田中 康三(たなか やすぞう、1915年3月22日 - 19… 田中 康三(たなか やすぞう、1915年3月22日 - 1989年6月18日)は、日本の騎手(東京競馬倶楽部、日本競馬会、国営競馬)、調教師(日本中央競馬会)。 第二次世界大戦前後の時期に花形騎手として名を馳せ、1941年秋の帝室御賞典や、戦後最初のダービー開催となった1947年の東京優駿などに優勝した。しかし1949年に自身が引き起こしたミナトクヰン事件を境に斜陽となり、1955年に調教師に転身。1989年に勇退するまで、それぞれ宝塚記念に優勝したエイトクラウン、ナオキ母子などを手掛けた。 1915年、東京府南多摩郡忠生村(現:東京都町田市)に生まれる。尋常小学校卒業後、1933年9月に東京競馬場の北郷五郎厩舎に騎手見習いとして入門した。
畑江 五郎(はたえ ごろう、1915年 - 1980年11月… 畑江 五郎(はたえ ごろう、1915年 - 1980年11月9日)は、日本の競走馬生産者、馬主。 兵庫県神戸市出身。慶應義塾大学法学部卒業後の1941年、北海道・日高に渡り、牧場を開設して学生時代から思い描いていた競走馬生産を始める。牧場を開設するにあたり、当時の馬産牧場の最大手であり名門でもあった小岩井農場からフロラヴァースを譲り受けるなどして自身の理想を実現しようと力を入れていた。 第二次世界大戦末期の1944年、赤紙が届く。出征前、牧場所有の繁殖牝馬を保存しておくように家族に命じていたという。 畑江は中国大陸での戦闘に従事。1945年の第二次世界大戦終結後、ソ連軍の捕虜となり、シベリア抑留を経験することとなる。
岩下 密政(いわした みつまさ、1914年1月9日 - 19… 岩下 密政(いわした みつまさ、1914年1月9日 - 1972年7月8日)は、日本の騎手、競走馬調教師。東京競馬倶楽部、国営競馬、日本中央競馬会に所属。騎手時代にはトキノミノル、ゴールデンウエーブなどに騎乗した。 1914年、山梨県中巨摩郡玉幡村(現:甲斐市西八幡)に農家の三男として生まれる。幼少期から農耕馬の世話で馬に親しんだ。19歳の時に上京、東京競馬倶楽部の田中和一郎厩舎(目黒競馬場)に騎手見習いとして入門した。 1934年に正騎手となり、3月に初騎乗。同年9月3日、セイサンで初勝利を挙げた。以後「追える騎手」として徐々に頭角を現す。1940年春にはトキノチカラで帝室御賞典・春(阪神競馬場)を制し、特殊競走(重賞競走)初勝利を帝室御賞典で挙げた。
西 博(にし ひろし、1913年10月2日もしくは10月6日… 西 博(にし ひろし、1913年10月2日もしくは10月6日 - 1974年12月16日)は、日本の実業家、馬主。 1913年、石川県出身。1931年に中央商業高等学校を卒業。西清太郎商店業務執行社員を経て1941年に西商事株式会社社長。1943年に関東金属常務、1946年に西商店社長、1948年に加陽金属社長就任。1950年再び西商事社長、1957年に西製鋼株式会社を設立し社長に就任。1974年12月16日、病気のため死去。61歳没。なお、西死去後、西製鋼は1980年に大三製鋼に吸収合併されている。 趣味はゴルフ、謡曲(宝生流)、競馬。 日本中央競馬会に登録していた馬主としても知られた。勝負服の柄は青、白三本輪。
田中 朋次郎(たなか ともじろう、1913年9月24日 - … 田中 朋次郎(たなか ともじろう、1913年9月24日 - 2003年3月4日)は、日本の競馬騎手、調教師。旧姓・新井(あらい)。 1935年に騎手デビュー。1937年に騎乗馬ハッピーマイトで日本競馬会施行による第1回の帝室御賞典(後の天皇賞・秋)に優勝した。1955年に調教師に転身して以降は、1985年の皐月賞と菊花賞、1987年の天皇賞(春)などを制したミホシンザンなどを手がけた。1984~1988年、日本調教師会々長。1989年、勲五等双光旭日章受章。1992年、定年引退。 1913年、群馬県利根郡白沢村(現・沼田市)の農家に生まれる。白沢尋常小学校高等科を卒業後、村の馬喰の勧めで片品村の千明牧場へ奉公に入り、ここで乗馬の手ほどきを受けた。
