山田 みづえ(やまだ みづえ、1926年7月12日 - 20… 山田 みづえ(やまだ みづえ、1926年7月12日 - 2013年5月18日)は、日本の俳人。 宮城県仙台市生まれ。国語学者・山田孝雄の次女。兄に山田忠雄、山田英雄、山田俊雄がいる。宇治山田高等女学校(現・三重県立宇治山田高等学校)卒業。1957年、石田波郷に師事する。俳誌『鶴』を経て、1979年に『木語』を創刊、主宰する。同誌は2004年に終刊した。門下に石田郷子、本郷をさむなどがいる。1968年、「梶の花」50句で第14回角川俳句賞、1976年、句集『木語』にて第15回俳人協会賞受賞。他の句集に『忘』『木語』『手甲』『草譜』『昧爽』『中今』などがある。2013年5月18日、老衰のため死去した。
二宮 康明(にのみや やすあき、1926年4月10日 - 2… 二宮 康明(にのみや やすあき、1926年4月10日 - 2023年11月15日)は、日本の紙飛行機の設計者、日本紙飛行機協会会長、日本インダストリアルデザイナー協会会員、工学博士、自家用飛行機操縦士。ハードSF研究所客員研究員。 紙飛行機設計歴50年の世界的権威、設計したオリジナル機は、競技機から軽飛行機、プロフィール機まで2,600機を超え、素材には紙だけでなくバルサ材やスチレンペーパーも使用して紙飛行機の可能性を追求している。1967年、第1回国際紙飛行機サンフランシスコ大会でグランプリを獲得。1985年シアトルでの第2回大会では元宇宙飛行士マイケル・コリンズらとともに審査委員を務めた。 1967年から、月刊『子供の科学』で紙飛行機の付録を連載。
佐藤 千敬(さとう ちひろ、Raymond Augustin… 佐藤 千敬(さとう ちひろ、Raymond Augustin Chihiro Sato, O.P., 1926年3月31日 - 2002年11月12日)は、日本のカトリック教会聖職者でドミニコ会士。カトリック仙台司教区第5代司教を務めた。洗礼名は「アウグスチノ」で修道名は「ライムンド」。 宮城県仙台市に生まれる。福島県郡山市で幼少期を過ごし、仙台二中、海軍兵学校を経て、東北帝国大学に進学。1948年3月28日、仙台 北五十人町(現 角五郎丁)教会(現 西仙台教会)でドミニコ会の渡辺吉徳神父から受洗。1949年3月に 東北帝国大学法文学部経済学科を卒業し、1949年4月にドミニコ会に入会。 1953年にカナダ・オタワ市のドミニコ会神学校に入学し、現地で1959年に初代仙台教区長マリー・ジョゼフ・ルミュー大司教により司祭に叙階。
新国 誠一(にいくに せいいち、1925年12月7日 - 1… 新国 誠一(にいくに せいいち、1925年12月7日 - 1977年8月23日)は、日本の詩人、画家。旧字体で新國誠一とも表記され、新国自身は晩年旧字体での表記にこだわっていたとされる。1960年代の国際的な前衛詩運動であるコンクリート・ポエトリーの運動に関わり、象形詩や視覚詩、音声詩などの実験的な作品を制作した。世界的には重要な詩人の一人として位置づけられており、日本やドイツの教科書などにも作品が掲載されている。 1925年12月7日、宮城県仙台市で生まれる。仙台工業学校(現:仙台工業高等学校)に進学し、建築を学ぶ。高校卒業後、1948年に東北学院大学文経学部英文学科に入学、1951年に卒業。
針生 一郎(はりう いちろう、1925年12月1日 - 20… 針生 一郎(はりう いちろう、1925年12月1日 - 2010年5月26日)は、日本の美術評論家、文芸評論家。和光大学名誉教授。映画プロデューサー針生宏は弟。 宮城県仙台市生まれ。旧制第二高等学校卒業、東北大学文学部卒業。東京大学大学院で美学を学ぶ。 大学院在学中、岡本太郎、花田清輝、安部公房らの「夜の会」に参加。1953年、軍国少年だったことへの反省から日本共産党に入党したが、1961年、60年安保闘争時の時の共産党の指導方針を批判して除名される。 反権威的な美術評論・文芸評論で活躍、日本藝術院批判の急先鋒でもあった。1965年、赤瀬川原平の「千円札裁判」で特別弁護人となる。1970年の大阪万博に反対。
一力 一夫(いちりき かずお、1925年(大正14年)9月8… 一力 一夫(いちりき かずお、1925年(大正14年)9月8日 - 2014年(平成26年)7月20日)は、日本の実業家。ジャーナリスト。河北新報社社主。 河北新報社元社長である一力次郎の長男として宮城県仙台市に生まれる。 1950年(昭和25年)河北新報入社。編集局長時代には自らが隊長となり同行記者3名と共に、「人類初の地球縦断大ドライブ」を敢行。それにより日本新聞協会ボーン・上田記念国際記者賞を受賞する。1970年(昭和45年)には、父の逝去により社長・社主に就任する。その後、東北放送社長就任に伴い、会長・社主に就任した。 好角家としても知られ自宅には大相撲の座布団が多数あったという。日本相撲協会横綱審議委員会委員(1988年-2001年)、第8代の委員長(1999年-2001年)も歴任した。
