原田 永之助(はらだ えいのすけ、1892年2月25日 - … 原田 永之助(はらだ えいのすけ、1892年2月25日 - 1946年12月20日)は、日本の眼科医。後にVogt-Koyanagi-Harada 病と統一した名前になる疾患を1926年に原著として発表した。 1892年2月25日、熊本県天草郡(現・天草市御領)に生まれた。父親は裁判所書記であった。その後球磨郡多良木で、さらにその後天草市本渡で育つ。学校教育は熊本(県立中学濟々黌、第五高等学校)を経て1913年東京帝国大学医学部に入学。学生時に陸軍省依託学生となる。1917年卒業。最初は陸軍軍医その後内科を選び駒込病院などに勤務。結婚相手の父親が長崎の眼科開業医原満里であったので、東京大学眼科に転向した(1922年1月)。
小倉 尚(おぐら ひさし、1892年(明治25年)2月25日… 小倉 尚(おぐら ひさし、1892年(明治25年)2月25日 - 1943年(昭和18年)9月10日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 茨城県出身。1913年(大正2年)5月26日に陸軍士官学校(25期)を卒業し、同年12月25日に工兵少尉に任ぜられ、工兵第一大隊付となる。1916年(大正5年)11月30日に陸軍砲工学校(22期)高等科を卒業し、更に員外学生として在学。1917年(大正6年)8月6日に工兵中尉に昇進、1920年(大正9年)7月10日には東京帝国大学工学部建築学科を卒業した。 1922年(大正11年)8月15日に工兵大尉に昇進し陸軍工兵学校教官、陸軍技術本部部員等を経て、1928年(昭和3年)8月10日工兵少佐に昇進後、陸軍省兵器局課員等を経て、1932年(昭和7年)8月8日工兵中佐に昇進。
中部 兼市(なかべ かねいち、1892年2月25日 - 19… 中部 兼市(なかべ かねいち、1892年2月25日 - 1953年3月25日)は、日本の経営者で、プロ野球チーム・大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)の初代オーナーも務めた。 兵庫県明石市出身。中部幾次郎の長男で、弟には中部謙吉、中部利三郎。1924年9月に林兼商店専務を務め、1945年12月に大洋漁業社長に就任。1947年8月に公職追放を受け、いったん辞任し、1950年10月に社長に復帰。 1941年に水産功労者の表彰を受ける。 1953年3月25日在職中に胃潰瘍のために山口県下関市の自宅で死去。61歳没。
本間 乙彦(ほんま おとひこ、1892年(明治25年)2月2… 本間 乙彦(ほんま おとひこ、1892年(明治25年)2月24日 - 1937年(昭和12年)8月14日)は、大正期から昭和初期に大阪を中心に活躍した建築家。兵庫県出身。
武満 国雄(たけみつ くにお、1892年(明治25年)2月2… 武満 国雄(たけみつ くにお、1892年(明治25年)2月23日-1942年(昭和17年)7月15日)は、大正時代の野球選手・学生野球指導者。 鹿児島県薩摩郡川内町生まれ。代議士の武満義雄の次男として生まれる。1914年(大正3年)法政大学に入学。法大野球部草創期の主力選手で、ポジションはサードまたはライト。1922年(大正11年)12月から1925年(大正14年)5月まで法大野球部監督。同年6月から1927年(昭和2年)10月まで明治神宮外苑野球場建設委員常任幹事。同年10月から1938年(昭和13年)4月まで明治神宮外苑管理署野球場主任。同年5月から財団法人武蔵野カントリークラブ支配人を務めた。
佐野 学(さの まなぶ、1892年〈明治25年〉2月22日 … 佐野 学(さの まなぶ、1892年〈明治25年〉2月22日 - 1953年〈昭和28年〉3月9日)は、日本の社会主義運動家で、昭和初期の非合法政党時代の日本共産党(第二次共産党)の中央委員長。獄中から転向声明を発表し、大きな反響を呼んだ。 豊後杵築藩の侍医を勤めた佐野家に生まれる。 第七高等学校造士館を経て東京帝国大学法学部を卒業後は大学院で2年間、矢作栄蔵の下で農政学を学び、新人会創立に参加した。日本勧業銀行に短期間勤めた後、兄彪太の岳父後藤新平の伝手で1919年、満鉄東亜経済調査局に嘱託社員として勤務し、翌1920年4月、早稲田大学商学部講師となって経済学と経済史を講義した(東海林太郎は佐野の教え子という)。
天野 辰夫(あまの たつお、1892年〈明治25年〉2月22… 天野 辰夫(あまの たつお、1892年〈明治25年〉2月22日 - 1974年〈昭和49年〉1月20日)は、大正から昭和にかけての弁護士、国家主義者。 出生地は島根県松江市で、出身は静岡県浜松市。 島根県松江市に生まれる。天皇主権説を唱える上杉慎吉に影響を受けて信奉し、独得の皇道理論を構成。東京帝国大学在学中の1918年(大正7年)に大学内で興国同志会を組織し、新人会に対抗した。 1919年(大正8年)、興国精神復興運動に参画、弁護士を開業した。1923年(大正12年)には法政大学の教授となった。1926年(大正15年)に起きた、父が社長を務める浜松の日本楽器争議の際には、日本主義労農同志会を組織して争議団に攻撃して対抗した。