土井 宏二(どい こうじ、1913年9月19日 - 1993… 土井 宏二(どい こうじ、1913年9月19日 - 1993年10月5日)は、日本の実業家、馬主。 1913年、愛知県出身。1939年に慶應義塾大学法学部を卒業後、日本製鋼所を経て1941年に中央製作所庶務課長に就任。1944年に土井航空機工業を設立したのち翌年に土井産業に改称。1954年に土井商事を設立。1993年10月5日、肝不全のため死去。80歳没。 趣味はゴルフ、野球、競馬。 日本中央競馬会(JRA)に登録した馬主としても知られた。勝負服の柄は水色、袖赤三本輪、冠名には「ヤマニン」を用いた。没後は長男の肇がヤマニンゼファーなどの所有馬と服色を引き継いだ。 後述する土井家の馬主のほか、土井商事としても競走馬を所有し、所有馬には1994年の阪神3歳牝馬ステークスなどを制したヤマニンパラダイスや、種牡馬として活躍したヤマニンスキーがいた。
斉藤 澄子(さいとう すみこ、1913年(大正2年)1月10… 斉藤 澄子(さいとう すみこ、1913年(大正2年)1月10日 - 1942年(昭和17年)8月22日)は、日本の元騎手、元厩務員(京都競馬場)。岩手県岩手郡厨川村(現在の盛岡市)出身。 一度もレースで騎乗することのなかった、日本及び世界初の女性騎手として知られる。 なお、苗字については「斎藤」、名については「すみ」「すみ子」の表記がある。 実家は農家で、幼少の頃から馬に親しんだ生活を送った。10代の前半に父が死亡し母も病気で体調を崩したため、学校をやめて馬喰に弟子入りした。修業中に訪れた黄金山競馬場(旧・盛岡競馬場)で競馬のレースを見たことをきっかけに騎手を志すようになり、1929年に福島競馬場の調教師に弟子入りした。
大久保 石松(おおくぼ いしまつ、1912年11月21日 -… 大久保 石松(おおくぼ いしまつ、1912年11月21日 - 2001年2月24日)は、日本の騎手、競走馬調教師。青森県八戸市出身。 騎手時代の1935年にキンチャンで阪神帝室御賞典(春)に優勝。1941年より調教師に転じ、第二次世界大戦を経て国営競馬、日本中央競馬会(JRA)で活動、1971年のビクトリアカップを制したタイヨウコトブキや、重賞4勝を挙げたエリモローラなどを管理した。1991年2月定年引退。 息子の大久保哲男は元JRA騎手。娘婿にそれぞれ門下生の高橋隆と沖芳夫。孫に高橋亮がいる。なお、名前が一文字違いの騎手・調教師に大久保福松と大久保房松がおり、後者とは同郷であるが、それぞれに近親関係はない。
佐々木 猛(ささき たけし、1912年11月11日 - 没年… 佐々木 猛(ささき たけし、1912年11月11日 - 没年不明)は、日本の競馬騎手、調教師。 1931年に騎手デビュー。1939年に騎乗馬ホシホマレで阪神優駿牝馬(オークス)を制した。1957年より調教師に転じ、1974年の桜花賞優勝馬タカエノカオリなどを管理し、1990年に引退。日本中央競馬会(JRA)調教師の佐々木亜良(つぐよし)は長男。 1912年、北海道函館市の農家に生まれる。3人いた叔父がそれぞれ高等馬車の御者を務めており、その姿に憧れて馬に関わる仕事を志した。1928年、叔父の紹介で札幌競馬倶楽部(札幌競馬場)の稗田虎伊厩舎に入門し、1931年7月に騎手としてデビュー。8月7日に騎乗馬エベツで初勝利を挙げた。