岡 久雄(おか ひさお、1925年6月29日 - )は、日本… 岡 久雄(おか ひさお、1925年6月29日 - )は、日本の電気技術者、工学博士。三菱電機代表取締役副社長や、新エネルギー・産業技術総合開発機構理事長、日本オペレーションズ・リサーチ学会会長、電気学会会長、日本YMCA同盟委員長等を歴任した。 宮城県仙台市生まれ。1943年宮城県工業学校(現宮城県工業高等学校)電気工学科、1952年東北大学工学部電気工学科卒業、三菱電機入社。半導体デバイスの研究開発に従事し、1962年には東北大学工学博士の学位を取得。1972年北伊丹製作所電力半導体部長。1978年LSI開発センタセンタ長。1980年LSI研究所所長。1983年取締役LSI研究所所長。1985年常務取締役開発本部長。
明間 輝行(あけま てるゆき、1925年(大正14年)5月2… 明間 輝行(あけま てるゆき、1925年(大正14年)5月26日 - 2005年(平成17年)9月3日)は、日本の実業家。東北電力取締役社長や、同社取締役会長、東北経済連合会会長を務めた。 宮城県仙台市出身。1951年東北大学法学部卒業。津本陽は同期生。 東北電力取締役社長や、同社取締役会長、日本原子力発電取締役を務めた。1993年東北経済連合会会長。 1995年仙台フィルハーモニー管弦楽団理事長。1997年、勲一等瑞宝章受章。2001年東北電力相談役。2005年肺炎のため仙台市内の病院で死去。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
山極 圭司(やまぎわ けいじ、1925年3月23日 - )は… 山極 圭司(やまぎわ けいじ、1925年3月23日 - )は、日本近代文学研究者。 宮城県仙台市出身。旧制水戸高等学校卒、1949年東京大学文学部国文科卒。東京都立戸山高等学校教諭、白百合女子大学文学部教授。1996年定年。木下尚江を研究した。
折口 透(おりぐち とおる、1925年3月11日 - )は、… 折口 透(おりぐち とおる、1925年3月11日 - )は、日本の自動車評論家、翻訳家。 本名・伊藤 哲(さとし)。折口透の名で自動車評論や翻訳を、伊藤哲の名でSFや冒険小説の翻訳を行った。 宮城県仙台市生まれ。1952年東京大学理学部中退。1955年モーターマガジン社編集部長。1962年から1965年ホンヤク出版社取締役・編集長。1972年モーターマガジンインターナショナル社取締役・編集長。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
那須 翔(なす しょう、1924年9月19日 - 2014年… 那須 翔(なす しょう、1924年9月19日 - 2014年6月25日)は第7代東京電力社長(1984年6月 - 1993年6月)。元会長(1993年6月 - 1999年5月)。 1924年(大正13年)、宮城県仙台市出身。父は病理学者で東北帝国大学教授を務めた那須省三郎。旧制仙台第二中学校、旧制第二高等学校を経て1948年東京大学法学部政治学科卒業、関東配電(東京電力の前身)入社。総務畑を歩み、木川田一隆や平岩外四に仕え、平岩が同社社長時には黒子として政官との調整に立ち回った。 1984年、平岩の後任として社長就任。顧客サービスの意識改革を促し1986年には戦後から一貫して上がり続けていた電気料金の引き下げを断行。
佐藤 隆夫(さとう たかお、1924年7月6日 - 2007… 佐藤 隆夫(さとう たかお、1924年7月6日 - 2007年4月23日)は、日本の民法学者。國學院大學名誉教授。 仙台市生まれ。山形県鶴岡市出身。1952年東北大学法学部卒。國學院大學法学部助教授、教授。95年定年、名誉教授。弁護士、横浜家庭裁判所調停委員。
朝倉 正(あさくら ただし、1924年4月24日 - )は、… 朝倉 正(あさくら ただし、1924年4月24日 - )は、日本の気象学者。 宮城県仙台市生まれ。気象技術官養成研究所卒、1968年「日本を中心とする東アジアの大気循環の動気候学」で東京教育大学理学博士。気象研究所研究官、1965年気象庁長期予報課予報官、1981年初代気候変動対策室長。1984年長期予報課長。退官後、1996年気候問題研究所所長。1956年日本気象学会賞、1964年気象庁長官賞、1984年岡田賞受賞。