團 伊能(だん いのう、1892年〈明治25年〉2月21日 … 團 伊能(だん いのう、1892年〈明治25年〉2月21日 - 1973年〈昭和48年〉2月9日)は、日本の実業家、政治家、美術史家。男爵。 1892年(明治25年)、三井合名会社理事長團琢磨の長男として、福岡県大牟田市に生まれる。 東京帝国大学文学部美術史学科で瀧精一に師事。ハーヴァード大学、ロンドン大学およびリヨン大学に学ぶ。東京帝国大学文学部美術史学科助教授時代の門人に坂倉準三、富永惣一、今泉篤男などがいる。デビュー作『パリ万国博覧会日本館』を設計する機会を坂倉に与えたのは團だった。また、坂倉の初期の代表作で昭和期の代表的な住宅建築である飯箸邸(東京都世田谷区等々力)は、1941年(昭和16年)に團の都内別邸として建てられたものである。
川西 竜三(かわにし りょうぞう、1892年(明治25年)2… 川西 竜三(かわにし りょうぞう、1892年(明治25年)2月20日 - 1955年(昭和30年)1月24日)は、日本の実業家。阪神財閥系譜・川西財閥2代目総帥。位階勲等は従五位勲六等。大日本帝国海軍用航空機開発者、川西航空機・川西機械製作所社長、新明和工業創業者を務めたため、戦後は公職追放指定を受けた。 兵庫県神戸市須磨生まれ。川西清兵衛の次男で、川西清司の弟。 旧制姫路中学校(姫中)を経て上京し、慶應義塾大学部理財科を卒業。合資会社日本飛行機製作所(後の中島飛行機)で勤務し、飛行機の設計・製作を学ぶ。慶應義塾大学時代の学友に、坂東舜一が居る。1920年(大正9年)に父が神戸に創業した川西倉庫に川西機械製造所を設立すると、29歳で所長に就任。
川崎 末五郎(かわさき すえごろう、1892年(明治25年)… 川崎 末五郎(かわさき すえごろう、1892年(明治25年)2月20日 - 1971年(昭和46年)11月8日)は、日本の内務官僚、政治家。福島県知事(官選第31代)、衆議院議員(5期)。旧姓は神田。 京都府出身。神田槌之助の三男として生まれ、衆議院議員川崎安之助の養子となる。鹿児島高等農林学校を経て、1916年、京都帝国大学法科大学政治学科を優等で卒業し、銀時計を授与された。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し警視庁警部となる。 以後、東京府属、兵庫県警視、台湾総督府事務官、朝鮮総督府事務官、内務書記官・警保局図書課長、兵庫県書記官・学務部長、兵庫県立神戸高等商業学校校長取扱、内務書記官・警保局高等課長などを歴任。
御影池 辰雄(みのいけ たつお、1892年(明治25年)2月… 御影池 辰雄(みのいけ たつお、1892年(明治25年)2月20日 – 1969年(昭和44年)4月17日)は、日本の内務官僚。関東州庁長官。南満州鉄道株式会社理事。 石川県出身。1917年(大正6年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、高等文官試験に合格した。神奈川県属、滋賀県警視、同栗太郡長、同理事官、同内務部教育課長・官房主事、同視学官、広島県書記官・学務部長を歴任した。 1929年(昭和4年)、関東庁事務官に転じ、内務局学務課長・図書館長・体育研究所長、長官官房文書課長、専売局長、大連民政署長、警務局警務課長などを経て、1936年(昭和11年)に関東州庁長官に就任した。 1937年(昭和12年)に退官した後は満州国内務局長官に任命され、1939年(昭和14年)には安東省長に転じた。
森 寿五郎(もり ひさごろう、1891年(明治24年)3月2… 森 寿五郎(もり ひさごろう、1891年(明治24年)3月20日 - 1983年(昭和58年)1月8日)は、日本の経営者。工学博士。岡山県高梁市出身。 1891年(明治24年)岡山県川上郡落合村福地(現:高梁市落合町)に信原忠吉の四男として生まれる。この後、川上郡成羽町中村にある森家の養子となる。地元の旧制高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)を経て、第三高等学校を1914年(大正3年)に卒業し、1919年(大正8年)に東京帝国大学工学部電気工学科を卒業した。 卒業と同時に、宇治川電気へ入社。翌年、日本電力に移り、試験係長、大阪変電所長、発電・送電各課長、送電総務理事などを歴任し順調に出世した。1950年(昭和25年)10月、59歳で日本発送電副総裁に就任し、翌年、1951年(昭和26年)5月に関西電力が発足すると同時に、関西電力副社長に就任した。