谷水 信夫(たにみず のぶお、1912年6月24日 - 19… 谷水 信夫(たにみず のぶお、1912年6月24日 - 1971年11月8日)は、日本の実業家、競走馬生産者、馬主。 関西でゴルフ場を運営するタニミズ企画株式会社の創業者。サラブレッド競走馬のオーナーブリーダー(生産馬主)としても著名であり、北海道にカントリー牧場を創業してタニノムーティエなど数々の活躍馬を輩出した。 1912年、和歌山県に生まれる。後に大阪府へ移って町工場規模の鉄工所を営んだが、太平洋戦争中に大阪大空襲で工場を焼かれ、一時廃業を余儀なくされた。終戦後は京都府に移り、駄馬による運送業を営んで資力の立て直しを図った。後に新たな鉄工所「マルナカ製作所」を興し、当時人気のあったポン菓子の製造機を量産、関西で8割のシェアを獲得した。
吉原 貞敏(よしはら さだとし、1909年5月3日 - 19… 吉原 貞敏(よしはら さだとし、1909年5月3日 - 1995年9月17日)は、日本の実業家、馬主。広島県向島(現・尾道市)出身。東京鐵鋼創業者である。東京鐵鋼現社長で、馬主の吉原毎文は長男。 祖父は広島県向島の八幡神社の神官で、祖父まで137代を数える家系。父・吉原敏(1885-1962)が明治大学在学中から清浦奎吾に私淑し卒業後、清浦の秘書として仕えたあと、日本兵器製造の東京支社長などを経て、長男にあたる貞敏とともに1940年に大和製鉄を買収して同社を名称変更したものが東京鐵鋼の創業となる。貞敏は明治大学商学部を1932年に中退し、飛島組に入社。1937年に有明鉄工所、1938年に高級鋳鉄研究所を設立した後、高級鋳鉄の生産を目指して父とともに東京鐵鋼を創業。
上田 武司(うえだ たけし、1909年4月4日 - 1979… 上田 武司(うえだ たけし、1909年4月4日 - 1979年2月13日)は、日本中央競馬会 (JRA) ・栗東トレーニングセンターに所属していた調教師。福岡県出身。養子に上田三千夫がいる。 1909年、福岡県小倉市北方(現・北九州市小倉南区北方)で生まれる。 1923年、福岡県立中学明善校(現・福岡県立明善高等学校)を中退し、1924年7月、小倉競馬倶楽部(小倉競馬場)の森文一厩舎に入門する。 1927年、騎手兼調教師免許を取得、小倉競馬場に厩舎を構え独立する。 1942年、騎手を引退。騎手成績1066戦160勝。 1946年、調教師免許を取得。 1951年10月14日、チャレンジカップのサチホマレで重賞初制覇。
稲葉 幸夫(いなば ゆきお、1908年9月4日 - 2001… 稲葉 幸夫(いなば ゆきお、1908年9月4日 - 2001年10月7日)は、日本の騎手(東京競馬倶楽部、日本競馬会所属)、調教師(日本競馬会、国営競馬、日本中央競馬会所属)。騎手としてロツクパークによる第1回横浜農林省賞典四歳呼馬(現・皐月賞)優勝など通算174勝。また調教師としては騎手兼業であった戦前期から顕著な成績を残し、八大競走13勝を含む通算1451勝を挙げた。特に牝馬の管理に長けたため「牝馬作りの名人」、「牝馬の稲葉」と称され、史上初の牝馬三冠トレーナーともなっている。1981年、黄綬褒章を受章。2004年、調教師顕彰者に選出され、中央競馬の殿堂入りした。
小西 喜蔵(こにし きぞう、1908年7月17日 - 198… 小西 喜蔵(こにし きぞう、1908年7月17日 - 1989年7月28日)は、日本の騎手(新潟競馬倶楽部、東京競馬倶楽部、日本競馬会、国営競馬)、調教師。(国営競馬、日本中央競馬会)。 岩手県岩手郡米内村上田(現在の盛岡市高松)出身。日本競馬史上初のクラシック三冠達成騎手。 仁王小学校卒業、盛岡高等小学校(現・下橋中学校)卒業。 子息は1男4女であり、帝京大学元教授の小西厚子は長女。元調教助手と厩務員であった小西聖一は長男(厚子の弟で5人兄妹の4番目)であり、1943年9月1日生まれである。 1908年7月17日、岩手県岩手郡米内村の農家に11人兄弟の次男として生まれた。1923年に高等小学校を卒業した後岩手種馬所の牧夫になった小西は、種馬所に近い小岩井農場に繋養されていたサラブレッドを目にするうちにその美しさに魅せられ、騎手を志すようになった。