伏見 和郎(ふしみ かずお、1924年 - )は日本の工学者… 伏見 和郎(ふしみ かずお、1924年 - )は日本の工学者。専門は電気工学。東京大学原子核研究所教授(現・高エネルギー加速器研究機構)、工学博士。 仙台市出身。第二高等学校を経て、1945年東京帝国大学第二工学部電気工学科卒業。逓信省電気試験所(現・NTT電気通信研究所)に入所。1962年東京大学より工学博士を授与される。 1964年NTT電気通信研究所を退所。 タケダ理研工業株式会社(現在の株式会社アドバンテスト)入社。取締役、開発部長。当時の部下には、玉地康雄など。 1964年から1966年北京大学。 1967年から1984年東京大学原子核研究所(現高エネルギー加速器研究機構)教授。当時の助手には渡邊伸一など。
橋本 健(はしもと けん、1924年 - 2007年2月22… 橋本 健(はしもと けん、1924年 - 2007年2月22日)は、日本の電気技術者、著作家。 「幸福科学研究所」設立者。日本超科学会を主宰し、超常現象に関する多数の著書を残した。 アルファ波発生装置「アルファコイル」などの発明者としても知られた。 仙台市生まれ。1943年に旧制姫路高等学校、次いで1945年に東京帝国大学に入学した。同年秋、第二次世界大戦終結後に『生命の實相』に触れ、大いに感化される。1948年、東京大学工学部電気工学科を卒業した後、生長の家の活動に入る。 その後、1955年に富士電工に入社して、諸々の発明に従事し、1982年には黄綬褒章を受章した。 1963年に『超心理学入門』を出版したのを皮切りに、超常現象などについての著書を多数刊行し、1973年に日本超科学会を創設した。
安齋 伸(あんざい しん、1923年3月15日 - 1998… 安齋 伸(あんざい しん、1923年3月15日 - 1998年1月1日)は、日本の宗教学者。 1923年、宮城県仙台市生まれ。1949年、東京帝国大学文学部宗教学科を卒業。ウィーン大学社会学科博士課程修了。1954年に上智大学文学部助手となり、講師、助教授を経て教授。1993年定年、名誉教授。
早坂 泰次郎(はやさか たいじろう、1923年2月20日 -… 早坂 泰次郎(はやさか たいじろう、1923年2月20日 - 2001年10月8日)は、日本の心理学者。立教大学名誉教授。専攻は実存心理学、人間関係の心理学、看護学。 宮城県仙台市生まれ。幼いころから台北で過ごし、台北帝国大学を経て、1949年東北大学文学部卒。東北大学講師、立教大学助教授、社会学部教授。1989年定年退任、名誉教授。 2001年10月8日、出血性脳梗塞のため死去。
山田 野理夫(やまだ のりお、1922年7月16日- 201… 山田 野理夫(やまだ のりお、1922年7月16日- 2012年1月24日)は、日本の小説家、詩人。 宮城県仙台市出身。本名・徳郎(のりお)。東北大学文学部で、国史を専攻し、農林省統計調査員、宮城県史編纂委員、東北大学付属農学研究所員などを経て作家へ。1962年『南部牛追唄』で第6回農民文学賞を受賞。東北地方、みちのく、特に岩手県をテーマにすることが多い。 2012年1月24日、急性心不全のため死去。89歳没。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
片山 滉(かたやま あきら、1922年1月7日 - 1978… 片山 滉(かたやま あきら、1922年1月7日 - 1978年10月7日)は、宮城県仙台市出身の俳優。岐阜大学卒。本名同じ。東映に所属していた。 東映の映画・テレビで脇役中心に活動。 1978年10月4日、自動車で外出した後に消息を絶ち、3日後の10月7日、静岡県賀茂郡南伊豆町の県道下に転落した自動車内で遺体となって発見された。56歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、俳優(男優・女優)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ芸能人)。
鹿取 泰衛(かとり やすえ、1921年7月16日 - 200… 鹿取 泰衛(かとり やすえ、1921年7月16日 - 2003年1月11日)は、日本の外交官。位階は正三位。 外務大臣官房長、外務審議官、駐中国特命全権大使、駐ソ連特命全権大使。 宮城県仙台市出身。1941年浦和高等学校文科乙類卒業。1943年東京帝国大学法学部政治学科中退、外務省入省。ドイツ語研修を受ける。在ドイツ日本国大使館一等書記官を経て、1963年外務省欧亜局西欧課長。1965年外務省外務大臣官房会計課長。1967年外務省北米局外務参事官。同年在シアトル日本国総領事館総領事。1969年在インド日本国大使館参事官。1970年外務省経済協力局外務参事官。1972年外務省外務大臣官房長。1974年外務省経済協力局長。