瀬藤 象二(せとう しょうじ、1891年3月18日 - 19… 瀬藤 象二(せとう しょうじ、1891年3月18日 - 1977年10月20日)は、電気工学者。和歌山県出身。
出羽 重芳(でわ しげよし、1891年(明治24年)3月16… 出羽 重芳(でわ しげよし、1891年(明治24年)3月16日 - 1946年(昭和21年)6月7日)は、大正から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。 海軍士官・出羽重遠の四男として生まれる。父の死去に伴い、1930年(昭和5年)3月15日、男爵を襲爵した。 1916年(大正5年)早稲田大学商学部を卒業した。同年、日本郵船に入社。その後、国際汽船に移り、横浜出張所長、調度課長を務め、さらに大阪商船で勤務。その他、鶴見化学工業取締役、東京測機監査役、船舶運営会副参事などを務めた。 1946年(昭和21年)5月11日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属したが、翌月に死去した。
古市 春彦(ふるいち はるひこ、1891年3月15日 - 1… 古市 春彦(ふるいち はるひこ、1891年3月15日 - 1943年1月9日)は、日本の学者・労働運動家。 鹿児島県熊毛郡南種子村(現・南種子町) 出身。農業に従事していたが、20歳で志をたてて上京し錦城中学に入る。在学中友愛会の賛助会員となる。第五高等学校を経て京都帝国大学に入るが友愛会運動を続ける。京大では1918年9月に結成された河上肇を顧問とする労学会に所属し、同年10月には同年12月に赤松克麿らが東大で新人会をつくるきっかけにもなる東西両大学連合演説会(岡崎公会堂で東京帝国大学と京都帝国大学の学生が行った)で東京帝大の赤松らと論戦する。卒業後の大正10年に上京し出版社隆文館に勤務するが、13年福岡の西南学院商科長となる。
小笠原 長丕(おがさわら ながまさ、明治24年(1891年)… 小笠原 長丕(おがさわら ながまさ、明治24年(1891年)3月15日 - 昭和43年(1968年)4月7日)は、日本の華族。子爵。旧安志藩忠脩系小笠原家第13代当主。旧小倉藩小笠原家当主小笠原忠忱の二男。 兄に小笠原長幹、弟に小笠原豊、妹に津軽英麿夫人、百子(尚昌夫人)。養子に小笠原忠幸。 明治38年(1905年)、安志小笠原家12代の子爵小笠原貞孚が後嗣なく没したため、貞孚の甥にあたる長丕が養子として跡を継いだ。明治44年(1911年)3月、学習院中等科を卒業。その後、早稲田大学専門部に進学、卒業。東京府立第一中学校、法政大学商業学校などの講師となる。昭和5年(1930年)に隠居し、養子忠幸(兄小笠原長幹の子)に家督を譲った。
清水谷 恭順(しみずだに きょうじゅん、1891年〈明治24… 清水谷 恭順(しみずだに きょうじゅん、1891年〈明治24年〉3月14日 - 1979年〈昭和54年〉8月8日)は、天台宗の僧、仏教学者、浅草寺貫首。 1891年(明治24年)、群馬県新田郡笠懸村西鹿田(現・みどり市笠懸町西鹿田)の長昌寺住職・林恵順の子として生まれる。幼名・光司。笠懸尋常小学校を経て、県立太田中学校へ進学。1906年(明治39年)清水谷慶順につき得度し、清水谷姓となる。 1915年(大正4年)天台宗大学を卒業。1919年(大正8年)天台宗大学教授となり、1926年(大正15年)の大正大学創設に伴い教授に就任し、1945年(昭和20年)に退任。この間、宮内省職員養成所講師や、比叡山中学校校長も務める。
寺岡 謹平(てらおか きんぺい、1891年3月13日 - 1… 寺岡 謹平(てらおか きんぺい、1891年3月13日 - 1984年5月2日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 1891年(明治24年)3月13日、山形県東田川郡羽黒町手向(現・鶴岡市)で小学校長・寺岡義秀の二男として生れる。新庄中学校を経て、1912年(明治45年)7月に海軍兵学校(40期)を卒業、少尉候補生となる。 1913年(大正2年)12月、海軍少尉任官。1915年(大正4年)12月、中尉に昇進。1918年12月、大尉に昇進。1919年(大正8年)12月、海軍水雷学校高等科を卒業し、第二艇隊艇長に就任。1920年(大正9年)8月、檜 (桃型駆逐艦)に乗組。1921年(大正10年)6月、菱 (樅型駆逐艦)に乗組。