大久保 末吉(おおくぼ すえきち、1908年1月16日 - … 大久保 末吉(おおくぼ すえきち、1908年1月16日 - 1981年6月11日)は、日本の競馬騎手、調教師。 1929年に騎手デビュー。1955年より日本中央競馬会の調教師となり、1970年にメジロムサシで天皇賞(春)に優勝。俗に「メジロ軍団」と呼ばれた北野豊吉所有馬を数々手掛けた。1973年度中央競馬全国最多勝利調教師。 実子の大久保洋吉も日本中央競馬会調教師。ほか兄の大久保福蔵、大久保亀治、弟の三井末太郎らも騎手や調教師を務め、親族は競馬一族として知られる。 1908年、函館競馬場の近隣で大久保福松の三男として生まれる。父・福松は近代日本ホースマンの祖・函館大経の一番弟子であった。長兄に福蔵、次兄に亀治がおり、末子として「末吉」と名付けられた。
中村 一雄(なかむら かずお、生年不明〈1907年11月3日… 中村 一雄(なかむら かずお、生年不明〈1907年11月3日~1908年11月2日〉 - 1990年11月2日)は、日本の競馬騎手、調教師、競走馬生産者。
武田 文吾(たけだ ぶんご、1907年2月19日(1907年… 武田 文吾(たけだ ぶんご、1907年2月19日(1907年12月28日説もあり) - 1986年12月3日)は、元騎手(京都競馬倶楽部、阪神競馬倶楽部、日本競馬会、国営競馬)、元調教師(阪神競馬倶楽部、日本競馬会、国営競馬、日本中央競馬会〈JRA〉)。北海道石狩国札幌郡江別村(現・江別市)出身。1978年11月3日、勲五等双光旭日章を授章。1986年、正六位叙位。息子の武田博は日本中央競馬会の元騎手・元調教師。名馬シンザンの鞍上としてクラシック三冠を制した元騎手・元調教師の栗田勝は娘婿。 尾形藤吉とともに「東の尾形、西の武田」と並び称された名調教師。タケブン、ブンテキなどの愛称で親しまれた。五冠馬シンザン・二冠馬コダマ・牝馬二冠馬ミスオンワードなどの名競走馬、また栗田勝・福永洋一などの名騎手を育て、人馬両面において中央競馬、とくに関西地区の競馬の発展に大きな足跡を残した。
小川 佐助(おがわ さすけ、1905年6月21日 - 198… 小川 佐助(おがわ さすけ、1905年6月21日 - 1987年10月30日)は日本の競馬騎手、調教師。 1934年に京都競馬倶楽部で騎手となったのち、1937年より日本競馬会(後に国営競馬→日本中央競馬会)の調教師となる。以後八大競走2勝を挙げたニューフォードや、皐月賞優勝馬ニホンピローエース、1977年に中央競馬の年度代表馬となったテンポイント(JRA顕彰馬)などの活躍馬を管理した。1982年、黄綬褒章受章。 アイヌ民族の活動家としても著名であり、北海道アイヌ協会が社団法人化された際には組織の中枢を担った。 甥にそれぞれ騎手・調教師の田所稔と田所秀雄、又甥に田所秀孝、田所清広(義理)がいる。
時岡 収次(ときおか しゅうじ、1903年12月10日 - … 時岡 収次(ときおか しゅうじ、1903年12月10日 - 1987年10月18日)は、日本の実業家、スポーツ指導者。 熊谷組創設者の一人で、代表取締役を務めた。また、スポーツでは熊谷組野球部の部長や監督も務めていた。 福井県大飯郡本郷村(現・おおい町)で生まれる。船員を志して福井県立小浜水産学校に進学し、1921年3月に卒業後は早稲田大学に進む。大学時代は相撲部に所属した。 1928年3月に早稲田大学専門部政治経済学科を卒業して、飛鳥組(現・飛島建設)に入社した。この就職は、早稲田大学進学前に、建設中だった小浜線の工事のために飛島組の関係者が自宅を宿舎としており、その影響を受けたとされる。 大同電力寝覚発電所建設工事の時は現地に常駐した。