佐野 肇(さの はじめ、1921年7月13日 - 2003年… 佐野 肇(さの はじめ、1921年7月13日 - 2003年6月24日)は、日本の経営者、薬学博士。中外製薬社長を務めた。宮城県仙台市出身。 1944年に東京帝国大学第一工学部火薬学科を卒業し、同年に日本火工に入社し、陸軍兵器学校、陸軍技術中尉を経て、1947年10月に中外製薬に入社。 1964年5月に取締役に就任し、1974年11月に常務、1985年3月に専務を経て、1987年3月から1992年10月までに社長を務めた。 2003年6月24日肺炎のために死去。81歳没。
樋渡 宏一(ひわたし こういち、1921年2月11日 - 2… 樋渡 宏一(ひわたし こういち、1921年2月11日 - 2009年3月7日) は、日本の細胞生物学者、遺伝学者。東北大学名誉教授。元日本学士院会員。日本における、ゾウリムシを用いた生物学研究の先駆者とされる。 宮城県仙台市生まれ。旧制盛岡中学校(現・岩手県立盛岡第一高等学校)、盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)を経て、東北帝国大学理学部を卒業後、東北帝国大学大学院特別研究生となる。 山形大学講師に赴任後、東北大学教育学部で教授に就任、宮城教育大学教授を経て、1968年に東北大学理学部教授となる。東北大学理学部教授時の1971年に日本動物学会賞を受賞した。 1984年に定年退職し、東北大学名誉教授となる。
佐藤 智義雄(さとう ちぎお、1920年(大正9年)11月2… 佐藤 智義雄(さとう ちぎお、1920年(大正9年)11月2日 - 2003年(平成15年)3月11日 )は、日本の銀行家、実業家。七十七銀行頭取を務めた。 宮城県仙台市出身。1942年に大倉高等商業学校を卒業。 1946年、七十七銀行に入行。経理部主計課長、企画部企画課長兼調査課長、総務部次長兼総務課長等を歴任。1967年10月に取締役に選任、1969年3月に東京支店長兼東京事務所長委嘱、1970年3月に常務、1982年4月に専務を経て、1987年4月に頭取に就任。1991年6月に会長に退き、1995年6月からは相談役を務めた。 2003年3月11日、心不全のために死去。82歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
千葉 正士(ちば まさじ、1919年9月17日 - 2009… 千葉 正士(ちば まさじ、1919年9月17日 - 2009年12月17日 )は、日本の法学者。東京都立大学名誉教授。法学博士(東北大学、1962年)(学位論文「学区制度の研究:国家権力と村落共同体の再編成」)。専門は法社会学、スポーツ法学。宮城県仙台市出身。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、法学者に関連した書きかけの項目です。
奥田 教久(おくだ のりひさ、1919年2月1日 - 201… 奥田 教久(おくだ のりひさ、1919年2月1日 - 2010年)は、大日本帝国陸軍大尉。戦後は科学ジャーナリスト、エンジニアとして活動した朝日新聞社論説委員。科学技術庁原子力局長期計画専門部会総合文化会委員・核燃料分科会委員。後に朝日カルチャーセンター社長。1939年、第一高等学校、1942年、東京帝国大学工学部卒。陸軍第三期航空技術候補生出身。カトリック教徒。 朝日新聞社が他社に先駆けてネルソン法方式を採用する際の主幹を務め、コンピュータ製版化を達成。 村松藩主堀家の末裔として1919年2月1日、福島県に生まれ、宮城県仙台市で育つ。父・武二郎は公務員、母・愛子は関義臣の庶子。奥田教朝は兄。旧制仙台第一中学校に進むが、家庭の事情で東京に転居することとなり、旧制東京第一中学校に編入。
青葉 笙子(あおば しょうこ、1918年(大正7年)3月21… 青葉 笙子(あおば しょうこ、1918年(大正7年)3月21日 - 2012年(平成24年)2月28日)は、昭和時代に活躍した歌手。「鴛鴦道中」などで知られる。本名は小野寺 貞子(おのでら ていこ)。 宮城県仙台市の裕福な家庭に生まれる。幼い頃に母を亡くし、祖父母に育てられる。実家にあった蓄音機から流れる流行歌の世界に憧れるようになり、特に後の恩師となる関種子の歌う「嘆きの夜曲」を聞き、歌手を志すようになる。 1936年(昭和11年)、日本コロムビアが松竹とタイアップして、音丸の「下田夜曲」の宣伝のために開催した歌謡コンクールに応募し、優勝した。このコンクールには、後に活躍する若き日の岡晴夫や近江俊郎の姿もあったが、女性の歌であったためかいずれも落選している。
