女学校(現・大阪府立寝屋川高等学校)で教えながら、落語野崎詣りで有名な、北河内郡四条村大字野崎(現・大東市野崎)にある野崎観音参拝について詠んだ「野崎小唄」を東海林太郎が歌い大ヒットとなったため、「昭和歌壇の重鎮」とされている。
川村 驥山(かわむら きざん、1882年〈明治17年〉5月2… 川村 驥山(かわむら きざん、1882年〈明治17年〉5月20日 - 1969年〈昭和44年〉4月6日)は、日本の書家。日本芸術院会員。本名は川村慎一郎、別号に酔仏居士、酔驥、長嘯庵主人などがある。静岡県袋井市生まれ。 父は漢学者の川村東江。父より漢学を学び、書道を太田竹城に学んだ。 昭和の剣聖と言われた中山博道に書道を教えた。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
林 久男(はやし ひさお、1882年5月19日 - 1934… 林 久男(はやし ひさお、1882年5月19日 - 1934年12月2日)は、日本のドイツ文学者。 長野県出身。号は鴎南(おうなん)。1908年東京帝国大学文学部独文科卒。第七高等学校造士館 (旧制)、第二高等学校、第三高等学校教授を務める。ゲーテ研究のほか,演劇評論でも知られた。三高では文芸部長を務め、織田作之助,青山光二らの指導にあたった。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
宮本 英脩(みやもと ひでなが、1882年5月17日 - 1… 宮本 英脩(みやもと ひでなが、1882年5月17日 - 1944年4月22日)は、日本の刑法学者・裁判官。茨城県出身。 学説においては近代学派の立場に立つが、牧野英一の主観主義犯罪論が罪刑法定主義の解消の可能性さえ含んでいたのと異なり、可罰類型阻却原因という概念を立てて刑法の謙抑主義を強調した。弟子に前期旧派の立場に立つ佐伯千仭がいる。また、滝川事件のさいの「復帰組」教官の一人として知られる。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
白井 慶吉(しらい けいきち、1882年5月15日 - 19… 白井 慶吉(しらい けいきち、1882年5月15日 - 1985年6月2日)は、日本の牧師。日本基督教団第5代議長。クリスチャン政治家加藤勝弥の従兄。加藤俊子の甥にあたる。 廻船問屋白井勝太郎の3男として新潟に生まれる。1892年(明治5年)に両親が長老派の日本基督新潟教会(現・日本基督教団東中通教会)でキリスト教に入信すると、日本基督教会巡回牧師石原保太郎から長老派の幼児洗礼を受ける。 1899年(明治32年)に北越商興会付属新潟商業学校(現・新潟県立新潟商業高等学校)を卒業する。1899年の夏に信仰告白をし堅信礼を受け、日本基督新潟教会の日曜学校の教師になり、日曜学校で教える。1906年(明治39年)に上京し、東京神学社本科に入学し、植村正久の薫陶を受ける。
羽田 亨(はねだ とおる、1882年(明治15年)5月15日… 羽田 亨(はねだ とおる、1882年(明治15年)5月15日 - 1955年(昭和30年)4月13日)は東洋史学者。京都大学名誉教授。文化勲章受章者。 文学博士(京都帝国大学、1922年)。京都府峰山町(現・京丹後市)生まれ。
八代目 市川 團蔵(いちかわ だんぞう、1882年(明治15… 八代目 市川 團蔵(いちかわ だんぞう、1882年(明治15年)5月15日 - 1966年(昭和41年)6月4日)は歌舞伎役者。本名、市川銀蔵。屋号は三河屋。俳名に寿猿、三猿、市紅。東京生まれ。七代目市川團蔵の次男。 実母のはつが早くに家を出て他家に嫁いだため母親を知らずに育つ。父親の七代團蔵は芸の修業に厳しく、息子がうまくできないと冬でも庭の木に縛り付けて頭から水をかけることもあったという。1885年(明治18年)、本名の市川銀蔵の名で初舞台。芸修業のため小学校3年生までで退学する。1896年(明治29年)市川茂々太郎を襲名。主として子供芝居に活躍。1908年(明治41年)歌舞伎座『御存鈴ヶ森』の白井権八で、四代目市川九蔵を襲名。