千明 康(ちぎら やすし、1903年1月1日 - 1986年… 千明 康(ちぎら やすし、1903年1月1日 - 1986年7月19日)は、日本の実業家、馬主、競走馬生産者。株式会社丸沼温泉ホテル会長、千明牧場代表を務めた。 1903年1月1日、群馬県利根郡片品村出身。千明賢治の長男。旧制沼田中学校、旧制新潟高等学校を経て東京帝国大学農学部林学科に進学し、1930年に卒業。大学院で2年間学んだのち南満洲鉄道に入社し、1937年退社。この間1936年に日光華厳滝エレベーター株式会社、株式会社丸沼温泉ホテル各社長に就任。また1949年6月より日光国立公園観光株式会社社長に就任し、1950年8月に辞任するまで同職に在任。このほか群馬官材事業協会、国有林材生産組合、群馬県養鱒漁業協同組合などで要職を務めた。
松井 麻之助(まつい あさのすけ、1900年6月18日 - … 松井 麻之助(まつい あさのすけ、1900年6月18日 - 1989年3月19日)は、日本の陸軍軍人、競馬騎手、調教師。 大日本帝国陸軍において一貫して騎兵畑を進み、1936年にはベルリンオリンピックに総合馬術競技日本代表として出場した。太平洋戦争後に軍籍を離れ、1956年より騎手、翌1957年より調教師として日本中央競馬会に所属した。1985年引退。 1900年、秋田県雄勝郡三輪村(現羽後町)に、農業を営む菅原良吉、ヨシの間に五男として生まれる。小学校卒業後に母方の叔父に当たる陸軍中将・松井庫之助の養子となり、東京に移った。旧制早稲田中学入学後、3年次から陸軍幼年学校に転じ、軍人への道を進み始める。
栗林 友二(くりばやし ともじ、1898年1月3日 - 19… 栗林 友二(くりばやし ともじ、1898年1月3日 - 1977年8月8日)は、日本の実業家・篤志家・馬主。 実業家・政治家の栗林五朔の息子として北海道に生まれる。札幌中学を経て東京帝国大学農学部獣医学科を卒業後、イギリス・ケンブリッジ大学に留学。帰国後は父が興した栗林商船に入社し、後に会長を務めた。本業の傍らで競走馬の馬主としても著名であり「ミスター・ケイバ」と呼ばれ、全日本馬主協会連合会(現・日本馬主協会連合会)会長などを歴任した(後述)。1977年8月8日、肺炎により79歳で死去。 兄は栗林商船や栗林商会社長、政治家などを務めた栗林徳一。弟には南方林業の社長を務めた栗林定四朗がいる。長男・定友は栗林商船、三男・英雄は栗林運輸の社長を務めた。
大久保 房松(おおくぼ ふさまつ、1897年11月6日 - … 大久保 房松(おおくぼ ふさまつ、1897年11月6日 - 1997年8月28日)は、日本の騎手、調教師。 1912年に函館競馬倶楽部の函館大次門下から騎手としてデビュー、1922年から調教師兼業となり、1933年にカブトヤマで東京優駿大競走(現東京優駿・日本ダービー)を制した。第二次世界大戦を経て、戦後は国営競馬・日本中央競馬会の調教師として、JRA顕彰馬となった牝馬トキツカゼ、その産駒で1955年の啓衆社賞年度代表馬に選出された日本ダービー優勝馬オートキツなど数々の活躍馬を管理した。また、門下生からは騎手としてそれぞれ1000勝以上を挙げた郷原洋行、的場均などを輩出した。1989年に定年引退。