仲井間 宗一(なかいま そういち、1891年(明治24年)3… 仲井間 宗一(なかいま そういち、1891年(明治24年)3月13日 - 1965年(昭和40年)12月2日)は、沖縄県出身の日本の弁護士、政治家。衆議院議員。 名護間切名護(現名護市)で、仲井間宗宣の長男として生まれる。1911年、沖縄県立第一中学校5年に在学中に上京。苦学して日本大学専門部法律科に入学。1922年、弁護士試験に合格。 1923年に帰郷して那覇に弁護士事務所を開業した。その後、那覇弁護士会会長に就任。 1930年2月の第17回衆議院議員総選挙で沖縄県選挙区から立憲民政党所属で出馬して当選。その後、第19回 から第21回総選挙まで連続三回の当選を果たし、衆議院議員を通算四期務めた。
川崎 備寛(かわさき よしひろ、かわさき びかん、1891年… 川崎 備寛(かわさき よしひろ、かわさき びかん、1891年3月13日 - 1963年3月26日)は、日本の翻訳家、麻雀研究家。 大阪府貝塚市生まれ。関西学院大学政治部中退後、文筆活動に入り1923年(大正12年)『文藝春秋』の同人となる。1924年から麻雀を始め、1929年(昭和4年)日本麻雀連盟創立に際し中央委員。1930年(昭和5年)最高段位7段となる。1932年(昭和7年)麻雀団体が合併して大日本麻雀連盟が結成され、機関誌『麻雀日本』の編集長に就任。 1934年(昭和9年)、警視庁による麻雀賭博の摘発が続く中で、川崎も同年2月に死去した直木三十五の追善麻雀大会に参加したことを追及され、同年3月に福田蘭童、多賀谷信乃、淵川銀次らとともに一斉検挙された。
河鰭 実英(かわばた さねひで、1891年(明治24年)3月… 河鰭 実英(かわばた さねひで、1891年(明治24年)3月12日 - 1983年(昭和58年)2月23日)は、日本の服飾史学者。日本服飾史が専門。 三条実美の四男として東京に生まれる。河鰭家当主・河鰭公篤の養子となる。養父の死去に伴い、1922年4月29日、子爵を襲爵した。東京帝国大学文学部卒業。大正天皇の侍従。1949年昭和女子大学教授、1969年学長。1960年に日本風俗史学会の設立に参加。1961年「近世に於ける公家服飾の史的研究」で東京教育大学より文学博士の学位を取得。墓所は多磨霊園。
安井 誠一郎(やすい せいいちろう、1891年(明治24年)… 安井 誠一郎(やすい せいいちろう、1891年(明治24年)3月11日 - 1962年(昭和37年)1月19日)は、日本の政治家。内務・厚生官僚、東京都長官(6・8代)、東京都知事(初・2・3代)、新潟県知事(34代)、衆議院議員(1期)を歴任した。位階は正三位。 参議院議長を務めた安井謙と、雪印食品副社長を務めた安井三郎は弟。 岡山県御津郡伊島村(現:岡山市北区津島)生まれ。岡山県立岡山中学校、旧制一高、東京帝国大学独法科を卒業後、内務省に入省。 1920年から茨城県庶務課長、稲敷郡長を務めた。休職後にドイツ視察留学を経て、東京市社会局長として関東大震災の復興にあたる。その間茨城県・神奈川県で警視を務めた。
大内 一郎(おおうち いちろう、1891年(明治24年)3月… 大内 一郎(おおうち いちろう、1891年(明治24年)3月11日 - 1962年(昭和37年)3月18日)は、日本のジャーナリスト、実業家、政治家。衆議院議員。号・逸堂。 福島県安達郡針道村(東和村、東和町針道を経て現二本松市針道)で、大内丈右衛門の息子として生まれる。早稲田大学大学専門部政経科を中退した。 立憲政友会に入党し、1919年(大正8年)10月、安達郡会議員に当選し(2期在任)、公立福島病院組合議員(5期)を務め、1927年(昭和2年)9月、福島県会議員に選出され4期在任した。 また、福島新聞主筆、福島民報主筆、読売新聞福島支局長を務め、1937年(昭和12年)から1941年(昭和16年)まで岩盤中央新聞を経営した。
飯野 哲二(いいの てつじ、1891年3月9日 - 1971… 飯野 哲二(いいの てつじ、1891年3月9日 - 1971年1月3日)は、昭和期の日本の国文学者。松尾芭蕉の研究で知られる。 栃木県芳賀郡二宮町(現・真岡市)出身。第二高等学校を経て、1921年に東京帝国大学文学部国文学科を卒業。 卒業後は鉄道省勤務、東京府立第一商業学校(現・東京都立第一商業高等学校)教諭といった職に就く。1925年に東京帝大大学院に入ったが、修了を待たずに1926年より再度教職に戻り、熊本県女子師範学校と、熊本県立第二高等女学校(熊本県立第一高等学校の前身の一つ)を兼任した。 1928年、宮城県女子専門学校(戦後、新制東北大学に統合)教授に就任する。松尾芭蕉の研究は、この時期に『奥の細道』の講義を仙台放送局の依頼でおこなったことに始まった。
長尾 巧(ながお たくみ、1891年3月9日 - 1943年… 長尾 巧(ながお たくみ、1891年3月9日 - 1943年8月28日)は、日本の地質学者・古生物学者。ニッポノサウルスの化石研究者として知られる。 現在の福岡県田川市出身。東京高等師範学校を卒業後、山口県岩国中学校や鹿児島師範学校で教員を務める。東京高等師範では博物学科に所属し、佐藤伝蔵の講義から地質学への興味を抱いたとされる。 その後東北帝国大学に入学し、理学部で矢部長克の指導を受ける。1921年に東北帝大理学部を卒業後、同大学講師となる。長尾が取り組んだのは、出身地でもある北九州地方の炭田の地質構造研究だった。 1927年から渡仏して2年間パリで研究に従事した。この留学は、教授候補者に対する当時の慣例だったとされる。