佐藤 剛彦(さとう たけひこ、1917年8月17日 - 20… 佐藤 剛彦(さとう たけひこ、1917年8月17日 - 2013年1月29日)は、日本の実業家。河北新報社代表取締役を務めた。 宮城県仙台市出身。1941年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年に富士電機製造に入社。仙台営業所長を務めた。 1969年に河北新報社に転職。総務局長、販売局長、取締役、常務、専務を経て、1981年から2003年までに代表取締役を務めた。 東北放送取締役、河北ビル会長なども歴任した。 1991年11月に勲三等旭日中綬章を受章した。 2013年1月29日、肺炎のために死去。95歳没。
秋山 ちえ子(あきやま ちえこ、1917年1月12日 - 2… 秋山 ちえ子(あきやま ちえこ、1917年1月12日 - 2016年4月6日)は、日本のラジオパーソナリティ、エッセイスト、時事評論家。本名、橘川ちゑ(きっかわ ちえ)。 宮城県仙台市出身。1935年に東京女子高等師範学校(現:お茶の水女子大学)を卒業後、聾唖学校の教師となる。この時、取材に訪れた川端康成と知り合い、北条誠を川端に紹介する。結婚後、中華民国に4年滞在。1948年(昭和23年)から1956年(昭和31年)まで、NHKラジオ番組『私の見たこと、聞いたこと』のレポーターを担当し、主婦の視点から見た日本の現状をわかりやすく説明した。1954年(昭和29年)にラジオ番組「私の見たこと聞いたこと」で第2回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞(書籍ではなく、ラジオ番組に対しての授与)。
菊田 義孝(きくた よしたか、1916年(大正5年)3月21… 菊田 義孝(きくた よしたか、1916年(大正5年)3月21日 - 2002年(平成14年)7月21日)は、日本の詩人・文芸評論家。「群系」創刊同人。 仙台市生まれ。1937年(昭和12年)明治大学文藝科卒。太宰治と親しく交わる。戦後、紫書房、大蔵財務協会に勤務。1960年(昭和35年)よりフリーの編集者。かたわら文芸評論を書いた。「群系」創刊同人。 息子・菊田求(1949-1975)も詩や小説を書いたが、学生運動のさなか自死した。遺稿集に『反逆と愛のはざまで ある学生の孤独な遺書』(光風社出版 1979年5月)がある。
浅野 建二(あさの けんじ、1915年8月24日 - 199… 浅野 建二(あさの けんじ、1915年8月24日 - 1990年7月17日)は、日本の音楽学者、民謡・歌謡研究者。学位は、文学博士(東京教育大学・論文博士・1962年)(学位論文(「日本歌謡の研究」)。山形大学名誉教授。 宮城県仙台市生まれ。1941年東京文理科大学国文科卒、群馬県師範学校教諭、1943年群馬師範学校助教授、1947年教授、宮城県第二高等女学校教諭、1950年山形大学山形師範学校教授、山形大学教育学部助教授、1962年「日本歌謡の研究」で東京教育大学より文学博士の学位を取得。1963年山形大学教授、1977年附属図書館長・評議員、1981年定年退官、名誉教授。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
杉山 尚(すぎやま たかし、1915年3月21日 - 200… 杉山 尚(すぎやま たかし、1915年3月21日 - 2004年4月20日)は、日本の内科学者。専門は温泉医学、リハビリテーション、消化器病学。医学博士 宮城県仙台市生まれ。 1939年、東北帝国大学医学部卒業後、同医学部内科教室(教授 黒川利雄)に入局。医学博士(東北大学)、論文「各種胃疾患の胃曲線に関する研究」。1948年、同内科助教授。1955年、東北大学医学部附属温泉医学研究実験所教授・附属鳴子分院院長。日本温泉物理医学会、日本温泉科学会、日本リウマチ学会、宮城県温泉審議会、日本リハビリテーション医学会などの会長を歴任。1987年、勲三等旭日中綬章受章。2004年(平成16年)逝去、享年89。
早坂 文雄(はやさか ふみお、1914年8月19日 - 19… 早坂 文雄(はやさか ふみお、1914年8月19日 - 1955年10月15日)は、日本の作曲家である。宮城県仙台市出身。 1914年(大正3年)、宮城県仙台市東一番丁(現・青葉区)で、早坂順之助・ふみ江の子として生れる。兄弟姉妹は兄(夭折)、弟、妹2人がおり、他に順之助と先妻との間に生まれた異母兄がいた。早坂家は代々宮城県志田郡三本木町の地主の家系で、祖父の代までは裕福だったと言われるが、父(順之助)の代には没落していた。1918年(大正7年)4月頃に北海道札幌市南7条西7丁目(現・中央区)に転居した。ただし、本人は生涯にわたって故郷は北海道ではなく宮城県であるという意識を持っていたという。家庭はこれといって音楽的環境ではなかったが、父は日本画をたしなみ、早坂も旧制・北海中学校(現北海高等学校)入学時には洋画家になろうと思っていたが、15歳の頃から作曲家を志すようになった。