武藤 鉄城(むとう てつじょう、1896年(明治29年)4月… 武藤 鉄城(むとう てつじょう、1896年(明治29年)4月20日 - 1956年(昭和31年)8月30日)は、秋田県出身の日本の考古学者、民俗学者、スポーツ指導者。 秋田県河辺郡豊岩村(現・秋田市豊岩)に武藤喜市郎、シケの四男として生まれた。本名のテツジョウにはテツシロという四番目の意味が込められている。 秋田県立秋田中学校(現・秋田県立秋田高等学校)に入学し、中学5年生の時に新潟県高田市(現・上越市)で開催された第1回全国スキー大会において急斜面競技と長距離競技で4位と6位に入賞している。中学校を卒業した後、慶應義塾大学部に進み、理財科(経済学部)に籍を置いたが、在籍5年で退学し、1920年(大正9年)に帰郷して兄の一郎の四ツ小屋付近の発掘の助手をした。
茂木 善作(もぎ ぜんさく、1893年(明治26年)12月1… 茂木 善作(もぎ ぜんさく、1893年(明治26年)12月10日 - 1974年(昭和49年)12月24日)は、日本の陸上競技選手、スポーツ指導者、教員。山形県飽海郡本楯村(現・酒田市)の出身で、山形県初のオリンピック選手である。また、第1回箱根駅伝で最終10区を走り、11分52秒差を覆して東京高等師範学校(現・筑波大学)を優勝に導いた。 1893年(明治26年)12月10日、山形県飽海郡本楯村大字豊原(現・酒田市豊原)に生まれる。茂木家は農家で、善作は三男であった。当時はまだ、農家の三男が普通に学校に通える時代ではなく、晩年の茂木は両親や兄弟にいつも感謝していた。1913年(大正2年)に山形県師範学校(山形師範、現・山形大学地域教育文化学部)を卒業する。
岡部 平太(おかべ へいた、1891年9月10日 - 196… 岡部 平太(おかべ へいた、1891年9月10日 - 1966年11月6日)は日本のスポーツ指導者、柔道家、日本で最初のアメリカンフットボール紹介者。スポーツ黎明期の日本に科学的トレーニングを導入した事から「近代コーチの祖」と呼ばれている。柔道8段、剣道5段。 福岡県糸島郡芥屋村(現在の糸島市)出身。 1891年(明治24年)養蚕業と櫨ろう業を営む農家の9人兄弟の長男として生まれる。 1908年(明治41年)福岡師範学校(現・福岡教育大学)入学。学校では持前の運動神経を発揮し、柔道、剣道、相撲、軟式テニス、陸上、野球、ボートと多岐にわたり活躍する。 1911年(明治44年)当時の武道界最大の大会で、京都武徳殿(旧武徳殿)で開かれた「青年大演武会」柔術16歳以上20歳未満 選抜勝負の部 で準優勝(金光弥一兵衛、宇土虎雄も出場)。
宇土 虎雄(うと とらお、1891年1月30日 - 1986… 宇土 虎雄(うと とらお、1891年1月30日 - 1986年12月23日)は日本の柔道家(講道館9段)、スポーツ指導者。 柔道家として全日本選士権優勝等の実績を持つ一方、熊本県に様々な近代スポーツを紹介して“熊本近代スポーツの父”や“ミスター熊本”とも呼ばれる。 長崎県南高来郡湯江村(現・島原市)の生まれ。鎮西学院中学在学中に柔道を始め、卒業後1912年に東京の東京高等師範学校に進学して山下義韶や永岡秀一(いずれも後の講道館10段)に師事し柔道を学んだ。東京高師時代の同期には岡部平太や会田彦一、先輩に1909年入学の大谷武一や甲佐知定のほか中途退学したものの徳三宝らの顔触れがあり、後輩には1913年入学で東口真平や後に“高師の秀才”と謳われた桜庭武らがいた。