保科 善四郎(ほしな ぜんしろう、1891年(明治24年)3… 保科 善四郎(ほしな ぜんしろう、1891年(明治24年)3月8日 - 1991年(平成3年)12月24日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍中将。衆議院議員を4期務めた後、財団法人日本国防協会会長。 宮城県伊具郡北郷村(現・角田市)出身。旧制宮城県角田中学校より、海軍兵学校および陸軍士官学校(第25期)を受験し、双方に合格している。海軍兵学校第41期入校。席次は入校時120名中40番、卒業時118名中28番。海軍大学校卒業。 1930年(昭和5年)5月から1932年(昭和7年)11月までアメリカ駐在であったが、海軍きってのアメリカ通として鳴らしアメリカ海軍の人物を調査するのが先決という持論を持っていた。
川村 芳次(かわむら よしじ、1891年〈明治24年〉3月8… 川村 芳次(かわむら よしじ、1891年〈明治24年〉3月8日 - 1988年〈昭和63年〉12月27日)は、日本の政治家。鳥取県八頭郡大御門村(現・八頭町)出身。千葉県銚子市長(1933年-1945年)、北海道岩見沢市長(1945年-1946年、1954年-1970年)。岩見沢名誉市民。位階は正五位。 明治大学法学部卒。内務省から千葉県地方課長に出向し、その後1933年、銚子市の市制施行から終戦直前まで3期12年、官制初代銚子市長を務める。 1945年5月13日任期満了で退任後、同年5月30日公選第2代岩見沢市長となり、翌年11月17日公職追放により退任。 追放解除後の1954年10月29日、山本市英前市長の辞任による選挙で再び岩見沢市長(公選第5代)に就任、1970年10月まで4期16年務め、任期満了で退任。
牧野 伸通(まきの のぶみち、1891年〈明治24年〉3月6… 牧野 伸通(まきの のぶみち、1891年〈明治24年〉3月6日 - 1956年〈昭和31年〉2月7日)は宮内庁式部官、旧華族(伯爵)。 牧野伯爵家の長男として生まれる。学習院から東京帝国大学政治科に進み、卒業後は外務省情報部、宮内庁式部官兼主猟官を務めた。学習院時代の同級生だった近衛文麿は、「伸通はできが良く、いつも首席であった」と評価している。墓所は青山霊園。 外務大臣、文部大臣、内大臣などを務めた牧野伸顕の長男。大久保利通の孫。妻は上皇后美智子(皇太子妃時代)の女官長を務めた牧野純子(鍋島直明の長女)。長男は日東化学工業の元副社長牧野伸和。長女は松濤幼稚園創設者の林貞子。次女は杉山淑子(豊年製油の元社長杉山元太郎の妻)。
豊田 栄(とよだ さかえ、1891年3月3日 - 1966年… 豊田 栄(とよだ さかえ、1891年3月3日 - 1966年4月19日)は、医師、英語講師、キリスト教無教会主義の新約聖書研究家。内村鑑三、塚本虎二に師事した。 1891年3月3日、医師である父・豊田貫一と母・豊田琴の5人兄弟の四男として出生した。志波尋常小学校に入学したのち転校し、吉井尋常高等小学校を卒業。明善中学校を卒業、熊本県の第五高等学校を卒業したのち上京、東京帝国大学医科大学を1917年7月に卒業した。その後約1年間を海軍軍医として勤務後、軍艦比叡に乗艦。1920年に和泉橋慈善病院の小児科医局員となる。 1923年1月、古田孝子と結婚。同年より、東京帝国大学薬理学教室で2年間研究に従事。
高橋 清吾(たかはし せいご、1891年〈明治24年〉3月3… 高橋 清吾(たかはし せいご、1891年〈明治24年〉3月3日 - 1939年〈昭和14年〉1月17日)は、日本の大正から昭和前期の政治学者。早稲田大学教授を務め、ビアード、グッドナウ、ベントリーらのアメリカ政治学を日本に紹介した。 1891年(明治24年)、宮城県宮城郡利府村(現・利府町)に生まれる。1911年(明治44年)9月、早稲田大学専門部政治経済科第二学年に入学。1913年(大正2年)7月、同科卒業。1914年8月、コロンビア大学に留学、チャールズ・ビアードの指導を受ける。1916年2月、同大学でM.A.を取得。1917年7月、同大学でPh.D.を取得。その後帰国まで、ニューヨーク市政調査会で調査研究にあたる。