片山 正英(かたやま まさひで、1914年(大正3年)2月1… 片山 正英(かたやま まさひで、1914年(大正3年)2月17日 - 2005年(平成17年)3月22日)は、昭和期の農林官僚、政治家。参議院議員、林野庁長官。 宮城県仙台市出身。1939年(昭和14年)東京帝国大学農学部林学科を卒業した。 農林省に入省し、同山林局、林野庁、経済審議庁などで勤務。群馬県林務部長、林野庁業務部長などを歴任し、林野庁長官に1967年(昭和42年)9月から1970年(昭和45年)1月まで在任して退官した。 1971年(昭和46年)6月の第9回参議院議員通常選挙に全国区から自由民主党公認で出馬して初当選。なお、この選挙を通じて関係者19人が買収、文書違反の疑いで逮捕されている。
猪野 謙二(いの けんじ、1913年4月2日 - 1997年… 猪野 謙二(いの けんじ、1913年4月2日 - 1997年9月11日)は、文芸評論家、近代日本文学研究者。 宮城県仙台市生まれ。東京府立第六中(現都立新宿高等学校)を経て1937年東京帝国大学文学部国文科卒。在学中に立原道造らと『未成年』を創刊。戦後日本文学協会に属し、歴史社会学派の立場から日本近代文学の研究・評論を行った。1954年神戸大学助教授、1975年学習院大学教授。1984年定年退職。
青葉山 徳雄(あおばやま のりお、1913年2月4日 - 1… 青葉山 徳雄(あおばやま のりお、1913年2月4日 - 1972年3月1日)は、宮城県仙台市青葉区出身で陣幕部屋に所属した大相撲力士。本名は阿部 徳雄(あべ のりお)。最高位は西前頭4枚目。得意手は右四つ、寄り。現役時代の体格は173cm、112kg。 大坂相撲で大関だった12代陣幕に弟子入りし、1929年1月場所に初土俵を踏んだ。がっぷり四つに組まないと力が出ないタイプで、勝ち身も遅く、じっくりした相撲ぶりだったという。そのため水入りも多く、「バケツ」とあだ名された。それでも1934年5月場所に幕下で11戦全勝優勝を遂げて、翌1935年1月場所に十両昇進してからは注目も浴び、1937年5月場所に新入幕を果たした。
菊地 庄次郎(きくち しょうじろう、1912年 <明治45年… 菊地 庄次郎(きくち しょうじろう、1912年 <明治45年> 3月1日 - 1984年 <昭和59年> 8月31日)は、日本の経営者。日本郵船社長、会長を務めた。位階は従三位。 宮城県仙台市出身。1934年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年に日本郵船に入社。1959年に取締役に就任し、1961年に常務、1965年に専務を経て、1967年に副社長に就任し、1971年には社長に昇格した。1978年6月に会長に就任。 1973年11月に藍綬褒章を受章し、1982年4月に勲二等旭日重光章を受章。 1984年8月31日肝不全のために死去。72歳没。死没日付をもって従三位に叙された。
加藤 陸奥雄(かとう むつお、1911年12月2日 - 19… 加藤 陸奥雄(かとう むつお、1911年12月2日 - 1997年3月8日)は日本の生物学者。位階は正三位。 宮城県仙台市生まれ。専門は昆虫生態学。 兄に化学者の加藤多喜雄(仙台名誉市民)、地球物理学者の加藤愛雄、弟に地質学者の加藤磐雄がいる。大甥(甥の息子)に数学者の加藤文元。 指導学生に松田達郎などがいる。
平 重道(たいら しげみち、1911年10月18日 - 19… 平 重道(たいら しげみち、1911年10月18日 - 1993年7月2日)は、日本の歴史学者、東北大学名誉教授。 仙台市生まれ。1934年に東北帝国大学法文学部国史学科に入学し、村岡典嗣の指導を得て、1937年卒業。卒業論文は「承久の乱の史論と解釈」。1968年「吉川神道の基礎的研究」で東北大学より文学博士の学位を取得。東北大学教養部助教授、教授、宮城教育大学教授。仙台の歴史などを研究した。1986年11月、勲三等旭日中綬章受章。
東 勇作(あずま ゆうさく、1910年(明治43年)4月18… 東 勇作(あずま ゆうさく、1910年(明治43年)4月18日 - 1971年(昭和46年)8月4日)は、日本のバレエダンサー、振付家である。 宮城県仙台市で生まれた。1922年、12歳の時にアンナ・パヴロワの来日公演を横浜で鑑賞して感銘を受けた。旧制仙台二中(現在の宮城県仙台第二高等学校)を卒業後に上京し、1930年に当時鎌倉の七里ガ浜でバレエスクールを開いていたエリアナ・パヴロワの内弟子となってバレエの道に進むことになった。 後にパヴロワの元を離れ、蘆原英了が創設した「日本チェケッティ協会」に加入してバレエの研究に取り組んだ。一方で日劇を本拠地にして1934年に高田せい子の門下だった益田隆、浅草の「カジノ・フォーリー」で活躍していた梅園竜子とともに「益田トリオ」を結成して活動し、1936年に来日したオリガ・サファイアのパートナーも務め、サファイアからソビエトバレエについての知識を得た。