函館 孫作(はこだて まごさく、旧姓:千歳〈ちとせ〉、188… 函館 孫作(はこだて まごさく、旧姓:千歳〈ちとせ〉、1889年10月28日 - 1959年4月12日。)は日本の競馬の騎手・調教師。北海道茅部郡森村(現在の茅部郡森町)出身。主戦を勤めていたワカタカに騎乗して、第1回東京優駿大競走(現・東京優駿〈日本ダービー〉)に優勝したことが知られている。 実家は宿屋を営んでおり、使役馬が2 - 3頭いた。孫作の父が「日本馬術の英雄」や「北海道の三士」のひとりとして知られた函館大経の弟子だった関係で16歳のとき、大経に弟子入りし翌年騎手デビューする。 21歳のころ大次の妻の姪(兄の娘)と結婚し、函館家へ養子として入った。代々函館家は養子で成り立っていた家系で大経の跡を継いで養子となったのは実弟の大次で、その跡を継いだのは大次の甥(次兄・藤八の息子)の大政であった。
東原 玉造(とうばら たまぞう 1887年7月20日 - 1… 東原 玉造(とうばら たまぞう 1887年7月20日 - 1955年11月11日)は、日本の元騎手、調教師。別名:東原玉蔵。 1887年7月20日、北海道静内郡静内町(現・日高郡新ひだか町)出身。 1901年に目黒競馬場所属の柴田安治厩舎に見習騎手として入門。5年後の1906年に横濱競馬場のレースにて騎手としてデビュー。騎手時代の1924年秋には横濱競馬場での帝室御賞典をナイトという馬で制覇した記録がある。 調教師となり中山競馬場に厩舎を構えてからは、東京優駿競走をワカタカ(第1回、1932年)、ミナミホマレ(第11回、1942年)で制覇、東京競馬場での帝室御賞典をワカタカ(1932年)で制覇、ミナミモアで天皇賞 (春)を1942年に制覇するなどして、戦中戦後にかけて日本競馬界の名門として名を高めた。
千明 賢治(ちぎら けんじ、1878年11月 - 1943年… 千明 賢治(ちぎら けんじ、1878年11月 - 1943年6月21日)は、日本の実業家、馬主、競走馬生産者。株式会社丸沼温泉ホテル、華厳滝エレベーター株式会社で社長を務めた。上毛電力株式会社、上毛森林土地株式会社各取締役。千明牧場の創設者。 1878年11月、群馬県出身。片品村村長を務めた千明森蔵の長男。1900年に中央大学法律学科を卒業したのち1903年に渡米し、畜産と電力事業を視察した。1905年、片品村東小川の山林6009町歩および平川の山林6659町歩を払い下げ、1907年に畜産振興を目的とし白根に牧場を開設、岩手県より農耕馬30頭と牛20頭を購入し片品村の牛馬改良に努めた。1911年より電力事業に着手し、片品村一帯の発電用水利権を得ると、1925年に大川平三郎と上毛電力株式会社を設立し、6か所の発電所を建設。
武田 千代三郎(たけだ ちよさぶろう、1867年5月27日〈… 武田 千代三郎(たけだ ちよさぶろう、1867年5月27日〈慶応3年4月24日〉- 1932年〈昭和7年〉5月26日)は、日本の内務官僚、教育者、スポーツ指導者。官選県知事、神宮皇學館長、大日本体育協会副会長、大阪市立高等商業学校長。駅伝競走の命名者、運動中の水分補給を禁止する風潮を創り上げた人物として知られる。 柳河藩士・武田道夫の二男として筑後国山門郡柳河(現:柳川市)で生まれる。共立学校、第一高等学校を経て、1889年7月、東京帝國大學法科大学法律学科(英法)を卒業。 1889年8月、法制局雇となる。同年12月に徴兵され近衛歩兵第1連隊に入隊。1890年11月、陸軍歩兵二等軍曹で満期除隊となる。
鈴木 麻優 は、岩手県競馬組合・水沢競馬場伊藤和厩舎に所属し… 鈴木 麻優 は、岩手県競馬組合・水沢競馬場伊藤和厩舎に所属していた元騎手(女性騎手)、競馬評論家。
古川 奈穂 は、日本中央競馬会(JRA)所属の騎手。矢作芳人… 古川 奈穂 は、日本中央競馬会(JRA)所属の騎手。矢作芳人厩舎(栗東トレーニングセンター)所属。日本騎手クラブ関西支部理事。マネジメントは、山崎隆士(株式会社ザッキーファーム)。
伊藤 稔 は、北海道出身の元騎手・調教助手。