菅 晴次(かん はるじ、1891年(明治24年)2月28日 … 菅 晴次(かん はるじ、1891年(明治24年)2月28日 - 1985年(昭和60年)4月20日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。旧姓は石塚。評論家の菅孝行は息子。 滋賀県の没落農家に生まれる。滋賀県立膳所中学校を経て、1913年(大正2年)5月26日、陸軍士官学校(25期)を卒業。士官学校の教官だった菅孝の養子となり石塚姓から改姓する。同年12月25日、陸軍砲兵少尉に任官。1916年(大正5年)11月30日、陸軍砲工学校高等科を首席で卒業し、東京帝国大学工学部造兵学科に派遣された。1920年代後半からフランスの軍需工場に5年派遣されてフランス語を習得する。 1936年(昭和11年)8月1日陸軍砲兵大佐に昇格すると共に陸軍造兵廠東京砲兵工廠精機製造所長に就任、同年12月1日陸軍省兵器局鉄砲課長となり、1939年(昭和14年)3月9日陸軍少将・陸軍省兵器局長兼大本営野戦兵器長官に就任した。
奥瀬 英三(おくせ えいぞう、1891年2月28日 - 19… 奥瀬 英三(おくせ えいぞう、1891年2月28日 - 1975年11月23日)は、三重県出身の洋画家。浦和画家の一人。示現会代表。瑞宝章受章者。 三重県上野村(現:伊賀市)に生まれ、画家を目指して上京。太平洋美術学校の教授になった。帝展にて連続して特選を受賞し、1929年には審査員となった。1931年には埼玉県浦和市に移住し、終生居住したことから浦和画家として知られている。戦後は山岳風景画を多く残している。新光洋画会や槐樹社、示現会の結成者の一人。蕨画塾講師。勲四等瑞宝章のほか埼玉新聞社から埼玉文化賞が贈られている。
森山 武市郎(もりやま たけいちろう、1891年(明治24年… 森山 武市郎(もりやま たけいちろう、1891年(明治24年)2月28日 - 1948年(昭和23年)2月29日)は、日本の検察官。 福岡県三潴郡大善寺村(現・久留米市)出身。1912年、明治大学法学部卒業。1916年、判事検事登用試験に合格して司法官試補となり、1918年に東京地方裁判所判事となる。1920年に退職してヨーロッパに留学し、スイスのベルン大学、ドイツのハイデルベルク大学で民法、商法、労働法を研究し、1923年帰国。検事に任じられ、司法省刑事局・行刑局に勤務。1932年法学博士の学位を取得。また、明治大学政経学部教授に就任。 検察官時代は、東京控訴院検事、宮城控訴院検事局検事長、大審院判事などを歴任。
瀧川 幸辰(滝川 幸辰、たきかわ ゆきとき、1891年(明治… 瀧川 幸辰(滝川 幸辰、たきかわ ゆきとき、1891年(明治24年)2月24日 - 1962年(昭和37年)11月16日)は、日本の法学者。法学博士。専門は刑法。岡山県出身。京都帝国大学教授。京都大学総長。日本学士院会員。正三位勲一等瑞宝章。音読みで「たきがわ こうしん」と呼ばれることもあった。 東京学派の小野清一郎とほぼ同時期にドイツ刑法学における構成要件の理論を日本に初めて紹介し、犯罪を構成要件に該当する違法有責な行為であるとする現在の日本の刑法学の基礎を築いた。 瀧川は違法性の実質について、当初M・E・マイヤーに倣って国家的条理違反としていたが、その後生活利益の侵害であると改説し、前期旧派・古典学派の立場を明らかにした。
瀧川 幸辰(たきがわ ゆきとき、1891年(明治24年)2月… 瀧川 幸辰(たきがわ ゆきとき、1891年(明治24年)2月24日 - 1962年(昭和37年)11月16日)は、日本の法学者。法学博士。専門は刑法。岡山県出身。京都帝国大学教授。京都大学総長。日本学士院会員。正三位勲一等瑞宝章。
倉田 百三(くらた ひゃくぞう / ももぞう)、1891年(… 倉田 百三(くらた ひゃくぞう / ももぞう)、1891年(明治24年)2月23日 - 1943年(昭和18年)2月12日)は、日本の劇作家、評論家で大正、昭和初期に活躍した。故郷の広島県庄原市には、倉田百三文学館がある。 広島県比婆郡庄原村107番屋敷(現庄原市本町)出身。
武者 金吉(むしゃ きんきち、1891年(明治24年)2月2… 武者 金吉(むしゃ きんきち、1891年(明治24年)2月22日 - 1962年(昭和37年)11月7日)は日本の地震学者、地理学者、英語教師。本業である英語教師としての業務のかたわら、独学で地震学を学んだ。ほとんど独力で膨大な量の歴史地震に関する史料を収集し、『増訂大日本地震史料』としてまとめた。 1891年(明治24年)2月22日(戸籍上は3月1日)、東京市本所区向島須崎町(現在の墨田区)に生まれる。浅田家の第4子であったが、間もなく武者家の養子となる。 府立三中を経て、1910年(明治43年)9月、早稲田大学文学部英文学科に入学。1911年7月と1912年7月の2回、首席となり早稲田大学特待生となって授業料を免除される。