小野 栄(おの さかえ、1910年(明治43年)1月19日 … 小野 栄(おの さかえ、1910年(明治43年)1月19日 - 没年不明)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚。陸軍司政官。 宮城県仙台市出身。1934年(昭和9年)3月、東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、同年10月、高等試験行政科に合格。1937年(昭和12年)4月、台湾総督府交通局書記に任じ、鉄道部自動車課勤務、庶務課勤務、殖産局商工課勤務を経て、1939年(昭和14年)7月、台北州蘇澳郡守に就任した。その後、拓務事務官・殖産局、拓北局青年課勤務を経て、1942年(昭和17年)10月、陸軍司政官に任じた。
佐々 久(ささ ひさし、1909年10月1日 - 1989年… 佐々 久(ささ ひさし、1909年10月1日 - 1989年6月8日)は、日本の郷土史家、東洋史学者、教育者。宮城県図書館長、仙台郷土研究会会長などを務めた。 宮城県仙台市生まれ。東北帝国大学で東洋史を専攻し東北学院の教授などを務めたのち、30代後半で宮城県の郷土史研究に転じる。公務員として教育行政や文化財保護、図書館運営に携わりながら『仙台市史』、『宮城県史』の編纂・執筆をし、また宮城県内の多くの自治体の地方史を監修した。1981年、勲四等瑞宝章受章。蔵書は宮城県図書館に寄贈され「佐々久文庫」として所蔵されている。 1909年(明治42年)10月1日、宮城県仙台市二十人町に7人きょうだいの長男として生まれる。
土井 英一(つちい(どい) えいいち、1909年(明治42年… 土井 英一(つちい(どい) えいいち、1909年(明治42年)9月17日 – 1933年(昭和8年)9月9日)は、戦前日本のエスペランティスト。詩人土井晩翠の長男。第二高等学校在学中からエスペラント運動に取り組み、特にドイツの小学校長ヨハネス・シュレーダーと親交した。東北帝国大学入学後、ハンセン病患者救済のため寄附金付切手の導入を働きかけたが、在学中に病没した。 1909年(明治42年)9月17日、土井晩翠・八枝夫妻の長男として生まれた。片平丁尋常小学校(現在の仙台市立片平丁小学校)在学中に教師に飛び級を勧められ、5年次修了後に宮城県立仙台第一中学校(現在の宮城県仙台第一高等学校)に入学した。1年生の夏期休暇には原釜海水浴場で鰹漁船まで泳いだり、蔵王に登山するなど健康だったが、4年生の秋に発火演習で無理をしてから体調を崩した。
大石 武一(おおいし ぶいち、1909年6月19日 - 20… 大石 武一(おおいし ぶいち、1909年6月19日 - 2003年10月19日)は、日本の医師、政治家。位階は正三位。医学博士。 衆議院議員(10期)、参議院議員(1期)。環境庁長官(第2代)、農林大臣(第47代)。 仙台市元常磐町1番地(現在の仙台市民会館付近)に 、後に衆議院議員を務めた大石倫治の長男として生まれた。宮城県男子師範附属小学校から、宮城県立仙台第二中学校(現在の宮城県仙台第二高等学校)、旧制第二高等学校理科乙類に進学し、中学校ではテニス、高等学校では野球に熱中した。高校時代には結核性の肋膜炎に罹患して留年、翌年には腹膜炎を患った。1935年(昭和10年)に東北帝国大学医学部を卒業、1940年(昭和15年)に同大学大学院医学博士課程を修了した。
浜田 隼雄(はまだ はやお、旧字体:濱田 隼雄、1909年1… 浜田 隼雄(はまだ はやお、旧字体:濱田 隼雄、1909年1月16日 - 1973年3月26日)は日本統治時代の台湾で活躍した日本の小説家。代表作は『南方移民村』。 宮城県仙台市生まれ。旧制台北高等学校を経て、東北帝国大学卒業後、台湾で教員となる。小説を西川満が主宰する『文芸台湾』に発表。1943年(昭和18年)、『南方移民村』で台湾文学賞を受賞。戦後は郷土を題材とした作品を執筆した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
斎藤 忠(さいとう ただし、1908年〈明治41年〉8月28… 斎藤 忠(さいとう ただし、1908年〈明治41年〉8月28日 - 2013年〈平成25年〉7月21日)は、日本の考古学者。 1908年、北海道で生まれた。生後ほどなく仙台市に移り、幼少期を過ごした。1926年3月、宮城県仙台第二中学校を卒業し、同年4月に第二高等学校文科甲類入学。1929年4月、東京帝国大学文学部国史学科に入学。1932年、卒業論文『本邦古代に於ける葬制の研究』を提出して同大学を卒業。 1955年、学位論文『新羅文化の考古学的研究』を東京大学に提出して文学博士の学位を取得。1965年、東京大学教授に就いた。1970年からは大正大学教授として教鞭を執り、1983年に退任。その後は財団法人静岡県埋蔵文化財調査研究所長を務めた。