磯川 勝彦(いそかわ かつひこ、1882年5月15日 - 没… 磯川 勝彦(いそかわ かつひこ、1882年5月15日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名磯貝 子之助(いそがい ねのすけ)、旧芸名磯川 元春(いそがわ もとはる)。 1882年(明治15年)5月15日、東京府東京市本郷区春木町(現在の東京都文京区本郷)に生まれる。父は「沢村源之助」で、磯川が数え年2歳(1883年)で父と死別している、とされるが、初代から三代目までの「沢村源之助」は江戸時代にすでに死去しており、四代目沢村源之助が亡くなったのは1936年(昭和11年)であり、そのとき磯川はすでに数え年55歳である。 数え年17歳のときには、父の遺志によって実業に就く。しかし磯川は演劇を志して「川上音二郎一座」に参加、翌1899年(明治32年)秋には、満17歳にして『当り的』で東京・新富座の舞台に立った。
三善 信房(みよし のぶふさ、1882年5月14日 - 19… 三善 信房(みよし のぶふさ、1882年5月14日 - 1965年4月4日)は、日本の政治家・農業指導者。衆議院議員(4期)。藍綬褒章、正四位勲二等瑞宝章受章。 三善信三郎の三男として現・熊本県上益城郡嘉島町に生まれた。1903年旧制熊本県立熊本中学校(現・熊本県立熊本高等学校)を卒業し、高等小学校に勤務した。 1919年、熊本県会議員選挙に立憲政友会公認で立候補し初当選、以後連続3期県会議員に当選した。県会議員時代は県参事会員も兼務した。1932年の第18回衆議院議員総選挙に県会選挙同様政友会公認で立候補し初当選、以降連続4回衆議院議員総選挙に当選した。中央政界に入ってからは馬政局参与等を務め、1939年の政友会分裂に際しては久原房之助や鳩山一郎らとともに正統派に所属した。
斎藤 茂吉(さいとう もきち、1882年(明治15年)5月1… 斎藤 茂吉(さいとう もきち、1882年(明治15年)5月14日 - 1953年(昭和28年)2月25日)は、日本の歌人、精神科医。伊藤左千夫門下であり、大正から昭和前期にかけてのアララギの中心人物。
芳川 寛治(よしかわ ひろはる、1882年(明治15年)5月… 芳川 寛治(よしかわ ひろはる、1882年(明治15年)5月12日 - 1956年(昭和31年)9月29日、旧姓・曾禰 )は、大正時代から昭和時代にかけて活躍した実業家。伯爵。「千葉心中」と呼ばれる身分違いの心中事件で世を騒がせた芳川鎌子の夫。 曾禰荒助子爵の次男として生まれる。1905年(明治38年)東京高等商業学校(現・一橋大学)卒。同級生には、政治家の内田信也や京城電気(現・韓国電力公社)社長の武者錬三がいた。のち芳川顕正伯爵の四女・鎌子(1891-1921)と結婚して芳川家の婿養子となる。男子に恵まれなかったため、資産等は娘・明子の婿である芳川三光(三室戸敬光三男)が相続している。 高等商業の先輩である犬塚信太郎や、その友人でもあった秋山真之と親しく、犬塚や秋山とともに、孫文の革命派を支援した。
草間 秀雄(くさま ひでお、1882年(明治15年)5月10… 草間 秀雄(くさま ひでお、1882年(明治15年)5月10日 - 1960年(昭和35年)8月30日)は、日本の大蔵官僚、弁護士。長崎市長。 福井県出身。1907年(明治40年)、東京帝国大学法科大学法律科を卒業し、大蔵属となり、高等文官試験に合格した。税務監督官補、税務監督局事務官、税務監督官、ロシア駐箚財務官、大蔵書記官、主税局国税課長、造幣局長、朝鮮総督府財務局長・朝鮮銀行監理官・東洋拓殖監理官を歴任した。 退官後の1931年(昭和6年)に長崎市長に選出され、1934年(昭和9年)まで務めた。 市長退任後は、満洲採金株式会社副理事長、同理事長に就任したほか、1938年(昭和13年)からは日本産金振興株式会社副社長を務めた。
関口 志行(せきぐち しこう、1882年〈明治15年〉5月9… 関口 志行(せきぐち しこう、1882年〈明治15年〉5月9日 - 1958年〈昭和33年〉12月21日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員(立憲民政党)、前橋市長、群馬県会議員。俳人としても知られ、号は雨亭。 群馬県新田郡木崎町大字赤堀(現在の太田市新田赤堀町)に、父貞作、母いすの長男として生まれる。1900年(明治33年)群馬県中学校(現在の群馬県立前橋高等学校)を卒業、1903年(明治36年)に旧制第二高等学校を卒業、1906年(明治39年)京都帝国大学法科大学英法科を卒業した。文部省に入省するが、1年で退官。1909年(明治42年)、司法官試補となり、前橋地方裁判所に勤務した。やがて判事に昇進し、1911年(明治44年)には甲府地方裁判所に異動するが、1913年(大正2年)に退官した。