秋山 徳三郎(あきやま とくさぶろう、1891年(明治24年… 秋山 徳三郎(あきやま とくさぶろう、1891年(明治24年)2月22日 - 1968年(昭和43年)2月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 兵庫県青垣町(現:丹波市)おいて[要出典]、秋山宝右衛門の二男として生まれる。柏原中学校卒を経て、1912年(明治45年)5月、陸軍士官学校(24期)を卒業。同年12月、工兵少尉に任官し工兵第10大隊付となる。1915年(大正4年)12月、陸軍砲工学校高等科を卒業。さらに陸軍派遣学生として東京帝国大学工科大学土木科で学び1919年(大正8年)7月に卒業した。その際、南清博士奨励記念賞を受賞している。 1920年(大正9年)4月、陸軍築城本部員となり、英仏駐在を経て、1924年(大正13年)10月、イギリス工兵校を卒業。
井上 孚麿(いのうえ たかまろ、1891年(明治24年)2月… 井上 孚麿(いのうえ たかまろ、1891年(明治24年)2月22日 - 1978年(昭和53年)3月27日)は、日本の歌人・法学者。台北帝国大学教授、法政大学教授、亜細亜大学教授。 長崎県平戸出身。父は井上寅之助、母はテイ(千浦庄七守本の長女)。 専門は憲法学。GHQ占領直後に日本国憲法無効論を唱えた。次男の井上實は東京銀行元頭取。 この項目は、法学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
甘蔗 義邦(かんじゃ よしくに、1891年〈明治24年〉2月… 甘蔗 義邦(かんじゃ よしくに、1891年〈明治24年〉2月21日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。 岐阜県に川上貞蔵の四男として生まれ、甘蔗義尭の養子となった。東京帝国大学法科大学政治科に学び、在学中の1917年(大正6年)に高等文官試験に合格し、翌年卒業した。朝鮮総統府試補、道事務官、平安南道財務部長、江原道警察部長、朝鮮総督秘書官を歴任し、1929年(昭和4年)に欧米各国に出張した。帰国後、警務局衛生課長、咸鏡南道内務部長、江原道内務部長を経て、1934年(昭和9年)に平壌税務監督局長に就任した。1936年(昭和11年)より京城府尹に、1937年(昭和12年)より京畿道知事となった。 1940年(昭和15年)に退官した後は、朝鮮放送協会会長を務めた。
室崎 琴月(むろざき きんげつ、1891年(明治24年)2月… 室崎 琴月(むろざき きんげつ、1891年(明治24年)2月20日 - 1977年(昭和52年)3月21日)は、日本の作曲家。本名は清太郎(せいたろう)。童謡「夕日」の作曲者。
伊奈 長三郎(いな ちょうざぶろう、1890年(明治23年)… 伊奈 長三郎(いな ちょうざぶろう、1890年(明治23年)3月20日 - 1980年(昭和55年)10月10日)は、日本の実業家、政治家。伊奈製陶(INAXを経て、現在のLIXIL)創業者で、同社代表取締役社長を務めた。政治家としては初代常滑市長(1期)、常滑町長(1期)などを歴任した。 愛知県知多郡常滑村(常滑町を経て、現在の常滑市)で第5代目窯元の伊奈初之丞の長男して生まれる。旧名は、伊奈長太郎。東京中学校(現在の東京高等学校)を経て、1912年に東京高等工業学校(東京工業大学を経て、現在の東京科学大学)窯業科を卒業した。1918年、帝国ホテル煉瓦製作所技術顧問に就任した。1924年に伊奈製陶を設立し、同社常務取締役に就任した。
別所 喜一郎(べっしょ きいちろう、1890年3月20日 -… 別所 喜一郎(べっしょ きいちろう、1890年3月20日 - 1974年11月28日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 1890年3月、滋賀県水口町に生まれる。1908年、滋賀県立八幡商業学校(現・滋賀県立八幡商業高等学校)を卒業。醤油醸造業を営む。1919年9月、甲賀郡会議員に当選。1926年7月、滋賀県会議員に当選、立憲民政党に所属する。1930年2月、水口町長に就任。1939年11月、滋賀県会議長に就任。このほか、水口町議会議員、滋賀県町村会長も務めた。 1942年の第21回衆議院議員総選挙では翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選する。戦後は無所属倶楽部を経て、1945年11月に日本進歩党に入り、党滋賀県支部の幹事長に就任したが、翼協推薦議員のため公職追放となった。