綾曻 竹藏(あやのぼり たけぞう、1908年5月20日 - … 綾曻 竹藏(あやのぼり たけぞう、1908年5月20日 - 1969年7月14日)は、宮城県仙台市青葉区出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。本名は大場 竹藏(おおば たけぞう)。最高位は西関脇。 1908年5月20日に宮城県仙台市青葉区で生まれる。当初は、日中を仙台の税務署で勤務しながら過ごして夜は学校に通って勉強する生活(現在で言えば定時制)を送っていたが、ある日近所の好角家から体格を見出されたことで千賀ノ浦部屋へ入門、1925年1月場所で初土俵を踏んだ。 1928年に部屋ごと出羽海部屋へ移籍してからは、当時角界一の強豪とも言われていた出羽海部屋の関取から激しい稽古を受けて成長し、1931年5月場所において双葉山定次と共に新十両昇進を果たした。
成田 春人(なりた はると、1908年3月31日 - 199… 成田 春人(なりた はると、1908年3月31日 - 1992年3月17日)は、日本の建築家。宮城県仙台市出身。1950年に国鉄施設局建築課長となり、鉄道建築の総締めの地位につく。位階は従五位。 国鉄の建物の多くは木造であり、成田は建築物の不燃化に取りくみ、「不燃化の成田さん」として知られた。 終戦直後の1945年10月、伊藤滋鉄道省建築課長から「鉄道に来てくれるような良い建築技師が軍にいないだろうかと相談を受けた」のちに同僚となる太田和夫は成田春人を陸軍航空本部に訪ねた。成田は同僚の井上英彦と高山馨を誘うことを約束し、同年12月に3人が鉄道省に入ることになったという。 井上英彦によると木造の格納庫建築のために木造大張間構造の実現が求められ、陸軍航空本部では木材の接合部の処理を釘とジベルの2つとし、釘は高山馨、ジベルは成田が中心となって担当することとなり、いずれの工法も成功して鋼材の節約に貢献したという。
伊東 信雄(いとう のぶお、1908年(明治41年)3月17… 伊東 信雄(いとう のぶお、1908年(明治41年)3月17日 - 1987年(昭和62年)4月10日)は、日本の考古学者。東北地方の縄文・弥生・古墳時代、古代・中世・近世史、樺太(サハリン)の先史時代研究に大きな業績を残した。東北大学名誉教授。 1957年に東北大学考古学講座初代教授に就任した。東北地方の原始・古代文化を考古学的手法により解明し、「東北の考古学の父」と呼ばれた。伊東は、山内清男とともに東北の古い縄文土器の編年を確立し、特に青森県垂柳遺跡の発掘において、東北地方の稲作農耕を明らかにする研究を進めた。 戦前には、通説として「東北の古代文化は遅れていた」、「東北地方は鎌倉時代まで石器時代が続いた」とされていた。
谷田 専治(たにだ せんじ、1908年1月19日 - 199… 谷田 専治(たにだ せんじ、1908年1月19日 - 1994年1月1日)は、日本の生物学者、北海道大学名誉教授。 1908年、宮城県仙台市生まれ。1933年、東北帝国大学理学部を卒業。卒業後は、三井海洋生物研究所の研究員となり、下田で暮らす。1942年、北京・同仁会の華北防疫処に衛生昆虫研究室を開設するため赴任。1944年、学位論文『日本産石灰海綿の研究』を提出して理学博士号を取得。 1945年に太平洋戦争が終結すると、1946年に日本へ引き上げ帰国。その後は函館水産専門学校教授となった。1950年、水産資源研究所増殖部に着任。同研究所では、陸奥湾におけるホタテガイの耳づり養殖を試みるなどしている。
三戸 寿(みと たもつ、1908年〈明治41年〉1月17日 … 三戸 寿(みと たもつ、1908年〈明治41年〉1月17日 - 1971年〈昭和46年〉8月27日)は、昭和期日本の法制史学者。学位は法学博士(京都大学)。「三戸壽」とも表記される。法制史学会発起人の1人。専門はローマ法。神戸史学会評議員、法制史学会理事を歴任。 宮城県仙台市出身。第二高等学校 (旧制)(1928年卒業)を経て、1931年に東北帝国大学法文学部を卒業した。同年に同学部副手となる。1937年に関西学院大学法文学部講師に転じ、助教授(1939年)を経て、1942年に教授に就任した。1947年に学部改編で法学部所属となり、1951年に法学部長・同大学院法学研究科委員長に就任した。1952年2月、京都大学より論題「ローマ法継受史の研究」で法学博士の学位を取得した。