師尾 源蔵 は、日本のスポーツ指導者、射撃指導者、スポーツ評… 師尾 源蔵 は、日本のスポーツ指導者、射撃指導者、スポーツ評論家、新聞記者。新潟新聞社記者、新潟日報社嘱託、新潟県体育協会顧問、明治大学体育会顧問、日本ライフル射撃協会名誉会長。日本の射撃競技の創始者。
中山大障害(なかやまだいしょうがい)は、日本中央競馬会(JR… 中山大障害(なかやまだいしょうがい)は、日本中央競馬会(JRA)が中山競馬場で施行する中央競馬の重賞競走(J・GI)である。競馬番組表での名称は「農林水産省賞典 中山大障害 」と表記している。
佐藤 祐樹 は、千葉県競馬組合に所属していた元騎手。東京都出… 佐藤 祐樹 は、千葉県競馬組合に所属していた元騎手。東京都出身。勝負服の柄は胴黄、黒山形一本輪、そで黒を使用していた。
工藤 勉 は、青森県出身の元騎手・元調教師(地方・高崎所属)… 工藤 勉 は、青森県出身の元騎手・元調教師(地方・高崎所属)。
田中 歩(たなか あゆみ)は、ジョイスタッフ所属のフリーアナ… 田中 歩(たなか あゆみ)は、ジョイスタッフ所属のフリーアナウンサー、競馬ライター。 茨城県出身。明治学院大学卒業。全日本空輸に入社し客室乗務員を経て、現職。 実父は日本中央競馬会美浦トレーニングセンター調教師(元騎手)の田中剛。父方の祖父は元プロボクサーの田中敏朗。 この項目は、アナウンサーに関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(アナウンサーPJ)。
西原 玲奈 は、日本中央競馬会 (JRA) の調教助手で、元… 西原 玲奈 は、日本中央競馬会 (JRA) の調教助手で、元騎手。
尾形 藤吉 は、日本の騎手、調教師。
藤田 菜七子 は、日本中央競馬会(JRA)所属だった元騎手。… 藤田 菜七子 は、日本中央競馬会(JRA)所属だった元騎手。騎手時代は根本康広厩舎(美浦トレーニングセンター)に所属。マネジメント先はホリプロ。
猪熊 広次(いのくま ひろつぐ)は、日本の実業家、馬主。 東… 猪熊 広次(いのくま ひろつぐ)は、日本の実業家、馬主。 東京都品川区東五反田に本社を置く、アプリケーション開発などを手がける株式会社バローズの代表取締役社長。 日本中央競馬会(JRA)および地方競馬全国協会(NAR)に登録する馬主としても知られる。勝負服の柄は白、緑一本輪、白袖、冠名は経営する会社名より「バローズ」を用いる。 馬主になったきっかけは、取引先の会社の社長が馬主であり、「(馬を)2頭買ってくれたらすぐ契約する」と持ち掛けられたこと。それまで競馬は、シンボリルドルフが三冠を達成したころにたまたま見ていた程度でそこまで興味はなく、馬主に関する知識もなかった。当初は地方競馬でのみ走らせていたが、所有頭数を一気に増やしたことで中央の馬主になることを勧められ、2002年にJRAの馬主資格を取得した。
板本 猛(いたもと たけし)は、日本の体育学者、スポーツ指導… 板本 猛(いたもと たけし)は、日本の体育学者、スポーツ指導者。第3代釧路公立大学学長。藍綬褒章受章。 日本体育大学卒業。高等学校教諭、北海道教育大学釧路校助教授を経て、2004年から2008年まで釧路公立大学学長を務めた。2014年公認スポーツ指導者等表彰受賞。2017年全国ラジオ体操連盟理事。カーリング上級指導員、ジュニアスポーツ指導員、ゲートボール指導員、アシスタントマネジャー。釧路市スポーツ振興財団理事、北海道スポーツ少年団副本部長、釧路カーリング協会会長、釧路ボート協会会長、北海道ボート協会理事、釧路市スポーツ推進委員長等も歴任した。2022年藍綬褒章受章。
岡部 幸雄(おかべ ゆきお、 は、日本の元騎手、競馬評論家。… 岡部 幸雄(おかべ ゆきお、 は、日本の元騎手、競馬評論家。群馬県新田郡強戸村 出身。日本中央競馬会 に所属し1967年から2005年にかけて現役生活を送った。