仲西 三良(なかにし さぶろう、1890年(明治23年)3月… 仲西 三良(なかにし さぶろう、1890年(明治23年)3月20日 - 1956年(昭和31年)12月6日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)、矢吹町長。 福島県岩瀬郡鏡石村(現在の鏡石町)に滝田貫之の三男として生まれ、仲西勇吉の養子となった。1920年(大正9年)、東京帝国大学法科大学を卒業した。検事となり、東京地方裁判所予備検事、札幌区裁判所検事を務めた。退官後、矢吹銀行副頭取、矢吹町農会長、西白河郡農会長、福島県農会議員を歴任し、矢吹町長に就任した。 1936年(昭和11年)、第19回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第20回、第21回でも当選を果たした。 戦後、大政翼賛会の推薦議員だったため公職追放となり、1951年(昭和26年)追放解除となった。
鈴木 文史朗(すずき ぶんしろう、1890年3月19日 - … 鈴木 文史朗(すずき ぶんしろう、1890年3月19日 - 1951年2月23日)は、日本のジャーナリスト、新聞記者、政治家。 千葉県海上郡豊浦(現銚子市)出身。本名は文四郎。旧制銚子中学校(現千葉県立銚子商業高等学校)、東京外国語学校英語学科卒業。三菱合資会社地所部を経て1917年東京朝日新聞に入社。シベリア出兵の従軍記者や、パリ講和会議などの特派員として活躍する。社会部長、編集局総務、論説委員、整理部長、名古屋支社長、取締役を歴任し、1942年常務取締役となるが、朝日新聞社内の人事で冷遇されたことから反緒方竹虎の急先鋒となった。 敗戦直後退社し、1946年『リーダーズ・ダイジェスト』日本語版編集長となる。
澤 モリノ(沢-、さわ もりの、1890年3月19日 - 1… 澤 モリノ(沢-、さわ もりの、1890年3月19日 - 1933年5月14日)は、日本の舞踏家である。「浅草オペラ」の時代(1917年 - 1923年)に活躍、その後、日本統治時代の朝鮮(現在の朝鮮民主主義人民共和国)で客死した。本名は深澤 千代(ふかさわ ちよ)、旧芸名は澤 美千代(-みちよ)。 1890年(明治23年)3月19日、東京音楽学校(現・東京芸術大学音楽学部)出身の音楽家・深澤登代吉を父に、同じく東京音楽学校出身のたけ子を母に、深澤千代として生まれる。生地については公式に「アメリカ合衆国カリフォルニア州ニューヨーク」(一部資料ではサンフランシスコ)と書かれているが、遺族の証言では実際の生地は父の故郷、群馬県前橋市ではないかといわれている。
清水 泰次(しみず たいじ、1890年3月19日 - 196… 清水 泰次(しみず たいじ、1890年3月19日 - 1960年4月13日)は、日本の東洋史学者。 明治23年(1890年)、新潟県に生まれる。東京大学文学部東洋史学科卒業。早稲田大学教授、東京文理科大学教授をつとめる。中国明代の社会経済史を専攻し、「明代土地経済史の研究」「中国近世社会経済史」などをあらわす。昭和35年(1960年)4月13日死去。享年70。
澤 モリノ(沢-、さわ もりの、1890年3月19日 - 1… 澤 モリノ(沢-、さわ もりの、1890年3月19日 - 1933年5月14日)は、日本の舞踏家である。「浅草オペラ」の時代(1917年 - 1923年)に活躍、その後、日本統治時代の朝鮮(現在の朝鮮民主主義人民共和国)で客死した。本名は深澤 千代(ふかさわ ちよ)、旧芸名は澤 美千代(-みちよ)。
門脇 黙一(かどわき もくいち、1890年(明治23年)3月… 門脇 黙一(かどわき もくいち、1890年(明治23年)3月17日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。朝鮮総督府官僚。 広島県世羅郡三川村(現:府中市)出身。1911年(明治44年)、旧制修道中学校(現:修道中学校・高等学校)を卒業。広島県佐伯郡書記を経て、内務属として内務省に入省。1923年(大正12年)に高等試験行政科に合格し、岐阜県養老郡長、岐阜県社事兵事課長を務めた。1928年(昭和3年)より朝鮮総督府に転じ、忠清北道学務課長、同地方課長、馬山府尹、京畿道内務課長、平壌専売支局長、大邱府尹、全羅北道内務部長、京城地方専売局長などを歴任した。 1939年(昭和14年)に退官した後は、朝鮮海苔株式会社社長を務めた。
三宅 やす子(みやけ やすこ、1890年3月15日 - 19… 三宅 やす子(みやけ やすこ、1890年3月15日 - 1932年1月18日)は、日本の作家、評論家。 京都市生まれ。京都師範学校校長・加藤正矩の娘で、加藤弘之の姪に当たる。本名・安子、旧姓・加藤。 やす子は長女であるが父正矩の正妻の子ではない。正妻には子がなく、やす子と妹は正妻を「おかあさま」実母を「ばあや」とよんで、妻妾同居の家で育った。9歳で一家は東京へ移り、やす子は府立第二高女に進んだが、病気のため退学。ついでお茶の水高等女学校に入学し、19歳で卒業。1910年(明治43年)三宅雪嶺の甥にあたる理学士三宅恒方と結婚、大正元年にはのちに作家となった長女艶子が誕生した。この頃より雑誌に評論や随筆を書き始め、5年には夏目漱石のもとで創作を学び、漱石没後は小宮豊隆に師事した。